「——お、タンポポ」
柔らかい日差しの下、朝露に照りかえる草葉の中で、健やかに咲き誇っている小さなタンポポに目が留まった。
濡縁から草履を履いて、大地の踏みしめる感触を確かめるように、ゆっくりと近づいた。
黄色い花弁を前にしゃがみこみ、指先で根元を切り、咲いたばかりだろう若い花をまじまじと見やる。
ふふっと、自然に笑みがこぼれた。
「春だなぁ、やっぱ」
阿蘇に来て、二度目の春を迎えた。家の周囲にも新緑の季節が、今年も少しずつ挨拶に訪れている。
毎日毎朝、春の挨拶に出向くために、狭い敷地をぶらぶらと歩き回る。
ここ最近の、九峪の日課である。
今日はタンポポが挨拶に来た。昨日はもう少し奥の林で、フキノトウが集落を築いていた。
明日はどうだろう。
それを思うと、笑みが浮かんでくる。微笑みながら、春の到来に心寄せる感性が身に染みた自分が、なんだか堪らないくらいに面白おかしかった。
マンガもゲームもテレビもない世界で、こうも退屈しない。昔は何が面白いのかわからなかった踊りや詩、景観を望み、花を愛でる心も、その面白さが理解できるようになってきた。
世界に感化された自分を自覚しながら、九峪は、小さいながらもうんっと陽気に大手を広げるタンポポの可愛らしさに、しばしの間だけ見とれた。
「そうだ、子供が出来たら『丹歩々』と名付けよう」
顔を上げて、九峪が言った。まるで『そうだ、京都にいこう』くらいに、軽やかな調子で飛び出した。ちなみにタンポポは漢字で書くと『蒲公英』となる。
「なに馬鹿なこといってるの」
背後で、呆れた声がした。振り向かなくても、九峪には誰だかわかった。
「いいだろ、別に」
「私はいいんだけどね。タンポポだろうがアジサイだろうがダイコンだろうが。トリカブトにしたって、全然問題はないんだけど」
九峪の隣に立つ。兎華乃が、同じようにしゃがみこんだ。
「目に浮かぶようだわ。『やい、丹歩々。お前の四肢を引きちぎって、花占いをしてやろうかぁ』——ああ、イイ光け、じゃなくて、悲惨な光景ね。いじめられること間違いなしだわね」
「あえて何も言わないぞ」
「つまんないわね」
言葉とは裏腹に、それほど残念そうでもない。
兎華乃の視線を横顔に感じながら、九峪はじっとタンポポの花を見つめた。くるくると指先で回して、いろいろな角度から楽しむ。
花はいいと、この歳ながらに思う。小さな野花もいいし、手入れされた鑑賞花もまたいい。故人たちがなぜ、かようにまで花を褒め称えたのか、それがわかってきた。
可憐な花もある、力強い花もある。個性があることに気づいたのだ。花も人も同じだと、わかったのだ。
生きているということ。花は健気で懸命だ。一年だけ花咲き、寒い冬を越える、阿蘇の花は雪の下で耐え忍ぶ。
「——もうじき、桜も挨拶に来るかな」
「あと一月は先の話よ。花見にでも連れて行ってくれるのかしら?」
下から覗き込むように、兎華乃がやや上目遣いで尋ねてきた。
九峪は「そうだなぁ」と呟いて、
「行けたらいいなぁ」
と答える。
家の周りには桜の木はない。花見をするには、麓まで降りないと無理だ。
でも九峪には出来ない話だった。もう一年以上、九峪は家の周りより外へ出たことがない。
いささか、退屈なくらいだ。
「タンポポも悪くないけど、やっぱり、桜の舞い散るさまに勝る優美さはないよな」
「・・・・・・九峪さんが花の美しさを評するなんて、明日は魔界との扉が開くのかしら。たいへん、一族みんな連れてきて、九洲に魔兎族の王国を作らないと」
「女王はもちろん私ね」と冗談を言う兎華乃に、九峪はげんなりとした表情で、
「やめれ。頼むから」
と、力なく答えたのだった。
クスクスと微笑む兎華乃は、ふいに笑みを小さくして、花をもてあそぶ九峪の手に、そっと自身の小さな手を重ねた。
「兎華乃?」
「春になると、やっぱり思い出すのかしら?」
いつもはどこか他人事のように冷たい言葉が目立つ兎華乃だが、この時は妙に温かみのある一言だった。
兎華乃の手は暖かい。やわらかいし、本当に少女の手だ。これがあらゆる生きとし生ける者を、尽く破滅へ誘うなんて——ときどき信じられなくなる。
重ねた手から、タンポポに指をかけた。
「日魅子さん、いい娘だったものね」
「・・・・・・ああ」
「あれは、私の記憶にも残ったわ。不思議なものよね・・・・・・。人間なんて塵屑以下にしか思っていなかったのに」
「ひ、ヒドイ言いようだな」
流石に九峪も頬を引きつらせた。前言撤回、やはり兎華乃は魔人だ。
いたずらっこそうに笑んで、タンポポの花を奪う。
兎華乃に花を愛でる趣味はない。何がいいのかもわからない。同じ綺麗なら、人の血で描いた大輪のほうが美しいと思う。
でも、このタンポポは、どこか異界の彼女に似ていた。
「後悔してる? こっちに戻ってきたこと」
九峪の方を見ずに言う。黄色い花弁を、一枚、ひっぱる。
はらりと、地に落ちた。
それを見ながら、九峪は頭を横に振った。
「いいや、後悔なんかするもんか。自分で選んだ道を後悔するようなら、俺は向うに残ってるさ。選んだ以上は・・・・・・絶対に後悔なんか認めない」
「やせ我慢ね」
「・・・・・・あのさ、兎華乃? もうちょっとオブラートに包んで」
「倭国語で話しなさい」
「えっと、歯に衣着せて・・・・・・」
「私は遠慮する主義じゃないわ」
「・・・・・・さいですか」
がっくりと項垂れるのと、花弁が全て舞い落ちるのとは、まさに同時だった。
丸裸にされたタンポポを草薮のなかに投げ捨てる。
「幼馴染ね・・・・・・。私にはそういうのがいないし、大切な誰かもいなかったから、離れ離れになる辛さなんてわからないけど」
そっと、九峪の手を握る。優しい握り方だった。
「いまは、私たちでがまんなさいな。せっかくの春なんだから、陰気になってももったいないわ。春は陽気な季節なんだもの」
兎華乃の微笑みに、九峪もふっと微笑んだ。
「ああ、そうだな」
揃って立ち上がって、並ぶ足で家へと戻っていった。
春はたしかに思い出すことが多い。九峪の中にある春の記憶には、忘れられない幼馴染の姿があって。
それは、初恋の思い出でもある。終わらせたのは自分。
でも、全ては過ぎたことだ。
今はまだ、前を向いて歩くときだ。いつか、この小さな世界から飛び出す日が来ると信じながら。
兎華乃に手を引かれて、九峪は濡縁に上がりこんだ。
元星七年四月をもって、加奈港の普請は完了した。
元から相当に大きかった加奈港だが、大増築の賜物によって、薩摩では鹿児島城に次いで二番音に大きな規模を誇る、まさに大城郭となった。
とはいえ、現在、加奈港には殆ど人が住んでいない。外加奈の城にいたっては人っ子一人いないのが現状である。
教来石の屋敷が白昼堂々の襲撃をうけてから、北山は自軍の軍船で寝泊りするようになっていた。街には見回りの兵だけを残している。
あとは北山から連絡が入れば、周辺の城砦や里から人員を動員して、一挙に兵団を迎え入れるだけとなった。
普請に携わった人足たちは、各々の故郷へと引き上げた。生活物資を運んだ荷駄隊も、一部を残して引き上げている。
紅玉と亜衣は、普請の完了による人員の撤収にあわせて、耶牟原城へと戻っていった。紅玉は引き続き、香蘭の名代として武行の任に就くためであった。
耶牟原城では早くも、内紛の事後処理が進められていた。所々で黒々とした煙が立ち昇る日もあるが、警徒の頑張りと武行制度の効果によって、治安は見る見るうちに回復していった。
破壊された家屋を修理する音は活気に溢れ、人々はとにかく働くことで、不安続きだった毎日の悪夢を忘れようと躍起だ。
大工から木こりに至るまでが、近隣の里々から耶牟原城へと出向いている。彼らにしてみれば、今は稼ぎ時なのだ。
この頃から、耶牟原城の町並みは多少だが変わっていくこととなる。普段は地方で働いている大工の多くが、都に構えられたいわゆる『九峪屋敷』に触れて、その整然とした美しさと物珍しさに感化され、似た造りの家を建てていったのだ。
火向の大工が手がける民家の一つにも、そんな屋敷風の家々があった。
「立派なものだ」
新たに建築された家屋を見上げながら、関心気に呟いたのは亜衣である。隣の衣緒も、同じように見上げている。
二人は揃って棉織りの小袖に腕を通し、草木染の外套を纏っている。亜衣は手ぶらだが、衣緒はいつもの鉄槌の代わりに刀を帯びて、両手でなにやら小袋を抱えている。
「まるで見違えます」
羅列する九峪屋敷が、衣緒にはどこか不思議に見えた。もとは豪族たちがこぞって建てた九峪屋敷が、いまは庶民の家として建てられているのだ。
ちなみに、衣緒は自身の屋敷を持っていない。羽江はすでに結婚して夫の屋敷で暮らしているが、衣緒と亜衣の二人は、一人身であるためか未だに生活をともにしている。
二人はしばらく、新しい民家の続く通りを見物しながら歩いていく。道々の番匠たちが亜衣を見てはひれ伏していた。
そのたびに亜衣も衣緒も、困った顔をしてしまうのだ。
「なんだろうなぁ・・・・・・。庶民が宰相やら将軍やらを前にしてひれ伏すのは、本当なら当たり前なんだが」
「なんでしょうね・・・・・・。あんまりいい気分になれないのは」
はぁっとため息。
敬うのは別にいい。畏まるのも結構だ。しかしどういうわけか、鼻高々となれないのだ。
民をひれ伏し、仰がせ、そうして威風堂々たる様でいるからこそ、権力者であり統率者と呼べるのだ。力強いものが力強く引っ張ることで、集団はあたかも人の身体のように自在に操ることが出来る。
縛ること。これが集団の結束にとりもっとも効果的。それには威厳が必要だ。
九峪のように、個人の意思や利害、目的を巧みに結んで強固な『結束力』へと変換させる方法もあるが、あれは九峪が逆に『威厳がなさすぎた』から出来たこと。
そういうやり方が、そもそも亜衣には理解できなかった。威厳を用いない統率の仕組みが、さして食味の良くない魔獣の肉を如何に美味く料理するのか、ということくらいにわからなかった。
だから民がひれ伏すたびに、亜衣は威厳高い様子を誇示する一方で、どうしてもどこか躊躇いの態度が所作や表情の隅々に表れてしまう。
——これではまるで、己の権力に恐れを抱いている成り上がり者ではないか。
番匠たちに労いの言葉をかけながら、亜衣は己を責め立てた。
別に恥ずかしいことをしているわけではない。宰相として、これは当たり前のことだと思いながらも。
微笑みの裏で、九峪が民と接する情景が、浮かんでくる。なぜあのように自然な笑顔で、自然な言葉をかけられないのか。
情けなくさえ感じてくる。
このまま普請場にいては、仕事も進まない。亜衣と衣緒は逃げるように、そそくさとその場をあとにした。
早足に街のはずれへ向かい、小高い丘を登りながら、ようやくほっと息をつく。
「・・・・・・まいったな」
困り顔で呟いた越えには、疲れの色が滲んでいた。政に掛かるものとは別の心理的圧迫があった。
「当たり前のことを、当たり前だと感じられん」
前髪を掻き揚げて、小ぶりな唇がへの字に曲がる。
衣緒が長い髪をそよ風に流されながら、来た道を振り返った。視線の先には、先ほどの居住地がある。
人がわらわらと建築に精を出している様子が、遠めにもわかる。
「わたし、お姉様のおともで視察の護衛によくついてきますけど、毎回のことに居心地が悪くなります」
「偉そうに出来れば、それで全ては丸く収まるんだが」
呼吸を整えて、亜衣が歩調をやや遅くした。
「星華様——じゃなくて火魅子様なら、大路を渡るたびに、にこやか〜に手を振っているのに」
衣緒は思い出す。
火魅子とは元来、滅多なことでは人前に出ない——らしい。九洲五百年の歴史に現れてきた火魅子たちは、ほとんど人目に触れず、重大な大戦のときだけ、戦陣に立ったという。
衣緒も詳しくは知らないが、少女だった頃、宗像に所蔵されている書物を、亜衣がよく読んでくれたことが多々あった。星華や羽江とともに、耳を傾けたことを覚えている。
耶麻台国の歴史に関する話も多く聞いた。
その知識からすれば、今代の火魅子ははっきり言って『異常』であった。
人前には平気で出るし、街には繰り出すし、やれ南の星が不吉だと言えば大騒ぎして、西に吉兆があれば行こうとする。
北山との会談の折にも、「私が行かないでどうするのッ!」みたいな事を言って、亜衣の眼力で腰を抜かしたことは、衣緒の耳にも届いていた。
とにかく行動的というか、雲の上の存在だと思わせない所がある。そこはかとなく、九峪と非常に似ているのだ。
「厳かに偉ぶるのは、今時の君主には古いやり方なのかしら」
衣緒はそう思うのだ。わりと本気で。
「私も火魅子様みたいに、おきらくにやれたら、もう少し心地よくなれるんでしょうか?」
亜衣のほうを向いて尋ねる。
亜衣は憮然とした表情で、「知るかッ」と答えるだけだった。
そんなことは亜衣が知りたいくらいだった。亜衣なりに九峪の良いところは真似てきたつもりだが、九峪の気さくさときたら『神の遣いの御業』としか思えないほどだった。
「私だって、もっと器用にやりたいよ。愛想よくして、軽やかに手をひらひらさせたら、それだけでいいんだろうけど」
「どういうわけか、それが出来ないんですよねぇ」
「それすら出来ないんだよなぁ」
「「はぁ・・・・・・」」
互いにため息をつきつつ、二人は丘をのらりくらりと登っていった。
二人が寄ったのは、末妹の羽江が暮らす屋敷であった。茅葺の屋根が重厚感を演出している。
なぜ亜衣と衣緒が、羽江の屋敷を訪れたのか。この時期はまだ内乱の影響でどこもかしこも多忙を極めているというのに。
衣緒は武行として、紅玉や藤那、志野らとともに治安回復に尽力しているし、内乱における街の再建や経済の安定化などで、加奈港の普請から帰還してきた亜衣も、すぐに仕事の取り掛かった。普請中、蘇羽哉がまたもや代打となったことは言うに及ばない。
亜衣も衣緒も、まだまだ多忙なのだ。それでも羽江の屋敷を訪ねたのは、厭なこと続きだった最近の中で、とても嬉しいことに見舞われたからだった。
——去る、二月の中ごろ。羽江の胎から、待望の赤ん坊が生まれたのだ。出産である。
満月のように膨れ上がった胎のなかで、赤ん坊はすくすくと育った。そして元気な産声を上げて、この世に生を授かったのだ。巫女の素質を強く秘めた、女の子であった。
それは、羽江のみに限らず、亜衣にも衣緒にも嬉しいことだった。二人にすれば、この赤ん坊は姪にあたる。
知らせを聞いたとき、衣緒は大喜びで加奈港にいる亜衣の元へ、なんと駒木馬で駆け込んだ。亜衣もその冷静沈着な人柄からは想像も出来ないほどに舞い上がり、人目も気にせず衣緒と抱き合ってぴょんぴょんと飛び上がった。
それからの二人ときたら、仕事への取り組み様はまるで鬼神のごとく、喜びが無尽蔵のエネルギーとなっていった。伊雅なども祝儀の礼に訪れるし、藤那や紅玉、志野たちも我がことのように喜んでくれたことも、二人には心から嬉しかった。
それからは地方の伊万里や香蘭たちからも、多くの贈り物が羽江の屋敷へ届けられたと聞いている。
今日はなんとか暇を作って、羽江のもとへ安産を祝いにいくのだ。
屋敷の中は、まるで暖かい空気に満たされたようだった。生命の息吹があるようで、新たな命の漲る生命力が、亜衣と衣緒を優しく包んだ。
新しい命が生まれたんだ。玄関にいながら、そんな実感が沸き起こってきた。
「羽江」
戸をあけて、亜衣が微笑みながら声をかけた。
布団の中で赤子をあやしていた羽江が、溢れんばかりの笑顔で二人を出迎えた。
「お姉ちゃん、生まれたよ! あたしの赤ちゃん!」
「ああ、よかったな」
微笑みながら、亜衣が腰を下ろして、畏くも両手を床につけた。
「本日は、めでたく思います。よきお子が生まれましたこと、心よりお喜び申し上げます」
と祝辞を述べて、深々と頭を下げた。亜衣が羽江に対して頭を下げたのは、これが生まれて初めてのことだった。
衣緒も慌てて、腰を折り、両手をついて祝辞を述べた。突然のことに、羽江は大慌てになった。
「お、お姉ちゃん、何してるのッ。そんな、いいってば。ほら、衣緒お姉ちゃんも!」
羽江の静止のおかげか、亜衣はすぐに頭を上げた。すぐに笑みを浮かべたので、羽江もほっと胸を撫で下ろした。
「あー・・・・・・ビックリした。お姉ちゃんたちに頭下げられたの、生まれて始めてかも」
「私もお前に頭を下げたのなんか、生まれて初めてだ」
素早い切り替えしに、羽江が小さく「あっ、やっぱり亜衣お姉ちゃんだ。偽者じゃない」と言った。
そこまでいうか・・・・・・。内心で唸りながら、亜衣はにこりと微笑んだ。
「吉事にはちゃんと礼節を重んじねばな。親しき仲にも礼儀を忘れないことが、人付き合いには肝要。まして、私たちは血を分けた宗像三姉妹。・・・・・・妹の幸せを祝ったんだよ、ちゃんとした形でな」
「お姉ちゃん・・・・・・ぐす、ありがとう」
——う、羽江が、お姉様のお言葉で嬉し涙を流したッ!?
亜衣の傍らの衣緒は驚愕する心を、何とかかんとか押さえ込んだ。羽江が姉の言葉に感銘するのも初めてなら、それで涙を流して微笑むのを見るのも初めてだった。
このお姉様は、もしかしたら、偽者なのでは!? そう思ってしまうのも、きっと、無理からぬことなのだ。
亜衣も羽江も、年齢を重ねたことで、人として幾段も成長した。それを衣緒は、まざまざと見せ付けられた。
この二人を見ていると、時々、自分があまりにもちっぽけに見えてくる。衣緒には亜衣や羽江のような跳びぬけた才能がないだけに、その思いはいつも心のどこかにあった。
——私も、こうなりたかった。その思いを押し付けつつ、衣緒は持参した手荷物を、そっと羽江に差し出した。
「これは?」
「見舞いの品よ。あなたが無事にややを生んだこと、私たちに姪が出来たことを祝う品。私とお姉様で、見繕った自信の品なんだから」
「女王——星華様も、ことのほか喜んでいた。私たちに同行すると言い出して聞かなくてな。さすがにそれはマズイからと、何とか押し留めてきたが」
亜衣が懐から小さな包みを取り出した。
「星華様から、お前への贈り物だ」
「わぁっ!」
包みを受け取って中を開いた羽江が、明るい声を上げた。中には羽江が子供の頃に星華へ贈った髪飾りが入っていたのだ。
所々に手を加えたあとがあるが、間違いなくむかし、羽江が手作りで星華へ送った品だった。
懐かしいなぁ。羽江は指先で掴み上げると、回顧の念にかられた。
「だいぶ古ぼけたものだが、星華様はそれを檜の箱に大切に仕舞われていた。お前は覚えていないかもしれんが、女王擁立の儀式のときにも、それを身につけて時の御柱へ向かったんだ」
「そうだっけ・・・・・・」
「手が加えられているでしょう? それはね、星華様がご自身の手で繕ったのよ。私に『細工を教えて』って言ってきてね、もう驚いたんだから」
「星華様が・・・・・・」
羽江の胸に熱いものがこみ上げてきた。
針仕事も出来ない星華が、自分のために髪飾りに細工を施した。それが羽江には嬉しかった。
むかし、この髪飾りを手作りで作ってくれたことを、星華はちゃんと覚えていたのだ。だから亜衣は送る品をあえてこの髪飾りに選んで、今度は自身の手を加えた品として生まれ変わらせた。
この髪飾りには、永遠に続く信頼の願いが込められていた。たとえ自分たちが時の中で朽ち果てようとも、魂はともにありたいという、そんな切なくも暖かい願いで、絆の結晶でもある。
「星華さま・・・・・・大事に、するね」
瞳を濡れさせた羽江が、髪飾りをやわらかく頬擦りした。もうここ暫くあっていない。羽江は無性に、星華の笑顔が見たくなった。
この時の感動があったためかはわからないが、この髪飾りはのちに宗像氏の家宝とされ、代々の当主へと受け継がれていくこととなる。
亜衣と衣緒は互いに顔を合わせて、微笑みあった。
「羽江、こっちの土産もあけてみなさい」
衣緒がやさしく、まるで語りかけるように言う。羽江は涙を指先で拭うと、荷物の結び口を解いた。
中には、衣緒がこしらえた玩具が入っていた。木彫りの馬や、丸い玉などなど。どれも良く造りこまれていた。
ほかにも、店で買ったものが多数。小袖などの衣類も沢山あった。
宝石もあるし、黒曜石の首飾りは特に美しかった。
「こんなに・・・・・・」
小袖を手に、羽江が驚きの声を上げた。
「ちょっと張り切っちゃった」
「かなりはしゃいだからな」
金にいとめをつけなかった結果だった。買った張本人たちは、少しだけ恥ずかしそうに頬をかいた。
そんな様子に、羽江もおかしそうに笑った。三人は互いの顔を見つめては、仲良く笑いあった。
衣緒が赤ん坊を抱き上げた。へにゃっとだらしなく表情を崩して、人目にもとろけきっているのがわかる。
それは亜衣も同じで、そこにいる亜衣を人が見ても、
「あれが宰相様? ないない」
と首を横に振ることは間違いないだろう。それだけ亜衣もとろけていた。
「あ〜ん、もう。ややは可愛いなぁ」
「い、衣緒、私にもだっこさせてくれ、な」
「ええ〜、もうちょっとだけ」
亜衣が情けない声を上げながら、なんとか赤ん坊を抱き上げようとするが、衣緒は中々代わってくれない。
お預けをくらった犬か、はたまた子供のように、亜衣がそわそわしている。こんな光景を見るのは久しぶりで、それがたまらなく面白い羽江だった。
ようやく亜衣にも順番がまわってきた。腕に掛かる重みは意外とあって、亜衣は一瞬おどろいた。
——あったかい。やわらかい。これが、やや。
感動だった。自然と身体がゆりかごのように揺れだした。ゆらり、ゆらりと。女性としての本能か、身体は心地よいリズムで赤ん坊をあやしている。
「ふふ・・・・・・。可愛いものだな。——おお、よちよち」
まだ目も満足に見えていないのに、暗闇に灯る光を掴もうとするような一生懸命に伸ばされる幼手を、雛鳥に触れるようにそっと包む。
自分の手の平ほどもない、本当に小さな手だ。しかしこの小さな手は、いつか大きな力を手にする。亜衣はそう確信していた。
なんと幼いことか。無垢な、穢れ一つない赤ん坊が、亜衣には目も眩むほどに輝いて見えた。この子が大きくなる前に、国内を安定させねばならない。
「丈夫で元気な子に育っておくれ」
亜衣の吐息がくすぐったいのか、赤ん坊が不思議な声を出した。それがまた愛らしくて、亜衣の頬は緩みっぱなしだ。
「羽江・・・・・・私な、考えていることがあったんだ」
あやしながら、亜衣は顔を羽江へと向けた。一瞬のうちに表情が真摯なものへと変わっていた。
羽江も衣緒も、途端に様子が真面目なものへと転じた。
「なに?」
羽江が尋ねる。亜衣は赤子へと再び視線を落とした。
「まだ先のことになるだろうが。・・・・・・いつかこの子に、宗像の家督を継がせようと考えている」
「え?」
思わず羽江が声を上げた。衣緒も口をあけて呆けている。
それだけ信じられない一言だった。
それもそのはず。家督とは当主の子が相続するものだ。この時代ではそれを不満にして、兄弟間や血縁者同士が争うこともあるが、当主はようとして子に継がせたがるものだ。
間違っても、兄弟の子に次がせるなどとは言わない。
しかし、羽江も衣緒もすぐに理解した。
亜衣には、継がせようにもそうさせるべき子がいない。宗像で後継者となれるのは、今のところ、羽江の生んだ子しかいないのだ。
「この子が大成した暁には、私は宗像得宗家としての全権限を譲り、隠居する。宰相の役もこの子に相続させる。羽江、この子はお前の子だが・・・・・・ゆくゆくは、私の後継者になってもらわねばなるまい」
「・・・・・・いいの?」
羽江が伺うように問うと、向かいの亜衣は、赤ん坊を羽江の腕に抱かせた。
「かまわん。私も・・・・・・言うのは辛いが、しっかり婚期を逃した。衣緒も、いまだに恋人がいない。宗像を継がせるには、お前の子しかいないんだよ。利用するようで悪いが・・・・・・宿命と思ってくれ」
心苦しいのか、亜衣は頭を下げた。もう羽江は、止めることはしなかった。
赤ん坊が成長して家督を継げば、亜衣は頭首の座を降りることになる。そして宰相の地位も譲渡する。羽江は母御前となって、宗像での地位が高まるだろう。御前は時として当主以上の力を手にする。
衣緒はきっと、赤ん坊の後見人になる。
衣緒は男を見るとき、不覚にもまず『九峪の面影』を探そうとする癖がある。衣緒にとっては九峪が始めて意識した異性で、それが判断基準になるのだ。九峪に似た男でなければ、衣緒は惹かれることができず、そのせいで恋人が未だに出来なかった。
いや、子は出来ないほうがいい。高確率でお家騒動に発展する。
亜衣は数年先のことを考えている。お家のために、自身の地位や権力を捨てるといっている。並みの精神力では決断できないことだ。
「私もな・・・・・・どうにも、男をつくる気になれないんだ」
——結ばれるのなら九峪様と。
そんな淡く儚い想いを抱いて、抱き続けるから、こんなことになっている。身勝手だと思いながらも、国のために幾多の悲しみと苦痛を乗り越えてきた亜衣は、せめてこの恋心は終生まで抱き続けたかった。
「だから、この子をしっかりと育ててくれ。お前の子の血族が、宗像をより良く導ける、その土台をつくるために、私も力の限りを尽くす」
言って、今度は衣緒のほうを向いた。
「衣緒。お前には後見人になってもらう」
「はい」
亜衣の熱意が伝わって、応える衣緒の声にも張りがあった。力強く頷いた。
「宗像は今、我ら得宗家と海人衆の二つに分かれている。我らは国家の高官という立場があるから、宗像全体の頂点に立っている。しかし海人衆は我らよりも大勢力で、専横を極め、諸県の豪族たちから嫌われている。それは得宗家にとっても喜ばしいことではない」
「海人衆・・・・・・やりたい放題、だもんね」
宗像の専横は羽江も知っている。
宗像は元々、神官の一族で王族でもある。星華の母親が宗像の直系で、星華自身にも宗像直系の血が流れている。
狗根国によって耶麻台国が滅ぼされたとき、宗像も粛清を免れられず、宗像はこの段階で一事滅んでいる。
逃げおおせた星華たちは独自に動くも、宗像に庇護されていた海人衆たちは生き残った宗像の巫女を集めて、自分たちを『宗像海人衆』と名乗り、名実ともに宗像の実権を奪い去った。
その後は星華の呼び声で美禰城攻囲戦に参加し、王女として活躍する星華を今更ながらに主と仰いだ。
戦後になって亜衣たち直系の三姉妹が『得宗家』を興して宗像神社を再建し、海人衆に流れた巫女や神官を集めることに成功している。これにより宗像の名文はそっくり得宗家に奪い返されてしまったのだが、それでも海人衆は得宗家最大の与力として、大いなる権力を手にし続けた。
その結果が今日の専横に繋がっている。
「いずれ、宗像は一つにならねばならない。それは私の代では成せないかもしれない。そうなると、お前の子に託すしかない」
「・・・・・・責任重大、だね」
「ああ。平穏な生涯を送らせてやりたいが・・・・・・。この乱世、まだまだ終わりそうにない。九洲でさえ燻っているというのに、これに加えて天下には、天目の中國、彩花紫の東国、泗国、壱岐などなど、まだまだ諸勢力も残っている。強い子になってもらわなくては」
「うん・・・・・・」
「生き残って、火魅子の血を後世にまで繋げるような子だ。それは茨の道だ。私たちが歩んだ以上の苦しみも待っているかもしれない。私は酷なことをいっている」
「大丈夫だよ、お姉ちゃん。お姉ちゃんの気持ち、わたし、わかってるから」
さえぎるような言葉に、亜衣の瞳がわずかに緩んだ。羽江の言葉に理解の色を見て取った。
亜衣は弁を尽くしているが、聞けば聞くほど、亜衣の必死さが伝わってくる。亜衣は本当に国家のため、尾家のために尽力しているのだと、心に伝わってくる。
衣緒も快く頷いた。ならなぜ自分だけ頷けない道理がある。亜衣は利用しているというが、羽江は、そんなことは微塵も考えていなかった。
宿命だとも思わない。羽江は運命という言葉は好きだが、宿命という言葉があまり好きではなかった。宿命は人の人生を縛り付けているようで厭なのだ。
亜衣はいつも使命と役目の中で生きてきた。自由を知らずに、星華や衣緒や羽江を守って生きてきた。幼かった亜衣は、自身の身の上を『宿命』にすることで、ずっと戦ってこれたのだ。
そんな姉を見てきた羽江は、亜衣が哀しくて仕方がなかった。子供の頃きづかなかったこの思いも、大人になってよくわかるようになった。
だから、自分の子供は宿命を負っていないから、気に病まなくていいよ——そう言えればいいのに、羽江にはその言葉が出てこないで、ただ「わかっている」とだけしか言えなかった。
でも羽江の微笑みに、亜衣はたしかに救われた。それは羽江にも嬉しかった。
少しだけ、しんみりとした雰囲気になった。赤ん坊はいつしか眠ってしまい、可愛らしい寝息だけが聞こえてきた。
「・・・・・・赤ん坊は、寝ている様子まで愛らしいんだな」
「そうだよ」
亜衣の指が、赤ん坊の頬に触れる。——やわらかい。
「そういえば」
触れながら、亜衣はふと思い出した。
「いつか、子の名前を考えるといっただろう?」
「うん・・・・・・。あっ、考えてくれたの?」
「ああ」
頷いた亜衣が、髪飾りの入っていた袋をつまみあげた。
羽江を衣緒が小首をかしげる様を見ながら、亜衣は微笑を持ち上げた布で隠した。
パンッと布が帆船の帆のように張られた。
「これが、子の名だ」
髪飾りを包んだ布の裏に、それは書かれていた。
——『雨嬉』
『うき』と読む。
「雨降りのときに思いついたんだ。今は戦乱、血の流れる時代だ。この名前はな、『降り注ぐ雨が流血を洗い流し、喜びに溢れる世を創らん』との願いが込められている。それに『雨』は羽江の『羽』と読みが同じだ。親子という感じがするだろう」
「雨嬉・・・・・・」
「どうだ?」
亜衣が尋ねると、うんうんと頷いたあとに、羽江がぱっと瞳を輝かせた。
「おっけーだよ! いえすだよッ! 雨嬉に決定!」
気に入った羽江は、それから赤ん坊に向かって
「雨嬉、雨嬉」
と何度も語りかけた。愛しい我が子の、愛しい名前が決まった。
この瞬間、後に得宗家二代目当主として宰相となり、海人衆を取り込んで宗像を統一し、亜衣の後釜として泗国征伐の陣頭指揮を執ることになる、
『宗像の雨嬉』
が誕生した。この時、まだ生後わずかの赤ん坊であった。
雨嬉の誕生は、宗像海人衆の棟梁である阿智の耳にもすぐさま届いた。
「雨嬉様か・・・・・・。亜衣様は名付け親となられたわけだ」
「左様で」
暗闇の中で、阿智は従者の者と言葉を交わしていた。
二人は宗像神社のとある一室にて、酒肴を前に人を待っていた。
二人が待っているのは、副棟梁だった蔚海だ。『石川島事件』で罷免された蔚海とこれから会うことになっている。
用件は、『雨嬉の誕生に際して見舞い品を送りたいがよい考えが浮かばないから、一緒になって考えて欲しい』とのことだった。呼び出したのは蔚海のほうだった。
もともと、阿智は耶牟原城で武行の任についていたのだが、
「拙者は罷免された身。おめおめと都へは戻れません」
という蔚海の申し出で、阿智自らが宗像へ帰参する運びとなった。
「蔚海もだいぶ、反省しているようだ」
殊勝な心がけに、さしもの阿智も手を叩いた。だからこそ自身が耶牟原城につめている間、本拠地のことを一任しているのだ。
もはや副棟梁ではないが、蔚海は多くの部下から慕われている。『利益を損なう』として今では煙たがられている阿智とは、部下の褒め方が随分と違っていた。
いつか、亜衣様に上奏して、蔚海を副棟梁に迎えてやろう。そうとまで考えているのだ。でなければ、自分の評判がどんどん下がっていくだけでもある。
「それにしても、遅いな」
ぼやき声が出てしまうが、もうかれこれ一刻半(三時間ほど)待たされている。肴もすっかり冷めてしまった。
「ちょいと、見てまいります」
従者が立ち上がった。阿智から了承を取って戸に向かった。
——次の瞬間!
「——ぎゃああああッ!?」
「ッな!?」
引き戸から突然。刃が生えてきた。刃はそのまま従者の身体を貫き、血飛沫を上げさせ、従者の身体がダランッと力なく崩れた。
飛沫で顔を真っ赤に染めた阿智が、すぐさま立ち上がって刃を引き抜いた。それとほぼ同時に、刀が引っ込み、従者の屍が重く屑折れた。血溜まりが跳ね上がった。
バガンッ ドダンッ
引き戸が蹴破られ、六人の人間が入り込んできた。男四人に、女二人。みな刀を握っていた。
切っ先でけん制しながら、阿智が後ろへにじり下がっていく。距離を詰めるように、襲撃者もすり足で前進していく。
「くッ——」
すぐに追い詰められた。そもそも広くない部屋、終わりはすぐそこだった。
「貴様ら、何者だッ!」
叫んでも意味はない知りつつ、それでも叫ばずに入られなかった。
これはどういうことだ!? 混乱する脳裏で何度も考えるが、どうしても思考は統一性を失って、何も考えられない。
わかることは、万に一つも助からないという、無常な事実だけだった。
「貴様ら、ここが宗像神社、私が阿智と知っての狼藉かッ!!」
「・・・・・・承知している」
ようやく、一人の男が答えた。阿智は鋭く睨みつけながら、何とか時間を稼ごうとした。
「誰の手の者か」
男は仲間たちと見合わせて、頷いた。
「いえぬ。お命を頂戴するまで」
「き、貴様・・・・・・ッ」
そんな素っ気無い言葉を最後に、双方は刃をぶつけ合った。狭い部屋、壁はズタズタにされ、ほどなく阿智も血達磨のようになってしまった。
ただ、倒れる瞬間、阿智の瞳に一人の男の姿が、はっきりと映った。
引き戸があったところに。
——う、つ・・・・・・み・・・・・・ッ!
元星七年四月二十八日。
『宗像神社の変』によって、宗像海人衆棟梁の阿智は、何者かによって暗殺された。三十七歳であった。