七月十二日に九洲全土へと神器捜索の要請が発注されたのを期に、静まりかけていた軍団の足音がまた喧しさを響きださせた。
錦吾刀の帰還が大きな励みとなったことは誰にも共通していたことで、また神器を見つけ出せば名声が上がるものだから、血眼の捜索が展開された。
神器の所在をまず大本から知るために旧耶麻台国に仕えていた老人たちを召して話を聞くのは基本のことで、耶牟原城へ下向し書物を漁る、各地の寺社跡を徹底調査するにまでいたり、九州はいっとき『お宝探し』のごとき熱気に煽られ、一攫千金を夢見た民たちまでが探し出す大事にまで発展していた。
なかでも、藤那、香蘭、伊万里などの王侯知事は並々ならぬ情熱を燃やしていた。伊万里などは北軍に組していた経緯を持つだけに、信頼の失地回復を望みたいところだ。藤那も上昇志向が強いだけに精力的になり、香蘭——というより紅玉も、より香蘭の立場を強めるために積極的かつ効率のよい調査を手がけている。
さいわい神器は発見されるのだが、それはまだ数年先の話である。
それらとは別にこの時期、ある事件が起きている。事件という認識を持っているのは国家の上層部だけだが、とにかくも事件と呼んでいいだろう。
九峪が阿蘇山へ追いやられてからすでに四年。その間に何一つの接触をせずにひたすら但馬攻略を目論んでいた天目の大出面国から使者が遣わされてきた。
それも・・・・・・いまや大出面国の重臣にして但馬攻略総司令官の任にある虎桃、その人であった。
天目の元で案埜津と肩を並べる大人物が、但馬攻略戦の最中に戦場を離れ、西へ遠く九洲にまでやってきたのだ。
これで驚かなくて、いったいいつ驚けばいいのか。
虎桃の使節団が那の津へはいった事を知らせる早馬が到着してから、亜衣と伊雅は大至急耶牟原城に詰めている評定衆を招集し、話し合った。その席にはもちろん、九峪の姿もあった。
「虎桃殿は那の津にて一泊し、翌日明朝に発するものと思われます」
下士官の報告からすると、虎桃は明日から明後日にかけて耶牟原城入りするつもりらしい。
使節である以上は当然それ相応の態度で出迎える必要がある。それはいい。情報をくれてやる必要はないが別段みられて困るものも今のところはない。
それよりも問題なのは、天目の真意である。
「触らぬ何とやらを決め込んでいたかと思えば・・・・・・」
末座の重臣から懐疑的な声が上がった。時期が時期なだけにきな臭い何かを嗅ぎ取っているようだった。
——九洲の状況を知らない天目だろうか?
彼女の貪欲なまでの領土欲とそれを裏付ける領土拡張事業を考えて、混乱続きだった九洲に不干渉だったことも不気味だったのに、それが一転して接触してきたことがどうしても不可解だ。
しかし——亜衣には、天目が何を考えているのかが、何となくだがわかる気がしていた。
——私たちは『舐められて』いるんだ。
と、漠然と感じていた。以前から薄々そう思っていた。九峪が姿を消して数年の間に天目が見向きもしなかったのは、『九峪不在の九洲など恐るるに足りず』という傲岸不遜な態度の表れそのものだったのではないか。
そして今回、おそらく天目の耳に乱のあらましが入り、九峪が復活した事を知った——。
九峪と聞いて振り向かざるを得なかった天目。しかも但馬方面軍総司令官の虎桃を呼んでまで、九峪復活の真相を明かしに来た天目。
舐められていたことは腹立たしいが、あの天目にとってそれだけ九峪という男が大きな『障害』であることが証明されたようなものだ。
亜衣は自然と九峪の横顔を盗み見た。はたして自分と同じように考えているのだろうか——。
もしかしたらそれ以上の裏に気づいているのかもしれない。
いま、九峪がこの場にいるという事の大きさに、亜衣は頼もしさを感じていた。
那の津に降立った虎桃の目に映る景色は、十年前に比べてもだいぶ様変わりしたものだった。虎桃に限らずこの時代の人々の知る貿易港といえば、ただ船が接舷しやすいよう海底をほり、石組みの台場などを築く程度で、家屋は比較的かずも多くなるが、雑然とした並びになっているものだった。
しかし那の津は違った。湊そのものの形状は大差ないが、建物の様子ががらりと変わっていた。
まず、大型の倉庫が目立っている。それこそ大陸の大型船が丸々一隻はいってしまいそうなほどの高さ・幅・奥行きを確保している。装飾の類はほとんど施されていないのに、むしろ質素なだけ重厚感が並の建物を凌駕している。
だが恐ろしいのは、まったく同じ建物が、横列に並んでいることだった。確認できるだけでも五棟はあるだろう。
虎桃は開いた口が塞がらなかった。
九洲への使節は右真の担当であるため、虎桃と供に尋ねてきた右真には見慣れたものであった。虎桃も右真から聞かされたことはあったが、いざこうして目の当たりにすると、耶麻台共和国という国の『科学技術』がいかに新鋭的であるかを如実に思い知らされてしまう。
「ふあ〜・・・・・・ほんっとに、大きいじゃん」
目を丸くさせる虎桃。兵士の前で動揺を死んででも押さえつけなくてはならないほどの地位にありながら、こればっかりはどうしようもなかった。
——こりゃあ、天目様もうかつに手が出せないわけだ。
舘といわれても違和感なく受け入れられる大型建造物。虎桃にはそれが幾つも並んでいる光景を馬鹿馬鹿しくさえ感じていた。侮っているのではない。感心しすぎて感情が追いついてこないのだ。
「十年は短くもないけど、それでも・・・・・・。まさかこれが那の津だけってことは、ないんでしょ?」
「はい。南火向——じゃなくって、薩摩の錦江港沿いに新たに建設された『加奈港』も同規模で、坊津も整備されて、那の津と似たり寄ったりだということですけど」
右真は自身の持つ九洲の見聞を語った。右真の情報はすべて四年前までのものだが、それでも虎桃よりは事情に詳しい。
天目、彩花紫の二人も技術全般を重視しているが、これを見ては子供だましにさえ思えてしまう。財力はこのさい問題にはならない。資金ならば天目には石箕銀山、彩花紫には甲州金山がある。
これからの時代、必然として求められるもの、それが技術なのだ。
その一点ほしさに天目は西側諸国との交易を行っている。
「摂通から飛ばされてきて乗り気じゃなかったけど、これは見聞が広げられるわ」
素直な感想をこぼし、頭をかいた。使者などという役目をさっさと終わらせて摂通へ帰るつもりだったが、これだけ素晴らしいものを見せられると、もう少し見聞を広めたいという欲求が大きくなってきた。
翌日には那の津を発するはずだった日程を変更し、一日かけて那の津を見て回った虎桃の様子は、さながら両国経営の勉学に励む勤勉な領主そのままで、普段のふざけた態度はどこにもなかった。
——じつは、虎桃のこんな真面目な姿を始めてみた右真だった。驚いたのはもちろん、見直したのも、いうまでもないことだ。
一日を那の津の見学に費やした虎桃一行は、翌日になって耶牟原城へと向かって移動を開始した。水先案内は写楽の家臣が勤めた。
那の津の様変わりぶりには心底驚いたが、農家などはさほどの変化が見受けられない。ここでは多少の肩透かしを喰らった感があったものの、しかし細かな部分の違いに目がいく。
道路の整備状態がきわめて宜しく、まさに整然としている。砂利の類はほとんどなく、土がしっかりと占められていて、馬車の通行にも適していることが容易にわかる。
これは虎桃の持論だが、名将・名君と呼ばれる人物は得てして路に重点を置くと考えている。すなわち道路の開発であり、整備であり、拡張である。また、水路の開発、整備、拡張も然りである。
人も物も何もかもが必ず通る場所、それが路に他ならない。路の便利に頼ることは国家の発展に繋がるはずだと虎桃は信じ、領地では率先してインフラの整備に重点している。
交通の重きを考える身としては、感心せざるを得ないほどの道路だった。整地技術一つとってみても九洲の業は巧みなものだ。
菱刈の鉱山から採掘される莫大な金銀、各地で栽培されている茶葉や青芋などの品物、そして武具一式もそうだが、これだけの道路を有したからこそ、耶麻台共和国は十年の月日の間に見違えるほどの発展を遂げられた。
——もしも、再びこの九洲で戦う日が来たなら。
それを考えると、さしもの虎桃ですら苦笑いしかねないものがあった。整備された道路を利用すれば侵攻も進めやすい——ということは決してない。むしろ不利なことこの上ない。なぜなら敵国内の将士たちは枝分かれした道を熟知し、あらゆる方面から物資と人員を援軍させることができるからだ。
制圧など簡単に口に出来るものではない。
だが、虎桃の驚愕はまだ続いた。
枇杷島陥落、耶牟原城開放によって失われていた往時の姿を取り戻した九洲の王都の大正門を潜り抜けると、あたりはまるで異世界のようだった。
「えっ」
信じられない光景だった。まるで大陸へと渡ってきたのではないか、とさえ思えたほどに、耶牟原城の町並みは異質でしかなかった。
「右真・・・・・・。耶牟原城って、こんな感じなの?」
「はぁ、大体は」
そこには虎桃の知らない『技術』の集大成とも言うべき景観の広がりがあった。
倭国とも大陸王朝ともとれない独特の建築様式に、乳白色に輝く道路の眩さが異国情緒を溢れさせている。
耶牟原城の大通りは、すべてアスファルトの補そうを施され、それが向かう途中の広場までまっすぐ続いている。道幅は思いのほか広く、赤レンガの縁石が道路と歩道域の境界を遮って、乳白色と赤土色の豊かなコントラストが人工的な景観美を創造していた。
どう考えても、倭国の雰囲気からこのような街の姿は生まれない。十人中が十人、この街を整備した意図の裏に九峪が絡んでいると気づけるだろう。
虎桃は改めて、九峪という男が今後も天目にとって大きな障害になりえるかもしれないと、思い知らされた。
華美な装飾に彩られた征西都督府の外観に慣れ親しんでいた虎桃には、どうしても耶牟原城にまでその面影を求めてしまう。
しかし記憶と現実の齟齬はだんだん大きくなるばかりだ。
建物といえば高床式が主流のこの時代、それは九洲でも変わらない。おかしいのは——四隅を柱で持ち上げる方式ではなく、土台そのものを石組みで作っているところだ。
それは城普請の技術を縮尺したようなもので、けっして倉庫一つのために使われるものではない。しっかり鼠侵入を防止するための張り出し板もそなえて万全だ。
石組み技術は高度な計算を必要とするため、とにかく職人が少ない。そういった職人はかならず城普請などを専門とする名大工の地位に着く。だが九洲では、倉庫を造るのにまで石組み職人が関与しているのだ。
そして耶牟原宮殿の敷地内にある倉庫はすべて、土台が石組みである。
おのぼりさん状態の虎桃たちが見た宮殿もすごかった。こちらはむしろ時代への挑戦にさえ思われた。玄関に相当する入り口がそもそも階段状ではないのだ。地続きの玄関はどうしても鼠が侵入し放題だろうに——。
「なに考えてんだか・・・・・・」
虎桃も呆れるばかりだ。だが驚いたのは内部に入ってから。外観に似合わず内部は広間になっていて、奥には階段がある。きっとあそこから三重の大櫓へ続くのだろうが、それにしても櫓の周りを建物でしっかり覆うという発想も、虎桃には斬新極まりなかった。
大きな広間かと思われた場所、そこが謁見の間である。
虎桃以下使節団の総勢は十一人。虎桃を先頭に肩膝をつき、親愛の礼をとった。
すでに謁見の間には諸将がつめていた。あとは、伊雅と亜衣、そして九峪と火魅子の登場をまつばかりだ。
復興戦争以来、こうして虎桃が使者と立つのはこれで二度目のことになる。それも、前回は川辺城攻防戦となるから、かれこ十年の月日が経とうか。当時と違い、いまの虎桃は国家の命をうけた特使、そういった意味では緊張の場面である。
さすがに十年も経つと人材も増えている。虎桃の記憶にない顔ぶれが多い。
ほどなくして残りの四人が到着し、虎桃たち使節団は顔を伏せた。
——本当に神の遣いが戻ってきたのか、貴様のその眼で確かめて来い。
とは天目が虎桃を送り出す際に仰せ付けた言葉である。なぜ案埜津ではいけないのかと思わなくもないが、おそらく自分が案埜津以上に九峪を一目おいているからだろうと思った。
そしていま、虎桃は確かに、忘れるはずもない九峪の顔を拝み間違いないと確信した。
似た人物というわけではない。間違いなく九峪だ。
「面を上げなさい」
亜衣の言葉に虎桃は顔を上げた。真正面から九峪をみつめる。
「遠路はるばるご苦労」
「いえ、滅相もございません」
と、そう応えた虎桃の態度に驚いたのは、あろうことか彼女に従ってきた使節たちだ。
——こ、虎桃様が『普通に』返事した!?
どんな場面であっても、いつもの砕けた口調を改めないあの虎桃が——!
それだけ虎桃も、この面会に慎重だということだ。
「それで——此度はいかが御用向きか」
探るような視線が虎桃の喉をぐっと鳴らした。亜衣のこの、切れ長の目で睨まれると——なんとなく、天目に睨まれている気がしてくる。
しかし怯むことなく、虎桃は一礼して、
「はい。過日に火魅子様へ反旗を翻した逆臣を討滅せしめたことに、我が王(天目)は大層よろこび、是非とも戦勝をお祝いせねばならぬと私めに仰せ付けました。ですので此度、わが国よりお祝いの品といたしまして、銀子三十枚、銅判十五枚、鉄剣二十振を御献上いたしにまいりました」
「なんと」
「また、神の御遣い様のご活躍もかねがね聞こえ、御機嫌をお伺いせよと」
「おれの?」
「御意」
「ふうん・・・・・・」
なにか考えるように鼻で返事する。そういった所作の一つが、虎桃の心臓を冷たくさせる。
後ろに控える者たちが、貢物をもって御前に進み出、恭しく献上品を差し出した。虎桃の言葉どおり、銀子三十枚、銅判十五枚、鉄剣二十振。
かなりの貢物といえる。とくに銀子三十枚といえば、その価値を鉄剣に換算して六百から七百振は購入できるほどのもの、金子七、八枚にも匹敵する。
しかしそれですら、天目の懐に響くことはないのだろう。
石箕銀山の底知れぬ脅威を、三十枚の銀子が語っている。
だが、人々の視線が貢物にあつまっているのに、九峪や亜衣、火魅子などのものたちはまったく見向きもしてくれない。虎桃の背に冷や汗が伝う。
——ぜったい、怪しんでるって〜!
虎桃には何もかもが見透かされている気がして、いますぐ顔を伏せたい衝動が胎の奥底に濁っていった。物で人目をつけようとする下心さえ見透かされているようだ。
「・・・・・・これほどの品、痛み入ると天目様にお伝えくだされ」
にこりともせず、亜衣がいった。
嫌味に聞こえてしまうのは虎桃に後ろめたいものがあるからだ。
「さて、ところで虎桃殿がたはいつまでこちらに滞在なされるのか」
「はっ・・・・・・」
虎桃は応えようとして、言葉が喉までで止まってしまった。一応は明日か明後日には帰国の途につく予定ではあった。
しかし虎桃には、いずれ九洲耶麻台国とふたたび干戈を交える日が来るような気がしていた。八年の開きがある記憶と見聞を今回の訪問を期に確かめておきたいと考えてもいた。
そうなると帰国は三日から四日は遅延する。
だがここは早々に帰ったほうが身の上でも外交上でも得策だと判断し、「明後日には」と返答していた。
「そうですか。では、今宵は宴を開きましょう。摂通より遥々お越しいただいた上に何の持成しもせぬまま帰してしまうは、あまりに不調法」
そうしたり顔でいい、火魅子と九峪、伊雅に確認をとる。伊雅は応えなかったが代わりに九峪と火魅子は賛成してくれた。
宴と聞いた右真たちは内心で喝采を上げたが、しまったと顔を曇らせた虎桃には、今宵の主演で様々な質問攻めが待っていると警戒する気持ちが大きくなった。
それに、虎桃には亜衣の『皮肉』も聞こえていた。
九峪の尊顔を仰ぎ見た次こそ、虎桃の戦いは始まったようなものだった。
明後日になり虎桃たち使節団は中國へ引き上げていった。
騒がしかった二日間がすぎれば、また表面上の暮らしは元に戻っていく。
だが、九峪は亜衣と伊雅を交えて、さきほど虎桃の訪問にかんして話し合う必要があった。
中堅武将たちはころりと騙されていた。しかし、九峪たちの目は誤魔化せなかった。
「味な真似をしてくれる」
と、九峪はすなおに感心した。虎桃の外交能力の高さを窺い知れる面会だった。
「銀子三十枚、銅判十五枚、鉄剣なんか二十本もよこして、よくも眉一つ動かさないものですね」
「それが虎桃の持ち味だな。案外、外交なんかは案埜津よりも得意なのかもしれない」
「しかし天目はヘタをしました」
あからさますぎると亜衣は批判した。らしくないほどこの外交は失敗だと亜衣は考えていた。
「よもや虎桃を摂通から引き離してまで、この外交を成し遂げる意味があったのでしょうか? 言ってはなんですが、今回の面会にさほどの重要性はないと思っていますよ、私なんかは。それがわからない天目ではないはずです」
「ふん、耄碌したということよ、亜衣」
面白くなさそうな声だが、亜衣は首を横に振った。そうは思われなかった。伊雅ほど単純に考えられない、何かがまだ隠されている気がしてならなかった。
とはいえ、伊雅だって本当にそこまで単純に考えているわけもないはずだ。彼にも天目の考えの一端は読めているはずだ。
だからこそ腸の煮えくり返る思いなのだ。
——舐められていた。
虎桃の来訪はまず、そのことを証明していた。
おおかた、彩花紫を潰した後に、九洲の併呑に乗り込むつもりだったのだ。いままでの天目は九洲と同盟を結んで後顧の憂いを断ち、全身全霊をかけて摂通攻略と泗国計略に邁進している。
その、天下統一事業における中枢戦略の泗国征伐を進める最中に、九峪が復活したことで、すわ計画の頓挫もありうる状況が、まさに今だった。
内乱が起きようが何しようが——九峪のいない九洲の脅威を、天目はまったく考えていない。
それが腹立たしい。
「きっと、心のどこかで、ただの噂で終わってほしいと思っていたのかもしれませんね」
「ところがどっこい、俺は生きてたってわけだ」
「それにしては、結構な慌てぶりですね、天目も」
「泗国計略の真っ最中だからな。昔の狗根国みたいになるのが怖いんだろうよ」
「ああ、彩花紫のときの・・・・・・」
「まさかの『中國大返し』だな。あれのおかげで天下の情勢も随分と変わらざるを得なかった。狗根国は彩花紫が王位について国内をまとめたとき、すでに中國をすっかり天目に奪われて、泗国からも手を引かざるを得なかったんだから」
「歴史の転換点、ですな」
顎鬚をなぞる伊雅はどこか感慨深げに唸った。
「そして天目にとっては、いまがそのときに似た状況だ。これで九洲を放って置けなくなった。だから慌てて虎桃を遣わしてまで様子を探りにきた」
「それでは、それだけ天目めは我らを恐れているということですな!」
「まぁ、そうとも取れるかな・・・・・・」
陽気に天目をこけ下ろす伊雅に、九峪は苦笑した。いまいち外交感覚の乏しい伊雅だが、案外確信を突いた言葉だった。
だが、本当にそうだろうか・・・・・・。
亜衣には半信半疑だ。
「それにしても、今回の面会はお粗末なものです」
「そこにも天目なりの真意があるはずだ。考えても見ろよ、いくら何でも、下手に出すぎだとは思わなかったか?」
「それは・・・・・・ええ、たしかに」
貢物をよこすなどいかにも天目らしくない。そこは亜衣も気にしていた。どうにも心持がよくない気がしていた。
それは亜衣よりも、むしろ九峪のほうが強かったのだろう。
「蔚海の反乱を鎮圧したお祝い、そう虎桃はいっていた。俺はたぶん、あの貢物はただの贈り物じゃないと思っている」
「——と、いいますと?」
「これは俺の、ただの勘繰りかもしれないが。——あれはきっと、天目からの下賜品だと思う」
「な、んですと?」
伊雅が驚きに腰を上げかけた。
「つまりそれは——我らに『褒美を取らせた』ということですか?」
わななく唇から亜衣は「信じられない」という思いをもらした。
当たり前だろう。『褒美』など、明らかに目上の者が取る態度に他ならず、この場合は、『逆臣蔚海を討伐した功に報い、褒美を取らせた』ということになる。
それではまるで——天下人そのものではないか!
言葉でこそ取り繕っても、巧みに隠蔽された強固で高慢な意思——挑戦状を叩きつけて来たのだ。
泗国の次は貴様らだ——と、天目の気持ちが、銀子三十枚、銅判十五枚、鉄剣二十振の『下賜品』に込められていたのだ。
天目は試したのだろう。本当に九峪ならば、この真意に気づけるはずだ、と。
そして、九峪は気づいた。
「天目——やっぱ、お前が立ちはだかるか」
遠くにいる宿敵からの挑戦状。そこにはまた、亜衣や伊雅が気づいていない、徹底した合理主義者らしい天目の計算も含まれていることにも、九峪は気づいていた。
——内乱で疲弊した九洲に、天下へ漕ぎ出す力など残されてはいまい。
高らかに、静かな微笑を浮かべた天目の美麗な顔が、このとき九峪にはありありと映し見えていた。
天目の侮りは、侮りに非ず。政局を読み、戦力を読み、国力を読み、天下の情勢を検討しつくした上で、
——九洲は怖くない
と判断を下したのだ。そして天目がそう思っている以上、おそらくは彩花紫も同意見の見解を持っていると思われた。いくら技術的な面で抜きん出ていても、それが大きな影響を及ぼすほどの要素にはまだ成長していない。
根拠ある優位の自信。これを跳ね返せるほどの力が、たしかに今の九洲にはない。
馬鹿にされていると悔しい思いはあるが、ただ抗えるかと問われれば応えは否。力を失いすぎた。
まず民が疲れている。国力の回復には一年、二年は必要になるはずだ。
それだけあれば、泗国が天目と彩花紫、どちらの手に落ちても不思議ではない。
——だがしかし、そこで終わるような男であれば、九峪とて三傑と呼ばれたりはしない。相手が攻めてこないと思っているとき、それこそが攻め入る絶好の機会に他ならない。
いまこそ、九峪も天下に蠢動する時なのだ。
「亜衣、酒宴で虎桃が言っていたこと、覚えているか?」
九峪の質問に、亜衣は確かに頷いた。
虎桃が酒の席で亜衣に話してしまったのは、
「九洲のどこかに、狗根国の工作員が紛れ込んでいる」
という重大情報だった。その工作員があれこれと噂を流し、天目への援護を阻み、ついには政変まで引き起こしたのだという。
亜衣も以前からその可能性は考えていたが、これによって亜衣は確信を得た。いわゆる『亜衣と九峪の逢瀬』の噂は人為的なものであったのだ。
そして九峪がそのことを清瑞に調べさせている。
天目は、同盟国の九洲に狗根国が手を出している事を察知していながら放置していた。理由は先に触れたとおりのものだ。天目にとっての同盟とは、同盟者としてともに戦うのではなく、ただ背後から襲われない様にしているだけのことでしかない。
結局のところ九洲は、いまだ天目と彩花紫の干渉を過度に受けている状態だといえるのだ。天目は対狗根国戦略において後顧の憂いを断つために、狗根国は天目の背後をかき乱すために九洲に手出ししてきた。
どちらも、見えているのは互いだけ。九洲などもはや蚊帳の外だ。
「いつまでたっても、天目と狗根国に振り回される」
だんだんと、九峪の語気が荒くなっていった。考えれば考えるほど九洲の地位の低さを感じさせられた。
いったいいつまで、今のように周辺の気勢を気にしながら日々を過ごさなくてはならないのか——。
現状からの脱却。その思いが、九峪の内に灯り、瞬く間に大きく燃え盛っていった。
——天目からも、彩花紫からも、誰からの意図も受けない強い国を。
天下平定への強い望みが、九峪の中で生れ落ちた。
時に九峪、二十八歳——。