元星八年一月上旬、火前と筑前直方平野を反乱軍が制圧してから間もなくのことである。
問題となっている反乱軍への密偵として内部情報を探っていた清瑞が、たまたま耶牟原城にある九峪屋敷(現・ホタルの宿舎)へ帰省しているとき、まるでその瞬間を見計らっていたように忌瀬が尋ねてきた。
——なんだろう。
と、清瑞は疑問に思う。思って、何か、胸騒ぎがした。
「これを」
書簡を忌瀬から手渡され、中身を改めると、なるほど胸騒ぎが的中を貫いた。書簡というが、木簡わずか二行だけのものでしかなく、文もごく短い。
しかし、その内容は十分に問題がある。書簡には、
——蔚海暗殺の儀、清瑞に任せ候え。不法問。
とある。つまり『蔚海暗殺を命ずる。手段は問わない』という意味になる。清瑞と指名されているが、これは清瑞個人に命じるということではなく、清瑞の指揮するホタルに命じている。
つばを飲み込むほどの緊張が奔った。古今において、九峪が清瑞に暗殺を命じたことは数少ない。暗殺もまた忍びの業の真骨頂である。乱波の端くれとして、血が騒がないはずがない。
とはいえ、嬉々とするかといえば、それほど楽天にもなれない。清瑞の知る限り、主君の九峪は暗殺を嫌う傾向があり、それを決断するということはいよいよ行き詰っている証でもある。
蔚海の隆盛にはさすがの九峪も手を焼いているということだ。げに恐ろしきは時流の勢いである。
その勢いを断絶させる大役を、他でもない自分が負わされたという事が、何よりも緊張を誘う。
「あの九峪様が暗殺を止むなしとしたってことは、現状がそうとう危ないと認識したんだろうね」
忌瀬もこの暗殺指令には内心おどろいていた。暗殺嫌いの九峪がそれを決めたということ自体が、もはや異常のように感じられた。
だが、こうとなっては是非もない。もとより忌瀬にはどうこうと口を挟む気もなく、すべては清瑞と彼女の部下たちの双肩に賭けるしかない。
「手段は問わないってところも、どうも九峪様らしくないなぁ」
「それは、たしかに」
らしくないといえばそうで、そこには清瑞も首をひねらざるを得ない。
手段を任せられるとあれば、一流の秘術を満遍なく心得ている清瑞である、そうとうエゲツナイ方法だって心得ている。それは九峪も承知であろうが、それすら問わないということだろうか。
「そうなれば——飲み水に毒を流そうか。いやいや、酒のほうがいいか。いやいやいや、蔚海への必中を狙うには、食べ物・・・・・・まてよ、楽師を装って剣で一刺し・・・・・・」
「あの、清瑞・・・・・・? そういう話は、私のいないところでしてね?」
——これ以上聞いてはイケナイ。
冷や汗を流す忌瀬を気にも留めず、なおも不穏な単語を連発する清瑞であった。
最近になって、宗像海人衆の海人たちや耶牟原城下に住まう人々の間で、ちょっとした他愛ない噂が流れている。
他愛ないというが、本当に他愛ない噂かどうかとは、聞き手によって異なろう。少なくとも、市人にはたいがい他愛ないことである。
——蔚海と、彼の帷幄の馬淵が不仲である。と、そんな噂である。蔚海が右腕とよぶに憚らないほど彼に役立った馬淵であるが、どうもその馬淵が、蔚海の不興を買ってしまったのだという。
ではなぜ、そのようなことになってしまったのか。馬淵といえば、蔚海の寵臣第一と、誰彼も口々にするほどの人物だ。また彼女は蔚海と同じ一族の生まれで、血筋も近い。
だから、なぜだと思う一方で、他愛なくもある。とくに興味がないからだ。そしてそのさらに別方向では、人々が影で、
「いい気味だ」
と、囁きあってもいた。宗像海人衆、とくに蔚海の周辺で不和が起きると、人々は黒い気持ちを燃やした。現代の言葉でこの気持ちを表現するならば、それは『ざまあ見ろ』というやつであった。
さて、この噂であるが、事実である。
原因は複雑でもないが単純でもない。どちらが悪いというのもおかしなことだが、これはどちらも悪いとしか言いようがない。
馬淵が、複雑でありすぎた。蔚海が、単純でありすぎた。ただそれだけの理由で、二人は不和の間柄となってしまった。
日に蔚海の暴走は激しさを増し、不穏分子は徹底的に排除しようと強硬手段をとり続けている。それ自体は馬淵もとくに気にしない。権力者ならば当然の責務である。しかし火前県塩田の渡邊荘で重然と斯波虎が反旗を翻してからというもの、それまでに輪をかけて蔚海はおかしくなってしまった。
おそらく——いや間違いなく、鎮圧軍の編成に手間取ったことが原因と見ていい。あのとき、蔚海は、豪族たちが自分へ向ける不満を目の当たりにしてしまった。
成り上がった権力者——元から権力を持つ者にも当てはまるが——にありがちなことだが、頂点へ上り詰めて下々へ命ずる立場になると、自分自身を神の如き存在と錯覚することがある。すなわち自分自身を信仰の対象とするような傲慢であり、その威光によって人々は喜んで平伏し、服従すると思い込むのだ。
その驕慢に捕り憑かれた人間には、己という存在にわずかでも背き歯向かう要素を許せない。それは例えば、いまだ九峪という過ぎ去りし英雄を崇め続けている武官であったり、いまだ多くの人々から慕われている亜衣であったり、反乱を起こして昂然と立ち向かってくる重然や斯波虎であったり、生意気にも政治に口出ししてくる(実際はただの助言)火魅子であったりだ。
かれら皆が蔚海には気に入らない。だが周りはそんな人間で溢れかえり、いつしか蔚海は疑心暗鬼にかかり、ある種の人間不信を患ってしまった。
それからは、輪をかけて暴走し、その熱にあてられたように海人衆はなお横暴を増し、行き着くところの終りが見えてこない。自然、ただでさえない人気が白滝のごとく落ちて行き、蔚海打倒の気運がにわかに高まった。
自他共に蔚海の腹心で参謀の馬淵としては、この状況は非常に危険で見過ごすことが出来ない。
「私がこの危機を救わねば」
そう意気込み、使命感に燃える馬淵であったが、これがいけなかった。
蔚海を諌めようと彼のもとへ出向き、支配者たる者の心構えや講堂をせつせつと説いた。世は支配者を最上とするが、しかし国は平たく言えば人の集まりであり、この民衆が国家を傾国させることもあり、ゆめそれを忘れてはなりませぬと、饒舌な口ぶりで語った。
馬淵にしてみれば、腹心である自分の言葉ならば、粛々と聞き入れてくれるだろうと、タカを括っていたのであろう。たしかに、以前の蔚海であればそうであったかもしれない。
だが、馬淵は些か見誤った。彼女が思っている以上に蔚海は人変りしてしまっていた。
「馬淵、貴様はこのわしに意見するか」
そういい馬淵の頬を叩き、杖を振りかざして打ちすえた。馬淵は自分が何をされたのか最初わからず、散々に痛めつけられた。
「ご、ご容赦を・・・・・・ッ」
「一門といえど、このわしのやり方に楯突くのは、赦さんぞッ」
自身にとって最良の参謀を打ちすえたこの出来事を契機とするように、両者の関係は急速に冷え切っていった。馬淵は忠臣であったが、その忠誠心がかえって仇となってしまった。
もちろん馬淵が讒言したのは、なにも全てが蔚海のためではなく、蔚海に倒れられては自らも落ちぶれるためでもあり、それがまた馬淵の活動の源でもあった。忠誠心と自己の栄達は、隣り合うが決して入り交ざりしものではない。
が、馬淵の献身はその後も変わらず、ただ違うことは余計な事を蔚海に言わなくなったことだろう。ただ従順を示したが、もはや蔚海には馬淵を重用するつもりはなくなっていた。
不仲というよりは、蔚海が一方的に馬淵を遠ざけているという方が、感覚的には正しいだろう。
これまで冷遇されれば、いっそ主を変えることも手段だ。しかし馬淵は己の立場を宗像海人衆だけに定めている。ここまで取り立ててくれた蔚海に、幾ばくかの恩義を感じているのかもしれない。
器用に世を渡れるはずの女の、不器用な一面である。
予てより馬淵と気脈を通じていた十河山の犬人が、ついに主家である十河一族へ刃を向けた。
手勢はわずかに八十人。十河一族の動員力は三百人ほどであり、そのうちの二十人は守矢ともに火前へと向かってしまい、さらにこの犬人勢八十人が離反している。
十河城の建つ十河山は、山といわれているが実際のところ、ほとんど丘のようなものである。広陵に土台を築き、周囲を木の壁で囲っており、防衛力はそれほど高くはない。
兵士も農兵で、常時は田畑に出て土にまみれている。陣振れを出さない限り、兵が集合することはなく、その隙を突いて犬人が十河一族の居館を襲撃、在中の戦士を尽く切り伏せ、十河一族を討ち滅ぼした。
当時、豪族間の揉め事などは、すべて知事が取り持つように九峪が法令化している。知事の仲介を通さず豪族間で争うこと、また家臣が謀反を起こした場合は、これを大罪とした。鞘収めに同意しない場合の極刑は死刑であるが、矛を収めれば、重然のように所領の没収だけで済まされた。
十河一族の突然の滅亡を受けて、香蘭が兵を挙げたのは直後のことだ。
香蘭の役目は、なぜ犬人が謀反を起こしたのか、その取調べが最初となる。もしも十河一族に落ち度があって、やむなく兵を挙げたとなれば情状酌量の余地もある。だがそうでないのならば、厳正な処罰で持って望み、それに対して武力で対抗しようとするならば、犬人勢を滅ぼさねばならない。
まず百人を編成して、配下の武将を代官として送り込む。これに犬人が対応するわけだが、その如何によってはすぐに戦闘となるかもしれない。
ところで犬人と馬淵の間には、十河一族撲滅に関するいくつかの約束がある。そのうちの一つに、馬淵の裁可なく犬人は動かないというものがあった。
これは馬淵からもちかけた約束だが、そういわねばならないほど犬人という男は凡愚で、功名心に逸りやすい性格をしているからだ。
そして今回、それらの約束を反故にする形で、犬人は兵を挙げた。無論、そのことを馬淵は聞いていない。この事を知ったのは、香蘭が代官をたてて調査に向かわせた時と前後する。
「ばかな。何を勝手な事を」
と、馬淵が思うことに無理はない。九峪の定めた法は知事たちに対して強い拘束力を持つ。それは同時に、各地を治める知事たちがその法を遵守しているということであり、とくに薩摩の香蘭などは九洲の支配階級者の中でもっとも律令に慣れているだけあって、彼女の統治下はそうとう法整備が成されている。
危惧するところは、香蘭の素早い行動だ。さらに言えば、今回の軍事行動は馬淵のあずかり知らないことで、追及を避けるための準備が何一つとしてされていない。
おそらく犬人の性格を鑑みるに、かなり軽々しい算段で動いたことであろう。事実、十河一族きっての猛者である守矢が火前へ消えたことが、犬人の背中を押した。そして見事主家を倒し、十河城を乗っ取ってしまったのだから、今ごろ犬人は己の武勇に酔いしれてご満悦であることだろう。
とはいえ、十河の戦力はたかだか三百。こんなものは香蘭の直轄部隊三千と比べるべくもない。どころか、香蘭と紅玉の二人だけで壊滅させる事だって出来るのではないかとさえ思えるから恐ろしい。
だが、それ自体はまだいい。いやさどうでもいい。問題は、犬人の動機が不純であり、その影に自分がいるということだ。犬人が余計な事をいうと、非常に面倒なことになる。
馬淵の読みは当たった。
「わしには馬淵殿の後ろ盾がある」
と、そんなことを犬人は供述した。実際はもう少し煙に巻いた言い方だったろうが、おおむねそんなところだ。宗像海人衆の威光を振りかざした発言だが、しょせん犬人とは凡愚であり、馬淵と蔚海が不和となりつつあるということを知らない。
ほどなくして、事態を聞きつけた守屋が手勢を率いて十河城へ引き返してきたた。犬人の最大の愚は、十河の守屋がいなくなったときに動いたことだった。ここに、十河唯一の生き残りにして十河最強の男が、憎悪とともに帰ってきた。
「おのれ犬人。一族の仇をとってくれる」
守屋の怒りは如何ほどか。たった二十人で戦おうとする辺り、勇猛な薩摩戦士である。
代官からの報告を受けた香蘭も犬人を認めず、守屋を主家として十河城を返還するように命じた。しかし犬人はこれを突っぱね、対決姿勢を鮮明にする。彼には勝算があった。馬淵へ援軍を要請し、薩摩における勢力図を大きく塗り替えようと考えたのだ。
やはり、犬人は愚かであった。この男は、反乱軍討伐の兵を集めることに蔚海が苦心した事を知らないのかと、呆れを通り越した憎しみがふつふつと、馬淵の奥底からわきあがってくるようだ。
犬人を選んだことも馬淵にとっては失敗であった。もっとも操りやすかったからこの男をと思ったが、馬淵の予想を超えて愚劣でありすぎた。馬淵は直ぐに犬人を見捨てた。
おかしい、援軍は来ないのか。犬人が次第に焦燥を掻きたてる中、ついに香蘭が犬人討伐を認め、守屋に兵三百をつけて十河城を攻めさせた。
兵力差はそれほど大きく離れていないが、守屋の怒涛の猛攻に犬人は成す術もなく、たった一刻半で勝敗は決した。犬人は味方(だと思っていた)の武将に捕らえられ、守屋の下へ突き出された。
「主家の仇にございます」
と、そういってこの十河一族に仕える老将が守屋の前に跪いた。この老人はもはや守屋を主と仰いでいる。
「よくやってくれた。伯父御以下一族の無念、お前の働きで報われようぞ」
「ありがたきお言葉」
「さて、犬人」
縄で縛られた犬人を冷たい眼で見下ろして、腰の剣を引き抜く。ギラリと閃く刃の輝きに、犬人が身体を振るわせた。
「貴様は昔から気に入らんかった。精根薄弱とし、矮小にして驕慢。わしがお前を殺そうとしたときも、主は庇い立てした。その恩を仇で返すとは。やはり、殺しておくべきだった」
「まっ、まってくれ。わしは騙されたんだ。馬淵めに唆されただけなんだッ!」
この期に及んで言い逃れようとする犬人に、もう我慢ならない。
「黙れッ! お前の腐れた心がこのような愚考を引き起こしたことは事実。それを誘ったのが馬淵だというならば、その馬淵も殺すまでッ!」
「ま、馬淵は蔚海様の腹心である。ただでは済まぬぞ」
やはり犬人は知らないのだ。あの二人が不仲であると。犬人も十河一族に従い、薩摩軍として戦った薩摩戦士。情報収集の必要性は紅玉からとくと教え込まれたはずなのに、それすらしなかったとは。
この愚かな逆臣によって一族が尽く殺されたなどと、守屋に許せるわけがない。あまりの無知ぶりすら笑う気にもならず、刀を上段に構えた。
死刑執行の時である。
「黄泉の奥底で、天の火鎖と我が一族の怨念に責め立てられるがいい」
それが犬人成敗の判決文となる。守屋の刀が振り下ろされ、逆臣犬人は打ち首とされた。
十河城には守矢が入り、十河一族は復活した。一族といっても、血脈は守矢一人だけ。伯父や叔母、妹、妻に子も失った。この世に生を受けて四十余年、数多のいくさにも勝ち残った男が、わずか一日にして天涯孤独となった。
さて、これでこの一件が平たく片付いたかといえば、そうは幕を下ろすことは出来ない。
犬人の背後には馬淵がいた。馬淵は、己の調略活動を巧みに隠蔽してきたが、ここで始めてそのひとつが白眉に晒されたのだ。
馬淵の調略活動で犬人が主家に弓引いた。これは見方によっては——よらなくても——馬淵自身が法度に触れる。
これで、少なくとも馬淵を討つ理由が出来た。十河の守矢を先鋒として、軍を編成するための大義名分を、薩摩は得た。
「この・・・・・・大馬鹿者がぁッ!」
「あうッ——!」
蔚海に呼び出された馬淵が、頬をしたたかに殴られた。女の柔らかい頬を戦場で戦った男の拳が襲ったのだ、歯が一つ、欠けてとんだ。
怒りに任せた蔚海には、もうそこにいるのがかつての腹心だという感覚はなかった。倒れこんだ馬淵の胎を蹴り上げ、杖で打ちつけ、それまでのどんな仕打ちよりも苛烈だった。
とても女性に対する行いではない。道徳観念が現代ほどに成熟しきっていないとはいえ、これはあまりにも酷すぎる。馬淵はただ、その暴力に身を丸めて堪えるしかなかった。
心の中で、
——お赦しくださいッ。
と声を上げる。そうしながら、初めて馬淵の中に、
——蔚海様とは、もうやってはいけないかもしれない。
という思いも芽生え始めていた。最近の蔚海は、家臣たちにも恩賞を与えないことが多い。海人衆の中からも、蔚海の能力や人格に疑問を持つものが出始めている。
「はぁ・・・・・・はぁ・・・・・・」
肩を怒らせて蔚海が馬淵を見下ろす。時の権力者は、地べたで悶える馬淵に向けて、杖を叩きつけると、つばを飛ばさん限りの大声で、
「今後、勝手な事をしてみろ。その首ないものと思えッ! いいか! わかったらさっさと去ねッ!」
「ッは・・・・・・い・・・・・・」
蹴りだされるように、馬淵が路上にたたき出された。蔚海の屋敷から血だらけの女性が追い出されても、それを気にする人々はいない。そもそもこの周辺を人は寄り付かない。
体中が痛い。まるで炙られているように熱い。口の中は鉄の味がし、鼻腔を突くにおいは血なまぐさい。これは鼻血のにおいだ。
しばらく痛みのために動けないでいたが、のろのろと起き上がり、壁伝いに住いへと向かう。こんな無様を見られなくて、あえて人通りのない道を通ったために、帰りが酷く遅くなってしまった。
家中の者が大慌てで手当てをし、夕食もとらずに床へついた。もう何もする気が起きなかった。
馬淵の中で、何かが壊れる音がした。
「もう、だめか・・・・・・」
それは諦観であった。自分がいままで積み上げてきた信頼や評価は、ついに底を見せた。もう二度と、築くことは出来まい。
もはや海人衆に自分の居場所はない。馬淵の時代は終わったのだ。それが確信できて、馬淵は静かに慟哭した。
これから私は、どうなるのだろう——。
とんとわからない。生まれたときから宗像海人衆の一員として生きてきた馬淵には、その枠から外れた生き方が何もわからない。
将来が見通しつかなく、どんどん不安になってゆく。自己の栄達が望めない以上、これからはとにかく生き抜くことが必要だと思えてくる。
そうなると、やはり、もう蔚海の下に入られない。海人衆にもいられない。
まったく新しい、別の道を歩み出さなくてはならない。
でも、そんな道なんて——と、数日床に伏したまま思っているとき、ふと、あることが閃いた。
「私には調略がある」
幾人か調略している者の下へ、庇護を求めてはどうだろうか。蔚海と不仲になった自分を受け入れてくれるかはわからないが、誰か一人はいるはずだ。
そういう人のやさしさに縋らないと、馬淵に生き抜く術はない。
思い立ったが吉日だ。痛む身体に鞭打って、方々へと声をかけだした。蔚海に感づかれるよりも前に、相手を見つけないといけない。
しかし多くは蔚海との関係悪化を恐れて断られたりと、なかなか順調には行かない。馬淵も次第に焦り始めてきた頃、ある人物が快く引き受けてくれた。
その男の名は勝部といい——勝部の名を騙る、九峪であった。
物事とは、どう転がるかわからない。
それを九峪がとくと思い知ったのは、女中から受け取った書状を拝読したときだ。
「まさか馬淵が、こんな形で転がり込んでくるとはな」
なかば純粋に驚いている。本当に、物事の推移は最後まで見極めないといけない。
九峪と馬淵、二人に直接の面識はない。いくら気さくな人柄で知られる九峪といえども、その余りにも開きすぎた身分である馬淵の事を一々気に留めることもなかったし、馬淵も馬淵で、遠めにその尊顔を拝んだだけに過ぎない。
さらに、馬淵の調略はもっぱら文書をもって進められるため、本人と会うこともすくなく、じつは相手が勝部本人でないということも知らない。
馬淵は、勝部(九峪)を調略しているつもりだが、実際は逆である。九峪のほうが馬淵へ向けて謀略の手を伸ばしていた。
馬淵から送られた書状は確実に勝部の元へ届けられるが、それは開封されることなくすぐに香蘭の元へ送られ、そこから女中の手に渡される。逆もまた然り、である。
これが、九峪の進めている作戦である。蔚海の腹心と繋がりを持ち、そこから内部の切り崩しを画策していた。最終的には蔚海と馬淵の間柄を決裂させて、その上で蔚海の手で持って馬淵を殺させる。石垣が一部でも抜け落ちれば城が崩れ落ちるように、あとは、人間不信に狂った蔚海が自滅を加速させる。
——はずであった。やはり九峪に謀は難しいようだ。
作戦とは関係ないところで、両者の関係が悪化してしまった。まだ打つ手を全て出し切っていない。おそらく馬淵はいまだ海人衆や政権内部へ極度の干渉をしていないだろう。それでは、蔚海を狂わせるに足りない。
これでもダメか、と諦めかけていたとき、この書状が手元に来た。
馬淵の亡命とは、すなわち蔚海に対する離反ともなる。腹心の馬淵がその主を見限ったとなれば、どれほどの動揺が奔ろうか。
四面楚歌の宗像海人衆の内部にも、現状に不安を抱く者は少なからずいる。しかし彼らは、ここまでくれば一蓮托生と開き直って、この世の春を謳歌している。そこへ馬淵の亡命となれば——ほころびが生まれて必定。
七転び八起きというが、打つ手打つ手が潰され続けてなお、ようやく光明が見えてきた。
すぐに馬淵を保護する約束を交わし、さらに九峪は考える。馬淵を無事に保護する方法だ。
こうなれば、馬淵の居場所はない。ないとなれば、あとは『化外の地』が残るのみ。それはつまり。
「ここしかないよな」
自分の住いである。九峪が彼女に期待する役目とは、すなわち『蔚海の周辺をかき回すだけかき回して、何としても亡命してくること』のみである。それだけ達成してくれればいい。
それに——助けを求めてくる者を無下に拒絶できないのも、九峪という男の本質である。そんなに薄情だったなら、そもそも『伊尾木ヶ原の戦い』に挑まなかっただろう。
火後まで逃げれば、あとはこちらから迎いに行けばいい。これは魔兎族三姉妹に頼むことにした。
あとは——蔚海の暗殺である。内部分裂、首領の暗殺。どちらが先になるだろうか。
どちらでもいい。これでもって、九峪の策は完遂される。
蔚海の暗殺に清瑞が任命したのは二人である。すなわち、
侘吉
韋駄
の二人で、彼らは耶牟原宮殿に仕える小者に扮して、蔚海をすれ違い様に殺す方法をとった。
このころは、ちょうど蔚海と馬淵の不和が噂になっているときだ。馬淵が亡命を考え付いてあちこちに声をかけ、九峪との約束をとりつけたところであろう。
侘吉も韋駄も、もとは奴隷である。雰囲気のそこかしこに、奴隷時代の面影を引きずっている。そこを見込んで、清瑞は二人に暗殺を命じた。唯一の不安は、二人が暗殺慣れしていないことであろう。
ホタルでその手の汚れ仕事に長じているのは、清瑞を除くと愛染という少女しかいない。しかし愛染は別行動中であり、清瑞も棟梁の自分が申し付けられた任務を放棄して怪しまれることを恐れて、あえて襲撃に参加しなかった。
侘吉と愛染の二人が、竹板を抱えながらとある一室に身を潜めている。調べによると、この時間帯に蔚海が二人のいる通路を通る。そこを見計らって、二人は何気ない顔をして部屋をで、蔚海とすれ違うのだ。
「——きたぞぉ」
侘吉が言った。韋駄も頷いた。窓の隙間から、蔚海がこちらに向かって歩いてくるのが見える。護衛は三人いる。
互いに頷きあい、部屋を出る。前後で距離を置く。
しばらく歩いて、先ず最初に戦闘の侘吉が廊下の隅に平伏した。低い身分のものはこうしないと、すぐに蔚海に殺されてしまうからだ。続いて韋駄も平伏した。
蔚海はそんな二人を石ほどにも注意していない。眼中にもないだろう。これが九峪だったなら、
「そんなことしなくていいって」
と、気さくに声をかけてくれただろうが、これが蔚海という権力者の態度である。
蔚海が侘吉の前を通り過ぎる。ついで護衛が三人。
——いまだッ。
竹板をばらして、中から一振りの剣を取り出す。そのときにおこった小さな物音に、護衛の一人が何気なく振り返った。いつもは気にもしないくせに、こんなときだけ振り向いた。
だがもう遅い。護衛が目を丸くしたときと、侘吉が右手に剣を持ったときは同時で、すでに侘吉は飛び上がっている。
「蔚海様ッ!」
護衛が叫んだ。叫んだ瞬間、侘吉に蹴り飛ばされた。
「覚悟ッ」
言うや直ぐに、蔚海へ向けて切っ先を突き出す。必中の一撃だ。
だが、世とは無常である。いや、蔚海に慈悲深いのかもしれない。突如のことに怯んだ蔚海が、そのまま足を躓かせて倒れこんだのだ。刃は、蔚海の直ぐ頭上を虚しく突いたにすぎない。
と、そこへ今度は韋駄である。彼女もまた剣を持って、倒れこんだ蔚海を刺し殺そうとした。だが、それは護衛によって阻まれてしまう。
一撃、二撃を失敗すると、あとは絶望的である。これからは暗殺ではなく戦闘となる。
「で、出あえ!」
蔚海を仕留めようと奮闘するが、すでに蔚海との間には人が五人も入っている。なおも蔚海は兵を呼ぶ。これ以上敵が増えては意味がない、何よりも、顔を大勢に知られるのだけは避けねばならない。
しかたなく、二人は手傷を負いながら宮殿の脱出を試みた。韋駄は身軽だからいいが、侘吉は多少てまどった。それでも、なんとか耶牟原城は脱出できた。
暗殺は未遂に終り、蔚海の身辺は物々しくなった。おかしくも、暗殺を多用した蔚海が、こんどは逆に暗殺されかけたというのだから、笑い話にもならない。因果応報、というものであろう。
「いったい、何者の仕業なのだ」
当然、そのことを蔚海は考えた。だがすぐに、こんなことが出来るのはホタルしかいないという結論にいたった。そうなると、清瑞の仕業か。
「いや、やつ一人でこんなことは出来まい」
乱波とは使われる存在だ。将軍職にある清瑞であっても、任務があって始めて動く。
となると、その清瑞を動かしたものがいるはずだ。
——亜衣、か。
自然、そうなる。それ以外に考えられない。だが、亜衣が清瑞と接触したという報告は来ていない。動機は十分だが、証拠が足りない。
そもそもおかしいのが、自分がこの動きに気づけなかったということだ。蔚海はいたるところに情報網を伸ばしている。暗殺という気運があれば、気づけないはずがない。
だが、数日して、蔚海の脳裏の情報が整理されてゆく。気づけない存在となれば、それは、あの『噂』が絡んでいれば。
——阿蘇の神の遣い。眉唾だが、気になる。そういえば、この噂の始まりは、亜衣からだった。『守護者』というのも、もしかしたらあの(一部で)有名な魔兎族三姉妹なのではないかというくらいに、情報が似通っている。
そして、最近では忌瀬が怪しい。こちらは馬淵に任せていたから詳しくは知らないが、これも何かしら関わっているかもしれない。さらに言えば、清瑞はかつて九峪の護衛であった。
いやいや、怪しむならば切がない。確証のない事をあれこれ考えるなど——それが、小心者の小心者たる所以であろう。
そうなれば、この暗殺は、『神の遣い』が指示したということになる。
「馬鹿な」
そうだ、馬鹿なとしかいいようがない。そんなことがあってたまるか。脈絡は——ここまで考えればないこともないが——ないし、何より荒唐無稽にもほどがある。
だが・・・・・・気になる。
「——いちど、阿蘇山を調べたほうがいいやもしれぬ」
それで真実がわかるだろう。もしも、あの霊峰に神の遣いがいるのであれば。
「それをも飲み込み、わしは比類なき英雄となる」
愚にもつかない考えだが、蔚海は本気だ。神の遣いを殺すことは、この男の自尊心を多いに昂ぶらせる事だろう。九峪を殺すということは、当節の人々にとって、
——神をも殺す
ということであるからだ。神を殺せるということは、神を超えた大いなる存在ということになる。
そして、である。蔚海にとって、絶好の機会が到来した。
「これで、ついに得宗家を叩き潰せるぞッ」
真実はどうであれ、蔚海が暗殺されかけたことは間違いない。蔚海はそれを、表向き『亜衣の指示』であるとすれば、それは得宗家討伐の大義名分となる。
証拠はない。だがそれでもかまわない。九峪の定めた法と倫理に拘る亜衣と違い、蔚海は自分こそが絶対の法であろ真理である堅く確信している男だ。自分が是といえば、すなわち是である。
この暗殺未遂事件より十日後、亜衣の屋敷が蔚海の軍勢によって襲撃され、炎上。宗像三姉妹、その家中の者たち占めて四百人は、不可侵の地である火魅子のおわす奥の殿へ身を寄せざるを得なくなってしまった。男子禁制のため、奥の殿の周囲を亜衣親衛隊が囲み、耶牟原宮殿はにわかに殺伐とした空気で満ち満ちた。
元星八年一月下旬のことである。