いまだ天目と彩花紫が、摂通の陣でにらみ合い、泗国ではそこの土着勢力——泗国連合軍——と激しい闘争を日々繰り返す中で、九洲の九峪は、おそらく彼が掲げるなかで最大の戦略方針を、耶牟原城の大会議で打ち出した。
それこそが累生の大戦略、天下統一事業への第一歩だった。山陰・山陽の天目、東海・北陸・近畿を手中とする彩花紫に、西海の九峪が敢然と牙を剥くと言うのだ。
まさしく『天下三分の計』・・・・・・そういった趣があり、将士が俄然として盛り上がるのもまた、無理なきことであった。
ましてや彼らには、「九峪様ならば——!」と期待する言葉もある。もちろん、疲弊した国力で可能かと疑問を唱えるものもいる。しかし九峪は、まずそこで基本の方針、すなわち泗国計略の概要の説明から取り掛かった。
九峪の考えとしては、泗国計略を仮想『天下取り』と位置づけている。泗国をとれば戦略が格段に広がる要地だけに、まずこの泗国から『三分』してしまうことにした。
というのも——
「天目は安岐から斎灘の諸島を経て、伊依へ攻め入る。彩花紫は沫路、紀衣から阿分へ進んでいるはずだ。讃其は手付かずだけど、それを取る為の摂通攻防戦。——つまり残るは斗佐」
「では、九峪様」
泗国にもっとも近い豊後を治めている伊万里が九峪を問いただす。
「私たちは、斗佐を攻めるのですか?」
「そうだけど、少し違う。伊依は天目に、阿分は彩花紫にくれてやってもいい。俺たちは讃其が手付かずである今のうちに、斗佐と同盟を結ぶ」
「同盟?」
「攻め入るのでは?」
各将士が声を上げる中で、九峪が気にしているのはやはり国力の疲弊だった。
それを鑑みた結果が、同盟なのだ。
「泗国を攻めれば、天目が黙っちゃいないはずだ。どっちにしろ天目との同盟は破棄するしかないんだから、わざわざ敵を増やす必要もないさ」
「たしかにそうでしょうが・・・・・・」
「それに斗佐と同盟を結べば、もれなく讃其がついてくる。これは戦略上大きいし、天目や彩花紫を出し抜ける」
と、九峪が考えるのにはそれなりの理由があった。
讃其には、白雉(しらち)という土地がある。いわゆる戦国時代に白地城のある場所である。ここは泗国の全土に伸びる街道の合わさる交差路で、言い換えればこの白雉からならば、斗佐・伊依・阿分・讃其すべての国へ出ることが可能となる。
このような場所を、兵法に『衢地』という。戦略上、もっとも重要な地点である。それゆえ天目も彩花紫も、白雉のある讃其がほしい、讃其欲しさに摂通を取り合っているのだ。まさしく垂涎の地というわけなのだ。
讃其と斗佐は泗国連合の盟友である。斗佐と同盟を結べば、九峪たちは無条件で讃其へ、白雉へ兵を進ませることが出来る。
白雉をとってしまえばもうこちらの物とばかりに、泗国連合と力をあわせて天目と彩花紫を追い出すことに成功すれば、九洲は泗国相手に上位に立つことが出来る。
——が、手を合わせるという行為そのものを『鵜呑み』にしては、天下などは手に入らない。味方であるということは、そうとは知られず身中に埋伏し、内側から喰らうための方便でもある。ともに戦いながら、内部では泗国を九洲の色に染め上げていく必要があるのだ。
それはひいては、泗国を切り崩すことと同意となり、九洲耶麻台共和国の臣下に組み込むこととも同意となるのだ。
そうして泗国を手懐ければ、今度は白雉のときと同じく、泗国を天下統一の『衢地』として機能させられる。大出面国、そして狗根国へと、どちらへも増派が可能となるのだ。
九峪の戦略では、まず最初に狗根国を倒し、最終的には、西海道、南海道、近畿、中山道、北陸道から山陰、山陽を包囲していき、一気に雌雄を決することになるだろう。
泗国切り取りの重要性を説き終わったとき、すでに皆の脳裏にも、天下統一の青写真が浮かび上がっていた。
けっして不可能なんかじゃない——! 天下は取れるんだ!
魔法にかかったような面持ちで、将士は泗国計略への意欲を示した。
乱を終えて間もなく、九洲はふたたび戦乱へと向かおうとしていた。
田の青さがますます濃くなる。
九峪が泗国計略の大方針を示してからしばしの八月、火後県でとんでもない事件が起きた。当初、だれもがわが耳を疑った。
——藤那が、懐妊した。
との噂がまたたくまに他県へも広がり、耶牟原城で聞き知った九峪は驚きの余り、足を滑らせて池に落っこち水しぶきを上げた。
懐妊ということは妊娠ということ。つまりは——
「ふ、藤那の腹の中に、あ、あ、あ・・・・・・赤ん坊がッ!?」
「は、はい。左様との事で」
「——『アノ』藤那にッ!?」
「はぁ・・・・・・」
九峪に噂を持ってきたのは、城に詰めている庭師だった。どうにも騒がしい城内の様子を不審におもった九峪が、池の近くで草刈をしていた庭師を呼びとめ、ごくさりげなく問いただしたのだが、
——「どうも、火後の藤那様の胎にやや様が出来たとかで、大騒ぎになっているようです」
そして九峪は池に落ちた。
その後しらべてみると、どうやら間違いないようだ。すでに四ヶ月であるらしい。
天都城攻防戦のおりにはすでに妊娠していたことになる。まだ腹も出ていなかったから藤那本人が気づかなかったということだが、仮にも妊婦が駒木馬を駆って戦場をかけていたと知った九峪の顔からは血の気が引いていった。
泗国どころではなかった。九洲全土が阿鼻叫喚であった。それもただの妊娠話ではない。『アノ藤那』といえば、黙っていても言葉が出てきてしまう具合だった。
大急ぎで馬を用意し、兵士を十人ばかし連れて火後へと飛ぶように駆けた。地位とか振る舞いとか、そんな事を考えている場合でもなかった。この目で、耳で、確かめねばならなかった。
九峪が火後へ下向してくるとなるや、騒然と領内が沸きあがるのも、残念ながらこの時の九峪には考えている余裕はなかった。
九峪を出迎えに来たのは孔菜代だった。
「ひとまず、大牟田城へ」
と九峪を近場の大きな城へと招き、そこでもてなす傍ら事情を説明しようとした。
「お騒がせしてすみません」
ほんとうに申し訳なさそうな態度で頭を下げられても、別段それにたいする憤慨は九峪にはない。ただ、突然のことに驚いたのと、いくつかの心配事があったから、一も二もなく尋ねてきただけのことだった。
もてなしは急なことといえ、よく準備されたものだった。酒も肴もとても美味なものだった。
ここにきてようやく九峪の頭も落ち着きを取り戻し、孔菜代と杯を傾けあう。酒道楽が過ぎるほどに好きな藤那の気風がわかる通りに、酒もまた一級品が用意されている。
「それで——」
酒もほどほどはいったころ、九峪は身を乗り出した。
「相手は?」
一番の関心は、あの藤那に子供を孕ませるような相手が、はたしてどこのどいつなのかということだ。
藤那の気位の高さは有名で、美貌ももっているからまさしく高嶺の花。いっときは『火後の乱』で立場を急落させるも、今では王侯知事のなかで再び第一位の地位と品格を取り戻した大人物である。
藤那が相手として認めるのだから、当然、身分と地位の高いものなのだろう。有力な考えでは、火後の土豪などだと思われる。
しかし、孔菜代はじつに気まずそうな表情で、ぽつぽつと九峪の質問に答えていく。
「その・・・・・・閑谷が」
「——はい?」
「やや様の、父親は、その・・・・・・閑谷で」
「——閑谷?」
「は、はい」
「・・・・・・え? なに、冗談?」
そうとしか思えなかった。
しかし孔菜代はがっくりと肩を落として、首を横に振るばかりだ。
次第、九峪も現実を飲み込め初めて——
「なんだってッ!?」
爆発した。
孔菜代の言は、いましばし続く。
いつ頃かは孔菜代にも明確にいえないが、藤那と閑谷はいわゆる『男女』の関係になっていた。男が妾をとるように、閑谷が藤那の伽の相手をしていたという。
閑谷が藤那に惚れているのは領民でも知っていた。むろん九峪も気づいていたし、とうの藤那も閑谷へある程度の好意(そこに恋愛感情があったかは不明だが)を寄せている風ではあった。
しかしまさか、昔から二人を知っている孔菜代や、復興軍時代からの付き合いである九峪にさえ、二人がそこまでの関係になろうとは思ってもいなかった。
そこに九峪は驚いた。
藤那の妊娠が発覚してから、閑谷の狼狽は甚だしかった。また家臣たちの動揺も激しかったが——ここでも藤那は、つとめて冷静に振舞った。火後の政庁である片野城を離れて、ひとり火奈久城へと移ったのだ。いわばある種の『育児休暇』にはいったのだ。
政事はすべて閑谷に一任された。
だから閑谷は、藤那の事を心から心配しながら、火後の県政を差配している。なんとも閑谷にとっては酷な話だが、その甲斐あって火後領内の困惑も小さくすんでいる。
「じゃあ藤那は、いまは片野城じゃなくて火奈久城にいるのか?」
「そこが静かだと言って・・・・・・。ですが、もう暫ししたら、阿蘇城へ移ると」
「まるで入院だな・・・・・・」
いや妊婦なのだから安静は必要だと、九峪も納得した。
ともあれ藤那と会わなくてはならない。もちろん閑谷とも。泗国計略という大作戦を控えた今、藤那と閑谷の欠場がどのように状況を動かすか、それを見極めなくてはならない。
最悪の場合は火後の戦力を頼まない作戦を考えなければならないだろう。
まさか妊婦を戦場に駆りだすわけにもかないし——。
「妊娠して何ヶ月目だって?」
「四ヶ月ほどが経つそうです。もう腹も膨れ始めまして」
「出産の時期はわかるのか?」
「冬ごろになるだろう、とだけしか、まだ・・・・・・」
「冬か・・・・・・。いやだけど、それからも養生しなくちゃいけないし、どちらにしろ」
直には動けない、と九峪は結論付けた。詳しい話は聞かない事には何もわからないが、おそらく身の自由を取り戻すのは、来年の夏になってからだろう。
育児のことも考慮に入れるとしても、この時代、女性が地位ある立場であれば乳母が育児を行うことが慣例となっている。
藤那の性格を考えると、乳母に預ける可能性が高い。
めでたい話なのだが九峪は難しく唸った。火後の藤具兵、そして駒木衆は強力な戦力だ。藤那には是非とも泗国計略に参加してほしい。
だが、これは逆によかったかもしれない。火後勢を欠いた事で計画の発動は、最低でも一年近くは遅延されることになったが、その間に泗国側とじっくり腰を据えて交渉するという手もある。天目の目をかいくぐるのに藤那の妊娠話は有効的に使えるはずだ。
何にしても何かしらはしなくてはならないのだ。
「——そうだな、1年もあれば、やりようはいくらでもある。問題はそれまで、泗国の戦線が持ちこたえられるかだよな」
おちおちしていたら、讃其を奪われてしまう。そうなれば九峪といえどもかなり厳しい戦いになってしまう。戦争とはつねに主導権の握り合いである。白雉という主導権を握れるかどうかが今後の鍵になってくるだけに、一年の時間をどれだけ使うかが重大とされる。
「明日、ひとまず火奈久城へいくことにしよう。何か祝いの品でも贈ったほうがいいかな」
「酒のたぐいは控えるようにと医師がいっておりましたから、そうですね・・・・・・やはり、ややをあやせるような玩具でも贈るのがいいと思いますよ」
「藤那に玩具か。違和感しか感じないな」
と、九峪が魚をつまみながら苦笑した。
翌日九峪一行は、一転して落ち着いた足取りで火奈久城へ向かった。
領主にして王族のめでたい吉事とあってか、火奈久城では盛大なお祭り騒ぎとなっていた。それこそ歌えや飲めや踊れやと、城内のそこかしこで音がやむことはなかった。
そこへ九峪が登場すると、歓声はますます激しくなり、沿道に人々が群がり始めてきた。
「おいおい・・・・・・!」
よもやとも思わないほどの熱気の高まり具合に九峪は言葉をなくした。
「仕方がない、ここは駆けるしかないな」
火奈久城の兵士たちが住民を押さえつけている間に九峪たちは馬を飛ばして、政庁の舘を目指した。
舘の門を抜けてしまえば喧騒も追ってはこない。立派な造りのした厩に乗馬を預けて、孔菜代の案内に従い藤那が静養している一画の屋敷へと向かう。
「すごいな。藤那が妊娠したってだけでお祭り騒ぎだぞ」
「それだけ藤那様は県政に精力を注いでおりましたから」
孔菜代が誇らしげに語った。つい数年前でこそ『逆賊』の汚名を被っていた藤那主従も、善政を努めて敷いた結果、名誉挽回を成し領民からの信頼も取り戻せたのだ。それはまた、藤那にそれだけの器量があったということであり、また藤那を信じた家臣たちの努力あってこその成果であった。
わずか一代でここまで信望を取り戻した藤那を誇らしく思っているのは孔菜代だけではない。ゆえに藤那のおめでたい出来事に、火後領内は沸きあがっているのだ。
藤那のいる屋敷は、建築好きな彼女に似つかわしくないほどに質素なものだった。とくに瓦葺きを好む藤那が、なぜか草葺のこじんまりとした屋敷を選んだ。
それは、藤那が身体を慮ってのことだ。瓦葺よりも草葺にしたほうが、夏は涼しい。どうせこの屋敷も秋から冬にかけてのみ使うだけだから、この程度のもので十分と考えたのだろう。
「少々、お待ちを」と孔菜代が奥へ下がった。藤那へ取次ぎに行ったのだ。
ほどなくして、孔菜代が戻り「どうぞ」と九峪を招いた。内部も簡素なものだった。板張りの廊下には安っぽさがある。
九峪が通されたのは、この屋敷で主が客人と接待するための一間であった。藤那が下座にいる。この屋敷の主は藤那でも、位が上の九峪は上座に据わることになっているのだ。
九峪が、そういう煩わしさを好まないことは藤那も心得ている。しかしやはり、かつて刃を向けた事実にいまだ尾を引かれ、つねに九峪と相対するときは自らを低い場所に置きたがる。
藤那の悪い癖であり、二度と逆心を抱かないという忠誠の証。こればっかりは九峪がなんと言おうと、頑として聞き入れなかった。
が、今回ばかりは九峪も驚いていた。
「藤那、寝てなくていいのか?」
いまの藤那は身重のはずだ。あまり出歩かせては大事に障わると思い、九峪はわざわざ藤那の寝室へ尋ねると孔菜代にいっていたのだ。ところが、通されてみればそこは謁見の間であった。
下座で膝をつく藤那はかすかに微笑み、「大事ありません」と軽やかに応えた。
「まだ四ヶ月です。腹もそれほど出てはおりませんから」
「だけど・・・・・・」
「この程度で流れるような仔ならば、いっそ流れたほうがいいのですよ」
「お、おいおい」
笑顔と裏腹にあまりにも物騒なものいいに九峪も閉口するばかりだ。
それは母としての思い以上に、将君としての激烈な意思に溢れている言葉だった。
ひとまず上座に腰を下ろした九峪だったが、腰は直にでも藤那の下へかけられるよう浮かんでいる。
「もっと大事にしろよ。赤ん坊のことだけじゃないけど、無理は禁物だからな」
「ご心配、いたみいります」
深々と頭を下げようとする藤那を、九峪が慌てて制止する。
「ああ、いや! 頭は下げないでいいって。身体はあんまり動かさないようにしよう。もっと楽にしてくれ、じゃないと見てるこっちの心臓が悪くなりそうだ」
「では、お言葉に甘えて」
ゆったりとした動作で藤那は脚を崩した。やはり言葉ではなんと言おうと、正座は妊婦に苦しいものがある。横座りならば、子宮を圧迫させないで済む。
美しい風貌の藤那の横座りという光景には、いままで彼女が見せた事のない柔らかくてたおやかな印象があった。すでに気持ちが母親になりつつあるのかもしれない。
これで、『弱ければいっそ流れてしまえばいい』などと豪語していたのだ。
母親として、将君として、もしかしたらこれから藤那の心理状態はどちらともつかない、不安定な時期に入っていくのかもしれない。
わずかながらそれを垣間見た気がした。とくに藤那は、我が強いわり精神に本能的なか弱さがある。表層的な心は強くても、禁酒に激しく苦しんだり、王位のはなつ魅力に取り付かれたりと、こと『欲求』にめっぽう弱弱しい。
今回の場合、生物の根幹に大きくかかわる部分だけあって、真理のさらに奥底で作用している。気がつかないうちに藤那のなかの『女性』『母性』がかなり刺激されているとしても、間違いはないだろう。
「まさか藤那が母親になる日がくるなんてな」
しなやかな雰囲気のある藤那を前にして、不思議な気分になる。これがまた、ついこの間までは駒木衆三百騎に数千の藤具兵を従えて天都陣で戦っていたのかと思うと、昨日今日でいきなり身近な日常が変わってしまった気分だった。
「不思議ですか?」
「不思議だ」
問いかけに九峪はすぐさま即答していた。それからはっと口を押さえてしまった。
いくらなんでも失礼だったか——後悔したが、安に反して藤那は微笑んでいた。
「私も不思議な気分です。この腹の中に、私ではない誰かがはっているなんて」
そういう藤那は、やはり苛烈な印象がどこにもない、いたって普通の女性そのもので、荒々しいまでの覇気はいっさい感じられない。
「どんな感じなんだ? その、子供がいるってのは・・・・・・」
おずおずと九峪が尋ねる。これこそ繊細な問題だけにずばっと聞く訳にもいかない。だが、男には未知の領域だ。むかし身ごもった音羽に尋ねたこともあったが、話下手の音羽は説明するも要領を得なかった。
藤那は、ふと考え込み、おなかを擦った。
「とくに何も感じません。異物感などもありませんし、ただ重いだけですね。・・・・・・あ、でも」
「なんだ?」
「やはり、感じることはあります」
「何を感じるんだ?」
「生命を」
と、応えたときの藤那は、柔らかな表情をしていた。その瞬間だけ、母親の割合が大きく増していた。
まるで三日月を彷彿させる静かな笑顔に、九峪はしばし見とれていた。男は誰もが、こういった類の表情に弱い。
だが心のどこかでは未だに、『あの藤那がなぁ』と、関心とも呆然ともとれない思いが固まっている。
何はともあれ、いまの顔を見て九峪は安心できた。功名心の強い藤那が『流れても』とまで言い出して、なんぞ無茶でもやらかすのではと気が気でなかったのだ。
母になるという気持ちが藤那を少しずつ変えている。そこもまた不思議なものだと思う。
「元気そうで安心できた」
ほっと、九峪は息をはく。
「ついこの間には、雨嬉が生まれたしな。・・・・・・強い子だといいな」
「私も願っています。我が子に恥じぬ親でありたいとも」
「——閑谷とは、うまくやってるのか」
ちらりと尋ねた。実はこれも気になるところ。
知らない間に男女の関係になっていた二人。九峪とて人並みには興味があった。
しかし、藤那はしれっとした顔でいる。
「迂闊でした。まさかあいつの種を宿してしまうとは。・・・・・・避妊はしていたのですが」
「ひ、避妊って・・・・・・」
あからさまに言われて九峪が僅かに引いた。藤那のような美人が言うとなかなかの破壊力があった。
この際、二人の情事はことさら聞くつもりもない。
それよりも九峪には、どうしても聞いておきたいことがあった。
藤那は閑谷の子を宿した。つまり、子は閑谷の血を引いている。となれば、これからの将来、必然的に浮上してくる問題がある。
表情を改め、九峪はそれを尋ねた。
「それで・・・・・・。藤那は、閑谷と結婚するのか?」
藤那の眉が、ピクリと動いた。藤那もその疑問が問われるだろうと予め予想していた。
ふっと微笑み、
「女ひとり孕ませておいて知らぬ存ぜぬというのであれば・・・・・・玉を潰し、茎を千切りましょう」
九峪は股間が急激に萎縮していく感覚に襲われた。
喉を鳴らして、九峪は呼吸を落ち着かせた。
「そ、それじゃあ・・・・・・あれだな。前向きってことで、いいんだよな?」
「ええ。・・・・・・閑谷に拒否権なしで」
藤那の微笑みは、極上の輝きに溢れていた。
——それが、はたしてどちらの意味であったのか、九峪はあえて考えないことにした。
「そのこと、閑谷にはちゃんといったのか?」
と尋ねつつ、藤那の様子ではだいぶ前から心を決めている様子だ。だから閑谷にも言って、おおいに震え上がらせたのだろうと九峪は予想していた。
しかし、藤那の首は横に振られた。少しだけ、陰のある表情だった。
「いってないのか?」
藤那が頷いた。
「どうして」
「そ、それは・・・・・・」
口ごもる藤那によると。
妊娠が発覚した瞬間、いくら藤那でも動揺を抑えることが出来ず、手近にいた閑谷を殴り飛ばした挙句に、政務を投げ出して自室に引篭もってしまった。
あとを追って閑谷が声をかけてくるも、混乱した頭にはなにも聞こえず、感情のうねりをどうにかこうにか押さえつけるのに数日を要し、これ以上は家臣にも不安を与えると考えてひとまず居を移す事を決めた。
妊婦であるからには静かであることが好ましい。が、藤那は賑やかな雰囲気を好む。その折衷案として浮上したのが火奈久城であった。火奈久城には付属の港があり、人の気が多いわりには城内に穏やかな空気が満ちている。
火奈久城へ『避難』してからの経過は順調で、いまのところ母子ともども、つつがないとのこと。
——が、閑谷はもちろん置き去りにされてしまった。藤那がついてくることを許さなかったのだ。藤那はこの段階ですでに、政務を火後の執政である閑谷に任せるつもりであった。
それが、表向きの名目。実際は——
「私も、困惑しているのですよ。だって、つい昨日まではそれこそ——弟のような存在だったにもかかわらず、今日には腹の子の父親、でしたから。たしかに以前から肉体の関係はありましたが、それでも・・・・・・」
「そういうものなのかな」
九峪には、いまいちピンとこない。
「でも藤那は、閑谷を男としては見ていたんだろ? じゃなかったら、そういうことはしないだろうし」
「まぁ、多少は・・・・・・」
それを言われると藤那も頷かないわけにはいかなかった。もともと気位の高い藤那は誰にでも肌を許すわけでもなく、むしろ閑谷以外の男すら知らないくらいなのだ。
奔放で磊落な藤那は性交渉のほうも自由きままであると勘違いされがちだが、それはまったくの見当違いである。自由どころか、高貴であるがゆえに相手を選び、眼鏡に適った男が閑谷ただ一人しかいないだけなのだ。
「だけどこうなることはわかってたんじゃないのか? いっちゃ何だけど、やったら出来るんだから」
「・・・・・・覚悟と対策を怠った、といえばそれまでなのでしょうな」
「・・・・・・嬉しくないのか?」
先ほどから聞いていれば、まるで妊娠した事を後悔しているような口ぶりだ。めでたいことなのに九峪も訝しい気持ちになってきた。
誰が見てもそうだったが、閑谷は藤那に惚れていた。藤那も閑谷のことは、好いていたように思う。
妊娠した女の気持ちというものが、九峪にはほとほと理解できない。なるほど男は孕ませるだけだし、孕んだ女の苦労もわからないが、だからこそ男には女が無事に赤子を産めるよう、最大限の支えにならなくてはいけないのだと考えている。
藤那が政務を閑谷に押し付けたのは、強引に見えてじつは当たり前なことだ。閑谷には父親としての責任がすでに発生しているし、おそらくは本人にも自覚が生まれているのだろう、悲鳴を上げながらがんばっているのだ。
これほどまでに想い想ってくれる男の種を宿し実ったことが嬉しくないのか。
藤那は自嘲した。
「ですから、まだわからないんです。そうですな、この気持ちを一言で表せば・・・・・・不安なのかもしれません。子を宿すとは未知のことで、それによって私と閑谷の関係がどのように変わっていくのかも、また知りえない未知のことです」
そういわれて、九峪にもなんとなくわかってきた。
藤那は怖いのだろう。子を産むということがとても壮大な大事業のようにさえ思え、しり込みしているのかもしれない。
とくに生命の根幹に根ざした営みだから、理性ではどうしようもない。しかし人間は考える生き物で、もしも死産してしまえば、流産にはならないだろうか、逞しい子だろうか、脆弱ではないだろうか、これはなにかの予兆だろうかと、あれこれ思い悩んでしまうのだ。
藤那ですら、そのようになってしまうのだ。
九峪はそこに、生命の循環の一端に見え隠れする超自然的な神秘を感じていた。
「妊娠や出産は、いろんなものを変えるんだな」
音羽のときもそうだったが、恋人から夫婦に代わる瞬間、親になることへの不安は誰にでも付きまとうものだ。
だけど心配ないことだとも、九峪は思っていた。
妊娠したときこそ不安だろう。だけどそれを解消する術を、九峪は音羽夫婦から学んでいた。
「藤那。俺からひとつ、提案がある」
「提案、ですか」
「藤那の不安を解消する術を、たぶん俺はしってる」
藤那の肩がゆれるのを九峪は見逃さなかった。
きっと、藤那も気づいているはずだ。口ではなんといっても、本人であるなら心のどこかで気づいているはずなのだ。
「今はまだここで休んでいいけど、ちゃんと閑谷をここにも呼べよ?」
それが、藤那の心配や不安をどこかへ吹き飛ばす、唯一の方法。
不安になるのは、ひとりで大きくなる腹を見て、なでているからだ。心配になるのは、これから一緒に変わっていくはずの男が、傍にいないからだ。怖いのは、すべてにおいてひとりで立ち向かわなくてはと思うからだ。
藤那の間違いは、母親としての自覚が生まれる前に、閑谷を突き放したことだと九峪は気づいていた。変わるのは藤那だけではない。閑谷のいろいろなものも、変わってしまうのだ。
藤那にとっても閑谷にとっても、これが記念すべき初産である。だからふたりで、歩んでいかなくてはならない。
音羽も羽江も、そうして『母』になっていったのだから。
きゅっと唇をかむ藤那に、九峪は苦笑した。
「恥ずかしいんだろうけどさ」
「そ、——それは」
図星を差され、らしくないほどにうろたえる様子が、どこか初々しかった。
——こんな藤那、もう二度と見れないかもな。
「閑谷と話せよ。大きくなる腹をなでてもらって、堂々と支えられればいいんだ。じゃないと夫婦になんかなれないぞ」
「——九峪様は、まだ独身でしょう」
「そこはそれ、他人だから見えるものもあるってことさ。閑谷と夫婦やってる自分の姿が見えないなら、これから作っていくしかないだろ? 子供のことだってひとりで抱え込む必要はないんだし、この際なんだから閑谷をもっとこき使ってやれよ」
なかなか酷い言いようだと九峪も思うのだが、かえってこれくらい言わないと藤那は安心できないだろう。
すこし考え込んでいた藤那も、ようやく笑みを浮かべて、小さく声を上げた。
「地道に進むしか、ないのですな」
ほっとした表情の藤那に九峪も笑顔を浮かべる。憑き物が落ちたように晴れとした顔だ。
それにしても面白いものだと九峪は思った。人の性格はこのような形でよく現れてくる。短期戦略、結果を早い段階で求めようとする藤那だから、やや暴走気味な行動をとってしまったのだろう。
子作りと子育ては忍耐だ。藤那に足りないのも忍耐だ。
藤那に足りない忍耐を持っているのが、閑谷という男なのだ。閑谷がいなくてどうして藤那が耐えられようか。
わずかでもその事実に向き合ってくれたことが、九峪には嬉しかった。きっと閑谷も頼られる事を望んでいる。藤那の支えになれるのならば、たとえ火の中水の中を地で行く男だけに、これからの働きにも目を見張るところがあるかもしれない。
なんにしても、これで九峪も胸をなで下ろせたというものだ。
「元気な子供だといいな。行く行くは知事になるんだろうし」
「わかりませんよ? もしも直系の子が生まれず、ややが女児だったら、あるいはこの子が火魅子になるやもしれませんし」
「それはそれで面白い」と、藤那が不敵な笑みを浮かべて見せた。いつもの藤那だが、けっこうな大胆発言だ。
九峪が言葉に困っていると、藤那はますます笑みを深めていく。
「ご安心を。私自身にすでに野心はございません。ただの戯言と、お聞き流しくだされ」
「目の光り方が、本気だったぞ」
「子供の未来までは関知できかねます」
——腐っても火後の梟だ。
末恐ろしくもあるが、藤那に野心はもはやない。いまのは、心に僅かくすぶっている野望の残硝だった。野心さえなければこうまでも頼りになるものもいないと、九峪は本気で思っていた。
子供にも期待できる。もしかしたら、九峪の時代で天下を平らげることは叶わないかもしれないから、そうなると藤那の子供や音羽の子供たち、そして雨嬉の活躍する時代に移り変わっていく。
そのためにも、早いうちに泗国計略を発動させたいところだ。
そのことを藤那も気に病んでいた。めでたいことかもしれないが、自分のせいで九峪が計略を延期するとしているのだから。
「子が生まれれば、かならず期待以上の働きをします」
真剣な眼差しで藤那が宣言した。この決意が戦場での発奮へとつながることを、九峪は願うばかりだった。