奥の殿を『不入』という。あらゆる武力が立ち入ることを許されない、九洲である意味もっとも安全な場所である。奥の殿は火魅子の御所である。
宗像海人衆に屋敷を焼き討ちされた亜衣は、なお床に伏せる羽江と家人たちを連れて、この奥の殿へと慌しく逃げ込んだ。いくら後見人といえど、奥の殿へ家人もろとも逃げ込むなど異例のことだ。
奥の殿の周辺には、衣緒が率いる亜衣親衛隊が警護を固めている。蔚海ならば火魅子の御所であろうと、乱暴狼藉を働きかねないからだ。
耶牟原宮殿の一番おくまったところに別棟を構えたのが奥の殿であるが、そこでは亜衣親衛隊と宗像海人衆が互いに睨みあっている。
「宗像の亜衣は謀反人であるッ! そうそうに引き出されよッ!」
そんな叫び声を海人衆たちがあげて、もう四日になろうとしている。亜衣たちが持ち込んできた少しの食料も、そろそろ底をつく。
「あいつら、煩いわね」
さすがに火魅子もそうとう苛ついている様子で、身体を取り巻く方力が無秩序に揺らめいている。生来、この女王は挑発などに弱く、激情になりやすく、気に入らない相手にはとことん風当たりが強い。ようは感情の制御が苦手なのだろうが、いまこそ外で騒ぎ立てる海人衆に腹が立っているはずだ。
それがわかるだけに、亜衣としても申し訳ない気持ちになってしまう。問題事を持ち込んだ身である亜衣は、ただ謝罪する以外にない。
もう何度頭を下げたかわからない。亜衣自身、なぜ自分が謂れなき咎を責め立てられなければならないのか、一切わからないのだが、そこは火魅子には関係ない。
「亜衣は気にしなくていいのよ。煩いのはあいつらで、悪いのもあいつら」
「しかし・・・・・・」
言葉を濁すたびに、心が重くなってゆく。
背に腹は代えられなかった。わけもわからず屋敷を焼かれ、襲われ、散々に逃げ惑ったのだ。小者や女中などの非武装者も多く、駆け込める安全な場所は限られ、なにより時間がなかった。奥の殿へ逃げるかどうかは亜衣も最初まよったが、
しかたがない。
と、言い聞かせながら駆け込んだ。火魅子にとっても巫女たちにとっても、甚だ迷惑なだけの話だろう。仕方がないと割り切ったことが、いまさら悔やまれる。
ならば出て行けばいいだけだとも思えるが、ここでもしも亜衣たちが出て行くと、火魅子を目障りに思い始めている蔚海が、
「女王といえど、謀反人を匿ったことは事実」
といって、火魅子を害しないとも限らない。いや、これは千載一遇の絶好期である。蔚海はやるだろう。
もはや亜衣は、ここを動くことも出来なくなった。
「いっそ、撃って出ましょう」
火魅子が言った。どうにしろ、こんなことに時間をかけていられない。それもまた、現状を打破する方法だろう。
だがそれでは、戦力を動員できる蔚海に軍配があがる。危険は避けるべきだ。
「もうすこし、様子を見ましょう」
迷惑千万を覚悟で、亜衣の指示が事細かに奥の殿へ行きわたった。
「亜衣のやつめ。奥の殿へと無様に逃げ込みおったわ」
そんなことを、周りの者たちに声高に言った。蔚海の前に、まさに好機到来であった。
九洲で最大の権力を誇り、火魅子にも負けず、『九洲王』とまで呼ばれた九峪にさえ劣らない地位を確立した亜衣が、いま自分の手によってころころと坂を転がり落ちている。
愉快だ。愉快である。愉快で仕方がない。
蔚海の愉悦はいかほどだろう。それは、彼を取り巻くものたちでさえ計りしえない。
「このまま、奥の殿ごと亜衣を焼き払ってしまえ。得宗家を滅ぼしてしまえ」
「う、蔚海殿。まった、またれよ。それはやり過ぎだ」
さすがに各衆のかしら達も大慌てになった。大慌てなんてものではない、まさに大驚愕という三文字が相応しい。それほどの騒ぎとなった。文官たちもこれには眼を剥かざるをえなかった。
九洲人にとっては、神の遣いも神に等しい。火魅子も神に等しい。火魅子は神の子という意味の『天子』であり、神の遣いはその神に仕える『天使』である。
『天子』と『天使』の関係を完結に例えるならば、キリストがわかりやすい。火魅子の『天子』をイエスとするなら、九峪の『天使』は大天使ミカエルか、あるいは見方を変えて、サムソンや洗礼者ヨハネなどの使徒にあたろう。
九峪も火魅子も、もはや信仰の対象となりつつある。それを害するということは、敬虔なキリスト教徒がイエスの十字架や聖母マリアの像を破壊してまわるほどに、異常なことである。
蔚海はいわば無神者なのだろう。神の遣いも火魅子も歯牙にかけていないが、しかし彼以外はそうではない。たとえ火魅子の敵に、神の遣いの敵になろうとも、彼らを害するという考えまでは及ばない。
そんなことをしては、天罰が降ると信じているからだ。逆を言えば、生きてさえいれば、何をしても言いと考えている。
「なにも御所まで焼くことはない。いまのまま、食の道を断ちさえすれば、いずれは音を上げて降伏するに決まっている」
だから火魅子は殺すなと、かしら達は弁の限りを尽くして蔚海を説いた。
だが、ここでも蔚海は暴走した。
「異を唱えるものは、宗像から追放である」
とまで言い出した。こうとなってはもはや蔚海を止める術を、誰もその口にもたない。
——馬淵さえいれば。
弁舌でのし上がってきた彼女がいれば、気の触れた蔚海を抑えられたかもしれない。いくら蔚海に罵られているといっても、馬淵の奉仕は甲斐甲斐しかった。千の言葉で足りないなら、万の言葉で説くのが馬淵である。
彼らはまだ、その馬淵がさんざんに打ちのめされて、すでに主を見限っている事を知らない。馬淵が誰にも明かさなかったからだ。
元星八年一月二十六日。共和国建国以来、九洲統治の象徴である奥の殿に、火が放たれた。それと同時についに、にらみ合っていた親衛隊と海人衆が武力衝突した。
親衛隊は総勢三百人程度。対して海人衆は六百人。それは戦いというよりも、ただの殺し合いであった。
昼間の曇りがかった空へ黒煙が昇り、耶牟原宮殿が戦場と化した。
「蔚海め、まさかここまで愚かだったとはッ!」
火魅子をつれた亜衣が外へ出ると、そこはまさしく戦場で、久しく忘れていた合戦の風気が漂っている。
コンッと軽い音を立てて、後ろの板に矢が突き刺さった。九洲に君臨する戦巫女が、それを右手でへし折った。
「あの禿頭、私の御所に火を放って・・・・・・ッ!」
「蔚海はまだ禿げていませんが」
「禿げればいいのよ、あんなやつッ! 禿げろッ! むしろ禿げさすッ!!」
へし折った矢を地面に叩きつける。かなり怒り心頭のようだ。言っていることはどうにも幼稚だが、禿げさせれるものなら亜衣も力の限り禿げ上がらせてやりたい。
それよりも、この状況である。
奥の殿には巫女が多い。というか巫女しかいない。彼女たちは半数以上が宗像系の巫女だが、優秀な能力者ならば、九洲中からかき集めてきた。みな戦慣れしているし、内五人は飛空挺の操者でもある。
問題は、亜衣についてきた家人たちだ。彼らはいくさに慣れておらず、腰を抜かしかねないほどに怯えきっている。何かの拍子に狂乱されては面倒だ。
だから、こんなところに長居は無用だ。
「火魅子様、ひとまず落ちましょう」
賢明な判断で、この場合は正しい。
しかし火魅子が眉を吊り上げながら、戦場を指差して、
「ここまでされて、引き下がれって言うの? この私が、蔚海ごときに耶牟原城を追われたなんて、天下の笑いものだわ。戦うのよッ!!」
——またこのお方は。
亜衣は頭を抱えた。こんなときに、火魅子の悪いクセが出てしまった。感情に流されやすいというか、雰囲気に流されやすいというか。
久々に戦場を目の当たりにして、戦巫女の『戦』の部分が騒ぎ出したようだ。さらに義妹の衣緒が戦っているものだから、よけいに助太刀しなければという思いに駆られたのだろう。
「ここで戦ったら、宮殿が燃えてなくなってしまいますよ。再建に心血を注いだ宮殿が燃えたと知れば、九峪様がどれほどお嘆きになることか・・・・・・」
「うっ」
火魅子が怯んだ。
「ですから、いまは落ちましょう」
「で、でも、でもでも・・・・・・ッ!! あいつら」
「お、ち、ま、しょ、う!!」
「ハイッ、落ちましょう、いまスグ」
亜衣が少しでも凄んでみせると、この女王はあっけなく折れる。やはり後見人とし、姉として、母親代わりとなってくれた亜衣には、そう簡単に逆らえるものではない。
「裏の山から逃げる。目的地は宗像だ。足止めは任せたぞ、衣緒ッ」
「はいッ、ご無事で!」
衣緒にしんがりを申し付けて、亜衣たちは裏の山から宮殿の脱出を試みた。耶牟原宮殿は、背後に小高い山をせおい、そこに大きな櫓を立てている。火魅子だけが登れる祈祷台である。祈祷台のすぐ横を通り過ぎて、大路に出て慌しく駆けて行く。宮殿から煙が上がっているのを見た民衆が道々に集まってきている。
混乱している民衆が邪魔である。これでは逃げ切れない。そう亜衣は思ったが、亜衣や火魅子の出現に驚いた民衆が、静かに道を開いた。
なんだと亜衣が不思議に思うと、一人の老人が進み出てきた。老人は平伏した。
「もしや、落ちまれましょうや」
「落ちる」
ここまでくれば体もなにもない。亜衣は素直に応えた。むしろここで見栄を張るほうが、亜衣には無様なことに思えた。
「それはようございました」
「なにがいいもんですかッ!」
身を乗り出した火魅子の叫びに、この老人は驚いた様子も見せない。それどころか、火魅子が声を上げたことに対して、「よかった、よかった」と呟きすらした。
「よいことです。生きなさっておれば、またここへお戻りくだされ」
いまは落ち延びて、いつか必ず戻ってきてほしいと、老人はそういった。老人だけでなく、民衆みながそういった。
彼らもまた蔚海に怒れる人々だ。
「我々は堪えられます。狗根国の属となってから、何年も堪えてまいりました。また堪えるときがきたのです。ですから、女王様方も、どうか堪えてくだされ」
老人には、火魅子や亜衣の悔しさがわかるのだろう。幾倍も長生きしてきた老人だからこそ、その言葉には温かみがあった。
この温かみを、かつて九峪が『皆の和』と、亜衣にいった。九峪がこの世界のこの国に築いた倫理観である。
背後から声が響いてきた。どうやら徐々に追いつかれつつあるようだ。民衆が火魅子たちを急かすように城門へと導いた。
番兵たちが何事かと騒いでいる。それを落ち着けて、火魅子と亜衣が耶牟原城を脱出した。脱出してからは一路西を目指し、反乱軍の占領下にある直方平野、得宗家聖地である宗像神社へ身を寄せた。
それからちょうど一日遅れで、衣緒が落ちてきた。親衛隊は二百人ほどまで数を減らしていた。
火魅子が耶牟原城を追われるということは、古今未曾有の大事件である。火魅子を盟主とする国家が滅亡の危機に直面した。
火魅子と得宗家が直方へ亡命した直後、馬淵も耶牟原城を脱出する準備を整えた。勝部——というか九峪——からは、とにかく火後にある里まで逃げてくるように指示をされている。そこで遣いの者が迎えているという。
門番はすでに買収済みである。私財の三分の一をなげうって、裏切らないように手懐けた。じつは亜衣たちがあっさり脱出できたのも、馬淵の買収が亜衣たちの脱出にも関わっていると門番が勘違いしたためだったのだが、そんな裏事情は馬淵も、亜衣も、誰も気づいていない。
脱出の手筈は整ったが、そのまえに馬淵にはやらねばならないことがある。これが、勝部より与えられた亡命のための条件だ。
脱出する前に、ある噂を流す。噂とは、『蔚海の暴虐非道に腹心の馬淵が苦しんでいる』という噂だ。これを耶牟原城中や宗像海人衆の内部に広く流布させるのだ。もちろん、そのことを蔚海に知られたら、命はない。
助かるために命を懸けるというのもおかしな話だが、ただ助けられるだけなんて事は上手い話すぎる。この条件を馬淵は呑まざるをえない。この危険を冒すことで、確実な庇護が求められるのだ。
十日間ほど噂をばら撒き、ようやく浸透した頃、馬淵が耶牟原城を出た。少ない家臣をともない、屋敷には火を放ち、夜陰にまぎれて南下した。
蔚海がこの事実を知ったとき、すでに海人衆の内部では、馬淵が蔚海の仕打ちに堪えられなくなって見限ったという噂でもちきりとなっていた。一部では、蔚海に追い出されたという噂が聞こえている。
馬淵ほどのものに見限られたとなると、これは相当な出来事である。蔚海の主としての器量が問われているも同然である。
逐電騒ぎから暫く、海人衆のみならず、文官たちからも、
「このまま蔚海についていっても大丈夫だろうか」
と、不安がる者たちが現れてきた。自分たちも馬淵のように苛烈な仕打ちを受けるのではないかと思い、とくに御所焼き討ちを諌めようとした各海人党のかしらたちはもっとも深くその事を考えた。
九峪の狙いは的中した。
これ以降、海人衆内部、政権内部で蔚海の影響力が徐々に薄らいでいった。みなが疑心暗鬼にかられた。
さて、馬淵である。
耶牟原城を抜け出て、火後県領内に入ってからも、追っ手の脅威に怯えながら、なんとか指定された里に辿りついた。癒えきっていない体が、悲鳴を上げている。
農家に分宿し、その中でも一等の里長の屋敷に馬淵はいた。身体を横たえらせ、息も切れ切れだ。
「旦那様・・・・・・大丈夫ですか?」
女中が心配そうに声をかけてくる。九洲では、己の主がたとえ女性でも未婚の場合は『旦那様』と呼ぶことがある。結婚すれば『奥方様』となる。
包帯を取り替えると川水で喉を潤し、静かに息をつく。ひとまず、ほっと胸を撫で下ろした。
「迎いがいると聞いていたが」
それらしい姿は見えない。とはいえ、いまは深夜だ。もしかしたら明日になるかもしれない。
明朝まで、まだニ刻半以上ある。それだけあれば、追っ手に追いつかれて殺されるかもしれない。
なかなか安心できなくて寝返りをうつ。そのたびに体が痛む。わが身の不幸が呪わしい。
結局、不安と恐怖から一睡も出来ずに、日の出を迎えた。小さな音にさえ怯えて、すっかり憔悴しきっているが緩慢に床から這い出る。
顔を洗っても痛い。身体を拭いても痛い。何をしても、馬淵の身体は悲鳴を上げる。眠気が脳を胡乱にする。もう泣き出したい。
そんなときだった。屋敷に人が訪ねてきた。里長が出迎え、来訪者を奥へと招じ入れる。ニ、三の会話が聞こえる。身支度を整えた馬淵は息を飲んだ。
——どっちだ。
勝部の迎えか、それとも、蔚海の追っ手か。
「だ、旦那様ぁ・・・・・・」
女中が小声で名を呼ぶ。震える声が彼女の怯えを物語っている。何においても気の小さい女だと、馬淵はくだらな気に思った。
だけど、馬淵の内心ではかなり怯えている。それを面に出さないのは、この、いまにも泣き出しそうな顔をしている女中がすぐ横で震えていて、そのぶん余裕があるだけだ。
すこしして、来訪者が馬淵たちのいる部屋へと入ってきた。一人は不思議な巻き毛の美人で、もう一人は可愛らしい少女だ。どちらも知らない。
一瞬、言葉を失った。視線が巻き毛の女性の——豊満な胸に吸い寄せられる。
——で、デカイッ!?
あまりの巨乳に、まさに言葉を失った。こんな巨大な乳房など見たこともない。同じ女として、化け物でも見たような気分だ。ついでに、少しだけ悔しい。
「あなたが馬淵さんね?」
少女の言葉に、馬淵の意識が現実にもどった。衝撃の抜けきらないまま、ただ首を肯かせる。
「迎えにきたわ」
「え、あ、・・・・・・では、あなた方が」
——勝部の遣わした者たちか!
ぱっと馬淵の表情が明るくなった。それまで心を締め付けていた恐怖や怯えはことごとく霧散し、どっと安堵の暖かみが満ちてきた。
助かった。本気でそう思い、思った瞬間、腰を支える力があっというまに抜けていった。腰砕けのように尻餅をつき、その瞬間を馬淵も気づかなかった。
「あ、あれ?」
「だ、だ、旦那様ッ!? どうなさいましたかぁ!?」
「腰が・・・・・・たてない」
安堵のあまり気が抜けすぎてしまったのだろう。自力で立ち上がれない。手で地を圧しても、腰から下が草葉のように力なく、うんともすんとも言わない。
その様子を、遣いの二人が笑いながら見下ろしている。
「あらあら。そうとう安心したようね。腰が抜けちゃうなんて」
「くっくく・・・・・・情けない姿だな」
言い返せない。自分でも情けないと思う。少しの物音にも怯え、夜も眠れず、いまも追っ手かと警戒して息を殺し、違うとわかった途端に立てないほど腰砕けとなってしまった。恥ずかしいったらありゃしない。
赤面して俯く馬淵を他所に、遣いの二人が話を進めている。そうやら今すぐここを発つようだ。それ自体に異論はない。問題はこの情けない足腰だろう。
女中の肩を借りて立ち上がり、家臣一同に出発の旨を伝える。みな、馬淵に劣らないほど顔を明るくしている。泣いている者さえいる。彼らもまた恐怖に耐えてここまで来たのだ。
「怪我をしているようね」
里を去り際、小さいほうが馬淵にまかれた包帯を見て尋ねてきた。たしかに馬淵の額や手首にまかれた包帯が、あまりにも痛々しい。
「痛むかしら?」
「ええ、まぁ」
「悪いけれど、さっさと連れてこいって言われてるの。あなた方にとって相当の悪路になるでしょうから、覚悟なさいな」
「悪路・・・・・・」
ここから勝部の屋敷まで、そんな不便な交通だったろうか? 少なくともそんな知識も記憶も、馬淵の頭にはない。
だが使者がそういうのだから、やはり悪路なのだろう。いや、もしかしたら、追っ手の追跡を撒くためにあえて悪路を行くのかもしれない。そう指示したというのならば、勝部という男はかなり頭脳の冴える男のようだ。
そう一人で勝手に感心しながら、悪路など何事ぞと決心をつける。こっちは命がけなのだ。
明朝、すぐに里を出発し、一行は火後側から阿蘇山へと踏み入った。八十人ほどの集団が、道なき道を突き進む。
——まさか阿蘇山を行くとは。
下人に藪を掻き分けさせつつ進み、荒い息を吐き出す。こんなものを道とは言わない。使者たちは獣道と軽々しく言い放ち、まったく疲れた様子もなく馬淵たちを先導するが、しかしやはり道ではないだろう。むしろ自分たちが道を作っているようなものだ。
悪路という表現も間違いだ。悪路とはただ通行不便というだけで、れっきとした道をさしていう。
しかしここでは、急斜面を横に歩き、崖のような場所さえ通過した。木々草々で一寸先も不可視にちかく、十歩先が奈落なのではとさえ思えてくる。
このような道すらない場所をわたる場合、そこを悪路ではなく険路という。個人ですら難儀し、命さえ落としかねない険路を集団で越えるということは、この文面から感じられる以上の過酷であり、その中で馬淵たちが四苦八苦している。
「・・・・・・——ッ」
傷も頻繁に痛む。運動能力の高くない馬淵には、かなりの重労働だ。顎から落ちる汗の粒の大きさが、彼女の苦しさを物語っている。
いま自分たちがどこにいるのか、それすらわからなくなった。東西南北のどこを向いているのか、里を出てから何刻たったのか、までも。
もう限界だ、と弱音を上げそうになるたびに、
「ここで休んだら、追っ手に追いつかれるかもしれないけど、いいのかしら? まぁ、私は別にいいのだけれど」
と、小さいほうが脅してくる。ために中々、心身とも休まらない。
「も、目的地までは、あとどれくらいで到着するんだ?」
たまらず尋ねてみると、小さいほうが振り向いた。ようやくわかったことだが、巨乳の口から返事が返ってきたためしがない。そうとう無愛想で、小さいほうほど口も達者ではないのだろう。
可愛らしく小ぶりな唇に人差し指をあてて、うーんと簡単に時間を計算している。
「この調子だと、あと三刻半というところかしら」
「さ、三刻半だとッ!?」
可愛らしい口から飛び出した殺人的な数値に、思わず馬淵は叫んでいた。一刻が二時間で、この場合は七時間ということになるから、馬淵でなくても叫びたくなるだろう。
一日のほぼ四分の一をこの険路を渡ることに費やせと、使者はこともなげに言い放った。
満身創痍の身体で三刻半。阿蘇の険路で三刻半。それだけあったら、追っ手にだって何にだって追いつかれてしまうではないか。
いや、たしかに、それだけかかるかもしれない。なにせ薩摩まで逃げるのだ。そう考え直して、黙々と歩き始める。
だが、ふと木々の間から偶然に陽光が差し込み、小休止がてら空を見上げて、そして首をひねった。
太陽は西に傾く。そんなことはこの時代の人間も、天空人と大陸人のもたらした叡智のおかげで知っている。
太陽が見えるたびに顔を上げ、次第に疑問が深まってゆく。薩摩へは、南西に下ってゆく。
これは明らかに、東へばかり進んでいる。東は火向県——かつての東火向へと出ることになる。追っ手の追尾を撒くためだとしても、これではおかしい。
「すまない、ひとつ確認したいのだが」
疑念が沸き起こった。先を進む二人の使者が振り返った。
「そちらは、勝部の使者であるな」
——まさか、蔚海様の手の者とは思えないが。
不可思議すぎて、二人が信用できなくなった。このままついていった先で、武装した集団に取り囲まれていた、なんてことにもなりかねない。
二人が互いを見合している。それから笑みを浮かべた。
「安心なさいな。その勝部とやらの使者よ」
やらとは何だ、やらとは。勝部ではないのか。なんだかその笑顔まで信用できないぞ。
疑いのまなざしがどんどん強くなってしまうが、もうここまできたら野となれ山となれだ。いっそ開き直ることも大事だろう。もとより命がけの逃避行、ここで死ぬのならば、自分は蔚海に及ばない浅知恵でしかなかったということ。
乱世の常、覚悟を決めて討たれよう。それまでは、行き着くところまで行こう。
それもまた乱世の生き方だ。
しばらく生と死の葛藤に揺らいだ馬淵も、息を一つのみ、
「いや、失礼した。先を急いでくれ」
と、金棒のように重くなった足を前に踏み出した。そうだ、もはやこれ以外に道はないのだ。死ぬときは、家臣もろとも皆殺しだ。
胎を据えると、逆に心が軽くなった。いや、ただ麻痺しているだけかもしれないが、疲弊しきった身体を進ませるには十分だ。
生への脱出か、死出の旅立ちか。どちらになろうとも構わない気持ちで、馬淵は一杯になった。
——が、しかし。運命とは二転すれば三転するものだ。良くも悪くも、そういうものだ。
ふいに藪が慌しくなった。その音に気づいたのは先を行く使者二人だった。
「何か来るわね」
「多いぞ」
そんなやりとりが馬淵の耳にも入った。心臓が飛び跳ねかねないほどに苦しい。やはり罠だったかと、唇をかんだ。だが内容が本人たちにとっても不明瞭なようで、わかりかねているらしい。
阿蘇には魔獣も生き残っていて、山人などが餌食となっている。それかもしれないし、そうなるとやはり助からない。
罠か、魔獣か、それとも追っ手に追いつかれたか。そのどれかだろうと思う。家臣たちも恐怖や不安に身体を固め、気の弱い女中が失神しかけて仲間の女中に支えられている。
「何人いるかしら」
「・・・・・・七人だな。こっちに来てる・・・・・・けど、姉様」
巨乳が、一点をじっと見つめている。
「空が発動してないとダメね、視力も人間と変わらなくて。見えた?」
小さいほうが尋ねると、巨乳が頷いた。
「見えた。・・・・・・何やってんだ、あいつ」
「あいつ?」
「兎奈美」
巨乳が言った。その直後、迫り来る集団が姿をみせた。
出てきたのは、先頭を進んでいたらしい、
「あれ〜?」
間の抜けた声と揺れる巨乳が印象的な、兎奈美と呼ばれた女性。
その後ろから、続々と人が現れてくる。出てくるたびに、馬淵は声を失った。声どころか、息すら忘れたように止まった。
「ホ、ホタルの清瑞に・・・・・・く、く、く」
「と、兎華乃? 兎音? お前たちがいるって事は・・・・・・」
男が馬淵のほうを向いた。その顔は、知りすぎるほどに知った、おそらく九洲人ならば誰でも知っている男。
「こちらが、頼まれていた馬淵さんと愉快な仲間たちよ」
小さいほう——兎華乃と呼ばれた少女が、馬淵を指差した。指差しが失礼だという観念はこの時代になく、あったとしても馬淵にはそれど頃の場合じゃない。
男と目が合った。
「じゃあ、お前が馬淵?」
「く、九峪さまーーーーッ!?!?」
どういうわけか、いま自分の目の前にこの世にいないはずの神の遣いがいて、馬淵の大きく開かれた喉が、九州津々浦々にまで響きそうな絶叫を天空に叫ばせた。