強風の昼下がりに、ホタルが足音少なく駆けて行く。五人分の足音が、風のがなり音にかき消される。
風の強い日、雨音の激しい日は、人の姿もまばらだ。いつもは鮭の産卵場所のように盛り上がる区々にも、やはり歩く者の姿は少ない。店屋だけが寂しげに、客の訪れを待っていた。刃物屋の前を、五人は走りぬけた。
五人の先頭をゆくのは、愛染という乱波の少女である。肩までのばした髪が、不規則に揺れ靡いている。
五人は、入り組む家屋の隙間を縫うように、人通りの少ない場所を選んでいる。しばらくして、一人また一人と、横道にそれていって、ばらばらの道を走り、いつしか愛染だけになっていた。
橋をわたったところで、愛染は不意に立ち止まり、周囲を見回す。そして再び駆け出す。警戒していた。
乱波にも得手不得手はある。愛染は腕っ節こそ強いが、とくべつ身軽というわけではない。足も遅くはないけれど、韋駄ほど速くも走れない。
また暫くして、五人は市場で落ち合った。
誰も彼も、表情は暗かった。まるで途方にくれたように気を落としているのが分かる。
五人の乱波は清瑞に命令されていた。過日、亜衣と衣緒を襲った襲撃者、その生き残りを探し出せという命令である。背中に負った傷が何よりの証拠であった。
もちえる手管の粋を集めて調べ上げるも、しかし結果は散々であった。山中から、背中に大きな真新しい傷を背負った男のしゃれこうべを晒した腐乱死体を発見したのは、ホタルの伝助であった。刺客はすでに証拠隠滅のために口封じされていたのだ。
死体は全裸で、襲撃を指示した者を特定する遺留品の類は何も見つからなかった。乱波としては苦しい話だが、ありのままを報告しなければならない。
結局、蔚海の仕業であろうとわかるのに、証拠がなくて糾弾できないという、あまりに胸に詰まらせる思いだけが残された。
蔚海は、これまでの生涯でありえなかったほどに、焦りの中に落とされていた。
評定衆にあって、自分がただの『形だけの太守』であると思い知らされてから、蔚海はなんとか現状の突破を企てた。
一度は自治を認められている宗像へ帰ろうかとも考えたが、そうしてはおそらく、二度と耶牟原城へ上る事は出来なくなると思いなおした。
最終的な判断としては、やはり、暗殺という結論に至った。そうとう追い詰められていたのだろう、とにかく動かせるだけの者たちの中から、さらに選りすぐった者たちを向かわせた。数で圧せば、護衛の衣緒だって殺せるはずだ、と。
甘い考えだったとしか言いようがない。事実、刺客のほとんどは、衣緒一人に返り討ちされたようなものだったのだ。逃げ帰ってきた刺客は殺して山中に埋めたが、それ以来、蔚海は気が気でなかった。
密かに、耶牟原城脱出の手立てを講じるほどであった。今はまだ耶牟原城を離れるつもりはないが、いざとなれば、得宗家と全面的に争う構えも辞さない覚悟だった。
出来るだけの証拠隠滅は図った。それでも暗殺の失敗は、蔚海の心胆を底冷えさせるのに十分だった。責められるだけの非が、蔚海にはあった。唯一の救いは、亜衣があまりにも合理的すぎたことだろう。
耶牟原城の回廊を歩くとき、常に見張られている錯覚が、蔚海に脂汗を滲ませる。目を向ければ、必ずそこかしこで、亜衣の息の掛かった武将を目にした。さらに、どういうわけか、自分の行くところに、重然を見かけることも多くなった。
——まるで針のむしろではないかッ。
苦々しく叫びたかったが、さりとて、現状を改善できる方法でもない。
蔚海は、怯える毎日を送っていた。その蔚海に天佑が降りたのは、元星八年正月のことであった。
火魅子が新年の賀を諸侯に述べて、翌五日のことである。阿蘇の山に、初めて冠雪が見られたのも、この日であった。今年の雪は、例年よりも少しだけ遅かった。
薩摩の加奈港に一隻の小船が寄航してきたのが始まりだった。船旗は日輪日巴、風に弱々しく揺れている。
小船には武将が一人、兵士が二人だけ乗っていて、加奈港はちょっとした混乱に陥った。ただでさえ人が少ない港なのに、この日だけは騒然となった。
武将も兵士も疲れきった顔をして、目の周りが黒く窪んでいるように見えた。まるで幽鬼か屍鬼の類のようでさえあった。
武将は教来石への会見を無視して、真っ先に鹿児島城へ向かった。
「伝使にござる。急ぎ取次ぎ願いたいッ!」
切羽詰った様子に、紅玉は緊張の面持ちで武将を通した。香蘭の前に引き出された武将は、ただ口頭にて、
「北山、滅亡いたしましたッ」
と、簡潔に述べた。香蘭と紅玉は互いに目を見合わせた。最初、武将が何を言っているのか、にわかには理解しきれなかった。
北山は、中山の都に迫る勢いだと聞いていただけに、寝耳に水の話でしかなかった。
「詳しく話すよ」
と、香蘭も尋常ならない瞳で見据えて詰問した。武将は居住まいを正して、去る日の巻末をとうとうと語り始めた。
ことの経緯は、すでに、『伊湯岳の戦い』直後から始まっていた。
伊湯岳決戦ののち、北山の領土回復の勢いは目覚しかった。おおよそ考えられる範疇を超えていた。
大宜味を取り戻し、泡賀を攻略し、陸路と海路を進軍しているときだった。そこまではよかったのだ。異変は、いよいよ攻撃段階に移ろうかというときに起こった。
全軍の統括は恵源が執り行い、北山軍の大部分は海路より、九洲勢は地元民の案内で陸路を進んだ。泡賀を出発して、三日間の行軍である。
海路を行く北山軍の総勢は五千人、艦船は百席を有に越える大船団で、北山史上、これほどまでの船団が出現したことなどなかった。また一合戦で一千人も集まれば大軍も大軍だが、今回はその五倍とあり、誰も彼もが最終決戦の様相に固唾を呑んだ。
陸路を行く九州勢は八千人。総指揮は音羽が取った。こちらは、九峪がとくに用いた分隊制(九洲流軍術)で複数の軍団を作り、船団に劣らぬ速度を維持した。全軍一万三千の、伊湯岳合戦を超える大戦力であった。
対する連合軍は、都の防衛にまわした戦力、実に七千人。ただし、これは中山が近郊から徴兵した戦力もあり、南山地方からは、援軍四千人が接近している事実があった。援軍が到着すれば、総戦力は一万を超える。防衛戦という事を考えれば、援軍が到着さえすれば、琉球連合軍のほうが圧倒的に有利である。
木下前(ひんさめー)を上乃隊八百が攻略し、中碁娑城から三里の近距離に陣を敷いたのが、十月の終わりころだ。この頃には、海路より北山勢も上陸しており、じわじわと包囲網を構築していった。
ここまでは順調だった。十二月に入った直後、事態は急転直下する。
突如、味方の城が三つも裏切ったのだ。軍団がいいかげん突き進んだ、そのタイミングで。
三つの城の城主は、北山劣勢のときに、中山の武将である十杜臣(とうとおみ)の調略を受けて、反旗を翻したのだ。この十杜臣は、かつて大宜味攻防戦の折、遠州と上乃の突撃に際して鮮やかな引き様を見せつけ、音羽を感嘆させた武将である。
十杜臣は、伊湯岳の敗戦以降、戦略の転換を図り、わざと北山を自陣深くまで誘導させた。すべては、彼ら三城が裏切り易くするためであった。
この三人は北山本国が手薄なのを好機とばかりに、そのまま北山王の座する城砦めがけて攻撃を仕掛け、わずか二日間の攻防で陥落せしめた。裏切り者の手勢は、わずかに五百であった。
都は焼かれ、北山王は自害して果てた。まるで『本能寺の変』を彷彿とさせるこの事件は、事実、本能寺の変に負けず劣らずの衝撃を、北山方にもたらした。
本国がまさか滅亡してしまい、包囲する大軍が動揺しないわけがない。緊急に軍議を開き、話し合いは紛糾し、そうこうする間に防衛していた連合軍七千人が攻撃を仕掛けてきた。士気をくじかれた北山方は圧すに圧され、さらに南山の援軍四千人が到着してしまうに及び、ついに全軍総撤退となった。
執拗で苛烈な追撃の最中、北山の精神的支柱である恵源は不慮の事故で命を落とし、統率の取れないままひたすら北上しなければならなかった。大宜味からの退き戦以上の生き地獄を、音羽たちはその目にした。
皆が散り散りとなり、道に不案内な音羽たちもはぐれ、討ち取られた首数知れず。気づけば音羽も遠州も上乃も、片足を引きずり支えられるようにして合流した。だが、それからもまだ地獄は続いた。
道々の城や豪族たちが、こぞって裏切ったのだ。城に入ろうとしたら矢を射掛けられ、兵を出され、飲み水にすら難儀した。血でのどを潤すものもいたし、渇きに堪えかねて小便を飲むものまで現れた。
だからこそ、死に体で港にたどり着いたときは、一万四千の大軍も、半数の七千ほどにまでその数を減らしていた。船も殆どが接収されていたが、これだけは辛うじて奪い返した。恐怖が頂点に達したことで、逆に士気が跳ね上がっていたことが幸いだった。
とはいえ、この逃避行には、奴隷に身を落とすことを恐れた民衆も混ざっており、総人数は二万人に近かった。対して、艦船で収容できる人数は、よくて一万そこそこ。過重責状態で出航するも、船に乗れない者もかなりいた。
これが、十二月の半ばであった。日付頃としては、二十六日前後であった。
一行は食料を持たず、海上で餓死するものも出始めた。腐敗して疫病も発生し、死体を幾つも海に投げだした。船同士が衝突し、沈没もした。
幾つもの小島を転々とし、そのたびに木の実や獣を捕らえ、そうやってようやく種芽島にたどり着いたのが、十二月の終わりごろであり、その翌日、小船が加奈港に寄せられた。
かくして、種芽島には今、一万人程度の『敗残者』たちが、狭い土地に打ち上げられている。
武将の言い分を受けて、香蘭は、新たな伝使を仕立てて亜衣の元へ向かわせた。目の前の武将は疲れきっており、いまは別室で休息を取らせている。
加奈港も独自の裁可で解放させ、種芽島から少しずつ加奈港へ入れさせてゆく。実際の陣頭指揮は紅玉が執った。
伝使は昼夜を問わず駆け、亜衣の元へ情報は届けられた。
「北山が、滅んだ・・・・・・?」
呆然と亜衣は呟いた。まだ日は昇っている。明るい中、部屋の中だけが異様に暗く感じられる。
頭を垂れる伝使は、頭を下げて退出した。
——そんな馬鹿な。
腰が抜けかねないほどの衝撃は、想像を絶し、筆舌も事足りない。世界が暗転したように、体が闇の泥沼に沈み込んでゆくように、理解しがたい絶望感が厭に纏わり尽いてくる。
ずれた遠眼鏡を直そうとしたとき、眼前に震える指先が視界に入って、存外に驚愕している事を自覚した。
ふーっ——と、呼吸を鎮めるが、指の震えは中々おさまらない。動揺を落ち着けるには、ありもままを受け入れるしかなかった。
——北山が滅んだ。
まずは、それを認めるしかない。よもや誰ぞの狂言とも思えない。伝使は香蘭配下の人間だ。伝え間違いというのならば、首を刎ねることも辞さない。
まずいことになったと、亜衣は顔をしかめた。おおよそまずいことになった。
音羽や遠州などの高官級の中にも、幾人かの犠牲者は出たようだ。それでも生きて戻ってきてくれた者もいる。それ自体は喜ぶべきことだし、亜衣自身も素直に嬉しい。労いの言葉を今すぐかけてやりたい気持ちなのだ。
しかし問題は、北山の滅亡を受けて、亜衣の立場が危うくなってしまったことにある。亜衣は琉球出兵を実質的に指揮した張本人であり、必ず戦いを勝利に導かねばならなかった。責められる理由は十二分にある。
そして、その隙を突くように、蔚海が首を突っ込んでくることなど、容易に想像できた。
評定は直ぐに開催された。今回はあまりにも大事であったため、各地の知事も早急に耶牟原城へ上った。
国家の重鎮、その全員が出揃うなど、国家開闢いらい、今迄で一度もなかった。九峪が権力を握っていた時分にでさえ、だ。それだけ、現状が切迫していることを証明していた。
異例の事態に、居並ぶ諸侯の表情は固い。
評定は開始早々から紛糾した。問題は出兵における責任追及におよび、弾劾するのは蔚海。亜衣の出兵を批判するに留まらず、これまでの政策にも、難癖をつけてきた。
「元来、我らの関わりなき戦いに、なぜ、我らが血を流さねばならないッ!」
つばを飛ばしながら、大広間によく響く声を響かせる。
身振り手不利で、ときには床机を叩きつけ。額に青筋さえ浮かばせかねないほど、その剣幕に憤りはあらわだ。
次第に、蔚海の叱責は、他の勢力へも飛び火してゆく。重然、斯波虎の天草水軍、渡邊の平陽、香蘭、志野、藤那などなど・・・・・・。王族まで罵り、まるで見境がなかった。
蔚海の、あまりに主家を蔑ろにする発言に、とうとう武官の中から我慢の限界を迎えたものが立ち上がった。
「自身は一兵も出さなかったくせに、まるで自分が一番損害を被ったような言い方をするとは何事かッ!」
武将の糾弾に頷くものは多かった。しかし蔚海は、それすら意に介さなかった。
蔚海にとって、まさにここが正念場であった。ついに見つけた、ようやく巡ってきた、亜衣の生涯有数の汚点なのだ。
「多くの将士が財力を投じた。国庫にも打撃を受けた。わしはこの国で苦しんだ者たちの代弁者であるぞ、控えいッ」
「代弁者だと? 貴様に代弁を求めるものが、どこにおる」
武将は鼻で笑った。
「痛みを伴わぬものの戯言よ。失ったものが頼めるのは、同じ失ったものだけだ。貴様などに代弁をする資格があるかッ!」
武将は叫んだ。しかしそれに、そうだと全面的に同調するものの声は少なかった。
北山の滅亡で打撃を受けた豪族たちは、蔚海と武将の言い分に頷くことも否定することも出来ず、ただ唇をかみ締めるものが多くいた。
文官も言いたいだけ喚き叫び、いつしか武官は立場を失っていた。言い返すことが出来なくなっていた。
「蔚海」
にわかに、場が静まり返った。それまで静かに観ていた亜衣が、口を開いた。
蔚海は、上座の亜衣を見据えた。興奮に赤らんだ頬が、勝気そうにつりあがっていた。
「お前は、ここをどのような場であると考える?」
「はっ・・・・・・?」
わけがわからず、蔚海は声を上げた。
どのようなもこのようなも、評定は評定だ。あまりの事態に気でもおかしくなったかと、蔚海は愉快になった。
しかし亜衣の顔は、まるで氷のようだった。蔚海は気づいていないが。
「まず座れ」
亜衣が静かに命令した。しかし、蔚海は薄笑いを浮かべて立ちつづけた。亜衣のいうことは聞かない、と態度が示していた。いまは自分のほうが有利であると確信していた。
「蔚海、座らぬかッ!」
亜衣の斜め向かいに座する伊雅が蔚海を叱責した。蔚海は伊雅を一瞥して、亜衣を見て、腰を下ろした。
着席と同時に、隣の文官が顔を近づけてきた。
「う、蔚海殿。いくらなんでも態度が悪すぎますぞ」
蔚海のあざとすぎる態度に、蔚海同様に反対姿勢の文官でも、心胆を底冷えさせた。蔚海は肩をすくめるだけだった。
亜衣の弾劾はおおかた叫びきった。いままで溜め込んできた積年の鬱憤を洗いざらいぶちまけて、蔚海の心はかつてないほど晴れ晴れとしていた。
「ここは評定の場で、今は今後の検討をするために開かれているのだ。誰彼が悪いとか、そんなことで貴重な時間を費やしている暇はない」
「そんなこととは。そもそも、誰のせいでこのような——」
「蔚海」
ぴしゃりと遮られ、蔚海は言葉を飲み込んだ。亜衣の迷いも躊躇いも悔しさもない顔が、かえって気持ち悪く見えた。
期待していた顔と違う。もっと亜衣の慌てふためく顔が見たかったのに——。
決意を秘められたその凛とした相貌に、蔚海の身体は瞬時に固まった。
「国家云々を語るなら、罵るまえに建設的な意見を提示してみせろ。それが出来ないのならば黙っていろ。議会が進まん」
「・・・・・・」
落ち着いた声音だが、酷く冷たい印象を皆に与えた。誰にも真似できないような迫力が、今の亜衣は遺憾なく放っていた。
呑まれかけた蔚海が顔を背けたのを見届けて、亜衣は諸侯を見回した。
亜衣の心に、小波はもはやなかった。焦りもなかった。開き直っている、といえばその表現が正しいだろう。
じたばた足掻くのをやめると、そう決めることに時間は掛からなかった。いまはとにかく、北山の残党どもと派遣団の処遇を決めることが先決であった。断じて蔚海に任せられる問題ではなかった。
いま、出来る事を。その決意は固く、亜衣の淀みない指示に文官たちは何も口出しできなかった。
評定は、亜衣の独壇場であった。
「香蘭様には、引き続き、加奈港をお任せいたします。順次、港に引き入れてください。藤那様、志野様におかれましては、食料を絶やさず外加奈の城へお運び願います。海運の整理は重然、種芽島へは斯波、そちらによろしく頼む」
的確な指示は隅々まで浸透していった。
「海岸線の防備をいまいちど徹底していただきます。琉球が北山を追ってこないとも限らぬ故」
「わかったよ」
異を唱えることもない。香蘭の簡潔な返答は、香蘭だけでなく、そこかしこから沸き起こっていた。誰もが、罵りあいよりも前を向く亜衣の言葉に従いたかった。
「駒木衆は加奈港の北山軍の抑えをお頼みいたします」
「よかろう」
「火向の旅団には、慰安を名目として興行をうっていただきたい。内部の監視を、とくに教来石ら武将を見定めて」
「わかりました」
藤那と志野が頷いた。
評定は二刻も続けられた。その間、前半を沈黙で過ごしていた姿とは打って変わって、亜衣の口と動作と脳と指示が途切れることはなく、文官を除いて反対するものもいなかった。
議会の終わりかけ、それでも蔚海は、なお反抗し続けた。ただひたすらに亜衣を糾弾し、それには亜衣も言い返せなかった。
たしかに、亜衣のせいだと言えなくもない。亜衣の失策で北山が滅亡したわけではないのだが、負け戦に挑んだことに変わりはない。
責任の所在。それは、今後の検討があらかた出し尽くされたときに、蔚海によってぶり返された。
「責任は取って宰相の地位を降りてもらいたい」
それだけを蔚海は要求した。罪の所在と声高に叫ぶが、もう蔚海にはこれしか攻撃材料はなく、ここで負けては、もう二度と亜衣に勝てない——そんな気がしてならなかった。
亜衣は、蔚海の要求を、ただ黙って聞いていた。
——結局。
この評定の五日後の一月二十六日、蔚海の執拗な追求に屈する形で、亜衣は自ら宰相の地位を辞した。後任に蘇羽哉をすえたが、この蘇羽哉はすぐに実権を蔚海に奪われ、ただの飾りとなった。約三年間、正味八年間という短くも波乱に満ちた『亜衣執政』は崩壊し、蔚海による傀儡政権が誕生した瞬間であった。亜衣は耶牟原城の屋敷へ蟄居とされた。
亜衣の失脚は、共和国中を揺るがした。と同時に、激しい混乱を呼び込んだ。
蔚海はそれまで進められていた亜衣の政策を急転換させ、次々と中止に追い込んでいった。武行制度を廃止して耶牟原城から諸侯を半ば強引に追い出し、各地の検地をやり直させて、新たに官位を変動させた。宗像周辺、直方平野一帯の豪族は多いに栄えたが、他地には重税がかけられた。
「国庫を多いに減らされた」
といって、年貢の引き上げはもちろん、鉱物の差出も容赦がなかった。明らかに与力にのみ贔屓し、反対勢力は弾圧された。
もちろん、名義は宰相である蘇羽哉の名の下で。
蔚海は、財政に打撃を受けた豪族たちの、悲痛な叫びを肩代わりする『代弁者』と自称しながら、その豪族たちに温情をかけることはなかった。
明らかに、蔚海は権威の持ちえる魔力によって、気を失い暴走していた。
阿蘇の九峪が事の次第を知ったのは、随分遅れて三月のことであった。阿蘇山の雪は早々に解けてなくなり、春の足音が春風にのって近づこうとしているときであった。
「・・・・・・」
言葉もなかった。よもやもしないことで、九峪の策は脆くも崩れてしまったのだから。まだ半年も経たずして、である。
ショックとか、そんな軽い言葉で言い表せない絶望感。思うことは、亜衣のことや、火魅子のことや、重然らのことばかりで、寝ても覚めてもそればかりだ。
清瑞は、いまや蔚海にこき使われる身となった。身体を求められないだけましだが。他も似たり寄ったりだ。幸い、蔚海は女よりも地位にばかり拘る男のようだった。事実、蔚海は妻を愛しているわけではないが、側室も持たない男だった。女よりも地位に群がる者たちを転がすほうが楽しいらしかった。
九峪には、豪族たちの不満の声が聞こえてくるようだった。蔚海は以前よりも関所を設け、税を上げ、地方経済は基盤から揺るがされた。その不満、憤りは、はたして如何ほどになることか。
そして、蔚海が政権を奪ったことで、九峪にも大きな問題が発生してしまったのだ。
——食料が手に入らなくなってしまった。
存在そのものを抹消された九峪だ、里との関係は少ないほうがいい。食料も、一度に大量に手に入れる必要があり、今までその便宜は亜衣が図ってくれていた。
その亜衣がいなくなれば、当然、食料は手に入らない。魔兎族みたいに、最悪でも高麗人参だけあれば生きているわけではない。肉と、野菜と、穀物と、塩がなければ。
こればっかりは、本当にどうしようもなかった——ように思われていたが、
「べつに、私たちが買いにいけばいいじゃない」
という、兎華乃のありがたい意見に救われることになった。そしてこういう時にこそ、忌瀬はよく活躍してくれた。
「いいんですよー、別に」
目の前の忌瀬が、それはのんきに言い放った。つい先ほどまで、重苦しい報告をしていた忌瀬が。
今日は忌瀬の検診がある日ではない。忌瀬は食料を運んできてくれたのだ。実際に運んだのは、旅芸人に扮した志野の家臣たちであるが。
今の忌瀬は、清瑞に変わって情報を与えてくれる貴重な存在となっている。
「でも、大変なことになりましたよね」
「人事みたいに言うなよ・・・・・・」
あまりにのんきだ。のんきすぎる。九峪はあまりの事態に茫然自失なのに、当の忌瀬は飄々としていた。
納得できないものはあるが、これが忌瀬だと考え直す。いやむしろ、こんな性格だからこそ、変に気を静めることもない——と、前向きに考えてみる。
考えないと、いろんな意味でやるせない。
「国庫は潤っただろうな」
皮肉たっぷりに九峪が言うと、忌瀬は苦笑しつつ頷いた。
「毎日米が耶牟原城に集められてますよ。野菜や、肉や、魚も・・・・・・塩なんか、一日にどれだけ使われていることやら」
「そんなに使っているのか?」
「もう、毎日贅沢三昧って話ですよ。蔚海はこれからの事をどう考えているのか知りませんけどね。内政を充実させるでなし、国外の情勢に目を向けるわけでもなし。ただ浪費するだけって感じで」
「野郎・・・・・・塩がどんだけ高いか、海人なら知らないわけがねぇだろうに」
当時、塩は『金糧』と呼ばれたほどに貴重で高価なものだった。製法が難しく、大量に作れないためであった。一般の村々に出回ることは殆どなく、百姓たちなどは、山菜や木の実で米の味付けをしなければならなかった。
耶牟原城に運ばれる塩は、すべてが税である。逆を言えば、規定内の税分しか、塩は手に入らなかった。塩は宴会などに使われ、日常的には満足に食せなかった。
それを毎日使っているのか・・・・・・湧水のように容赦なく口にしているのか・・・・・・。
国力充実を謳う文官の力を借りて浪費を重ねて、財政打撃を誹りながら重税をかして。
言っていることとやっていることが、まったくの真逆だ。
蔚海は酔っている。正常な判断などできるはずもない。いずれ諸豪族の反発が頂点に達するだろう。そうなったら——。
想像しただけで、九峪は気持ち悪くなって、吐き気がしてきた。九峪がこの世界に召喚されて十年近くが経とうとしているが、それまで積み上げてきたものの全てが崩れ去ろうとしていた。
「九峪様、しっかり・・・・・・」
忌瀬の心配そうな声に、九峪は力なく頷いた。ただ、忌瀬の腕を握る手には、力がこめられていた。
「・・・・・・これで亜衣が、黙って引き下がるとは思えない。重然が、黙って従っているわけがない。火魅子が、黙って蔚海に国家を任せるなんてありえない」
「九峪様・・・・・・」
「蔚海の執政はすぐに崩壊する。長持ちするわけがないんだ、そうだろう。そのときは・・・・・・国と、民を道ずれにして崩れ去るんだ」
そうなったら——いくさになる。九洲全土を戦禍が迸る。
蔚海一人を殺して収まればいいが——。
全面的な衝突は絶対回避だ。もっと間接的に、事態を湾曲させて、そうして蔚海を滅ぼさなくてはならない。
蔚海を封じる計略は失敗した。これから必要になるのは——蔚海を滅ぼす計略だ。
それが蘇羽哉に出来るとは思えない。蘇羽哉は優秀な事務官だが、謀略は苦手なはずだ。いや、出来ない。亜衣は蟄居され、いずれ紅玉も何かしらの手を打たれかねない。
——やはり、自分が動くしかない。どんな手を使ってでも——蔚海を殺さなくては——。
いつか、戦うことにさえ怯えていた少年はすでになく。ここに、知略謀略ない混ぜて戦う一箇の英傑がいた。
いや、この瞬間にこそ、非情を持って戦う謀略家が誕生した。九峪にはもう、罪悪も躊躇もなかった。八年この世界に生きたればこそ、あの、火あぶりの罪を受け止めて戦えるようになったのだ。
将とはそうあらねばなく、主とはそうあらねばなく、傑とはそうあらねばなく、九峪という男はそうあらねばなく、時代は九峪にそうあれと要求してきた。
九峪は、なるべくして、こうなったのだ。なったからこそ、九峪には、やらねばならないことがあった。
九峪は立ち上がると、文机にむかい、一枚の書状を忌瀬に与えた。
「九峪様、これは・・・・・・?」
受け取った忌瀬は、ただ、この薄い紙切れが、重要なものであると直感した。九峪の腹心の一人であるからこそ、直感できた。
鋭い瞳で、九峪はただ短く、
「それを、清瑞に」
とだけ伝えた。蔚海封印を画策していた九峪が思い描いた、もう一つの策略が、その書状には記されている。
忌瀬は、たしかな手ごたえで、書状を預かった。