大隈海峡で最後の戦いの火種が燃え尽きてから三日後、筑前と豊前の県境となっている英彦山で、行方知れずとなっていた蔚海が捕縛された。山人の装いで逃げ隠れしていた蔚海だったが、谷間に滑落して気を失い、地元人に拾われたことが運のつきであった。
よくも天都城から離れた英彦山まで逃げたものだと、報告を聞いた亜衣は呆れかえる思いだった。恐るべきは執念とでもいおうか。山狩り里狩りをくぐり向けて、豊前まで落ち延びようとしたのだ。
蔚海検分のために写楽は一足早く筑前へと帰還した。ほかの知事たちはまだ、外加奈の城周辺に留まっている。
——九峪が戻ってきた。
という事実を前にして、簡単に領地へと戻れるわけがない。写楽も渋々帰途につかざるを得なかった。
亜衣も天都城から外加奈の城へ移ってきた。大まかな仕事は、今回も蘇羽哉に押し付けてきた。亜衣は論功行賞と信賞必罰を伊雅と図らねばならない。おあつらえ向きなことに、外加奈の城に写楽を除く諸侯が勢ぞろいしている。九峪もいる。すべてがここで行えるとあって、引き払う足も軽かった。
さて、件の九峪である。戦いの最中に負傷して気絶してしまった九峪は、その後重然の手引きによって外加奈の城へと運ばれていた。九峪の不運を兵士たちに知られるのはよろしくないと考えた重然は、荷駄にかくして九峪を陸に揚げ、大将不在のまま凱旋を行った。幸いだったのは、外加奈の城に住民がまったくいないことだった。外加奈の城はほぼ陣屋の格好であり、兵士たちの慌しさが九峪不在を霞ませてくれたのだ。
外加奈の城の政庁として建てられた舘の奥まった一室で九峪の治療を行い、表向きは何事もなく事後処理が進められている。諸侯が参上してくるのも、そういった時の事だった。
何はともあれ、こうして一ヶ月に及んだ蔚海討伐戦は、宗像海人衆滅亡を最後に、火魅子方南軍の勝利で幕を下ろした。
外加奈の城の居住地が群れるほどの人間で埋め尽くされた。総数はざっと九千人ほどだろう。幾棟の堀長屋にも溢れんばかりのすし詰め状態で、築城いこう物静かだった街が、にわかに騒がしくなった。
死闘の末に宗像海人衆を大隈の水底へ叩き落した九峪の軍勢は、重然率いる天草水軍の先導に従い、すでに紅玉が接収していた外加奈の城へはいった。いま居住地を占めているのは、彼ら九峪軍の将兵ばかりだ。
そこに、手当てやらなんやらといった人々も集まったものだから、まったく飽和してしまったのだ。
ただ、それは騒がしくあり、また賑々しい活気ある喧騒でもあった。
九峪が意識を取り戻したときも、明かりの代わりに街の音が鼓膜に響いてきていた。薄目に映るのは真新しい天井の木目である。
どこだろう・・・・・・。
ぼんやりと木目を注視しながら、九峪は身体を起こした。肩に鈍い痛みが走って目を瞑った。のぞく襟元に、麻色をした布がみえた。
薄暗い部屋にさす灯りは、窓の隙間から入り込んでいる漏れ日だけだ。午前なのか午後なのか、はたまた正午なのかはわからないが、外の騒がしさをも考えると、そう遅い時間でもないように思われた。
「——そうだ。戦いは・・・・・・?」
はっと九峪の瞼の裏が熱くなった。戦いの熱気がよみがえる。ぼけていた意識が完全に覚醒した。
つぎつぎに記憶が整理されていった。最後に見たもの、聞いたものも思い出した。
あれは間違いなく重然たちだ。そうでなければ、宗像海人衆があそこまで慌てるはずがない。そう思い起こして、今度は喜びがこみ上げてきた。
気を失う直前、確信した『勝利』の二文字が、九峪に拳を握らせた。
「やったのか」
誰もいない虚空に向かって問いただした。答えがないと知りつつ、それでも九峪は確信を持っていた。
「やったんだ!」
叫びと同時におもわず振り上げた拳。肩にはしった激痛にあげかけた呻きをすんでのところで飲み込んだ。
しかしいまはこの尋常ない痛みすらも勝利と生命を存分に感じさせてくれる要因だった。肩を抑え身を曲げたままの姿勢で、九峪の背中が上下に躍動した。
笑いが抑えられない。もう色々なことがおかしくて堪らなかった。十年以上前に戦った伊尾木ヶ原の戦いも、美禰城や当麻城の攻防戦でも、六分七分は不利な状況で戦って生き残り、今回もまた生き残った。
とくに神を信じない九峪も、このときばかりは天高きものに感謝したい思いで一杯になった。
「おお、九峪様ッ」
静かにあけられた戸から九峪を呼ぶ声がした。はいってきたのは医師である。九峪は瞼を細めて医師を見上げた。
「お目を覚まされましたか」
「あんたは?」
「申し送れましたな。わしは某という医師にございます。僭越ながら、九峪様のご負傷の治療をさせていただいている者にございます」
「そうか」と九峪は得心した。医師はささやかに髭を生やした、物腰のやわらかそうな老人だった。
医師のされるままに薬草を塗り替え、またきつく布で巻かれた。九峪はそういう体質なのか、どうにも傷といったものの治りが悪い身体らしい。瘡蓋の出来が遅いのだという。
ここまで大きな傷を負ったことがなかったから知らなかった。でも九峪は気にしない。別段、命に関わるような傷でもない。
「戦いは」
聞かなくてもわかることだが、どうしても言葉として聞きたい。
「勝ったんだな」
「はい。九峪様の勝利にございます」
にっこりと医師は答えた。
「・・・・・・やはり傷の治りが遅うございますな」
「なぁ、俺はどれだけ寝ていたんだ」
「三日ほど、こんこんと」
「なに!」
何気なく返ってきた返答が九峪の目を剥けさせた。三日ということは、いまは五月七日ということになる。
さすがにそれだけの間眠りこけるなんて経験はない。あまりの驚きに失心しかけた。
今回の戦いはもちろん九峪一人の戦いではない。音羽たち派遣団の復権と、北山勢が九洲で一定の立場を得るための戦いである。だから九洲方との交渉を取り持つのは九峪しかいないのだ。
その自分が三日間も意識を失い眠り続けていたなど・・・・・・最悪だとしかいいようがない。
「こ、こうしちゃいられないぞ」
おもむろに立ち上がった九峪だったが、すぐに膝が崩れた。また肩の痛みが九峪の身体を縛り付けた。医師も慌てて九峪を介抱した。
「ご無理はいけませぬ。軽傷ではありますが筋をひどく傷めております。しばし休まれませ」
「しかし」
「九峪様もお立場のある身。気忙しく思うこともありましょうが、どうかご自愛をお持ちくだされ」
医師の説得にも九峪はすなおに頷かない。それどころか不安は増す一方だ。とくに北山勢がどうなったか、それを思うととても大人しく寝ていられない。
が、しかし、体が言う事をきかないのもまた事実である。たかが一矢を肩に受けただけでこの体たらくを演じる自分自身の不甲斐なさが心底腹立たしい。
仕方がないと医師がため息をついた。すぐに事情を知るものを向かわせると九峪に言い聞かせて、九峪を無理やり横たえさせた。
それから医師が退出してから、床にひとりでいる九峪は落ち着きなく、右へ左へ身体を揺らしていた。肩の傷のせいで寝返りが打てないのも辛かった。
音羽たちが気になる。北山も気になる。単独行動を取らせていた清瑞の安否にいたっては、考えたくなくても脳裏をちらついてしまう。それに亜衣のこともある。阿蘇山を降りてからは、ほぼまったく情報が手元にない。無事ではあろうが気にかかる。
司令官として生きた期間が長くなると、何を置いても情報不足に恐怖するようになってしまった。これは一種の職業病のようなもので、情報を最大の武器としてきた九峪にとっては、情報を握ること即ち生き抜くことに相等する。
だから九峪の情報収集へ傾ける姿勢や意欲といったものには、他の誰にもない執着があった。この点を見ると、おなじ情報を重要視する天目や彩花紫に比べて、九峪はいささか異常でさえあった。否、正確にはこの時代の人間とは異なる精神構造によって生まれる後天的な臆病さがもたらした副産物であった。
——やはり待てない!
情報を集めようと九峪が立ち上がろうとしたとき、外の騒がしさの中に、別の音が混ざっているのに気がついた。音はどんどん近づいてくる。
と、次の瞬間——
「九峪様ッ!!」
「うわぁ!」
スパンッと戸がいきおいよく開け放たれ、目を向ける間もなく九峪は周囲を取り囲まれていた。
「え? え?」
呆然とする九峪を囲んでいるのは、久しぶりに見る戦友たちの顔ぶれであった。香蘭とは開戦前にいちど会っているが、そのほかの伊万里や藤那などとは、三年ぶりほどになる。
各県の知事、太守、その殆どが復興軍時代からともに生きた連中だ。
医師から九峪が意識を取り戻したと最初に聞いたのは昌香であった。昌香はとりあえず亜衣に報告し、伊雅に報告し、知事たちにも報告した。そから情報は広まり——我先にと九峪の下に馳せ参じてきたのだ。
特に清瑞と伊万里の動きは速かった。清瑞にいたっては
「なぜまず最初に私に言いにこなかったんだッ!!」
と昌香を怒鳴りに行ってから、他の連中とほぼ同時に九峪の下を訪れている。相等な早業だ。
「く、九峪様、大丈夫ですか!?」
「へ?」
「大丈夫ですか!?」
「あ、う、うん」
「だいじゅぶえッ」
「落ち着け伊万里殿」
伊万里の首根っこを掴んだ藤那がグイッと伊万里を後ろに引いた。外套の結び目に喉を圧迫された伊万里の口からは、カエルの鳴声に似た呻きがもれた。
「ふ、藤那」
「九峪様、お加減はいかがですか」
微笑を浮かべて藤那が九峪の顔色を窺った。良くはないが、悪くもなさそうだ。
「く、九峪様ッ!!」
今度は別の場所から呼ばれた。清瑞だった。
「だいじょびッ」
「はいはい、お前も落ち着こうな」
伊万里と同じように勢い込んでいた清瑞を引き止めたのは織部だ。伊万里を窒素させた藤那もひどいが、織部もひどい扱いだ。あろうことか清瑞の後ろで結わえられた髪をひっぱったのだ。ガクンッと清瑞のあごが上を向いた。
その綺麗なまでの一連の動作には、九峪もおもわず感嘆の声を上げるほどだった。一流のコントをみている気分だった。
苦しげに首をおさえている清瑞を見下ろす織部は、やれやれと苦笑していた。
「いまのお前みてて、誰が乱波だって気づくことか」
「ら、乱波が素性ばれるようじゃ終りですよ・・・・うぅぅ」
「はぁ・・・・・・あの冷静沈着で抜き身の刃そのまんまだった清瑞はどこへいったのやら」
嘆息する織部に一部始終を見ていた九峪も内心で同意した。確かに清瑞は変わった。いい意味でも悪い意味でも。
起き抜け——ではないが、目を覚ましてすぐに仲間たちの元気そうな顔を見て、九峪はしんそこ安心した。と同時に充足感もわいてきた。
「うふふ・・・・・・まぁ、何はともあれ」
がやがやと人の声が混ざる中で、紅玉の忍び笑いも陽気な響きがしている。『事情』を知っている紅玉は、悪戯な笑みを浮かべた。
「お帰りなさいませ——ですわね」
紅玉に一言にみなが言葉を打ち消した。いっせいに向けられた視線に九峪の頬もほころんだ。
「おう・・・・・・ただいま」
その一言が、諸侯に笑顔をあたえた。
夜遅くになって、ようやく亜衣も外加奈の城の政庁へはいることができた。
夜風にすこしだけ湿気が含まれている。衣服が肌に張り付く感覚に眉を顰めたくなるが、薄着になるにはまだ季節柄はやすぎる。
足音をたてないよう気をつけ廊下をわたる。廊下といっても建物自体は単純なつくりで、ようは奥の部屋へと向かうだけだ。そこには九峪がいる。
——九峪様はまだ起きていられるだろうか?
時刻もとっぷりと帳の下りた深夜零時だ。この時分にまだ目の冴えているものなど、それこそ見張りやら乱波の類、忙しい役人、あとは情事に励む男女——そしていまの亜衣くらいなものだ。
せかせかと足早になる気持ちに反して身体はずいぶんとのろまな歩みをして、それがどうにももどかしい。
しかし、はっと立ち止まる。
「・・・・・・」
——本当に寝ていたら、どうしよう?
私は馬鹿だと、亜衣の頭が項垂れた。最初から気づきそうなものなのに、ついつい思慮を失っていた。こんなだから、藤那やら紅玉やらから諌められ、はてには香蘭にまさかの説教をくらうのだ。
会える、と思った瞬間には、もう心ここに在らずだった。それでありながらやるべき事を片付けているあたり、腐っても宰相である。もっともそれら仕事をやっていたせいで、こんなに遅い時間ひとりで悶々としているわけだが。
「いや・・・・・・そうだ、起こしさえしなければいいんだ」
妙案じゃないか。亜衣はひとりで得心した。そうだ、せめて寝顔だけでいい。
かなり自分勝手な言い訳にも聞こえるが、そう思ったら足は再び前に進んでいた。なんども心の中で、寝顔だけ、寝顔だけと繰り返し呟いた。
そういえば亜衣は、九峪の寝顔を見たことがない。病に臥せっていたときのあれは、むしろ苦悶の表情で寝顔とは言えないし言いたくもない。阿蘇の家屋で寝泊りしたときは、どういうわけか九峪よりも後に寝た記憶がない。そのぶん九峪には何度も寝顔を見られていたらしい。
想像してみると——うまく映像が浮かんでこない。起きている間の笑顔という印象が強いせいだろうか。
そうしているうちに九峪の部屋のまん前にたどり着く。亜衣の悪い癖だ。考え事をしながら廊下を歩くと、瞬間移動したかのように目の前に目的地が構えているのだ。その間をどのように歩いてきたか、まったく記憶にないのだ。昔はそれほど危機管理能力が低いわけでもなかったが、宰相に任ぜられてからは歩いているときすら仕事のことばかり考えるようになってしまっていた。
最悪の運動能力しか持たない亜衣には、この瞬間に乱波の襲撃を受けても抗いきれない。そうはわかっているのだが・・・・・・。
かすかな音もあげずに、戸をゆっくりずらしていくと、顔だけで内部を覗き込んだ。やはりというか、当たり前のことだが明かりはない——はずなのだが。
窓が開けられていた。月明かりが人の輪郭を浮き彫りにしている。
——既視感。
いつか、これに似た光景を目の当たりにした記憶がある。否、そんな簡単な言葉だけで片付けられない思い出がある。
月明かりの照らしに、数年前の記憶がほの暗い部屋の景色を塗り替えていく。やはり同じ夜のこと、木々、砂地、池とそこにかけられた大拱門の橋。
亜衣は、あるはずのない橋をわたる。背後に人の気配を感じた九峪が、驚いて振り向いた。
「あ、亜衣ッ!?」
残念ながら暗くて九峪がどんな顔をしているのかわからないが、きっと鳩が豆鉄砲でも喰らったような顔をしているに違いない。それを想像しただけで亜衣の頬はゆるんだ。
思わぬ来訪に九峪が肩を固めている隙に、一歩二歩を前に進む。互いの距離を縮めてようやく見上げた相貌の目鼻立ちを見分けられた。間違いなく、九峪の顔だった。
吐息さえ混ざり合うような錯覚がする。いや混ざり合っているかもしれない。いっそ無遠慮な勢いで亜衣は九峪のそばへと近寄った。
「九峪様・・・・・・」
名を呼び、されど言葉はなく。
声だけでなく胸にも詰まる苦しさがあった。身体中を金槌で打ち据えられたように、暴れ狂う心臓の鼓動が痛々しい。
月夜に浮かぶ亜衣の艶やかな姿には九峪もまた言葉をなくした。もとより整然とした偃月のような女性だ。静謐な空気の中で、三十を越えてより女として匂いたつほどの美しさとなった。
濡れた瞳のゆらめきが九峪の心を撫でゆく。情念が亜衣の肢体を抱きしめたいと強く叫んでいる。
九峪もまた、いつかの抱擁を思い出していた。
「お久しぶりにございます」
恭しく亜衣が腰を曲げた。以前に比べてすこしだけ伸びた髪がうなじにかかっている。それすらも色香のもとだった。
「お、おう」
唇が震えるのを九峪は自覚していた。これほどまでに亜衣の『女』を感じたこともなかったし、感じるとも思っていなかった。過ぎし日の密事にすら、こうまで亜衣を感じたいと思ったことはなかった。
現代の倫理観が残っていなかったなら——九峪は、いますぐ亜衣を抱きしめていただろう。両のかいなに抱いて、強く々々しめ、その唇を重ねていただろうか。
ただ、それを思うと、九峪は同時に清瑞のかんばせをも思い出すのだ。それが九峪の心に抑止を働かせてくれた。
しかし九峪がそうして己と戦っていながら、なお亜衣の表情は再会と愛おしさに酔いしれている。
亜衣は九峪の胸に自分自身を預けた。寄り添うとぬくもりが感じられる。両手をそっと胸板に預けた瞬間、亜衣は驚きに顔を上げた。
「痩せている・・・・・・」
「ん?」
「九峪様」
先ほどまでの暖かな表情と違い、いまは心配そうな瞳をしている。
「食事はちゃんととられていましたか?」
「食事? いや、あまり・・・・・・」
なんとなしに九峪は答えた。亜衣のにおいに頭を蕩けさせていたのだろうか、隠すことも包むこともせずに、ただ素直に事実を述べていた。
種芽島に食料はなかった。辛うじて魚介類を分け合っていたような状態だった。寝る間も惜しんで船を直し、偵察させ、九峪は将軍たちと軍議を開いた。餓死するもの夥しく、いまなお種芽島には骸の山がのこされている。
——ああ、そうだ。皆もちゃんと葬ってやらないと。
勝利の余韻に忘れかけていた。犠牲となった人々の事を。一人死ねば、一人分の食料が浮く。そうしていまの自分たちは生きながらえたのだ。死という形で勝利に貢献してきた彼らの供養をせねばという思いが、九峪に理性を取り戻させた。
「どこか、お体は・・・・・・」
「いや、大丈夫だ。石川島でたらふく食ったからな」
いうほどの物は食べていないが、そうでも言っておかないと亜衣はますます心配しそうだった。笑顔でこたえると案の定、亜衣はまだ不安げに眉を下げていた。
こういうところは変わらない。とにかく亜衣の心配事は九峪の健康状態に尽きるといっても過言ではなかった。
こうして心配してくれる——それだけで九峪は嬉しかった。亜衣は言動や態度にはんして心の温かい性分をしている。そういうとき、九峪は亜衣に愛おしさを感じるのだ。
「そういえば・・・・・・」
「なんだ」
「九峪様は、いつ、種芽島へ渡られたのですか?」
「ああ、そうだな・・・・・・」
考えてみると、そこの事情を亜衣はまったく知らないでいる。事情を知っているだろう清瑞は、すぐに薩摩へと走ってしまったから、結局のところ謎は謎のままだった。
九峪は掻い摘んで語り部となった。それは亜衣の知りえない話ばかりだった。よもや九峪の存在が蔚海に筒抜けとなっていて、そのために九死の危機にまで陥っていたなどと。だけではない。香蘭と紅玉が手引きして、教来石を飼いならし、北山の残党を纏め上げてことに及ぶなど、とうてい考えられるものではなかった。
だが聞き終えてしまうと、すべてはもはや過去のことでしかない。九峪はこうして生きている。
宗像海人衆は、まさしく『九峪のため』に滅んだようなものだったのだ。
「これで少なくとも、音羽たちには戦功ができた。それは北山も同様だ。この戦いは、北山がいなければ成功しなかった」
九峪の言葉に亜衣もうなづいた。山迫から海人衆を誘い出すことに成功したとしても、その直後に撃破されて石川島を再び占領されてしまうと、結局のところ戦いは長期化していた。
最終的には重然の到着で勝敗を決することになった。決定打に重然を持ってきた事を、もしかしたら重然の手によって海人衆を滅ぼさせて今までの鬱積を晴らそうとしたのか——。
さすがに考えすぎかもしれないが、結果として石川島海人衆と宗像海人衆の対立が、両者の正面激突によって終わったことも事実である。
九峪は大隈の海戦で、いくつかの問題を一気に解決したも同然のことをやってのけたのだ。このような手腕に亜衣は心底惚れこんでいた。
それにしてもよく北山を靡かせたものだと、そのことについても亜衣は関心しきりだった。北山に言う事を聞かせるにはまず教来石を従えさせる必要がある。いったいどのように説得したのか、交渉事を得意分野とする亜衣は是非ともききたい。
だけど、いまはそれよりも、こうして一緒にいられるだけで満足だ。
——もしも。もしも、この大きな胸板に顔をうずめたなら、九峪様は驚くだろうか。
悪戯心が鎌首をもたげる。以外に純情な九峪のことだ、驚きすぎてきっと狼狽するに違いない。不謹慎かもしれないが、それはそれで面白い。
亜衣は、九峪の胸に顔を押し付けた。汗のにおいが微かに鼻を刺激する。
「うおッ」
思ったとおりの声が耳の裏に聞こえた。亜衣は微笑を隠すように、よけい九峪に密着した。九峪の心臓の音も聞こえる。早鳴りに脈打っている。嬉しい。
まさか胸の中で亜衣が笑みを押し殺しているなどとは九峪も思っていない。やり場を失った両腕が無意味に宙を彷徨う。
——こ、これは、抱きしめてもいいのか!?
葛藤が渦巻く。抱きついてきたのは亜衣のほうが。いや厳密には寄り添っているのだが、同じことなのだからこれは抱きしめてもいいのだろう。いやしかし、本当にそんな事をしてもいいのか? もしも清瑞に知られたら命が消し飛んでしまうような気がする。
男の純情で言えば抱きしめたい。その思いはさっきからずっと九峪の心を席巻している。
九峪の迷いは亜衣にも手にとるように感じられた。九峪をからかうことがこんなに楽しいとは思っていなかった。これはすごい発見だと、亜衣も無邪気な気持ちになれた。
「九峪様・・・・・・」
色っぽくいうと、それで九峪はますます身体を固くする。
と、九峪の肩がわずかに狭まってきた。腕が少しずつ亜衣の背中にまわされていく。
九峪はなんども自身のとりまく背徳に言い訳を繰り返した。そしてどうか清瑞にだけはばれませんように——と、強く強く願った。
「——ブッ!」
しかし邪な願いは叶うことなく。
ふと見えた不自然な影に視線を転じると、入り口から顔半分だけだして、恨めしそうにこちらを見つめている、
——きっ、きっ、清瑞ッ!?
ばれたくないと思っていた張本人がそこにいた。
じーっと暗い表情で、九峪と亜衣のふたりを視界に収めている。心なしか不機嫌そうな眉の形をしている。
蛇に睨まれた蛙よろしく、九峪の腕が動きを止めた。
——なにを、しているんですか?
目だけで清瑞が問いただしてくる。
——べ、べつに、何も?
目だけで九峪は答えをかえした。
それは清瑞に届いたのか、眉一つ動かさずに、
——恨めしや。
と、心底おそろしい気持ちを九峪にぶつけてくる。やきもちもここまで来ると恐ろしい。
——亜衣さん、抜け駆け。
最後にそんな気持ちを残して、すっと清瑞の頭が消えた。言い知れぬ重圧から開放された九峪はおおいに脱力した。
ようやく九峪の異変を察した亜衣が背後を振り返ったが、すでに終わったあとである。清瑞のおどろおどろしい視線を感じなかったことは幸いだっただろう。
ただし、清瑞と視線をばっちり重ねてしまった九峪は、目の前が真っ暗になる思いだった。殺されると素直に思った。もしこれで、女中や兎華乃たちとの関係までばれた日には・・・・・・考えるだけで死んでしまいそうだ。
「九峪様?」
亜衣が上目遣いに見上げてきても、九峪は魂が抜けかけている状態だった。
「ああ、うん、えっと・・・・・・。とりあえず詳しい話は、明日するよ」
生きていれば——とは言わなかった。
なおも渋る亜衣をなんとか帰らせて、ほっと息を吐き出した九峪は、もういちど夜空を見上げた。綺麗だとは思えなかった。むしろ夜空に映える星の数々が、まるで砕かれた自分の残骸のようにさえ見えた。
そして——
「九峪様・・・・・・」
背後で、声がした。振り向かなくてもわかる。
「えっと・・・・・・なんでしょう、清瑞さん?」
「お話がございます」
「・・・・・・はい」
その夜。
流れ星といっしょに九峪の悲鳴が、夜空の星と一緒に瞬いた。