火向軍二番手、鬼無里隊が壊滅する瞬間。
数理はなれた小高い山頂から、その様子を、じっと目撃する人間がいた。
「ありゃりゃ・・・・・」
思わず声が出る。細道を進んでいた鬼無里隊が、とつじょ両翼から伏兵に襲撃され、またたくまに掃討されていった。時間をかけず一方的に、鮮やかに。
志野の武勇は凄まじい。九洲六将に数えられるほどだ。その志野の配下で二番手を任されているほどの武将が、仁清のまえに成す術もなく敗れ、首をとられた。
山岳戦に強いとはいえ、これほどとは。
目撃者——忌瀬でさえ、思っていなかった。
「志野さん。油断してると、ヒドイことになりそうだよ」
まぁ、そうそう油断なんてする人じゃないけど。
忌瀬の感想は、まるで未来を予見しているようだった。事実、この二日後に激しい連戦の末、志野の本陣は半窪で焼かれてしまう。もちろん、そんなことは忌瀬の知るところではないが。
いつか、誰かが言った。伊万里様には山峰の精霊たちが味方していると——。
実際そうかはわからない。それでも、あるいは、伊万里の火魅子になれたであろう素質が、山峰の加護を得られる要因になっているのかもしれない。ましてや、いま戦場となっている連山は、霊峰阿蘇より連なる九洲山地の一角である。加護、というにはこれ以上ないほどの加護が得られる。
志野は強い。だが山にたった伊万里は、その数倍つよくなる。
踵を返して、森に身を隠す。たまたま通りかかったときに戦いが見えただけで、終わってしまえば、留まる理由もない。
忌瀬はいま魔兎族とともにいる。ここにはたまたま、薬草を採りに来ただけ。
「九峪様も、無事に種芽島へ辿り着けてればいいんだけど」
事情は魔兎族から聞いた。何だかんだいってちゃっかり逃げおおせているんだから、九峪の強運も捨てたものではない。実力だけでなく、運も兼ね備えてこその英雄である。
にゃー
がさがさっと草薮を掻き分けて、老猫が姿を現した。九峪の住居が焼けてから、なぜかこの老猫も、魔兎族の世話になっている。
不思議だと思う。猫は家に憑くものだが、どうにもこの老猫は違うらしい。
——九峪様にかかると、よってくる猫まで、普通じゃないんだなぁ。
「・・・・・・帰る?」
尋ねると、老猫はまた鳴いた。肯定、だろうか。
忌瀬があるきだすと、老猫も後を追う。
今日も、魔兎族相手に酒浸りの夜を迎えなければならないのかと、勝鬨の声を背中に聞きながら、ちょっとだけ憂鬱になる忌瀬であった。
藤那・香蘭軍が天都城攻めにとりかかり、伊万里軍の猛攻に志野が苦戦を強いられ、際川ではいままさに火魅子軍と蔚海軍の大合戦が始まろうとしているとき。
種芽島の残党——以降、九峪軍と呼称するが——は、まだ出航準備が整っていなかった。この一大合戦に際して、完全に出遅れてしまっていた。
さすがに、もう始まっているだろう——と、九峪自身がうすうす感じている。少々、いや些、いやいやかなり、時間をかけすぎた感が否めない。
船の修繕具合は良好だ。将兵の士気も高く、とりわけ九洲勢は九峪の命令を待ちきれずうずうずしている。
気がかりは北山だ。この戦いは、北山の全面協力なくして成功はありえない。出航の遅れの要因の一つに、彼ら北山勢の掌握が思わしくない、という九峪個人の理由があった。
九峪は武将でなく、直接戦闘の指揮を執ることはないが、戦場において必要とされる条件は心得ている。
まさか自分に対して信服させることは無理だが、とはいえ、そこそこの戦意をもってもらわなければならない。こればっかりは教来石ひとりでも難しいだろう。
彼の説得がどこまで通用し、浸透し、理解と納得を得られているのか。
目下その程度を知るために、九峪は足しげく北山人の元を訪れ、様々な言葉を交わしている。琉球の言葉は、倭人のあつかう倭国語と近しいため、辛うじて理解できる。倭人は琉球語のことを『琉球弁』と呼んでいる。
九洲では雨模様の日々が続く中、種芽島には一足早く晴天が訪れていた。渡海中の時化が、そのまま九洲で雨を降らしているのだ。
カラリと晴れて、種芽島の平地はあたり一面が輝きを放っている。この地の由来ともなった早春の芽吹きに溜まった雨雫が、
キラッ
キラッ
と太陽を眩しく反射している。
太陽の光はいい。世界だけでなく、人の心も明るくさせ、笑顔はヒマワリのようにおおっぴろげにしてくれる。
見上げる。願わくば、この降り注ぐ陽光と突き抜ける蒼穹が、傷ついた彼らの心を癒してくれ。
となりで悲しまれるのは嫌だ。誰かの笑顔は、誰かの笑顔になる。『笑顔がなければ人は死ぬ』とは九峪の信条で、わがままを言うようだが、自分の周りはいつでも笑顔で溢れていてほしい。
それがたとえ、関係よろしくない因縁深き者たちであろうとも。
「よお」
太陽に負けない笑顔で、北山人が暮らす一画に顔を出す。衛生状態はよくなく、病人も多いが、食事を取れてわずかに血色がいい。
とはいえ、食料はとっくの昔に食べつくしてしまい、種芽島でもっとも身分の高い九峪でさえ、ここ二日は水しか口にしていない。すきっ腹甚だしいのだが、ここは何食わぬ顔をして、人々の心を解きほぐしていくしかない。
「おっ。ずいぶんと顔色がよくなったじゃないか」
「ほ、ほい」
老婆に声をかける。弱いは六十を超えているだろうか。背を丸める小さな体、その周りには、いくさで親を亡くしたり生き別れてしまった子供たちが、寄り添うようにそばにいる。
否——寄り添うではなく、それはどことなく、この優しげな老婆を必死に守ろうとしているようにも見える。
九峪は、この老婆との対話を重要視していた。九峪もいい歳した大人になったが、なるほど老婆の話は大変ためになる。『生き字引』とか『婆ちゃんの知恵袋』的な話ばかりだが、話しているうちに、いまは亡き祖母の事を思い出す。
老人は戦力にならない。しかし、まずは老人から味方にするべきだと、九峪は考えている。老人は若いものたちを諭すことができるからだ。
その点を考えれば、この老婆は願ってもない条件を持っている。老婆は話し上手であった。この老婆を口説き落とせば、その周りにいる子供たちとも仲良くなれる。そうして今度は、子供たちが九峪の評判を伝えてくれる。
船の修復は音羽たちに、北山兵たちの説得は教来石に任せ、一日の大半を北山人とともに過ごしているのが現状だ。音羽たちはいい顔をしないが、これは急ぐ必要がある
「腹は減ってるかな?」
そういって、三匹の小魚をぶら下げてみせる。上乃が山から釣ってきてくれた、貴重な食料だ。
子供たちが目を輝かせたのを見逃さない。
「こいつでも食って、精を出してくれ」
「うんッ!!」
小魚を受け取った子供たちが、はしゃぎながら釜戸の火を熾す。子供というものは、本当に飲み込みが早い。火打石を擦り打つ音も軽快である。
じきに、藁もなくなる。種芽島の葦原に群生していた藁は、その殆どが束ねられて船に積み込まれた。藁も貴重な物資であるからだ。
老婆の隣に腰を下ろし、九峪はなんとなしに子供たちを眺める。やはり子供は元気なほうがいい。皆が皆、珠洲のようにぶすっとしていたら、とてもではないが堪らない。
「ありゃーたいことです」
老婆が言った。『ありがたい』といいたいのだろう。この老婆は、琉球弁のなかでも特に振るい言い方で話す。九峪もときどき、何を言っているのかわからなくなる。
「わしらに、こんな施しをいただけまして」
「や、気にしないでくれよ。困ったときはお互い様さ」
本心で思うから、よどみなく言葉が出た。北山勢も九洲勢も、どちらも困窮しているし、とくに九洲勢などはこれから合戦にいくのである。
「ばあちゃんにも、長生きしてもらわないといけないしな」
九峪の演技は、まるで本物の孫のようである。九峪は、老婆が寂しがっているのだと見抜いていた。だからこそ、そんな老婆の周りに、子供が集まっている。老婆は家族を失っていた。
老婆から様々な昔話を聞き、他愛もない時間が過ぎる。他愛ない、という意味合いが重要であった。いまの九峪には『北山人になる』ことが重要だった。
彼らの考え方や死生観などのいわゆる世界観がわかれば、動かしやすくなる。呼吸がわかれば、この戦い、勝ったも同然だ。
出航は遅れているが、九峪の戦いは、すでに始まっている。
「かみさまッ!!」
子供がひとり、九峪を呼んだ。子供たちは九峪のことを『かみさま』と呼ぶ。子供たちの認識では、九峪は『九洲の神』であるらしい。琉球でいうところの『神』は『精霊』であり、ともすれば人間ですら『精霊』の一種と見られる趣がある。その点、不思議なことに、最南の琉球人の感性は、最北のアイヌ人と近しいものがある。
無邪気になついてくる子供たちの反応を感じるたびに、確実に溶け込んでいる実感が九峪の心を躍らせる。
ただ、この時は。
別の意味で九峪の心臓はドクンッと脈打った。
「かみさまは、オイラたちを助けてくれるんだよね?」
まん丸な瞳には、何の疑いもない。頬が少しだけこけているけれど、黒真珠にも似た瞳には、まだまだ命の躍動が感じられた。
とっさに、言葉が出てこなかった。頭が揺れた。まるで脳震盪をおこしたようだ。
それでも、九峪は明るく笑って見せた。いつもは何の作為もなく笑顔を浮かべられるのに、いまは演技で浮かべなければならなかった。
「——あ、あたり前じゃないか!」
「みんなも、助けてくれるんだよね?」
「おうよッ!!」
笑いながら、子供の頭をワシワシとなでてやる。こういった少しオーバーな接し方が、幼い子たちにはいい刺激になる。
ただ——九峪の心は、笑顔と裏腹に、すこしだけ軋んでいた。
「——九峪様。および、でしょうか?」
日もとっぷりと沈み、闇。
馬淵は九峪に呼び出され、九峪が仮の住いとしている民家を尋ねた。九峪は、女中、清瑞の三人と一緒に寝食をともにしている。ここしばらくは寝のみだが。
いま、馬淵は『昌香(しょうか)』と名を改めている。やはり、馬淵のまま行動するのは危険であったし、馬淵という名を嫌うものも多くいる。
よってこれからは、馬淵の事を昌香とあらためて、物語を進めていきたい。
勧められるままに腰を下ろす。
——なんだろう。
緊張しつつ、考える。考えてみれば、いくら蔚海の元側近といえ、昌香自身は無位無官であった。こうして九峪と正対した経験などあるはずもない。
「席を外しましょうか?」
「ああ・・・・・・そう、だな。悪いけど、ちょっと二人だけにしといてくれ」
「畏まりました」
女中が恭しく退室すると、よけいに緊張感が肩を重くした。
とうとう、神の遣いと二人きりになってしまった。神の遣いはなかなか好色だと聞くし——。
手をきゅっと握ってしまうのも、無理はなかった。別にいまさら処女を気取るつもりはないけど、昌香だって女だ、誰彼でも肌を許すわけではない。
一人あれこれと無体な考えを巡らしている昌香は、傍目には滑稽だっただろう。昌香の考えていることは、ただの妄想でしかなく、呼ばれた本当の理由からはかなりかけ離れている。
「偵察に出てくれ」
抱かせろなんて言葉が出てこなかっただけに、いらん妄想をかきたてていた昌香の脱力は甚だしかった。
自分で自分が恥ずかしくなった。
九峪の命令は、小船を三隻だして加奈港を偵察し、宗像海人衆が加奈港と外加奈の城を占拠しているか、その有無を調べてこいというものだった。
偵察には北山を差し向けるが、もちろん、九洲勢も出さなくてはならない。そこで、高い交渉力を持つ昌香に白羽の矢が立てられた。ほかに、昌香の護衛として遠州も同行する。
昌香に拒否権はない。もちろん、どうしても嫌だといえば、九峪のことだから無理強いはしないだろう。しかし、その選択を昌香自身が捨ててしまっている。
——誠実に。
『裏切り者』である以上、これ以上の裏切り行為は出来ない。伊万里などのように人質を取られているというならばまだしも、昌香の場合はそうではない。自分で選んだ道である。
「承知しました」
畏まって承った。なんにしても、昌香はまだ九峪の元で功績を挙げていない。海上偵察は海人の昌香には朝飯前だが、まずは簡単なことだけでもしっかりとこなし、自らの立場を固め、もう一度、一段ずつ栄華へと上り詰めていかなければならない。
それから、委細の打ち合わせをし、九峪旗下で最初の任務に就くこととなった。先ほどとは違った、真摯な緊張感が満ちてきた。
「なぁ、昌香」
だいたいの話し合いの後、ふと九峪が物憂げに昌香を呼んだ。
なにか、思いつめたような表情に、昌香も不思議そうに尋ね返した。
「お前は、ひとを利用しようとするとき、心に何を思う」
「——えっと、どういうことでしょうか?」
問いの意味がわからず、昌香は戸惑った。
何を思うも、心にあるのは利益のことだけだ。調略とはそれだけのものでしかない。利益への執念なくして調略は成り立たない。
調略者であるところの昌香には、その真髄がよくわかる。そのことに、何を憂うことがあろうか。昌香が憂うことは唯一つ、調略の失敗のみ。
だが、九峪はそうではないらしい。
「いや、なんでもない。——もう、下がってくれ」
「はっ・・・・・・では」
小首をかしげつつ、昌香は民家を後にした。変わったお人だという風聞は聞こえていたが、実際に話すうち、ますます九峪という人間の根底が知れなくなっていった。
だが、すぐに、昌香の関心は薄れていった。九峪のことにそれほど大きい関心を持つほど、親密な関係を築いているわけではない。
目下の重要事項は、簡単な偵察をしっかりこなし、少しでも功績を挙げることである。
翌朝、さっそく偵察部隊三隻が、湊より出航していった。
——所、宗像神社。
四月九日。先鋒、織部隊八百が発進。随時、諸城から部隊が進発。
亜衣は伊雅とともに本隊八千に随行、火魅子は直属部隊千五百を後詰として後援にまわる。
以下、詳しい内訳。
左翼隊 重然 四千
右翼隊 斯波虎 四千
本隊 伊雅 九千五百
後詰 火魅子 千五百
火魅子方本軍、総勢一万九千。本格的な軍事行動を起こす。
『火向の一番槍』こと織部は、左翼重然隊の先鋒を指揮。まっさきに出陣したのも、織部であった。全軍は、織部を先頭に際川をめざし進軍を開始。
軍師として本隊に所属する亜衣の直列部隊は、親衛隊二百、隊長は衣緒である。親衛隊は本隊五番手としてほぼ独立して随行する。
途中、手始めに子城を攻め落とし、際川付近に布陣したのが十日。蔚海方、すでに際川を挟んで諸城砦に部署を終え、迎撃態勢を整えている。
亜衣は、ひとり本陣を離れ、後方の後詰へ馬を走らせた。開戦前、火魅子に会うためである。
いくら優勢といえ、戦場では何が起こるかわからない。これが今生の別れにならないとも限らない。そのまえに、火魅子の託宣をうけ、必勝を確信したかった。
「大丈夫。凶星は東に落ちたわ」
それは、蔚海の最後をあらわしている。ただし、全てが万事順調ではなく、右翼・左翼が持ちこたえられればの話である。
今回の不安要素は、右翼・左翼の指揮官が海人の棟梁ということにある。陸戦にはいささか疎い。それは蔚海にもいえることだが、とにかく、陸戦であるにも拘らず両軍の主軸が海人という、これは異例の戦いであった。
すでに、藤那・香蘭軍が天都城攻め緒戦に取り掛かっているという報が、亜衣の下にも聞こえている。志野軍の動向を詳しく知らないが、代わって伊万里軍が慌しく動いている。おそらく、火向方面でも一波乱おきるだろうし、もう起きているかもしれない。
火魅子の占いを、亜衣は、本軍のみで乗り切るものではないと受け取った。不安の残る右翼・左翼をよく持ちこたえさえ戦線を維持し、火後方面からでも火向方面からでも、どちらでもいいから突破して本戦に乱入してくるのを待つ。
それが、迎えるべき必勝のとき。
「いよいよね」
「はい。この際川で、全てを終わらせなくては」
亜衣の気迫は凄まじい。何しろ数年来の因縁に決着をつける時が来たのだ。
出陣前夜、亜衣は羽江をかつての生家に尋ねている。まだまだ羽江の憔悴は見るに耐えず、心の傷が癒えるまで、幾月幾年を待たねばならないと、宗像の巫女たちは言うし、亜衣自身もそう感じていた。
「もうすぐ、出陣する。何かお守りをくれないか」
「お守り・・・・・・?」
「ああ」
殺された夫と縁のあるもの、と付け足した。これから迎える決戦は、亜衣にとっての私戦でもある。二人の無念を晴らすという、憎悪が込められている。
羽江がひとつ、小刀をさしだした。夫が愛用していた小刀らしく、暇をみてはこれでよく、雨嬉の玩具となる木彫り駒を彫っていたらしい。刃のそこかしこが、ヤニで錆びている。
「お姉ちゃん・・・・・・気を、つけてね」
かすかに微笑んで、羽江が見送った。翌日、発った。
巫女装束の上に皮の鎧をきて、腰に小刀を挟んで、亜衣は出陣している。
「絶対に、蔚海をしとめましょう」
「ええ・・・・・・」
意気込む亜衣に、静かに頷いて見せた。羽江夫妻云々は抜きにしても、ここで仕留めなければならない。
「ここ二、三年は百姓も怖がって田畑に出ていないと聞くわ。さぞ農地が荒れているでしょうね」
蔚海が台頭してからというもの、世間はひどいものだ。年貢を絞りたて、商いも振るわなくなった。民百姓は外出を恐れるようになり、農耕も滞り、国政は麻痺しかけている。
この当時、国の基盤は農業にあり、農業なくして国はありえない。田畑の荒廃は憂慮すべき大問題であった。
折りしも、元星三年を前後しては豊作で、莫大な収穫が得られた。いままではその蓄えで持ちこたえてきたが、北山への援助、蔚海の豪遊などで、備蓄すら激減してしまっている。
「農閑期をこえて、これからはまた植物が育つ季節が来たわ。百姓たちが安心して土を耕し、種を蒔き、刈り取れるような時代にしないと」
——そう。恨みだけの戦いではない。これは、国家存亡、栄枯盛衰の雌雄を賭けた戦い。
間もなく、戦いが始まる。
左翼隊は東側から進軍、織部はその先鋒として午望砦(ごぼうとりで)に陣を置いた。小城を落とした同日、十日のことだ。
織部隊の戦力は八百人、全てが歩兵で、大部分が槍兵隊で構成されている。突撃編成とよばれ、間っすぐ突っ込む部隊であり、損害も大きいが功名も大きい、難しい部署である。
十日は雨が降っている。九洲中が雨雲に覆われている。際川は増水していて、流れがやや速い。幸いは、濁流とまでいわないところだろう。
各部署の総指揮官を本陣に招集し、決戦前夜の軍議が開かれた。軍議、というが、作戦の最終確認というおもむきが強い集まりだ。
蔚海軍は速水峠に本陣をおいている。火魅子方はこの速水峠に登り、敵本陣を粉砕することが目的となる。誘いだしてもいい。
作戦は、三方同時攻撃。左翼重然隊の標的は中魔城(なかまじょう)から出撃してくるだろう部隊。右翼斯波虎隊は際川中洲の赤池城(せきいけじょう)を攻略し、伊雅本隊は中央の大浅瀬を進軍、敵主力部隊とぶつかる。
後詰火魅子隊は、戦況に応じて戦力を投入していく。亜衣からは諌められているが、状況次第では、火魅子自ら突撃する腹積もりであった。
「皆々方。ついに、逆賊蔚海を召捕るときがきた。この一戦さもあれば、存亡を憂いし勇士たちの助力なくしてはありえず、また後世に語り継ぐことも叶わぬ。乾坤一擲のいくさなり。雄奮に期待する」
伊雅の激励に、諸将が立ち上がって応えた。
「渡河は明朝、日の出を待たず。流れが急だが、いよいよ気を引き締めて、事に当たってほしい。頼むぞ」
最後に亜衣から諸注意を言い渡され、それぞれが部署へ引き上げる。
『火向の一番槍』とまで呼ばれた荒武者の織部。彼女の戦い方は、いつでもどこでも、圧しに圧しての突撃戦であった。力強い攻め、間断ない攻勢、衰えることなき戦意。一番槍というが、獲物は長刀である。
往時、攻め気が彼女の売りでもあった。恋愛でもつねに攻めを貫いた。
だが、そんな織部でさえ、突き崩せない『強敵』がいる。
「つーか・・・・・・」
こめかみを押さえ、織部が唸る。
「重然のヤロウ・・・・・・ッ!! よりにもよって、あたしの部隊にこいつを回してくるかよ」
「コイツって、ドイツっすか?」
「テメェだよッ!!」
つばを飛ばさんかぎりに叫ぶ。大声の持ち主である織部が耳元で叫んで、愛宕の鼓膜がはげしく揺れた。
耳を押さえてうずくまる愛宕を見下ろす様子は、怒髪天を突かんばかりである。
「う〜〜あ〜〜・・・・・・み、み、みみがぁ〜〜」
「チクショウ。せっかく加勢にきてみれば、愛宕の子守かよ」
「ムッ! どーして子守なんでっすか! あちき、戦えばスゴイんでっすよ!?」
「『脱いだらスゴイんです』みたいに言ってんじゃねぇ!」
「脱いでもスゴイっす!」
「知るかァ!!」
叫ぶ。内心で『脱いだら自分のほうがスゴイ!』とか思いながら。
どっちの身体がスゴイかは、読者の想像にお任せするとして。
織部としては、とんだ誤算であった。先鋒を任されたことも以外なら、そこに愛宕までくっついてきたのも以外で仕方がない。
だが、まぁ、前記は以外であったが納得は出来た。織部には指揮経験がある。突撃部隊の呼吸がわかる。先鋒を任せるならば、まさにうってつけであったろう。
織部自身は遠州とおなじ中校尉、その地位は、火向軍の侍大将も同然であった。侍大将といえば、戦国時代の柴田勝家や本田忠勝がおり、その重要性がわかる。
だが、愛宕まで先鋒に任されるとは思っていなかった。残念だが、愛宕には将器がない。人を率いる素質がない。今回、愛宕は、一介の兵卒として従軍している。
素質はないが、愛宕の戦い方も攻めの一手であり、ならば織部の戦い方をみせていろいろと学ばせようという、重然なりの配慮があった。
それでも、織部としては堪らない。この一大合戦において、先鋒と言う名誉を賜った。なのに、そこによりにもよって愛宕がはいってきた。
邪魔だといいたいんじゃない。愛宕は兵卒であり、指揮権はまったくない。むしろ勇猛な戦士であり、戦力としては申し分ない。
色を出して言えば、この戦いで重然に格好いい姿をみせたかったのだ。なにしろ自分は石川島の忘れ形見であり、その自分が現棟梁の重然旗下で先鋒として活躍すれば、世間では重然と織部を一緒に考えるようになる。
そうなれば、だ。それはもはやある種の『既成事実』であり、あとは玉が坂を転がるように——。
なんてことを考えていたのに。
「一番乗りはあちきがッ!」
愛宕も随分と意気込んでいる。織部と同じような事を考えていた。ただこちらは、織部ほど考え込んでおらず、純粋に『重然のために』という思いが強く働いている。
苦い話だ。先鋒の激戦は、その実、織部と愛宕が競い合う『女の戦い』でもあった。
結果として、それがよい方向へ向かうわけだから、世の中わからない。
「おい、愛宕」
いまは大事な局面である。女の戦いは別としても、織部には指揮官としての責務がある。
「重然のことはいまは抜きだ。お前はあたしの部下なんだから、命令はちゃんと聞けよ。軍令違反したら、その首はねるからな」
「うっす!」
それくらいの分別は愛宕にもある。愛宕もまた、一大決戦の熱に当てられていた。
雨が、小雨に変わった。一夜の最終準備を追え、雨をしのぎ、兵士たちが開戦前最後の眠りについた。
音は止まない。雨音と、人馬のわめき、そして武具が擦りあうびびりの音。
緊張を掻きたてる。
そして——明朝、日の出前。
時間、朝方の五時ごろ。
左翼重然隊、右翼斯波虎隊、本陣伊雅隊。陣太鼓、銅鑼、陣笛の音に合わせて。
火魅子軍——渡河、開始。視界は薄らぼやけ、足音も小雨にかき消され、急流の遠賀川へ入水し掻き分け進む音すらも静かだった。いや、全体で見れば煩かろう。
しかし、静かだ。静かな行軍だ。