重然たちが坊津で兵を休ませている間、もう直そこまで天草水軍が近づいてきていると確信した宗像海人衆は、ついに錦江港を放棄する決断を下した。このとき彼らにとって不幸だったのは、紅玉軍、火魅子軍、そして陸路を行く九峪の軍勢によって情報を遮断され、蔚海軍がすでに敗北している事実を知らなかったことだった。
陸地の海岸沿いはすべからく包囲され、流れてくる情報は重然が降ってきていることと、敵の増援が到着したということだけで、それらの情報を一挙に握って操っている紅玉の恐ろしさがこれでもかと見せ付けられる。
いよいよ絶望的な状況だ。これが敵の勢力が陸地のみであれば、まだ戦いようもあった。しかし山迫の要害のみに頼っていてはいずれ滅びる。入り江を封鎖され逃げ道を失っている間に、陸から船を運ばれてしまえば、こんどは陸の紅玉軍とそれを助ける火魅子と九峪の増援が大挙して戦いを挑んできてしまう。
そうなってしまう前に、つまり山迫に天草水軍が到着してしまう前に、彼らはなんとしても錦江港を脱出して石川島へと帰還し、蔚海の援軍を信じて防戦しなければならない。
哀れなものであった。頼みの綱とする石川島そのものをすでに失っていることすら、宗像海人衆の誰もが知らないのだから。
ここが九峪の策の狡猾なところだ。孫子は敵を包囲するとき、一点の逃げ場を残す重要さを切と説いている。重然たちが坊津に留まっている間、それが逃げる最大の絶好機なのだ。
かくして、海人衆は山迫を抜け、石川島を目指して移動を開始した。同じ頃、重然たちも動き出す手筈となっている。
そして彼らの向かう先には——九峪軍二千人が待ち構えているのだ。
すべてが九峪の思惑通りであると、追われ追い込まれている宗像海人衆は知る由もなかった。
尖崎の狼煙台に煙が昇った。狼煙は内之浦湾岸、志布志湾岸を伝搬し都井岬から二里の狼煙台へと届いた。
「九峪様、煙です、狼煙が上がりましたッ!」
大声を上げて音羽が陣幕に駆け込んできたとき、九峪は丁度朝餉の雑炊を飲み込んだばかりであった。しばし音羽の言葉の意味を考え、眼をまん丸に見開くと、まだ中身の残っている器を思わず投げ捨てていた。
「きたかッ!!」
叫んだ九峪が装備を整えて陣幕を飛び出した。九峪自身は戦闘に参加しないが、いつどこで何が起こるかはわからない。軽甲を着込み七支剣を腰に下げ九峪は浜辺へ駆けた。その後ろを音羽と兵士十数人が追いかけた。
浜辺ではすでに狼煙を確認した兵士たちが、武将たちの指示の下で出撃の準備でおおわらわとなっている。北山人の指揮は廉思と教来石が執り、いままさに小船や軍船に乗り込んでいる最中であった。またあるいは、いくさを前に飯を腹に詰め込む集団もいた。腹を満たしたものから隊列につき、整った部隊から船へ向かって小走りに乗り込んでいく。
騒々しさを通り越している決戦前の様子に、気を当てられた九峪が顔を強張らせた。いよいよだという実感が沸いてきた。
九峪にとっては八年ぶりとなる本格的な戦いであった。緊張を周囲のものに悟られたくなくて、ただ一箇所だけへと視線を向けている。この場で自分のやるべきことはない。ただここでじっと立っていればいいのだ。総大将は庶事を担当しない。それは各武将の仕事であり自分は悠然とした余裕のみを演出すればいいのだ。
九峪は戦いに参加しないことになっているが、なにしろ数で劣っている。最悪の場合は九峪も剣を振るうことになる。重然と斯波虎が宗像海人衆の背後を襲うまでの数分、もしくは数刻を持ちこたえれば九峪の勝ちである。その間にどれだけの戦果を挙げられるかも大事である。
船は一度出て、沖合いで待機するよう命令が下っていた。これは艦隊戦であるからだ。単独で突出しては格好の餌食となってしまうため、かならず船団を組んで突撃するようにしたほうが良いと、九峪は海の戦いについて教来石から講釈をうけていた。
曰く、「一隻を取り囲むことは容易です。しかし二隻を取り囲むことは困難です。したがって船を近づけたまま戦い、逆にこちらから一隻ずつ襲うほうが危険も少なく済みます。これは少数で戦う不利を補ってくれるのです」という。
九峪は自ら戦場で部隊を指揮した経験を持たない。つまり策略、計略といった仕掛けそのものの考案は得意だが、それをもって兵を動かす采配はむしろその長ずるところにない。
ましてや今回、海の戦いである。そのためどうしても北山人が船の制御を司る陣頭に立たなくてはならない。まだまだ軋轢の残る北山勢と九洲勢がこの期に及んでいがみ合うことが、なによりも九峪を恐れさせた。
打てるだけの心理的連帯策は講じてきた。あとは信じるしかない。
大丈夫だとなんども自分自身に言い聞かせた。仁王立ちで次々に漕ぎ出す壊れかけの船たちを見送る。こんな船で戦うことも恐ろしい。しかし、恐怖に負けるわけには行かないのだ。大将は兵らの勇気を信じ、兵らは大将のおこす奇跡を信じる。
「九峪様」
音羽が槍を手にかけて来た。装備が新しい。串間城から接収したもので、さすがに槍までも見合うものはなかったが、かわりに剣を二本ほど背負っている。
体のどこかに巻かれている赤布を額に巻き、もとより赤みかかった頭髪も相まって、顔全体に朱がさしたように見えた。それがむかし美術館を訪れたときに威圧してきた阿修羅像を思い出させた。それだけの勇猛さが際立つ顔をしている。
「船の用意が整いました。私の隊が出発しましたら、後尾で指揮をお願いいたします」
「おう、わかってる。ここが正念場だ。敵も死に物狂いになって戦う。重然たちが背後を襲うまでの数分数刻は・・・・・・厳しい戦いになるはずだ。食い破られ海の藻屑と散るかもしれない。だがもちろん、負けてやるつもりは毛ほどもないぞ。慣れない海のいくさだ、くれぐれも気をつけてくれよ」
「はっ」
一礼して音羽が踵を返した。音羽は廉思らとともに中軍を任されている。先方は遠州と教来石、上乃が務める。九峪は一隻のみで後部につく。いざとなれば突撃もする。
幸いなことに、この日の大隈海峡は穏やかだった。春の風は薩摩海峡こそ撫でているが、ここまでは手も届かないらしい。
兵士が徐々に疎らとなっていく。種芽島を出るときには手間取いもしたが、非戦闘員を串間城へ預け、水夫あわせて四千人ともなると、比べて早く乗船が済む。とはいえ四千人である。一刻二刻の話ではない。
朝に狼煙を確認して、いまはすでに日も中天へと上り詰めている。昼餉などといっている場合にはならない。
九峪ののった船が浜辺より遠ざかりだした。大小あわせて二十隻の船団のお通りである。隊形を整え、いざ波をおしのけて、二十隻二千人の戦士たちが戦場を目指した。
帳の刻となり、漆黒に染まった魔の海を照らすばかりの蛍が舞い揺れた。
かすかな風が帆を静かに響かせ、帆が鳴らす音もまた風に心地よい旋律を兵士たちにきかせる。心地よい旋律——それが荒ぶる心を落ち着かせ次なる気力を呼び起こした。
海の男は波の音を聞くとよく眠れるという。母の腕に抱かれるに似た、心のそこから身を包むぬくもりと安らぎがあるのだと。彼らは、潮騒を子守唄とし、船を揺り籠としてきた。
黒の海という寒気をも感じさせる戦場で、これはかえって有難くもあった。陸で生きている民は闇色の海に引き込まれそうな恐怖を感じている。そんなとき、九洲の海人や北山人が様々なことを話してくれた。
たとえば、一人で船べりに立ってはいけないこと。闇の海には魔物が住み、もしも一人でいては海に引きずりこまれるからだ。
ほかにも海中に生き物がいるのをみても、決して確かめようとしてはならない。また美しい歌声が聞こえても聞きほれてはならない。
怯えすぎる九洲人を見るに見かねた北山人は、種芽島から何度もそういい続けてきた。それはこの時でも変わらない。次第、夜の海で頼りになる存在として、北山人は認識されるようになった。
北山人の余裕が穏やかさを生み出し、横のつながりを心配していた九峪は安堵した。いままで講じてきた策のおかげでもあったが、そんなことはどうでもいい。
九峪ののる船は小さい。船員も四十人とすくない。大型の船を優先して最前列に配し、九峪はもっとも小さい船を選んだ。
決戦前夜である。日枝神社で戦勝祈願を執り行った九峪は数人の武将を連れて、松明が燃える甲板で三献の儀式を行った。司は昌香が務める。三献の儀式とは必勝を期した験担ぎのことだ。
まず、のし昆布(『敵をのす』にかけた験)を食べて一献。
次に、打ち鮑(『討ち』にかけた験)を食べて一献。
終に、勝ち栗(非常に固い食べ物で、『噛み砕いて勝つ』という験)を食べて一献。
これをもって、『敵をのし』『打ち(討ち)すえて』『戦いに勝つ』の必勝が約束されるというのだ。九峪の身辺でこの儀式を行うのは、おもに亜衣を初めとした宗像巫女たちであった。
九峪はこの儀式があまり好きではなかった。それは儀式などの迷信を嫌っているというような重いことではなく——勝ち栗があまりに固すぎる上に、凄まじく不味いからだ。
のし昆布は出汁が口の中に広がるから上手い。打ち鮑も同じだ。しかし勝ち栗だけは、石を食べているような気がしてくるし、何より苦い。灰汁取りという工程はちゃんとあるが、それを差し引いても渋い。
しかし周りのものは、さも平然と落ち着いた顔で、勝ち栗をガリガリ噛み砕いて、酒といっしょに嚥下している。儀式の参加者は九峪と昌香のほかには、護衛の武将ひとりである。豪快に噛み砕く様は雄雄しく、女性の昌香でさえ涼やかに——ガリガリと音を鳴らしている。
九峪は手前の勝ち栗を見下ろした。のし昆布も打ち鮑も平らげた。しかし、いつものことだが勝ち栗だけは躊躇してしまう。
過去に一度、勝ち栗をもう少し柔らかく作ろうと計画したことがあった。そのためにドングリから栗に素材を変えようとしたが、『固いものを噛み砕く』からこその勝ち栗だと周りから一斉に反対されて、泣く泣く断念せざるをえなかったという出来事があった。
あの亜衣でさえ、柔らかくする話には反対したのだから、験を担ぐ意識がこの時代ですでに高まっていることが窺えるのだが、やはり九峪にとっては勘弁してほしい事柄であった。
歯茎を傷めそうな食感に顔をしかめつつも耐え抜き、ようやくの思いで儀式を終えた。胃が痛くなる。
「ようよう、これにて延し候」
「ようよう、これにて打ち候」
「・・・・・・ようよう、これにて勝ち候」
げんなりした口調が九峪の口から漏れた。儀式を終えて笑顔になる昌香と若い武将とは対照的に、九峪はそっと腹を押さえた。せめて腹痛をもよおさないことだけを願った。
——夜が明けて、晴天の五月四日が白空にのって東より広がってきた。
この日、すこしだけ騒がしい波の音に耳を済ませていた第一陣の指揮官、教来石と遠州は目測三里の前方に浮かぶ船団をほぼ同時に発見した。
右手には大隈半島がみえる。細長い一本の糸のように、横へ横へと広がっている。辛うじて島だとわかる程度に、九峪軍は沖合いへと出ていた。
教来石は風に揺れる旗を見上げた。
「この風なら、接敵までの時間は一刻半(約三時間)といったところだな」
強風ではないが、順風ではある。
「よおし、漕げ、漕げェ!」
教来石の号令がかかり、それまで風任せに進んでいた海星丸の櫂が掛け声をあげて一斉に船を進ませた。櫂が海面をはげしく叩き鳴らし、賑々しい。
負けじと遠州も声を張って水夫たちを鼓舞した。第一陣七隻がどんどん宗像海人衆の艦隊に近づいてゆく。
船べりに並んだ弓兵が、じっと前方を凝視している。おおよそ八十人の突撃要員全員が弓兵となっていた。
編成は中央を前衛に出して、いわゆる魚麟の陣に近い形をしている。これは教来石の進言であって、数で勝る海人衆に包囲されると反対意見も出たが、九峪はこの陣形を採用した。
教来石の考えていることがわかっていたし、海の民の軍師が考えた戦い方である、九峪はそれにかけたのだ。
午前十時ごろ、両艦隊の距離はすでに一里もないほどにまで近づいた。戦いの吐息が触れ合う、まさに一触即発の距離である。
「五百めーとる!」
距離を測っている見張りが叫んだ。
隊長が頷いて、最前列の弓兵たちに向かって「引けッ!!」と命令を下した。
最前列が立ち上がり、斜め上に向かって番え、弓矢を引き絞る。ギリギリと藤の綱が音を立てている。一糸乱れぬ——とは流石にいかずとも、十分に息のあった動きをみせている。
波の揺れにひっしに堪え、全員の視線はただ空へのみ向けられている。何も考えるなと教えられていた。ただ部隊長の号令を聞いて、それに従えと。
耶麻台国の兵は弓に強いと天目が評したことがある。九峪が新たに生み出した『めーとる法』という統一した距離感を、兵士全員が共有するための訓練を積んでいるため、とにかく弓の精度が高い。それは自然と兵士個人の弓矢の技術向上を招き、剣や槍よりもずっと扱いの難しい弓矢が得意になるという、不思議な現象が引き起こった。
北山人はこのめーとる法に慣れていないが、しかしこの場にあってもやはりこの技術は効果が高い。だがしかし、それは宗像海人衆とて同様である。いやむしろ彼らは純粋な九洲人の軍団だ。一百といえばその場所によどみない矢の天を降らせてくる。
それをひたすら耐え凌ぎ、逆襲し、戦わねばならない。弓でも劣る、海戦でも敵に一日の長がある、そして数ですら敵わない。
九峪が言わずとも——厳しい戦いだ。
ついに互いの兵士たちが目視できる距離にまで達した。戦いの緊張を研ぎ澄ます九峪軍とは対照的に、まさか待ち伏せされていたなどと思っていなかった宗像海人衆の動揺は激しかった。彼らの持ちえる情報に、よもや九峪の旗を掲げる戦力など存在しないはずだった。
手負いの獅子である九峪たちに付け入る隙があるとすれば、伏兵の出現に浮き足立っている今をおいて他にない。
宗像海人衆があわてて船べりに兵士を並べている。海戦の常套としてまず弓矢の応酬から始まる。
「一百めーとるッ!!」
「よおし! 目標は八十めーとるだ!」
風の向き、強さを考えて部隊長が飛距離を宣言した。兵士たちは身体に叩き込んだ感覚にしたがって、八十めーとるの角度を取った。
敵船団があたふたしながら射程距離内にはいってくる。まだ準備は整いきっていない。
まだ十分に引き付けきっていないが、相手の準備が整う前に出端を挫いてやれと、部隊長が指示棒を天に突いた。
「射よォ!!」
九峪軍の第一陣から、少ないながら矢が放たれ、宗像海人衆の船を襲った。幾人もの悲鳴が上がり、バタバタと兵士たちが崩れるのが見えた。
すかさず最前列はしゃがんで次列が立ち上がった。第二矢が放たれ、吸い込まれるように船を襲った。
しかし敵もやられてばかりではない。まとまらないながら矢が飛んでくる。しかしまとまらないなどといって、それで安心できるわけもない。なにしろ数が、こちらの放った有に倍ほどあるのだ。
矢を防ぐのに用いられるのが盾である。最後列が前列と次列の間に入り、盾で覆い隠す。しばらくして盾に矢が突き刺さる音がして、雨を思わせる小気味よい感覚が鼓膜に響く。
が、それ以上に背筋が凍る。
音の勢いが緩くなったと判断するや、素早く起き上がり、今度は前列次列関係なく矢を番えた。こうなるともはや接舷するまで応酬が続く。
宗像海人も倒れるが、九峪軍の兵士たちも次々に倒れていった。あまり痛手を被るまえに完全に盾のなかに隠れ、矢を捨てた。かわりに足元においていた槍を手にして、それを構えた。
右手に槍を、左手に刀を。盾を持つものは盾に刀を。
鎖鎌がかけられ、船同士がとうとう引っ付いた。橋がおろされる。
「突撃ィッ!!」
遠州や教来石らが叫び、それに突き動かされた兵士たちが橋を押し合いながら渡り始めた。どっと雪崩れ込んでくる九峪軍の将兵たちに、宗像海人も踊りかかった。
刀剣を振り下ろされ肩をばっさり切り落とされるもの。あるいは腹から槍で突かれ血を噴出すもの。
海に落ちるものも多かった。敵味方入り乱れ、それほどの広さしかない戦場はたちまち手狭になっていった。
慣れない甲板での戦いに九洲勢は大いに苦戦した。それに対し、少数の北山人たちの奮闘振りは目を見張るものがあった。波に圧されて船が傾いても、転がる九洲兵を横目に羽が生えたような軽やかな足並みで、右へ左へと得物を振るっている。
教来石配下に赤峻という女戦士がいる。琉球への派兵を直談判するために耶牟原城へと向かう直前、何者かによって焼き討ちされたときに、教来石らを救った武将である。赤峻は得意の長刀で素早く攻撃し、主の敵の腕を切り落として戦闘力を奪う術に長けていた。今回も腕を失ったところに止めを刺す戦い方で、小豪族の首級をあげる活躍をした。
第一陣で指揮を執る遠州の活躍も凄まじい。蛇腹剣を巧みに操り、寄せてくる敵は容赦なく切り裂き、ついには三人同時に首をはねるという巧みな技をも見せ付けてくれた。
その旗下で戦う上乃も、豊後随一の闘将としての名声に恥じないいくさ振りに、相対する宗像海人も大いに恐れおののいた。
わずか七、八隻程度の船が猛攻する中、やはり数の面だけはどうしようもない。もともと各個撃破を防ぐために魚麟の形で突っ込んだだけあって、数で勝る宗像海人衆が徐々に第一陣の後ろに回って包囲する動きをとり始めた。
一度包囲されては逃げ出すことも不可能となる。
しかしそのための第二陣が、もう直そこまで迫っているのだ。率いるのは音羽と廉思である。包囲しようと広がっていた宗像海人衆もこれに対応しなければならず、包囲どころではなくなった。
第二陣の船数は十三隻。それでもやはり宗像海人衆のほうが多いのだが、音羽は怯まない。
こちらもまず矢で攻勢をかけ、橋をかけて敵船に殴りこんだ。身軽なものは船から船へと飛びうつり、武器を海に落とせば代わりに櫂で戦った。
「うおおッ」
巨躯の音羽が髪を逆立たせて殴りこんだ。刃も欠けた自慢の槍を存分に振り回し、十人程度がのっている船ならば一人で片付けた。
右に振るえば首が飛んだ。大振りの隙をついて切りかかってきても、蹴り飛ばして海に沈めて、もがいているところを槍で一刺しする。回りの味方が邪魔だといわんばかりに、音羽の周囲には敵しかいない。
「なんだぁ、こんなものかッ! 誰か私を殺せるヤツはいないのか、誰か私を殺しえんやッ! ・・・・・・いるならかかってこいッ!!」
風を切る音すら轟音のようにうねり、槍の柄で二人の海人がわき腹の肋骨をへし折られ、海に投げ出された。腿を強かに切りつけられても、僅かだけ呻いて、かまわず音羽は相手を殴り殺した。
剛勇無双の戦いには臆するところなどどこもなかった。小枝のように振り回される槍にかなうものはおらず、だが挑みかかってくるものも多かった。
しばらくして、後方でことの成り行きを見守っていた九峪の船にも、戦いの火の粉が飛んできていた。
仕方がない距離ではあった。いざとなれば戦う覚悟も出来てはいた。しかしいざ、このような状況になると、九峪も緊張せざるを得ない。
「九峪様をお守りせよッ!」
若き武将が叫び、九峪の周りを二十人の兵士が取り囲んだ。皆が皆、臨戦状態で、すぐに戦える状態だ。この中で戦力として通用するかどうか、わからないのは九峪と昌香のみであった。
九峪はすでに剣を構えているし、昌香も長刀を上段に構えている。
くるか——くるか——。
宗像の船が、ついに橋をかけてきた。小船だが、人数は三十人ばかしもいる。
腕に力がこもる。足が強張る。喉がカラカラになって、こんな感覚は怒羅苦流に襲われたあの悪夢や、狗根国の乱波に殺されかけた地方行脚以来だ。
——わっ!
来た——!!!
宗像海人が船を蹴って、橋をかけて、九峪たちに襲い掛かってきた。いま目の前で殺そうとしている相手が九峪だと気づいていないのか、それとも単に切羽詰って破れかぶれの狼藉なのか、どちらにしろ九峪も刃を交えなければならない状況に陥ってしまったことに変わりはない。
盾と槍、剣と刀がぶつかり合う。
九峪を守ろうと懸命に戦う兵士たちもよく戦うが、勢いが違いすぎる。
九峪も剣を振るった。伊雅や清瑞に教えられたとおりを意識しているのだが、ようは戦場の剣などは力と速さだけが重要とされる刀法だ。無我夢中で刃を振るい、薙ぎ払い、ただ叫び声を上げて我武者羅に切りかかった。
誰をどのように切ったのかわからない。切ればすぐに次の標的を定める。この世界に来ていくらか逞しくはなった身体に、初めて人を殺す感覚がしみこんでいく。
肉を絶つ触感が生理的な嫌悪を抱かせる。吐き気がする。しかし身体を止めることだけは何が何でもやってはいけない。
「九峪様ッ」
体が刹那の間だけ動きを止めてしまった。そこを横なぎに襲い掛かる刃。昌香の悲鳴に似た叫びが九峪に聞こえ、咄嗟に剣を構えて受け止めた。火花が目前を眩く光らせ、一瞬目が眩んだ。
「うわ」
強い衝撃が九峪を後ろに仰け反らせる。九峪を襲った男が言葉なき言葉を吼えた。上段にかまえた剣が九峪めがけて振り下ろされた。
——死んだッ!
と、思った。それだけの気迫と恐怖が迸る刃だった。必死に剣をたぐり、また受け止めた。拳一つ分の距離で、九峪の頭は守られた。でもこのままでは押し切られてしまう。七支剣が九峪の身体にめり込んでいく。あとすこし押し込まれれば、九峪の額が割れてしまう。
しょせん九峪の腕力には限界がある。鬼の形相が九峪のうえで唸っている。
歯を食いしばって堪えていると、いきなり鬼の形相が崩れた。昌香が男の背中を長刀で切り裂いたのだ。苦痛にこの世の顔とも思えない表情で、男が九峪の上からどけた。その隙に九峪が剣を男の腹に突き刺し、そのまま根元まで一気におした。ほぼ密着し、九峪の下半身が男の血で真っ赤に染まった。
生暖かかった。
「九峪様、九峪様ッ」
返り血にまみれた昌香が九峪の下に駆け寄ってきた。包帯が赤く染まっている。左腕には傷があった。
「昌香・・・・・・助かった」
かなり際どいところだった。一時死を覚悟するほどに。
まわりの兵士たちも次々に倒されていっている。やはり多勢に無勢だ。最初こそ相手が動揺しているすきに攻めて優勢だったが、生地の強さが徐々に現れてきた。
——まだか、重然ッ!
戦況は九峪軍に分が悪くなりつつあった。やけくそになった宗像海人衆の強さが九峪の予想を超えていた。
「九峪様、ここはもう駄目ですッ! 敵の小船を奪いましょう!」
武将が叫ぶ。たしかに九峪の手勢は十人いるかいないかまでに数を減らしていた。
船から船へと飛び移り、取っ組み合って海人衆を船から蹴り落とす。止めを刺して黙らせると、九峪も昌香をつれて敵から奪った小船に乗り移った。追ってくる海人たちに弓矢を射掛けて追い散らしながら、舟を漕いでいく。
戦場は入り乱れていた。矢が飛び交い、九峪のすぐ横に流れ矢が突き刺さった。
矢避けの盾は一つしかない。それで九峪を守りつつ、あとの者は刀を振るって飛んでくる矢を叩き落した。
「九峪様、身体を低くしてください。海に落ちてしまいます」
「あ、ああ」
いくさに慣れていないはずの昌香だが、それでも流石は海人である。言うなりになって九峪は身を低くした。
「ぐあッ」
悲鳴が上がった。舟を漕いでいた兵士の右目に矢が突き立っている。よろめく足がもつれ、兵士が海に落ちた。手を振ってもがき、しかし少しして動かなくなった。
目を背けたくなる光景だ。目から矢尻が生えているのを直視してしまい、九峪はそのあまりな姿に吐き気がこみ上げてきた。するといままで殺した感触が掌によみがえり、それを意識した瞬間——胃の物を吐き出していた。
「九峪様、しっかり!」
「うぅ・・・・・・ッ」
——これが戦いかッ!!
すっぱい胃酸の臭いが、九峪の意識を保たせてくれた。
いつも後ろで軍略を練る九峪にとって、これがある意味『戦士』としての初陣のようなものだ。誰もが初陣で感じる恐怖を、二十七歳になってようやく体験していた。
しかしいつまでも殺人の恐怖に怯えている時間はない。操者を失った船は立ち往生し、そこに敵の小船が一艘ちかづいてきた。二人が矢を放ち、三人が剣を構えている。
九峪は口元の汚れを拭った。涙を拭いた。盾を押しのけ立ち上がり、剣を両手に握った。
敵が飛び乗ってきた。迎え撃とうと護衛の兵士たちが切りかかり、九峪も七支剣を振り下ろしていた。剣が敵の足を切り立った。やはり我武者羅だった。
わあわあと上げる声に「チクショウ」という響きが混ざっているのを、誰も知らない。叫んでいる九峪自身も気づいていない。血飛沫の禍々しさの中で、九峪は「チクショウ」をなんども連呼した。
「——ッあ!?」
——しまった!
海人を切り伏せたとき、血と水で濡れた足場に足を取られ、九峪の体が傾いた。そこに切り倒された味方の兵士がぶつかってきて、海に身体を投げ出してしまった。踏ん張ってみるも徒労に終り、背中で海面を叩いた。
九峪が海に落ちる様子に気をとられていた武将が助け出そうと一瞬気をそらした瞬間、みぞおちの辺りから生えるように刀が突き出、苦悶のうちにこちらも海に落ちた。
バタ足になってなんとか船の縁を掴むと、力任せに身体を引き上げる。敵味方が入り乱れるから船が左右に激しく揺れる。振り落とされないよう歯を食いしばっているとき、いきなり腕がぐいと引っ張られ、驚きに九峪が目を見開いた。
昌香が九峪を助けようとしていたのだ。細い腕を濡れさせて懸命の救助をするのだが、怪我をした腕で男一人引き上げるのは容易でない。
九峪も、はやく上がろうともがく。船べりに足さえかけれればどうにかなる。だが、戦場はそれほど優しくはなかった。
「うしろッ!」
「え?」
九峪は血相を変えた。昌香の後ろに宗像海人がたっていた。斧を振りかぶっている。背を向けている昌香は振りかえり、硬直した。
とっさに昌香のうでを引っ張ると昌香が声を上げた。すると斧の兇刃が昌香の背中の衣服を裂いた。かろうじて背中の薄皮一枚すら切られることはなかったが、心胆を冷やす一瞬だった。命は助かったが、昌香までが海に落ちた。
ザンッと斧が船底に穴を開ける音がし、湧き水のように床板から浸水しだした。船がどんどん沈んでいく。それでも海人は構うことなく、第二撃をはなつべく再び斧を持ち上げた。
——クソ、これまでかッ!
戦闘に突入して、はたして何度死を覚悟しただろう。その都度なんとか乗り越えていたが、身動きが取れないいま、九峪と昌香は絶体絶命の危機に瀕した。
まわりの味方はとてもでないが九峪を助けるどころでない。
片腕で船べりを掴み、もう片腕は昌香を抱きしめている。反撃の仕様もなかった。重然も到着せず、やはり無謀だったかという虚しい気持ちが心の中に去来した。
振り下ろされる直前、九峪は目を瞑ろうとした。恐怖がそうさせた。しかし、斧が振り下ろされることはなかった。
「ぁが・・・・・・っ」
海人がいきなりうめき声を上げ、たたらを踏んだ。九峪の顔に赤い血が降り注いだ。海人は船べりに足を引っ掛け、九峪たちに覆いかぶさるような格好で倒れこんできた。
「うわっ」
身をそらせて男をよける。跳ね上がった水が二人の頭から被った。
「槍・・・・・・?」
昌香が呆然と呟いた。海人の背中に、無骨で頑丈そうな皆朱の槍が刺さっていた。このような豪槍をあつかうものを九峪はひとりしかしらない。
海人がたっていた場所へと顔を向け、目を凝らした。
すこし遠くにうかぶ船の上に、こちらにむけて投擲の姿勢をとっている音羽の姿が見えたのだ。距離は半反(約十メートル)ほどあろう。自慢の槍をなげて九峪を助けたのだ。
「音羽・・・・・・!」
と呟いたとき、音羽の右腕から血が飛ぶのが見えた。切りつけられていた。九峪は声を上げかけた。剣を振り下ろした姿勢の海人の顔面が、音羽の拳で潰れた。殴打されたようだが、遠めにも生きているようには見えない。
音羽が腰の刀を引き、手近な敵の髪を引っつかんで振り回している。首が明らかにおかしな方向を向いている。頭を振り回されて首を骨折してしまったのだろう。息絶えた海人を海に放り投げ、敵中に踊りこみ、九峪の視界から姿を消した。が、見えないところで猛将の働きをしているに違いない。
「九峪様、いまのうちに」
昌香の切羽詰った言葉に九峪は我に返った。船が転覆しかけていた。昌香が九峪を船からはなした。海人の昌香にかかれば九峪を支えながら立ち泳ぎも出来る。しかし九峪にそのような芸当は出来ず、されるがままになっている。
転覆の波にきをつけ、二人が船底にのぼった。こうなってはただ海にうかぶ木材の集合体でしかない。
額に張り付く前髪をかきあげ、九峪の視線が周囲の喧騒のようすを観察する。戦況は徐々に悪くなっている。
「ヤバイ・・・・・・ここままじゃ負けるッ!」
どうにかして戦域全体を一望したいが、九峪自身が戦場で剣を振るっている状況でそれは不可能だ。
音羽の居場所なら大体わかるが、他の連中はどうなった? 遠州は、上乃は、教来石は?
何もかもが初めての経験に、さしもの九峪も疲れ果てていた。ゆいいつの救いは、激しい運動と緊張が、濡れた身体を冷やさないよう発熱してくれていることだった。九峪の体からは湯気が立ち上っている。
鋭い音がした。海人の小船から矢が射られていた。矢は九峪たちのすぐ傍に着弾している。
「うわ、うわッ、マズイぞ! こっちくる!」
「逃げましょう、九峪様!」
「どこに!!」
まわりは海である。ふっと九峪の脳裏に、既視感の映像が瞬いた。どこかでこんな状況に陥ったような気がする。
記憶に残っているそれは、阿蘇山から逃げ出したときの光景に似ていた。あのときは家屋に火を放たれ、まわりを炎と煙に包まれている状態だった。いましがた昌香と交わした問答と同じような事を、あのとき、女中と共にした記憶があった。
そういえば。火を放ったのも、いま矢を射掛けているのも、おなじ宗像海人だ。どうにもこうにも、九峪を脅かす存在として宗像海人衆は天敵であったらしい。
海人の昌香ならば泳いで逃げ切ることも出来るが、残念なことに九峪では無理だ。泳げないわけではないし、人並み以上だという自身もあるが、それも現代で言えばに限られる。
どうする、どうすると悩むが打開策は見つからない。やはり海に飛び込むか、と鎧を脱ごうとしたとき、
「——ぎゃッ」
九峪の肩の肉を矢先が貫いた。かつてないほどの激痛と不快感が、九峪の脳天を暗くした。昌香の悲鳴が聞こえた気がした。九峪はなだらかな船底を転がり、またも海に落ちた。
いそいで昌香も飛び込んで九峪を抱き上げた。矢は根元まで刺さっていた。こうなると抜くことも難しい。血があふれるようにして昌香のまわりを赤く染めていった。
九峪に毒は効かないという噂は昌香もしっている。だからその心配はないが、これでは戦いようがない。海の中では体力も奪われるばかりだ。顔が青ざめるのを自覚しながら、とにかく九峪を守らねばと、昌香は敵に背を向け九峪を隠した。
——同族の主をみかぎった、これは私への天罰か。
蔚海を見限り、走り去った先に迎えた新たな主と共に、死のうとしている。活路を見出したはずが、気がつけばそれは滅びの道だった。
だけど、いまさら引き返せもしない。ここが死に場所だと、昌香は覚悟を決めた。こうなったら九峪を抱きしめたまま死ぬしかない。
矢が飛び交う音、檄の交わる音、断末魔が聞こえ、それらしか聞こえない。
死の足音が——昌香を通り過ぎていった。
戦場に響き渡る戦いの音がにわかに変化し、昌香ははっと顔を上げた。音が大きくなった。いっそ賑やかなほどだ。
「重然・・・・・・!」
それは、九峪軍を包囲殲滅しようとしている宗像海人衆の背後に、ようやく重然が追いついた証だった。
天草水軍の戦力は宗像海人衆と九峪軍をあわせた人数に等しい。それらが一丸となって、宗像海人衆へ恨みともどもの猛攻をしかけてきた。
先頭で指揮を執るのは、織部であり、その指示で動いている愛宕の活躍に敵はおおわらわとなった。
この瞬間、戦局は完全に逆転した。包囲しようと横に横にと広がっていたから、よけに被害は甚大なものとなった。重然や斯波虎の郎党たちがわらわらと敵船にのりこみ、手当たり次第に切り殺していった。
「よう、やく・・・・・・」
「そうです、九峪様、重然です! ようやく到着したんですッ!」
「ああ・・・・・・」
九峪の耳にも、色の変わった戦場の音が聞こえた。そしてようやく、勝利を確信した。
——勝った。
かすかに笑みを浮かべ、九峪は気力を振り絞って七支剣を掲げた。水に濡れた剣身が太陽に輝いていた。
はじめて負った戦場の傷が意識をかき消そうとしている。こんな傷を背負いながら戦う仲間たちを、心のそこから誇らしく思った。
「——勝ったぞ!」
今度は言葉に出して。
九峪は意識を手放した。
ほどなくして大隈の海に、南軍の勝鬨が吼えわたった。