文官の多くをその役職より解く『文易放免』を実行に移し、亜衣主導の下、武官の政権参入が本格化してきた。
文官増徴対策として講じられてきた文官的武官の登用および育成の結実ともいえる。筆しか執らない文官と、弓しか取らない武官の垣根を越えて、文武の融合を図ることが最終的な目標であった。
いってみれば、これは倭国において初となる豪族や武官ら武門の勢力による政権——すなわち『幕府』の先駆け的組織となるのではないだろうか。国家の元首は火魅子だが、政の頂点にいるのが宰相の亜衣である点を見ると、これは『幕府』とよんでいいかもしれない。
もちろん、全ての文官が存在を消されるわけではなく、有能なもの、反骨の相がないものはむしろ厚遇されて残される場合も多かった。
文官が大量に処分されたあとの穴を埋めるのは、それだけ大変なものなのだ。
大臣の役職には依然として文官の大身がついているが、しかしその下で働く実行員の四割から六割は、地方の豪族に仕えていた、いわゆる『やりくり上手』な文官的資質のある武将を登用している。大臣が再び専横を振るおうとしたら、下の武官たちが容赦なく尻を突き上げる仕組みだ。
望むのであれば、罷免された文官たちから『文官的武官として戦闘訓練を受ける』という条件で、役人の仕事を続けるものもいた。
性急な改革ではあった。しかし異論は少なかった。勢いが盛んな武官たちに否やはなく、一時は政権の中枢を握っていた文官たちにももはや発言力などない。微弱な文句は徹底的に無視され、ここに、武官を主体とする乱世を生き抜くための組織再編が進められた。
亜衣の手腕が上手く働いたのは、豪族を巧みに操ったところだった。戦いの中心を担ってきたのは、重然に同調していた各地の豪族たちだ。彼らは重然という盟主をたて、その元に結束していたようなものだったから、重然が本領回復をうけて火魅子によりいっそうの忠誠を誓えば、それだけで火魅子の神格性が増し、その火魅子から政事の全権を与えられている亜衣の地位も各個たるものとなっていく。
それは結果として、宗像海人衆との争いに勝利した宗像得宗家が、将来を安泰されたも同然のことであったのだ。もはや、亜衣と得宗家の立場は揺るぎない物となった。
そして何より有難いのが、九峪が自らの手で身の落ち着かせ所を『太師』という形で定めて、火魅子とほぼ同列でありながら反目しない存在という印象を明確に区切ってくれたことだ。
火魅子を神の子孫——『天子』とするならば、九峪は神に遣え神の子孫とその民を助ける——『天使』という存在になる。
どちらも政治の枠からは外れるが、しかし火魅子は祭事を司る宗教上の最高責任者として、九峪はその火魅子のとなりにあって、政治を直接指揮する権限は持たないが、亜衣と大将軍に助言できる権利を有しているのだ。
この方策に亜衣も感心した。もっと感心したのが、より明確に役目を分担したことだった。
——火魅子は、儀式や宗教を統括するが、政事や戦闘に極力関与しない。
——亜衣は、政治においては国内外で権力を振るってもいいが、火魅子の許可なく宗教的儀式を執り行ってはならない。
——伊雅は、軍事にのみ専念する。
——九峪は、宰相と大将軍に意見してもいいが、太師そのものに権限はなく、また宗教における崇拝の対象になってはいけない。
火魅子は宰相とつながり、宰相は大将軍とつながり、太師は宰相と大将軍に繋がってもいいが、火魅子と交わることはない。
宗教的な力を持っている火魅子と神の遣いの線が切れている状態。しかし国家の枢機を司る宰相だけが全てに通じる。こうすることで、文武騒乱の失敗を繰り返さないようにしていたのだ。
失敗したことで、こういう体制が出来上がった。
これで、もう大丈夫だ。そう九峪も亜衣も思った。この形に至るまでの苦労が、報われるような気さえしていた。
——という、はずだったのに。
九峪が築き、亜衣をも唸らせたこのあり方は。
火魅子のとんでもない発言によって、それまでの苦労もろとも雲の彼方へ吹っ飛んでいくこととなってしまった。
亜衣が呼び出された。
それも火魅子に。
呼び出されること自体は珍しいことでもない。両者の関係を知るものは多いし、亜衣は火魅子にとっても貴重な相談役でもあるからだ。
火魅子は何かと心配性なのか、祭事においてもよく亜衣と話し合いをした。亜衣はその都度、臣民の心を宗教で掴む術を火魅子に囁き続け、九洲の津々浦々にまで火魅子の神聖性を浸透させることにも成功していた。
いまだ前に出てきたがる火魅子を落ち着かせられるのも、また亜衣しかいないのも現状だった。
だから亜衣も、別段の不審さえいだくことなく、再建されたばかりで真新しい外装の奥の殿へとむかったのだ。
巫女に付き添われ、清浄な世界へと足を踏み入れ。
——十数分後。
「な、なんですってえええぇぇぇぇぇッ!?」
火魅子の——ではなくて、亜衣の絶叫が静かな奥の殿に響き渡ったのだった。
入梅があけ、じめついた空気すらもはや風に乗って北へと去ったはずの正午。亜衣は座ったまま腰を抜かしかけていた。
眼鏡もずり落ち、大口をあげて、よほどらしくない形相である。
亜衣は固まっていた。石であった。いやさ岩である。生命の活動をとめたとしか思えないほど、ピクリとも動かず、それが火魅子には御気に召さなかったようだ。
火魅子が頬を膨らませて、
「ちょっと、そんなに驚くことないでしょ!?」
と、つばを飛ばしている。
いまは『戦巫女』と呼ばれるような具足は脱いでいるが、その怒れる様子には、戦巫女の名が相応しい。
しかしそのような剣幕で睨まれても、亜衣は怯まず、それ以前にまだ衝撃から立ち直れないでいた。
なぜ亜衣がここまでの衝撃に襲われているのか。いったい火魅子は何を言ったのか。
昼を過ぎた頃だった。政務に勤しむ亜衣の元へ、急使が飛び込んできたのは。
急使といっても巫女である。火魅子が大至急、亜衣を呼んで来い——と、いったのだという。巫女は、まさかあの亜衣がなにか不測の事態でも招き、よりにもよって火魅子の不興を買ったのではないのか——とさえ心配していた。
だが当然、そんなこと身に覚えがない。亜衣も首を傾げていたが、巫女としての勘が、けっこうな音で警鐘をならしていた。
入室した亜衣は腰を下ろし、おなじく折り目正しい姿勢でたたずむ火魅子と正面から対峙した。何を言われても動じない、絶対に受け止める。
その気迫が、亜衣にはあった。
薄化粧の火魅子は、頬を上気させ、瞳を爛々に輝かせていた。そこには怒りの色がなく、亜衣の疑問はますます大きくなっていくばかりだ。
やさしく塗られた紅の綺麗な唇が、そっと——
「亜衣、いいことを思いついたわ!」
ではなく大口で、体全体でつっこんでくるほどの勢いに、亜衣は面食らってしまった。
「火魅子様、いったいどうし」
「わたしッ!」
バンッと、床を思いっきり叩いて、
「結婚するわッ!!」
・ ・ ・
「は?」
鳩が豆鉄砲を食らった顔で、馬鹿みたいに亜衣は声を上げていた。
聞き間違いだろうか・・・・・・? 気のせいだったろうか? 先ほどの言葉を理解しきれない亜衣の胸中に、呆っとした疑問だけが残った。
「だーかーらぁ・・・・・・」
目を丸くする亜衣とはこれまた対照的なのが火魅子の態度だ。興奮しきった顔で、ごくごく大真面目に亜衣を見つめる瞳には、一片の曇りもない。
「結婚するって言ったのよ!」
「・・・・・・けっ、こん・・・・・・?」
「そうよ」
「・・・・・・ぇぇええぇえぇえぇぇぇえええええ!?」
寝耳に水の話に亜衣の悲鳴は上がる。それはもう、のびのびと。
この段階ですでに亜衣の腰は抜けかけていた。だって、火魅子にそんな想い人がいたなんて知らなかったから。
奥の殿は男子禁制の園。九峪ですら立ち入れない——ということを明確に決めたわけではなく、ただ女子しかいない奥の殿に足を踏み入れる勇気が、九峪にはなかっただけ——場所にいつもいる火魅子が、そんな、結婚を所望するような男性とめぐり合っていただなんて!
これが驚かずにいられようか!
亜衣がしる火魅子の男性遍歴は、後にも先にも九峪を誘惑する程度で——
・・・・・・
——まさか。
——そんな。
——いや、でも。
亜衣の中で、嫌な予感が渦を巻く。喉を鳴らし、亜衣は破裂しそうな左胸を押さえ、息を吐いた。呼吸が震えていた。
「せ、星華さま・・・・・・」
思わず火魅子を本名で呼んでしまうほど、亜衣の思考は回っていた。
「その、その! 相手のお名前は——!?」
「九峪様だけど」
「くたっ!」
言葉にもならなかった。
——ああ、やっぱり! そうだと思ったわ!
先を読む目というのも、あって不幸、なくて不幸という。聞きたくないと思いつつも聞いてしまう、人間の哀しさか。
あれだけ情熱的で気高く清廉な火魅子のことだ。とうぜん相手にも相応の身分を求める。そして、根がいまだ幼くて心優しい、一言付け足してあどけなくさえある火魅子が、きさくで太陽のように暖かい気性の九峪に惚れていたのも、もうとっくの昔に気づいていた。
火魅子の相手としては文句ない。一級品の結婚相手だ。火魅子と神の遣いの混血児ともなれば、はたしてどれほどの神性と才能を秘めた子供が生まれてくることだろうかと、考えただけで胸が高鳴るというものだ。
しかし——文官と武官の関係がこじれてからは、恋愛にうつつを抜かしている場合でもなく、九峪が阿蘇山に追放されてからは、責任を感じてか自ら九峪への思いを封じ込めてしまっていたようだった。
それが、今回のことで再び情熱の炎が燃え上がり、恋心をふさいでいた蓋を丸焦げの炭か灰にしてしまった。
そして導き出した結論が——結婚。
夫婦として添い遂げる道だった、ということ。
義姉として、後見人として、相談役として、また宰相として、これは全身全霊をかけて応援するべきなのだろう。
だが——だけど!
「な、なんですってえええぇぇぇぇぇッ!?」
飛び出したのは、こんな叫び声だった。
亜衣の落雷で鼓膜を揺さぶられた火魅子が耳を押さえてコロンと転がった。麻痺した三半規管が身体の制御を奪う。
キンキン鳴る耳の煩さに堪えかねた火魅子が、「もうッ」と亜衣を涙目で睨みつけた。
「亜衣、だから驚きすぎっていってるでしょ!」
「これが驚かずにいられますかッ!!!」
火魅子の文句は消し飛んだ。
「結婚て結婚て結婚なんて!! み、認めません!! 認めませんよ!!!」
私だって、その想いを心の奥に仕舞って今日までがんばってきたのに——!!
という本心は明かせないけど、そのぶん噴出した感情の爆発は凄まじいものがあった。ただでさえ清瑞などという恋敵までいる上に、ここで火魅子などにでしゃばられては、いくら亜衣でも割ってはいるのは困難極まりなくなる。
さすがに今さら九峪と結ばれようとも思えないが、しかし、幼少のころから主君以上に大事にし可愛がってきた女性と、一途なまでに思い続けた男性が寄り添う姿など目の当たりしては堪ったものではない。
仮にもこれが清瑞であれば——九峪の『気持ち』が向いているぶん、まだ一億歩ゆずって認めてもいい。九峪の想いは尊重してやりたい。まぁ実際のところ、清瑞が王族の直系であると公に公表しない限りは、あの二人が結ばれる可能性は政治的要因に阻まれてかなり低いものとなるだろう。
それに対して火魅子は、むしろ政治的要因が働きに働いて、兎跳びに結ばれても何らおかしくない。九峪ならば、火魅子ならばと誰だって思うはずだ。政治的な事を考えれば、決して悪いことではない。
おそらく星華にもそういった打算が無きにしも非ずであると見える。星華なりに二度と九峪と袂を分かつ可能性を、かつての失敗を省みてなくすべきだと判断した結果の結婚宣言であるはずだ。
それは亜衣にもわかるし、むしろ宰相の亜衣が提案すべし事柄でもあった。神の遣いと火魅子が婚姻関係を結び、そして『天子』と『天使』の血を半分ずつ受け継いだ仔が生まれれば、ますます国内の結束は強まり、安泰が約束されるだろう。
でも——女の自分がそれを邪魔してしまうのだ。
「まだ早いです!」
「早くなんかないわよ。私だってもう三十・・・・・・むしろ遅いくらいだわ。第一、亜衣、あなた今いくつなの?」
「うっ」
亜衣が声を詰まらせた。亜衣、このときすでに三十二歳。恋人いない暦、すなわち年齢である。
「あなたは得宗家の家督を雨嬉に譲って、自分は子を産まないっていうけれど・・・・・・私は、そういうわけにはいかないでしょう?」
正論だけに言い返せない。
亜衣には子供を残すつもりがなかった。理由は様々ある。九峪以外の男と添いたくない、生みたくない。仮に生んでしまえば、家督を譲るといった羽江を裏切り、もしかしたら実子と雨嬉が争いかねなくなってしまうからだ。
だから子供は生まないと誓った。たしかに亜衣の血筋は絶えよう。しかし得宗家は滅びない。それでいいと亜衣も思っていた。
とはいえ、それは亜衣に限った話。今代の火魅子は直系の血を後世にまで伝えなくてはならない。出来るならば藤那、伊万里、香蘭らの血ではなく、自分自身の血を残したいという欲求が火魅子にもあった。
それを可能と出来る男が、まさに自分の愛する男ならば、こんなに出来すぎた話もない。
「紅玉さんは十四歳で香蘭を生んだのよ。私を見なさい、もう三十よッ!」
「うぅ」
「普通の人間だったらとっくの昔にお肌の曲がり角だわッ!! シミが出来る前に九峪様に愛してほしいのよッ!!!」
「お、おちつ」
「これが落ち着いていられますかッ!!!」
先ほどまでの亜衣と言っている事が逆転している。
「人生六十年、もう半分まで来てるの! 清瑞とか伊万里とか香蘭とか、忌瀬だって怪しいのに・・・・・・これ以上待っていたら、鷹に獲物をもっていかれてしまうわ・・・・・・」
「・・・・・・」
——まさかつい以前まで、その中に自分が食い込もうとしていたなんて・・・・・・い、いえるわけない。
亜衣は気まずい空気に息苦しさを感じた。烈火のごとく猛っていた火魅子が、こんどは水を差された熱湯みたく大人しくなった。
そうとう情緒不安定になっている。清瑞も、火魅子も、恋する乙女は恐ろしい。
どう言葉をかけようか迷う亜衣の顔を、不安気に見上げてくる。
「賛成、してくれないの・・・・・・?」
親に怒られた幼子のように——。
「わたしは・・・・・・」
——どう応えろと?
早い遅いはどうでもいいが、亜衣とて九峪に恋する一人の女。九峪の気持ちが幾ばくかは自分にも向いているという自信はあるし、それが嬉しくもあるが。
こうして見上げてくる火魅子の力になりたい気持ちも、たしかに優しく奥底で揺らめいている。
女として応えるべきか。それならば応えは否。
宰相として応えるべきか。それならば応えは是。
それとも姉として応えるべきか。それならば応えは是。
けれど唯一反対する女が他を圧倒するほどに強く主張している。結ばれないなら、せめて誰にも渡すな、と。
激しく苦しい葛藤に悩まされる亜衣の表情は苦しそうで、それがまた火魅子に潔く思われていないのだという印象を与える。
——だが。
火魅子はとつぜん、はっと口元を押さえ、すごく哀しそうな瞳で亜衣の事を見始めた。
「亜衣、あなた・・・・・・」
そして、ぽろぽろと涙を流し、亜衣はぎょっとした。
「火——!」
「可哀想。本当は結婚したいのね・・・・・・」
「魅、こ・・・・・・さ、ま?」
——いま何と?
言葉、消ゆ。
亜衣が豆鉄砲を再度食らっても、火魅子の口も、涙も止まらない。
それどころか、くっと顔を伏せてしまった。膝を涙で濡らす姿は、どこか艶やかだ。
「うぅ・・・・・・本当はあなたにも結婚願望があるのに、それを自分に戒めて・・・・・・なのに私ったら、愛した殿方と添い遂げたいだなんて、よりにもよって亜衣の前で・・・・・・ッ」
がっしと両手をとられ、亜衣は目をこれでもかと見開く。涙にぬれた瞳が、亜衣を力強く貫いた。
「亜衣、ごめんなさい! 可哀想なあなたの前で結婚したいなんていってしまって!!」
「——はあ!?」
「私より二歳も歳をとっている亜衣に対して、あまりにも『でりかしー』に欠けることだったわ! ほんとうに私ひどいことを! ああ、穴があったら入りたい!」
「せ、星華様、いったい何を」
「ううん、いいの。亜衣、無理しないでいいのよ。わたし、あなたの前で結婚の話、もう絶対にしないわ・・・・・・」
「え、いや、ちょっ」
話がおかしな方へと進んでいる。
気がついたら亜衣は、『結婚に強烈なコンプレックスを抱いている可哀想な女(三十二歳)』に成り果てていた。
いやたしかに火魅子のいうことは間違っていない部分もある。
結婚願望はなくもない。ただしそれは『相手が九峪』という大前提が必要だ。
なおも暴走していく火魅子の扱いに困り、がっくりと体中から力が抜けていくのがわかる。その脱力した身体に——ふつふつ、ふつふつと、怒りがこみ上げてくる。
「火魅子様——まずは落ち着いてください」
「亜衣、もういいのよ・・・・・・」
ブチッ
「いいから黙りなさいッ!!」
ついに火魅子の頭上に、落雷が発生してしまった。体中に染み込んだ条件反射が、「よよよ」と嘆き悲しむ火魅子の背筋をしゃんと伸ばした。
火魅子の前に、鬼がいた。
「さっきから聞いていれば、人を可哀想だとか何だとか。・・・・・・それに二歳『も』って! 『も』って!!
そんなところ気にしていただかなくても結構ですからッ!!」
「は、はいいぃぃぃッ」
火魅子、すでに半べそになっている。よほど怖いらしい。
「私の結婚云々はこの際どうでもよろしい! いまは火魅子様と九峪様のご結婚のことが重大事でしょう!!」
「仰るとおり」
血相変えて白旗を振りかざす火魅子に、鼻で荒く息をする亜衣の怒りもようやく落ち着いてきた。臓腑に溜まった苛立ちや諸々を一気に吐き出し、浮かしかけていた腰を下ろし座りなおした。
大きく咳払いしたとき、騒ぎを聞きつけてきた巫女たちが戸口から部屋の様子を伺いにきた。
「い、いかがなされました!?」
「なんでもない! 下がっていろ!」
「あ、ちょっ!」
亜衣と二人っきりが怖くて仕方がない火魅子が巫女たちを呼び止めようと腕を伸ばす。でも亜衣の剣幕にすっかり恐れおののいてしまった巫女たちは、「失礼しましたー!」と、風に吹かれる木枯らしを思わせる逃げっぷりで退散していった。
火魅子の腕が、むなしく宙に浮かんでいる。
——ああ、無念。
「さて、火魅子様」
「は、はひッ!?」
恐る恐る亜衣の表情を仰ぎ——固まった。
眼鏡の枠を中指で押し上げる、その手の甲の影で——。
——わ、哂っているゥ!
「いろいろ、お話しましょうか・・・・・・?」
「はぃ・・・・・・」
乱の終りから、数十日。
耶牟原城へ戻ってきた事を後悔するほどの地獄だったと、のちに火魅子は語ったという。
耶牟原宮殿の西舘には宝物神殿がある。
そこは、耶麻台国の神器が安置されている神聖な舘であり、国の高官の中でもとくに限られたものしか立ち入ることが出来ない。
警備の兵は三十人を配し、入り口はそのうちわずか一つだけ——もしも勝手に持ち出せば、極刑に架せられ、万が一強奪されてしまえば警備兵全員の首を刎ね飛ばしてもまだ購いきれないといわれるだけに、警備兵たちも心身ともに選りすぐった専用の者たちだけを用いている。
九峪が、その宝物殿へ足を運んだのは、古くからの友と会うためだった。
兵士たちの開いた厳かな扉をすぎ、久しぶりに神物天殿堂の内部へと視線をはしらせた。
梁は幅一尺、厚みも一尺とかなりの大きさがある。吊梁もしなやかな桜と頑健な樫を交互に配して、たとえ三メートルの積雪が起きようとも崩れないほどかみ合わせている。建物そのものの骨組みおよび大黒柱は檜、壁は楢と桜をふんだんに使用し、すでに一級品の舘の様相を魅せている。
堂の際奥に奉られる五つの神器——『青龍玉』『鳳凰鉞』『錦吾刀』『天魔鏡』『弁禹扇』が、神台のうえで威圧を放っていた。それは一見しただけではただの物でしかない筈なのに、つい心に働きかける強烈な存在感を感じずにはいられない。
どれか一つだけならばそうでもないのだが、五つそろってこれだけ厳かだ。空気すらも、震えているような沈んでいるような気さえしてくる。もし、あと二つの失われた神器が発見されれば、きっとこのようなものでは効かないほどに神々しいのだろう。
素足の九峪が神器に近づく。神器との距離を十歩のところで足を止め、尻を床につけた。無言で高みの神器を見やる。
すると天魔鏡の鏡面がかすかに光り——ぬるりと、精霊のキョウが姿を現した。
「やあ」
「よう」
片手を挙げたキョウに、九峪も笑顔でこたえた。まるで昔と変わらない態度だ。
ふわふわと空中を漂いながらキョウは後ろを振り返った。青龍玉が青白く膨らむような光を放つと、他の神器も輝きだした。
光彩が徐々に濃くなり、虹色ともつかない不思議な色合いの筋が煙のように昇り、それが雲を作っていく。
段々と雲に透明感が出てくると、こんどは輪郭が定まっていった。
「まだ顕現はできないんだな」
神秘的な現象を前に九峪が感嘆した。いまはまだ実体を持たない彼ら——キョウと同じ神器の精霊たちも、すくなくとも視覚的にはほぼ完全な姿をまとめている。
青龍玉と鳳凰鉞は異型の、錦吾刀と弁禹扇はヒト型の男女の姿をしていた。
「でも、もうすぐ皆も覚醒するよ。火魅子の力が日を追うごとに強くなっていっている。地下にある『時の御柱』と繋がる龍脈のおかげもあって、オイラたちもすこぶる元気さ」
よほど嬉しいのかキョウの身体がくるくると周る。
神器たちの精霊が現れ始めたのは、つい三、四年前くらいのことだ。九峪は偶然の目撃者だったのだ。
青龍玉には他の神器の力を増幅させる能力がある。キョウはいまだ眠りにある青龍玉の能力を自力で操り、神器たちを深い眠りのそこから呼び覚まそうとしていた。そうして三年がすぎ、存在の欠片がようやく実を結び始めたところ、九峪が最初の目撃者となった。
はじめは陽炎のように視認すらも難しかった精霊たちも、キョウの努力のおかげで形だけは取り戻した。あとは眠りから覚め、自らを認識した瞬間に実体を纏えるのだという。
この秘密を知るものは、九峪、火魅子、亜衣、伊雅の四人だけ。知事すら知らない。のこり二つの神器の在り処が判然としないのに、余計な事を外部に知られたくないからだ。
九峪がここを訪れるとき、かならずキョウは神器の精霊たちの姿も一緒に現せた。挨拶のつもり、ではなく、単純に青龍玉の能力に引っ張られてみんな出てきてしまうだけだった。
眠っている以上、意識はない。みな身体を完全に脱力させ、瞳を瞑っている。浮いているだけの姿勢は、起きているとき異常に神秘的で、魅惑的だ。とくに女性体である弁禹扇——キョウは『セン』と呼んでいた——など、衣服のはだけ具合が星華に負けず劣らずなものだから、九峪のような好色の気がある男には目の毒だ。
錦吾刀の『トウ』、鳳凰鉞の『エツ』、青龍玉の『ギョク』、弁禹扇の『セン』、天魔鏡の『キョウ』。
なぜ昔の偉い人たちは、もっとましな名前をつけてやらなかったのだろうか。最後の一字をそのまま名前にするあたり、センスの欠片も感じられないと九峪は呆れるばかりだ。
ほか二つの神器、その名前は九峪も知らないが、きっと似たり寄ったりなのだろう。ただ名前にはキョウも文句は言っていない。五百年も生きればその気すら起きないものなのかもしれなかった。
眠れる精霊に囲まれながら、キョウと九峪はそれぞれに会話の花を咲かせた。とはいっても、九峪とキョウ間で交わされる話題が世間話しであるわけがない。
「今日はどんな報告があるんだい?」
九峪が神物天殿堂を訪れるのは、キョウに用事があるときだけだ。
「いや、そろそろ神器探しを再開しようと思ってさ」
「ほんとうに?」
再開ときいたキョウの顔に喜色が浮かんだ。神器探しはキョウにとって復興以来の悲願でもあった。
天魔鏡、青龍玉、鳳凰鉞を手にしての復興と建国を成し遂げてから、元星二年になって、帖左によって滅ぼされたはずの名族、貴千穂家の旧臣が後生大事に守り続けていた弁禹扇が火魅子の元へと返納された。
これがキョウの心に火をつけ、『神器探し』が始まったのだ。
だがどこをどう探しても神器など出てはこず、すでに狗根国によって破壊されているのでは——と思った矢先、九峪、亜衣が立て続けに失脚して神器探しは中断、キョウも蔚海執政に絶望していた。
ところが蔚海が倒れて事態は急変した。運命の悪戯としか思えないことだが、なぜか清瑞が神器の錦吾刀をもっていたのだ。まさか「気味が悪い」といって嫌っていた刀が神器だったと知るや、清瑞は恐れおののいて九峪に縋ってきた。びびったのは九峪も同様だった。
なぜ錦吾刀が桜島城の土台の根元に埋められていたのか——真相は闇の中だが、じつはこれを隠したのはかつての王族の生き残りで、追っ手に奪われるのを良しとしない余り、地中に埋めて隠してしまったのだ。
いつか天命が神器を必要とするはず——そう願いをかけ一人逃げるも、あえなく殺害され、以来その在り処は不明とされた。
清瑞がこれを発見し、命拾いしたのは、隠した王族の願いが天に通じたためかどうかは——誰にもわからない。
しかしこれが結果として、九峪に神器探しの再開を決断させた。
それを亜衣と計り、キョウに伝えに来たのだ。
残りの神器の発見は急務でこそない、しかし急ぐ必要はあった。神器がもつ求心性があれば内部分裂もおきにくくなる。
それに——九峪にも様々な心配事に頭を悩ませることが多くある。
蔚海の登場で乱れた情勢不安は拭った。誰もがそう思っている。臣民でさえそう思うからこそ結束も強まったが、九峪は安心できていなかった。もっと、もっと、出来る限りの手段を講じて九洲を一枚岩、否、巨大な星にさえしたいと思っていた。
そう聞いて、反対する理由などキョウにはどこにもない。ここまで考えてくれている九峪に感謝こそしたいほどだ。
「お願いだよ、九峪。あとの二つ・・・・・・『リョウ』と『カン』も、見つけておくれよ」
「ああ、もちろんだ」
と、九峪は頼もしげに頷いた。
——しかしこの数日後。
神器探しのお触れを降した直後に、ある事件がおきた。
九峪追放後、それまで音も沙汰もよこさなかった天目が、にわかに使者をよこして来たのだ。