西の町を中心に、打倒蔚海を祝う祭りが三日三晩つづいている。踊りと唄の止むことは無く、城壁の外からでも賑やかな音が聞こえていた。
同じような光景、祭りが、耶麻台共和国八州のいたるところで起こっていた。とくに火後藤那領の片野城や火奈久城、火向志野領の川辺城などのそれは実に賑々しく、火後は藤那貯蔵の酒蔵を完全に開放し、火向でも芸人たちが踊り狂っていたという。
九洲の全てが祝賀の雰囲気に溢れかえり、熱狂冷めやらぬ夜であった。
しかし、どうしても熱くなるばかりでいられない者達がいる。
国政の枢機に関わる者たち、つまり高官である。なぜならばこの祭りの最中、彼らはひたすらこれからの難大事である論功行賞を行わなければならないからだ。
これは、ただ戦功を分配すればいいだけのものではない。蔚海によって螺子の緩んだ結束をふたたび強固なものとするためには、誰もが納得できる所領分与を行う必要がある。
だが、どうにも困ったものだ。なにしろ火魅子方南軍にあって功を上げたものが、どうにもこうにも多すぎる。それらに対して、獲得した所領の少なさ。各地の親蔚海勢力の所領は、菱刈鉱山から採掘される黄金や純銀などを使えばいいし、それぞれの知事の裁可で家臣らに分配すればいいとして、問題となるのは豊前の取扱ということになる。
まず知事をどうするべきか。ここで議論は白熱した。順当に言えばもっとも功績の大きい者に任せるべきだが、だからといって政事を解せぬ者に任せるわけには行かない。たとえば、重然などは一等級の働きをしてくれたし、石川島の領主ではあったが、くどいほどに石川島への旧領回復を望んでいる。亜衣としては重然ならば皆も納得するだろうと思っているのだが、どうしても色よく頷いてくれない。
口を開けば「石川島を」の繰り返しで埒があかず、とうとう亜衣も諦めた。
衣緒に任せるのもよくない。それではあまりにも宗像一族が力をつけすぎてしまい、各地に反感を抱かせてしまう。紅玉に任せると、逆に薩摩が行き詰る。香蘭に政の全てを任せるのは、亜衣も絶対に嫌だ、不安しか感じられない。
いっそもう一人王族がいてくれれば——一瞬、清瑞の顔が思い浮かんだ。
——いや、それはないだろ。
いくらなんでも無理が過ぎる。清瑞の秘密を知っているのは、自分を含めると、あとは伊雅と九峪の二人だけなのだから。そもそも当の清瑞自身が知らない秘密だ。
各地への交渉が済んでいく中、いつまでたっても豊前の知事だけが不在のまま、ついには祭りもお開きとなるほどの期間が空いてしまった。はやく豊前の仕置きを決定しないと、各地への正式な論功の発表が出来ない。
亜衣たちはほとほと困り果てていた。
困ったときの九峪頼みである。
「そうだな」
亜衣や大臣たちの必死の形相に気おされつつ、九峪の口元に笑みが浮かんだ。
「白勇公にまかせてみたらどうかな」
「白勇公、ですか?」
亜衣が尋ね返した。白勇公とは遠州の異名である。
「ああ。外加奈の城を北山の居城とするとしても、やっぱりどうにも評判はよくない。そこで遠州に豊前を統治してもらうことで、親北山の意識を豊前から生み出してもらおう」
「そうすれば北山も安心して、俺たちに服属するだろ」と九峪は考えを述べた。
このときの九峪はここまでしか言わなかったが、遠州を選んだことにも理由があった。政事を任せられるだけの器量があるというのもそうだが、重要なのが上乃との関係である。どういう経緯かは知らないが、九峪が再会したとき、遠州と上乃は互い想いあう関係になっていた。ある種の『つり橋効果』が働いたのかもしれないが、これは好都合なことだ。派遣団は北山との間に運命共同体的な関係を築いている。上乃が豊後へ帰り、親北山の意識を伊万里に与えてくれれば、隣県の遠州と強力な連携が取れるはずだ。
いやさいっそのこと、上乃と遠州が『結婚』でもして子供を授かってくれれば、こんなに有難いこともない。
王族の伊万里と香蘭が北山を守ってくれれば安心できる。紅玉も分別ある考えを持って擁護してくれることだろう。薩摩人や火向人との関係は、いまこそ悪いかもしれないが、時間をかけて解消していくしかない。そのためにも、豊前・豊後の連携、そして香蘭と紅玉の力がなんとしてもほしいところだ。
そこまでの考えを汲み取ったのか、亜衣は了承し、こうして豊前の新たな知事に中校尉の遠州が任官されることとなった。ここに、豊前知事の遠州が誕生した。
重然は石川島への旧領回復、渡邊の平陽も領地増加の代わりに商いの面で限りない権限(便宜)を与えるなどの工夫で、功労に報いた。
様々な問題を含んだままではあるが、ひとまず、蔚海の引き起こした乱は完全に幕を下ろすことになった。
元星八年五月二十九日。火魅子の院宣を受けた亜衣が再び宰相に就任。
亜衣の執政がよみがえり、新政権は装いを新たに始動した。
百姓たちの田植え唄がのどかな田園地帯にささやくなかを、大きな駒木馬の尻を叩いて疾駆する武将がいた。
赤い髪を風にはためかせ、剣を一差し背負い、薄い鎧をきている。馬は、良馬として名高い駒木の馬の中でも、とくにいいものではないが、しかし松の樹を掠め鳴らすようにびゅうびゅうと音を立てて走っている。
「せいっ、せいっ」と武将は何度も尻に鞭を当て、そのたびに馬は嘶いた。武将の後ろから、五十騎が負けじと砂埃を上げている。
その急な様子に百姓たちも何事かと顔を上げたが、すぐに突風のように彼らは街道を驀進するのみであった。
目指すは耶牟原城。走っている赤い髪の武将は音羽だ。数回に分けられて発表される論功行賞、音羽は四回目に発表される旨を数日前に受け取ったのだ。
武官である音羽は領地を持たず、かわりに騎衛将軍の位に昇進されることとなった。
綸旨は耶牟原宮殿で賜るため、そのために音羽は馬に鞭打っているのだ。
——帰れる、帰れる、帰れるッ!!
胸中、そればかりが音羽の心に渦巻いていた。ずいぶんと外加奈の城で待ちぼうけされた様な気がする。第一回の綸旨で、遠州は早々に豊前を賜って薩摩を去り、上乃も豊後へ戻ってしまった。音羽は、北山への監視という意味合いもあって留めおかれていたのだが、日に日に帰京への思いは募るばかりだった。
いまは、一刻も早く耶牟原城の自宅へ戻りたい。あそこには家族がいる。苦しい琉球での戦いを忘れ、家族の愛情に包まれたくて仕方がないのだ。
城門で呼び止められるのももどかしいと思いつつ、ようやく南門から音羽は入城することができた。文武の内乱で乱れた町並みは記憶と少し違うが、大まかな違いはない。音羽は知らないことなのだ。南はそうでもないが、とにかく民家の多い西の町が一番姿を変えていることに。
「どけ、どけェッ!」
通りは人で溢れかえりすぎている。このままでは人を跳ね飛ばしてしまうと、音羽が唇をかんだ。仕方なく、藤那の屋敷がある丘のほうへと馬首を向けた。
「お、音羽さまぁ、おまちくださいぃ!」
後ろから家臣らが声をかけてくるが、それを無視する。それどころではない。
ようやく、懐かしい我が家に到着した。たった一、二年程度しか経っていないのに、もう十年は帰っていないような気がしていた。
「戻ったぞぉ!!」
大声を上げながら屋敷にはいる。馬を厩に置き去りにして駆け出した。馬子が驚くのも、やはり気にならなかった。
荒々しいまでの足音をたてて入り口の階段を上り、壊れるんじゃないかと思ってしまうほど、力任せに戸を開け放つ。
「迦葉(かしょう)、由良(ゆら)!! 帰ったぞ!」
壁を振るわせるほどの大音声だ。家来たちが大慌てになって音羽を出迎えようとする中、とたとた小さな足音をたてて、四、五歳ほどの男女の子供が駆け寄ってきた。
「かかさま!」
「ははうえ!」
「ああ、迦葉、由良!!」
満面の笑顔の音羽が、両膝を地に付けて、駆けてきた子供たちを大きな腕で抱きしめた。
「おかえりなさいませ、かかさま!」
「ああ、帰ったぞ・・・・・・帰ったぞォ」
優しいぬくもりに傷ついた心が癒されていく。ここにきて——生きて帰ってこれた実感に、音羽の頬を涙が伝った。
もう生きている間には会えないと思っていた。それだけの境遇だった。
諦めていたら、本当にこうして抱きしめることは無かっただろう。九峪を信じて、北山を信じたから——諦めなかったから、今があるのだ。
しゃくりをあげていたが、どんどん気持ちは制御を失い、家来たちが困惑する中で音羽は大泣きしてしまった。勇猛な音羽のこんな姿を、誰も彼も見たことはなかった。
「は、ははうえ、くるひぃ・・・・・・」
息子の苦しげな声も、いまは聞こえていなかった。
音羽には二人の子供がいる。
五歳になる姉の名を迦葉、一歳年下の弟を由良といった。夫は文官の役人で珍しく九峪派だったが、文武騒乱の煽りを受けて投獄、音羽が琉球で戦っている間に、不運にも獄中で病没してしまった。
夫の死を知ったのは外加奈の城にいたとき、つまりはつい最近のことになる。愛する夫をいきなり失った音羽の嘆きは凄まじく、その気落ちした様子に九峪はなんども足を運んでは音羽をなぐさめた。
元気を取り戻すと、気になるのは二人の幼い子供たちのことだ。
幸い、子供たちは遠州が面倒を見ていてくれたらしく、遠州の琉球出兵が決定してからは、そこからさらに信頼できるものへと預けられていた。
大きな借りが出来てしまったと、後輩の頼れる武将——いまは豊前の大諸侯になった遠州に、頭が下がる思いだった。
「寂しかったか・・・・・・? 父様が死んでしまって」
本人も寂しい。だが、ようやく物心つくかどうかという幼い子達が、父無し子になってしまったのだ。母としてそれが不憫で不憫でならなかった。
——私は我慢できる。哀しさや寂しさを、子供たちへの愛情に変えられるから。しかし幼子は、耐え切れない辛さに絶えていかなくてはならないのだ。父を母を失うということは、そういうことなのだ。
それでも、この子達は私に向けて笑顔を向けてくれている。父をなくした今、頼れるのは母である音羽しかいないのだ。
——守らなくては。私が、この子達を。
「かかさま・・・・・・」
迦葉が不安な顔で音羽を見上げる。小さな身体で精一杯にしがみ付く姿は、縋るようでもあった。
「ははうえ。あした、ちちうえのおはかへいきましょう」
「由良・・・・・・」
「ちちうえに、ただいまをいいましょう」
——ああ、なんということだ。この子は、私を守ろうとしてくれている。
小さい身体に涙を溜めて、それでも流そうとはしない気丈な心がまた音羽の目じりに涙を浮かべた。
音羽は涙を拭い、子供たちに向かってニカッと微笑んだ。
「ああ、いこう。父様に、ただいまを言いに」
そういって二人の頭を撫でてやる。子供たちはそれだけで嬉しそうに頬を綻ばせた。
二人を抱えて、音羽が立ち上がった。まだまだ両手で抱えあげられる。
「よし、ご飯にしようか! かかはもう腹ペコだ」
家来たちに食事の用意を命じると、飯炊き小僧たちが台所へ慌しく引っ込んでいった。今日はご馳走にするつもりだった。
夕食まではまだ早いが、いいだろう。
両脇に抱えた重みに、音羽が嬉しそうに笑った。
「大きくなったな。迦葉も由良も、そろそろ槍の遣い方を覚えるころかも」
「かしょう、かかさまみたいにつよくなれるかな?」
つぶらな瞳が問いかけてくる。
「もちろんさ! 迦葉も由良も、かかと同じくらい強くなって、父様と同じくらい頭を良くして、立派な将軍になるんだ!」
「はい!」
元気な答えだった。音羽のかけがえのない宝物は、この十数年後に言葉どおりの成長を遂げ、終焉へと向かい始める倭国大乱後期の激動に身を躍らせることとなる。
対北山の対処もおおかた指示し終え、ようやくゆっくりとした時間が九峪に戻ってきた。論功行賞は亜衣と伊雅にまかせておけばいい。というよりも、こういったことに九峪は自分から鑑賞する事を控えていた。苦手という理由と、もう一つは、文武騒乱の失敗を反省してのことだ。
九峪は、原点回帰することにしたのだ。共和国時代から、九峪は自らを『アドバイザー』と称してきた。しかしいつのころからか国政にも深く関与するようになってしまい、それが結果として武官派閥や文官派閥との争いにまで関わることになってしまったのが、そもそもにおける九峪の過ちであった。
むろんこれからも、九峪は神の遣いとして共和国のために働いていくが、そのためにはやはり旧来のあり方では問題が大きすぎる。
九峪は考えた。問題は神の遣いの立ち居地があまりにも抽象的かつ曖昧なことだ。火魅子だって複雑な地位にいるが、役割をしっかりとしている。神の遣いも同じように、そのあり方をこうと定めるべきなのだと九峪は考えた。
そこで導き出した答えが、『アドバイザー』というかつての存在意義を役職として明確にすることであった。
国政に直接かかわらない役職だが形を乗っ取って院宣は受けるべきだ。これで少なくとも、火魅子以上に抽象的な存在とはならなくなる。
そしてあくまでも助言者という立場上、宰相や大将軍に唯一意見できる存在ともなれる。言葉を変えれば『最高顧問』や『大御所』、あるいは『軍師』という立場が、今の九峪には丁度いい。火魅子を天皇と置き換えた場合には、九峪を『上皇』とする発想が一番近いかもしれなかった。
その役職の名を、九峪は『太師(たいし)』と名付けた。『師』とは先生という意味があり、政治的な権限は持たないものの、宰相や大将軍から仰がれる存在ということになる。
これは九峪一代の役職で終わるかもしれない。あくまでも太師は神の遣いの受け皿でしかないからだ。大会議でその事を計り、以後九峪は『大師』と尊称される身になった。
太師となったことで、北山を守るべき地位を手に入れた。論功行賞において九峪が意見するのは、あくまでも北山と音羽たち派遣団のことだけで、それ以外にはまったく触れさえしなかった。石川島もさっさと重然にかえしたし、それを除けばあとは完全に蚊帳の外だ。だがそれがいい。
亜衣たちが連日寝る間も惜しんで働く中、暇な九峪にはやることがない。太師となっても、実はそれほど何が変わるというものでもないから、自然、九峪は暇つぶしもかねて、いままで聞く事もなかった様々な情報を収集するようになった。
国内外のあらゆる情報は武器になる。アドバイザーを自称する以上は、的確な助言が出来るように情報を整理しているに限る。
こういうとき、本当にホタルは役に立つ。清瑞たちホタルは九峪の直轄部隊に戻る事を望んでいたが、折角の乱波衆を解体するのももったいないと、ホタルは現在でも乱波衆として存在している。
どんなものでもいいと九峪は厳命し、外は天目と彩花紫のこと、内は先のいくさで武名の上がったものなど、耳に入る話は膨大だ。
だが、ひとつ腑に落ちない情報があった。
「亜衣の噂、ねぇ・・・・・・」
初めに聞いた段階では、たかだか噂程度のものとしか、九峪も思わなかった。なるほどそういう噂の煙がたつようなことを、亜衣も自分もやるにはやっていたしその自覚もあった。それまで足しげく九峪の元に通っていた亜衣が突如として姿を見せなくなり、それを不思議にさえ思っていたが、そういう噂が立っていたとなると知った今、むしろ納得である。
そこで終わってくれれば、九峪も余計な事を考えることはなかっただろう。ホタルは優秀だった。そしてその頭目である清瑞はまさに天下に誇れる逸材であった。しっかりと、噂の進行速度が異常なまでに早かったことなども、包み隠さず九峪に話し、以前亜衣が「作為的なものを感じる」と発言したことまでも、九峪は知るところとなった。
清瑞たち乱波衆も亜衣の噂を火消しするために方々を駆けずり回ったから良くわかることであった。そして確信したことが、やはりあの噂は悪意あるものが流していた、ということだ。その首謀者を、清瑞も亜衣も、最初こそ蔚海の仕業かと思っていたが、この時の蔚海はまだ九峪の存在を知らなかった。
結局ことの真相を明かすことが出来ないまま、亜衣は宰相の座を追われ、ホタルも理不尽な指令をこなしていかなくてはならなくなってしまい、真相究明どころではなくなってしまった。
「どういうことかな」
九峪は首を捻るばかりだ。亜衣と清瑞が言うのだから、裏で何者かがこそこそと立ち回っていたに違いなかった。しかし、それがどこの誰で、何の目的のためかと考えると、すべてはまだ暗雲の中である。
「これを、見過ごしてもよいものでしょうか」
議している清瑞が口を開いた。清瑞には、これが何かしら大きな意味を持っているように思えてならなかった。
乱波という生業上、ちまたに流れる噂がどれだけ頼もしく、また恐ろしいものかを十二分に知り尽くしている。噂が戦局を、ついには政局を一片させることだって稀じゃない。
だからこそ亜衣も、あちらこちらで説教を受ける羽目になってしまったのだ。噂はどんなものであれ、良く考えなければならない重大な要素であった。
「とくに今回の場合は、間違いなく裏があります。これ以上ことが大きくなる前に、真実を暴いた方がいいかもしれませんよ」
「たしかにな。新政権が発足して日も浅いし、乱の傷だって癒えきってないから。こんなところを天目なり彩花紫なりに衝かれでもしたら・・・・・・ああ、考えるのも厭だ」
天下の情勢を考えたうえからしても、やはり攻め込まれるのは望ましくない。
この頃、本洲の戦いも情勢を変化させつつあった。摂通争奪戦に明け暮れている間、彩花紫は摂通経由以外に、泗国計略の賭けに出ていた。淡路島から阿分・讃其の二カ国に侵略の手を伸ばし始めたのだ。不意を付くことで天目の動揺を誘う狙いがあり、事実これには天目も焦らざるを得なかった。よもやこのように強引な形で抜け駆けされるとは、思ってもいなかった。
ただしこれはまさしく賭けに等しい。送り込める戦力も限界がある。摂通を争奪しつつ、阿分と讃其も攻略する。しかも敵は天目と泗国勢のふたつであるのだから、容易でないことは明白だ。
が、勝算があるからこその決断でもあったはずだ。そして天目も、意を決して伊依へ軍を送り出した。戦局は、天目と彩花紫、そしてそれらを迎え撃つ泗国勢という三すくみの戦いに移っていった。
帖左に崩された態勢を整えつつあった泗国勢にとっては、堪ったものではなかっただろう。
九洲も岐路に立たされていた。これからの天下情勢、鍵を握っているのは間違いなく泗国だ。泗国を制したものが天下を制するだろう。天目も彩花紫も、だから泗国がほしい。泗国こそ現状の倭国にあって最大の衢地である。狗根国、大出面国、そして耶麻台共和国という倭の三国を結ぶ交差路を手にしたとき、乱世は終結へと向かっていく。
いまのまま何もせずにおれば、間違いなく将来、耶麻台共和国は滅ぼされてしまう。そうさせないためには、何としても中原と東の大国を逆に滅ぼさなくてはならない。
——ちょっとまて。
はっと九峪は口元を押さえた。
「まさか、な・・・・・・」
「九峪様、どうしました?」
清瑞が怪訝な顔をするが、なお九峪は思案にふけった。
「清瑞、お前は本洲——天目と彩花紫の動向を、どこまで把握してるんだ?」
「私もそこまでのことは知りませんけど・・・・・・聞くところ、やはり摂通の争奪に明け暮れ、最近では泗国そのものへも食指を伸ばしていると」
「そう、そうなんだ・・・・・・。舞台は泗国に移りつつあるんだ」
何となく、見えてきた。泗国争奪戦を展開している天目と彩花紫のふたりが、九洲を完全に無視しているはずがない。なぜなら九洲からも、豊依海峡を渡って四国に攻め入ることが可能だからだ。もしも九洲勢にその気があれば、天目が伊依を、彩花紫が阿分と讃其を攻めているように、九州からは斗佐を狙うことが出来る。
そうなって困るのはどこだ?
天目?
彩花紫?
どちらも困るだろう。しかしもっとも迷惑なのは——彩花紫だ。耶麻台共和国と大出面国とは同盟関係にある。しかし天目が泗国への出陣を要請してこないのは、泗国の地を、例え一部でも共和国に渡したくないからだ。それに九峪なき九洲を侮っているのか、同盟関係でありながら捨て置かれている有様だ。だが彩花紫にとってみれば、九洲が天目の呼びかけに応じて、斗佐へ兵を進めないという確信はない。どころか、本当に泗国計略に名乗り出られては、余計に事態は混迷する。
「それが怖いか、彩花紫」
まだ直接かおを見たことすらない東の化け物の考えが、九峪にも読み取れた。まるでそこにいるかのように、彩花紫の名を呼んだ。確証はない。しかし、そう考えるのが妥当というものだ。
「九洲の目を泗国に向けさせないための策か・・・・・・まんまとやられたな」
「だが」と、九峪はにやりと笑った。
「俺たちを見くびり過ぎだぜ。俺一人いないだけで、この耶麻台共和国が崩れるかよ」
火魅子も、亜衣も、皆そこまで弱くない。蔚海という脅威に晒されはしたが、いまはこうして乗り越えている。その殆どを、九峪の力に頼ることなく成し遂げたのだ。
むしろ彩花紫が余計な事をしてくれたおかげで、荒波に揉まれるだけ揉まれた九洲の人間たちは、よりいっそうの成長を遂げたといってすらいい。
だからといって、感謝するつもりは毛ほどもないが。
「亜衣も伊雅も忙しいだろうな。・・・・・・清瑞」
「はい」
「噂が流れたなら、どこかにそれを実行している工作員がいるはずだ。全力を挙げて、そいつを見つけ出せ。ただし殺すな、生け捕りにしろ」
「生け捕り、ですか?」
意外な命令に清瑞が聞き返した。九峪は頷き、
「そう、生け捕りだ。ああいや、生かすのは一人でいい。それだけで十分さ。そいつにはやってもらいたいことがあるからな」
またしても九峪は、ニヤリと意地悪そうな笑みを浮かべて見せた。それを見た清瑞は、また何か考えていると、頼もしく思うのだった。
さて、九峪と清瑞が話し合っているあいだ、宰相に舞い戻った亜衣は多忙を極めていた。
なにしろ、蔚海が行った悪政の尻拭いを早急に行わなければならず、その労力たるや凄まじいものがある。あれほどの豊作にみまわれて飽和せんばかりだった米倉も、いまでは四分の三ほどもなくなっている。貴重品の塩も備蓄がだいぶ減った。これらすべては税収からまかなわれ、有事の食料とされるものだけに、この浪費具合は目を覆うばかりだ。
「何て事をしてくれたんだ、あの野郎・・・・・・」
と、思わず口汚い言葉まで出てしまうほど、信じられない状態に亜衣は眩暈すら覚えた。
何をするにしても、米と塩は欠かすことができない。普請のために集めた人夫を養うのにも、またいくさで運ぶ輜重にも、そして亜衣たちが食べるための日常的な食料としても、税として納められた米は友好的に使われなくてはならない。
それがどうだ。何をどうやったら、ここまで浪費することが出来るのだ? まさか犬の餌にでもしていたのではないか、とさえ思えてしまうほどだ。
愚痴は後から後から零れてくるが、文句を言ってても仕方がないと亜衣は気持ちを入れ替えた。蔚海へは鉄槌を下したのだ。これ以上悪くならないのだと思うことにして、まずはガタついた財政の建て直しに着手した。
とはいえ事はそう簡単に進むまい。九峪に意見を求めつつ、亜衣は商人の財力に望みをかける事にした。商人が動けば物が動く。いまは田植えも始まったばかりだが、収穫期になるまでは、とにかく商いの力で少しでも力を蓄えなくてはならない。
——でなければ、天目や彩花紫に抗うことはできない。
まだまだ課題は多い。文官の力をそぎ落とし、これからは武官の中から仕置きの出来るものを選び、あるいは育てていかなくてはならない。蘇羽哉たち巫女衆にもいっそうの努力を求め、円満に政を進められる態勢を構築することが至上命題であった。
——だが、いまは九峪様がいる。きっと上手くいく。
苦しいいまも、そうと思えば、心は賑やかにある亜衣であった。