蔚海の生涯は、いま、隆盛を極めている。
九洲でもっとも強大な権力を傀儡とし、あらゆる官人を従え、豪族をひれ伏せさせ、政を操り、その旺盛ぶりときたら、ついには火魅子の助言を無視するほどであった。
頂点を手にした蔚海は、もはや、火魅子の言うことすら聞きたくなかった。自分の政権に、火魅子の助言などいらなかった。すべて自分ひとりだけで行えると信じていた。
ここ三ヶ月の間に、二つの一族が滅亡した。一つは火向の豪族、もう一つは火前の豪族であった。どれも、反宗像海人衆の勢力であり、蔚海は、理由もなく酋長らを捕らえて処刑した。
「やつらは、わしへの謀反を企てたのよ。殺して当たり前だ」
と、蔚海は声高に嘯くが、そのような事実はなかった。蔚海はとにかく、何でもいいから理由をつけて、反対勢力を根絶やしにしたかった。
それこそ、政を蔑ろにするほどに。他家を滅ぼせることに、夢中になっている、ということであった。
そのため、蘇羽哉への指示は、実質的に馬淵が行っていた。その馬淵も、蔚海の余りの強引さに、冷や汗を流していた。
蔚海ほど狂気に奔っていない馬淵には、歯止めの掛からない蔚海の暴走の行く末が心配でならなかった。
——いつか、取り返しのつかないことになるのでは。
そうして心に暗い影を落とした頃であった。予てより、方々へと調略の手を伸ばしていた馬淵の下に、一枚の書状が飛び込んできたのだ。
差出人の名を見ると、『十河山之犬人(そごうやまのけんにん)』と書いてある。犬人は、薩摩県十河山にある十河城を拠とする『十河一族』の武将である。
十河一族は反宗像海人衆勢力だが、犬人は親蔚海派の人間であった。犬人は知略の人ではなく、先見の明も持たない凡人だが、とにかく日和見する男であり、長いものに巻かれる主義をしていた。
馬淵はすでにこの犬人の調略に成功していて、行く行くは犬人に十河一族を討たせ、十河城を乗っ取らせる算段があった。同様な手紙が、頻繁に馬淵の手元に届けられた。
ただ滅ぼすことにのみ才気を発揮する蔚海と違い、元来いくさ下手な馬淵は、内部からの切り崩し——後世で言うところの下克上——を誘発させて、戦わずして味方に引き込む手段をとっていた。
その相手の中には、あろうことか、知事の直轄武将まで入っていた。相手は香蘭の家臣である。十河一族同様、薩摩豪族の丹羽(にわ)を長とする一族で、その家臣の勝部(かつべ)という男である。
この勝部。ちゃんと香蘭旗下として実在する武将であるが——実際に、馬淵と手紙の交換をしているものは、別人であった。
勝部の名を騙る者、それが九峪であることに、馬淵は気づく由もなかった。
元星八年五月。
耶牟原城から追い出して天草へ押し込められた天草水軍は、蘇羽哉からの命令——実際は蔚海——で、水軍の解体を要求されていた。本来の、斯波水軍と重然水軍にわかれて、以後の接触を禁じるというものであった。
たしかに、蔚海に政権がわたってしまった以上、天草水軍の存在意義は消滅してしまった。しかし、重然も斯波虎も、蔚海がそれだけで終わらせるつもりがない事を、重々に承知していた。
天草水軍を解体したら、今度は、両水軍の解体に着手することは目に見えていた。いまの蔚海にとって、最大の障害は、いまや九洲最大級の勢力を誇っている天草水軍であり、それを構成する両海人衆であるからだ。
そしていずれは、重然と斯波虎も処刑されることだろう。『謀反』の咎で——。
そんなことに頷けるわけがない。ただでさえ、水軍は厳しい検問や関税をかけられて、海路の航行すら覚束ない状況が続いている。このままでは干上がってしまう。
だからこそ、こうなることは、ごく自然な経緯だったのだ。
翌六月のことである。渡邊城で、天草水軍を構成する豪族たちが内揃い、決起集会を開いた。
「これ以上、蔚海ずれに好き勝手させられるかッ!」
長たちを眺め回しながら、斯波虎は熱の入った言葉を投げかけた。拳を握り、それを掲げながら。
「やつはたかだか太守に過ぎん。だのに、なぜオレたちが言う事を聞かねばならん。おかしいだろうッ」
「おおや、おおや!」
「やつが宗像の太守なら、こっちは天草の水守じゃい。水軍の解体なんぞを持ちかけるならば、相応の態度を示せというに」
「そもそも、太守に就任されてから、一度も根拠地に帰らんなどどうかしている」
口々に長たちは喚き散らす。誰も彼もが、胎の底から蔚海を憎んでいることがわかる場面である。
その様子を重然は眺めながら、その胸中には、やはり負けず劣らずの憤怒が渦巻いていた。
——亜衣を責めるつもりはない。北山の滅亡など、あの段階では誰にも予想など出来なかった。だから、亜衣は悪くない。
しかしどうであれ、結果は、危惧した最悪のものとなってしまった。このようなことにしないための二重三重の策略も、すべてが崩壊した。
蔚海が政権を奪取したならば、謀反を起こしてでも、天下の大罪人になってでも、蔚海を殺す。でなければ、死ぬ。
その決意は本物であったし、隠すつもりもなかったし、何よりもう我慢できなかった。蔚海の世など、認めたくない。
戦うなら、今しかなかった。みんなの、そして自分の憎悪が頂点に到達した今なら、あらゆる外的恐怖を寄せ付けない今なら、と。
「重然ッ! 蔚海の糞野郎に、目にもの見せてくれようぞッ!」
斯波虎の叫びに、重然は顔を上げた。
「おうさッ!」
決起集会の翌日、重然は直ぐに行動を起こした。
渡邊城を拠点として、天草水軍は怒涛の勢いで北上、宗像神社を占拠したのが六月六日のことである。
海人衆はよく、陸の戦いに弱いと言われがちだが、それは意味半分は間違いである。『陸での戦術』を知らないだけで、むしろ足場がしっかりとしている陸地では、指揮官さえ正しい判断を下せば、海人は精強な戦士となった。
かつて北欧のノルド・バイキングやデーン・バイキングが、海賊でありながら王国を打ち立てられた背景には、こういった理由があった。問題は、指揮官が『陸の戦術』を心得ているかどうか、に鍵は秘められていた。中東で覇を唱えた歴代スルタンにも、海賊出身者がいるほどだ。
二十年以上も昔だが、重然は、海賊生業も行っていた。当然、陸で戦うことも多かった。陸地の戦術は、かじる程度だが心得ていた。
しかしもっとも素晴らしい働きをしたのは、斯波虎であった。斯波虎は天草諸島を根城にしており、海と陸の境界で生きてきた。総大将は重然だが、危ないところで斯波虎がよく助けてくれた。
宗像神社の占拠は、事実上の宣戦布告であった。これを契機に、蔚海は火魅子の院宣を賜ることなく、天草水軍を『国家の大罪』と名指し、討伐を敢行した。
天草水軍と蔚海政権の前面衝突である。
重然を総大将にすえた反乱軍(天草水軍を中枢にした諸豪族連合軍)の兵力は、おおよそ六千という大軍である。この六千が、直方平野の豪族たちを平伏させるのに、一ヶ月と掛からなかった。
反乱鎮圧のために蔚海も動いたが、ここで思わぬ誤算に躓いた。諸豪族に召集をかけたが、異常なまでに兵の集まりが悪いのだ。業を煮やした蔚海が、直轄領である直方平野の豪族たちを動かそうとした——矢先に、反乱軍が機先を制して直方平野へ進軍したため、ついに統率の取れないまま、直方は平伏された。
また、反乱軍に呼応する形で、火前の諸豪族が次々に反乱軍へ寝返ったために、火前はほとんど神速の速さで、重然に切り崩されていった。
反乱鎮圧部隊一万二千が耶牟原城へ終結した頃、反乱軍は、一万近くにまでその兵力を膨らませていた。現在、九洲の保有する戦力の、じつに三分の一が反乱軍に加担していることになるのだ。
戦力差では、鎮圧部隊のほうが大きい。一万ともなると当然、野戦になる。ましてや、蔚海にはまだ、増援することが出来る。
だが——蔚海には信じられなかった。有頂天になった蔚海は、これほどまでに周囲に敵が多いことなど、完全に頭にはなかったのだ。
反乱軍は、宗像から耶牟原城へ進軍し、鎮圧軍も三方向から、包囲する形で進軍した。両軍が着陣したのは八月十日、耶牟原城から西へ十二里の、際川(まつりかわ・さいかわ)付近であった。
蔚海は勝つつもりでいるが、もはや蔚海の脳みそは麻痺しているようなものだ。それよりも、馬淵の思考はずっと冷静に、この戦いの劣勢を予感していた。いざ戦端が開かれたら、いったいどれだけの『裏切り』が起きる事か——。
それが最大の心配事であった。そうさせないために、馬淵は、それこそ身命をとして調略活動に努めるしかなかった。
——いま、ここで争おうとも、それは国力を衰えさせ、国益にならず、引いてはただ無味なることの極みに思え候。相兵を引き上げ候。どうかよしなに、お頼み申し上げ候。
——方や賊軍、方や官軍候。歯向かうは女王への不信に候。貴君と戦うこと、まことに、まことに、悲しみ候。
——天下の大罪、汝が背負うことなく候。我、裁くこと無く思い候。親友の念、親愛の情あれば、どうかお気をお鎮め候。
以上は、馬淵が反乱軍の将士へ送った書状であるが、これと似たようなものがごまんと、反乱軍へ届けられている。
さらに、なんと、馬淵自ら密かに乗り込んでは、武将らと密談まで交わした。一歩間違えたら、首を落とされかねないだけに、まさに綱渡りの説得工作であった。
——が、それだけ命を賭けた甲斐はあった。次第に馬淵の口車に乗せられて、互角に見える戦況で優位と思えない武将が出てきたのだ。
各戦域で小規模な衝突に留まったのは、そういった、反乱軍の気勢を削ぐ馬淵の策があったればこそであった。それでも殲滅を唱える蔚海を落ち着かせるのも、また気力の要る作業であった。
——まだ調略が完了していないのに!
馬淵は焦っていた。いずれ天草水軍は暴発すると思っていたが、まさかここまで早いとは思っていなかった。このまま正面からぶつかれば、蔚海に勝ち目など無かった。
祭川に布陣して、二十日が経過した。互いに砦を築き、小競り合いだけだった戦いは、さしたる損害も出ないまま、新たな局面に差し掛かる。
豊後の伊万里軍七千、火後の藤那軍四千が、『火魅子直轄軍』として、進軍を開始したのだ。蔚海は援軍だと喜んだが——もちろん、蔚海を助けるためではない。
本来、火魅子に軍勢を動かす権限は無い。厳密に言えば、火魅子が軍を動かして戦う必要が無いように、大将軍の伊雅がいるのだ。『火魅子の鳳凰符』とは、火魅子が軍勢を動かすものではなく、その代役を証明するためのものである。そのため、この直轄軍はあくまでも火魅子の名を借りた部隊であった。
目的は、蔚海軍と反乱軍の鞘収めである。指示を出したのは伊雅である。いつかはこうなるとも思っていたが、実際問題、これ以上戦われてもかなわない。
両軍の間に割ってはいる直轄軍。蔚海軍、反乱軍、直轄軍の三つ巴となったが、伊万里と藤那が仲介に立つことで、両軍は渋々、矛を収めた。
重然と蔚海の因縁は、またしても煮え切らない形で、幕を閉じた。
一見して事なきを得たようだが、この事件は、九洲の情勢が根底から襤褸切れのようになっているということを、天下に晒したようなものだ。
とはいえ、これで引き下がることなどもう出来はしない。反乱軍は引き上げたが、火前の大半を占領したまま、軍を解体しなかった。どんな理由があれ——いまの重然たちは、耶麻台共和国に弓引いたことに変わりない反乱軍なのだから。
——天草水軍、蜂起。
九州を揺るがす大事件を知った九峪に、のんびりしていられる時間は無かった。北山の滅亡、亜衣の失脚、国家の崩壊は時間の問題とまで呼べた。
重然が我慢の限界を超える瞬間は、あまりにも急に訪れた。九峪の次の策は、今度は、重然の手によって潰されかねない状況に追い込まれていた。
いままで、こんなに厳しい戦いは無かった。打つ手打つ手が、予期せぬ突発的イレギュラーによって、尽く失敗しているなんて・・・・・・。
頭が痛くなるが、九峪は、さらなる一手を必要とした。いまの策はこれまで通り進めるが、これは些か時間のかかる作戦である。それよりも、即効の考えが必要だ。
だが、はたして、妙案が思い浮かばない。事態が事態だけに、何もかもが難しい。今は黙って引き下がった重然も、いつ再び暴れだしてもおかしくはないのだ。
「まずいぞぉ・・・・・・まずいことになったぁ」
痛む頭を抱えてしまう。背中に汗が滲むのは、夏の暑さのせいだけではない。
——来るって、この事だったんじゃないだろうな・・・・・・。
夢の内容を正夢だと思いたくは無いが、亜衣が失脚してからというもの、あの不可思議な夢を見なくなった。
「どんなもんでも、疑っとけばよかった・・・・・・いや、今はそんなことより」
夢云々はこの際どうだっていい。
考えがまとまらず、次第に九峪は煮詰まっていった。せめてあと一ヶ月、重然が堪えてくれればと、声をかけられない我が身の無様が呪わしい。
調略とは時間の掛かるものだ。なにしろ、相手の心に働きかける業だからだ。とくに、九峪は調略が得意というわけではない。九峪は用兵こそ得意だが、調略は、今回が初めてといっていい。彩花紫の遠征軍を退けたのち、耶麻臺国と争ったときも、九峪は秘密交渉こそ重ねたが、調略は『長湯城の戦い』以外では用いなかった。
絶対的に経験が少ない中で、考えて——考え抜いて、仕方がないと一つの結論に至った。
——殺すしかない。
暗殺、という結論であった。蔚海が二度も犯した残忍にして効果抜群な手法は、確かに今のような危機的状況下でこそ、絶する威力を発揮してくれる。
一つ、日本史の一説に好例がある。
安芸の国人大名で戦国時代有数の謀略家として知られる毛利元就。その嫡子隆元は、元就の念願だった尼子氏打倒を目前に病死したと伝えられる。
が、これは病死ではなく、尼子氏による暗殺であるとする異説がある。この隆元の死に衝撃を受けた元就は、直後に病がもとで伏したという。
もしも暗殺ならば、尼子氏の狙いは大当たりである。
他にも、暗殺によって危機的状況を突破ないしやり過ごした例は多い。もちろん、失敗に終わった例も少なくはないが。当代の出来事でいえば、蛇渇が入浴中の天目を暗殺しようとして失敗し、以後、天目の前から姿を消さざるを得なくなっている。
暗殺が形勢の変化をもたらすということ、そして、決して万能の手段ではないということも、はからずも蔚海が両方とも証明してくれた。
だが、しかし、この期に及んで、もはやそれ以外に手段は無い様に思われた。
蔚海は以外に頭の回る男であったが、増徴しやすい小者でもあった。圧すことにだけ気を割いて、自身が暗殺されるなど、考えていないはずだ。その気持ちは、親衛隊を全滅させてしまった九峪にも覚えがあった。だからわかる。
今の蔚海は、間違いなく無防備——なはずだ。いや、たとえ無防備でなくとも、蔚海は殺さなくてはならない。
だからこそ——そんな時のための清瑞であり、ホタルである。
いったい、これまでの人生の中で、何度目の覚悟だろうか。数えたらきりが無い。この世界は、いつだって覚悟を必要としてきた。その覚悟を、決意を、時には開き直って、真正面から受け止めて、時代の英傑たちは戦乱の世を生き抜いてきた。
九峪も、生き抜いてきた。だから、覚悟した。
今の九峪には、忌瀬と女中だけが、外界との接触点となっている。行動にうつせる機会は少ない。
九峪の命令を帯びてから、女中は、忙しなく里と行き来する日々が続いた。清瑞との接触は難しかったが、かわりに、忌瀬が彼女の窓口となってくれた。
「蔚海の暗殺かぁ・・・・・・思い切ったねぇ、九峪様も」
そう応える忌瀬の表情が、どこか哀しそうだったのが、女中の胸に焼き痕を残した。
道々の隅で九峪からの書状を受けると、忌瀬は苦笑した。
「なんだか、最近いそがしそうだけど・・・・・・あんまり期待しないでね? 私もけっこう危ない立場だから」
もともと狗根国の人間(正確には違うが)の忌瀬も、馬淵にマークされている一人であった。
「無理は重々承知しています。九峪様も、これが最後になればと願っていますから」
「最後、ね・・・・・・。ねぇ、女中さん」
「はい」
「これをちょっと、九峪様に届けてくれないかな」
そういって、小さな壷を女中に手渡す。中には何も入っていないのか、妙に軽い。
女中は首をかしげて忌瀬を見つめるが、忌瀬はなにも教えてくれなかった。
特別、深くは尋ねない。
「誰にも支配されず、縛られず、頼らず、拘らないのが、道々の性だけれど・・・・・・。まさかこの私が、誰かのために命を賭ける日が来るなんて」
「忌瀬さん・・・・・・」
「たははは・・・・・・。天目に捕まってから、私の運命きまってたのかもしれないなぁ。で、九峪様に出会ったのが運の尽きってね」
「嫌でしたか? この頼みごとが」
「嫌ってワケじゃないけどね」
女中の目つきが険しくなって、また苦笑してしまった。頼られて悪い気はしないが、素直に喜べないのも、漂白の民の悲しい性だ。
心のどこかで、煩わしいとか、そう思ってしまうときがある。縛られている、利用されている、そんな風に思ってしまう自分がどこかにいる。
居場所を見つけて、居ることに決めて、そうしてなお心が自由を求めている。
中途半端な自分。自己嫌悪とは無縁だと思っていたのに、そういう自分のほうこそ厭になる。
だけれど——惚れた弱みっていうのかなぁ。
別に、九峪に対して本気で恋心を抱いているわけではない。感覚的には、天目へ向けるものとそう大差は無い。だけれど、この『惚れた』は、何だかんだいって忌瀬を突き動かしている。
もしも、人を支配するものがあるとすれば——それは例えば、聳え立つ大樹の鼓動や、溢れ流れ落ちる瀑布の轟きか、はるか天空の峰々から見ゆる幽玄の如き雲海の揺らめき、この世のあらゆる美と欲望を顕現した心乱の財宝、心底から存在を圧倒する存在そのものを『魅せられるもの』しかない。
忌瀬が天目に惚れたのは、その器の大きさから。自分を圧倒するその存在感から。そして九峪にも、同じようにして惚れたのだ。
それこそ、天目と決別させるほどに。少なくとも、忌瀬にとって。
自由人の性は生涯にわたって消せないけれど、それを上回る何かを九峪はくれたのだ。ならば、それに応えていたいとも思うのだ。
「面倒ごとは厭だけど・・・・・・九峪様や亜衣さんたちみたいな、『一世一代の大博打』とか、そういうのって憧れるしね」
戯れながら、忌瀬は踵を返した。大事を嘯いたけれど、すでに一度、九峪たちの前で決死覚悟の大告白をした身だ。伊雅の憤怒にそまる形相は、忘れようが無い。
あの、生きるか死ぬかの背徳は、なかなか味わえない。あれはあれで悪くないと、忌瀬はひそかにほくそ笑んだ。
野垂れ死にと背中合わせだった忌瀬の血潮にも、勝負師の躍動が流れている。
「期待はさせられないけれど、やれるだけはやってみるから・・・・・・九峪様にそう伝えといてね」
「はい」
遠ざかる忌瀬の背中に向かって、女中は浅く頭を下げた。
耶牟原城の自宅屋敷へ蟄居されている亜衣は、暇がちな毎日を送っていた。
宰相を辞してから、荘園も没収され、亜衣個人の財産といえば、この屋敷くらいのものしか残されていない。
あらゆる問題に頭を悩ませていた頃と違い、いまは本当にやることがない。
だが、不意に訪れた清貧のなかで、亜衣の心配は尽きなかった。
清瑞は多忙を極めている。清瑞が、怪しい動きをしないようにと、蔚海はそれこそ無茶苦茶な命令ばかりを与えて、休む間もなく清瑞たち乱波衆を働かせていた。まだ天目親衛隊の業務のほうが楽なくらいである。
いまごろ、どこで何をしているのかは分からない。極度の疲労に、精も根も尽き果てているかもしれない。
口惜しい思いは、もちろん亜衣の中で小波を立てている。今となってはどうしようもないが、自分と九峪の策が、最悪の結果を呼んだことに変わりはない。
しかし、やるべきことはやってしまった。九峪同様、あとはただ流れに身を任せるほか無い。
遠くの空に、稲光が奔った。天地を震わせる轟音が、神経を振るわせた。どこかで落雷がおきた。
雨音がけたたましく屋敷を打ち鳴らす。亜衣は祭壇に向かって、ひたすら天の火矛に願いをかけた。この日、亜衣は、朝も早くから三刻(約六時間)近くもの間、ひたすら文言を唱えていた。
天に願うことは、安国への祈りを聞き届けてほしいという、切ない思いばかりだ。まるで自分の不甲斐なさを天が責めたてるように、閃光が亜衣を包んだ。また轟音が爆発した。
——衣緒が屋敷に飛び込んできたのは、そんな、嵐の日であった。同居しているから、衣緒と顔を合わせることは多いが、しかし、今日の衣緒の様子は尋常ではなかった。
雨具もつけないで、全身を雨に打たれた姿のまま、衣緒は亜衣の前に転がるように姿を現した。
「い、衣緒? いったいどうした」
驚いた亜衣が駆け寄った、すぐに、使用人が布を持ってきた。亜衣は使用人から布を奪い取ると、慌てて衣緒の身体を包み込んだ。衣緒は寒さに身体を震わせていたが、かすかに湯気が立っていた。寒いが、身体は煮えたぎるように熱を発していた。
髪についた水滴を拭っていると、衣緒の腕が伸びてきて、亜衣の腕を掴んだ。ぎょっと衣緒の顔を見つめて——
「い、衣緒・・・・・・?」
茫洋とする衣緒が、震える唇で呟いた。
「・・・・・・羽江が——」
雷の轟音が、響いた。
蟄居から初めて、亜衣は、屋敷の外へ出た。蓑を着込んで、馬を走らせた。雨粒が顔面を強打しても、どんなに痛くて凍えるほど冷たくても、馬の足を遅らせなかった。
後ろから、衣緒も必死に馬を走らせて追いかけている。「屋敷で休んでいろ」と亜衣に言われていたのだが、それでもついてきた。
駆け抜ける最中、亜衣の心は、戸惑いと怒りと憎しみと悲しみが、竜巻を起こして暴れ狂っている。
——羽江! 羽江!
なんども叫んだ。叫ばなければ、耐え切れない心の沈うつに、魂を壊してしまいそうだった。
二匹の馬は、泥を跳ね上げて羽江の屋敷へと駆け込んでいった。慌しく馬から下りようとして、鐙(あぶみ)に足をかけてしまい、馬上から泥の中へ落馬してしまった。
「お、お姉様ッ!」
亜衣の落馬に、あわてて衣緒も馬から下りると、亜衣の元へ駆け寄った。泥に汚れることも構わずに、濡れた亜衣の身体を抱き起こした。
「お姉様、しっかり」
顔を泥で汚した亜衣は、気遣わしげに除きこむ衣緒を無視するように、立ち上がって駆け出した。
靴を脱いで上がりこむと、驚く使用人たちには目もくれず、突き進む。泥が床を汚していることにも気づいていない。
「お、お待ちくださいませ! お身体を・・・・・・」
「うるさいッ!!」
大きな布をもってきた使用人にむかって、怒声がとんだ。殺されてしまいそうな剣幕で、目を剥かれて、使用人はビクリと身体を振るわせた。
だが、羽江を慕っているこの使用人は、グッと怯えを堪えて、亜衣に向き直った。
「お、お身体をお拭きくださいッ・・・・・・そ、そのように汚れたお姿で奥方様の下へお通しするわけにはいきませんッ」
「お姉様・・・・・・この人のいうとおりです。せめて拭くだけでも」
使用人と衣緒を交互に睨んだ亜衣は、しばし逡巡したように俯いて、
「・・・・・・そう、だな」
と擦れるように呟いた。使用人から布を受け取ると、乱暴に髪の拭いて、泥を取り、汚れた布を使用人に突っ返した。わたす間際、バツの悪い表情で小さく「すまなかった」と謝罪して。
まだ衣服は汚れたままだが、ひとまずそれで妥協した使用人が、二人を奥へ案内する。
戸を開くと、そこは羽江の寝室となっている。部屋の真ん中で、羽江が布団の中で伏している。隣には、医者がいた。
縁起でもない光景に、さっと亜衣の表情から色が失せた。
「羽江ッ!」
亜衣がつんのめって膝をついて、羽江の傍によった。布団の中の羽江は、額に包帯を巻いた、痛々しい姿で眠っていた。
——生き、てる。
羽江は小さく寝息を立てている。胸の辺りが、まるで子猫のように上下に動いている。亜衣と衣緒は、ほっと息をついて脱力した。
しばし羽江の寝息に耳をすませ、妹の生を確認すると、次第に体が寒くなってきた。当然だ、ずっと雨に打たれた身体は、脊髄から冷え切っていた。このままでは確実に風邪を引いてしまうだろう。
そっと羽江の頬に触れる。やわらかな温かみが、凍えきった亜衣の手の平にじんっと広がった。ますます、生きてるとわかって、急に嬉しくなった。涙が出そうになった。
「羽江・・・・・・よかった」
いまにも泣き出しそうな切ない声が隣から聞こえた。そんな衣緒の一言に、いよいよ涙腺が緩んでしまいそうになった。こんなにも涙脆くなってしまった自分が、いまだけ嫌になる。
慈しむ衣緒を横目で見て、亜衣は医師のほうを向いた。
「・・・・・・落命の心配は、ないだろうな」
亜衣の問いかけに、手元で作業していた医師は、たしかに頷いた。
「多少の傷は負いましたが、軽い切り傷や擦り傷、あとは打撲程度にございます。致命傷は一切無く、頭も強打しているわけではありません。骨折もありません。命の心配はありませんので、ご案じめされますな」
「うむ・・・・・・そうか」
亜衣は頷くと、また羽江の方を向いた。医師は手元を片付けて道具を仕舞うと、亜衣に対して平伏した。
「某はこれにて。また何かありましたら、お呼び立てください」
「そうさせてもらう。——大儀であった。下がってよい」
「では、失礼いたします」
一礼して、医師は退出した。
家人が湯を沸かして、亜衣と衣緒は身体を温めると、今夜は羽江の屋敷で泊まる事にした。外は嵐が激しいし、なにより、羽江の傍を離れることが怖かった。
姉妹だけの時間。亜衣も衣緒も、表情は重い。
「——どうして、こんなことに」
羽江を起こさないよう小声で、衣緒が言った。
ことの巻末は、こうである。非常に簡単なことだ。
重然が耶牟原城を追い出されてから、また宗像海人衆が大手を振って町を歩くようになった。乱暴狼藉は日常茶飯事で、悲鳴はそこかしこで絶える事が無い。
今日は嵐で、地面はぬかるんでいる。羽江は夫とふたりで外出していた。用事を終えた、帰り道のことであった。
すれ違い様、夫が人とぶつかり、それに因縁をつけられたのだ。——相手は、宗像海人衆の人間であった。
夫は武器を持たない、いたって大人しい性格をしている。平謝りで謝罪した夫を・・・・・・海人の男は、帯刀していた刀で、切り殺した。
あろうことか、羽江の目の前で。
さらに男は、羽江を連れ去ろうとした。目の前で切り殺された夫に縋りついていた羽江は、狂乱して暴れて、男から暴行を受けたのだ。
気を失った羽江が路上で服を剥がされていたところに、得宗家に仕える戦士がたまたま通りかかり、羽江はなんとか助けられた。さいわい犯されるような事態にまでは発展しなかったが、羽江はこの一件で、未亡人となってしまった。
宗像海人衆の横暴を象徴するような事件である。
衣緒は宮殿でこの話を聞き、大慌てで亜衣の元へ向かった。そして、現在に至る。
「羽江だって、遠戚といっても立派な王族。それにこんな乱暴をするなんて・・・・・・ッ!」
衣緒の声には、あきらかな憎しみの色があった。
「この子が、何をしたというの。それは、たしかに、問題ごともよく起こすけど・・・・・・でも、こんないい子が・・・・・・なんでッ」
衣緒の瞳から、しずくが流れた。とうとう堪えきれずに、涙が溢れてきた。夫を失った羽江が可哀想で、父無し子になってしまった雨嬉が可哀想で、なにより、こんな不幸を躊躇い無く犯してしまう宗像海人衆が憎くて憎くてしょうがなかった。
落ちたしずくは、羽江の頬に線を描く。それに目を覚ましたのだろう、羽江の眼がゆっくりと薄く開いた。
「・・・・・・羽江」
亜衣が声をかけても、気がつかないように、羽江の眼は生気を失っていた。呆然と、虚ろだった。
「・・・・・・羽江」
もう一度呼びかけて、ようやく羽江が亜衣を見上げた。ただその瞳に、やはり光は無い。ただ次第に、瞼は開き、瞳孔は開かれ、瞳に光が宿っていった。——恐怖に、衣緒が顔をこわばらせた。
「あ、ああ・・・・・・やあぁ」
怯えるように、羽江は顔を覆った。目を震わせ、唇を震わせ、声は次第に悲鳴へと変わっていった。
バッと跳ね起きて、狂ったように叫び声を挙げた。
「ああ、い、やあ・・・・・・イヤアアアアアアアアアッッ!!!」
布団を跳ね飛ばし、頭を振り乱し柔らかい髪を宙に舞い荒し、激しく身体をのたうち回した。
亜衣と衣緒が、暴れる羽江の身体を抱きしめた。でも、羽江は容赦なくあばれ、肘が、拳が、二人の体のあちこちを打ち付けた。鍛えられていない亜衣には、かなり痛かった。
うめき声がもれても、羽江は落ち着かなかった。
「イヤアアア、あああ、ああぁぁッぁあぁぁッ!!」
「お、落ち着いてッ! 大丈夫・・・・・・大丈夫だからッ!!」
何が大丈夫なのか、諭す本人にもわからない。大丈夫なことなんて何ひとつとしてなかった。それでも、大丈夫、大丈夫と、なんども語りかけた。
騒ぎに驚いた使用人たちが駆け込んできた。皆で暴れまわる羽江を、無理やり押さえ込んだ。
血の涙さえ、いまの羽江ならば流しそうだ。それほど大量の涙が、羽江の両の眼からあふれ出ている。それは、それだけ夫への愛情が深くて、それを失った悲しみが如何に深いのかを、亜衣たちに教えてくれた。
羽江の流す涙で、頬を濡らしながら、亜衣は思った。
——蔚海・・・・・・ッ・・・・・・絶対、絶対に・・・・・・殺してやるッ!!!
羽江の身体を、折れそうなほど強く抱きしめた。亜衣も、涙を流していた。唇を強くかみすぎて、紅い血が流れた。