九洲をとりまく緊張は、日に日にその勢いを増し、つには最高潮にまで達しようとしていた。
元星八年を迎えるまで、大きく分けて二度ほど九洲全土を巻き込む大いくさがあった。狗根国による侵略と、九峪による奪還である。『第一次九洲戦争』『第二次九洲戦争』と呼ぶ。後記は『復興戦争』とも呼ばれるが、とにかくこれらの度に、九洲全土が戦火にまかれた。
そして、二度目の戦争終結から八年が経過したいま。
三度目の大いくさが始まろうとしている。宗像神社へ逃げ込んだ火魅子率いる宗像一族と、玉座を奪い耶牟原城の主となった蔚海との間で繰り広げられていた水面下での戦い、その末の最初で最後の決戦である。
九洲の土豪たちは、どちらかを選ぶ。みなが何かしらの形で関わることになる戦いとなる。そういう意味では、これは古代九洲の関ヶ原であった。
薩摩の香蘭、火向の志野、火前の切邪絽、火後の藤那、筑前の写楽、筑後の尾戸、豊前の小久慈、豊後の伊万里。
八県の知事、五十八州の太守、数多の代官、豪族、諸々——。
決戦の足音は、もうすぐそこまで迫っている。
行き場所を失った九峪は、下山を決意した。実に四年ぶりの下山であった。阿蘇を降って、薩摩を目指す。香蘭に助けを求めた。
この決断に馬淵はかなり難色を示したが、すでに転げ落ちた身である、素直に従うほかなかった。
ただし、魔兎族三姉妹とは阿蘇山の麓で分かれた。目立つという理由もあったが、なによりこれ以上、彼女たちを巻き込みたくないという思いが強く働いた。彼女たちは、その役目を十分に果たしてくれた。もう十分であった。
とりあえず、九峪と馬淵は顔を布で覆い隠し、病人を装った。韋駄を先行させて香蘭に話をつけさせ、六日間かけて鹿児島城へ辿りついた。一行は鹿児島城を形成する五条砦にはいり、そこで一泊。
百人近い人間が押し寄せて、五条砦はかなり騒がしくなったが、一行はといえば静かに香蘭からの返事を待った。
五条砦で一夜を明かし、昼前に韋駄が戻ってきた。香蘭——正確には紅玉——から、急いで薩摩荘まで移動するようにと命じられたという。即刻、五条砦を出発して街道を沿って薩摩荘へ入った。
「お、おお〜! 九峪さまだよ!」
四年ぶりの再会に、感極まった香蘭が九峪に抱きついてくる。九峪にとっても四年ぶりの再会で、笑顔で抱き合った。それを清瑞が面白くなさそうに眺めているが、まぁ、これも愛嬌であろう。
厚くもてなされ、馬淵たち主従も安堵したはずだ。命がけで亡命してきた馬淵にとっても、まさに安心の一言であった。
しかし——まさかこんなことになろうとは、露とも思わなんだ。勝部だと思って調略していた相手がじつは九峪で、それに香蘭や紅玉も関わっていたなんて。
掌の上で踊らされていた感が否めない。九峪と紅玉の二人にかかっては、自分も利用される側なのだと思い知らされた。
そして、だからこそ、
——蔚海様では敵わないな。
と、かつての主で従兄の未来を少しだけ哀れんだ。彼はすでに、時勢を見誤っている。
なぜ九峪が四年もの間、阿蘇山へ姿をくらませていたのかは知らない。いや、考えれば大体はわかるが、その九峪が混迷のこの時期に阿蘇を脱した。
これは、いままで背後で蔚海に対抗していた九峪が、再び表舞台で立ち回る切欠になるかもしれない。本格的に活動すれば、蔚海に将来の展望は望めない。
ならば、自分が蔚海と決別したことは、逆によかったのかもしれない。そう馬淵は思い、これも運命かと、その不思議な因果に感謝した。
ともあれ、今後である。九峪をはじめ、香蘭、紅玉、清瑞は緊迫する情勢の中で、いかに行動するべきかを話し合った。
ちょうど三日前に、香蘭が火魅子へ蔚海討伐を上訴している。そして一昨日、火魅子は蔚海討伐の詔を各地の豪族にふれ出した。
「火魅子が勝つ」
と、九峪は信じて疑わず、紅玉や香蘭もその見解は同じである。すでに蔚海の興隆は底を見せている。反乱軍を討伐しようとしたときでさえ、各地の豪族を思うように動かせなかったのだ。それがこの決戦にさいして、いきなり神速の軍事行動を取れるはずがないのだ。
九峪も蔚海討伐に名乗りを上げたい。この大合戦に是非とも参加したいというのが、九峪の偽らざる本心である。
自分だけ手を拱いて、皆だけ戦わせる。そんなことは、もう『うんざり』だ。自分だけ何もしないなんて、そんなのはもう嫌だ。
九峪の思いは、紅玉にも理解できる。しかし紅玉としては、別の事を九峪にしてほしかった。というのも、種芽島のことである。
「九峪様は、先の『文武騒乱』のために、阿蘇へ逼塞せざるをえなくなりました。ですから、この九洲本土から兵を挙げることは、避けたほうが慣用と心得ますわ」
むしろいきなり九峪が兵を挙げれば、それだけでまた混乱を生むことは必定。それよりは、種芽島にいる残党を纏め上げ、それをもって参戦したほうがいいと紅玉は考えた。
「種芽島か」
「彼らは敗北した身。よしんばこのまま蔚海を倒し、無事に帰還することが出来たとしても不名誉のまま。それならば九峪様の指揮下で戦い、戦功を挙げさせるべきだと思います」
「なるほど」
言われれば、たしかに納得である。それに北山は兵が強い。日本という国は不思議なもので、何故か南国の兵は強いのだ。戦国時代、武田や上杉が最強を持って知られたが、中原の尾張兵は弱くとも物に溢れ、土佐や薩摩の兵は強く、奥州の馬は馬格が優れていた。『馬は北に求めよ。物は中に求めよ。士は南に求めよ』とまで言われたほどだ。とくに薩摩の兵は日本でも屈指であったが、これは、古くから香蘭母子に鍛えられたことも理由である。
その盛況な南国の北山兵を戦力として使えれば、いよいよ手柄となる。さらにそれだけでなく、九峪復権の手順にも繋がる。
「蔚海の専横を見かねた神の遣いが種芽島へ再び降臨する。種芽島には蔚海の仕打ちに苦しむ者たちがおり、九峪様はその残党を束ね上げて、蔚海討伐へ参加する・・・・・・と、いうことです」
それが紅玉の考えた『九峪復活』のシナリオであった。蔚海が倒れれば、文官も発言力を弱らせる。そして火魅子と神の遣いが協力体制を築くことで、互いが争う存在になりえないことを、内外に知らしめることが出来る。
これには九峪も感嘆を通り越して呆れる思いだ。よくもまぁ、ここまで思いつくもんだと、かえって感心する。
しかし、まだ問題はある。どうやって九峪を種芽島へ送り出すかである。加奈港には、まだ教来石が居座っている。石川島には、日本海と栖防灘を越えて宗像海人衆が移動してきている。そして頼みの綱の重然と斯波虎は、火前で決戦に向けて準備を進めている。
天草水軍には余裕がない。宗像海人衆は当然つかえない。そうなると——。
「加奈港の北山しかないな」
「し、しかし、北山が承諾しますか?」
もっともな疑問を清瑞から問いかけられると、それには自信を持って答えられない。しかし、いくつかは動かせられる条件をもっている。
「種芽島の残党は、加奈港の連中だって気がかりだ。あいつらを助けるために力を貸せっていえば、頷くはずだ。それに正味な話、これいじょう加奈港にい続けても向うには何のメリットもないんだ。どこかで互いの関係を改善しなければならないって言うなら、連中にとってここが仕掛けどころになる」
「な、なるほど」
清瑞にも、九峪の言わんとしているところが理解できた。つまり北山は、今までの悪い印象を、九峪の指揮下で戦うことで払拭することで、共和国内部で生き延びる道を見出さなければならないと言っているのだ。
ここまで逃げ延びてきた死兵たちだ。自分たちを苦しめる蔚海を倒すためだとすれば、かならず合力する。そう算段を立てて、あえて北山を用いる決心を固めた。
「では、加奈港の指揮官を呼び出し、交渉しましょう」
あまり時間をかけすぎて、本戦が始まってしまっては元も子もない。香蘭たちも出陣の準備をせねばならず、即日に教来石を薩摩荘に呼び出した。
加奈港の退去勧告か・・・・・・。そう思いながら香蘭の屋敷を訪れた教来石は、直後に度肝を抜かれた。
「あ・・・・・・え? お、お前は」
九峪も、口を大きく開けた。女中も同様であった。北山の指揮官は、あきらかにどこかで見た顔の男であった。
名は確か——
「教来石」
「九峪様・・・・・・教来石のこと、しってるか?」
怪訝そうに香蘭が九峪と教来石の二人を交互に見合わせた。この二人が顔見知りのはずはない。ありえないことに、自然、紅玉などは眦がきつくなった。
驚いたのは教来石も同様であった。なぜ神の遣いがここにいるのか、そんなことは理解の範疇を超えて、教来石を愕然とさせた。ただ視線だけが、九峪を捉えて離れない。
「おまえ・・・・・・北山の武将、だったのか」
「あ・・・・・・あ、はい。その節は、どうもお世話になり申した」
慌てて平伏するが、ほとんど混乱した頭はしきりに何故を頭上で乱舞させている。
「どうりで、軍学に詳しいと思ったんだ。なるほど、北山のか。なるほどなぁ」
「お、恐れ入りまする」
畏まって、ますます低頭させる。まるで叱責を受けているような居心地の悪さが、教来石を苦しくさせた。
「あー、そんなに畏まらなくてもいいから。とりあえず、顔を上げてくれ」
相手が北山であるとわかっても、九峪は気さくな態度で接する。いっそ人たらしと呼ばれそうだが、それが天性に備えられたある種の才能として、いま教来石に向けられている。
おずおずと顔を上げて、九峪の尊顔を仰ぎ見る。最もおくの権力者が座する場所に、いつか阿蘇山で出会った神の遣いがいる。紅玉という教来石さえ怖れさせる傑物を風下に座らせて。
このような者を相手に、わしはあの時、和気のごとく語らったのか。そう思うと、身震いが止まらなくなりそうだった。しかし同時に、目の前にいる男は限りなく『人間』らしく、それがまた不思議な御仁だと思った。
「あらためて聞くけど、おまえが加奈港にいる連中の指揮官なのか?」
尋ねられて答えないわけにはいかない。怯んだ気持ちを引き締めて、背をぐっと伸ばした。
「北山の軍師、教来石にございます」
「軍師。——軍師か」
ふむと頷いて、教来石の風体を見回した。服装の風俗はやはり九洲人と違う。どちらかといえば、大陸や半島の文化に近いだろう。阿蘇で出会ったときは粗末な服装だったからきづかなかった。
この教来石をいかにして動かすか。
「じつはお前に、頼みたいことがあるんだ」
打算と誠実が混ざり合ったとき、人はより良く動ける。素直な計算で教来石という異国の軍師を動かすべきだ。
単刀直入に『頼みごと』といえば、それは相手に裏があるという印象を与えにくい。もちろん、それで相手が打算を考慮に入れないわけではないが、印象とは計算の外にある要素である。
それに、何よりも高圧的でなく、親しみやすく用件を切り出せる。九峪は交渉などのときも、よく『頼みごと』をした。
「俺を種芽島へ連れて行ってくれないか」
「種芽島へ?」
「ああ、そうだ。種芽島」
「理由を聞いても宜しいでしょうか」
神の遣いを種芽島へ運ぶなど、ただ事ではない。なにしろあそこには、生き残った同胞たちがいるのだ。彼らの元へ九峪を連れてゆく。
まったく意味がわからない。ただし、現在の世上の乱れを帰りみると、かなりの大事を引き起こそうとしているのではと、教来石を思わずも身構えさせた。
「いま、九洲で大いくさが起ころうとしている。それは知っているか」
「はっ。・・・・・・多少は」
火魅子と蔚海のいくさだろう。それは教来石も知っている。
「俺もそのいくさに出るつもりだ。しかし、まぁなんだ、色々やんごとなき事情によって、九洲本土から兵を挙げることが難しいんだ」
「・・・・・・ということは、つまり、種芽島の残党勢力を手勢にしようと。そのため拙者に種芽島への船渡しを頼みたい、ということでござるな」
「お、話が早いな。つまりはそういうこと」
「なるほど」
神の使いの手先になれと。この北山の残党に——。
九峪との思わぬ再開に湧き上がった熱が急速に冷めて行く。春先に入り始めたこの季節にあって、教来石の周りだけが氷塊を敷き詰めたように冷え切った。
「お断りいたす」
ぴしゃりと言い放つ。九峪が身じろぎした。動揺しているようだが、そんなことは気にもかけず教来石は険しい瞳で続けた。
「たしかに、我らは敗亡した身、体裁も糞もない身です。蔚海によって生きる望みを絶たれ、わしも一戦にて滅びる覚悟でござった。それが戦士の本懐であると・・・・・・そう思っておりました。ゆえに、お断りいたす」
「なんでだ? 一戦をするつもりだっていうんなら、なおさらじゃないか」
教来石の言うことが、九峪には理解できなかった。蔚海と戦いというのなら、それこそ九峪の指揮下で戦うべきではないのか。
そういうことを教来石に言うと、この若き軍師はかぶりを振った。
そういうことではないのです、と言った。
「わしは、わしの力のみで挑み、滅びたいのです。北山の戦士として、軍師として、戦いたいのです。それを貴方様の旗下で戦えば、それは九洲勢の手先としての戦いとなります」
北山の誇りを胸に戦いのです、と切々なる思いで語った。それが、九峪のもとで戦えない理由であった。国を失い主を失った教来石には、生き残りの者たちには、もはや形骸とすら呼べない『北山人の誇り』しか残されていない。
その誇りに殉じて死にたいと願うのだ。散りの美学は平安期に生まれたと言うが、このときの教来石は、すでに己の最後のあり方に気高さを求めていた。
教来石の言葉には、不覚にも九峪自信が返す言葉を失った。死を決意した人間は巌のように頑なになる。しかしここで引き下がっては、元も子もなくなる。
「——どうやら、簡単に口説き落とせそうにないな」
吐息に困惑をのせて、前髪をかきあげた。頑なな決意からは、かすかに混乱が見て取れる。教来石は今になってなお、祖国の滅亡と主の死を受け止め切れていないのだろう。そうでなければ、このように悲壮な決意を大真面目に口に出来るはずがない
北山から逃げ延びてきた者たちにとって、加奈港にいる教来石だけが望みの綱なのだ。軍師というならばそのことに気づけないはずがないだろうに——。
教来石の存念が、九峪には計りかねていた。
——まず、教来石の考えを知らなければいけないな。
九峪は考えを改めた。一つ一つをじっくり聞くことにした。
「お前の思いはわかった。ようは、膝を屈したくない・・・・・・だろう」
「ようは、そのとおりでござる」
「うーん」
そうかそうかと、何度も頷いてみせる。ニ、三ほど応答し、少しずつ教来石の決意に隠れている本心が見えてきた。
なんていうことはない。もうこれ以上、負けたくないだけなのだ。中山に滅ぼされ、その上、いままで利用してきた耶麻台共和国に支配されるということが、堪らないほどの屈辱なのだ。彼は、九洲の支配下に置かれる事を、奴隷に身を落とすことと同義に捉えている。
それならばいっそ、一卒一民の尽くにいたるまで死に絶え、不屈の誇りを見せ付けようというのが決意であるようだ。
まさしく武門の道であろう。しかし九峪は、その考えに、理解は出来ても納得することが出来ない。それでは独りよがりの理屈にしか聞こえなかった。
「人事を尽くして天命を待つ」
九峪の発した一言に、教来石が怪訝そうに眼を細めた。
「流れに身を任せるのは、やるべきことをやり尽くしてからにしろ。そういう意味だ」
「わしは人事を尽くしていないと」
「ああ」
九峪を見つめる教来石の瞳が、はじめて穏やかならぬ色を鈍く光らせた。
「貴殿らに膝をおり地に額を押し付けることが、尽くすべき人事か」
ふざけるなと、言葉にせずとも眼が糾弾している。あまりにも驕慢な言葉に聞こえた。教来石には、ただ、哀れみを請えといわれたも同然であった。
しかし九峪の表情のどこにも、見下すようないやらしさはなかった。哀れみなどという感情が九峪にないわけではない。しかしこの場には、この世の騒がしさにおいては、北山に哀れみの慈悲深さを見せてやるほどの余裕がないのだ。
したたかに、それでいて誠実に、彼らを利用しなければならないのだ。その意味で、九峪の気持ちは彼らに対して対等なものだった。それが九峪流の誠実なのだ。
「お前は本当に軍師か」
九峪の語気が少しだけ荒くなった。
「了見が小さすぎる。視野が狭すぎる。そんなことだから、国と主を同時に失うんだ」
「なにッ」
鼻白んだ教来石が腰を浮かせた。それに事の成り行きを見守っていた清瑞たちが、過敏に反応する。ただし、九峪は荒げた語気に似合わず、落ち着いた様子だ。
「わしを嬲るか」
すでに敬語すら使わず、然として九峪を睨みつけた。
こういうところが、了見も小さく視野が狭いというのだと、九峪は思う。少なくとも九峪の軍師であった亜衣は、この程度の応酬でここまで頭に血を上らせることはなかった。
「お前は卑屈になりすぎている」
いまにも飛び掛らんばかりに殺気立っている清瑞を手で制しながら、九峪がいった。
「負けたと思っているから、そんな負け犬のようなことばかり言うんだ。悪いことばかり考えるんだ。周りが見えなくなって、ただ目の前にわずかだけ映っている出来事の表層だけを取り上げ、よく考えもせずにああだこうだと結論付ける。視野が狭いったらありゃしない」
まくし立てるような怒涛の言葉に面食らった教来石が、気を取り直して何事かを言い返そうとした。
しかしそれを遮るかのごとく機先を制した九峪は、ずいと身を乗り出してなお言葉を続けた。
「俺の言葉に腹を立てるだけの余裕がまだあるんだったら、少しは自分の後ろを振り返ろ」
「後ろ?」
「そうだ。後ろだよ。お前は国と主を失って心が傷ついているかもしれないけどな。そんなことで立ち止まっている暇は、残念なことにないんだよ」
「そ、そんなことだとッ」
人生で最大の不幸を軽んじられた。教来石の怒りが一気に九峪を飲み込もうとした。
しかしその濁流を、九峪は地面を殴りつけて一喝した。いままでどんな場面であっても、九峪が地面を殴ったことなど一度としてない。清瑞も香蘭も、紅玉でさえ一瞬ぎょっとなった。
音が止み、静かになった。静寂というよりも、むしろ無音の瞬間であった。まるで九峪が地面を殴った音であらゆる雑音さえ消し去ったかのようだ。苛ついていた。
「人のいうことはちゃんと聞け。いいか、俺は後ろを振り返れっていったんだぞ。まず俺たちのことは気にするな。いいか、自分の後ろを見ろ」
不思議な凄みが、教来石の気勢をそぎ落とした。ここまで高圧的な言い方を九峪がするということは、さきほど床を殴ったとき同様に珍しい。
それだけ九峪は、死に急ごうとする教来石の態度にむかっ腹が立っていた。
気迫に圧された教来石は九峪の言う後ろを考えた。まさか真後ろを振り向けとか、そういうわけではないと教来石にもわかっている。
さっさきに、自分を取り巻く世界を思い浮かべた。そこには失われた祖国があった。恵源がいて、多くの同士だちがいる。在りし日の、今は過ぎ去った日々である。
そして、そこには、決して忘れてはならないものもある。そのことに教来石は気づいて、憑き物がすとんと落っこちた。
気づけば、なんとも簡単なことであった。軽くなった表情から教来石が理解にいたったのだとわかり、ようやく九峪は肯定の頷きをした。
「おまえは北山王の弟に仕えてたんだろう。たしか名は・・・・・・」
「恵源ですわ」
紅玉の説明で、ああそうだったと膝を打つ。
「そう、その恵源な。恵源がお前の主だったわけだ。しかしお前も、また主だろう」
教来石には百人の家臣がいる。赤峻を筆頭に、みな自身で選りすぐった強者たちだ。まさしく、教来石は百人の主であった。
「お前の人事は、まだ終わっちゃいない。そうじゃないか。恵源の家臣としての教来石が死んだと思うんなら、それはいい。けど、主としての自分を捨てるのはまだ早い。まだそんな場面じゃない」
「・・・・・・貴殿らに従うことが、わが家臣たちのためになるというのか」
「それをするのが人事だ。それに、お前がここで死んだら、お前を頼って逃げ延びてきたやつらも見殺しにするって事だぞ」
「それは・・・・・・」
——仕方がないではないか。そう心の中で言い訳する。彼らだってこれ以上、生き恥を晒すことは忍びないはずだ。
だがそう思う弱さを、九峪という優れた洞察力を持った傑物は見逃さなかった。
「生き恥を晒したくないなら、琉球で一人残らず討ち死にしている。ここまで逃げてきたのは、生きのびたいからだ。違うか」
——そのとおりだ。九峪の言うとおり、ここまできたら、恥もへったくれもない。生き恥というなら、すでに晒しきれないほど大っぴらに晒している。
とはいっても、認めればそれが全てになってしまう。それこそ負け犬の人生が待っている。九洲の地で、惨めたらしく生きていかねばならない。
それに堪えろというのか。
そう反論すると、それだから駄目だ、と九峪が教来石のまん前まで膝進んできた。あっというまに、二人の距離は人一人分にまで縮み、これには清瑞たちも即座に動けなかった。彼女たちが慌てるのと、九峪が教来石の手を握ったのとは、ほぼ同時であった。
「人間の手は、人生の手だ。俺はいまこの手を掴んだ。掴もうと思ったから掴めた。お前が咄嗟に引っ込めたら、掴めなかった。わかるか? お前が反応できないくらいに唐突に動いたから、掴めたんだ。やろうと思い、そのためにはどうするべきかを考えるのが大事なんだよ。それをするために人間には手があるんじゃないかな」
「九峪殿・・・・・・」
「そのうえご機嫌なことに、人間にはやり遂げるための手が右と左で二ずつある。掴むために近づくことの出来る足もある。先を見通せる眼が、聞き入れる耳が、かぎ分ける鼻がある。これだけ色んなものが揃って、それでもお前は負け犬を演じるのか」
「だ、だが、しかしッ——では、どうしろというのだ。わしがとるべき道の何をもって、最善だというのだ」
「最善の手なんてあるものか。最良の手だってそうそうない。どこかで妥協しなけりゃ、立ち行かないのが世の中ってもんさ。まぁ、妥協しないのも生き方に違いないけど」
すぅっと息を吸い、笑う。荒げた語気も、厳しい言葉も、もう九峪にはなかった。そこには、いつもどおりの九峪がいた。
阿蘇の霊峰で出会ったときと同じ、九峪がいた。
「本気で散るんなら、それはいつだって出来るだろ? それまでは家臣や生き残った連中のために堪えろよ。石を投げられても、つば吐かれても、それでもなお堪えて、その両手両足でもう少しだけ足掻いてみせろ」
それはお前にしか出来ない人事だ。そういい終えて、教来石の手を離した。握られていた手が、じんわりと熱を帯びている。火照ったように汗ばむ手の平を凝視した。これでもかというくらいに。
この手はまだ何かを掴めるのか。そう自問した。
思い返せば、自分だけが琉球での惨劇を知らない。傷ついていない。
ひとり、万全なのだ。言い換えれば、教来石だけが最後の城砦と言えなくもない。いや、事実そうなのであろう。落ち延びてきた彼らを受け入れる、篭城させるための城であり砦なのだろう。
それが人事か——。百人の主として、北山の軍師としての、最後の役目であるのか。
だが、それは、隷属していることが前提となる。どんなに堪えても、歯を食いしばって耐え抜いても、所詮は奴隷と同じではないのか。
そこに人間としての尊厳はすでにないのだ。やはり負け犬なのだ。結局はそこに戻って行くのだ。その問題を克服しない限り、教来石の足は前に進めない。
対等でありたいと思うほど、傲慢ではない。立場は弁えているつもりだ。ただ、侮られたくない。もしも九洲で生きてゆくのだとしても、せめてそれなりの身分にならねばならない。
主というなら、それも主としての役目である。そこまで考えが及んだ時点で、教来石は九峪に負けていた。
この時代、九峪ほど『対等』を体現した存在はいないからだ。その九峪だからこそ、同じく『倭国三傑』と称される天目や彩花紫にも出来ないことが出来る。
九峪は、人にも頭を下げられる。民であろうが兵士であろうが、それこそ百姓と商人の区別なく、あるときには奴隷の手をとることすらあった。古今、そのように上下の身分なく接する者は『名君』と褒められた。
ただし、名君とされる九峪にも、いまだしたことのない事がある。いや、現代で生まれ育ち、現代常識にどっぷり浸かった九峪にはよけいに抵抗があるだろう。
誠実に利用するならば、誠実に迎えなければならない。
九峪は、土下座した。清瑞たちが唖然とするほど、それは躊躇いのない平服であった。平伏するということは、臣下の礼をとるに近く、そうでなくとも、まさしく対等関係を証明する儀礼であった。
「く、九峪様ッ! 何もそのような事をしなくとも!」
あの紅玉が慌てるほど、それは異常なことであった。人に頭を下げる光景は数多みてきたが、平伏する様子は記憶にも一切ない。
当然だ。こればっかりは、いままで躊躇ってきた。土下座など、プライドを捨てなければ出来ない。それがたとえ目上の者であっても、身分の違いから生まれる礼節の意識が薄れた現代では、土下座などしようと思っても出来はしない。
しかし、いままで躊躇ったそれを、この時は躊躇いなくできた。そうすることが必要だと思ったから出来たのだ。自らの感情をも利用する。それは同時に、感情を抑え付けることも出来るということだ。
九峪がこの世界で覚えた技術であった。
「——生まれて初めて、平伏した」
地面を見つめたまま、九峪が呟いた。
「土下座って言うんだ、俺の世界では。こいつをするっているのは、かなり屈辱的なことなんだぜ。わかるか、教来石。俺が、生まれて初めて、土下座するんだ」
神の遣いを土下座させたなどということは、空前であり絶後の大事件といっていい。西の雄が教来石という亡国の将を、礼を持って迎えるのだ。後世、いわゆる戦国時代にはそのような例も多々見られるが、古代でこのような気風を見ることは極めてまれである。
「伏して頼む。俺を——いや、俺と一緒に種芽島へ行ってくれ」
この瞬間、両者の関係は明確な対等関係を形成した。九峪ほどの男が平伏するということは、それだけ大きな意味を持っていた。
しばし硬直していた教来石も、少しずつ九峪の言葉が脊髄骨髄に染み渡ってきて、ようやく理解が追いついてきた。自分の目線よりもずっと低い位置に、九峪の後頭部が見えている。
——ここまで条件を引き出せれば、教来石には十分であった。安泰といえないが、少なくとも野良のように惨めな思いをすることはなくなった。それを九峪が礼を持って証明してきた。この上で教来石ら北山を切れば、九峪は天下の悪徳となる。
そのような悪徳には走らないと、人物の目利きに自信のある教来石は九峪を判断している。九峪と教来石の落着点が見えた。
「——顔をお上げください」
教来石が言った。ひとまず、九峪は顔を上げた。
「そこまでして、我らの力が必要ですか」
「必要だ。お前たちがいないことには始まらない」
「左様で・・・・・・」
——これでいい。教来石の心に、ここで全てを納得しろという声が響いている。落着点は見えた。互いに妥協し、三傑さえ伏せさせた。もういい、十分だ。
あとは、これからの働き次第だ。それによって、生き残ったものたちの活路が見出せる。神の遣いは、全力で自分たちを保護してくれるだろう。
それさえも望めなくなったとき——そのとき初めて、散ろう。それでいいじゃないか。
教来石も、覚悟を決めた。これからは一縷の望みのために、耐え忍ぶ人生だ。
「貴殿を、種芽島へお送り致そう。それで宜しゅうございますな」
「教来石・・・・・・ッ。恩に着る」
「ただし、我らにも活躍の場は与えていただく。それがなくとも、一定の評価は受ける。これらを最後の条件とし、守っていただけるならば」
こんどは教来石が平伏した。
「臣従を誓いましょう」
九峪を新たな主として、教来石は降った。覚悟してから、教来石はすぐに行動し、その素早さには九峪も感心したほどであった。
落ちたといっても、さすがは北山の軍師である。手際は良かった。
両者が交渉した翌三日後、九峪は清瑞以下ホタルと馬淵主従を伴い、北山艦隊とともに加奈港を退去。一路、種芽島を目指した。
加奈港から北山が退去した報告を受けた蔚海は、すぐに石川島にいる宗像海人衆へ命令を出し、加奈港および外加奈の城を占拠させた。防備の面を考えると、石川島よりも外加奈の城の方が安心できた。
西の雄がついに表舞台へ返り咲こうとしているこの時、九洲全土で一大決戦の気運がにわかに高まっていた。