左翼隊先鋒部隊が渡河を終えた頃、三番手がちょうど際川を越えたあたりである。戦陣を駆ける先鋒は、すでに中魔城の諸部隊八百と交戦していた。
どっと二番手、千二百の大軍が後方からなだれ込み、織部隊を後ろから押し上げる。すぐに敵部隊の中魔城本隊も到着し、激しい混戦となった。
いっとき、左翼隊は際川の川原まで押し返されるなど苦戦した。渡河には部隊を分けなければならず、分隊して進んでくる南軍左翼に対し、中魔城の部隊はまず諸隊をぶつけ怯まし、ついで本隊をもっていっきに勝負をかけてきた。
「進め、進め、進めェ!!」
陣頭で織部の長刀がうなった。敵を何人も葬りながら、進軍を叫び続けた。
さすがは突撃部隊の隊長である。槍隊の猛攻は凄まじく、後続の血路をまっさきに切り開いた。強く押し返されても、織部のあくまで激しい攻めに蔚海方は明らかな手こずりをみせている。
他方、右翼の斯波虎隊。十一日午前十一時ごろ、中洲にある赤池城に攻撃を開始。こちらも激しい攻防で幕を開けた。赤池城から飛んでくる矢に、多くの兵士が射られ、際川の流れに消えていった。だけでなく、兵隊も出撃してきて、流れに足をとられながらの格闘となった。
そして、中央の伊雅本隊。
「連日の雨で川は増水し、流れも速くなっています。敵は決して渡河せず、水際での防衛戦に徹するものと考えます」
「うむ」
「したがって、我々の目的はまず、全軍の渡河を完了させることにあります。ここまでは、些かの無理にも目を瞑りますよう」
「わかっている」
損害を出してでも、渡河を完了させること。全てはそこから始まる。
大浅瀬を渡り、蔚海軍本隊と激突したのが、午前十時ごろ。川を渡ろうとする火魅子方南軍、それを水際で防衛する蔚海方北軍。
どちらも、一心不乱の戦いであった。
——雨が、まだ続いている。
伊雅の指揮する本隊が渡河を開始して、すでに二刻が過ぎようかとしている。迎え撃つ前衛軍を指揮するは、筑前知事の写楽である。
血戦の様相で、両軍川原で入り乱れては怒涛の攻防が展開された。南軍は三番手までが戦線に投入され、押し合いへし合い、両軍ゆずらない。
衣緒の親衛隊も戦場に到着するや否や、獲物である鉄槌を振り回し、ぞんぶんにいくさ働きをしてみせた。采配も的確で、少しでも緩いとおもった部分を、魚の頭部を包丁で切り落とすに似た果断さで、突つきに突いた。
戦場はひろい。次第に部隊が裾広がりに伸びてゆき、扇形に南軍が形態を変えていった。包囲しつつある。
が、そこは写楽も負けていない。
最初から総力戦の心積もりだったのだろう、惜しみなく後続部隊を繰り出しては、巧みに戦線を維持した。横に伸びようとする本隊を、すんでのところで圧し留めている。
「さすがに上手いな、写楽のやつめ」
かつて写楽と戦った経験のある亜衣にしても、これが二度目の対戦である。手強いではなく、あえて上手いといった。油断なく兵を進ませたにも関わらず、岸壁を登るような戦いを強いられている。
まだ、全部隊が渡河を完了していない。亜衣の指揮する四番手も、ようやく渡河を終えようかどうかというところだ。伊雅の五番手にいたってはまだ河中、末尾の部隊が入水していない状態だ。
今のところの戦いに、策の弄しようもない。ただ兵の進退のみを頼りとし、前線には野戦の駆け引きに富んだ武将を配している。実際、亜衣の出番はほとんどないと言っていい。
どころか、亜衣は最初、火魅子の後詰にいるはずだったのだ。軍師とはそういうもので、総大将のそばにいるのが普通であった。だが、伊雅のたっての願いによって、本隊付きとなった。
九峪と出会って以来、とかく伊雅のいくさ仕方に、
「知略こそ即ち必勝」
という意識が根強く染み付いた結果であった。もちろん、いくさはそればかりでなく、亜衣はただ兵を進ませるだけしかしていない。
——が、あと一工夫がほしい。
亜衣は供回りだけをつれて、丘に登った。亜衣の見るところ、戦局は驚くほど互角である。人質をとられて仕方なく戦っている写楽軍の実力が、予想を超えて高い。
そうこうしている間、砦が一つ、手薄なことに気がついた。
「罠だな・・・・・・」
すぐに見当がついた。あの砦は餌に違いない。
「賢しいことをする」
と、いった瞬間であった。その明らかな撒餌砦に、人が群がっていった。防備が薄いことにきづいた連中が、甘い匂いに誘われて駆け込んでいっている。
飛んで火にいる夏の蛾。亜衣がぎょっとして、すぐさま伝令を走らせようとしたが、すぐに口をつぐんだ。
とてもでないが間に合うまい、と諦めた。案の定、砦に突入して数分、逆に砦内の伏兵たちに追い返されて、動揺のままに追い散らされた。
その戦いぶりに、ふと、昔を思い出した。初めて写楽と戦ったとき、藤那も見事に誘い出されて、あわや討ち死にする寸前であった。あの策は、のちに虎桃の発案であったらしいとわかったが、それを見事にやってのけた写楽の腕前も大したものだ。
騎馬が丘を駆け上って、亜衣の眼前までやってきた。
「四番手、渡河を完了ッ!」
「よし」と応えて、もう一度、戦場を見やる。いくつかの山すら、戦場となっている。直方平野全体が、ひとつの戦場であった。
一点突破では埒が明かない。搦め手が必要だと、戦術を変更する決心をつけた。
「枢仁(すうじん)隊はまだ、交戦していないな」
「はっ。二里後方を進軍している模様」
「枢仁隊三百を、ここへ」
「了解」
騎馬が駆け下りて行く。四半時、枢仁隊三百が丘へかけてきた。
「宰相様、いかが」
恭しく礼する枢仁に目もくれず、ピッと鞭を敵陣にむける。
「ここより攻め降り、敵前衛の側面を突け」
「そ、それは、某だけですか」
「そこもとだけだが・・・・・・ふむ」
枢仁隊は三百だが、敵前衛の戦力は千単位で猛っている。枢仁という戦士は部隊長であるものの、剛勇の士というわけでもなく、小部隊で突撃しろといわれて、思わず聞き返していた。
とはいえ、たかだか部隊長クラスの将校に反対する権利はないのだが、ふと言われて、そうだなと亜衣も考え直した。やはり少ないかと思ったのだ。
「円酪(えんらく)も一緒に突撃させよう。それならば心強かろう」
円酪は、二百人の部隊長である。枢仁とあわせて、五百。
心強いことなんか、何もない。むしろまだまだ足りないくらいだ。最低でも一千人規模の大部隊でなければ、命が幾つあっても足りはしない。
「功名の誉れだぞ」
それ以上何も言うなと、強い意志で枢仁の意見は握りつぶされた。最後、せめて功名の餌がぶら下げられたことが、いまにも泣き出しそうな枢仁を励ました。
「う、うぅ〜・・・・・・」
いざ広陵を見下ろすと、そこに群れているのが、人間なのか魔人なのかもわからない。思わずすくんでしまいそうになる足を叱咤して、刀を天に突き掲げた。
「と、突撃ーーーーッ!!」
「やれ、我らも行くぞッ! そら、行くぞッ!!」
駆け出した枢仁隊に負けじと、二百人部隊の円酪が槍をぶん回して敵中に殴りこんだ。五百人が弾丸となって突っ込んでも、したたかに写楽の采配は飲み込んでゆく。
だが、それでいい。ついで亜衣の視線は、別方向に向けられた。将校を一人呼び出した。
「あの山な。立地もいいし、欲しいとは思わんか」
「はぁ・・・・・・」
将校は生返事した。亜衣の言わんとしているところが、簡単に理解できた。
言外に、「あの山を奪って来い」と命令しているのだ。将校には指差された先にそびえる小山が、はたしてどれほど重要なものか理解することは出来ないが、亜衣のめがねに適った山ならば、是が非でも盗らねばなるまい。
「されば、早速」
疑問を抱いても口答えしないことが、この将校の美徳であった。手勢百人をつれて、別道をゆき、そこに布陣している敵部隊と交戦状態に突入した。もう一隊、後続を送り込む。
戦場の推移は遅々として、まさに圧しも圧されもしない。士気の優劣を、写楽は戦術をもちいて見事に補っている。
しぶとい。もう日も傾こうとしている。すでに開戦から何刻が経過しただろうか、時間の流れすら麻痺してきそうなほど、同じ状況が続いていた。
——九峪様。九峪様ならば、どうなされましょうか。
亜衣は、考えた。いくら考えても導き出されない答えを。
我が隊へもどり、少しして、またも騎馬が駆けてきた。
「御本隊(伊雅隊)、川瀬を越えましてございます」
全軍の渡河が完了した。まず、第一目的は達成されたことになる。
後方から、伊雅隊の怒涛の進撃が開始された。大軍が神速もかくや、あっさりと亜衣隊を追い抜き、前線にがっぷりと食いついた。猪武者を地でいく伊雅らしい攻撃だ。
そして、ここからが、九洲一の戦巧者と謳われる伊雅、大将軍として本領の発揮である。
伊雅はとにかく大軍の統率にそつなく、ぬかりなく、進退前後度に当たり、見事ないくさ振りをしている。駆け引きが非常に巧かった。この点では、紅玉すらも及ばない。
小部隊をいくつも投入し、まず一戦させる。そしてすぐに後退させ、敵が守勢から攻勢に転じようとした瞬間を見計らい、さらに小部隊で攻撃する。これを幾度となく繰り返し、リズムを崩させ陣形の崩壊を誘い、どこかで強力な一撃を加えることで、ついに瓦解させる。
「さすがはッ!」
見ていて気持ちいいくらいだ。亜衣の声も弾んだ。押しと退きをもって徹底的に揺さぶりをかける戦法には、多く学ぶものがある。
激しい戦い方は、なんともはや、写楽をもって肝を潰さんばかりだ。なるほど彼女も戦巧者だが——自分もそうだが——どちらかといえば、その戦い方の質が伊雅と決定的に違う。策を弄さない単純で明快な戦術ならば、伊雅の経験が遺憾なく発揮される。
情勢がにわかに崩れた。衣緒の奮戦する一画を必死に防ぐ敵部隊が、次々と繰り返される伊雅の戦術に翻弄された挙句、わずかにほころび始めた。衣緒隊の攻撃がいよいよ盛んになった。
「ここが攻め時」
亜衣の判断は早く、すぐさま四番手も総攻撃に移し、いっきに勝敗を決しようと指示を出した。
——が、写楽も捨てたものではない。亜衣が伝令を走らせるより早く、陣笛、銅鑼、太鼓ががんがんと戦場に鳴り響いた。
そして、
「撤退ーーッ!」
「退けッ! 退けッ! 退けやッ!」
蔚海軍が、瓦解を目前にして急に撤退しだした。蜘蛛の子を散らす前に、軍団が軍団のまま、諸城砦へと一目散に逃げて行く。統率を崩される前に撤退したため、退き方もまだ形を保っている。
南軍も牙を剥いた猟犬のごとく追いすがるが、やや遅れた。あと一押し、という局面だけあったために、むしろ虚を突かれたのは南軍の方であった。
亜衣、追撃を躊躇った。まずまず目的は達成され、これ以上の深追いは不要であろうか。それとも、攻め込むべきだろうか。
考えて、戦局を見極め、並列する伊雅のもとへと馬を走らせる。兵の動きを見るに、伊雅は追うつもりだ。
「伊雅様、伊雅様ッ!」
「おお、亜衣」
興奮に顔を真赤に染めた伊雅が振り向いた。伊雅の周辺には、騎兵三百騎が待機している。周囲は勝機と見てやかましく蠢動している。
「突撃するおつもりでしょうか」
伊雅は鷹揚に頷いた。
「追撃戦ほど容易な戦いもないわ」
「いえ、お待ちください」
赤面の伊雅とは対照的に、状況を判断している亜衣の顔色は涼やかだ。
なるほど今は追撃戦に移行する場面だ。追えば多数の首を取れるだろう。しかしまた、多くの首を取られるだろう。
その理は、敵軍団がまだ崩壊していないからだ。敗北したから兵を引いたのではなく、形勢が不利に傾いたから退いたまでの事で、逆を言えば、まだまだ反撃する余力が向うにはある。
「渡河は完了したのです。ひとまず敵を見過ごすとして、陣の敷き直しこそ寛容かと考えます」
「追うな、と」
伊雅が嫌そうに顔を歪めた。伊雅は追いたかった。追えば多数の首が取れるのだ。
「川瀬を越えるまでは、無理も強いました。しかしいま追ったところで、勝敗は決しません。これはそのような戦いではありません。急いでいるときこそ、一呼吸おくことが大事です」
「むぅ・・・・・・」
「ですが、なにも手を拱く必要はありません。全軍を向かわせるのではなく、追撃するは前衛の諸部隊に任せたほうがいいと考えます」
「ん? 追撃はさせるのか?」
「もちろんです。追撃戦は追撃戦ですから」
こういったところでも、亜衣の思慮はぬかりない。こういえば、伊雅の戦意はしぼまない。無理をしない程度に、連中の尻を蹴り上げてやればよいのだ。
「よし。では前衛部隊にのみ追撃させ、残りの部隊は陣へ下がらせよ」
旗下の伝令にそう言令し、十数騎の騎馬が本隊から前線へと駆け出した。
ほどなく、なお進軍する前衛部隊を除いた大軍が、しずしずと後退し始めた。彼らはこれから、奪った砦にはいり、体制を整える。その間、死体の処理や戦死者から武具を剥いだり、やることは沢山ある。
亜衣も忙しくなる。身包みをはがされた死者たちを弔うために、陣中で大々的な鎮魂儀式を執り行わなければならないからだ。こうすることで怨霊の祟りをよけ、よって兵士たちを安心させる。このような陣中での大供養は験を担ぐものほど重要視し、戦国時代には土佐の長宗我部元親が執り行ったことで有名だ。
第一戦は、午後六時ごろに終了した。火魅子方南軍は際川ごしの戦線から、北軍と正面切った態勢へと転じることに成功した。
討ち取った首の少なさは、追撃戦で無理をしなかった証明だ。
他方、左翼重然隊も、魔中城部隊を撃破し渡河を完了したとの報が、本隊に届けられた。ただし、右翼斯波虎隊が思いのほか手こずっているようだ。ついに十一日中の渡河を断念し、撤退した。
赤池城は中洲という好立地と、さらに雨天だったことによる急流に助けられた形である。
敵部隊が全て城砦に篭ったのを見届けて、追撃部隊も引き上げてきた。すぐさま軍議を開き、今後の対応が検討される。軍議の席で、緒戦勝利の戦勝祝いが催され、酒が振舞われた。
「よしよし、まずは幸先が良いわ」
伊雅は上機嫌に諸将へ労いの言葉をかけてまわる。九洲の指揮官級は、陣中で労いの言葉をかけるとき、必ずといっていいほどその人物の元まで足を運ぶ。もとは九峪を真似たものだが、現在となっては『九洲流』ともいうべきある種の陣中作法へと昇華された感がある。
「さあさあ、呑まれよ、呑まれよ」
「はっ。では」
この様子を九峪が見たら、「まるで宴会のサラリーマンみたいだな」とか、そんな感想をこぼしただろう光景が広がっている。いや事実、そのような趣がある。
誰も彼もが、晴れ晴れとしている、溜まりに溜まった蔚海への鬱憤を、これでもかとぶつけたのだから、心持もさぞ晴れやかだろう。
「しかし、思いのほか抵抗が頑強ですな」
「うむ。人質を取られているとあって、兵の士気はそれほどではないようだが」
「人質。・・・・・・蔚海の俗物めが、卑劣な手段を講じるものよ」
蔚海の人質作戦を嫌悪する武将は多い。南軍に属していた武将すら、人質作戦によって北軍についたものも、少なくない。
忌々しい話である。いま戦っている写楽ですら、もしかしたら味方だったかもしれない人物だけに、人を人とも思わない蔚海の戦略に憤りは甚だしい。
人質。この問題さえ解決できれば、写楽も尾戸も伊万里も、蔚海方であり続ける理由がなくなり、すぐさま南軍と合力できるのだ。
亜衣や伊雅は、敵方から続出するだろう寝返りを期待していた。人質をどうにかしないかぎり、それは望めなくなった。
「宰相殿。なにか、人質を救出できるような、良き策はなかろうか」
「・・・・・・いまは、何もないのが現状。せめてホタルがおれば、手のうちようもあったものの」
亜衣はまだ、ホタルと九峪の動向を知らない。紅玉の判断で、亜衣にも内密にしているのだ。
紅玉としては、九峪復活の演出を、より神秘的で衝撃的なものとしたい。そのためには、たとえ亜衣であろうとも、噂がもれるのを避けたいという配慮があった。
亜衣が真実に触れるのは、もう少し後のことである。
そのため、現在のホタルは行方知れずとなっていた。一部から「蔚海に滅ぼされた」という噂まで立ったほどだが、真相は別にある。
「何はともあれ、まずまず」
伊雅は赤ら顔に上機嫌であった。
変わって、蔚海方北軍。
際川緒戦の敗北に克城の陥落など、戦況は思わしくない。
この頃の蔚海は、いい加減、悩乱しているとしか思えなくなっていた。腺病質の赤子のように、気に入らないことがあるとすぐに喚き散らし、暴力を振るい、部下たちの人心も急速に離れていっていることにも気づいていない。
気でも触れてしまったのだろう。怒りは撤退を決断した写楽へと向けられた。
写楽の判断は間違いではない。あのまま踏ん張って抗戦しても、遅かれ早かれ軍は崩壊し、一日で勝敗が決していた。統率が取れた状態で、追撃を恐れず撤退に踏み切った英断こそ、むしろ評価されるべきものだ。
ゆえに、残念で仕方がない。これがもしも、阿智であったならば、十分に理解した上で写楽の采配を褒めただろう。蔚海の考えは違う。大局を見通せず、写楽の撤退をただ『逃亡』とのみ判断した。
写楽の英断も、愚者と落ちた蔚海にかかっては、敵前逃亡へと貶められるばかりである。
「貴様は、なぜあの時兵を引き上げたのかッ!」
人前でそう罵倒し、無能と蔑んだ。かつて馬淵にしたように、諸将の前で暴行の晒し者とした。
これで、人の上に立てるわけがない。しょせん、蔚海には幾ばくかの謀才があっただけで、それ以上になれないはずなのだ。ただ、運命の悪戯に弄ばれていたに過ぎないのだ。
写楽が、司令官より外された。司令官を外されるということは、知事の職をも剥奪されたに等しい。失敗したわけでもないのに、である。
蔚海の頭には、これが戦いだという認識がちゃんとあるのか——。
最前線の指揮も代わって蔚海が采配を振るうことになり、軍議はおひらきとなった。写楽とその供回り数名は、小さな砦へ蟄居を言い渡された。
誰も彼もが、写楽への同情を募らせた。無理もなかった。むしろ写楽の采配に助けられた武将のほうが多かった。蔚海と親交のあった文官あがりの武官でさえ、こんどは自分が勘気に触れるのではないかと、気が気でなかった。
大将の器であった武将を失い、これからどうなるのか。不安は瞬く間に広がり、二日が過ぎた。この二日間、すなわち十三日だが、それまで散発的な小戦闘が繰り広げられるばかりであった。
最初の戦い以来、大規模な軍事衝突は起きていない。だがそれも時間の問題である事を、兵卒から奴隷に至るまで尽く覚悟していた。
どちらも、態勢を整えて、決戦の機会を伺っている。このときすでに、藤那・香蘭軍が天都城の支城を全て攻略しつくし、ついに天都本城の攻囲戦へと着手している。
伊万里軍が一万あまりという大軍を率いる志野軍を、九洲連山の半窪に撃破するまで、まだ三日がある。
蔚海の焦りは、彼自身に隠しきれないほど、表立って諸将に見せ付けている。総大将の不安はすべて部下の不安になる事を、このボケた大将は忘れてしまっている。
「写楽様、蔚海はもはや駄目です」
蟄居中の写楽へ、家臣が何度も進言した。蔚海を見捨てるしかないと。
決戦が始まらずして、もはや勝敗は決している。皆が皆、寝返りたがっている。
それでも動けない理由がある。
「ここで裏切ったら、家族はどうなるの。みな人質に取られているのよ」
写楽も、夫と子供、祖母を人質に取られている。裏切りでもしたら、彼らは皆殺しにされてしまう。家臣たちも同様だ。
それだけ人質をとるということは、絶大な効力を持っている。時代々々でも、この手法は見られる。
だが、どうにかしなければならないのも、また事実なのだ。
「拙者にかんがえがあります」
とある家臣が献策した。耶牟原城の人質を救出するための策である。
策を聞いた写楽は決断した。小雨のなか、写楽と家臣数人が、余韻に紛れて小砦を抜け出した。
一行は、南軍方面へと静かに渡った。草薮を掻き分けてある一隊を尋ねた。陣所まで近づいたとき、番兵がふたり槍を向けてきた。
「とまれ。何者だ」
「蔚海方の者です。衣緒殿へとお取次ぎ願いたい」
「う、蔚海方」
番兵たちはいっそう警戒を強くしたものの、しばし雨の中待たされ、陣内へと招じ入れられた。
しっかりと築かれた陣形に、同行してきた家臣たちが口々に感嘆の声を上げた。陣内もそつがない。まず、兵士の気合が緩んでいないところが見事だった。これならば、夜襲にも即座に対応できるだろう。
衣緒の実直さがよみとれる。
「お連れいたしました」
「ご苦労様。下がってください」
「はっ」
兵士が下がり、かわって写楽たち主従が前へ進み出る。座して、拝謁する。位で言えば写楽のほうが高いにもかかわらず、あえて低頭の姿勢をとった。
頼みごとをするには、これくらい頭を低くしたほうが事の運びがいい。また印象を害しないためにもよい。
さて、写楽の突然の来訪に、いがいなほど驚いていないのが衣緒である。むしろ悠々とした落ち着きをはらって、それどころか微笑みさえ浮かべている。
じつは開戦前から亜衣より、特に仰せ付けられていたことがあった。もしも寝返り者が尋ねてきたら、丁寧に応接せよと言われている。叛意もつ者は、亜衣と密通するために側近である衣緒に渡りをつけるはず。そうすると、他部隊よりも衣緒に接近する確立がはるかに高いという、亜衣の深謀遠慮があった。
ぞのために、驚きはない。むしろ姉が策したところ的中して、内心からおかしみが滲み出てくるようだ。それも釣れたのは、末端の武将ではない。
知事という大魚が飛び跳ねんばかりに釣り上がった。わざわざ命がけで足労してきてまで、亜衣への拝謁を願っているのだ。これを逃してはならない。
「夜分、敵陣にまでまかりこされるとは・・・・・・よほど、重要なことかと思いますが」
「たっての願いがございまして。是非とも、宰相様にお取次ぎ願えませぬか」
「その前に、ご内意を承ってもよろしいでしょうか」
「かまいません」
むしろ衣緒に聞いてもらって、それから話を通してくれたほうがいい。
写楽の望みとは、衣緒が考える予想の範囲を出なかった。寝返りたいという。それ自体はいい、歓迎する。
だが、もちろん、そのような行為が簡単に成されるわけがないことも理解している。人質をどうにかしないかぎりは。
とにかく、衣緒は面通しを了承し、自ら遣いとなって亜衣の元へ写楽を案内した。
まっていた! と、小躍りしそうなほど亜衣や伊雅が歓喜したことは、その後の応対からも感じ取れる。敵将である写楽に盃を持たせ、どちらともなく手ずから酌をしてやるほどだった。
「内通の議、感謝いたす」
ふたりは始終、密通を決意した写楽をもてなした。
しかし問題は、いかにして寝返るか、である。
「じつは」
写楽が司令官を罷免された事を告白する。
「よって私の方で、耶牟原城の人質をなんとか救出いたしましょう」
「なるほど」
蔚海の愚は、人質をとってすっかり安心しきっていることであった。己の腑中にいる虫全てが『獅子身中の虫』であるということを、もっとよく認識するべきだったのだ。
それとも、それすらわからなくなったか。
「人質を救出しました暁には、私の蟄居している砦に兵を向かわせてください。そうすれば、すかさず寝返り、本陣の側面を突いてご覧にいれます」
「相わかった」
密約は交わされた。夜陰、写楽は自陣へ帰った。こういうとき、蟄居されたといえ砦持ちは有利である。番兵全てが味方であるからだ。
人質救出は、家臣三十人に任せることとし、即日の間に陣中から送り出した。送り出す際、方々で小火騒ぎが起こった。写楽の仕業であり、このために三十人全員が耶牟原城へと向かうことが出来た。
蔚海は、気づかない。それどころではないからだ。彼はいま、劣勢の戦いをいかにして挽回いたしめるか、策を練ることで手一杯だ。
小火騒ぎが起きた時も、仲間内の仕業だとは考えず、
「間者が紛れておるぞッ!」
と警備の担当者を怒鳴りつけていたくらいだ。しかし捕まえたのは二、三人ほどで、どよめく空気を読んだ間者のほとんどは姿を隠して難を逃れていた。
人質が蔚海の切り札である限り、それさえ解決できれば、勝敗は確定される。
渡河も終えたいま、あとは現状を持ちこたえるだけである。