蔚海による阿智の暗殺は、表向きには『夜盗の押し込み強盗』によるものだとされて、白日に晒されることはなかった。
証拠は入念に隠滅されて、犯行の足跡を辿ることは難しい。夜盗の仕業と印象付けるためか、同日のうちに巫女や神官も数名が惨殺されている。これも蔚海による指示である。
宗像からの知らせを受けた亜衣は愕然となった。これほど信じられないことなどそうは無い。
まさに青天の霹靂だった。
加奈港で教来石襲撃を調査する任に就かせていた清瑞を急遽呼び戻し、これの捜査を行わせたのは、阿智暗殺から七日後のことだった。
「あまりにもおかし過ぎる」
亜衣はそう考えた。単なる強盗殺人にしては、きな臭い部分が多い。
事実、亜衣の考えは正しかった。わずか四日間の調査のみで清瑞は帰還してきた。
「阿智殿は、暗殺された可能性があります」
直に犯行現場へと赴いた清瑞は、確信めいた調子で亜衣に報告した。期間と同時に、幾条にも書き綴られた不審な点が、事細かに亜衣の眼前に晒された。
夜のこと。蜀台の明かりで報告書を読みすすめる亜衣は、険しい視線のまま清瑞のほうを振り向いた。
「・・・・・・誰がやったことか、検討はついているか」
亜衣の問いに、清瑞は目を伏せて、首を横に振った。
不振な点は多かれど、そこから犯人を特定することは、ついぞホタルにもかなわなかった。
証拠は入念に消され、本来ならば暗殺などと考えることも出来ないのだ。ただ、亜衣は心に纏わりつく気持ち悪い何かを感じて、それで清瑞に調べさせただけのこと。
むしろ不審な点を探し出しただけでも、清瑞は十二分に成果を挙げたといえる。ただこの度は、蔚海の謀略が清瑞の操作能力を上回ってしまったのだ。
結局、亜衣も清瑞も、蔚海の秘められた謀才によって、真相を知ることはなかった。ただそれでも、亜衣の胸中に纏わりついた気持ち悪い不信感は、根強く残ったままであった。
とにかくも、宗像水軍の総裁を失った今、宗像海人衆はすぐにでも新たな棟梁を擁立しなければならなくなった。その詮議のために、亜衣が宗像海人衆を招集しようとした。
矢先の出来事である。
宗像海人衆とは本来なら、得宗家の傘下組織。一時は勢力と家名を奪いながらも、亜衣という知恵者の登場で再び宗像の下部組織と成り果てた。
とはいえ、得宗家よりも海人衆のほうがまだまだ、勢力が大きいことに変わりはない。得宗家はあくまでも宗像の血筋によって成り立つ家柄であった。ゆえに、海人衆は得宗家を超える大義名分がない限り、彼らは亜衣に従わなくてはならないのだ。
それが、どういうわけか。
亜衣の沙汰が下るよりも前に、海人衆は勝手に蔚海を新たな棟梁として迎えてしまったのだ。これは立派な越権行為といえた。
——宗像海人衆の力が、とうとう堰をきって、高波となった。
亜衣のあずかり知らぬところで、宗像は大きく変わろうとしていた。耶牟原城にいる亜衣には、遠い宗像の思惑が、手に取るようにわかってしまった。
「海人衆は、独立を企てている・・・・・・」
これしかない、と思った。蔚海を迎え入れたのは、海人衆の総意。減俸を受け入れた阿智よりも、蔚海のほうが利益を保証してくれると考えたのだろう。
きっと、阿智を殺したのも、宗像の人間に違いない。
さらに、独立を企てた理由。得宗家の名を借りて専横を振るってきたが、封じ込めを画策した亜衣のことを、いよいよ疎ましく思ってきたのだろう。
庇護してくれないのならば、用はないと。
海人衆にとって、褒美をくれないのならば、例え得宗家だろうと宰相だろうと関係ない。そう公然と言い放ったのだ。
「これは、またぞろ面倒事になりそうだな」
亜衣の予感は、この先に待ち受けている苦難を、夢想させるものだった。
こうして宗像はあらたな棟梁を向かえ、得宗家から徐々に距離をとるようになっていった。そしてその専横は、阿智の時代よりもいっそう厳しくなった。
宗像得宗家と宗像海人衆、亜衣と蔚海の、静かなる戦いの始まりであった。
筑前北部の直方平野のほぼ全域が、宗像の所領となっている。これに飛び石して火向の石川島を加えて、蔚海の官位は従五位の大豪族として幅を利かせている。
筑前には比較的、宗像へ好意的な豪族が多く集中し、九洲最北部はちょっとした宗像王国となっている。彼ら国人豪族は、まさに風見鶏のように宗像の吹かす風を読み、頭を垂れる集団であった。
文官の最大筆頭である亜衣が、文官衆の権力封印に奔走する過程で、文官寄りだった海人衆との関係が冷えていくのも道理。
いまや宗像海人衆は、亜衣という存在に何一つとして期待していなかった。それどころか、目の上のたんこぶとばかりに、悪様に捉えていることなど亜衣には先刻承知であった。
——いよいよ、海人衆との抗争が始まる。
亜衣は緊迫する情勢の中で、新たな問題を抱え込まざるを得なくなった。北山の戦況も詳しいことはわからず、都での騒乱はなお燻り、加奈港で起こった教来石襲撃の真実もまだ知り得ていないこの状況で、今度は宗像との抗争である。
手が幾つあっても足りない、とはまさにこの事。もはや亜衣には政にかかりきるゆとりが失われていた。
「雨嬉の誕生を祝ったすぐ後にこれか・・・・・・」
吉事を消し飛ばす凶事というか。喜びの後の苦しみとは、かくも辛いものかと思わずにはいられない。
宰相の権限でもって、亜衣は何度になく蔚海を呼んだが、その都度に蔚海は『やれ体調が優れぬ』『やれ管理が忙しい』などといって、まともに応じようとはしない。
先方がそう言っている以上、亜衣としてもうんと頷かない限りは無理強いもできず、いたずらに時ばかりが過ぎていった。
海人衆が得宗家、ひいては亜衣を蔑ろにしていることは明らかである。
この事態には、周辺の武官や豪族たちも不満をあらわにしており、とりわけ薩摩・火向・火後南部の豪族たちにまたもや火がつきかねない勢いであった。
外加奈の城築城が終わっているのは、せめてもの救いであった。北山では伊湯岳での勝利を契機に、反撃に転ずるかもしれない。
いまは宗像海人衆の問題に全力を注ぐときだと、亜衣は胎を括った。
海人衆そのものの手綱を締めるよりも、他の有力豪族たちへの手回しを優先した。
天草諸島を根城にしている『鬘(かつら)』一族の水軍が、重然と接近した渡邊党の平陽に合力しているとの情報を得ると、自ら仲介にたって重然水軍と軍事同盟を結ばせた。以後、同盟を結んだ両水軍は『天草水軍』と名乗った。
豪族を束ねるには、支柱となる要が大切となる。それはやはり、重然が適任であると考えた末の、軍事同盟である。
重然健在と九洲中に知らしめることで、諸豪族や文官たちも、宗像よりも重然に傾くことは明白。
「重然を中心に、強力な豪族連合を造り上げる。そして自身のまとめた武官衆でもって、宗像海人衆を一気に無力化する」
それが亜衣の考え付いた、対宗像海人衆への戦略であった。
文官に対する方法と同じだが、繰り返すだけの効果はある。それだけ亜衣にはこの作戦における自身があった。
しかし蔚海も強かな謀略家である。亜衣が宗像海人衆を遠ざけようとしていると確信するや否や、すぐに中央政権への干渉を考えるようになった。
九洲最大の豪族へとのし上がるという、海人衆の野望を一身に背負った蔚海は、さらなる野心を強くしていく。
七月の初旬。
蔚海は急死した阿智に代わり、耶牟原城へ『棟梁』として上った。罷免された翳りはどこにもなく、堂々と肩で風を切った歩き方だった。
耶牟原城の回廊を我が物でのし歩くさまには、不遜にもここが御所であるという自覚があるのかどうかさえ疑わしい。煌びやかな絹織りを着て、勾玉で飾り、化粧で仄かに赤らんだ頬が、気を昂ぶらせているようだ。
屈辱から返り咲いた蔚海に、怖いものなど何もなかった。
上都してからの蔚海ときたら、火魅子への挨拶にこそ応じるものの、呼んでもいないのに評定には出席し、かと思えば亜衣の召集は無視し、勝手に自らの手勢を耶牟原城に住まわせるなど、専横は目にあまるものがあった。
当然それを快く思わない者が多く、亜衣自身も苦虫を噛み潰した思いだが、兵士を入れられたのはまずかった。蔚海の悪巧みは迅速で、もしも排除しようとするなら、城外の与力がこぞって連動し、内と外で暴れる算段が亜衣には目に見えていた。
——蔚海に、ここまでの謀才があったとは。
阿智の陰に隠れた蔚海の才能は、その鬱屈とした日々の中で、野望とともに花開いた。時に蔚海、四十九歳の働き盛りである。
これに対して、亜衣は薩摩にいる重然を呼び寄せた。こちらも手勢を率いさせ、武行に任じた。その間の薩摩では、鬘海人衆の棟梁である『鬘の斯波虎(しばとら)』が、代理の任に就いた。
斯波虎は『斯波』が本名だが、『虎のように強い』とされて『斯波虎』と呼ばれ、好んで自身をそう呼ぶようになった剛の者である。
亜衣は、蔚海へ評定出席を認めない一方で、一介への武行である重然に対しては、これの出席を認めた。これは上都している志野たちと同格とされ、蔚海はその位にはないという、亜衣の厳しいまでの意思表示であった。
「宰相は、我らを貶めているッ!」
蔚海と海人衆の憤りは、とても高かった。自分たちの力が、亜衣を宰相にし、星華を火魅子にしたという自負がるからこその、憤りだ。
阿智の屋敷を接収した蔚海は、しばらくをこの屋敷で過ごしている。なかなか住み心地がよく、手入れが行き届いている。阿智の几帳面さが良くあらわされた内装である。
大きな権力を手に入れた蔚海だが、譲渡してからというもの、いい思いは何もしていない。誰も彼もが批判的なまなざしを向けてくることに、蔚海は大いに苛立っていた。
「わしは、宗像の棟梁だぞッ!」
毎夜のように叫んでは、酒につぶれる毎日だ。一応は蔚海も武行だが、そんな下仕事なぞやっていられるかと、責任すら果たさない有様である。
気に入らないと思いながらも、それでも蔚海は足しげく宮殿を訪れた。
必死になって謀略を巡らすが、開花したばかりの謀才では、すでに達人の域に達している亜衣の智謀に敵うはずもない。
とりあえず宮殿を練り歩いて、権力の大きさを見せ付けるべきだと、蔚海は無意味に回廊を忙しなく渡り歩いていた。
その折に、蔚海と重然が互いに向かい合う構図となる瞬間が訪れた。重然は隣に愛宕をつれており、これは珍しいことなのだが、蔚海には知る由もない。
もしもこれが阿智だったなら、
「おや、これは珍しいですな」
と、胡散臭い笑顔で挨拶するのだろうが。
蔚海は鬼のような表情を隠そうともしない。憎悪が垂れ流されていた。
「あっちゃ〜・・・・・・」
小声でもらした愛宕を、蔚海はゆとりのない視線で睨みつけた。さしもの愛宕ですら、思わず気圧されるほどだった。
蔚海の隣には従者がいるが、こちらも憎々しげな瞳をしている。
まったく表情を変えない重然が、いちど、小さく頭を下げた。挨拶である。
「久しぶりですな、蔚海殿」
「・・・・・・」
蔚海は何も答えず、会釈を返す事すらしない。
だが気にした風もない重然は、やはり顔色を変えない。
不快な感じを微塵も見せず、ただ淡々と蔚海の横を通り過ぎようと足を勧めた。
しかし重然が通り過ぎようとした瞬間、蔚海が手を伸ばして行く手を阻んだ。
重然の見下ろす瞳と、蔚海の見上げる瞳が、交錯した。
「何でしょうや」
蔚海がふんっと鼻で応えた。
「人が返礼もしていないのに、勝手に通り過ぎようとは、不届き千万じゃ」
「これは失礼いたしましたな。返事がなかなか遅うござったから、厠でも我慢しているのかと思い、気を利かしたんですがな」
「か、厠だと・・・・・・ッ?」
思わぬ言葉に、対する蔚海が呆と聞き返した。重然がわずかに笑うと、
「返事もできないほどなれば、足止めさせて・・・・・・万が一『お漏らし』されても、あっしとしてもどうすればよいのか、困りますからな」
「な、な・・・・・・ッなぁ!?」
「いや、お返事いただけてようござった。では、これから評定に出なければなりませんので、これにて」
言葉を失う蔚海を尻目にして、ゆったりとした歩調で歩みを再開する。蔚海から身を隠すようにして重然の身体に隠れていた愛宕が、慌てて後を追った。
上下に揺れる重然の後ろ背を見つめながら、蔚海は次第に顔を赤くさせていった。拳を震わせ、全身で悔しさや恥ずかしさを惜しげもなく振りまき、こめかみが打ち震えている。
「——重然、待たんかぁッ!!」
つばを飛ばすほどに叫ぶと、足早に重然の前へと回りこんだ。
ふぅふぅと荒く息を吐き、肩を吊り上げて重然を憤怒の形相で睨みつけた。
重然は変わらず、感慨も何もない視線を重然の頭に落としている。まるで眼中にないと言われているようで、それがまた蔚海には腹立たしかった。
「わしは、宗像の蔚海だぞッ! 貴様ごときならず者とは歩んできた歴史が違う! 評定に出るだと? このわしを差し置いて、馬鹿にするのも大概にせぬかァ!!」
「・・・・・・」
蔚海の叫びは、執念と怨念が色濃くこもった、呪詛のような言葉だった。あらゆる負の感情を押し込めた響きに、愛宕は自然と、身体を重然の背へ隠すように下がってしまう。
剛勇の愛宕でさえも、いまの蔚海は怖い存在に思えた。人間ここまでくると、もはや悪魔のようでさえあった。
だが、それでも。
重然はつまらなさそうに後ろ頭を掻き、これまたつまらない者を、それこそ木偶の棒を前にした色のない瞳で、蔚海の汚い瞳を見据えた。舌打ちさえしていた。
「な、なんだ、その態度はッ!」
「頭でも掻かなきゃあなぁ・・・・・・退屈すぎんだよ、てめぇは」
先ほどとは違い、荒々しい怒気と言葉遣いに、蔚海の従者が顔色を青ざめさせた。
腰を少しだけかがめて、顔を蔚海の顔面へズイッと近づけた。いつか無表情に張り付いていた眉が傾き、眉間に皺がよっていた。
重然の怒気と蔚海の憎悪が、真っ向からぶつかり合う。
「阿智殿だったら、笑ってやり過ごせただろうに。この程度の応酬で顔を真っ赤にさせて突っかかる奴と話したって、何にもなりゃしねぇ。胎の探りあいすらする気になんねぇぜ」
「き、貴様ァ・・・・・・このわしを愚弄するかッ」
「愚弄する気もおきねぇって言ってんだよ。以前にも同じように、ここで阿智殿と話し合ったことがあるが・・・・・・あのとき俺は、舌を一枚も二枚も巻かれる思いだった。心底から恐ろしい人間だとさえ思った。好きにはなれんかったが・・・・・・それでも立派だったと、いまなら尊敬すらできる」
「あ、阿智は・・・・・・阿智は死んだッ!」
「ならてめぇは、その死んだ阿智に及ばない塵だ。海人衆は終わりだ」
一瞬、息を呑んだ。重然の怒りが迸り、憎悪を飲み込んだ。
「宗像海人衆がどうした。あっしら天草水軍・・・・・・腐った泥船に負かされるほど軟じゃねぇ」
そう言い残して、蔚海を押しのけるようにして、重然が大股で歩き去っていった。
ただ遠ざかる前に、重然が一度だけ振り返り、
「そうそう、勘違いするなよ。『宗像の』って名乗ることが許されているのは、亜衣様方の得宗家だけだ。てめぇは『宗像の蔚海』じゃなくて、『宗像海人衆の蔚海』だろうが。今後は気をつけな。・・・・・・無様な吼え言に聞こえるぜ」
今度こそ振り返らずに、曲がり角の向うへと姿を消した。消える間際に愛宕が舌を出しているのが映ったが、喉が詰まったように苦しくて、何も言い返せないまま愛宕の姿さえ見えなくなった。
全身でわななく蔚海に、従者は声をかけられなかった。なんて言えばいいのかわからなかった。従者にもわかりすぎるほど、完膚なきまでに、蔚海は大敵の重然に言い負かされていた。
武勇で劣る蔚海が、舌戦ですら叩きのめされた。それは阿智を殺して宗像海人衆を牛耳る地位を手に入れた蔚海にとって、屈辱の極みであった。
「ご、御棟梁・・・・・・」
恐る恐る従者が声をかけた瞬間、
ごしゃっ
「ひぎぃぃッ」
蔚海の拳が、従者の顔面にめり込んだ。鼻血を噴出しながら悲鳴を上げて、従者はその場で倒れ悶えた。
全力で人を殴ったのだ。蔚海の拳も痛いなずなのに、怒りに支配された蔚海は、毛ほどの刺激も感じなかった。
歯を食いしばり、今度は壁を殴りつけた。音を立てながらも、やはり痛くなかった。
「重然も、亜衣も・・・・・・どいつもこいつも、口を開けば阿智、阿智、阿智ッ!」
男として、棟梁として、人間として。全てにおいて阿智に劣っている。そう抜かす者たちが、憎くて憎くて仕方がない。
——わしは、わしが宗像だ! 阿智でもなく、亜衣でもない。この蔚海がッ!
魂を黒く染めていく思いが、加速度的に広がっていく。阿智に対する劣等感、亜衣に対する劣等感、重然に対する劣等感、それらを凌駕する反骨心が、蔚海の行動原理を組み立てていった。
「亜衣も、重然も邪魔じゃ。降ろす、絶対に引きずり降ろしてくれる」
蔚海が低く呟いた。この思いが後に大きな問題を呼び寄せると、亜衣と重然はまだ気づいていない。
——私は、なにをやっているんだーーーーッ!?
心の中で叫んだ清瑞は、完全に縮こまっていた。いつものピシッとした姿勢からは想像もできないほどに、正座しつつも背を丸め、顔は俯け、膝の上で拳がきつく握り締められている。
顔はりんごかサクランボのように朱に染まり、頭からは湯気さえ立ち上っているようだ。
有体に言えば、清瑞は緊張しまくって、身体がガチガチに固まっていた。
なぜこんなことになっているのかというと。
「いや〜・・・・・・まさか清瑞が尋ねて来るなんて、思いもしなかった」
暢気に笑う九峪が、目の前にいるからだったりする。
時は、ほんの少しだけ遡る。
九洲各地を飛び回る清瑞は、時たまだが阿蘇山を一気に突き抜けることがある。迂回などせずに、もう直接阿蘇山を越えてしまおうというのだから、何とも大胆な話である。
とは言ってもだ。いくら紅玉をも凌ぐ超人的な健脚であっても、所詮は人間である以上、やはり無理なものはある。
たとえば、ただでさえ狭かった道が、崩落して完全に塞がれていたり。
たとえば、唯一そこだけが開けていたはずなのに、倒木が折り重なって突破できなかったり。
たとえば、なぜだか見た事のない川が突如出現していたり。
伊万里や上乃は『山は生き物だ』と口々にするが、まさにその通りだと唸りつつ、清瑞の足は阿蘇中を駆け巡っていた。
わずか数日の間に、山は姿を変えている。それだけ生命力に溢れているということだ。これから清瑞は、生き物のように姿かたちを刻々と変えていく阿蘇山の中で、新たな道を探すしかない。
崩落で道は塞がれるが、逆に崩落したことで出来上がった道もある。そういった新たな道を探し出すことも、乱波にとって必要な役目であった。
しかし、時間が経ちすぎてしまった。あたりはもう暗く、これ以上の移動は危険であろう。
野宿をして、再び道を探す。そう決めた清瑞は薪を集めて火を焚き、風も雨もない一夜を過ごした。
夜明けのことである。朝霧の寒さに身を震わせながら目を覚ますと、近くの川原で洗顔を済ませ、携行食糧で腹を満たしてすぐに出発した。起きぬけにも拘らず駆け出せるあたり、やはり清瑞は尋常の者ではない。
しかし清瑞の行く手は、ようとして阻まれたままだった。
「ここも塞がったか」
多用する道が尽く失われている様子に、清瑞もさすがに堪えてしまった。一体いつの間にとため息をつきながら、来た道を戻ろうと踵を返した瞬間。
ぞくっ——・・・・・・と悪寒が背骨を駆け抜けた。一瞬で『魔人がいる』ことに気づいた清瑞の身体は、瞬く間もなく戦闘態勢をとっていた。
周囲は草木と岩で視界不良となっていて、遮蔽物が多すぎる。身体を低くして、背にかけた刀をぬいて構えを取る。左手には短剣を持ち、攻防一致の構えである。
ほどなく、音が消えた。武道武術の達人が持ちえる、
——音絶ち
という気合の業が、視界に映る範囲を支配した。この音絶ちの業は現代の達人たちも会得しており、剣道や弓術など、特に精神的作用のある日本武道者に多く見られる達人業である。
音絶ちの空間内では生き物の気配が如実に顕れる。一切の雑音が消えると、虫の鼓動さえ感じられてくる。
その中でも、やはり一際大きい気配がある。絶対的で、笑い話にさえなりそうなほどの存在感を、まさに堂々と隠さずにいる。
「・・・・・・」
息を殺して。熊から身を隠す野兎のように。
頬を汗が伝い、眉にも汗が溜まっていく。それでも指先で拭うことすらできない。
——まだ魔人がうろついているのか。
驚愕と焦燥にかられながら、どうか過ぎ去ってくれと、信仰する天の火矛へ祈りを捧げる。
音のない世界で、魔人が揺らす雑草のかすれる音だけが、耳障りなほどに大きく聞こえてくる。魔人が近づいてくる。
一分か二分ほどが経過した。多分それくらいだと思うが、どうにも時間の経過さえわからなくなっている。
柄を握り締める掌は汗でじっとりと湿っている。
ふと、魔人の歩みが止まったような気がした。存在感はそのままに、魔人が立ち止まったのは。
清瑞が隠れる場所から、直線上で十歩ほどの近距離。
——気づかれた?
絶望が競りあがってくるのを必死に堪え続けた清瑞の耳に。
「誰かはわかんないけどさぁ〜。出てこないとスゴイ事になっちゃうよ?」
聞き覚えのありすぎる、兎奈美の声が鼓膜に響いてきた。
「・・・・・・兎奈美さん?」
緊張から一転、体中があっという間に脱力してしまった。
ほっと息を吐き出して、刀を鞘に収めると、額の汗を拭って姿を現した。兎奈美だとわかったと単に、さっきまでの自分がまるで馬鹿のように思えてくる。
兎奈美の服装は、いかにも動きやすそうな格好だった。革の衣服で、やはり露出度が高い。そして特徴的な形をした武器を持っている。
二人は目を合わせると、清瑞は疲れた表情で、兎奈美はちょっとだけ驚いた表情で。
「あっれ〜・・・・・・なんで清瑞さんがここにいるの?」
ぽかんと尋ねた兎奈美のまるい瞳を見つめながら、清瑞が近づいてきた。
「それはこちらの台詞です。皆さんの住いは、東のほうだったはずで・・・・・・」
とそう答えながら、ふと清瑞の記憶が思い起こされた。
いつか、亜衣に話されたとき、魔兎族に九峪の周辺警護を任せていることを清瑞は知った。それが原因となって噂が盛り上がったことも知っている。
——ということは、この近くに九峪様がいる。
そう思い至った瞬間に、体中の血管を通る血液が、煮え湯のように熱くなっていくのがわかった。さっきとは別の緊張に全身が粟立った。
——会いたい、と思った。心底から願った。その機会が、目の前の兎奈美は持っている。会うなら今しかない。
ただ会っていいものかとも思う。九峪との逢瀬に亜衣は苦しんだし、それそのものがある種の罪とも呼べる。九峪は万民に会うべからぬ存在なのだ。
しかし、でも——
「もしもーし、聞いてるー?」
「ハッ!?」
気がついたら、兎奈美の顔が顔面にまで迫っていた。のわぁっと驚き飛び退いて、脈打つ心臓の波を懸命に鎮めた。
呼吸を落ち着けながら、それでも清瑞の葛藤は胸を締め付けるほどの苦しみとなって、清瑞の心を縛り付ける。
自分なら会える。宰相の亜衣と違って、それほど高い地位にない自分なら、会っても問題はないはずだ。
弱い考えだ。乱波に相応しくない考え方だが——むかし狗根国に囚われていたときの、織部の言葉がよみがえる。
——乱波らしくないな。
主君に想いをよせて、口付けを交わして——そうしてしまった瞬間に、乱波としての清瑞はすでに終わっていた。
いまなら織部の言葉を素直に認められる。真の乱波ならば、こんな弱い誘惑に誘われさえしないのだから。
だけど。清瑞にとって九峪が全てなのだ。だからこそ命がけで帰還したし、異世界にまでついていった。
一緒に来て欲しいといわれたときの、あの歓喜は永遠に忘れなれない。
——私は、九峪様のために。
「兎奈美さん、お願いがあります」
「ん〜、なに?」
——九峪様のために生きている。
「九峪様に、会わせて頂けませんか?」
兎奈美がきょとんと瞳を丸めたかと思うと、すぐに飛び上がって、
「えっ・・・・・・ええ〜!? なんで知ってるの〜!?」
叫んだ。
そして結局。
弱さゆえの誘惑に負けてしまった清瑞は、兎奈美の背中に誘われるまま、九峪の住まう家屋へと招かれた。
進めば進むほど俗界から隔絶された空間となっていく。魔兎族の住まう場所よりもずっと山奥だ。人の住むべき場所ではない。
周囲に堀と柵が張り巡らされているのは、魔獣避けだろうが、明らかに人間の侵入は考慮に入れられていない。入り込むだけなら子供にだってできそうだ。
目的から考えれば無防備の極みだが、状況から考えれば致し方ない。九峪に窮屈感や閉塞感を与えないようにしつつ、さらに外敵からの脅威から身を守るためとするならば、これが妥当で限界の造りといえる。
これはきっと、亜衣さんの思いやりなんだろうな・・・・・・。薪置き場の横を通り過ぎて、しみじみと思い知った。
兎奈美が玄関の戸をあけた。戸は驚くほど滑らかに開いて、まるで匠の業のようでさえあった。
「たっだいま〜」
のんきな声で帰りを告げると、ひょいっと軽やかに土間に靴を脱ぎ捨てて、奥へと上がりこんでいった。
周囲を探るように眺めたいた清瑞が慌てて後を追う。家の中は華美ではないが立派で、富裕者の邸宅ばりにしっかりとした内装だった。手入れも行き届いている。
高鳴る鼓動が耳障りなほどで、目に映るもの全てが期待を込めている。これら全てが九峪の所有物なのだと、そう考えただけで安価な銅鏡さえも黄金に勝る宝物のように感じられた。
「あっ——兎奈美さま、お帰りなさいませ」
ふっと突然、九峪の世話をしている女中が顔を出してきた。感激の余りに油断しきっていた清瑞がたたらを踏んだ。
兎奈美が返事をして、それに微笑んだ女中が、背後の清瑞に気がついた。互いに驚きの瞳が重なった。
——こいつは。
清瑞には見覚えのある顔だった。間違いない、こいつは都の内乱が始まる前、玄以らと同時期に殺された明銀太の妹だ。
清瑞の持ちえる情報では、明銀太の妹は警徒として働いており、突然その行方が知れなくなっていた。
明銀太は動揺したそぶりも見せず、また亜衣も何かを知っていると直感した清瑞は、妹の失踪はなにやら裏があると考えていた。もっとも清瑞にはさして興味もない事柄だったので、最近まではその存在すら忘れていたが。
しかし、ここにきて合点がいった。こういうことかと思いながら、わずかに胸の奥で嫉妬の思いも沸き起こる。
「・・・・・・兎奈美さま、こちらの方は?」
ただし、清瑞が知っているのは、彼女がホタルの棟梁だからだ。一介の警徒でしかなかった女中には、清瑞の顔を知る由もない。
向けられる視線には、あからさまな不振の色。警戒していることなど、筋肉の張り詰め具合ですぐにわかる。
へらへらと締りのない表情の兎奈美が、後ろの清瑞を前に立たせる。
「知らないんだ。清瑞さんっていうんだけどね」
「き、清瑞ッ!?」
顔は知らないが、名前は知っているようだ。清瑞という名前を聞いた女中が、慌てて頭を下げた。
ホタルの知名度はさして高くないが、それを指揮する清瑞の名声だけが群を抜いて知られている。
紅玉を筆頭として、香蘭・志野・衣緒・遠州・清瑞の六人はとくに武名の誉れ高く、
——九峪股肱の六人衆
と呼ばれている。衣緒はむしろ亜衣親衛隊の隊長として有名だが、とにかくそれだけ清瑞の武将としての名声は、九洲ないし栖防や永戸など中國地方へも轟いていた。
お互いがお互いに居合わせたことを驚きながら、女中は清瑞を手厚く迎え入れて、三人は居間へと歩を合わせた。
居間は意外と広々としており、横幅三間に奥行き四間と、一般家宅の一回りは広い。中央には囲炉裏があり、火桶が二つも置かれている。
調度品の類は少なく、高価な物もない。もっとも清瑞には、全てに九峪の面影が重なって見えるあたり、自分も随分と女々しいなと自嘲してしまう。
「し、少々おまちください」
清瑞を前に緊張した女中がいそいそと奥へ隠れた。ほどなくしてお茶を運んでくると、またすぐに姿を消してしまう。
お茶を飲んだ兎奈美までが外出して、居間には清瑞だけが取り残された。兎華乃も兎音もいない。きっと見回りに行っているのだろう。
ズズッ・・・・・・。
「——ッうぇ!?」
凄まじい渋みに、端整な顔立ちがひどく歪んだ。思わず茶碗を取りこぼし、口元を手で覆った。
な、なんだコレは!? 飲み物なのか!?
初めての高麗茶は清瑞の口にはどうにも合わなかったらしい。板敷きの床に赤茶色の水溜りが出来ているが、気にしている余裕など清瑞にはなかった。
何でもいいから、水、水! 涙目になりながら辺りを見回すが、水桶などどこにもない。やはり土間に行かなければならないようだ。
動転しながら立ち上がって、跳ぶように土間へと向かう。
「どわぁッ!?」
「え、あ、わッ!」
しかしいきなり、本当にいきなり、戸口に人が現れて、止まることも出来ずに清瑞は突っ込んだ。
二人分の倒れる音がする。
いくら動転していたからって、何てことを——ッ! 自責の念にかられながらも、清瑞は身体を起こそうとして。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
一ミリも動かないまま、石のように身体が固まった。
——九峪、さま。
体温の全てが感じられるほどに、全身が密着している。こんなに近づいたのは、川辺城での夜以来かもしれない。
不幸中の幸いというべきか、どうなのか。もはや高麗茶の味すら忘れて、清瑞はただ九峪の顔を見つめた。
二年ぶりの再会だった。