桜島の戦いで生け捕られた五人の海人をひとまず監禁し、ここで清瑞は最後の仕事に取り掛かった。
なんということはない。まず五人の海人の耳に入るよう、見張りの守衛らに天草水軍が加奈港へと向かって船団を組み押し寄せてくると噂話をさせるのだ。そして機を見計らい、変装した清瑞が『蔚海からの使者』と偽って、海人らの前に姿を現せる。
清瑞によって拘束を解かれた海人たちを逃がす手助けも、清瑞自身がしなければならなかった。しかし簡単なことでもあったのは、すでに紅玉が小船の手配までしてくれていたことだ。
「味方と間違えさせるんだ。鎧は着ていけ」
五人分の鎧まで用意しているのだから逃がす気は満々だ。しかし捕らえられて恐慌状態におちていた海人たちは、わざわざ蔚海の遣いと証する清瑞の指示に喜んで従っていた。
小船までたどり着くと、清瑞は最後に念を押す。
「際川の戦いが長引いている。救援は期待できないものと思え」
血色を悪くする海人たちを送り出す。清瑞はにやりと笑った。
「せいぜい噂を広めて怯えるんだな。じきに重然殿も貴様らの尻を蹴りにくるぞ」
あいつらが海上で漂う海人衆たちと合流したとき、はたして各党の頭たちの面にどのような表情が浮かぶことだろうか。
これから待ち受けている破滅の運命を思うと気の毒にも思えてくるが、すべては九峪の勝利のためである。
桜島の残党狩りはまだ続いている。任務を終えたあとの行動は、紅玉指揮下にはいるべしと命令されている。残党狩りに目処がつきしだい兵三十人を与えられて加奈港攻略に乗り出したのは翌日のことであった。
火前の湊を出発した天草水軍の航路は天草を経由するものだ。そこから西薩摩の弁財天山が突き出している土地を蹴って、さらに坊津へはいるのが飛石航行の常套であった。
しかし重然は、その卓越した航海技術を駆使して、天草から経由線を経ずして直せつ坊津へ船を進めた。このとき、西から北へ向けて吹き抜けて行く偏西風の影響を受けて、滞留している春の暖気が渦巻いて南向きの強風が発生し、西九洲の海を撫でていたのだ。
これを重然と斯波虎は好機と捉え、ひたすら南進しつづけた。とうぜん、海もそれなりに波立ったが、荒波に怯えて海の戦士が生きていけるわけがない。巨大な帆を操ること不可能、しかし櫂をにぎる水夫たちはそれまでの人生で培った海の技術をこれでもかと披露し、本来ならば七日七晩かかる道のりをわずか三日で走破してのけた。
折りしの時期に見舞われた天佑もあるが、なによりも彼らの宗像海人衆へ向ける鮮烈なまでの敵愾心のなした業であった。あるいは、彼らを援くるために天の加護が降りたのかもしれない。
暦は五月に入った。
見張りが野間岬を遠望に捉えたと騒ぎ立てている。野間岬が見えたならば錦江港へはもう直だ。
「お頭ぁ! 岬でっすよ」
船室に慌しく駆け込んできたのは愛宕である。さきの戦いで敵将を二人も討ち取る大活躍をしてのけた愛宕は、今回は重然のお傍で戦うことになっている。
寝ぼけた顔で重然がおもそうに起き上がった。興奮し通しだった重然はしばらく寝入っていたのだ。火前で兵を挙げてからいままで、じつに二ヶ月ほどが経過している。
「お頭ぁ!」
「聞こえてる・・・・・・騒ぐな、ただでさえデカイ声してるのに」
みだれた髪をかきむしり大きな口をあけて欠伸をかいた。
「・・・・・・野間の岬か? それとも唐岬か?」
「野間岬っす」
「そうか・・・・・・かなり早くついたな」
起き上がって重然は外に出た。潮の嵐が轟々と吼えている。波は余人に聞けば鳴動しているというだろう。しかし重然には母に抱かれる子が耳にしているような、穏やかでやさしい拍動の音にも聞こえている。
しかし風は強いが雲は暗くなかった。雨の気配がない。雨が降っては岬の炎が確認しづらくなる。
この時代の倭国に灯台などという便利な施設は存在しないが、九洲ではやや事情が異なる。とにかく物事の迅速化を重視する九峪は、九洲奪還直後から各地に灯台の建設を提案したことを起源とする。狗根国遠征軍の襲来に備えて、豊後の伊万里が海岸沿いに狼煙台を気づいたとき、より遠隔からも確認できるようにと台を高くする工夫をしたことが、のちの灯台建設に一躍かうこととなった。
野間岬の灯台は高さこそ低めに作られているが、目印としては申し分もない。銅鏡に反射する松明のあかりに重然は戦いの終りを予感した。
「坊津もすぐそこだ。いったん坊津に入るぞ。加奈船を先行させて、集落から人夫をあつめろ。炊き出しするように触れ回らせるのも忘れるな」
「はいっす」
元気よく駆け出す。こういうとき大声の愛宕は便利に働いてくれる。
加奈船が船足も良好に竜神丸から距離をとり、見る見るうちに小さくなっていく。先行する加奈船は五隻である。地元民へふれをださせるので、船員も弁舌たくみな者が乗っている。
ほかの船とも連携を取りつつ艦隊は坊津へはいると、すでに炊き出しの湯気があるのが見えた。風にあおられて四散霧散している。
沖も荒波、しかし海岸沿いはさらに凄まじい。へたに近寄りすぎると岩礁に乗り上げるし、あるいは浜に打ち上げられかねない。小さい艦船から優先して湊に入って行く。もっとも船躯のたくましい竜神丸は、沖合いに留めおかれた。
陸に上がれないと文句をたれる愛宕を無視して、重然は、おなじく竜神丸に乗り込んでいる織部の姿をさがした。
潮風に長い髪を弄ばせるのもそのままに、坊津の湊を眺める織部の姿を見つける。
重然も隣にたち、おなじように坊津を眺めた。九洲で三指の大湊として繁栄した坊津も、春の嵐におおわれるいまは散閑としているはずだった。いまは貿易の時期ではない。逆を言えば余計な船がないからこそ天草水軍は立ち寄れたといってもいい。これが夏場であればとても立ち寄れまい。
「・・・・・・気にくわねぇ」
織部は視線を前方に定めたまま呟いた。言葉どおりに眉が不機嫌そうに寄せられている。船べりの柵によりかかる姿がだるそうである。気力というものを感じられない。
「おい。ほんとうに九峪様がもどってきたのかよ?」
「そういうことになってやす。清瑞がそういうんですし、書状も九峪様の筆跡だと伊雅様がいっとりやした。・・・・・・いいことじゃねえですかい。九峪様があっしらを助けてくれるってんだから。もっともここまできたら助けも何もありゃしませんが」
大勢は決した。宗像海人衆ももはや脅威たりえないのなら、たしかに九峪の出番ではないような気もする。しかし亜衣や伊雅はそうでもないらしい。
重然は、自分が思っている以上の意味が、この最期の戦いに秘められているのだと薄々かんじている。だがそんなことよりも、九峪が占拠したという石川島のほうが気にかかる。
石川島は本来、織部の一族の根幹地である。織部が不機嫌になる理由もわかる。
「あたしが気にしてんのはそんなことじゃねぇ」
睨みつける鋭い視線が重然を見上げた。
「九峪様は種芽島から来たってんだろ? だったら北山の連中も一緒じゃねえのかよ?」
「そいつは・・・・・・そうでしょうな」
「そいつが気にいらねぇってんだよ、あたしは。そりゃあ石川島だってきになるさ、あそこはあたしの故郷なんだからな。でもそいつはずっと昔に捨てちまった。気にする資格がねぇ。それよりかはだな・・・・・・いけ好かねぇ北山が九峪様と一緒にいるってだけでも業腹なのに、石川島にはいったってのがムカツクんだよ」
「ですけど、お嬢。まだ一緒だと決まったわけじゃあ・・・・・・」
九峪の書状にはその部分に関する言及はなされていない。
「いいや、いるね。あたしにはわかる。これでも勘はいいんだ。イヤな気が毛先までまとわりつくような・・・・・・そんな勘がな、してるんだよ」
吐き捨てるような一言が、どれほど憤っているのかを物語っている。織部の北山嫌いは筋金入りだ。本人も嫌悪をあらわにすることはばからない。どうにも生理的に相性が悪いらしい。本能的な敵対性と言い換えてもいいだろうが、そうなると許容することも難しい。
織部の気持ちもわかるのだ。北山と争って敗れた『大隈海戦』を契機として、重然の運命も狂いだした。あの戦いで裏をかかれなければ・・・・・・北山さえいなければ・・・・・・何度そうおもい悔しがったかわからない。そもそもが、際川の戦いを引き起こした蔚海もまた、北山問題で揺れ動く情勢の間隙をたくみに縫って進み、権力の頂点にまで上り詰めたのだ。
余人はどう思おうと、間違いなく北山は重然にとって、いや九洲にとっては疫病神だ。それ以外の善き意味を持たない集団なのだ。
しかし——
「九峪様が一緒なんです、なにか考えがお有りなんでしょうや」
北山が気に入らないのは重然とて同様。それでも九峪がいるのだと思えば、そこに意味を求めてしまうのも仕方のないことだ。
目を細める織部にも重然の言うことは十分承知のことであった。だから尚さら機嫌が悪かった。九峪が絡んでしまえば逆らうわけにもいかない。
「北山の野郎ッ・・・・・・。滅んでも生き残りやがって」
恨めしく呟いた言葉に、重然は嘆息する。まったくそのとおりだと思った。
天都城を出発した火魅子の大軍は、軍用をぴしっと整え、総勢一万八千の大軍で移動を開始した。途中に兵力を加えつつ、川内川をわたる頃には、ゆうに二万人を超えていた。
軍を率いるのは大将軍伊雅である。伊雅を総本隊として、藤那の第一軍団、香蘭の第二軍団、伊万里の第三軍団、尾戸の第四軍団、写楽の第五軍団、志野の第六軍団、切邪絽の第七軍団があとに続く。先陣をきる火後の最強部隊『駒木衆』三百騎が、颯爽と駆け抜ける。
これらの大軍に宗像海人衆討伐を任せた亜衣は、天都城に残っている。僅かなものだけを手元に残して早くも事後処理に取り掛かった。といっても、大まかなことを片すだけだ。敗者や投降したもの、すなわち戦犯者を裁くには大将軍との合議が必要になる。こればかりは大部分が大将軍の管轄に入るため、亜衣一人ではどうしようもできない。
それに亜衣には、どうしてもやっておかねばならないことがある。
落ち延びた蔚海を駆り出すことだ。蔚海方北軍の掃討はほぼ完了しつつある。あとは蔚海を見つけ出し、処断するだけなのだ。
むしろ亜衣の意識は、蔚海を見つけ出すことに大きくを傾けていると言っても過言にならない。残務処理こそ片手まで裁けるものばかりで、蔚海の人相をしる兵士三百人を用意して、戦場付近で山狩りや里狩りを行わせた。
「どこかにいるはずだ! 何としても探し出せッ!!」
そう命令する亜衣の様子を、人々は緊張した気持ちで見つめていた。亜衣を挫折させた宰相交代劇、羽江を襲った太七郎の悲劇、そして責任感のつよい亜衣の目の前で起こりかけた国家分裂の危機。それらを考えると亜衣の怒りはもっともで、憎々しい瞳や言葉から、人々は久しく忘れていた亜衣の冷酷な一面を思い出していた。
今でこそ人間味あふれているが、復興軍時代からの古参組にとっては今の亜衣は恐ろしい。九峪がとびぬけて明るい人徳の持ち主であったことに対して、とかく湖面に映える朧月のように亜衣は涼やかな人物であった。
しかしそれは時として、『涼しい』から『冷たい』という印象を周囲に与え、いままさに亜衣は鉄の角を生やす鬼のようであった。
火魅子に願い出て巫女衆の指揮権を借り受けると、亜衣は五機の飛空挺すべてを飛ばして上空からも蔚海を探させた。ほんとうは亜衣自ら探しに出てしまいたかったが、すんでの所で蘇羽哉に圧し留められ、かわりに蘇羽哉に指揮を任せた。じつは蘇羽哉は、自分だけで飛空挺隊の指揮を取るのは今回が初めてだった。
——余計な事を言ってしまった・・・・・・。
飛び立った直後の蘇羽哉はそんなことを思っていたとか。
何はともあれ、亜衣もまだまだ休まることは出来ない。
そして火魅子であるが、こちらもやらねばならないことがある。今回はいくさの規模が大きすぎた。事あるごとに火魅子は鎮魂祭(冥界送りの儀式)を執り行っていた。戦闘そのものに参加することはなかったが、度重なる占星術と朴易、星読みと先にも挙げた鎮魂祭で、疲労も溜まりに溜まっている。
しかして今また、地元民や兵士たちを落ち着かせるために火魅子は呪わなければならない。祈らねばならない。
やや風が強い中、火魅子と亜衣は祭りを開き、天都城周辺での戦いで失われた命を弔った。戦死者は推定でも二千人となっている。
九洲の生死感は面白い。八柱神は自然神として崇められ、つまりは自然(精霊)崇拝を形作っている。そこに大昔に入り込んだオリエント文化圏の運命感が姫御子を拠代とし、九洲の人々は姫御子(運命)と八柱神(大自然)を厚く崇拝してきた。
姫御子は逆らえない運命の象徴で、同時に逆らえない強大な大自然を八柱神に仮託している格好になる。人間はそれらの下で、運命と大自然に抱かれて生きる事を定められた存在で、それらを繋ぐものとして『精霊』もまた身近な信仰として人々に敬われた。
そこに九峪の持ち込んだ中途半端な仏教やキリスト教が入り込み、いわゆる『訓え』という概念が芽生えた。つまりは宇宙世界の創造であり、それがさらに吟遊詩人の手によって現在進行形で、姫御子と八柱神の物語と融合している時期でもある。訓えの登場により、神社も次第に『寺院』としての性質を帯び始めた。
そのため、ここ二百年ほどの間に九洲の生死観もおおきなうねりの中にある。鎮魂という儀式はその際たる例である。もともと九洲には冥界や黄泉といった考えがなかった。使者はただ精霊になって自然に帰るだけだからだ。死後の世界、あるいは死霊を怖れるのは、九峪の持ち込んだ『天国と地獄』という概念の影響であった。
儀式を終え、火魅子は一足早く耶牟原城へと引き上げた。五月四日のことであった。桜が散り始めていた。
儀式といえば、この時期にも九峪はある儀式を執り行っている。都井岬をおさえ、串間城へも手を伸ばしたときである。
目的は決戦に際して最期の悪あがきをするためだ。北山勢と九洲勢の連帯感を高め、なおかつ不安を取り除くために、九峪は地元でも有名な神社を詣でることにしたのだ。
なんでもその神社は歴史古く、双子の老巫女がおこなう占いは的確で、まさしく運命と共にあるとまで囁かされる高名な巫女がいるというのだ。幸い、琉球土着の信仰も自然信仰である。この期に九峪は、北山の神々を九洲の信仰に取り込んでしまおうと画策していた。
まず、北山人たちに戦勝祈願を予めさせておく。それはすなわち、この九洲の地に北山の神々を呼び寄せるということであり、そのままの勢いで九峪は幹部と指揮官級のものの大半を引き連れて、総勢百人近くの団体で『日枝神社(ひえじんじゃ)』を尋ねた。日枝神社は現在の串間市高畑山に建てられた社殿である。
「すみません・・・・・・」
高名というわりには、荒んだ雰囲気がある。とたん九峪は不安になった。これでもしも廃棄された神社ならば、むしろ逆効果になってしまう。
下調べではいるはずなんだが・・・・・・と、敷地内を歩いてみる。あっというまに人であふれかえってしまった。それほど広い敷地でもなく、石畳は綺麗に並んでいるものの、雑草は生え放題で倒木すら見受けられる。
マズイな・・・・・・。どうしようかと九峪は迷った。このまま帰るのもいけないし、けれども現状ではどうしようもできない。
うろうろと、とりあえず内心の動揺を悟られないように務めていると、社殿の境内と外界を隔てる結界(扉)が開かれた。
九峪や他の者たちの視線がそちらへと向けられた。そこには腰を曲げるひとりの老婆が立っていた。
「・・・・・・ようこそおいでくださいました」
かすれ気味のしわがれた声には重い響きがあった。皺だらけの丸顔に愛嬌などどこにもなく、むしろ小憎たらしさのほうが際立っているようだった。だが、子憎たらしいと思う顔には、嫌味な色合いがまったくない。むしろ超然とした気風さえあり、只者でない。
「婆よ、あなたがここの巫女か?」
進み出て教来石の言に老巫女は頷いた。法衣と言うものに身を包んでいる。紅白の基調食には汚れがまったくない。それがかえって、この捨て場同然の神社とは不釣合いな神聖さをかもし出している。
腰を丸めているのは年齢によるものだろう、足元も覚束ない。ただし、地を確かに踏みしめているのがわかる。
「お待ち申しておりました」
九峪の正面近くまで近づき、老巫女は深々と頭を下げた。九峪は驚いた。下調べはしたが、だれも尋ねるとはいっていない。ただ神社が健在かとだけ調べさせた。
なのにこの老いた巫女は、やはり俗世に囚われない顔と態度で、九峪をあたかも待っていたような口ぶりである。
——予見したのか?
九峪は考えた。有りえないことではないと思えた。なぜなら星華や亜衣も、時として人智を超えた能力で未来を見ることがある。その点においては星華が頭一つぶん抜きん出ている。
高名というからには、星華と同じだけの、そうでなくとも亜衣に匹敵する巫女の素養があるのだろう。
「俺たちがくるってことを、知ってたのか?」
「はい。風が教えてくれます。また運命も告げておりました。・・・・・・ずっと昔から、いつか貴方様がここを尋ねる日が来ると。私どもはそれを待ち続けました」
「い、いつから?」
つばを飲み込んで、九峪は前のめりになって尋ねていた。それでも老巫女は慌てもしない。
「昔は、昔——遠い日々です。もはや忘れてしまいました」
そういって、老巫女が身を返した。九峪たちを誘い社殿へと向かう。戸惑いながらも九峪が後に続く。その後ろを清瑞が追い、音羽が遠州が教来石が、つぎつぎと従う。
ただし、社殿へ上がる事を許されたのは、九峪のみであった。それ以外の何人も踏み入る事を老婆は許さなかった。まるでそこから先の聖域が汚されるとでも言いたげで、しかたなく九峪だけが上がりこんだ。
扉は開いたままだ。でなければ信託と加護はみなに届かない。
境内は暗かった。九峪は今度こそ眩暈を起こしかけた。外の荒れ放題と、この境内の粛々しさのなんたる違うことか! いうべき言葉もなかった。手入れが隅々にまで行き届いている。完全にひとつの世界が出来上がっていた。
まさしく聖域。蜀に明かりがともされ、最奥の祭壇がしだいに浮き上がってくる。
「腰をおかけください」
九峪は慌てて座った。胡坐をかいて、また慌てて正座に座りなおした。べつにどのような座り方でもいいのだが、気分がそうさせた。
しばらく無言で境内を見回す。清瑞たちがせんいん跪いているのがみえた。こういうとき、彼らは九峪よりも畏まる。そういう世界で生まれ育ったものの違いである。神を利用しようとする自分と、神を敬う彼らの違いが、この場では如実に現れていた。
「もうすぐベクとアロが参ります」
「ベク・・・・・・?」
「妹でございます。アロは孫になります」
「そういえば・・・・・・婆さんの家族は?」
孫というからには子がいるはずだ。しかしそのような姿は見えない。
「娘夫婦がおりましたが、父親は狗根の人に殺されました。母親は十年もまえに還りました。いまは妹と孫の三人で、この日をまっておりました」
「そうか・・・・・・」
狗根国のつけた傷跡は、二十年経った今でもそこかしこに残されている。
「それは、寂しいな」
九峪が静かに言うと、はじめて老婆の口元に笑みが浮かんだ。
「たしかに寂しく思うときもあります。しかし私はひとりではありません。私の傍にはベクが残り、娘たちはアロを残してくれました。それに、ようやく貴方様にも出会えました」
「俺をまってた・・・・・・んだよな?」
「はい。もはや忘れておりましたのに・・・・・・じわじわと、昔を思い起こしております」
そういう老婆は、皺の数ほどの年月をいきたのに、どこか少女めいた顔をしている。
「私たちが貴方様の事を知ったのは、まだ少女のころでした。姫御子様のお声がきこえ、私たちは何時の日か貴方様が現れる事を、ただただ胸ときめかせて待ち続け——いつしか男と結ばれ、子を持ち——老いて孫を授かり——このように、皺だらけの婆になってしまいました」
そこには、小憎たらしい相貌の超然とした老巫女ではなく、ひとりの夢見るような乙女が佇んでいた。少女は神の遣いを憧憬をいだいたまま待ち続け、成長し、いつしか老いてしまった。
その月日の長さを九峪は考え、考えた直後、自然と——ごく自然に、老婆に頭を下げていた。理由はわからない。けれどこんなになるまで待ってくれていた老巫女が、いまこうして自分の目の前にいてくれていることが、堪らないほどに嬉しかった。
「ありがとう」という言葉も、自然に発せられていた。
祭壇の奥で物音がする。今度は幼い十二、三歳ほどの少女と、その少女に手を拭かれてくる老巫女が姿を現した。双子という触れ込み通りよく似ている。
姉と違い、ベクという名の妹は足が危なっかしい。ずっとアロという名の少女が支えている。
目が悪いらしい。ただし光を失ってからは姉以上に神意を聞けるようになったという。
ベクが姉の隣に座る。その横でアロが、手を繋いだまま正座した。
「ベクに、アロ・・・・・・だよな?」
「はい。妹と孫です」
「そういえば、婆さんの名前は?」
「イクと申します」
イク、ベク、そしてアロ・・・・・・。
随分と不思議な響きのする名前である。倭人とも漢人とも違う。
しげしげと三人を眺め回す。双子の老婆は本当によく似ている。もしかしたら皺の位置、長さ、本数までもが一緒なのではと思ってしまうほどだ。
アロは、これまた不可思議な娘だ。やはりどこからも俗臭がしない、人間を超えた存在を髣髴とさせる佇まいだ。長い髪を後ろで結っており、前髪は眉の高さで切り揃えられている。瞳がおそろしいほどに透き通っている。
——星華の・・・・・・いや、これは亜衣・・・・・・?
星華ほど無邪気ではない。しかし亜衣のように理性的でもない。だが両方に負けないほど似通っている。強力な力を持つ巫女の瞳は、みなこのようなものなのかもしれない。
九峪の視線に気づいたのか、アロが顔を伏せてしまった。一瞬、怯えともとれない表情をしていた。なんとなく、内気な娘なんだと、九峪の直感が囁いている。
「ベクよ・・・・・・。ついにこの日が来ました」
イクの嬉しそうな言葉にベクが頷き、九峪へと白くなった目を向けた。焦点が合っていない——はずなのに、しっかりと九峪を捕らえている。
異様な力が九峪を縛る——ような錯覚がする。九峪は気を引き締めた。すでに九峪は俗世から切り離されている。
「姉者、本当に神の御遣い様なのですね」
「ええ」
「ああ・・・・・・!!」
不意に、ベクが宙を睨みつけた。そこに誰かがいる。九峪には見えないが、イクもアロも、そこを見つめていた。
——なにが始まるんだ!?
九峪はただ、戦勝を祈願しに来ただけなのだ。決してこのような超常現象を体験しに来たわけではない。
誰もなにも言わない。九峪は次第に心を焦らし、それを通り越して怖くなってきた。ただ感無量とばかりにイクとベクが涙を流している。アロは平然としている。そして自分は怯えている。
もう滅茶苦茶である。いっそ泣きたいくらいに心は乱れていた。
——つーか誰だよ!? そこにいるヤツ!
存在は九峪も感じている。——たしかに、誰かの吐息が自分の頭上から降ってきている。しかしやはり、九峪の目には板の屋根しか見えていない。幽霊かと思った。すぐに頭を振ってその考えを消した。
そんな九峪を、アロが不思議そうに見つめていた。視線に気づいて目を向けると、また伏せられてしまう。でも、また九峪の視線が外れると、アロは九峪を見つめた。
——こいつ、そんなに俺が面白いか!?
怒鳴りたいくらいだったが、声が出てこない。身も動かせない。金縛りだ。
だから、能面のようだったアロの表情に、目に見えて変化がおきていることに気づかなかった。
なかばパニックに陥りかけていたとき、ふっと体が軽くなった。同時に、頭上の存在も消えてしまった。
汗が一気に噴出してきた。
激しい疲労と倦怠感が体中を襲った。まるで九峪を苦しめている『発作』のようであった。
「・・・・・・行ってしまわれた」
ぼそっとベクが呟く。すると急に体が傾いた。それまで能面のようだったアロの表情にはじめて、驚きの形が出来た。
「小婆さま!?」
叫び声が九峪にも聞こえて、顔を上げる。
落ち着かない呼吸が肺を殴る。あらゆる血管がはれ上がっている。腕を動かすのも辛かった。
辛うじて、
「・・・・・・だ、大丈夫か?」
とだけ尋ねることが出来た。ベクは小さく頷いた。もはや瞳はなに一つの焦点をも捉えていなかった。
「姉者」
アロの腕の中に、恍惚の表情のベクがいる。怪奇現象の余韻に陶酔しているようだった。
しわくちゃの顔は幸せに満ちていた。
「いままで生きてきた甲斐がありました。姫御子様のお姿がはっきりと見えました」
「私にもみえましたよ。残念ながらお声までは聞こえなんだが・・・・・・」
「私もです」
いって、ベクはアロを見上げた。
「見えましたか? 聞こえましたか?」
興奮気味に質されたアロが言葉に窮した。いままで見た事のない婆の活き活きとした様子に面食らっているのだ。
もういちど質されて、アロは小さく、けれどもたしかに頷いた。見えていたし、聞こえていた。
でも話すことに勇気が要った。それだけの内容であったのだ。
が、ベクは追求した。なにしろ何十年も待ち続けたのだ。狗根国の戦火に襲われ、多くを失い、それでもこうして憧れた神の遣いとであったのだ。いまこそ生まれてきた意味をしるときだった。
「お話なさい! さぁ!」
「ち、小婆さまッ」
アロの瞳が怯え始めた。ベクは段々と激しくなっていく。イクも似たようなものであった。二人の数十年がここにあるのだ。少女の頃のまま老いた二人には、いまを正気でいられるわけがなかった。
この場ではただ一人、九峪が正常であった。
「ちょっと待った!」
まだ呼吸があらいが叫んだ。喉の奥が痛んだが、あえて意識の外に締め出す。
九峪の制止に二人は動きを止めた。神の遣いの言うことには素直らしい。双子らしく同じ調子で九峪を見た。
咄嗟のことだったが、九峪はアロの腕を引いていた。ドングリみたいに丸くなった眼が九峪を見つめる。伏せようとしないのは、ベクの激しさから逃れてほっと安堵したためだ。
「そこまでにしとこうぜ? アロが可哀想だ」
と、九峪は微笑んでみせた。こういうとき誰かが笑顔でいなければならない。
日に当てられたような暖かさを感じて、二人がはっと我に返った。ついつい我を強くしすぎてしまった。すまなそうに頭をたれている。
「すまない、アロ」と、二人が詫びの言葉を呟く。神に仕えるものとしての矜持か、それでも凛としている。非を素直に認めている。
それでようやくアロも安心して微笑を浮かべた。驚きと怯え以外の、あどけなくも柔らかい笑顔だ。それに九峪はちゃんとした血肉の通いを感じて、笑みがますます嬉しさに染まった。
だがすぐに表情を引き締める。アロには悪いが、話してもらわないことには、戦勝祈願どころじゃなくなる。こうしている間にも状況は変わるのだ。出来るならさっさと終わらせてしまいたい。外で待っている皆のことも心配になってきた。
「アロ。いったい何を聞いたんだ?」
やさしく尋ねると、アロの体が震えた。表情が強張っていくのがわかる。その尋常あらざる様子に、イクと、目の見えないはずのベクまでが神妙な顔になった。
アロが言葉に困っている。優しく尋ねているし、二人も正気に戻っている。なのにアロは怯えてさえいた。
イクが膝をすすめた。
「アロよ、話しておくれ。大丈夫、私たちはもう大丈夫だから」
「大婆さま・・・・・・」
ついとアロが九峪を見上げた。どうやら自分に許可を求めているようだと察し、「話してくれ」とうながした。
まだ戸惑いが残っていたが、意を決したのか、ぽつぽつと語り始める。節の区切りがいやに多い。緊張しているのか、なんなのか、声が震えている。
——緊張ではない。話しながら、どんどん恐怖の深みに嵌っているのだ。姫御子の声が聞こえたのは自分だけ・・・・・・という、大きすぎる使命感に押しつぶされそうになっていた。
しかし九峪にも、双子の老巫女にも、手を伸ばしてあやしてやるゆとりはなかった。こちらも負けず劣らずの難しい表情で、少女の小さな口から紡がれる信じがたい話を聞いていた。
語り終えたアロの瞳から、ひとすじの涙がこぼれた。縋るように九峪を見上げた。話すうちに、ついに堪えきれなくなっていた。まだ少女なのだ。あらゆる経験が少ない。
——とくに人の死に関しては。物心つく前に父を亡くし、物心ついた後には母を病で失ってしまった。死に怯えるようになったのだ。
「俺が・・・・・・死ぬだと?」
呆然と呟いたのは、九峪であった。すすり泣くアロの目の前にいる神の遣いは、たったいま、このいたいけな少女から死の宣告を受けたのだ。目の前の、敬愛する祖母たちが焦がれてきた神の遣いが、滅びの運命にあるとしったことが、少女の心を苦しめていた。
姫御子がアロに語ったのは、九峪の未来であった。詳しいことは教えてくれなかった。ただこのままでは、いずれ九峪は多くを失い、また自らをも破滅させるのだという。
馬鹿なと切り捨てたい。それが本心で人情というものだ。しかし九峪は、よく当たりすぎる星華の占いを知っている。亜衣の占いもよくわかる。その二人と同じような瞳を持った幼い巫女がいうのだ。いままで自分の頭上にいた『誰か』——おそらくは姫御子という名の運命が、そういったのだ。
心臓が嫌な音を立てている。背筋に汗が滲んでくる。気持ち悪くなってくる。けれど九峪はグッとこらえた。
——落ち着け! 落ち着け!
小波たつ気持ちを押さえ込んで、九峪はアロを見やった。泣きそうな表情をしている。能面のようだと思っていたのに——。
ちゃんと人の表情だって出来るのだと、混乱しそうな頭で思った。それが九峪に平静を取り戻させてくれた。
「・・・・・・そう、聞こえたんだな? 俺が死ぬって?」
涙に濡れた頬を赤くさせて、アロは頷いた。それからまた、顔を伏せてしまった。・・・・・・肩が小刻みに震えていた。
「ああ——なんたる無情! 皮肉な宿命よ・・・・・・ッ」
とうとうベクが悲痛な叫びを上げた。この世に呼び寄せられながら、滅びの運命にある九峪の不幸が嘆かわしかった。
「——でも」
アロがか細く呟く。顔は伏せたまま、覗き込むような視線が九峪に向けられる。
はじめてアロが九峪に向けて言葉を話した。
「助かるって・・・・・・姫御子様、いってた」
「なにぃ!?」
九峪はおもわず腰を浮かせていた。驚いて上半身を仰け反らせたアロの両腕を掴み、顔を思い切り近づけた。
「マジか!? マジでか!?」
「ま、まじ・・・・・・?」
「本当かって意味だ! お、おれ、助かるのかッ!?」
「えっと・・・・・・う、うん・・・・・・たぶん」
勢い込む九峪の剣幕におされるも、つたない言葉で答えた。途端、九峪の顔面が崩れた。泣き顔とも笑顔ともとれない珍妙な相好である。
がっくりと下ろされた肩が今度は上下に揺れだした。
「なんだ・・・・・・はは! 心配して損した!」
死ぬ、と言われた瞬間の動揺と恐怖心に比例して、徒労の不安から一転して歓喜がこみ上げてきた。
そうだ、いきなりそんな事を言われても困る。いくら呪いや占いの類があたろうとも・・・・・・。
——否、そうだ、当たるのだ。助かるかもしれないが、死ぬかもしれないのだ。いいや、まだ考えが浅い。滅びを前提として、それを回避する方法があるというのだ。つまりは、その方法によって何かしらの行動を起こさねば、九峪はやはり死んでしまうのだ。
そのことに気づいて、またも九峪が愕然と固まった。笑い事ではなかった。
「ちょっと確認したいんだが・・・・・・俺は死ぬのか? それとも助かるのか?」
真剣な問いかけにアロの目は左右に泳いだ。九峪を傷つけない言葉を選んでいるのだ。
「たのむ、ちゃんと答えてくれ」
「・・・・・・」
しかしアロの口は堅い。この少女は極度の口下手なのだ。というのも、老巫女もそうだが、この一族はきわめて外界との接触が希薄だった。
なんと言っていいのかわからず、潤んだ幼い瞳が困惑の色をうかべて九峪を見上げている。言葉がそもそもまとまらない。
「・・・・・・わかった。じゃあ、俺が一つ一つ聞くから、それに簡単でいいから答えてくれ。いいな?」
「はい・・・・・・」
「よし」
九峪がアロの肩を放した。どっかりとアロのまん前に座りなおす。
「俺はどうして死ぬんだ? 病気か、それとも殺されるのか?」
戸惑いながら、アロは「わからない」と答えた。細かい死に方はなにも聞いていない。ただ、なぜ死ぬのか、どうすれば助かるのかだけを言い残して消えてしまったそうだ。
言いようを察すると、病気という線はかなり薄い。もっと複雑な動機と死因がありそうだった。
となると。
——やはり俺は殺されるのか?
という不安が煙を上げる。考えたくないが、その可能性が一番しっくりくる。
『七、八十年倭国乱れる』と魏志東夷倭人伝に記された『倭国大乱』の時代に突入して、三十余年。まだ動乱も半ばにさしかかろうかという時期でしかない。
命を失う危険は星の数ほどもある。それこそ路傍の石に蹴躓くのと同じくらいの可能性か、それ以上にありえる。死ぬときは呆気ないのだと九峪も心得ている。
が、防げる結末だともアロは言うのだ。防ぐ方法はある。アロの託宣を結び行くと、
「これから助けようとする者たちによって死に至る。滅びを回避するには、助けようとするものたちを見捨てなければならない」
ということになる。
どういう意味なのか——九峪は、それが図りかねていた。助けるもの、というのは、現状から考えていくと、種芽島の残党しか思い浮かばない。
音羽たちの手によって九峪の身に危険が及ぶのかもわからない。
判断を降すにはいささか漠然としすぎている。いたずらに不安を煽る言い方だ。ただ、九峪は取り乱すことなく、ゆっくりと未来を租借した。
アロはこれ以上の言葉を持たず、双子の老巫女も九峪を凝視した。ことの本質はいま、彼女たちの手の内から離れてしまった。信じるも決断するも、すべては九峪の意思ひとつの問題であった。
「いまはまだ、なんとも言えないな」
九峪の結論はひとまずも先送りであった。案ずるよりも産むが易しの訓戒に同調するわけではないが、考えたとしてもやはりどうしようもないのだ。少なくとも今の段階では。
己の生死を分かつ局面である。普通は慌てるものだ。しかし九峪は、まだ目にも見えず音にも聞こえない問題に振り回されたくなかった。これから決戦に挑まなければならないからだ。
「神の御遣い様・・・・・・」
気遣うような視線をアロがしている。アロは九峪に死んでほしくないと思っている。九峪に限らず、アロは人死にが嫌いな性格なのだ。
「そんな目をするなよ」
苦笑してアロの頭をなで、九峪は礼を言った。まだ結論は出せないにしても、未来への警鐘は鳴り響いている。九峪のみには多くの不安材料が潜んでいて、ただそれが一つ増えただけであった。
「二人がいままで生きてきたのは、きっと俺を救うためだったんだ。だから大丈夫さ。天は俺を助けようとしてくれている。アロも・・・・・・だから、不安に思うことはない」
明るい調子の言葉に、巫女たちは笑顔を浮かべた。無理やりにでもそう思いたかった。また、そう信じてもいた。
そして、ようやく九峪とその旗下の将兵達の戦勝祈願が執り行われた。不思議なことに、先ほどまでのやりとりは誰の耳にも入っていなかった。巫女たちがいうところ、境内の入り口を隔ててそこが『結界』となっているというのだ。世界が違うから、見聞きも出来ないという。儀式は、その結界をといて執り行われた。
この日枝神社の御神体は鎖である。天の火鎖が降臨するさいの拠り代となる特別な鎖であるらしく、長さは人間が両腕を広げた長さに等しい。錆びのない赤の鎖であった。
読解不能な文言をイクとベクが同時に唱え、まだ修行中のみにあるアロはひたすら煙を焚いている。煙を媒介にして神が現れ、のちに拠り代へと入り込む。
儀式が終わると、今度は北山の神々を降り給わせる儀式が始められる。廉思が一振りの剣を奉納した。この剣が北山神の拠り代となるのだ。
こうして北山の神は九洲に帰依した。以後、この新たな神を『北天の神』と呼ぶようになった。
祈願を終え撤収する際、九峪は巫女たちが字を書けない事を知った。神との関係を密接にするため、彼女たちは外界から隔絶した生活を送っている。外との繋がりは必要最小限にとどめ、ゆえに真名(漢字)を知らないのだ。
そこで九峪は、彼女たちの名前に真名を与えた。姉のイクに『昱』、妹のベクに『可』、そして若干十二歳だというアロには『阿絽』という字を与えた。このとき字を知らない彼女たちが自分たちでも書けるようにと、九峪は三人の名を認めた書を書きとめ贈っている。以降、その書は先祖代々の宝物として大事に伝えられた。
精神的支柱のひとつであり神への信仰を利用した九峪の人心掌握策は、いちおうの成功を見た。少なくとも失敗に終わらず、胸をなで下ろした。
そして串間城に戻り、すぐ都井岬へと帰っていった。あとはいよいよ一戦に挑むのみであった。