戦勝気分が過ぎ去り、つい昨日まで続いていたように錯覚してしまう慌しさからも抜け出し、平穏という言葉がようやく追いついてきた。
この年の中ごろに、九峪は新たな屋敷を耶牟原城西の町に築いた。
九峪の世話役として阿蘇で生活をともにしていた女中も、変わることなく九峪の元で奉公に励んでいる。
その女中が、自身の実姉である警徒使だった明銀太の死を聞くにいたったのは、諸侯への賞罰が市井の話題にまで上っている時期のことだった。
女中は大層な姉思いの娘で、腕っ節が強く溌剌とした明銀太を誇りにさえ思っていた。彼女の知る明銀太という女性は向こうっ気が強く、とにかく負けず嫌いだった。
そんな敬慕してやまない姉の突然の訃報を、身分の違う清瑞から聞かされてもまさに寝耳に水で、とても信じられるようなものではなかった。女中は姉との再会を楽しみにしていたのだから。
悲観に暮れ、後追いしようとした彼女を押さえつけるのに、あの清瑞が飛び掛ったというから、傍に見ていた九峪もやるせない気持ちとなった。
——どうすれば、元気付けられるだろうか。
もはや九峪にとって家族同然の人間である。なんとかして元気を取り戻させたいと考え、明銀太の墓参りを考え付いた。
「明銀太の墓前を弔おう」
と、そういえば女中は大人しく従った。神の遣いが死者を褒めることで、生きるものへの慰めにしようとした。このような形で神の遣いという存在感を振りかざすのは好きではないが、致し方ないことだとも思っていた。
明銀太は、彼女の屋敷の敷地内にある、楠の根元に葬られた。無造作な岩が、彼女の墓石だ。
そこで、女中はわんわんと声を上げて泣きじゃくった。岩にしがみ付き、
「お姉ちゃん」
と、喉を詰まらせながら繰り返し言い続けた。
——いまは、姉妹二人だけにしておこう。
なんとなくだけど・・・・・・九峪には、慟哭の向うで、会ったこともない明銀太が困ったように苦笑している様子が、見えたような気がしていた。
足音を小さくその場を後にする。墓守という老人に後を任せた九峪には、もう一箇所、どうしても行かなくてはならない場所がある。
話に聞けばその人は、乱中には宗像神社へ避難していたが、乱の収束をまって耶牟原城へと戻っているらしい。
居場所も、しっかりわかっていた。
「——教来石」
初夏の陽気——を通り越して熱気が昇り始めた六月の終わりごろの、とある日。
外加奈の城の水路工事を話し合うために教来石の部屋を訪れた廉思が、空けた戸のまん前で身動きを一切止めてしまった。
「おお・・・・・・廉思か」
堆くつまれた書類の山、というか谷に挟まるようにして、部屋の主こと教来石が顔を上げた。
部屋の中には、いたるところに書、書、書の山である。いや、一部は崩落して丘になっている。足の踏み場こそさえどこにもなく、入ったものかどうかと廉思は迷った。
はっきりいって・・・・・・
「散らかりすぎだろ」
「すまん。こうも忙しいと片付ける暇もなくてな・・・・・・これでもつい昨日は赤峻が片付けていったのだが」
「たった一日でこの有様か・・・・・・」
「そこら辺にあるものは大方かたづいたものだから、そうだな・・・・・・その、隅のほうにでも寄せておいてくれ」
「・・・・・・隅がないんだが」
指を指された場所と、足元と、大した違いがないのには、どうしたらいいのだろうか。
「気にするな。それももう用済みのものばかりだ」
「そ、そうか」
さっさと書類に戻る教来石は、ただひたすら筆を走らせている。
足元を片付け、ひとまず腰を下ろし、忙しなさそうな教来石をしばし観察した。
「忙しそうだな」
「見てのとおりだ。それからさっきもいったぞ、忙しいと」
「しかし限度ってものがあるだろ」
呆れてものも言えない、とまでいうつもりはないが、いささか異常に見えなくもない。
ふと手元に転がる巻物を広い、紐解いてなかみを呼んでみると、居住区の町割りに関する事柄がずらっと並んでいた。
廉思の目がまわる。なんということか、どこに誰が住むのかということまで、びっしりと書き込まれているのだ。
どこどこの誰がここに住んでいる——といった具合に。
外加奈の城の居住区を六つに分割し、それぞれに『司』をおいて自治をさせるという方法を会議で決定してから、まだ二日である。すでにみなそれぞれの家を持っているが、それを一から調べ上げたのには驚かざるを得ない。
北山人と一口に言って、その数は五千人もいる。たった二日で五千人の住所を調べ割り当て、すでに町割りを決められる状態にしてあるのだ。
「おまえ、寝ているのか?」
並の業とも思えないだけに、廉思は心配になって教来石に声をかけた。
教来石はやはり視線を上げず、
「寝ているよ」
とだけ応えた。
そういうくせに、目の下には黒々しい隈がしっかりとできていて、言葉ほどに信じることが難しい。
「・・・・・・まぁ、ほどほどにしてくれよ。いまお前にぶっ倒れられたら、それこそ俺たちは立ち往生だ。お前は自制しているつもりなのかもしれんが、根を詰めすぎるのもよくないぞ」
「心配要らぬ。今ある分が山場だから、これらさえ片してしまえば・・・・・・」
そういって、やはり書類の高く積まれた一箇所をみやる。竹簡木簡に、紙を合わせておおよそ三十通ばかしある。
「これは陳情の類か?」
片っ端から中身をのぞいてみると、やれあーしてほしい、こうしてほしいと、住民からの要望が書かれている。
こんなものに囲まれて数日が経過している。とくにここ三日のあいだに教来石が自室より出たことはほとんどなかった。
それだけ、急な仕事が多すぎるのだ。
書簡を手にしたまま廉思が机に向かって筆を動かしている教来石の横顔を盗み見た。
「・・・・・・どれ」
疲労の横顔に苦笑を漏らしつつ、『山場』だという書簡のもてるだけを抱え込む。
その行動にぎょっとしたのは教来石だった。一瞬ことばを失っていた間、廉思がさっさと立ち上がった。
「廉思、何を——!」
「これは俺が片付ける。お前もさっさと手元のやつを片付けちまえよ」
「必要ない、これはわしの仕事じゃ!」
目を吊り上げ、廉思の両腕一杯の書簡に手を伸ばした。それを廉思は身体を捻って妨害する。
むっと、教来石の眉間に皺がよる。
「どういうつもりじゃ」
「どうもこうもあるかい。お前はがんばりすぎだ。これは俺でやっておくといっているんだ」
「いらぬ」
「まぁ、そういうな。さっきも言ったがな、ここでお前に倒れられることのほうが、俺たちにはいい迷惑ってもんだ。そうだろう? 神の遣いとやらに繋がりのあるものは、お前しかいないんだ」
「おぬしにも直に九峪殿と誼をつうじる日がこよう。おぬしはこの城の主なのじゃぞ」
「主だから、やらんわけにはいかんだろ」
じっと互いの目を見詰め合うふたりの視線が、ふいに外れる。教来石はまだ口元を渋くしたままだ。
「病み上がりは、安静にしておけ」
突き放すような言葉が、教来石の口から零れた。
種芽島で疫病に汚染されていた廉思は、いっとき生死の境を彷徨った。そこを、阿蘇山より下山してきた忌瀬によって、命かながら助けられ、今日までずっと療養していたのだ。
教来石が激務に勤しんでいるのも、病床の廉思に負担をかけたくないからだった。
いま見たところ、元気に振舞っているがまだ病人の顔色をしている。倒れられて困るのは、教来石にとっても同じことであったし、むしろ教来石自身よりも廉思のほうがはるかに危険な身体なのだった。
だから、どうしても、譲る気にはなれない。
「そも、部屋から出るなといっておいたであろう。病人は寝ておればよいのじゃ」
「いや、寝ていたいのは山々だし、あまりお前にも心配はかけたくないが・・・・・・俺が伏せがちになっているのも、それこそいたずらに領民の不安を煽るようなもんだと思ってな」
「それは・・・・・・」
——たしかに、そうかも知れぬが。
喉まで出かけた言葉を、とっさに飲み込む。認めたが最後、この律儀な男の事だ、空元気になって筆を執るのは目に見えていた。
——いや、やはりいかん!
「だめだ」
「・・・・・・頑固だな、お前も」
「お互い様だわ。ここはどうしても譲れんぞ。おぬしの身体には、まだ疫れいが巣くっておろう。あの忌瀬とか言う薬師も、安静にしておけといっておったぞ」
「それなら心配は要らんぞ。疫れいそのものはもはや問題ではないらしい」
とは、忌瀬以外の薬師が最近になって診察した際に口にした言葉である。忌瀬の薬はずいぶんと効果が高かったのか、外加奈の城にすまう患者たちはすこぶる快方へと向かっている。
が、そんなことで安心できるわけもない。
「疫病のおそろしさは、治ったあとにも続く。いまこそ浮かれておれるがのう、病後の過ごし方次第では、おぬし、髄をやられかねんぞ」
声尾を低めて、威すように廉思を睨みつける。髄という言葉に、廉思も顔面の筋肉を固めた。
その、動揺ともとれない反応に、教来石はため息するばかりだ。
「おぬしも聞いているはずだ。わしも民たちにとくと注意したしの」
現代でこそ克服された問題だが、この時代、疫病は病中に限らず、治ったはずの病後でさえ注意を怠ることが出来ない、やっかいな病だった。
教来石の言うところの髄とは、脊髄のことではない。肉体の中心という意味では同じだが、この場合、肉体の根幹——あるいは、生命の源そのものをさす言葉である。
すなわち、髄を損なうということは、脊髄に損傷を受けるということでなく、生命力に著しい欠損が出来る事を指す。
髄をやられると、たとえば原因不明の高熱にみまわれ、頭痛、腹痛、吐き気、頭重感などに苦しめられる。食物を受け付けなくなり、次第に身体は痩せていき、筋肉も衰え、枯れ行く末に死を受ける。
命そのものの形を崩されては、人間の作り出した薬や天への祈りなどが効果あるものとなるはずがないのだ。
「廉思よ」
思いつめた表情の廉思に、おなじような顔をした教来石が詰め寄った。
「いまはわしに委ね、寝ておるのだ。おぬしはまず、生きる事を最優先とせよ。それがひいては、北山の民五千人を救う道ともなる」
「・・・・・・で、お前がぶっ倒れると」
「ええい、話を戻すでないわッ」
「しかしだな、お前に任せっぱなしというのも、なんだか尻の収まりが悪いんだ」
困り顔で頭をかこう両腕を僅かにうごかしたとき、書簡がぼとぼとと落っこちた。あっと声を上げて拾おうとかがみかけた廉思を抑え、かわりに教来石が書簡を拾う。
「あまり散らかすな。済んだものと混ざろうが」
「この部屋の有様でよくもいえるな、おい」
「ほうっておけ。ほら、もうでていけ。どうしてもやるというのなら・・・・・・」
教来石が腕の中にあるものを半分奪い、
「それだけおぬしにくれてやるから」
と、仕方なさそうに肩をすくめ、笑った。何だかんだいっても、廉思のこの心遣いが嬉しかった。
なおもぶつくさと文句をたれる廉思の背中をおして部屋から追い出すと、戸をぴしゃりと閉めた。しばらくして、足音が遠ざかっていく。
との前で、しばし佇み、やれやれと呟いた。苦笑がもれた。生真面目なやつだと、そんな昔から変わらない廉思の様子に、心底ほっとするのだ。
「——これくらい、わしにやらせんか」
ぽつりと、その言葉は小さかった。
そよ風がでてきた。
九峪の立てた屋敷に良く似たそこは、宮殿からほどちかい場所に立っている。庭に桃の木があって、若葉がゆれている。
その屋敷の裏門から、すこしだけ坂になっている道が伸びている。雑木林が広がっていた。
九峪は、額に滲み出てくる汗を袖で拭う。虫の鳴声がきこえてくる。足はとまらない。
この道の先になにがあるのか。話だけは聞いていた。護衛も連れず、無防備なことに九峪はひとりでそこへ向かっているのだ。
手には、酒の瓶。
開けた場所に出て、九峪は足を止めた。ふっといきなり開放的になったそこに、一本の棒が立てられている。
——棒の前に、九峪の良く知る人物が、膝をおって屈みこんでいた。
「羽江・・・・・・」
小さく呟き、こんどは声をかけようと息を吸った。が、そうはしなかった。思いとどまって、ゆっくりと羽江に近づいた。
このまま帰ろうかとも思った。よく仕えてくれている女中のときと同じように、いまの羽江は亡くなった人と話しをしているように見えたから。
だが九峪の足は上に向かっている。
足音に気づいた羽江が顔を上げ、そして驚愕の瞳で見上げてきた。
「よお・・・・・・久しぶりだな」
「九峪、さま・・・・・・?」
呆然と、羽江から聞こえた自分の名前に、九峪は頷いた。
——いつもなら。
九峪の知る羽江は、このように再会したとき、満面の笑みを浮かべ、一もニもなく駆け出し抱きついていた。たとえそれが愛する夫の前であっても、相手が誰であっても、それが羽江という女性が親愛の思いを相手に伝えるもっともポピュラーな方法だったからだ。
そういう羽江の微笑ましさにぞっこん惚れた男を、九峪は一人だけ知っている。
だというのに、羽江は、ただ見上げるだけだった。それが九峪の心を締め付けた。
「墓参りか?」
尋ねられ、羽江は「うん」と応えた。
「耶牟原城にもどってきてからね、毎日きてるの」
「・・・・・・そっか」
らしくない落ち着いた言葉に、どう返したらいいのかわからず、九峪も簡単に応えるだけだ。
羽江のそばで腰を落とし、同じような姿勢で、持ってきた酒の瓶を地面に置いた。懐から杯をとりだし、杯の中に酒を注ぎ流す。見舞いの品に酒を選んだのは、太七郎が酒を愛飲していたからだ。
元気のない瞳が、九峪の手元を見つめている。
「九峪さまは・・・・・・」
「俺も、墓参りかな」
曖昧な答えになってしまった。変わり果てた羽江の姿に、頭が混乱しているようだった。
九峪が羽江の身に起こった不幸を聞いたのは、つい先日、宗像神社から戻ってきたという話を聞いたときだ。
まさか、という思いが先行して、なかなか信じきれないものがあった。羽江のことはもちろん、その夫である太七郎のことも、少なからずとも知らない人間ではないからだ。
羽江が太七郎と交際してからが九峪と太七郎の関係の始まりであった。最初こそ『あの羽江に惚れて惚れられた男』ということで一部でいちやく時の人となった太七郎に、面白いことが大好きな九峪が食いつかないはずがなかった。
そして顔を合わせてみれば、なんとまぁ、おっとりと優しい優男——をとっくに超越して、まるで観音菩薩のように慈悲深い男であった。きっとこういう人間じゃないと、羽江みたいに脳みその構造を疑いかねない娘の夫は務まらないのだろうとさえ思ってしまったほどだった。
だが流石は羽江の惚れた男、かなり面白い性格で、どういうわけか羽江の話にもしっかりついていけている。九峪が創設させた技術開発の研究所にいるだけあって『科学』をもちゃんと理解し、ずいぶんと大きな功績も残してきた。
羽江と一緒に九峪の世界にある未来の科学にも興味心身で、話すうちに九峪とも付き合いが生まれていった。この太七郎なくして加奈船の誕生はありえなかっただろう。
二人の挙式の折には、九峪もわざわざ祝いの言葉を贈った。九峪に挙式を祝われたのは、羽江夫妻を除けば、あとは音羽夫妻だけだ。
——その太七郎が死んだ。羽江の目の前で殺された。
青天の霹靂という言葉以外、何も思い浮かばない。これ以上に相応しい言葉もないだろう衝撃を九峪は受けたのだった。
九峪にこの話を聞かせたのが衣緒だった。清瑞たちホタルに命令を下してから、ゆっくりしていたところ、衣緒が尋ねてきた。
すこしだけ元気を取り戻しても、失ったことへの喪失感は計り知れないものがある。心根の優しい衣緒には、見ているだけでも辛かっただろう。
だから、一度でいいから、羽江にあってやってほしいといわれていた。言われるまでもないことだったが、九峪自身、聞いてから直に行動を起こすことが出来ないほどの動揺があった。
だから羽江の下を尋ねる前に、件の太七郎の墓へ弔いに来たのだ。
この墓が建てられてから、まだ日も浅いだろう。なにしろ乱の収束がついこの間のことでしかなく、羽江もずっと宗像神社にいたのだ。
気まずい沈黙に息が詰まりそうになる。こんな羽江は初めてだ。
いつもは煩すぎるくらいだが、こうも対極の態度でいられると、胃の奥が傷む。
「——どうして」
沈黙を破った音は、小さく。
九峪は返事をせず、しかし次の言葉は容易に想像できる。
「どうして、旦那さまは死んじゃったのかな」
涙は流れない。でも、声は泣いているように震えていた。
「どうして、か」
それは、九峪も知りたいことだった。
なぜ、このように純真無垢な女が、慈悲深い夫を失わなければならず。
なぜ、あのような善意の塊のような男が、愛する妻をおいて非業の死を遂げなくてはならず。
なぜ、俺はもっとはやく、動くことが出来なかったのか。
すべてをなぜが支配する。
「旦那さま、なにも悪いことしてないよ。農具だっていっぱい改良したし、いいこと沢山してきたよ。なのに——ッ」
堪えきれずに、羽江が俯き肩を震わせた。
——涙は枯れても、それで泣かなくなるわけではない。涙の流れない哀しみこそ、辛い。
それを見ているだけの九峪ですら気づけてしまう。羽江の哀しみは人にそれを悟らせるほどに深い。
善人が死ぬ世界。ここはそういう世界で、ここに限ることでもない。
結局、なぜに理由を求めてみたところで、行き着く理など、
——人間だから
などという、禄でもなく実も蓋もない、けれども絶対的に覆せない真理によってしまうのだろう。
けど、それを認めてしまうのは。
なんだか寂しいと、九峪は思う。
だから人は、失う悲しみに抗うため、さらに傷つかなくてはならないのだ。
亜衣はその方法として、蔚海と宗像海人衆へ『報復』という戦いを仕掛けた。
ならば羽江は——
「生きるしかないよな」
強い語調の言葉に、羽江が哀しみの顔を上げる。
「死んでしまったものはしょうがない——なんていうつもりはない。けど、羽江は生きてる。月並みな言葉だけど、生きてるんなら、とにかく羽江は太七郎の分まで生きないといけない」
「九峪さま・・・・・・」
「太七郎はやるべきことをやり遂げたんだろう。羽江と出会い、子を残し——お前たちを、愛した。それをやり遂げたんだ。だったら誇ってやれ、羽江の夫は素晴らしかったんだってさ」
あいつは、そういう人間じゃないかな——と九峪は笑顔を作って笑う。羽江のかいなに抱かれている赤子を覗き込み、赤子も、九峪を見上げた。
「雨嬉って、いうんだってな。衣緒から聞いた」
「うん・・・・・・わたしと、旦那さまの、大事な赤ちゃん」
「いい名前じゃないか。羽江がつけたのか? それとも、太七郎?」
「亜衣お姉ちゃんがつけてくれたんだ」
「亜衣が・・・・・・ッ!?」
思いもよらない名前に驚いた。
姉妹なんだからそういうこともあるだろうとは思う。しかし、亜衣の頭のなかから『雨嬉』などという、まともな名前が出てきたことに、九峪は驚きを禁じえない。
亜衣の趣味の悪さは、彼女を良く知るものたちにも有名で、とりあえず贈り物はゲテモノにしていれば大丈夫と、まことしやかに言われるほどだ。
その亜衣に惚れられている自分はゲテモノかい——と思うことも多々あるにはあるが、余人には九峪も十分変人に思われているので強くいえない。
その亜衣に「ややが可哀想だ」とまでいわれた羽江のネーミングセンスも、やはり姉妹である証だろうか。
だけど、本人を前に絶対に「驚いた」などといえないけど、愛情のこもった名前だと思う。
雨嬉は、一歳になった。産毛がのびてきて、もう頭髪と呼べる程度の草原が出来上がっている。色素が薄いのか、ただでさえ薄く見える乳幼児の頭が、まるで真っ白な雪の布を被せられているようだ。
まだ母の腕から離れられない乳飲み子は、覗き込む九峪に泣き出すこともなく、きょとんと見上げている。そんな、普通であって普通じゃない雨嬉の様子に、常人と違う何かを感じた。それが頼もしくもあった。
「はは。俺の事を見てる。もう人の顔がわかるのか?」
指を差し出すと、ちっちゃな手が人差し指の先をきゅっと握った。
「お、掴んだ」
「ほんとうなら、もう少し大きくなってから認識できるようになるって産婆はいってたけど、雨嬉はもうわかるみたいなんだぁ」
「ふーん・・・・・・」
——常人とは違う何かを持っているんだな。
この新たな命が、きっと新たな世代の中心になってくれる。その予感が九峪の心を明るく照らしてくれた。そして事実、雨嬉は耶麻台共和国の中心で生きていく運命にあった。
指を動かすたび、ちいさな手に力がこめられている。放したがらない。それが可愛いものだ。
「太七郎のこと、いっぱい聞かせてやれな」
「うん・・・・・・わかってる」
九峪がいわなくても、そうするつもりだったかもしれない。ただこういうことは、誰かが言うことで、相手の心を救うことにもなる。
九峪は、墓に眠っているだろう男へと気持ちを向けた。
あのお人よしの優男は、どんな顔をして羽江と雨嬉のことを見ているのだろうか。それを想像して、すぐににこにこと笑顔で二人を見守っているのだろうと思い、かえって呆れてしまう。
「ほんっとに・・・・・・お前しかいないんだぞ? 羽江の相手が出来るやつなんか」
ついつい文句を言ってしまうのは、それだけ九峪も、羽江の事を可愛がり、夫婦を祝福していたからだ。これからいろんな人たちが、傷心の羽江を支えていくことだろう。それは、亜衣や衣緒のような家族であり、蘇羽哉などの宗像巫女であったり、あるいは志野などの面倒見のいい連中であり、そして九峪自身である。
複雑なことだ。もとの羽江に戻ると、きっとまたドタバタした騒がしい日常が始まる。そうして振り回されるのだ。それを誰もが待ち望んでいるんだから、言い表しようのない文句を、太七郎にいってやりたかった。
ただ、そのような軽い気持ちの裏で、九峪は、
——助けてやれなくて、すまなかった。
と、心からの謝罪の気持ちも表していた。自分がもっとうまく事を収めていれば、阿蘇へ逼塞もせずに、宗像海人衆の台頭なども許さなかった。それが出来なかったわが身の不徳が赦せなかった。
——羽江と雨嬉は、俺たちで守る。絶対守りぬく。だから安心しろ。
今の九峪にはそれだけしか言えない。まだまだ続く倭国大乱の荒波に生きる九峪には、ただそれだけしかできない。
「元気になれって、いうのは簡単だよな」
「大丈夫だよ? もう、泣かないもん」
「枯れちゃった」と、羽江がはにかむ。それは空元気でしかないけど、空元気も元気のうちだ。無理してでも笑顔を浮かべられるなら、きっと立ち直れる。
かつて笑顔を失った九峪だって、魔兎族や忌瀬——亜衣のおかげで、ふたたび力を取り戻したのだから。
ましてや、羽江には支えてくれる沢山の思いと、生きがいとなる小さな命がある。
いまは萌る芽でしかないが、時の流れにあわせて大きな葉を広げ、花咲く頃、羽江もまたしたたかな女性になっているはずだ。
だけど、無力感に打ちひしがれた先達の身であるからこそ、いえる言葉もある。
「支えられる事を恥ずかしがるんじゃないぞ。相手に迷惑をかけるくらいに甘えろ。そうして、いつか、たくさんの恩返しをしてやれ」
「九峪さま・・・・・・わっ」
九峪の大きな手が、羽江の頭に置かれた。ずっと辛い思いをしていたためかもしれない、髪にはつややかさがない。
見上げる瞳が、小さく感じる。
「まわりのみんなも、お前に頼られるのを待っているはずさ。雨嬉には、沢山の笑顔を見せてやれ。亜衣や衣緒、蘇羽哉、卯月、伊万里に香蘭たちもな。もうみんな巻き込んじまえ!」
そういい、ニカッと笑顔を見せて、
「俺がゆるす!」
と、高らかに宣言した。さすがに気障な台詞だったかとも思ったが、気持ちを伝えるにはこれくらいのほうがいいだろうと思いなおす。
それに嘘は言っていない。少なくとも、九峪には羽江の起こすかもしれないトラブルに付き合ってやる覚悟が出来ているし、亜衣や衣緒も、文句を言いながら結局は羽江の事を構うことになる。志野や、伊万里だって。
激動の時代に生まれた子供とその母親は、昔からのじゃじゃ馬だが嫌われてはいないのだ。これが珠洲とかだったらまた違うだろうが、少なくとも羽江の無邪気さに辟易はしても、それが尾を引くことはなかった。
だから、きっとみんな助けてくれる。そうでなければ、九峪は頭を下げてもいいとさえ思っている。
——さすがに、それをここでいうつもりはないけど。
格好つけていっても、やはり気障な台詞は似合わない。急に気恥ずかしくなってきた。
「じゃ、じゃあ、俺はそろそろ」
と立ち上がりかけたとき、いきなり羽江が九峪の胸の顔をうずめてきた。
九峪、焦る。
「のあ!? う、羽江!?」
びっくりして羽江の肩を掴み——
「——ッぇぅ」
嗚咽が、聞こえた。
雨嬉を抱いたまま、九峪の胸の中で、泣き声をかみ殺す羽江。
枯れたとはにかんでいたはずの涙が、胸の布にじわりとしみを広げていく。雨嬉を抱いたままという不自然な態勢に崩れないよう、九峪はつかんでいる羽江の肩をささえて、まさか立ち去ることも出来なくなった。
——困った。
いつも羽江がしてくる抱きつきとは明らかに違う抱擁に、さしもの九峪も喉を鳴らした。仮にもここは、腕の中にいる未亡人の、亡くなった旦那の墓前である。それも、知り合いの墓だ。
——そりゃあ、甘えろっていったよ。
——けど今かよ!?
思い立てば即実行を信条としている羽江らしいといえば、まぁこの上なくらしいのだけども。
——清瑞、視てるんじゃないだろうな?
亜衣との抱擁を目撃された前科があるだけに、九峪も心穏やかではない。いま清瑞がどこにいるのか、送り出した九峪自身も知らない。
「ふぅッ・・・・・・うああぁぁ!」
羽江はますます声を大きくしていく。
困った、困ったと心の中で呟き、なんとなく気まずく思いながら、九峪は羽江の頭をなでてあやしてやった。