奇跡は二度起きた。
伊湯岳で勝利した九洲・北山連合軍は、翌十三日後に編成を整えて、敵の最前線基地である大宜味を攻撃。
四日間の攻防の末、中山・南山連合軍を打ち破り、大宜味とそれに繋がる琢建等の支城を奪い返し、五割ほどまで切り崩された版図を、七割ほどまで回復させることに成功した。
決戦とも目された伊湯岳の戦いを制したことで、西南の風が北東の風へと転じた。いま、矛の切っ先を突きつけているのは、他でもない滅亡寸前だった北山の方だ。
伊湯岳の勝利は、兄の北山王とともに指揮を執った恵源にとっても、夢か幻かと思えるような勝ちだった。作戦立案は恵源だったが、勝てるかどうかは七分三分で己が策であっても半信半疑だった。
だが勝ったものは勝った。ならばと考えた恵源が、兵の士気の高さをつぶさに観察して、間をおかずに進軍する選択をした。風が吹いている間、少し無理をしてでも、緊張感を保ったまま戦うべきだとしたのだ。
兄王はこれを聞き入れ、恵源に全権を委ねて大宜味奪還を敢行した。それによる勝利である。
今後、恵源の描く方針は、泡賀(あわが)を攻略して東に海の道を開くことだ。東海の制海権を手にすることで、戦略の幅が格段に広がる。
「今度こそ、要求どおりの兵を出させてやる」
ここが叩き時だ。恵源は前回の派遣の対応に不満を抱いており、今度はこちらの要求を全て押し通してやると息巻いていた。会談の時には低姿勢だった恵源も、もはや下手に出るつもりなどなくなっていた。
大宜味奪還の吉報は、教来石から亜衣へと届けられた。
絶望的戦況を覆した恵源の手腕は、はたしてどれほどのものだろうか。もちろん恵源一人の手柄とは言えないが、兵を指揮するものは、ときに武勇に頼る戦士以上に化け物染みた戦い方をする。
劣勢から好転したことは喜ばしいが、さて、亜衣には手放しで喜べない事情があった。恵源が追い討ちをかけるために、さらに兵の増派を要求してくることなど、考えるほどもないことだ。
三度も派遣した。三度目は内乱の直後だった。これ以上の派遣は無理だ。
はっきり言って、いまは国外に目を向けていられるような状況ではない。阿智が死んでから蔚海が台頭し、それまで押さえつけられていた海人衆の横暴さが一気に吹き出し、各地を治めている豪族たちの不満は鰻登りだ。
武断派と文治派の確執も深く、いまだに『九峪』の噂がそこかしこで飛び交っている。
「自力で何とかしてもらわねばならない」
というのが、結局のところの、亜衣が下した判断である。せめて音羽たちの手助けはしてやりたいが、それも現状では難しい話だ。
増派を求める恵源と、それを拒む意思を固めた亜衣。叛意を燻らせる蔚海、その抑えとして上都した重然。
そして、清瑞と再開した九峪もまた、時代の潮流に押し流されていく。
——無音。
音がなくなるというよりも、殆どの音を聞き取れない。鼓膜が麻痺しているのか、脳が麻痺しているのか。
おそらく後者なのだろう。耳だけでなく、身体の全てが言うことを聞かずに、木偶人形のように固まってしまっている。
格好を見れば、清瑞が四つんばいの姿勢で九峪を押し倒しているようだ。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
無音なのは、なにも周囲の音だけではない。互いにとってもっとも間近な音源からして、呼気の微細な音さえも発していない。
息も死ぬとは、まさにこのこと。
触れ合った肌が熱を交換している。熱い、とも思えない。
少しして、心臓の高鳴りが聞こえるようになってきた。ドクンッ・・・・・・ドクンッ・・・・・・。
脈動が、皮膚を着衣を突きぬけて相手にも伝わってしまいそうだ。これが自分の鼓動なのか、それとも相手の鼓動なのかも、実のところ良くわかっていない。
ただ今は、脳裏でふわりと、羽のように軽く湧き上がったのは。
——清瑞が。
——九峪様が。
真っ赤になった顔と、大きく見開かれた瞳が、ただ互いの名前を呼び合うだけで。
身を縛る硬直が解けた瞬間、二人は重なり合ったまま、九峪の腕が柔らかい女の背中にまわされて、力の限りに抱きしめた。
無自覚に。それは無自覚の抱擁だった。
「・・・・・・九峪、さま」
清瑞の震える言葉が、吐息とともに九峪の耳をくすぐった。吐息には熱がこもっていて、ジンッと九峪の耳を痺れさせた。
ようやく九峪は、目の前にいるのが清瑞なんだと実感できた。
——清瑞は、惚れた女だ。九峪が九洲で出会った女性たちの中でも、清瑞はもっとも特別な存在だ。
現代で日魅子と別れた。あれはまた、日魅子と清瑞のどちらかを選ぶという選択肢でもあった。どちらも好きだった。でも選べるのはどちらか。
九州か九洲か。日魅子か清瑞か。
そのときの事情や状況もあった。仲間たちを見捨てられないという思いもあった。それでも九峪が日魅子への想いよりも、清瑞たちとともに戦う決意を選んだことに変わりはない。
それから紆余曲折を経て、離れ離れになって。
二度目の春をして再開したのだ。
「清瑞——ッ」
二人の間に、名前を呼び合う以外の言葉はない。名前は万言にあたいし、それだけで言葉以上の想いを伝え合える。
——会いたかった、と。
その想いは、九峪以上に清瑞のほうが強いだろう。九峪は自分自身でも納得している境遇だったし、いつかはともに歩める日が来ると、心のどこかで思い続けていた。
でも、清瑞は違う。九峪がもとの世界に還ったと聞かされたことは、それは、九峪が死んだといわれたと同義だった。
件の噂がなければ、真相は知れなかった。知ってしまったときから、清瑞は恋慕の情を抑えつけながら、ひたすら仕事に打ち込んできた。
国内が完全に安定すれば、それだけ早く九峪様に会える——ッ!
ただその一心で東奔西走を繰り返した。足の裏が如何に擦り減ろうとも、どれほど削り落ちようとも、そうするだけの価値が行く末の未来にはあった。
いまはまだ混乱のただなかにあるけれど。
これはただそれらに対する報酬ではないのだけれど。
いまはただ、この身に伝わる火傷しそうなほどに熱い体温に浸って、すべてを胸に抱き抱かれながら、まどろみのような時間を過ごしていたかった。
「九峪様・・・・・・会いたかったです・・・・・・会いたかったですッ」
「・・・・・・ほんとうに、清瑞なんだな」
掠れる清瑞の声と、存在そのものをたしかに感じる。
清瑞がここにいるはずがない。そう思う心の片隅で、これは幻なんかじゃない——という実感がたしかにある。あり得ないことだけど、受け入れている自分がいる。
でもそんなことはどうでもいい。清瑞がいると、その事実だけがこの瞬間のすべてだ。そう思えば、心がにぎやかになる。
二年だ。『たった二年』か『もう二年』かはわからないが、久しく忘れていた清水のぬくもりが、腕(かいな)の中にあるのだ。
それだけでいいじゃないか。
そう思って、ことさら細い体を抱きしめる。清瑞も九峪も、この瞬間に酔いしれて。
「・・・・・・え〜っとぉ」
その光景を見て、どうしたらいいのかわからずに立ち竦んでいる女中を尻目に、二人はぬくもりを抱き求めていた。
戻ってきた兎菜美に声を掛けられて、二人はようやく自分たちが何をしていたのかに気づいた。顔を朱に染めて飛び退くさまは、年齢以上に初々しく見える。
「えー、あー・・・・・・」
しどろもどろに言葉を探すが、切羽詰まった喉からは気を利かした言葉のひとつも出てこない。藁をもつかみたい心境なのか、手の指が忙しなく開いたり閉じたりを繰り返している。
別にやましいことをしているわけでは——少なくとも自分にはない——ないのだが、こと女性が目の前にいると、向けられる視線が非難めいてるような気がしてくるのだ。
——これが日魅子などだったら、
『女の敵ッ! 死ねッ!』
と罵られて、モップの金具部分で殴り飛ばされること請け合いだ。実際、当時の委員長とちょっとしたハプニングに遭遇した時は、弁慶も真っ青な長柄さばきでモップを振り回し、市販のモップが『岩落とし』の如き破壊力を生み出しながら九峪の脳天に襲いかかったものだ。
それだけ、やましいことになった男に対して、怒れる女は容赦がない。もしも九洲に日魅子までついてきてたら、一角の武将になっていたかもしれない。
いたたまれなくなった九峪が、顔をうつむけたまま、清瑞の手を取ってそそくさと居間へ逃げ込んだ。その後ろを、兎菜美と女中が無言でついていった。
女中がお茶を注ぎに土間へ消え、兎菜美は空気も読まずに清瑞に話しかけている。
兎菜美にとって、清瑞とは四年ぶりの再開となる。
遊びと温泉とお喋りと殺戮が二度の飯より好きな兎菜美の均整のとれた唇は、休む瞬間を見せずに絶えず動き続けていた。まだ脳みそが沸騰中の清瑞は、ずっと、
「ええ・・・・・・」
「あ、はい・・・・・・」
といった生返事で、視線は常に九峪へと向けられている。心ここにあらずだ。
それでも兎菜美には関係ないらしい。一緒に生活するようになってわかったが、兎菜美のお喋りはマシンガントークだ。相手からの返事は関係ない。
「あんたの返事なんか知らんよ。喋るといったら、私は喋る」
がモットーのようである。
だが、ここではそれでいいと思う。何よりも助かる。良い雰囲気を壊すのが兎菜美なら、悪い空気を壊すのも兎菜美だ。
九峪も無理して、兎菜美の連射トークに相槌を入れていく。九峪が会話に参加すると、自然と清瑞の口数も増えていく。一度でも花咲けば、気分が軽くなる。
少しして、女中がお茶と一緒に戻ってきた。楽しそうに話している様子が不思議なのだろうか、それとも乱波衆の棟梁が珍しいのか、お茶を置くと女中は一歩引いたところに腰を下ろした。
清瑞も冷静さを取り戻して、まともに受け答えができるようになったが、まだまだ顔は赤い。声調子もどこか浮ついて、傍目にも浮かれているのがわかる。女中はそれが不思議で、一歩引いているのかもしれない。
相槌を打ちつつ、九峪は心に流れた汗をぬぐった。男の悲しい事情だ。
「——宗像神社に?」
茶を飲み干した九峪が、相対する清瑞に訪ねた。
話は清瑞がなぜ阿蘇にいるのかということに繋がり、清瑞が九峪退陣の真相を亜衣から聞いた事、世間での噂がかなり信憑性を増してきた事などが会話に挙げられた。
九峪の問いかけに、まだ顔を赤らめながら、それでもしっかりとした口調で受けこたえる。
「過日のことですけど、宗像海人衆の阿智が宗像神社の一室にて、従者もろとも殺されました」
「えッ!?」
耳を疑う言葉に、九峪は驚きを隠せなかった。
阿智のことなら九峪も多少は知っている。
宗像海人衆は複数の海人衆の連合体で、阿智はその中でもっとも力の強い海人党の長である。ゆえに海人衆の棟梁となり、連合体を引っ張ってきた。
付き合いはないから詳しい事も知らないが、美禰城攻略戦の時に星華が檄をとばして馳せ参じた事は知っている。以降も、只深の取り仕切る大陸との交渉や海賊討伐などに従事し、彩花紫の九洲総攻撃を遅らせた『響灘の戦い』でも、石川島海人衆とともに共闘している。
どうにも妖しい笑みの持ち主。それが九峪の抱く阿智の印象だ。出来る事ならお近づきになりたくない部類の人間だが、頼りになりそうだという感想もあった。
「犯人は捕まったのか?」
乗り出した九峪だが、答えは良くない。
「いいえ・・・・・・まだです。素行の怪しい者は数名挙げられていますが」
「それは俺も知っているやつか?」
「おそらく殆どはご存じはないかと。・・・・・・もっとも、大方の見当はすでに付いているんですけど」
「犯人は特定できているってことか」
「筆頭が阿智に次いで力を持つ蔚海という男です。阿智の死後、この蔚海が間を置かずに台頭して宗像海人衆を牛耳りました。それからの行動も素早く、今では北九洲に勢力を広げ、専横も目につく限りです。さらには政へも干渉しようと、評定衆でもないのに会議に顔を出し、そのくせこちらからの呼び出しには頑として応じず、主家を蔑にすること憚りません」
「なるほど、な。自分たちの頭が暗殺されたって言うのに、たしかに動きが急すぎる。怪しまれても不思議じゃない」
「北九洲の豪族たちは、宗像海人衆の脅威に怯えて靡いていますが、それ以外の各地の豪族たちは不満を募らせ、一触即発の状況が何度も起きたくらいです。おかげで亜衣さんは毎日てんてこ舞いで」
そうだろうと、九峪は首を頷かせた。
祭は火魅子の取り仕切るところだが、政は亜衣の分野だ。宗像や豪族たちへの配慮は火魅子にはどうしようもない。
そも、火魅子は国家の進むべき道を定めて、導くことが役目である。実際に主導するのは亜衣の役目であり、全ての矢面に立たされるのも、宰相の亜衣となる。
「・・・・・・文官と武官の関係も、悪いままなのか?」
気になることを九峪は尋ねた。これこそ、九峪が失脚した直接の原因なのだ。
清瑞ははっと顔を上げると、横目で女中を見やった。九峪との再開に浮かれて忘れていたが、女中の実姉の明銀太は、まさに文官と武官のいさかいに巻き込まれて命を落としたのだ。
真実を伝えようか、それとも隠しておくべきか・・・・・・。
逡巡する清瑞の様子に、九峪は眉根を寄せたが、特別問いただそうとはしなかった。
暫しして、清瑞が意を決して九峪に視線を合わせた。もはや浮かれた様子はない。
「悪い、としか言いようがありません。文官と武官は、すでに武力衝突を引き起こしています」
「知っている。耶牟原城が焼けたんだろ。・・・・・・藤那たちのおかげで鎮圧したって聞いたけど、まだまだ溝は深いのか」
「あれは、互いに憎しみあっています。かつては互いの主張がぶつかり合っての対立でしたが、今となっては、憎しみあっての対立へと形を変えています」
「・・・・・・なんてこった」
「それだけなら、まだよかった・・・・・いえ、良いなんてことはないんですけど」
思わず口ごもる清瑞に、九峪は胸中に広がる不安を感じた。
「宗像海人衆が、文官寄りになっているんです。おそらく、政へ干渉するためだと思うんですけど。文官も次第に亜衣さんを疎んじており、独自に女王を擁しようとする動きがあります」
「・・・・・・おい、それって」
つばを飲む九峪の言葉を受けて、清瑞が頷いた。
「現状、文官が宗像海人衆を擁護しています。その文官一党は亜衣さんを廃して、新たに宰相を打ちたてようとするかもしれません。蔚海には宰相と女王を傀儡にして、自身が実権を握ろうという腹積もりが見え透いています」
清瑞の告白が、重石のように九峪の臓腑を重くした。
阿蘇に引篭もって二年。わずか二年だ。その間に若い政権が崩壊の道を歩もうとしている。
現状はそれまで九峪が予測していたどの事例にも該当していなかった。決して磐石とはいえないが、それでも、容易く崩れるほど脆い国だとも考えていなかった。
——無闇に根拠もなく、名も知らない他人を信用しすぎた、その『ツケ』がいまの脆さを露呈しているのだ。
人と人とを繋ぐものが信義の絆だけだというのは盲信だ。甘い考えだといわざるを得ない。九峪の最大の失敗は『成熟した大人になるよりも早く、多くの人々を主導した』ことだった。
大多数を結びつけるものとは、心の絆ではなく、利益の絆なのだ。それを子供だった九峪に理解しろというのも酷な話だが。
現在の九洲にとってもっとも危険な存在は、北山ではなく蔚海とそれを助ける文官か。それともそれらによって追放という新参をなめさせられた、憎悪の武官たちか。
いずれであっても、九峪には、胸を押しつぶされるほどの苦しみにしかならない。
知らず握り締められた九峪の拳の震えが視界に入ったのか、それとも鎮痛に堪えるように歪められた表情に悲しんだのか。
なんと声をかければよいのかわからず、清瑞もまた、膝の上の手を握り締めた。
「・・・・・・形勢は定まりつつあるな」
歪んだ表情のまま、それでも九峪は現状を必死に整理した。
『九峪派』『女王派』の派閥に分かれていた武官と文官の対立は、次第に『宗像海人衆』『石川島海人衆』の対立、そして今は『宗像海人衆と文官』『宗像得宗家と武官』の対立にその様相を変えつつある。
これは、九洲が再び二分されることを意味している。いや、二年前に分かたれた亀裂が、修復されないままよりいっそう大きくなってしまったのだ。
「戦いになるんじゃないか」
それが九峪の心にすくう一番の不安だ。仲間意識が人一倍強い九峪には、かつての仲間同士で争う事態など、想像もしたくない。
だがその思いを察した清瑞も、否定することが出来ないほど、それは信憑性のありすぎる話だった。
「で、でもですよ、九峪様。北山の問題がある以上は、まだ全面的な争いにはならないと思います」
気休め程度の言葉だと思いながらも、清瑞は取り繕うような早口で言葉を繋いだ。戦いは避けられないかもしれないが、まだ猶予はあるのだと、清瑞自身がそう考えている。
だが確かにその通りでもある。北山に派遣された軍勢が帰還してこない以上、またそれに関する問題が解決しない以上は、行動を起こしたほうに非が発生してしまう。
何よりも大義名分が人心を掴むかぎり、勇み足で忠臣になるか逆賊になるかは際どいところだ。
「お前から見て、蔚海はどんな男だと思っているんだ」
九峪の問いかけに、あごに指を当てながら清瑞は蔚海という男の顔を思い浮かべた。
「はっきりと申し上げれば、器量の小さい男ですね。そこそこの智謀の才は持ち合わせているし、行動力もありますが、根は小心者だと思えます」
ただ、と清瑞が付け足す。
「油断ならないところもあります。蔚海は野心を隠すということが苦手なのでしょうが、その分、その野心がどれほど強いのかということが窺い知れます。野心が大きいということは、必ずどこかで大きなことを仕出かします」
「大きいこと・・・・・・」
「亜衣さんもそれに気をつけています。蔚海は加減を知らないでしょう。もしも、一度でも小さな失敗をすれば、そこへ容赦なく喰らいついてくるはずです」
「その蔚海ってのは、最終的には何を狙っているんだと思う?」
ふと涌いた疑問について尋ねる。
野心といっても、そこには必ず終着点がある。織田信長の天下布武がいい例だ。
蔚海の描く青写真がどこにあるのか。海人衆を九洲最大の軍団にすることか、亜衣に代わって宰相になることか、それとも女王を廃して自らの王国を築くことか。
どれも『馬鹿な』の一言で片付けられる事柄だが、今の九洲では何が起きても不思議ではない。
蔚海が波に乗って野望を成し遂げないとも限らないだけに、もはや無力な九峪も見てみぬ振りはできないのだ。
「そうですね・・・・・・」
尋ねられた清瑞も、もちろん蔚海の真意は知れない。しかし清瑞は蔚海の目指している最終地点を自分なりに分析してもいた。
乱波の考えることではないが、今の清瑞はただの乱波ではなく、国家の要する重臣でもある。亜衣の相談役にもなっている清瑞は、独自の考えを持つようになったのだ。
その清瑞は、ある結論を導き出していた。
「おそらく、宰相にも大王にもなるつもりはないのでしょう」
返ってきた言葉に、九峪は内心で驚いた。
「どうしてだ? いまの清瑞の言葉を信じるなら、大それたことを考えていそうなもんだけど」
「野心がどれほど多くとも、所詮は小者です。それに頭が無駄にまわりますから、大きな責任を負うことを恐れ、頂点に立つよりも裏から権力者を操る方法を選んだものと思えます」
「卑怯者だな、そいつは」
一軍一国を率いたことのある九峪にしてみると、背後で狡賢く立ち回ろうとしている蔚海の性根が気持ち悪かった。それに対する嫌悪感が表に如実に表れている。
しかし清瑞の様子は九峪と多少違う。
「はい。故に亜衣さんも警戒しています」
清瑞が冷静な調子で口を開いた。清瑞も蔚海のことを卑怯者だと思っているが、その意味するところは九峪とやや異なっている。
軽蔑の意味合いが強い九峪の語調に対して、蔚海の卑怯は『油断ならない』と、清瑞は捉えているのだ。
清瑞は卑怯者が如何に手強いかをよく弁えている。『卑怯者』はまた『非強者』とも読み、相手にとってとことん厭な条件を突きつけて、決して同じ土俵で争わず、人の業とも思えない手法を用いて勝利する者たちを表している。
実際、九峪もある意味では非強者なのだ。九峪に限らず、頭脳で戦うものたちは須らく非強者で、相手から見れば卑怯者なのだ。
蔚海は小物だが、卑怯の者であることに違いはない。ならばそれは、非強の者である。
油断などとんでもないことだ。
「ようやく巡り巡って風が吹いてきたのです。蔚海がどこまで暴走していくのか・・・・・・考えるだけでも末恐ろしいですよ」
もしも蔚海が権力の頂点を手にしたなら、亜衣はおろか火魅子さえどのような目にあうか、わかったものではない。
そうなると、必然的に宗像海人衆——蔚海を討伐するために火魅子は各地に挙兵を促し、北九州を除く全ての豪族が合力することは間違いない。
それは隠遁の九峪にも容易に想像できることだ。
「蔚海を抑え込まなくては、立ち行くものも行かなくなります」
「蔚海か。・・・・・・獅子身中の虫ってやつだな」
聞けば聞くほど心配になる話だ。叛意を燻らせる人間が何よりも怖い。
九峪は蔚海という男を直接は知らないし、顔も見たことはない。名前さえも、あるいは過去に聞いたことくらいはあるだろうが、今の今まで記憶の墨にも登らなかったほどだ。
そんな男が、今後の情勢をどう転ばすのかという立ち位置で暗躍している。ますます自身のあずかり知らない九洲を感じる。
ここ暫く、九峪は亜衣と会わなくなった。正確には亜衣が九峪と会わない決意をしたのだが、とにかく、阿蘇の九峪が世上を知るには、亜衣からの書状以外に手立てがない。
亜衣は耶牟原城の混乱など、大きな出来事は教えてくれるが、こと細かい出来事までは伝えようとしない節がある。それは、九峪に無用な心配をかけまいとする思いやりなのだが、何かを隠しているということを感づいてしまう九峪の洞察力にとっては、逆に晴れない霧を心にかける結果となっていた。
蔚海のことは、知ることが出来て逆に良い。清瑞と接触できたことも僥倖である。
「清瑞」
九峪は一つの決意を固めた。もうこれ以上、ただ安穏と、ただ茫洋と、ただ無為無策の日々を送るなど我慢がならなかった。
表に立てないのならば、いいだろう、こちらも裏から動いてやる。裏で怪しく卑しく立ち回ろうとする蔚海を、同じく裏から昂然と迎え撃ってやる。
久しく見忘れていた瞳の輝きが、清瑞の脊髄に、それこそ脳天から針金を通したほどに強烈な刺激を与えた。肌を埋め尽くす細胞の一つ一つから、薄毛の一本まですべてが粟立ち総毛立つような、身を震わせてなお余りある本流が、清瑞の眼球をぶれさせ、髷に結われた長い髪を揺らした。
——この、瞳だ。
いつもどんな局面でさえ、この瞳が全てを決してきた。九峪を九峪たらしめるものは、奇怪な言動や発想だと嘯くものがいるが、清瑞は、この光り輝く瞳をしているかどうかなのだとわかっている。
凄乃皇との戦いを終えた後に、清瑞は『響灘の戦い』直後の九峪の様子を、当時の事情を知る者たちから聞き知っていた。
誰もが、
「九峪様の目が違った・・・・・・」
と、不安になったそうなのだ。とにかく暗く、夜の泉のようであったと。あの傍若無人な珠洲でさえ案じるほどの変わりようであったと。
何があったのか、詳しいことを清瑞はしらない。病に倒れたのだと囁かれていたようだが、清瑞は、そうではないと思っていた。
目の輝きを失わせるのは心の病だ。九峪を変えさせたのは、きっと絶望なのだ。そうでなければ、九峪の太陽のような瞳は決して翳るはずがないのだ。
何を知った風なと笑われるかもしれないが、それが清瑞にはよくわかる。九峪の瞳とは、それ自体が吉凶を占う『宝玉』で、清瑞にとっては『神器』にさえ匹敵するものなのだ。
その瞳が、清瑞を捉えて離さない。
「こうやって再開できたのが、なんだか出来すぎだって思えちまうぜ。・・・・・・けど、案外そういうもんなんだなとも思える」
視線を外さないまま一人、納得と理解が九峪に力を与えてくれる。
運命というよりは、時代の潮流とも言うべき力である。
そして時代が生み出す力は、清瑞をも動かす。
「これから、宗像神社へ向かうって言ってたよな」
「はい。宗像海人衆の動向を探れと、亜衣さんから命じられています」
「——だったら、だ。宗像海人衆を構成する海人たちの名簿を作ってほしい。人名はもちろん、性別、年齢、家族構成、食べ物の好き嫌いとかの人柄を、出来るだけ詳細に」
そこまで言って、「特に」と付け加える。
「蔚海の側近か、もしくはそれに順ずる地位の者と、信頼厚い者」
九峪の頼みに、清瑞は何故かと問うこともせず、
「はい!」
と、力強く頷いた。いまはただ、再び九峪の命で動けることへの喜びだけが全てであった。
それはまるで、つい二年前まで続いていた二人の関係が、いまそのまま再現されているようだ。いや、再現ではない。取り戻したのだ。偶然と必然が折り重なって。
——二年。長いか短いかといわれれば、短いほうだろう。これから波乱万丈の生涯を送る人間にとっては、決して長い月日ではない。しかし、日々を想う人間には、それは百万の月日にあたいする。
会えてよかった。ふたりは心の中で、同じ想いを抱いている。
しかし。——九峪の脳裏に、あの月夜の日、胸の中に抱きしめる亜衣の姿が、ふっと浮かんで消えた。
清瑞は九峪と亜衣を結ぶ連絡役の任も受けることとなった。清瑞は多忙だが、連絡役には乱波であり、なおかつ九峪の存在を知っている者が適任だからだ。
ただし、それだけではなく、互いに出会う口実としての面もある。亜衣の想いを知っている清瑞には少しだけ心苦しいものもあるけれど、やはり簡単に抑え付けられるほど、自分の気持ちも弱くはない。
これから宗像に向かう清瑞に代わって、女中が亜衣に書状を宛てることとなった。九峪なりに手助けがしたいという思いから考えた、ひとつの『方策』を書き記した書状。非常に大きな意味を持つ文書である。
夜が明けると同時に、清瑞は阿蘇を発った。前夜に三姉妹らとともに酒を浴びるほど呑んだというのに、その細面は溌剌そのものである。
清瑞は終ぞ、明銀太のことを女中に伝えることはなかった。
浮かれていた、といえばその通りであろう。
言うに憚ったといえば、それも正しいかもしれない。
伝えるべきだったのか。伝えれば、真実を知る代わりに、きっと女中は悲しんだ。
伝えないべきだったのか。悲しまない代わりに、幻を追いかけていただろう。
結局どうすればよかったのか、それは誰にだってわからないことだ。非の打ち所のない正論でさえ、薬にも毒にもなるのだから。
それでも、例え答えが出なくとも、訪れる結末は無情に訪れる。もう遠くない未来で。