火魅子の院宣を賜って右大尉に昇進した蔚海は、意気揚々と長裾を揺らして、評定方へと姿をみせた。
評定方へ『正式』に参列するということは、国政を担うに足るという、まさにそのことである。現代でいえば、衆参院選挙に当選して国会に出席するか、もっといえば、各省の大臣に選出されたとも捉えられる。
現在、評定衆には『宰相』『大将軍』『大臣』『知事』が列席している。大臣は、『大蔵』『律令』『普請』『外廻』の四つのポストがある。知事は地方在中のため、大会議などの時にしか評定には出られない。ただし、耶牟原城の内乱以降に『武行』が制定されてからは、火向知事の志野と火後知事の藤那が、評定に参加している。
薩摩水軍提督の重然は、香蘭の部下である。対して、右大尉で直方平野の太守の蔚海も、豊前知事の下に置かれている。しかし、太守は提督と違って領有が認められ、地方自治権ももっているため、税さえ納めていれば極度な干渉を受けることはない。
それどころか、知事が自身の代役として太守を評定へ向かわせることもある。武行に任ぜられていない伊万里も、仁清とともに太守を代理に仕立てている。
評定の間は、奥行き七尺二寸、幅五尺、高天井に無骨な梁が剥き出しのどっしりと安定した構えをしている。大講堂の中央には大理石を削って作られた大床机に桜で作られた椅子が並べられ、そこにはすでに、幾人かの評定衆が座していた。
蔚海が鴨居を潜ると、視線が一気に蔚海の細身を貫いた。蔚海は足を止めて、軽く首をめぐらして居並ぶ面子を確認した。知らない顔が多かった。
視線はどれも好意的ではないが、一部だけは友好的でもあった。すでに座っている律令大臣は文官筋で、蔚海の有力応援者である。ほかにも、いるかぎりの文官はみな、蔚海の味方であった。
「やぁ、やぁ、蔚海殿。このようなところで見ゆるとは、なんともはや、これは火鏡の思し召しかの」
座した蔚海に気安く声をかけたのは、恵比須顔という言葉が板につく大蔵省の役人であった。只深の部下であるこの男は、宗像海人衆と癒着している。
蔚海も何度かあったことはあるが、名前は覚えていない。火鏡という言葉から、どうやら火向の出身であるようだ。
とりあえず話は合わせておこう。大事な『仲間』であることに変わりはない。
「まったくですな。太守に任ぜられたといえ、まさかいきなり評定衆に選ばれるとは、夢にも思いませんでしたな」
「いや、これはなるべくしてなったこと。それと火鏡の思し召し。蔚海殿の実力を天下が認めたということですぞ」
「いやいや、よいしょがお上手だ。まだ、煽てられるほどのことはしておらぬというのに」
「ご謙遜いたしますな。蔚海殿は謙虚なお方ですな。やや、太守たるもの、変に尖っていない方がよろしい」
——随分と持ち上げるな。
大蔵役人のあざとい言葉の端々に、とにかく蔚海を誉めそやして自身の印象を良くしようとする意図が見て取れた。
蔚海の周りを取り巻く人間は、みながみな、得てしてこのような反応をしてくる。まるで誘蛾灯に群がる虫のように、甘い汁を吸おうと有象無象が声かけをしてくる。
煩わしい、とも思うが、邪険にするわけにもいかない。これは役目なのだ。
この時代に珍しく、共和国の会議には給仕が数名、茶を供するのに立ち回っている。身分の低い小間使いは入室すら許されないのが常識だが、九峪と亜衣が人手を使うと効率が上がり、またその分の働き口が出来るとして推し進めた政策の名残である。
ズズッ——・・・・・・。すすった茶の味に若干の驚きを感じる。苦味・渋みが自分の淹れる茶よりも少なく、そのくせ、香りはほのかにも際立っている。九洲ないし倭国中に出回っている茶葉は、九割以上が亜衣の荘園から出荷されたものだ。優劣はあろうが、蔚海の仕入れる茶葉も高級なほうで、味に大した違いなどないはずだ。
評定ではこんな茶が出されるのか。それは、長く日陰で生きた蔚海には衝撃だった。
「——お」
蔚海が声を上げた。小さな声だ。鴨居に頭が隠れるほどの巨体が、ぬうっと講堂に入ってきた。
提督の重然である。提督といっているが、正確には『水守(みずのかみ)』という役職だ。これは『海の太守』という意味である。
座する蔚海に立っする重然、二人は目が合った瞬間に、すべての動きを止めた。視線一戦、火花を散らすも、すぐに互いの視線を外す。重然は蔚海の対面に腰を下ろした。
場が一気に静まり返った。二人の因縁は、周囲から静寂を頂戴するほどによく知られていた。
重然の登場で、また、空気が険悪になっていくのも肌で感じられる。
「宰相が参られました」
戸口で、給仕の一人が一同に聞こえるように、亜衣の到着を告げた。
慌てて居住まいを正す評定衆。わずかに緩んだ緊張感の中へ、まず最初に、亜衣の身辺警護を司る衣緒が姿をみせた。
衣緒が最初に入出し、その後に亜衣が姿をみせる。衣緒は決して自分だけが先行せず、また後ろからついても行かない。つねに亜衣の傍に立ち、かならず評定衆と亜衣の間に入っている。こうすることで、暗殺を未然に防いでいるのだ。
亜衣が席に着く直前、評定衆は必ず腰を上げる。そして亜衣の合図でいっせいに腰を下ろすのだ。蔚海もその仕来りはしっている。
「評定を始めよう」
亜衣の一言で、十日ぶりの評定が幕を上げた。
「——ッ!」
秋口の涼しい夜中。
寝苦しい気温ではないだろうに、先ほどまで静かな寝息を立てていた九峪は、大きな地震でも感じたように突然、麻布団を跳ね除けた。
声は出さなかった。ただ荒い呼吸が肺を痛々しくこき使い、そのくせ気孔は細って、苦しそうな呼気が静粛な部屋に虚しく聞こえた。
肌は汗ばみもせず、安らかな眠りにあったことが伺える。しかし、いまの九峪の姿は、まるで悪夢を見たように疲労困憊としていた。
心はざわめいている。だがそれだけだ。
「・・・・・・ふうッ」
無理やり呼吸のリズムを正すと、ずくんっと肺が軋むようにいっそう強く痛んだ。
髪を掻き揚げて、再びふとんに身を沈める。音がなくなると、今度は音のない音が聞こえてきた。耳の奥にだけ聞こえてくるようなその音は、現代の喧騒の中では決して聞こえてくることのない神秘な音色だ。
次第に鼓動も大きくなっていく。九峪はまぶたを下ろし、二度目のため息をついた。
「もうすぐ、くるよ・・・・・・」
言って、それが、自分の言葉のように感じない。自分じゃない、どこかの誰かの言葉に聞こえる。
「・・・・・・だから何がくるってんだよ」
文句をつける九峪の胸中は、軽口とは裏腹に揺れ動いていた。
いつか、九峪がみた不可思議な夢。女性——だと思う、輪郭と部品をまったく感じさせない無象に、大きく眩い存在感をのせた『誰か』の声。手の届きそうで届かない歯がゆさの中で、一言だけ聞こえてくる優しくも儚い言葉。
もう、何度かあの夢を見ている。最初はただ不思議だった。だが何度も不思議な体験をしていくうちに、徐々に恐怖心が大きくなっていく。ただそれは、夢が怖いのではなく、なんども見ているのにまったく理解できないということと。
なぜか、不安になっていくからだ。じわじわと湧き上がるように、不安と焦燥がこみ上げ、怖くなってしまうのだ。
何かをしなければならないと、意味もなくそう思えてしまうのに、なぜそんな事を思うのかもわからない。いや、そんな明確に思えていることにさえ気づかないから、よりいっそう正体のつかめない闇に怯えてしまうのだ。
こんなことならいっそ、どういう夢だったのかということさえ、覚えていないほうが良い。そうすれば、不安だが、それだけで終わった。覚えているから、何かを成さねばという妄想に囚われてしまうのだ。
何か——。それさえわかれば。
ット
「ん・・・・・・?」
戸のかすかにすべる音がした。暗い部屋の中に、少しだけ開けられた戸口の隙間から、ちょうど中秋の満月が覗き見をしていた。
もう住み着いて一年になる山猫が、戸をあけてゆったりと歩み寄ってくる。
「夜行性にもほどがあるだろ、オイ」
すでに夜中も夜中だ。草木さえ眠りにつくような清暗なのに、山猫はあくび一つせずに、九峪の隣に来た。
にゃっ にゃー
「・・・・・・な、なんだよ」
暗がりで姿がよく見えないが、山猫の獣眼だけは爛としているのがわかる。見上げる瞳は、何かを訴えようとしている風に見えた。
山猫の視線に理由なき不安を抱いて、布団の裾を強引に引っ張る。とにかく何でもいいから抱きしめたかった。
布団にもぐりこんだ九峪は、瞼をぎゅっと閉じた。寒くもないのに身体を丸めた。
しばらく何も考えないようにして、ただ音にのみ意識を向けた。もう夜虫の音色の聞こえてくる季節ではない。すっかり音の少なくなった夜に、自分の呼吸音と鼓動の響きが聞こえて、布団の外の猫の存在をも音に聞いた。戸の向こうで眠っているだろう、女中と魔兎族三姉妹の寝息さえ聞こえているようだ。
——音なき音。無音の中に聞こえる静謐な静音。それは、たった一人で迎える砂漠の夜や、冷たく澄み切ったシベリアの夜に聞こえてくるという。それを幻聴と呼ぶかは人それぞれだが、九峪はたしかに音なき音を聞いていた。
音なき音をかき乱すように、山猫が小さく短く鳴いている。けど、そんなものももう無視して、九峪は何も考えない。
猫が鳴かなくなった。鳴かなくなった代わりに、山になった布団のふくらみの上に乗っかって、ささやかな重圧をかけてきた。
「・・・・・・腹いせのつもりかよ」
そのまま眠りについた山猫にむかって、考える事をやめた九峪は、せめてそれだけを口にして眠りに落ちた。
目覚めはいつも通りの時刻だ。朝靄が住居を包み込む朝、戸を開け放った九峪は寝ぼけ眼に空を見上げた。
少しだけ白けた空は、その向うに擦れる群青を映している。このむせ返りそうな霧が晴れたなら、見えるのは群青よりもなお蒼々とした蒼穹であろう。
ふあぁ〜・・・・・・
大きなあくびを一つ。目じりに涙がうっすらと滲み、指さきで拭い去った。
「——あっ。おはようございます」
ぼーっと空を眺めている九峪に、洗濯のために表へ出てきた女中が朝の挨拶をしてきた。大きな籠を両手に抱えた女中に挨拶を返して、また顔を空へ向けた。
いつもは笑顔とともに、軽い会話を返してくる九峪が、今日に限っては妙に淡白だ。物憂げという感じではないが、なにか心に蟠りを積んでいるのか、表情に冴えがなかった。
——どうしたのですか?
そう声をかけようかとも思ったが、やめた。神の遣いが心煩うことを、凡人の自分が聞いたところで如何ほどのことがあろうか。
心に小さなひっかかりを感じても、女中は黙って洗濯をするために洗濯場へと足を向けた。いまの自分に出来ることは、昨日一日で汚れた衣服を綺麗にすることだ。
「・・・・・・」
小さな足跡を耳後に残して、九峪の思考は鈍ったままだ。この朝霧のように、頭の中ももやがかかっている。
ふと振り返る。山猫はとっくの昔に姿を消して、崩れた布団だけが一休みをしている。もう夜になるまで、この布団に出番はない。
いつも片付けは女中がやってくれるのだが、今日は珍しく、自分で布団をたたんだ。現代の布団と違い、柔らかくもない麻編みの、まるで茣蓙のような固い布団は、思うように折り曲がってくれない。
「む・・・・・・ん、んん?」
何度も挑戦しているうちに、布団はどんどん形を崩していく。でも人間は不思議なもので、こう何気ないことが上手くいかないと、放り投げるか意地になるかの二択に考えが絞られる。
九峪は、変なところで意地になる男であった。
「・・・・・・どうだッ!」
ようやく布団をたたんで、部屋の隅へ移動させると、頭の目覚めも丁度いい頃合だ。くだらない達成感で心を満たすと、濡縁をおりて台所へと向かった、
兎奈美が川から汲んできた水で洗顔し、麦の水雑炊で朝餉をすませると、今日一日がようやく始まる。
魔兎族三姉妹は、今日も住居周辺の見回りに出かけている。三姉妹のおかげで、九峪が阿蘇にいるという噂がかなり信じられているのだが、それでもこの見回りだけは欠かすことが出来ない。というよりも、いまやめてしまったら、それこそ九峪が発見される危険性が高まってしまう。
さて、今日一日が始まったのだが、九峪にはやるべき仕事がない。日がな一日ひまを持て余している。ただしそれも、つい最近までの話だ。
文机に向かって、九峪は一冊の書を開いた。中には九峪が考え付く限りの『やりたいこと』が事細かに綴られている。
——学校を開く。
——ヨーロッパやアラブとの交易を拡大する。
——もっと自由な商業を展開する。
他にも沢山ある。
学校は開いたが、教えられるのは文字と計数以外には神学しかない。儒教はまだ倭国には浸透していない。対象者も裕福な豪族の子息だけで、下層民に門戸は開けていない。
ヨーロッパやアラブなど西方との交易も展開している。しかし規模はきわめて狭い。九峪には西方の存在に関する知識はあるものの、如何せん距離がありすぎるし時間がかかる。只深は西方との気脈を持っておらず、何かにつけては大陸へと赴いて現地の商人と接触を重ねている。西方交易ではむしろ天目のほうが幅を利かせていた。
商業も自由な市場を作ったつもりだ。とはいえ、基幹産業が農業の古代日本で、しかも貨幣制度がまったく認知されていない狭い界隈で、商いはなかなか広がらない。九峪は『観光産業』の開拓で外国からの物資の輸入を図ったが、残念ながら実施する前に失脚してしまって構想は泡と化した。
いつか、この書を亜衣に届けたい。亜衣ならいくつかの政策を実現できるはずだ。発想と実施はどうしても結びつかない。九峪に実施は不可能といっていい。亜衣ならもっと上手くやってくれるはずだ。
——これも未練かな。
自嘲的な感慨に苦笑いした。もう笑うしかないほどに滑稽だった。
筆を取って、『やりたいこと』を考える。幾夜幾朝も考えていたはずなのに、なんだか思い浮かばなかった。まだ完全に目覚めていないようだ。
しかたなく、九峪は書をたたんで籠に仕舞いなおした。藁で編んだ籠を文机の横に置いて、しばし今日一日の過ごし方を考えた。
特に何も思い浮かばない。九峪にとって、読み物と書き物だけが唯一の暇つぶしだ。読んでいて特に楽しくもない孫子や六書だってもう読破した。読み返す気になれなかった。
まだ朝靄が掛かっているが、霧の日は必ず晴天に恵まれる。家の周囲から離れることは出来ないけれど、少し心が沈んでいる日は、外に出るといいかもしれない。
——よしッ。外に出よう。
そう心中で言葉にして、立ち上がった瞬間。
ぐ
ら
ッ
「——ッ」
急激なめまいに脳髄を揺さぶられて、中腰の姿勢のまま、九峪の体が前のめりに倒れこんだ。
咄嗟に、神経が防衛本能の言うがままに腕を瞬間だけ支配して、辛うじて上体だけは支えることが出来た。ただ、その間、九峪にはまったく手を動かした自覚はなく、脳が視界を認識したときには、目の前に床板が迫っていた。
世界が半転したことにも直ぐには気づけなかった。遅れて呼吸が喉を駆け上り、げほッ、ガホッ、と苦しげに咽んだ。
「——ハァッ——ハァッ——?」
呼吸が正常に戻りつつある。体が急激に重くなったように感じた。夢を見たときにもかかなかった脂汗が額に滲む。方膝を立てて立ち上がろうとすると、体が傾いて横に転がった。
「——ハァッ——ハァッ——」
仰向けになると、身体が随分と楽になる。静まる呼吸、思考が徐々に回復していく。
——何があった? いま、どうなったんだ?
それだけを考えることが出来た。めまいに襲われたことすら朧気で、気づけば地面を睨んでいたのだ。混乱しても不思議はなかった。
貧血か。ありうる。九峪は生まれてこの方、貧血を経験したことは一度しかない。『響灘の戦い』のとき、火責めで狗根国兵を生きたまま炙り殺しにしたとき、こみ上げる気持ち悪さに貧血を起こして倒れた経験があった。
あのときに似ているといえば、似ているような気もする。
「・・・・・・ふうッ」
大きく息をついて、もう一度、腕に力をこめる。今度は安定して身体を起き上がらせることが出来た。
少し無理をして、膝歩きで戸に近づいて開け放つ。風はないけど、それでも、外の空気がさわやかに九峪をなでた。
雀の輪唱に耳を欹て、しばらくじっとしていると、今日はもう何もやる気がしなくなった。まだ一日の前半部、気力は底を尽いてしまった。
チュチュンッ チュンッチュンッ
風と林と雀の音が心地よい。その中で、作為の音が混じった。
「九峪さまー。いますー?」
足音と一緒に聞こえてきたのは、忌瀬の声であった。
「・・・・・・忌瀬?」
立ち上がろうとすると、まだ上手く足が動いてくれなかった。放って置いても女中が対応してくれるだろうと、九峪はこのまま部屋で忌瀬を待つことにする。
おそらく玄関からだろう、話し声が聞こえてきた。本当に声量は小さいけれど、かすかに兎音の声も混じっている。見回り中だった兎音が案内してきたのだろう。
「はーい、九峪様。頼れる忌瀬ちゃんですよ〜」
陽気な声で忌瀬が部屋を覗き込むと、九峪はできる限りの声で「おう」と返事をした。
「あれ? 九峪様、そんなところで何してんです? 新しい遊び?」
戸口に座っている九峪を見下ろして、忌瀬が首をかしげた。もちろん遊びでもなんでもない。
九峪はどう応えようかとも考えたが、面倒だったので応えなかった。ただ「そんなわけあるか」とだけ応えて、忌瀬を部屋に招き入れた。
九峪の部屋には来客用の茣蓙が常備されている。それは、寝食をともにしている女中や三姉妹が日常的に使っているし、少し前までは亜衣、最近では清瑞が使っている。そのほかに、あと一人、忌瀬もよく腰を下ろしている。
九峪の隠遁場所に通っているものは、亜衣と清瑞だけではない。例外として忌瀬も九峪の元を訪れていた。九峪の健康を管理するためである。こればかりは、他の薬師や医者に任せるよりも、忌瀬に一任したほうが安全である。
忌瀬は、定期的に九峪の元を訪れ、検診をしている。今日も検診日だ。
「はーい、服をぬぎぬぎしましょうねー。キャハ」
「・・・・・・キャハっていえる歳じゃないだろう、もう」
「あん、ひどいこと言わないでくださいよ〜。昔ならそんなこと言わなかったのに」
両頬を押えて心外を表現する忌瀬に、冷え々々とした視線を投げつけた。忌瀬も今年で三十五歳となった。ただ、外見は変わらず二十代半ばで通用するほどに若々しい。何かしらの秘術を心得ているらしく、この若さを保つ秘薬は天目も未だに愛用している。
上着を脱いで、忌瀬の検診を受ける。九峪の身体を検診するようになってから、忌瀬は薬学だけでなく医学も学ぶようになり、常に医療器具を携帯するようにしている。金細工師に作らせた特注の聴診器が胸に当てられ、ひんやりと微熱を奪う。
「胸板、胸板♪」
「男に飢えてるように聞こえるんだけど」
「男ってゆーか、九峪様に?」
「一月前にも来ただろうに」
「恋する乙女には〜、一月は長すぎるんです〜。・・・・・・はい、大きく息を吸ってぇ」
「ったく・・・・・・」
勢いよく空気を吸い込む。ほんの少し前まで無理を強いた肺が、ズキリと軋んだ。
呼吸の乱れに、忌瀬の眉がかすかに揺れた。たんに咽ただけかも、と思ったのだが、忌瀬には鼓動のリズムに不審感があった。
——なーんか、速いなぁ。
そう思いながらも、聴診器を移動させていく。心臓、肝臓はもちろん、横隔膜の運動から、すい臓、腎臓、肺胞の異常もつぶさに調べていく。
鼓動の速さを除けば、異常らしい異常はなかった。鼓動の強弱にしても、血圧の調子で変動する。速いのならば高血圧、遅いのならば低血圧だ。
聴診器を胸からはなして、忌瀬は九峪の顔色を観察した。
ふと、九峪の顔色がすぐれていないことに気がついた。
「・・・・・・九峪様、もしかして今日、体調わるい?」
忌瀬の胸中に、小さな不安が募っていく。何かしらの前触れ——そんな気がしてきた。
体調が悪いかといえば、たしかに悪い。健常であればそもそも、あんな立ちくらみなど起きないはずだ。九峪自身は大したことじゃないとも思っているのだが、忌瀬には大事に映ったのかもしれない。
「じつは・・・・・・」と、九峪が先ほどの眩暈を忌瀬に説明した。ただの貧血だろう、と九峪は楽観的に語ったが、話を聞いている間の忌瀬は、不思議に思えるほど真剣な顔をしていた。
「・・・・・・貧血」
「朝起きてすぐだったしさ。夢見も悪かったから」
「夢、ですか。どんな夢ですか?」
夢の内容が体調に影響を与えるということは、何百年も前から知られている事象だ。『夢症』とよばれ、吉夢ならば体調は良好に、悪夢ならば頭痛や倦怠感などを引き起こす。
九峪は夢の内容を話すかどうか、わずかに逡巡した。夢の内容が意味不明なのは、おそらく誰でもそうだろうが、九峪には、あの夢がただの夢には思えないからだ。
それはきっと、何かを成さねばならない、という根拠のない理由から来るものだろう。それを誰かに話すべきなのか、わからないのだ。
ただ、話せば少しは心が軽くなるかな、と思ったとき、九峪の中から迷いが消えた。忌瀬は九峪にとってよき相談相手だ。話すだけでも相手の気持ちを高めてくれる忌瀬に、たとえ不可侵の領域でも話せるだけの信頼感は持っている。
出来る限りわかりやすく、無実の夢を語って聞かせる。話しながら九峪は、改めて意味がわからないなと思った。だが、ここでも忌瀬は、真剣な表情で耳を傾けていた。いったい理解しているのだろうかと、九峪は不思議に思った。
「・・・・・・」
「意味わかんねえだろ? 俺だってわかんねえからな」
忌瀬の沈黙を不理解と捉えた九峪が、苦笑いしながら言った。
仕方がないといえばそれまでだが、そうとしか言いようがない。筋も脈絡もない、それこそ荒唐無稽の過ぎたる話なのだ。むしろすぐに理解なんかされた日には、『忌瀬神社』を建立して、御神体として忌瀬を奉ることも辞さない。
だというのに。冗談めかして苦笑する九峪とは対照的に、無言に押し黙る忌瀬。
——古来、夢とは『神霊の賜物』とされてきた。神霊、すなわち精霊が、災厄を知らせ、道標を与えるために、夢を介すると信じられた。そして事実、精霊は夢を介して人々に訴え語った。
火魅子の鬼道は、本来なら精霊からもたらされるそれらの情報を、逆にこちらから人為的に要求する魔法である。巫女の素質を持つものは、みな鬼道をもって精霊とともにある。
ましてや、九峪は神の遣いである。神の遣いの脳裏に克明に刻まれた夢模様が、ただの小さな夢であると、忌瀬には努々おもえなかった。
きっと、大きな意味を表している。『何かが来る』と言っているのならば、それは、いつかの未来に何かしらの大きな出来事が起こる事を暗示しているのではないか。
忌瀬の予想に無理はなかった。
「あのー・・・・・・忌瀬?」
呼びかけられて、忌瀬がはっと顔を上げた。沈黙に不安を抱いた九峪のわずかに揺れる視線が、忌瀬の意識を急速に呼び戻していく。
黙られることに、人は言い知れぬ不安を感じる。忌瀬の危惧は、沈黙という人を不安にさせる行為を伝達して、九峪を怯えさせていた。
——考えるのは後にしよう。
『病は気から』が原理の夢症を思って、九峪の気をもませたところで、体調をより悪くさせるだけだ。いまは、九峪に無用の心配をかけさせないことが先決だ。
忌瀬は、道具箱を開いて聴診器を仕舞うと、九峪に小さな袋を突き出した。
「コレをあげちゃいましょう」
キョトンと目を開いている九峪の胸元に、袋を押し付ける。
「き、忌瀬?」
「いいから受け取ってください。じゃないと泣きますよ」
「・・・・・・」
意味がよくわからないけれど、とにかく、押し付けられた袋を手に取った。視線で開けてもいいのかと忌瀬に尋ねると、忌瀬は、頷いて開けるように勧めた。
困惑しながら袋の縛り口の封印を解くと、中には、なにやら怪しい『白い粉』がはいっている。
「き、忌瀬・・・・・・さん。コレは何でせう?」
「別にアブナイ物品じゃありませんから、そんな警戒しなくてもいいですよ」
「いや、でも、コレ・・・・・・」
——白いんですけど。
という一言を、なんとか喉元で押さえ込んだ。別に口に出して言ってもいいんだけれど、それはそれで何か怖かった。
「大丈夫ですってば」
怖がり屋さんですねぇ、と忌瀬がカラカラ笑った。九峪は、仏頂面で白い粉をみつめた。
「それは『安息香』というお香です。普通は固形物なんですけど、それだと量を調節できないんで、私は粉末にして使ってますけど」
「安息香・・・・・・どっかで聞いたことがあるような」
九峪は記憶を漁るが、良く思い出せない。ただ、たしかに聞き覚えはある。
安息香は、現代では、いわゆる栄養ドリンクや清涼飲料などの添加物として使用されている。正しくは『安息香酸Na』と記される安息香の化合物を指す。主に香料として添加されるものだ。
忌瀬が差し出した粉末は、同じ『安息香』だが、成分は大きく異なっている。こちらの安息香は、精神の鋭敏やストレス状態を緩和したり、それらによる体調の悪化を防ぐ目的と効能がある。
「九峪様にはこの世界の薬は原則きかないんですけど、もしかしたら効果のある薬だってあるかもしれません。その安息香は、体調を整えるお香ですから、ためしに焚いてみてください」
こういったお香のほうが、『病は気から』には効果がある。気休め程度でもいいから、わたすだけの価値はあるはずだ。
忌瀬の説明で、九峪は納得したのだろう。「サンキュ」と独特な礼を述べる。
検診を終えた忌瀬は、それから軽く世間話をして、そそくさと帰路に着いた。どうしても、九峪の夢が気になってしょうがなかった。
——ちょっと、亜衣さんに相談してみようかしら。
巫女の亜衣ならば、なにかしらの助言や意見を与えてくれるはずだ。そうでなくても、自分には、亜衣に報告する義務がある。
胸に抱えた厭な予感を拭い去るように、草木を掻き分ける手の動きは荒かった。
平陽は耶牟原宮殿のとある曲がり角で、そわそわと落ち着きなく評定が終わるのを待っていた。
足を踏み、指先は忙しなく動き、緊張した面持ちである。いつものおっとりとして、それでいて油断ならない雰囲気は、すっかり霧散してしまっている。
——まだか、まだか。
苛立たしげにするその様に、通りがかる小人たちが、ぎょっとして遠ざかってゆく。
そのとき、評定の間から、人の流れがぞろぞろとあふれ出してきた。評定が終わったのだ。
その先頭では、蔚海と文官たちが、怒り顔になって大またで歩き去っていった。
「——重然様」
姿を現した重然に、待ちきれなかったとばかりに身を近づける。重然が驚くのもよそに、平陽は、重然を人の波から連れ出した。
ちらと視線を向けて、蔚海の一段が姿を消すのを確認すると、ふうっと息をついて重然を睨みあげた。
「重然様、ニ、三ほどお話がございます」
「そのまえに酒が飲みたい」
いって、重然が歩き出す。評定衆の後を追おう重然に、平陽もついて歩く。
「いったいどういうおつもりなのか。蔚海が太守になったと、火前ではどこもこの噂で持ちきりです」
蔚海の右大尉就任は、火前をひどく揺るがすほどの大事件であった。火前と豊前は隣同士も同然で、宗像海人衆の脅威を、薩摩以上に強く受けているのだ。
平陽は、天草水軍こそが蔚海ないし宗像海人衆を押さえつける、唯一の存在だと確信していた。だからこそ、惜しみない援助も行ってきた。
だが、これでは、すべてがご破算となる。いまさら蔚海に擦り寄るつもりもないが、このままでは、領地が危険に晒されてしまう。
「よもや蔚海に屈したとでも、お言いになりますまいな」
「蔚海に? あっしが? そいつは、天地がひっくり返ってもありやせんぜ。そんなことになるくらいなら、叛乱を起こして蔚海の頭を踏み潰したほうがずっといい」
「ならば、どうして」
——蔚海を取り込んだ?
そう尋ねたかったが、重然は、ただ髭をさするばかりだ。
「まぁ、心配ありゃあせんわ。これも亜衣様のお考えだからな」
含むような言い方に、平陽は眉根を寄せた。内心で、やはり何か策があるのだと、そう思えた。
「それよりも、渡邊殿」
ふいに重然が声調子をおとして、隣を歩く平陽の方を見ずに、小さく呟いた。
「アンタ、ずいぶんとあっしに隠し事をしているようですが」
「はぁ・・・・・・」
たしかに隠し事をしているのは事実だ。平陽自身、重然にそれを継げている。
ただ、それを責められるいわれは、ない。重然もそれを納得しているのだから。
「前々から、薩摩に元武官の連中が集まっとったが、最近、めっきり減りよった」
「・・・・・・」
「渡邊殿の仕業だな」
「それは・・・・・・」
声を詰まらせる。まったくその通りだったからだ。
以前から、北山の動静に注意する元武官たちが、薩摩に集まっていた。彼らは、文官一党の政治を嫌い、信用せず、有事の際には自分たちが九洲を守らねばならないという使命感によって、薩摩に集った『義士』たちであった。
「あっしは、アンタを完全には信用していない。ただアンタが宗像海人衆を嫌っているから、手を組んでいるだけだ」
「それは、承知しておりますとも」
「渡邊殿が何をなさろうが、それをいちいあっしに伝える必要もないが・・・・・・九洲の、共和国の脅威になるようなら」
ゾッとする寒気が、平陽の肥えた身体を振るわせた。隣の重然から、野獣のような芳香が漂ってくるきがした。
「食い潰す」
平陽は、ゴクリとつばを飲み込んだ。そして、やはり重然は、並ならない武将であると、再度認識することとなった。
このときから平陽には、これからの生涯を、重然とともに歩む以外の道が残されなくなった。
歩き去る重然の背中を、ただ、見つめた。