かつて阿智の所有であった屋敷に生活の場を移してから、それまで送っていた蔚海の日常は大きく変わった。なぜなら阿智の抱え込んでいた莫大な財産を相続した嫡子の唐治(からち)をも殺害して、すべて横領してしまったからだ。
財産は物だけではない。権利と人間も財産になる。阿智の権利とは、宗像海人衆を束ねる総棟梁としての権利であり、また豊前北部直方平野一円の代官権である。人間の財産とは、阿智の仕切る海人衆、仕える人足や小者や女中、そして奴隷である。その全てが蔚海の財産になった。
横領した財産の一部を側近らに振り分け、蔚海は少しずつ宗像海人衆の完全掌握を推し進めている。宗像海人衆の支持を強く受けている蔚海だが、すべては利益を期待されての支持である以上、部下への褒美は欠かせないのだ。
その側近の一人、従妹にあたる馬淵(まぶち)という女性がいる。少し赤茶けた髪の先端がわずかに波打っており、二十四歳の歳若さで、理知的な風貌がそこはかとなく落ち着いた雰囲気を垣間見せている。
蔚海は今年で三十七歳。十三歳年下の従妹だが、間違いなく蔚海の片腕として有名だ。馬淵はいくさこそ不得手だが、謀において蔚海が必ず相談を持ちかけるほどに鋭い知己を有している。阿智の暗殺にも一枚かんでいて、いまや蔚海にとってなくてはならない存在となった。
馬淵も蔚海やほか数名とともに寝食をともにしており、外部の人間が蔚海と面会するとき、かならずといっていいほど馬淵が最初に応接する。
「蔚海殿に出頭の令がでております」
幾度になることか、亜衣の遣わした伝使が吐く言葉を、馬淵はうんざりした心象で聞き流していた。
「申し訳ありませんが、その議はいささか難しいことです。我が主は先代(阿智)より引き継いだ海人衆を束ねることに腐心し、また先代を殺害した不埒者を探し出している最中にございます」
「これは宰相の令にございますぞ」
伝使がきつい語調で圧すも、意に解さないように馬淵はただ応対する。
「ですから、申し訳ないと言っておりましょう? 右手に左手に働き詰めの主を、あまりいじめないでほしいですね。それとも何でしょう、我が主の忠義を疑われますか?」
にわかに、馬淵の声調子が上がった。
「美禰城を攻め落としたとき、響灘で狗根国の水軍を打ち破ったとき。戦働きは『ならず者』の重然水軍ばかりだとでもお思いか? だとしたら何と言う不愉快。火魅子様も宰相も、我ら宗像の目覚しい働きをお忘れなのですね。星華様が火魅子になられたのも、我らの働きがあってこそだということをお忘れか。ああ、何と言うことだ」
わざとらしい素振りで額を抑えると、睨めまわすような厭な視線で伝使を射竦めた。
細長い眉のつり上がりから逆らうように細められた瞳の鋭さは、まるで一年をかけて鍛え上げられた名刀の刃もかくやと言うほどに先鋭で、かえって圧す側の伝使が上半身を仰け反らせてしまった。
座していながら馬淵の発する意気とは、それほどに圧倒的だった。いくさの弱い馬淵だが弁の立ちは百戦錬磨の将のようだ。
「われら宗像は十二の衆、三千八百の海人を束ねるもそれはまさしく大所帯。我が主が宗像の棟梁となられてもまだ日は浅く、また周辺の豪族からの期待にも応えねばならぬ身。こちらから評定へ意見しに出向くことことはできましても、急な呼び出しに応えるのは無理千万。どうかご容赦いただきたい」
馬淵の言葉はながながと途切れることがなく、亜衣の令をもって訪れた伝使は何も言い返せなかった。相槌を打つどころではない。
伝使とはただの伝言使ではない。現代で言うところの伝令将校にあたるのだが、時には在野の武将を味方にする折や、敵方の武将を味方に引き抜く折など、相手を説得したり言いくるめたりする話術に優れたものが伝使に選ばれる。
この伝使も例にもれず弁舌に自身のある男だが、馬淵は巧みに相手と会話をむすばずに、ひたすらまくし立てている。これでは持ち前の話術もまったく役に立たない。
しかしこれで引き下がっては、それこそ伝使としての自分は役立たずで終わってしまう。亜衣は実力主義で、能力の見合わないものは長く使ってもらえない。
馬淵のまくしたてが途切れた隙をついて、仰け反らせていた半身を前のめりに傾かせた。
「では、いつになったらそちらの言う『お暇』が出来るのですかな? 行けませんと言われて「はいそうですか」というわけにはいきませぬ。ここで確日をお伺いしたい」
出頭の日を確定さえすれば、蔚海とて素直に応じるしかない。伝使はとにかく出頭令を押し通そうとする。
馬淵は内心で舌打ちをした。やられたと思ったのではない。いい加減、このやり取りが厭になってきたのだ。
「忙しさの見積もりを決めろとはとんだ無体。いつになったら休まるのか、こちらが知りたいくらいですけどね。今は追々そちらへ伺い申すとだけしか言えませぬ」
「・・・・・・おぬしでは話にならぬ。蔚海殿に会わせてもらおう」
「我が主は多忙だというのが理解できませぬか。主はあなたが如き遣い走りとは立場が違うのですよ」
苛ついた言葉は小馬鹿にしているようで、対面する伝使は顔を赤くして腰を浮かせた。
「つ、遣い走りだと・・・・・・ッ!?」
伝使とは亜衣の言葉を運び伝える重要な存在だ。誇れる存在であるし、自負するものも多い。それを『遣い走り』の一言で切り捨てられることは、大変な屈辱であった。
だが馬淵の勢いは、伝使の怒りをはるかに超えていた。
「何かご不満でも? 十二衆三千八百人の頂点に立ち、豊前の名族八家、諸族二十五家に仰がれる我が主に並び立つものを、あなたは持っているとでも?」
——これでお終い。
結局、伝使はまともに言い返すことが出来ず、去り際に、
「必ず出頭していただきますぞ」
とだけ言い残して帰っていった。軒先に塩をまくという風習がまだないため、馬淵は使用人に命じて胡麻の実をまかせた。
伝使を見送りもせず、腰を上げて奥の部屋へ向かう。阿智の屋敷はそれほどの大造りではなく、むしろ質素な内構をしている。ただしっかりと組まれた床板は軋みもせず、軽量の馬淵がわたっただけでは雀ほどの音も立てない。
戸の立てつけもよろしい。藁と竹を使う鑢工(やすりく)の腕がよかったのだろう。なんら抵抗感もなく、戸があけられた。
楢の戸のむこうでは蔚海が、良質と評判な茶をすすっているところだった。茶は亜衣の荘園で栽培されたものだ。蔚海はさいきん、好んで亜衣の茶葉を使う。いずれは亜衣の荘園を飲み込むという、無言の意思表示であった。
「ご苦労なことだ」
開口一番は労う様子もない、嘲りを含んだ一言だった。
馬淵は戸を閉めると蔚海の正面に腰を下ろした。赤々と火桶には素焼きの壷がのせられ、中でお茶がぐらぐらと煮立っている。呑むときは椀に水を一緒にいれて呑むのだ。熱しすぎると茶気が消し飛んでしまうのだが、馬淵はもちろん蔚海もそんなことはしらない。
「まぁ、呑め」と蔚海に茶を勧められて、一礼して両手で椀をうけとる。茶碗に水をさすと、ほのかな茶気が鼻腔をくすぐった。馬淵は茶になれておらず、その独特な香りをかぐ度に権力を実感できる。
「そろそろ宰相もしびれを切らすころですよ」
ずずっと小さな口に茶が流れる。まだまだ苦味の強い古代の茶に、馬淵の眉がゆれた。
「今日も追い返しましたけど、あまり阿漕がすぎるのも考え物です。命令である以上、従わなければ謀反の意ありと難癖をつけられてもいたし方ありません」
「なぁに、まだ大丈夫だ。こういうものはな、焦らして焦らして、焦らしぬいてやればいいのよ」
茶をグイッと飲み干した蔚海が強気に言った。急けば仕損じるということを蔚海は、石川島事件で厭というほどに思い知った。
眠っているようにゆるく、歩いているように遅く、そして戦のように素早く果敢に。
先に手を出したほうが躓く、これはそういう争いだ。だから亜衣も無理強いをしてこない。亜衣が伝使を遣わすだけなのは、それが狙いなのではなく、いまはそれしか出来ないからだ。
それは、それだけ、蔚海にも時間的な余裕があるということ。互いに手出しできる隙を窺いあっているのだ。
この場合は蔚海のほうが有利といえる。はぐらかしてしまえばそれで終わる。
「だが、いつまでも多忙の理由が同じというのもおもしろくないな。何よりも馬鹿にされる」
「それはそうでしょうね。要領の良い人間は仕事も仕置きも速いですから」
「鈍間と思われるのも腹が立つし厭だ。だが出向くわけにもいかんぞ」
思案するが、そもそも多忙という理由自体がでっち上げでしかなく、理由を作るにも容易とはいかない。
しかしそろそろ呼び出しに応じないと拙いというのもその通りだ。
「いっそ亜衣さえいなくなればな・・・・・・」
言葉にした瞬間に、蔚海の体が小さく震えた。脳裏に張り付いた記憶の中から、血にまみれて崩れ折れる阿智の最後が思い起こされた。
——殺すか。
暗殺は諸刃の剣だが、非常に有効な手段だ。いや、殺さなくとも、亜衣を宰相の座から引きずり落とせればそれで良い。
後釜を自らが添えて、背後から実権を握ればいい。責任も何もなく、しかし国家の権益は全てこの手中に落ちる。
「何かないものか・・・・・・亜衣の失態・・・・・・」
蔚海は、沈黙して深く考え込んだ。
清瑞の様子がおかしい。
密議を交わしているとき、命令を与えているとき、談笑しているとき、表情の裏を読む業に長けた亜衣にさえ感情を読ませない清瑞が、目に見えて浮かれている。
どう浮かれているのかというと、たとえば、返事の仕方が妙に軽やかであったり、普段からはあり得ないほどに陽気で、時どき挙動に落ち着きがない。落ち着きがない、というよりは心ここにあらずといった様子でそわそわしているのだ。
最初は何だろうと小首をかしげるばかりだった亜衣だが、あの清瑞をこうまで喜ばせるほどのものなど一つしかないことに、すぐに思い至った。
——こいつ、九峪様に逢ったな。
亜衣の鋭い洞察力は確信を突いていた。そして亜衣自身がそれを確実なことだと疑わなかった。
抜け駆けされたと思うことに無理はなかった。亜衣は清瑞の想いを知っているし、清瑞も亜衣の秘められた想いを知っている。二人は二人とも、たった一人の男を好いてしまったのだ。
そんな二人だからこそ暗黙の了解がある。少なくとも亜衣はそう考えていた。今がどれほど苦しい時代か身をもって思い知らされた亜衣は、だからこそ想いを抑え付けなければならない。踊りだしたい心を雁字搦めに封じることは、百矢に射抜かれる苦しみにも似ている。
だが、しかし。その抑圧は亜衣が自らに架せた自己的使命感であって、清瑞の場合は事情がやや異なる。
清瑞もなるほど共和国を代表する武将であるし、その武名から紅玉を筆頭として香蘭・志野・遠州・亜衣らと並び賞される『耶麻台六勇士』の一人に挙げられている。ただしそれは戦時中の武功によるもので、社会的地位や立場では亜衣との間に天地ほどの距離が開いている。
亜衣が逢瀬の末に九峪との接触を控えざるを得なかったのは、宰相という立場によるもの。しかし清瑞は、軍功著しいとはいえ所詮は下位組織の長。さらに乱波として裏方に徹する清瑞の動静を注意する者が民間にいるとはどうしても思われない。
言い換えれば、他の五人よりも知名度の低い清瑞が、亜衣と同じように九峪と逢瀬を繰り返しても、噂の端にのぼることはまずないと言っていい。だから清瑞が自らに抑圧を強いる必要などないのだ。
それがわかるから、亜衣は、あえて気づかない振りをせざるをえなかった。本音を言えば、首根っこを引っつかんで前に後ろにガックンガックン揺さぶってやりたいほど頭が煮えきっているのだが、それもやはりお門違いだ。自分の抑圧は自業自得。
だから、清瑞の問題は一先ずおいておく。それよりも面白いものが、いま、亜衣の手の内にある。
「あえて外に放す・・・・・・か」
一束の木簡を見開いて、そこに書かれた文章の意外性に驚かされる。
九峪様はどう転んでも九峪様だ。そう思わずにはいられない躍動を感じた。繋がりを完全に断ち切らなかったことが、予期せぬ幸運を呼び込んでくれたものだ。
清瑞のように自由は出来ない身だが、その代わりに、こうして九峪とともに謀ることが出来る。それはただ会って話す以上に強烈な連帯感を亜衣に与えてくれる。
日和の温かい日差しが部屋を照らすなかで、するすると木簡を流し進める亜衣の高揚感は、文面を脳裏に描くたびにどんどん膨れ上がっていく。それと同じくらいに背筋に寒気も奔っていく。
「刃の上を滑るような策だが・・・・・・それでも成功すれば女王の権威は回復する」
口元に笑みが浮かぶのも仕方がない。危険なことでさえ平然と言ってのける九峪の助けは素直に頼れるし喜ばしい。九峪の一見一聞が荒唐無稽の極みにしか思えない策を実現してこそ片腕足りえるのだ。
日のさす窓を見上げると、ちょうど一羽が飛び昇るのが見えた。ヒュー・・・・・・と細く高い鳴声が聞こえた。
「誰か」
「はっ。ここに」
戸口に衛兵が傅いた。
「使番を仕立て、重然と衣緒をここに呼べ。すぐにだ」
「承知いたしました」
頭を垂れると、衛兵は足音を控えて立ち去った。途中で番所に立ち寄ったのだろう、他の衛兵が戸口の警護に赴いた。
ほどなくして重然と衣緒が部屋を伺った。重然は耶牟原城の屋敷から、衣緒は兵士の鍛錬を切り上げての参上だ。わずかな汗が額に浮かんでいるのを、首からかけた布でふき取っている。
「お姉様、この時間は兵の鍛錬をしているから、呼び出しはほどほどにしてくださいと言ったのをもうお忘れですか?」
正座で文句を垂れる衣緒を冷たい視線で見据えながら、下がった眼鏡を指先で押し上げる。
「茶飲みのために呼んだのではないぞ。お前の茶にはさすがに飽きたしな」
「まぁ! 私が試行錯誤の末に導き出した茶の湯を飽きただなんて、いくらお姉様でもちょっとヒドイと思えてなりませんけど如何に!?」
「ああ、煩い煩い! 茶なんかゆっくり飲めればそれでいいじゃないか。私だって自分で淹れるのに」
倭国で唯一と言っていいだろう茶荘園の持ち主の言葉とは思えない。
「お姉様のお茶と一緒にされるのは心外ですッ。私の茶は豊潤で豊満な味わいだとみな口々に褒めそやすのに。お姉様の何かぐらぐら煮立ててただ苦いだけではありませんか。あんなのは茶ではなくただの薬です」
「ああ、ああ、薬でも何でもいい。今日はそんなことで呼んだんじゃない。みろ、重然なんかすっかり固まっているだろうが」
言われてみると、一歩離れたところで重然が困り顔で固まっていた。茶の湯の何もわからない重然にはあずかり知らない会話であるし、そもそも姉妹の下らなくも凄まじい剣幕に圧倒されていた。
亜衣は咳払いをすると、重然を近くに呼び寄せた。
「見苦しいところを見せたな。許せ」
「いや、そりゃあいいんですがね」
ちらりと姉妹を見やる。
「昔っから、宗像の姫様がたは仲がいいのか悪いのか、解らなくなりまさぁ。衣緒様なんざ、羽江様を生き埋めにしとりましたからな」
もう五年も前の話を持ち出されて、衣緒は恥ずかしそうに顔をうつむけた。今ではすっかり笑い話だが、思い出すとやはり恥ずかしい出来事だった。
そんなことがあったのか、と亜衣が衣緒へ視線を向けたが、衣緒はそっぽを向いている。まぁ自分も昔は似たようなことをやっていたから、人のことは言えない。
「で、今日は何用でしょうや」
重然の問いかけに、亜衣が小さくうなづいた。
「蔚海のことだ」
「・・・・・・蔚海、でありゃあすか」
重然の表情が強張るのを亜衣は見逃さなかった。阿智の暗殺の裏に蔚海が関わっていると感づいている重然には、蔚海という存在は存外に大きな意味を持っている。そも、重然が石川島を失う直接のきっかけは蔚海の強行にあったのだ。重然にとって蔚海は不倶戴天の大敵だった。
重然の反応に若干遅れて、衣緒も身を乗り出した。
「蔚海が、また何かやりましたか?」
得宗家の衣緒としても、蔚海の挙動は大きな関心事だ。気にならない筈がない。
「いや、そうではない。むしろ行動を起こすのはこちらの方だ」
「なにかお考えがありやすか」
亜衣はうなづくと、小壺から布石を取り出した。それを床に置いて、それぞれを指さしながら、
「これは現政権のあらましだ。中央はそのまま中央政権、その周りに蔚海、これが重然にその他の武官。周囲を囲んでいるのは外威」
「本当にいまの政権のありようそのままですね」
「宗像海人衆が政権を取り囲んでいるな。こいつらが文官と結託して政権を圧迫しようとしているんだが」
重然と武官の布石を、蔚海の布石よりも内側に移動させる。蔚海の布石が外側に移動されるのを、重然と衣緒が真剣に見つめている。
「それを天草水軍や他の諸勢力で防ごうとするのが、今まで私が描いてきた戦略だった。そのために重然には耶牟原城にとどまってもらっている」
「そりゃあわかりやすが、では、今度はどう違うんですかい」
「内部に深入りさせないのは常等手段だが、それでは互いに反発しあうだけだ。お前だって蔚海には腹がたっているだろう」
「へ、へい、そりゃあ」
「悪いが、これからは今まで以上に我慢してもらう事になる」
「へ?」
重然が間抜けな声で聞き返した。
亜衣が蔚海の布石を指先で摘みあげると、それを中央政権へと投じた。それはあたかも亜衣自らが蔚海を迎え入れたようで、重然と衣緒の眼はこれでもかというくらいに見開かれた。
「お、お姉様ッ、なにを!」
「騒ぐな、衣緒。核心はこれからだ」
鋭い一言に黙りこくった衣緒を一瞥して、視線を重然に向ける。
「これが結論だ。どういうことか、わかるか、重然」
布石を見つめる重然の喉がごくりと脈動した。亜衣の言わんとしているところが、決して鈍くない重然の思考が理解した証拠である。
動揺していると、となりの衣緒も気が付いた。衣緒は亜衣の意図するところがいまいち解することが出来ないが、重然の様子を見る限り、かなり大それた事を行うつもりのようだ。
もういちどつばを飲み込むと、無造作に蓄えられた顎鬚をぞりぞりと撫でさする。ふぅッ——と、ため息がもれた。
「・・・・・・これはこれで危険ですぜ。いや、危険なんてもんじゃねぇ、気が触れてるとしか思えねぇ」
「えっと・・・・・・どういうことですか?」
困惑気味に衣緒が尋ねると、脱力している重然が布石に腕を伸ばして、亜衣の狙いを解き明かす。
「あっしら天草水軍は、蔚海が政権を奪取しないように目を光らせる『抑止』として結成しやした。亜衣様が構築した防衛線もその『抑止』です。この抑止があるかぎり、蔚海は政権への参画ができやせん」
布石の位置を変えながら説明を進める。その様子を亜衣は満足げに眺めている。
重然の指が、亜衣の構築した防衛線をすべて破壊した瞬間、衣緒の表情がまたも驚愕に染まった。
「そんなことをしたらッ」
「とうぜん、蔚海の野郎が政権に侵入してくるでしょうな」
衣緒が重然の瞳を強く見据えた。簡単な言い草だが、事実はかなり複雑だ。
重然ら対抗勢力の布石がすべて崩され、蔚海の布石が中央に置かれた。それは亜衣と蔚海が並んだ事を意味している。
蔚海の中央への干渉は本人にとって望むところだろう。蔚海が宗像神社から強制的に耶牟原城へ圧しかけたのは、すべてがこのためである。それを亜衣はひたすら拒み続けているのだが、蔚海の勢いはそれを凌いであまりあるものとなっている。
野心渦巻く蔚海を参画させてしまうことがどれほどの危険を孕んでいるか、想像できない亜衣ではないはずだ。
これには重然でなくても、気が触れていると思って仕方がない。
「正気の沙汰じゃないわ、こんなの・・・・・・」
「左様。気でも触れんかったら、こんなこと思いつかん。・・・・・・だが利点もたしかに大きい」
重い口調で重然が言った。
「亜衣様は政権に含ませることで、蔚海の動きを防ごうって魂胆でしょう」
一言々々をしっかりと口に出しながら、言っている重然自身が粟立つ思いだった。恐ろしい、という感情で神経が震えているのではない。臓腑の奥から血液が沸騰してくるほどの怒りから、腕が足が粟立ってしまうのだ。
蔚海が政権を担うような事態になったら——本気で叛乱を起こすかもしれない。それこそ九洲全土を巻き込むことさえも厭わない大乱を起こす。どれほどの血を流すことよりも、重然は怒りに狂うかもしれない。
だが亜衣の中に、それほどの恐怖も不安もない。それどころか、亜衣は、重然の危惧を嘲笑うかのように不敵に笑んでさえみせた。
「なかなか鋭い見識だ、重然。たしかにな、お前たちの不安もわかる。私もそれが怖くて、ずっと蔚海の参画に対抗してきたんだからな。だがそれでは、どうしたってジリ貧でしかないんだ。一歩でいい。恐怖を超えた一歩が必要だ」
それには、と亜衣が布石を動かす。
「蔚海には地位をくれてやる。評定衆にも列席させよう。意見も聞いてやろう。やつにはそれらと一緒に破格の権限を山ほどつけてやる。——だが奴には何一つやらせない。ただそこに置いておくだけだ」
亜衣の目が細められた。遠眼鏡ごしに黒曜石のような瞳に鈍くも輝く光があった。
まるで氷のように冷たく凍てつく語気に、衣緒も重然も息を呑んだ。背筋が凍りつきそうな恐ろしさが、亜衣の全身から放たれている。
「私は火魅子より政の一切を取り仕切るように命ぜられている。それが宰相だ。私が宰相だ。この耶牟原城から、火魅子に代わって九洲の津々浦々へ号令を出すのはこの私だ。断じて蔚海などではない」
亜衣の冷徹な気迫に圧されて、二人は無意識で首を頷かせていた。有無を言わせないものを亜衣は吐き出していた。これに逆らうことなど出来はしない。
「用意した抑止はそっくりそのまま、蔚海を縛り付ける鎖とする。すなわち武力閉鎖だ。・・・・・・蔚海をただの飾り物にするぞ。そのためには、重然、お前が必要だ」
「あっしが・・・・・・」
「宗像海人衆は強大だ。しかし、だ。蔚海が政権で専横を振るうことを嫌っている豪族は山ほどいる。お前がそいつらの音頭を取って、蔚海のすぐそばに居座っていろ。お前がいる限り、蔚海は武力にモノを言わせることは出来ない」
「へい」
重然が頷いた。宗像海人衆が絡むと、重然は、ことのほか素直に言う事を聞く。重然の心をつかんだ亜衣が衣緒へと視線を向ける。
「衣緒、お前にも力の限り働いてもらわなければならん。これは海人衆と得宗家の戦い——いざと言うときにはお前が頼りだ」
力の篭った声で亜衣が告げた。
得宗家の軍事力の総括は衣緒が行っている。当主こそ亜衣であるものの、亜衣には宰相としての責務がある。代わって衣緒が得宗家の代理当主を務めている。得宗家の戦力は、また『亜衣親衛隊』とも呼ばれる精鋭部隊だ。
重然が外威の豪族を、衣緒が武官を、それぞれに組することには大きな意味がある。これに音羽や遠州などの、旧九峪直臣団が帰還さえすれば、蔚海の権力などすべからく形骸化できる。
そう、すべては派遣団の帰還にかかっている。九峪からの書状にも、そのことが明確に示されていた。北山の戦況が好転したからこそ、九峪もそう判断したのだろう。
重然と衣緒は、派遣団が帰還してくるまで蔚海を政権内で封じる役目を負っているのだ。
「頼んだぞ。これはお前たちだからこそ任せると決めたことなんだからな」
亜衣の言を頭上に受けて、二人は表情を引き締めて平伏した。
渡邊の平陽は度肝を抜かれていた。
渡邊でもっとも収益の高い青芋の行商のために天草諸島を経巡って薩摩県へ赴いたおりに、ひとつ、とてもではないが聞き逃せない噂を聞いてしまったからだ。
——蔚海が右大尉(うたいい)に就任した、というものだ。右大尉は武官の高階級で、殺害された明銀太などの警徒使、重然のような提督に匹敵する。この右大尉の下に、右中尉、右少尉と続き、その下が左大尉となる。従五位は左大尉階級に相当する。遠州の中校尉は左少尉の二階級下となる。
右少尉以上で領地を持つものを『太守』とも呼ぶ。蔚海は得宗家の根拠地の聖地宗像を蔚海に与えたことになる。これは一見して、得宗家が海人衆に屈した構図にも映る。
渡邊党も反宗像海人衆の旗を掲げている。青芋などの商いで陸路をいく場合は、当然宗像の近くも通過するのだが、海人衆のかける通行税は飛びぬけて法外なものとなっていた。売り上げ以上の税を払わされたといって、息子たちが泣き付いてきたこともあった。
蔚海が宗像太守だと? そんな馬鹿な話があってたまるものかッ!
話を聞いてから平陽は、いてもたってもいられなくて、返す踵で本拠の渡邊城へと引き返した。
青芋の商隊が続々と居城に入っていく中、平陽はひとり馬を駆けさせて馬小屋へ向かった。次男と四男が出迎えたのだが、いつもは温和な表情の平陽が珍しく怒り顔だったのでびっくりした。
「お、親父どの。どうなさいました?」
つかつか歩き出した平陽の後ろで、躊躇いがちに四男が尋ねた。四男は十六歳になる。
足を止めずに、平陽が「どうもこうも」と苛立たしげに呟いた。
「あの蔚海が右大尉になりおった」
とだけ言われた息子たちは、足が毒蛇にかまれたかのようにしびれて動かなくなった。
平陽との距離が十歩ほど開いたところで、息子たちがあわてて駆け寄った。目が開きすぎて頬の筋肉が攣っているのも気づいていない。
「う、蔚海って・・・・・・あの蔚海が?」
「そうじゃ」
「あ、あの、わしらから売り上げどころか残った青芋まで分捕りあげた、あの海人衆の?」
「そう、その海人衆の、蔚海じゃわい」
はた、と、またもや足が止まった。息子たちが互いの顔を見合わせて口を大きく開けている。
けっして大げさな反応だと思わない。平陽も行商で同じ思いを抱いた。驚きのあまりに脳みそがぶっ飛んで、飯も食えん眠れんの毎日だった。いまは驚きが吹雪のように吹き荒ぶ怒りの下に埋もれているだけだ。
じきに息子たちの驚愕も憤怒に変わる筈だ。とくに次男は売りにいく途中、通行税の代わりに青芋と材木をすべて奪われたのだ。身包みまで剥がされて、ぼろきれに身を包んで帰ってきたときのあの惨めさは相当なものに違いない。
阿智が棟梁だった頃はまだよかった。横暴は末端のみで、まず阿智自身がそれら重税を認めていなかったからだ。阿智に物申せばまだなんとかなった。
しかし蔚海が相手では無理だろう。蔚海の悪名は田舎豪族の平陽にも十分にきこえている。
「右大尉っちゅうたら、わしらよりも偉いじゃないですか。ええっと、従五位が左大尉だから——・・・・・・三つ上じゃぁ」
「重然の旦那様と同じくらいかの、兄者」
「おう、それくらいじゃ」
「親父どの、こりゃエライことですぞ」
「そんなことはわかっとる」
居間にどっかと腰を下ろして、憮然と言い放った。
「宰相様はなにを考えているんだ・・・・・・」
亜衣がまさか宗像の聖地を明け渡すとは努々思わなかった。これでは地方の豪族たちの落胆が激しかろうことくらいわからないはずがない。
本当に蔚海に屈したのか、それともこれは何かの策か。平陽には真相を知りえるほど見識の広さはないが、とにかくも知らなければならない。そうでなければ渡邊党の進退に大きく関わる。
どうすればいい・・・・・・。
「重然の旦那様が、なにか知っておるのではありませんか?」
不意に次男が口を開いた。進退の危機に頭を悩ませていた平陽が、光明を見出した眼で次男を見つめた。
「旦那様はいま、耶牟原城におわすと聞いています。宰相様の信任あつい旦那様なら、なにか知っておるかもしれません」
——有り得る。
次男の以外におもえた一言が、平陽の背筋に力を注いでくれた。かつて長男を戦で亡くしてから、この次男は目に見えて聡明に育った。なかなか鋭い洞察力に、平陽も次男を跡取りにと考えている。
重然様か。たしかに何かを知っていてもおかしくはない。第一、こんな事態に重然様が黙っているはずがないのだ。
「・・・・・・よし」
腹を据えて声を絞り出した。でっぷりと肥えた体躯を軽やかに立ち上がらせると、帰ってきたばかりだというのに再び外に出た。
「お、親父殿?」
「耶牟原城へいく」
「へ?」
息子たちが間抜けな声を上げた。平陽は脱いだばかりの毛皮を羽織りなおした。丁度そこに三男が姿を見せると、三男に向かって、
「おい、もう一度出るぞ」
「ええッ!? いま帰ってきたばかりじゃないすか」
「いいから行くぞ」
「え、ちょっ・・・・・・えぇ?」
三男が父親と兄弟を交互に見比べて、狼狽もあらわに右往左往している。しかし平陽が馬に跨って目の前を通り過ぎてしまうと、大慌てで馬小屋へと駆け込んでいった。
倭国産の駄馬は鈍足で、駒木の名馬に比べるべくもない。平陽は石が歩いているような鈍い振動に肉を揺らしながらも、ふと、心中で、
——まだしばらくは振り回されそうだ。
とため息をついた。三男が護衛をつれて背後から迫ってくる音が、昼下がりの山中に響き渡っている。