今年の秋は、例年に比べ幾分あたたかい。とはいっても、紅葉や銀杏は枯れるに任せて色よく染まり、いまが秋なんだと教えてくれる。その秋の象徴を、雨が無情にも叩き落す。
いくら暖かろうと、雨が降れば気温はぐっと下がる。
部屋中に暖をとらせ、蔚海は、昼間から酒をあおっていた。自棄酒であった。
杯を傾けながら、思い起こされるのは、過日の評定である。そこで蔚海は、またもや煮え湯を飲まされることとなった。
蔚海にしてみれば、昇進の事実は、亜衣を屈服させたに等しいものだったのだ。蔚海は、火魅子を脅威とは感じていない。なるほどたしかに、火魅子は強大にすぎる鬼道を用いて衆をよく惑わしているが、その惑わしも、亜衣がいなければただの妄言でしかないからだ。
火魅子の助言を得て、亜衣が的確に国家を運営してゆく。それが現在の、耶麻台共和国の姿である。
だからこそ、宰相を傀儡にすることが、蔚海の目的となる。すべての鍵を握るのは、宰相の亜衣であった。
しかし、いまの蔚海は、両手足を縄で縛られたように身動きが取れない。なにしろ、蔚海にはそれまで与えられなかった『役職』がある。この『役職』があるかぎり、蔚海には、それ以下はあろうとも以上の動きは出来ないのだ。
——やられたッ!
先手を打たれたと気づいたころには、蔚海には、もうどうしようもなくなっていた。
ここで、謀反を起こすという選択肢もあるにはあるが、それはあまりにも分が悪すぎる。いくら宗像海人衆の総力が三千近いとはいえ、共和国本軍には、まだ三万以上の戦力が温存されているのだ。十分の一の戦力差、埋めるのは容易くはない。
二進も三進もいかない現状に、さしもの蔚海のくさくさしてしまう。
自棄酒をあおって何が悪いッ! と、心の中で叫ぶ毎日がすぎていた。
そうこうしているうちに、月日はあっさりと過ぎてゆく。季節は十一月を飛び越え、十二月になろうとしていた。
亜衣と九峪が、ひとまず胸を撫で下ろした『策』も、意外と早く、予想だにしない結末を迎えることとなる。
混乱続きだった国内情勢も、ようやく穏やかさを取り戻し始めた。いや、もうほとんど取り戻した、といってもよいだろう。
武行についていた各地の豪族たちも、順次、根拠地に引き上げを開始している。耶牟原城も破壊された家屋の復興を完了する目処が立ち、いつしか、文武の騒乱が残した爪あとは、次第にうすらいでいった。
紅玉は鹿児島城へ戻り、仁清も豊後は県都の波羅稲澄城(はらいねずみじょう)へ帰参した。志野も火向川辺城へ引き上げている。
まだ藤那が帰途の準備すらしておらず、今しばし都に長居する様子だ。ここ最近、藤那の部下の孔菜代が、耶牟原城の酒屋という酒屋を巡っているという。だから誰もが、藤那の逗留は耶牟原城の酒を買い占めるためで、それから岐路に着くものなのだと考えて、すっかり呆れかえっていた。
藤那の酒好き、ここに極まれり、である。
どの豪族も目を引く存在の重然も、岐路に着きそうにない。当然だと誰もが思っている。と、同時に、帰らないことに安心していた。
平穏な月日が流れ、この間は、争いも諍いもなかった。なによりも、街中で、宗像海人衆が大威張りをしなくなったことが大きい。現状、重然水軍のものが、警徒よろしく治安維持にあたっているからだ。もちろん、宗像海人衆限定で、という前書きはつくが。
評定も滞りなく、蔚海を無視して勧められる。自然、文官と武官の溝も広く深くなっていくが、こればかりはどうしようもないと、亜衣も諦めている。
国内情勢が落ち着いてくると、視線はすこしずつ国外へと向けられる。一番の心配事は、やはり北山の戦況であった。
北山は、ついに泡賀を攻略して、東に海路を切り開くことに成功したという。これから、陸路と海路の二方向から進撃し、支城を落として、中山の王都たる中碁娑城(なかのごさじょう)を攻め落とす段階にまで挽回を果たした。これは、元星七年八月までの近況であり、もしかしたら、もう中山を滅ぼしている可能性もある。
詳しいことは、すべて外加奈の城の教来石からの書状からしか知りえない。だがもうじき、新しい書状が届くころだ。
ようやく、という思いが強くなる。最近の亜衣は、政務の傍ら、北山のことばかり考えている。ようやく、派遣団の帰還が現実味を帯びて、亜衣の胎にすとんと落ちてきた。
時間稼ぎは出来た。蔚海の進路も退路も塞いだ。九峪にも情報は与えている。各地の豪族の支持も得ている。
怖いものなど何もない。形勢は磐石で、揺ぎ無い。これで音羽や遠州らが帰還さえしてくれば。
あとは、火魅子の院宣をうけて、愚かな蔚海に引導をわたしてくれる。
蔚海がいなくなり、海人衆が弱体化すれば、文官は有名無実となる。それからもう一度、こんどはゆっくり時間をかけて、有能な人材を育て上げてゆかなければならない。
後続に政権のすべてを任せられるようになる頃、亜衣はきっと、老いるに老いていることだろう。もしかしたら、その成果を目にすることなく、この世を去ることになるかもしれない。
それまでに、何としても、宗像海人衆を無力化しておきたい。亜衣の思いは強い。
ついに十二月を向かえ、後一ヶ月で元星八年になる。思えば色々なことがあったものだと、冬の参道を歩みながら、亜衣と衣緒は言葉を交わして笑いあった。護衛が三人、後を歩いている。
今日は、都内の寺院を詣でるための外出であった。この寺院は、その広い敷地に、八柱神ごとの分社を建てて、各地の土人が礼拝できるようにしてある。亜衣と衣緒は、天の火矛を奉る『火矛堂』を詣でた。
焼香の香りが全身を清め、邪を祓い、香木の聖灰を溶いた神水で口内をすすいだ。こうすることで、我が身をもっとも高き神のおわす天上に近づけられる。
詣でた後は、神官の元を訪れて、詔を賜る。『真言(または神言)』とも呼ばれる詔は、巫女にとっては欠かすことの出来ない神聖な魔法の文言であった。
そして、いまは、内裏に三軒あるうちの一つの茶屋で一服を満喫しているところである。この茶屋は、亜衣から格安で譲られた茶葉を、衣緒の編み出した作法で淹れている店であり、二人の行きつけである。
「・・・・・・長かった」
茶を両手で包み込むようにして、しみじみと亜衣がこぼした。
隣の衣緒が、なにかおかしそうに目を細める。
「長かったって、一年経つかどうかではありませんか」
「一年、か。たしかに短い。だがな、衣緒、私には長かったんだ。だって考えても見ろ。いろいろなことがあって、私はそれに振り回されてばかりだ。この一年かそこらで、五年くらいは歳をとった気がする」
「まぁ」
今度こそ、おかしそうに、衣緒が笑った。おかしくて仕方がなかった。
九峪がいなくなってから、たしかに大変な目にあっただろう。北山が接触してきてからは、それに輪をかけて忙しかった。
だけれど、最近の亜衣は、どこか生き生きしているようにみえる。丁度、蔚海への対抗方針を転換した辺りから、以前の亜衣を見る思いだった。
その活気付いた亜衣の影に、九峪の存在があろうとは、衣緒には露ほどにも想像できない。
だから、衣緒には、これからの亜衣の活躍に胸を躍らせていた。亜衣なら何とかしてくれる、という思いが、衣緒のみならず、多くの豪族たちにも与えていた。
茶碗を空にして、米饅頭(だんご)を平らげ、一同は内裏を後にする。よく舗装された道をゆく。
「北山は調子がよいようだぞ」
亜衣の言葉に、衣緒が喜色を浮かべた。
「泡賀という要衝を落としたらしい。これで東に海路、西に陸路で、雌雄を決するのだと」
「音羽さんたちは、無事なのでしょうか」
「すくなくとも、音羽と遠州は壮健だというぞ。いくさ働きも目覚しいと聞く。坐地(ざじ)、庶葉頓(しょはとん)、勝(すぐる)、上乃——伊湯岳の合戦以来、脱落者は出ていないと考えていいはずだ」
「そう・・・・・・よかった」
あからさまに、ほっと胸を撫で下ろす。
「みな、先の大いくさで活躍した豪士ばかりだからな。そうそう遅れをとりはすまい。これで光明を見出した」
腐葉土を踏みしめながら、亜衣の思想は、これから将来へと向けられる。
準備は整いつつある。いや、もう九割がたは完成している。九峪から、追っての意見はない。亜衣自身、これが最良であり、最上に仕上げる自信があった。
ひとつ、不安要素があるとすれば、加奈港の教来石らであろう。琉球のいくさが終われば、教来石らには、是が非でも国内から消えてもらわねばならない。しかし、教来石らは、やっとのことでくみ上げた『関係』を、そう簡単に手放すことはしない。
亜衣にとって、蔚海の問題を片付けたら、今度は北山との関係を解消しなければならない。それまでは、気を抜くわけにはいかなかった。
だが、いまは、喜んでいいことだろう。
「衣緒」
いま、亜衣は、衣緒に抱負を告げなくてはならない。自分の決意を、いまや亜衣の右腕である衣緒に、伝えねばならない。
衣緒が、亜衣の横顔をみつめた。言い知れぬ緊張が、衣緒の目じりをひりひりと焦がした。
「私は、蔚海を殺すぞ」
「・・・・・・はい」
亜衣の決意に、目をとじて、そして頷く。なぜ、とは聞かなかった。聞く必要がないほど、それは分かりきっていた決意だからだ。むしろ、今まで告げてくれなかったことが、衣緒にはみずくさかった。
いつかは、蔚海を殺さねばならない。そう衣緒も考えていた。そのときは、自分か重然かのどちからかが、醜悪な命を摘み取ることになるだろうとも考えていた。
できるなら、蔚海の首級は、自分が挙げたい。そして、自分の手ずからで、亜衣と火魅子に献上したい。
そういう意味でも、亜衣は自分に『頼りだ』といってくれたのだ。期待には応えたい。
「宗像海人衆ほどの水軍を失うのは痛いが、いたしかたない。頼むぞ、衣緒。蔚海の首を挙げてくれ」
「心得ています」
「うん・・・・・・」
頷いて、亜衣は、蒼穹を仰ぎ見た。ヒヨドリが二羽、突き抜けるように飛んでいった。
耶牟原城の町並みは、当時の倭国としては、非常に独創的な造形をしている。小山や広陵が、城内に当然の如く存在し、急勾配、段差は当たり前であった。そのため、そこかしこに階段や梯子が設けられていた。
亜衣一行が、寺院の唯一の出入り通路の階段を降りているときだった。
ふいに、衣緒が足を止めた。つられて亜衣も足を止めた。
「衣緒?」
「・・・・・・」
衣緒は応えない。ただ眼光を鋭く尖らせ、殺気を周囲に振りまいていた。手にする鉄槌を握りなおした。
それだけで、亜衣にも、ただならぬ気配を察することが出来る。緊張に喉を鳴らすと、懐から、方術に用いる札を取り出した。護衛が、亜衣の周囲を少しずつ囲むように移動しだした。
「私の後ろから——」
離れないでください、と言い終わることもなく、衣緒は動き出していた。階段横の藪の中から、刃を振りかざす女が飛び出してきたからだ。
咄嗟のことに、もともと運動音痴の亜衣は反応できない。刃が近づくが、すかさず振るわれた鉄槌の轟檄に、女の頭部は粉々に吹き飛んだ。
衣緒が直ぐに、亜衣を背中に隠す。あとは堰を切ったように、襲撃者が八人、コメツキバッタのように飛び掛ってきた。
辺りは一瞬で修羅と化した。血飛沫が石積みに血痕をぬりつけ、腕が吹き飛び、衣緒の容赦ない鉄槌に肉片と骨片が飛び散った。亜衣の方術で、一人が見る影もなく燃え尽きた。
戦闘は、十五分と続かなかった。あと一人というところで、護衛が打ちそこね、背中に深手を負った襲撃者は藪に姿をくらませた。
護衛が追おうとするのを、亜衣は押し留めた。深追いして、命を落とす危険を冒すことはないと思った。
「大丈夫か」
手傷を負った護衛に、亜衣が声をかけた。護衛が一人、脹脛から流血していた。護衛は「心配無用にございます」と、自力で立ち上がった。だが血は止まらず、亜衣は自らの衣服をちぎり、それを護衛の脹脛にまきつけた。
「さ、宰相様、なにもそのようなッ」
宰相にここまでさせて、護衛は多いに慌てふためく。しかし、亜衣は、そんなことに気をつけない。
「深くもないが、浅くもない・・・・・・。いいからお前は黙っていろ。動くな。やりにくい」
ギュッと結び目をつけて、亜衣が立ち上がった。柔らかそうな両手が、護衛の出血で赤に染まっていた。
「おい、肩を貸してやれ」と、亜衣がほかの護衛に命令する。頬を流れた緊張の汗を拭うと、血が頬にもついた。
見かねた衣緒が、亜衣の頬を拭ってやると、亜衣が恨めしそうに見上げている。子ども扱いされている、とでも思ったのかもしれない。衣緒はクスリと微笑んで、周囲の惨状を見回した。
辺りには死体の山が出来ていた。原型を留めていないのが多いが、それはもっぱら、衣緒のこさえた死神の業である。
衣緒が死体に近づき、検分する。身元が分かりそうなものはなかった。襲撃者の衣服で鉄槌についた汚れを拭うと、亜衣のほうを振り向いた。
「もうッ、せっかく詣でたばかりだったのに」
「まったくだ。今日は何だ、忌み日か」
「帰ったらまたお清めしないと」
自慢の髪をくるくると指先でもてあそぶ仕草は、顔についた返り血さえなければ、十分に愛らしい。この愛らしさと凄惨さの違いが、どうにも男を寄せ付けないのだろうかと、亜衣は場違いな事を考えた。
護衛を一人走らせて、死体処理の人足を呼ばせると、亜衣たちはそのまま屋敷へと向かって歩き出した。
「あの襲撃者・・・・・・」
「蔚海の手の者だろう、十中八九な」
周囲を変わらず警戒しつつ、早足に亜衣が応えた。さもありなん、と衣緒も同意した。こんなことをするのは、蔚海を置いてほかに考えられなかった。
だとしても、否、だとしたら、随分となめられたものだ。たかだか十人いるかどうかの雑葉ごとき、護衛がいなくても、衣緒一人いれば一ひねりだ。護衛はあくまでも保険でしかない。
バタバタバタッ。死体を片付けに、警徒たちが駆け抜けるのが遠めに見えた。すれ違いざま、詳しく指示を出し、警徒を見送る。
「でも、これは、怪我の功名というやつですね」
してやったりと、衣緒がニヤリと笑った。余り似合わない笑い方だ。
「なぜだ」
「だって、これで、蔚海に反逆の意思ありと、照明されたではありませんか。お咎めを受けるは必定」
「そうできれば、どんなにいいことか」
はぁっと、亜衣がため息をつく。衣緒の言い分はもっともに聞こえるが、そうも出来ない理由がある。
証拠がないのだ、蔚海が指示をしたという確たる証拠が。亜衣が蔚海の仕業だと断定するのは、あくまでも動機にすぎない。
耶麻台共和国は法治国家である。証拠がない限り、裁くことは難しい。もしも、よしんば粛清を断行しても、最後の最後まで蔚海がしらを切って相果てたならば、蔚海は忠臣となり、誅殺した亜衣に非が及んでしまう。
襲われた。それだけの理由では、蔚海を責め立てる事が出来ない。たとえ真実、蔚海の仕業であっても。
そう衣緒に説明すると、衣緒は、「そうですか」と素直に引き下がった。やはり、時を待つしかないのだ。
この事件から、亜衣の身辺の警護は凝り固まってゆく。傍らには四六時中、腕の立つ武将が立ち、親衛隊も付かず離れずの距離を保っていた。
この事態に、蔚海は歯噛みした。逃げ延びてきた襲撃者は、背中に大きな傷という証拠を背負っていたため、打ち首にしてカラスの餌にした。いまは、ほとんどしゃれこうべを晒して、山中で石灰になるのを待っている。
「しくじったわ」
蔚海は歯噛みした。これで、亜衣の暗殺は、事実上不可能となってしまった。それどころか、この機会に、亜衣が動き出すかもしれないと、戦々恐々となってしまった。
しかし、蔚海の不安を無視するように、亜衣は沈黙を保っている。それが逆に、蔚海には、嵐の前の静けさに似て恐ろしかった。
この暗殺未遂事件は、そう時をおかずに、九峪の耳にも届いた。蔚海の思わぬ動きに、九峪も最初は驚いたが、事なき最後にほっと胸を撫で下ろした。
「随分と大胆なことをしたもんだな」
「たしかに。大胆には代わりないかと。ただし、やはり、早計だと評するしかありませんね」
九峪の対面に座る清瑞のこたえに、蔚海への評価が次第に確定してゆく。いつか、清瑞の言った蔚海の人物評を考えても、九峪には、蔚海が大物には感じられなかった。
蔚海には、阿智を出し抜いて暗殺した前科がある。それで、暗殺の有効性を確認したのだろうが、奢れる蔚海も泥に足を取られたようだ。暗殺が諸刃の剣であると、これでよくわかったことだろう。
「それで、清瑞。頼んでいたモノだけど」
飯の空になった椀を横にどけて、九峪は、以前から頼んでいたモノを求めた。
清瑞は、一枚の絹布巻きを取り出すと、九峪の前にそっと献上した。絹布巻きの厚さは実に一寸近くもあり、開くとその全長は七尺(二メートルほど)近くにまで達した。
絹布巻きは、宗像海人衆で、棟梁の蔚海に近しい者たちの目録、すなわち帳面である。ざっと流し読みしてゆくと——軽く百人は超えている。
帳面は名前に留まらず、役、賞与、家族構成、人柄に至るまで、微に細に入ってこと明らかに記されていて、その膨大な情報量に、さしもの九峪も眩暈を覚えた。
多くても、せいぜい三十人ばかりだと思っていただけに、気の滅入りようは甚だしい。
「・・・・・・コレ、全員しらべたのか」
げんなりとした九峪の呟きに、清瑞はうれしそうに「はいッ」と応えた。九峪が、まるで化け物でも見るような目つきをしているのにさえ、喜色の清瑞には気づけなかった。
清瑞にとり、蔚海の身辺調査は、骨が折れると同時に非常にやりがいのある難題であった。乱波の血が騒ぐとか、そんなものではなかった。手が回りきれず、動かせるだけのホタルも動員したほどなのだ。
その甲斐あって、満足のゆく調査結果を得られ、それを褒められたと勘違いしたのだ。
ニコニコ顔の清瑞のあまりの眩しさに、がっくりと肩を落とした。たしかに素晴らしい調査結果だ。清瑞は悪くない。ただ単純に、自分の見込みが甘かっただけなのだ。
「ちなみに、何人分しらべたんだ」
「百六十六人。みな蔚海との親交が深いものばかりで、首長などはみな列記されています」
「そ、そうか・・・・・・」
そんな事を言われても、九峪には、困りものであった。百と六十と六人。この人垣の山から、決めねばならないとは。いや、誰でもいいといえば、それでもいいのだが。
「この中から、そうだな、蔚海の側近はいるのか? 近習とか、護衛とか、参謀的なやつとか」
「側近、ですか? そうですね・・・・・・」
記憶を掘り起こすと、いくらでもいそうな気がした。ただ、清瑞の調べたところでは、側近とまで呼べるものは、いなかったような気がする。
あるいは、他の乱波が調べた中に、そういった重要人物はいたかもしれない。
「他に、誰が調査にあたったんだ」
「愛染、侘吉、望蔵主(ぼうぞうす)、茶吉尼(だきに)・・・・・・です」
「望蔵主?」
首をかしげる。知らない名前であった。
「新参者です。調査能力に長けていたので、用いました」
望蔵主は、女性の乱波で、口の立ついわゆる『ひょうきん者』である。どこか忌瀬に近い性格をしているが、忌瀬以上、虎桃以上に軽い性格をしており、敬語が不得手と言う。もとは盗賊の一味であった。
ふむと、九峪は頷いて、彼らに詳しく話を聞くようにと、清瑞に命じた。
清瑞は迅速に行動し、わずか五日後には、また新しい絹布巻きを持参して、九峪の元を訪れた。今度は厚みのない絹布巻きで、九峪はそっと胸を撫で下ろした。
今度の帳面には、名前のみが記されている。
読み進めて、いつしか夕餉の時間もすぎて、九峪は一人の人間に目が留まった。
「馬淵」
と、九峪が一言つぶやいた。この日は、もう清瑞は帰ってしまい、いまは九峪だけである。
馬淵の項目に目を通すと、ますます、事務官としての馬淵の有能性を垣間見れる。間違いなく、馬淵こそが蔚海の側近であると、帳面から判断するに十分なほど細かい調査がなされていた。
「馬淵」
もう一度つぶやいた。
九峪の脳裏に、次の一手が、明確に形作られた。
重然の元へ押しかけた平陽が、居城たる渡邊城へ帰参したのは、十一月の終わりのころであった。
この冬は、実に平穏そのもの。争い諍いの類は、朝露の滴る明朝のように、静かなものだった。帰城後、平陽は三日ほど寝込んだ。
すわ病かと家族、家臣一同はおおわらわとなったが、熱も嘔吐もなく、原因はさっぱり分からなかった。医師の見立ても不明瞭であったが、三日して平陽は、床から這って出てきた。
「お、親父殿、もう大丈夫なのか?」
次男、三男らが心配そうにしても、平陽は憔悴したままであった。いつもの微笑を振りまくだけの気力もなかった。
——勘弁してくれ。
内心は、そんな苦しげな思いでいっぱいだった。
平陽を襲ったのは、身の病ではない。心の病であった。簡単に言えば、気疲れである。
重然から告げられた蔚海参画の真実を聞かされたとき、頭の中が真っ白になって、心の臓が破裂しそうになり、胃がキリキリと痛んだ。
やはり平陽も、尋常の沙汰とは思わなかった。と同時に、やはり振り回されるのだと確信した。そう思えばこそ、気の重さに潰されてしまったのだ。
困難どころの話ではない。頭で生きてきた平陽にも、今後どのように事態が転ぶかわからなくなった。
もちろん、亜衣の凄まじいまでの手腕は、僻地の隅々にまで聞こえている。その選択に間違いはない・・・・・・と思いたいのだが、平陽は、人間が絶対の存在ではないともよく心得ていた。
とは言ってもだ。いまさら反宗像海人衆の旗を降ろすわけにもゆかず、流れに身を任せるしかない。亜衣と重然を信じるしかなかった。
近座の巫女をのぞいて、火魅子に会えるのは亜衣のみである。
十二月。奥の院へ参内した亜衣が見たものは、蒼白に顔を染めた火魅子の、あまりにも精彩を欠いた表情であった。
「ひ、火魅子様ッ!?」
喉を詰まらせて、亜衣は火魅子の元へと駆け寄った。火魅子が今にも消えてなくなってしまうような気がして、居ても立ってもいられなくなった。
火魅子の浮かべる微笑は、薄く、儚く、湖水に浮かぶ夜月を思わせるほど朧だった。だけれど、蒼白だと思った頬にわずかな赤みを見て取って、亜衣は大きな安堵をこぼした。
「どうなさいましたか。どこか、お身体でも・・・・・・」
自分で口にして、身震いがした。そんなことがあってはならないと、自分の考えに恐ろしくなった。
しかし、火魅子は、以外にもしっかりとした姿勢で座している。亜衣を一瞥する。亜衣が重ねてきた掌のぬくもりを慈しむように、そっと自らの掌を重ねて、ささやかに握った。
指先から熱を奪われるような気がした。冷たくはなかったけれど、なぜか、そんな錯覚がした。離れがたくなって、手を繋いだまま、亜衣は寄り添うように火魅子の直ぐ傍に腰を下ろした。
瞬間、火魅子が身体を預けてきた。
「火魅子様・・・・・・?」
「いやね・・・・・・」
「え?」
呟きの意味がわからなくて、亜衣は小首をかしげた。
「最近、ほんっとうに悪い夢ばっかり」
「悪い夢・・・・・・ですか」
——ドキッとした。脳裏に、忌瀬から聞かされた九峪の『夢症』の二文字が通り過ぎた。
「亜衣・・・・・・私の傍から離れないで・・・・・・お願い」
「火魅子様・・・・・・」
——怯えておられる。あの火魅子様が。
亜衣を見つめる火魅子の瞳は、まるで、親に捨てられる恐怖に打ち震え、すがり付いてくる子供のようであった。繋いだ手が、力なく震えていた。
火魅子は、良き事も見れば、悪しき事も見る。ゆえに代々の火魅子は、強い心を求められた。はるか昔に、予見の恐怖に耐え切れず、発狂した火魅子もいたと伝え聞く。
亜衣は、目の前で震える今代の火魅子が、心を狂わせるのではないかと、気が気でなくなった。自分の手までが、震えてしまいそうだった。
空いていたもう片方の手を、重ねる。
「火魅子様。一体なにを恐れておられますか。その眼に、なにを見たというのです、なにをお映しになられたのです」
次第に、亜衣の中にも不安が大きくなってゆく。
火魅子は、見上げる視線を外して、前方を向いた。亜衣も視線を向けると、そこには神台の上に、天魔鏡が鎮座されていた。蝋燭の鈍い赤色が、鏡面を妖しく揺らめいていた。
躊躇うように、火魅子は二度、声を詰まらせた。それでも、ぼそぼそと語りだす。手はいまだ繋いだままだ。
「悲鳴と・・・・・・叫喚と・・・・・・血と死体。積み上げられているのよ・・・・・・。敷かれているのよ・・・・・・」
「・・・・・・それは」
「押し寄せてくるわ・・・・・・。もうすぐ・・・・・・ううん、いま、もうすでに」
言いつつ、火魅子の顔が少しずつ、苦痛に歪んでゆく。激しい頭痛に襲われているのだ。
細い身体を抱き寄せて、小さな言葉を逃さず聞こうと、顔をズイッと近づけた。近づけた直後、亜衣の目はこれでもかというくらいに見開かれた。
すぐに火魅子の顔を見つめる。無意識の動作だった。信じられないことだった。
亜衣の唇が震えている。そんな亜衣に、火魅子は、より強く手を握り締めてきた。
「あなたの周りも、危ないわ」
「私の・・・・・・?」
火魅子が小さく頷いた。
「油断しないで。足元を掬う者の根源は、蔚海一人とは限らない」
「それがなにか、火魅子様にはご存知なのでしょうか」
「わからない・・・・・・そこまでは」
火魅子に知ることの出来ない未来が、自分に分かるわけがない。
火魅子の鬼道は、高い確率をはじき出す代わりに、それほど精度は宜しくない。とくに、要因が複数絡み合った未来になると、どんどん幻視がぼやけてしまう。それでも、無理にでも明確に知ろうとすると、肉体に過大な負担を強いることとなる。
いま、火魅子の顔色が悪いのは、それも要因だと亜衣は気づいた。身を傷めてでも、忌諱を亜衣に告げなければと骨を砕いているのだ。
ただ、火魅子の言葉は信じるに値する。亜衣は自身を取り巻く状況を思い返して、今後を検討する必要が出てきた。と、同時に、蔚海に絞られがちだった思考をも見直さねばならないと、亜衣は自らを戒めた。
顔を胸にうずめて、力なく項垂れている火魅子が、いつしか眠りの中に落ちている。亜衣の胸の中がよほど心地よいのか、安心した面持ちで寝息を立てている。
寝顔は昔から変わらない。亜衣も心を落ち着けて、栗色の髪をあやすようになでた。
ただ、もうすでに、この戒めが手遅れになろうなどと亜衣には知りえず、微笑を浮かべながら火魅子に寄り添っていたのだった。