多くの問題に頭を悩ませてきた亜衣を見て、こんな問題も処理できないのかと蔚海は何度も侮ってきた。
自分ならば上手くやれる。そう自信していたし、欠片も己の能力に疑いを持たなかった。
だが今はどうだろうか。現状、蔚海を取り巻く問題を大まかに分けると、
——種芽島に屯している北山と派遣団の残党
——加奈港・外加奈の城に居座っている教来石
——直方を切り取った反乱軍
——宗像へ亡命した火魅子と宗像得宗家
——離反した馬淵とその家臣の行方
——信服していないことが露呈した各地の豪族
と、数多い。
そして最近では、宗像海人衆からの支持が低下し、文官からも戸惑いの声が上がっている。蔚海にすれば、なぜ自分のやり方に疑問を抱くのか、それそのものが不思議で仕方がない。
蔚海という権力者のいうことには、万民がひれ伏し有難がって従わねばならないのだ。
そこへ今度は、
「阿蘇山には神の遣いが本当にいるのではないか」
という到底みて見ぬふりの出来ない重要問題が、蔚海を揺さぶっている。信ずるに値する確たる証拠はないが、しかし証言だけは不自然なほどに数多きこえてくる。
信じたくないというのが本音だが、いったん気になりだしたら、もう考えることをやめられない。それだけ九洲人にとって九峪の持つ存在意味は大きい。
もしも、仮に、万々が一の可能性として、阿蘇のどこかに九峪がいるとしよう。なぜ九峪がそこにいるのかという理由も気になるところだが、その原因を考えると、とても心穏やかではいられない。
元星三年に九洲を揺るがした文官と武官の諍い——『文武騒乱』が直接の原因とみて間違いない。九峪が現世へ帰還したと宣言された時期と重なるだけに、信憑性は極めて高い。
そうなると、『文官と武官の対立』という背景がそのまま『火魅子と神の遣いの対立』に摩り替わっていっただけに、文官と繋がっている自分は九峪と反目しかねない。
さらに、所謂『火魅子派』と呼ばれた文官も、すでに得宗家や火魅子と距離を置くどころか決裂している状態だ。いま、かつての九峪派として罷免された武官たちが、反乱軍に参加している。火魅子も、反乱軍と合流するに決まっている。
すでに、『火魅子』と『神の遣い』が対立しあう構図は——存在しない。
神の遣いである九峪が蔚海の暗殺を謀ったならば、火魅子と呼応している可能性が高い。それはつまり亜衣とも繋がっているということだ。そのため、蔚海は亜衣の屋敷を襲撃し、奥の殿まで焼き払った。だが衣緒という得宗家きっての勇将に阻まれ、みすみす逃してしまったことが悔やまれて仕方がない。
いかに自惚れている蔚海といっても、火魅子、亜衣、そして神の遣いの三人を相手にするとなると、胃の奥底をきりきりと締め上げられるような苦しさを感じる。
蔚海の考える今後の流れは、まず火魅子が宗像に仮の御所をおき、そこから蔚海討伐の詔を豪族たちに降す。討伐軍の主軸は天草の反乱軍となるだろう。これに九峪が呼応すると、種芽島の残党も九峪を奉じて槍を上げるはず。
そうなった場合、自分がどう行動するべきか。まず、火魅子がいなくなった以上、新たな国主を立てねばなるまい。
当ては無い。蘇羽哉を火魅子にしようかとも考えたが、その蘇羽哉も、ほとんどの巫女と一緒に耶牟原城を抜け出してしまった。それもご丁寧に、動かせるだけの飛空挺を持ち出して。
間違いなく、亜衣たちの後を追ったのだろう。憎らしい話だ。
「・・・・・・ならば、よい。わしが王となる」
宰相を傀儡にする利点は、あらゆる責任を負わないところである。だがそもそもその傀儡に逃げられたとあっては、もはや自分自身が大王となる他あるまい。
こうして、建国より十年ほどで、耶麻台共和国は完全に蔚海に乗っ取られることとなった。元星八年四月、蔚海は自らを新たな国主として、火魅子討伐の軍令を各地に発令した。時を同じくして、薩摩の香蘭が火魅子へ蔚海討伐を上訴し、火魅子も蔚海討伐の詔を降した。
亡命した火魅子を討つための討伐か、現国主である蔚海を討つための討伐か。豪族たちは、どちらかを選ばねばならない。
そして九峪にも、蔚海の魔の手が忍び寄っていた。
馬淵を保護するにあたって、当地への水先案内を兎華乃と兎音に任せることにした。理由はいたって単純、彼女たちしか適任がいないからだ。いや、それは御幣がある。兎音も安心できない。
兎華乃だけが安心して任せられる——と願っているが——のだが、基本的に戦闘能力の皆無な兎華乃ひとりでは心許なく、とりあえず兎音も保険としてついていってもらった。兎奈美を選ばなかった理由は——言わずもがな、彼女は頭のネジが五、六本ほど抜け落ちているからだ。
で、あるため、いま九峪の住居には兎奈美と女中の二人しかいない。あとは山猫一匹か。九峪のお遣いで馬淵に監視されていた忌瀬は、ここしばらく何処へと知れなく行方をくらませている。どうやらいよいよ身の危険を感じたらしい。しかし馬淵が九峪の側に逃れようとしているため、近いうちに戻ってくるだろう。
このときは、まだ御所が焼き討ちされていない。当然、蔚海と火魅子の両方から討伐の令は降っていない。
だからこそ九峪の心配事は、馬淵がちゃんと噂を広めて耶牟原城を脱出できたかどうかと、みごと蔚海を暗殺できたかどうかのみである。
上項は成功したが、下項は惜しくも失敗に終わっている。
「忌瀬には早く戻ってきてもらわんとな・・・・・・。八十人もここに押しかけるとなると、食料も寝るところもないぞ」
「当たり前じゃないですか。なにを今更いってるんです」
「その通りなんだけど、なんだろうね。ほんとにグサグサと心を突き刺す言葉が飛び出すね」
「飛び出しもしますよ。八十人ですよ、八十人。面倒見切れるはずないでしょう。九峪様でしたらそれだけの大人数、ひとりでさばききれますか?」
無理です。昔、飲食店でバイトをしていたが、ピーク時の壮絶さときたら伊尾木ヶ原の屍原を歩くのと同じくらいに酷かった。
「その『ばいと』が何かは存じませんけれど、それを私にやれっていうんですから、私のお仕えしているお方は悪鬼の類なのではと思いました」
「いや、それは悪いって思うけど・・・・・・。しょうがないじゃんか。ここしか逃げ込ませる場所がないんだから」
もしも馬淵を薩摩に逃がしたら、間違いなく十河の守矢がブチ切れる。勝部だって、まさか自分が取り持っている書状によって利用されているなど夢にも思っておるまい。
それに九峪も、まさか八十人をずっと匿うつもりはない。馬淵だけを手元に残して、あとの者たちは香蘭のもとに預けようと考えている。それまでの辛抱だと思っている。
まぁ、それまでが大変だろうが。女中にはひとつ気合を入れてもらおう。
それに気を遣うのは九峪とて同じだ。こちらは自業自得だろうが、八十人という大人数が九峪の存在に気づくことになるのだ。そこからまかり間違って蔚海や民衆の耳に聞こえてはどうだろうか。
またぞろ面倒ごとになる。
「ここが正念場かもしれない」
無事に馬淵主従を保護できれば、あとは亜衣や重然が何とかしてくれるはずだ。蔚海の周辺が騒がしくなれば、それを見過ごす二人でない。必ず動く。
たしかに、事情は多少ことなることになるが、概ね九峪の構想どおりに事態は発展してゆく。ひとつ誤算だったのが、すでに己の存在に蔚海が感づき始めていることだ。九峪の知るところではないが。
夜がふけ、朝日が昇る。兎華乃たちが出発して、一日がたった。
順調にいけば、もう里を出発しているはずだ。あとは到着を待つだけだが、どうにも時間が気になる。けっこう緊張しているのがわかる。
打つ手打つ手が、まるで天に悪戯されているのではというようなタイミングで発生する問題に潰され、ようやく形ある成果として実を膨らませ始めたのだ。これ以上、失敗してたまるかと思う。
「まつしかないなら、のんびりしていた方が、身体にも楽ですよ」
朝餉をとりおえて茶を啜っているとき、女中が器を片しながら言った。
「気のせいならいいんだけど。最近、忌瀬に似てきたな、気のせいだけに」
「うまいこと言ってる余裕があるんでしたら、縁側で読書でもしといてください」
「わかったよ・・・・・・」
しかたなく、縁側で書を開く。とりあえず手持ちは全部持ってきたが、どれも大体読み終わったものばかりだ。孫子だとか六略とか、正直もう一度読めといわれても読む気になれない。もともと、そんなに勉強だって好きではない。ぶっちゃけた話、書いている内容も半分くらいは理解できなかった。
最初は素直に座って読んでいたが、そのうち、寝そべったり腕立て伏せしながら読んだり。
「九峪様・・・・・・もう飽きられたのですか」
もはや御馴染みの格好となった『洗濯籠の女中』が、がっかりしたような表情で呟いた。
九峪は、腹筋をしていた。
「し、集中でき、ないんだから、仕方な、いじゃないか」
「そんなに気になるんですか、その・・・・・・馬淵とかって女性が」
ぴたりと上下していた体が静止する。ゆっくりと傾き、背が濡縁に倒れた。首を少し横に抜け、空を見上げた。そんなに長いことしていたわけではないだろうに、すでに九峪は疲れきっている。
気になるかと問われると、それはそうだろうと答えざるをえない。損得で言えば、馬淵を助けて得られるものはない。別に見捨てたっていいのだ。もはや馬淵の利用価値は、蔚海の悪評判を流布させた段階で消滅している。
それを、なぜ八十人もの人々に正体を明かしてまで助けようとするのか。なぜ利もないのに害を呼び込もうとするのか。
理解に苦しんだとて不思議ではない。九峪のやっていることは、まったくの無意味なのだ。少なくとも、九峪にとって利益はない。
「助けてくださいって、縋ってきたんだ。見捨てるのも、ちょっと、な」
「馬淵は、九峪様の敵だったのではないんですか?」
女中は、馬淵についてよくを知らない。蔚海の腹心だということだけで、それ以外はさっぱりと言っていい。蔚海の腹心といえば、九峪の敵のはずだ。
いくらその腹心が主と決別したといっても、ならばすぐに味方というわけではないはずだ。
遺恨もあるはず。それでもなぜ助けようとするのか。
それが、女中には不可解でならない。
「赦すとか、赦さないとか、そんなことじゃないんだ」
眼を閉じてく、九峪が言う。それは長年、九峪を悩ませ苦しめている。それを考えるたびに、自分も複雑な人間に成長してしまったものだと、思わず笑いそうにさえなってしまう。
「俺はどうにも、見捨てるって事が出来そうにないんだ。助けを求めるなら、助けないといけない」
——それが、俺の世界での倫理観なんだ。
そう九峪は、馬淵を助ける心を説いた。弱者を救うという、いわゆる現代の倫理観は、九峪の根底を支えている。だがそれゆえに、この世界では苦しんできた。倫理と理屈の板ばさみだ。
「それに、馬淵が俺の敵かといえば、厳密には正しくないな。俺の敵はあくまで蔚海であり海人衆そのもの。馬淵個人が憎いわけじゃない」
「だから助けるんですか? 馬淵だって宗像海人衆ではないですか」
「それはそうだけど・・・・・・どうした? なんか、妙につっかかってくるな」
怪訝そうに尋ねられて、洗濯籠を落としそうになった。急激に顔が赤くなってゆく。
「も、申し訳ありません。出すぎた事を・・・・・・」
——なにを私は。
自分がどこかおかしい。会った事もない人間のことで、なにか胸にもやもやが立ち込めている。
九峪も、それ以上ふかくは尋ねようとしない。彼女は彼女なりに心配してくれているのだと、そう勝手に納得した。
「重要なのは、馬淵が蔚海と宗像海人衆を見限ったっていう事実だ。それが不和を生み出す。海人衆内部にも、文官衆内部にも。そうすれば、裏切り者がこれからも出るかもしれない。そうなったとき、馬淵が俺に見捨てられて死んだ場合、裏切り者は誰を頼って反旗を翻せばいい?」
「それは・・・・・・」
咄嗟に答えられない。そうなったときは、裏切るものは出ないだろう。むしろやぶれかぶれとなって、蔚海と運命をともにする道を選ぶかもしれない。それでは攻めるほうに困ることとなる。
「赦す赦さないの問題にするなら、赦す。赦したという前例を作る。赦されれば、連中は安心して逃げてこれる。つまり裏切りやすくなる。それが謀略であり、調略ってもんだ。そういうものなんだ」
「では、謀のために、馬淵を助けると?」
「昨日の敵は今日の友。そういう諺が俺の世界にある。まぁどっちみち、馬淵は裏切り者になった。ならば、これから馬淵は誠実に蔚海を裏切り続け、誠実に俺たちと付き合ってゆく以外に道はない」
そうすれば、裏切った心の中に、本当に誠実な心が滲み出てくるのではないか。その誠実が、新たな仲間意識を生む。
それが、調略。
「救いを求めるものを助けたいって言う倫理。内部崩壊を誘発させるためっていう理屈。けど俺は、その倫理さえ、理屈の道具にしている」
「どういうことです?」
「誠実に助けるから、誠実に尽くせ。そういう無言の圧力になるんだよ。いや、そうするんだ」
だから俺は、複雑な人間になってしまった。昔の自分なら、もっと単純に、純粋に、助けるために助けていた。理屈も打算もない。
やはり染まっているのだ、自分は。この世界に。いや、十年も生きれば染まりもする。
重要なのは、染まってなお、自分を見失わないこと。倫理さえ道具にするなら、せめてその倫理を貫き通さねばならない。
それが、九峪雅比古だからだ。
「俺も、腹黒くなっちまったもんだな」
透き通る空を見上げる。昔の自分は、この空の潔さに近いほど澄んでいただろうか。そうであってほしいと思うし、違うとも思いたい。間違いなく、昔の自分は純粋に人助けが出来た。ただもしかしたら、自分には最初からそういう理屈を用いる腹黒さが、素質として備わっていたのかもしれない。
ならば九峪は、その才能を開花させただけの話になる。初めからそういう人間になる運命だったと思えば、いくらか心も楽になる。
「・・・・・・わたし」
横たわる九峪を見つめながら、立ち尽くす女中は言葉を詰まらせた。言葉にする事を躊躇った。
いままでずっと、九峪の事をどこかで『甘い』と思ってきた。その最たる気持ちは、馬淵を助けるという今回の出来事でより顕著となった。
だが、やはり深謀遠慮をもって聞こえる九峪だ。自分如きでは及ばない、自らの感情さえも利用しているというその絶する生き方に、畏怖さえいだいてしまう。
それは同時に、恐怖ともなる。目の前にいるお方が、やはり常人を超越した存在なのだと、女中は改めて認識した。
——わたし、九峪様のこと、はじめて『恐ろしい』と感じました。
その言葉を、女中は小さな喉で飲み込んだ。
九峪と女中が言葉を交わしているちょうど同じとき、阿蘇の山中で兎奈美は血にまみれていた。自らの出血ではなく、すべて返り血で、人間の血である。
「三人目〜っと・・・・・・」
手を離すと、塊が血だまりの中に落ちた。どちゃりと鈍く重い音がして、甘美な生臭さが心地よく兎奈美を満たす。
手をべったり濡らす血をなめ取ると、なんと甘いことか。いうなればこれこそ甘露だ。魔人にとって、これ以上の美味はそうそうない。
口の周りの食べ汚しを拭い、辺りを見回す。人間が見たら十中八九、嘔吐物を撒き散らすだろう程の惨劇が広がっている。木枝から垂れ下がっているものは、肉の果実だ。真赤な果汁を滴り落としている。
「はぁっ——」
熱い吐息をこぼす。うっとりと緩んだ頬が、彼女の快感をもれなく物語っている。瞳も濡れたように潤んで、かなり色っぽい。ただ惜しむらくは、彼女の足元に肋骨らしきものが見えているのが残念きわまりない。
「はぁぁぁ——・・・・・・。サイッコー! やっぱ食べるなら人間だよねッ!」
ホクホク顔で叫びを上げる。腹をさすると、満腹感がひとしおこみ上げてくる。
「さいきん、人間なんてご無沙汰だったから、チョー美味しかったし! 今日は姉さまたちはいないし! 九峪さんに感謝感謝ッ!」
ご満悦であった。一昨日から、姉ふたりが麓へ降りているため、今日の見回りは兎奈美ひとりとなっている。
最初は、
「えー、ひとりー? メンドー」
とか思っていたが、まさかまさか、こんな役得にありつけるとは思ってもいなかった。しっかり三人、美味しく頂いた。
兎奈美たちは、無闇に殺人はするなと九峪から言われている。だから人と出くわしても、あれこれ言って追い返す。それに従わず、無理や通ろうとしたり危害を加えてきたりしたときのみ、殺していいといわれている。
そして今回、この三人は見事に歯向かってきた。全員が武器を持ち、兎奈美を亡き者にしようとしたが、結果は三人仲良く兎奈美の胃の中だ。
血まみれのままだと九峪がいい顔しないので、食事のあとは必ず身体を洗って血を落としてから帰宅する。じつは以前、食事のあと血まみれのまま見回りを続けて、
「ま、ま、魔人だ〜ッ!!」
と騒がれたことがある。たしかに魔人で正しいのだが、これには九峪も血の気を失った。もしもそんなことで阿蘇山に魔人討伐——とくに紅玉が出張ってきたら、たまったものじゃない。
いらい、食事のあとは身体を洗うように口をすっぱくして言われた。
川原で身体を清め、今日はもういいかなと思い、そのまま帰路につく。さすがは兎奈美、もう見回りのことはどうでも良くなっていた。
そんなとき、また人間を見かけた。一応声をかけるが、なかなか引き下がらない。満腹で兎奈美はかなり気分はいいが、相手は相当いらついている。腰の剣を抜き、兎奈美に襲い掛かった。
「えいや」
と掛け声をかければ、それだけで相手は真っ二つになる。やっぱり返り血を浴びた。
そしてそれが、もう一度起きた。さらに、また。
「なんか、多いなぁ」
さすがに不思議に思うが、そこは兎奈美、深く考えない。兎華乃であれば何かしら思うところあってすぐに九峪の元へ戻るだろうが、のんきに川辺へと返り血を洗い流しにいってしまった。
ちょうどその頃、九峪は大変な目にあっていた。家の周りを七、八人ばかりに取り囲まれていた。みなともどもに武器を持ち、どこからどうみても山賊のようである。が、明らかに山賊ではない。やつらは海人だとすぐに判断できた。
山人と海人は風俗が異なる。危険の多い海では験担ぎが重要視され、精霊の加護を得るために身体のどこかに刺青を入れることが海人たちの慣わしとなっている。重然や愛宕、織部は目立つところに彫ってあるし、星華や亜衣でさえ彫っている。彼女たちは巫女であるため、刺青は目に付きにくいところに墨をいれている。
「なんで海人が山賊紛いのことやってんだよ」
ほとほとわからない。伊万里がマグロ漁をやっている光景を思い浮かべるほど、それはどうにもしっくりこない。
「物盗りかな」
「さぁ・・・・・・わかりかねますけど」
「なんか、殺気みたいな重苦しいものがバシバシ感じられるんだけど」
「それはまぁ、山賊ですから」
殺すつもりのない盗賊なんて、たしかにいないだろう。
女中が鞘から剣を引き剥いた。身丈にあわせて、いささか小ぶりな剣である。
いちおう九峪も剣の扱いは出来るが、人を切った経験はない。柄を握る掌が汗ばんでいる。
まいったとしか言いようがない。兎華乃たちがいないこのときに、まさか身の危険に陥るとは。だが物盗りの山賊だとしても、ちょうど魔兎族三姉妹が不在という、このベストタイミングで襲ってくるだろうか。
いや、狙ったということはないはずだ。そんな上手い話があるものか。そもそもこの周辺の山賊は、あらかた藤那の手によって殲滅されているのだから、盗賊というのもおかしい。
「兎奈美、早く戻ってきてくれ」
と、九峪は切実に願った。相手が何であれ、危険な状態であることに変わりはないのだ。気がついたら、外の人間が十人ほどまで増えている。
しかしどういうわけか、この謎の集団は、押し入ってこない。ただ建物の周りを周到に調べているようだ。
「何がしたいんでしょう」
「わからん。さっぱりわからん」
緊張しっぱなしで、むしろ九峪は疲れ始めていた。
しばらく様子を見ていると、ふと、鼻をつく焦げたにおいがしてきた。最初に気づいたのは女中であり、眉根を寄せていると、九峪もこの焦げたにおいに気づいた。
そして屋根をはうように、煙がぶわっと一気に流れ込んできた。
「うわぁ!」
驚いて声を上げた。
「あ、あいつら、火をつけやがったッ」
ここにきて、ようやく九峪も確信した。間違いなく、この集団は自分を殺すつもりだ。家屋に油をまき、焼き殺すつもりなのだ。
火は瞬く間に燃え広がり、家内が煙に巻かれ、熱気が肌を焼いた。
女中がすぐに、布を自分と九峪の口元に巻きつけた。煙を吸い込んでは一巻の終わりである。
「ど、どこか、逃げるところは」
怯んだ九峪が、辺りを見回す。しかしどこも火の手が激しい。それどころか、煙の勢い盛んで、先が思うように見えない。
「身をかがめてください」
「お、おう」
地べたに腹をつけて、女中と顔を付き合わせる。なるほどそういえば、地面ほど煙が薄くなると、学生の頃の避難訓練で何度か聞かされたのを思い出した。
女中も相当な焦り顔をしている。
「ど、どうする」
「どうするっていわれましても・・・・・・」
「逃げなきゃ丸焼きが二つ出来上がっちまう」
「嫌なこと言わないでください。笑えませんよ」
「俺だって笑えねぇ」
「九峪様は神の遣い様なんですから、九峪様がなんとかしてください」
「ムチャいうなよッ!」
「もう、ムチャでもなんでもいいですから、早くなんとかしてくださいッ!!」
どんっと、天井の梁が焼け落ちた。倒壊が始まってしまったらしい。いよいよ時間がなくなってきた。
室温も鰻登り、おそらく四十度を超えている。かなり暑いし熱い。涼やかだった室内は、あっというまに灼熱地獄と化していた。
すでに九峪には、外の集団のことなど考えにない。いまはとにかく外に出ることが重要だ。
「とにかく、外に出るぞッ!」
「で、でも、どこも火の手が・・・・・・」
「ここは窓際だ。窓をぶち抜こう」
「は、はい! ——あ、でも、外には」
襲撃してきた集団がいるではないか!
「まずは外に出なきゃ、どっちみち焼け死んじまう。なんか窓を壊せるものを探そう!」
女中が這いずるようにして、九峪愛用の文机を持ってきた。そうとう重いだろうに、ここまで引きずってきた。
よしと、九峪が立ち上がる。文机を持ち上げて窓にぶつけた。窓は音を立てて木片となり、そこから凄まじい勢いで煙が噴出して行き、炎も空気に触れていよいよ燃え盛った。幸い、バックドラフトは起きなかった。
九峪が飛び出し、女中も無事に脱出した。新鮮な酸素が二人の肺を大きく膨らませた。生きた心地がした。
だが、もちろん、それで安心できるほど生易しい状況にはない。九峪たちのまえに、四人の海人がいた。
「げっ」
思わず声が出てしまう。
海人たちもまさか窓を破って出てくるとは思っておらず、しばし硬直していた。時間が止まった。
「え、えっと」
「か、・・・・・・か・・・・・・」
「神の遣いがでてきたぁ!」
叫んだ直後、ほかの海人たちがぞろそろと集まってきた。燃え盛る火柱に赤々と照らされ、九峪と女中はすっかり取り囲まれてしまった。
——これはヤバイ!
冷や汗が流れてきた。見える限りでは、十三人もいる。全員、剣や刀をもち、それどころか軽甲を着込んでいるものまでいる。山賊のように見せかけて、装備はしっかりとしている。
あきらかに、確たる目的を持ってここにきたことは明白で、害意ある視線が向けられている。
万事休すであった。
「お、おまえ、こいつら全員たおせるか?」
「む、無理に決まってるじゃないですかッ。九峪様こそ、どうにかできないんですか」
「俺は頭で戦うんだから、この状況はどうにもなんねぇよ!」
つまり——やはり、どうにもなりそうにない。
こりゃ死んだな。ごくりと生唾を飲み込み、剣を握りなおす。こうなっては、自力で脱出するしかない。たとえ殺してでも。殺人は怖いが、それ以上に殺されるほうが怖い。
だが、またしても襲撃者たちは様子がおかしい。周囲をぐるりと取り囲んでいるのに、いっこうに切りかかってこようとしないのだ。
それどころか、
「お前がやれ」
とか、
「オレは嫌だ」
などと、そんな言葉さえ聞こえてくる。
海人たちは、蔚海の手のものであった。蔚海から
「阿蘇の山を調べよ。怪しいものがあれば、かまわず殺せ」
と命令されていた。怪しいものが神の遣いを指しているということは、すぐに理解できた。
拒否したかったというのが、本音である。しかし彼らは宗像海人で、いうなれば、家族を人質にとられているようなものだ。蔚海に逆らえないが、神の遣いとは、なんとも畏れ多い。
ゆえに、己の手で神の遣いを殺したくない。もしも手にかけて、自分ひとりだけが天罰を受けるのは厭だ。だから、皆平等に殺そうということで、火を放ったのだ。
彼らは、それで全てが終わったと思っていた。しかし九峪は生き残った。こうなれば、誰か一人が九峪を手にかけ、天罰を一身に受けるほかない。それ以外の者は天罰の対象外になると、彼らは本気で信じていた。
都合のいい解釈だ。彼らの身勝手さがよく見て取れる。
それを察した九峪は、目まぐるしく考えを巡らし、ふと打開策を思いついた。
「神の遣いにこんなことして、おまえたち、無事に済むと思うな」
むんっと胸を張って、威厳高く言い放つ。
——でも、背に流れる汗だけは、どうにもできない。
「これだけの事をしたんだ。お前ら全員、末代まで一族没落の憂き目を見るだろう。殺せば、三代までに一族根絶やしにしてくれる」
言い放った。全部デタラメである。そんな力が自分にないことは、とうの九峪本人が一番よくわかっている。しかし海人たちは、目に見えて動揺しうろたえた。
神の遣いであることが、こんな形で役に立つとは思わなかった。
そして、最後にひとこと、甘い言葉を投げかける。
「だが俺を助けたものは、その罪を赦してやろう」
——これが、海人たちにとっては悲劇となった。引けば蔚海に殺される。しかし九峪を殺せば、三代までに滅ぼされる。だがもしも助ければ、その罪を赦すという。蔚海を恐れて九峪を殺すか、呪いを恐れて九峪を助けるかで、海人たちはふたつに分かれた。
あろうことか、九峪の前で海人たちが仲間同士で切りあうという事態になり、その隙を突いて九峪と女中は逃げ出した。最終的には、九峪を殺す事を選んだ者たちが生き残り、なかば自棄になりながら後を追ってきた。
必死に逃げ、必死に追う。しかし海人は立ち塞がる木々に阻まれ、思うように追えず、九峪も体力の限界を迎えようとしていた。
どこへ向かって逃げているのかもわからない。ほどなくして、九峪が躓いて倒れた。それと同時に、遠くから悲鳴が聞こえた。
静寂となり、ふいに無音となった。女中の手を借りて九峪が立ち上がる。さっきの悲鳴は——。
答えはすぐにわかった。遠くから、自分の名を呼ぶ声が聞こえてきた。
「この声は・・・・・・清瑞?」
間違いない。聞き間違えなんて絶対にない。
「九峪様ッ!」
藪を掻き分け木々をすり抜け、姿をみせたのは確かに清瑞であった。清瑞だけではなく、ほかのホタル衆も幾人かいる。
九峪の姿を見つけた清瑞が、ぱっと顔を明るくして駆け寄ってきた。いつもの忍び装束である。
「ご無事ですか」
心配そうに清瑞が尋ねてくる。一見すると怪我はひとつもない。が、不安そうな表情をしている。
なぜ清瑞がここにいるのか。助かったと思う一方で、それが大いに疑問であった。いろいろなことが重なりすぎて、さしもの九峪も混乱気味であった。
だが、
「も、申し訳ありませんッ!!」
清瑞の殆ど土下座しそうなまでの謝罪から始まった事情説明を受けて、なかば茫然自失となりながらも納得した。
ことの経緯を説明すると、すべては蔚海の暗殺に失敗したことから始まった。それで九峪の存在に感づいた蔚海が、阿蘇山へ刺客を向け調べさせたのだという。清瑞はその動きに気づいて、動かせるだけのホタルを集めて、蔚海から与えられた任務を放棄して九峪の救出に向かってきたらしい。すでに九峪の住いが激しく燃えており、焦りながら四方を探し、見つけた追っ手を殺して現在に至る。
九峪の元には魔兎族がいる。だから大丈夫だろうと思っていたが、まさかすでに九峪が追われているとは思ってもいなかった。運の悪いことに、同じ日に兎華乃と兎音が麓へ馬淵を迎えに行き、兎奈美も見回りに出かけた。兎奈美が殺した計六人の人間は、みな蔚海の息のかかった刺客である。
運命の悪戯とするには、あまりにも陰湿すぎる。とっさに九峪が機転を利かしたおかげで命拾いしたが、最悪この段階で九峪は死んでいたかもしれないのだ。せめて日にちをずらしてくれよと、九峪は点を仰ぎ見た。
しかし、なんにしろこれで助かった。清瑞が申し訳なさそうに何度も頭を下げるが、いまはそれどころでもない。危機は脱したが、さて、これからどうするべきか。
「まさか戻るわけにもいかないしなぁ」
まず、帰る場所がない。なにせ焼かれたのだ。それ以前に、阿蘇山にいるのも危険なような気がする。いや危険だろう。
「あの、いっそ下山しては・・・・・・?」
女中の提案を考えてみる。
「できればそうしたいよな。けど、それじゃあ阿蘇山に引篭もった意味ないし。そもそも、この化外のほかに、俺の居場所は——」
と、いいかけて、ふと思い出した。このバッドタイミングで、とんでもないことを。
「そういやぁ・・・・・・馬淵たちも、こっちに向かってんじゃないのか」
「あっ——」
「そうだよ・・・・・・こっちにきてんじゃん。それも八十人もッ」
その大人数を匿う場所は——もはや書く必要もあるまいが、灰燼に帰している真っ最中だ。
すでにこの地は、九峪にとって化外の地ではなくなった。そしてそうなった以上、馬淵にとっても化外たりえない。
「とりあえず、まずは兎華乃たちと合流しよう」
ということで、九峪たちは馬淵一行が通るだろう道筋を辿る道を目指した。途中で兎奈美と鉢合わせ、しばし歩き続けた後に、
「じゃあ、お前が馬淵?」
「く、九峪さまーーーーッ!?!?」
九峪と馬淵、追われるもの同士の二人が出会ったとき、日はすでに傾いていた。