藤那の妊娠騒動が冷めやらぬうちに、事態はますますややこしくなっていった。
まさかの藤那懐妊が九洲へもたらした影響はすさまじく、さらにとうとう藤那が閑谷との結婚を正式に表明するにいたっていた。
これが火付けとなったのかどうかは定かでないが、またしても結婚沙汰で騒がしくなり始めている地域があった。
豊後である。
伊万里の義妹である上乃と、新しく豊前知事に任官された遠州は、じつは恋仲である。隣県とはいっても遠距離恋愛のようなものを続けており、飽きやすい上乃には珍しく文通などをして伊万里を驚かせていたりした。
その上乃が、伊万里にこういってきたのだ。
「あたし、結婚する」
——騒動は、まずここから始まった。
伊万里も、上乃と遠州の関係にはうすうす感づいていた。
もとが面食いな上乃が惚れても文句ないほどの美形で、進退爽やか、物腰も落ち着き、知勇兼備の名将としても知られていた武人だった。その実力を見せ付ける活躍をすると、たちまち九峪からの信任を得て九峪親衛隊の二代目隊長に抜擢され、中校尉の位に昇った。異名を『白勇公』といった。
あまりにも美形過ぎて九峪との間によからぬ噂が立ちもしたが、それでも世の女性を振り向かせるに十分な笑顔など、伊万里でもどきっとしたことがあるくらいだ。
上乃が陥落して当然であったろう。とくに、ともに北山での死線を潜り抜けてきたという強固な絆が、上乃をして本気にさせたに違いなかった。
そして当然、そのような関係なら、いつかは結ばれる日が来る。それは伊万里も覚悟していたし、寂しいけど祝福してやろうと心に決めていた。
だけど——!
「唐突すぎるだろう!?」
まだ朝である。
執務室で仕事をしていた伊万里のもとを尋ねた上乃が、いきなりの『結婚宣言』をしてきたのだ。
伊万里の指から落ちた筆が、書簡に無様な黒線をつけている。
「いきなり何を——」
「いや、さっき思いついたから」
「さっき!?」
まだ朝も八時かそれくらいだ。もう人々は活動を開始しているが、それでも長い一日のほんの始まりに過ぎない。さっきというには、まだ早すぎるくらいだ。
伊万里が額を押さえて、腰をとすんとおろした。頭痛がしそうだ。
「結婚て・・・・・・遠州さんと?」
「あたしの相手って遠州しかいないし」
「それは、そういう話を今までしてきてた・・・・・・わけないよな、お前なら」
「たしかにしてなかったけど。なんか腹たつなぁ、その言い方」
「こっちはびっくりしすぎて頭にきてるよっ!」
机の上の所感を片付けて伊万里は給仕を呼んだ。茶をもつよう言いつけ、走り去る足音を聞き送り、上乃に向き直る。
「わるいけど、ちょっと整理させてくれ」
「そこまで驚く?」
「驚くだろ。いきなり『結婚する』なんていわれて」
そんなもんかな、と上乃は首をかしげた。人生を勢いで生きているような上乃にしてみれば、思い立ったが吉日ということなのだろうが、それにしても心臓に悪い発言だったという自覚はない。
「おまえ、私がいきなり『結婚する』なんて言い出したら、驚くだろ」
「う、ん・・・・・・たしかに驚く、かな」
——なんでそこで悩むんだよ。
いまいち薄い反応に伊万里の肩が落ちた。
伊万里には、少なからず遠州にたいして『上乃をとられる』という思いがあるから、先ほどの発言にも驚いたのだ。それだけ伊万里には大事な存在で、だからこそ笑顔で送り出したいとも思っている。
しかし上乃はそうじゃないのか——と、伊万里には多少ショックであった。
「でも九峪様なら、わたし全然おっけーだし。伊万里のこと任せる気満々だから」
と、消沈する伊万里に反して上乃の顔にはいたずらな笑みが浮かんでいた。
「わ、私のことはいいだろッ」
「いや、よくないから。考えてもみなよ。伊万里ももう三十歳、そろそろ落ち着かないとダメじゃん? よぼよぼになっちゃったら、九峪様もらってくれなくなるよ?」
「うっ」
伊万里が言葉につまり仰け反った。
「操をたてるのもいいけど、やっぱり好きな相手がいるんなら、早いとこきめちゃわないと。九峪様を狙ってる人とか多いんだから」
「そ、それは・・・・・・だけど、私なんかじゃ九峪様につりあわないって言うか」
うじうじと小声で呟く伊万里に、いつのまにやら立場が逆転している上乃はため息をついた。結婚といえば、伊万里にも早いところ結婚してほしい上乃であった。
つりあわないことはない。上乃は本気でそう思うし、じっさい伊万里は王族で、火魅子の残り香だって漂わせている、高貴な身分だ。同じ知事でも志野や写楽が九峪と結婚するといわれるよりは、ずっと立場もよろしい。
しかしのっけから否定しなくなっただけ、まだ伊万里の気持ちも前進したことだろう。完全に誤魔化さないのならば、あとはただ想いのたけをぶつけるだけでいいのだ。
そこまでもっていくことが一苦労だが、動けばあんがい速いのが伊万里という女性の特徴だ。
「今は勢いのうえにあるんだよ。ちょっと前には羽江ちゃんが子供生んだし、世間じゃ藤那様の結婚やら寿やらで沸きあがって、いまこそ結婚って感じじゃない。勢いがあったらどうにかなるって!」
「だ、だけど、私たちはこれから泗国の計略に取り掛からないといけないんだぞッ」
「延期されたじゃん」
「ぐっ」
伊万里の旗色が悪くなった。
その情勢を上乃は見逃さない。
「それにだよ、伊万里。世の中これだけ沸きあがっていて、星華様が黙っているとおもう?」
この一言に伊万里はまったく閉口してしまった。
じつは、いま巷でにわかに囁かれている話があった。
火魅子と神の遣いの婚儀について、あれこれと憶測が飛び交っているのだ。もとは官史の間からひろまったらしいのだが、仔細はわからない。ただ、いまやこの空前の婚儀の噂は九洲中で囁かれてもいた。
「九峪様がもういちどこの世界に戻ってきてくれて、星華様も嬉しそうだし。蔚海も倒して、きっと気分は最高潮だよ。まっくすだよ。そこにこの結婚流行りときたら、もう、ねぇ——するしかないじゃん、結婚」
——ありえなくはない。
火魅子のアグレッシブさ、攻め気の強さをよくわかっている伊万里には、茶化すような上乃の言葉も重く圧し掛かってきていた。
火魅子ほどいま九峪と結ばれたいと思うものもいない。それは、けっして恋愛だけの問題ではないのだ。むしろ政略的な面からいって、あの雲の上の二人は結ばれたほうがいいのだとは、いかに伊万里でもわかっているつもりだ。
より強く国内を纏め上げるには、火魅子と神の遣いの子が、大きな存在感をはなつ。蔚海を倒しただけではまだ不安がのこる。豊後領内で大規模な暴動を引き起こしてしまった伊万里だからこそ、なおさら民心のゆらぎを感じずにはいられない。
たとえ、火魅子がそこまで考えていなくても、九峪がどう思っているのか、そして国家のブレーンである亜衣がどう思っているのか、そこのところ如何によって、話は変わってくる。
「——やっぱり、無理だよ」
いくら考えても、伊万里の考えは悲観的だった。
「私には豊後の統治があるし、九峪様はどのみち、火魅子様と結ばれるだろうし」
「もう、そんな弱気でどうするの」
「だいたい——九峪様が、私なんかを選んでくれるかだってわかんない」
「伊万里・・・・・・いい加減、自分が美人だって自覚もとうよ」
上乃のじと目に伊万里は慌てて手を振った。
「だ、だって、私は田舎の出なんだぞ!? 猿女っていわれてもなにも言い返せないし。二歳も年下のおまえに胸の大きさも負けてるし・・・・・・。香蘭様みたいに可愛くないし、火魅子様みたいにきれいじゃないし、藤那様みたいに格好よくもないし」
「よ、よくそこまで下向きに考えられるね」
「じゃあ、私がみんなより勝ってる部分ってどこらへんだよッ!?」
机を強く叩いて、伊万里が身を乗り出した。かなり追い詰められている風だった。
上乃はげんなりした気分になりながら、これは伊万里に自信をつけるところから始めないとと、腹をくくって伊万里の長所を考えた。
「伊万里のいいところって、いっぱいあるよ。偉ぶらないし、庶民の出だから民にも慕われてるし。それにさ、ほら。九峪様ってきさくな人だから、かえって伊万里みたいに純っていうの? 飾らない女とか好みそうじゃない」
「それいったら、香蘭様なんか純粋そのものだぞ」
「や、あれはちょっと違うって。香蘭様はなんていうか・・・・・・お子さまだから」
言わんとしているところはわかるけど、やはり伊万里は素直にうなずけない。
「親しみやすいんだよ。伊万里って。一緒にいてすっごく落ち着くって、九峪様もいってたし」
「えッ!?」
——九峪様がそんなことを?
寝耳に水のことばに伊万里の頬がさっと赤くなった。現金なものだが、それだけで嬉しくなってしまう。
——ま、ウソだけどね。
恥らう伊万里を眺めつつ、上乃はため息をついた。こうでも言わないと伊万里の内向的なものの考え方は改まらないと思った。
それに九峪の名を出せば、それだけで伊万里には効果覿面だ。あたかも九峪自身がそういっていたように言い聞かせてしまうと、いまのように伊万里の気持ちは上向きになる。
単純といえば単純で、こういうところがたしかに『田舎娘』的な印象を他者に与えているのは否めない。しかし同時に飾らないというのも、この態度から見れば一目瞭然であった。
「星華様はちょっと押しが強すぎるね、わたしに言わせれば。九峪様はどっちかっていうと押すほうだと思う。だから伊万里みたいに受け身な方がいいんだよ」
と、そこまでいって、上乃が身を詰めて伊万里と顔をつき合わせた。
「これはむしろ、九峪様の『ため』に結婚するんだよッ!!」
「く、九峪様の、ため・・・・・・」
伊万里は混乱してきた。だんだんと上乃の言葉が正しいような気がしてきた。
「わ、わたし、九峪さまと、結婚しても、いいのかな・・・・・・?」
「もちろんッ!」
上乃は笑顔で頷いた。満面の笑顔であった。
しかし辛うじて残っていた理性が、暴走する妄想にまったをかける。
「・・・・・・いや、いやいやッ! 落ち着け、わたし! 知事の私が九峪様と結婚したら、豊後はどうなるんだよッ!?」
——チッ。
聞こえないほど小さく上乃が舌打ちする。あと少しだった。
だけど言われてみればその通りなのだ。伊万里が九峪の妻妾にはいれば豊後は統治者不在になりかねない。九峪が火魅子と婚姻するのは避けえず、しかるに伊万里は居を耶牟原城へ移さないといけなくなる。
かりに、出産後に豊後へ戻るとしても、それまでの一年と数ヶ月は、耶牟原城での生活になる。
それに——豊後へ戻ることになったら、九峪とは離れ離れになってしまう。その間の九峪は、火魅子と一緒にいることになる。あるいはそこに清瑞も混ざるかもしれない。
伊万里だけが、豊後へ——。
それは伊万里の心を傷つける。
立場と気持ちが見事にかみ合わないのだ。
「豊後の事は気になるけど、九峪様と別れるなんて——そんなの・・・・・・ッ」
「そっか、そういうこともあるよね——」
と呟いたとき、上乃はふっと思いついた。
「じゃああれだ。伊万里がいない間は私が豊後を——」
「おまえ、遠州さんのところに嫁ぐとかいってたじゃないかッ!!」
「あっ——そうだった」
伊万里のことばかりにかまけてすっかり忘れていたけど、もともとは自分の話だったのを上乃は思い出した。
上乃が遠州に嫁ぐ。それは上乃の本籍を豊後から豊前へ移すことに他ならない。そうなると上乃にはもう、伊万里の副将として働く資格がなくなるのだ。
よくよく考えていなかったから、上乃はその重大事に気づいていなかった。本当にただの思い付きだったのだ。
だけど、結婚したいという思いも本物で、上乃の脳裏にどうするべきかと思案が飛び交う。考えるのが苦手な上乃は、どうすれば伊万里と九峪が離れ離れにならなくて済むかと考え——
「そうだッ!」
導き出した。
「九峪様に、豊後に来てもらおう!」
「——お、おまえ」
「九峪様が豊後に住めば、万事解決——」
「だったらもれなく火魅子様がついてくるんじゃないか?」
「あっ——」
「どうするんだよ、耶牟原城」
「うっ」
「だいたい、火魅子様が手放すと思うのか、九峪様を。亜衣さんだって黙ってるとは思えないぞ」
論破され、上乃は言葉を失った。やはり思慮では伊万里に敵わないようだった。
伊万里の言うことはもっともだ。火魅子と九峪の間には、恋愛はともかくとしても政治的な拘束力がどうしても働いてしまう。
とはいって、伊万里ははっと気がついた。
どちらにしろ伊万里は斗佐へ赴くことになっている。豊後は誰かに任せる必要があるのだ。
伊万里の思考がかつてないほど政治的に働き出した。きっかけを見つけると、考えはあとからあとから湧き出て、伊万里を飲み込もうとしていた。
はじめて伊万里の脳裏に、『外交』の輪郭が浮かび上がった。
——こういうことも、出来るんじゃないのか?
と、伊万里は半信半疑ながら自分の考えを煮詰めてみた。
給仕が茶を運んできても、伊万里は気づかなかった。
「私は、泗国に行くことになっている」
「うん」
「だから——そうだ、その間は誰かに任せるしかない」
では誰に?
家臣の誰かに任せるしかないだろう。幸い伊万里の家臣たちにも文官働きが出来る者たちがいる。亜衣の推し進めた政策による賜物だった。そのことに気づいた伊万里は、こんどは目の前に広がる、
——九峪様と結婚
の一言に、また顔を赤らめた。とたん脳裏に広がっていた外交の模様が桃色に変わった。いろいろな事に気づいてしまったら、結婚できる可能性が飛躍的に上昇したことにも、気づいてしまった。
「あ、上乃——」
また顔を赤らめた伊万里に面食らう上乃が、気味悪そうに伊万里を見ている。
「なに」
「ほ、ほんきで、遠州さんと結婚するんだよな?」
「そのつもりだけど・・・・・・でも、伊万里が大変なら、わたしは」
「いや、いい。わかった。・・・・・・覚悟はしてたんだ。いつかはそういう日も来るって。ちょっと寂しいけど、大丈夫、ちゃんと祝福する」
「え、あぁ、うん」
にわかに前言を撤回した伊万里は、むしろ自分に言い聞かせるように頷いている。
伊万里の中でいったいどれほどの葛藤が渦巻いているのかわからず、傍目にみつめる上乃は生返事するしか出来なかった。
「・・・・・・よしッ!」
とつぜん伊万里が立ち上がった。
やや熱の冷めた茶をすすっていた上乃は驚いて噴出してしまった。
「あ、上乃ッ。わ、わ、私も決めたぞッ!」
むせる上乃が見えていないのか、真っ赤な顔に握りこぶしで何かしらの決意を表明しだした。
「く、九峪様、と・・・・・・けっ、けっ、けッ」
「——伊万里ッ!!」
しかし伊万里の発心を遮ったのは、上乃の一言——ではなく、血相かえて駆け込んできた仁清の叫びだった。
伊万里と上乃の視線が、戸口に立つ仁清へと注がれた。仁清は急いでいたのか肩で息をしている。
「どうしたの」
上乃がまだ苦しそうに胸を押さえつつ仁清を質すと、こちらも苦しげに唇を歪めつつ、
「く、九峪様が・・・・・・」
と、声を震わせ応えた。
「火魅子様と・・・・・・結婚、するって・・・・・・」
伊万里は言葉を失った。
迷わなかったわけではない。
執務室で筆を取る亜衣の気持ちは、なんとも複雑な心境にあった。
民と国のためといえばそうだ。愛した男のためといえばそれもそうで、敬愛する主君のためといえばまたそれもそうで、自分のためかといわれれば、肯定も出来ないが否定もしない。
火魅子から縁談話をもちかけられてから、亜衣もだいぶ考え続けてきた。私心と責任の板ばさみは食事すら喉を通さなかった。
それでも、亜衣は最終的な判断を下した。女として、宰相として、その間でとりもつことのできる折衷点を導き出し、二人の主君を祝福する道を選んだ。
そうすることで、両者が二度と争うことない世界を、恒久的に実現した。同時に二度と自分が九峪と離れ離れにならないための手段でもあった。
——傍にいられるなら、それだけでいい。それ以上は望まない。
自分の気持ちに妥協したのだ。それは、言葉以上に苦渋の決断だった。たとえどのような形であれ、愛した男が自分以外の女と結ばれる様子を、笑顔で見守らなくてはならないからだ。
せめて——せめて星華様が、私の心の一端にでも気づいてくだされば。
などと意味のないことまで思ってしまう。気づいてくれたから、どうだというのだ。この婚儀は歴史の必然だ。抗うことなど無意味だ。
亜衣にとってせめてもの救いだったのは、この話を九峪にしたときに、ひどく狼狽してくれたことだった。自分を見つめる視線に、どこか気遣わしい色が滲んでいることに気づいたとき、亜衣は嬉しくて仕方がなかった。
火魅子と結婚する——というときに、九峪は亜衣を意識した。それは九峪の中での亜衣も、またそのような対象に含まれていたということだった。たとえその中に、自分だけでなく清瑞までいたとしても、亜衣は構わない気持ちだった。
——身体と立場で結ばれなくとも、心でだけは結ばれていたい。
偽らざる本心が亜衣に覚悟を決めさせた。主に対して不忠かもしれない。それでも譲りたくない、女の意地があった。
数日悩んでいた九峪も最後は了承し、火魅子と神の遣いの婚儀は正式に決定されることになった。仕切りは亜衣みずから指導するつもりだ。
会場の準備はすでに始まっている。式典の編集もおおくの巫女たちが手がけている。日程も吉日を選び、八柱神が一堂に会するといわれている七月に行うことにした。
「・・・・・・問題は清瑞か」
筆をおきため息をもらす。
亜衣の心を重くしている要因は、火魅子以上に清瑞に比重がおおきく傾いている。なぜなら自分と違い清瑞ならば、九峪の妾——つまりは『側室』に入ることが出来るからだ。
誰も知らないことだが、清瑞は王族の、それも直系の女子である。血筋という面では申し分ない。地位も、一将軍でしかないが名の知れた武将であるし、また九峪からの信任も厚い。なにより、いざ婚儀が決まれば、誰よりも真っ先に大将軍の伊雅が賛成するだろうし後押ししてもおかしくはない。
伊雅が是といい、九峪も是とするだろう。すでに家督を雨嬉に譲ると決めた亜衣は子すら生めないが、しかし清瑞にそのような事情背景は存在しない。子供など生みたいだけ生めばいいのだ。もしかしたら、火魅子の素質を持つ女子が生まれるかもしれない。そうすれば、その子は古い血脈の直系ということになる。
そして気になるのは清瑞だけではない。ついで気になるのは、豊後の伊万里だ。
伊万里もいまだ一人身。そろそろ身を固めないといけない年齢でもある。それだけになるまでどうして男を寄せ付けなかったのか、亜衣はとっくの昔に気づいている。伊万里は十年間、一途に九峪だけを想って生きてきた。
いま世上の風潮は結婚の頻発を招こうとしている。ここで九峪と火魅子の婚姻が津々浦々にまで知れ渡れば、ますます加速度的な広がりを見せるだろうことは想像に固くなかった。
伊万里がこの期に姻戚を結ぼうとしてもおかしくない『流れ』である。いくつかの障害はあるけど、出来ないことでもないし、地位や身分もけっして申し分ない。
だけど亜衣は、『それはそれでいい』と、ほとんど開き直ってもいた。火魅子と結ばれるのなら、伊万里とも結ばれたって、もうどうしたって結ばれようもない亜衣には何も違いがなかった。複雑な心境になっても、諦めることは出来る。
割り切ってしまえば心のありようは楽だった。そこに嫉妬がないとは言えない。それでも抗うよりは認めたほうが心によい。認めずに苦しみ続けても、魂が痩せて枯れて折れるだけだ。それは不毛なのだ。
結納の式場に選ばれたのは、いわずとも耶牟原宮殿の謁見の間であった。広さが決めてであった。亜衣の脳裏には大々的な式典としての演出があり、ともすれば住民ないし九洲中の国民たちを巻き込んでの一大祭事に仕立て上げる腹積もりだった。
やるからには徹底して、周知させ、赤ん坊の耳にさえはいるようにしたい。この点において亜衣の企画力は、かつてないほどの爆発力を発揮していた。
式典は耶牟原城をあげて行うこととし、主要都市でも祭りを開く事を推奨した。火向県の芸人一座たちがこぞって各地に散らばり、火後の駒木馬もその偉容をほとんど見世物のように着飾らせ、薩摩ではなんと鯨を捕らえさせるとまで言い出していた。
日取りは六月の二十七日と決まった。準備の終了した二十三日には各地の諸侯が引き出物を持参してくることだろう。
亜衣は、忙しさにかまけて九峪と会うことはしなかった。開き直っても、まだ心の整理は済んでいなかった。同じ理由で火魅子への面会も控えていた。
二十七日を迎えた。耶牟原城は戦勝の賑わい以上の興奮で、空に陽炎を作りそうなほどだった。
この日に列席した諸侯の数はおびただしい。耶牟原城では五千人もの人々が瞬間的に増加し、盛大な催しとなった。
宮殿前の広場に、軍装を正した兵士が整然と隊列を組んでいる。栄えある隊列の先頭を飾るのは、音羽であった。新調した鎧縅に皆朱の大槍、内跨るのは駒木の巨馬。大柄な音羽が先頭を行くと、結婚式というより閲兵式のようでさえあった。
音羽に従うのは歩兵三百人。次にはそれぞれ名のある将軍たちが部隊を組んで、総勢三千人の大部隊が行進して行く。知事たちもそれぞれ手勢を率いて大通りを行進していった。
とくに人々の目を引いたのが藤那の隊列だった。身重でありながらも藤那は法衣をまとって参加し、藤色の兵士たちの華麗さと、勇壮な駒木衆三百騎、戦場で魔馬と恐れられた愛馬に跨る藤那の見事さは、筆舌に尽くしがたい。
前衛三千人が過ぎると、巫女衆に囲まれて、火魅子と九峪を乗せた馬車が正門を出てきた。とたん人々の歓声はいっきに最高潮に達した。九峪はブレザーを模した衣服を着、火魅子はやはり肩口を大きくはだけさせた巫女装束を纏っている。この式典の主役である。
火魅子の額に輝く黄金の冠が太陽の光を反射して眩いばかりだ。一応はそれが通例であるため、顔を薄い絹の生地が隠している。透けてみえる生地の奥の表情は、頬を赤らめている。
人々は、火魅子の装いの美しさに、騒ぐものと見惚れるものの二つに分かれた。火魅子の美貌は有名であった。幼い顔立ちに澄んだ瞳は穢れなく、彼女が持つ魅力を最大限に引き立たせる衣装であった。白亜に赤い羽織というのも、また火魅子の性格を見事に現していた。
馬車のやや後ろを亜衣は馬でついていく。亜衣と伊雅はそれぞれ馬を並べている。
この世の春が来たかのように、伊雅は至福の笑みを浮かべていた。
「これほど目出度いこともない」
心底から嬉しそうに声が弾んでいた。
苦汁を舐めてきた伊雅には、いまがむしろ信じられないほどだったのだ。一時まさかの内乱にみまわれながらそれを乗り越え、ついには九峪と火魅子が結ばれようとしているのだ。国を思う伊雅にとっては未来安泰そのものであった。
「藤那様のご懐妊とご結婚で泗国計略は頓挫してしまったが、これが転じて幸いになるとは」
ひとり浮かれる様子の伊雅を一瞥する亜衣は、まだ複雑だった。
視線を前方に向ける。後姿しか見えないが、九峪にもまんざらではなさそうだった。もともと、根が『すけべぇ』だから、嬉しくないはずがないのだ。
——英雄色を好むと、そう割り切るしかないだろう。
そう自分に言い聞かせる亜衣であった。これは亜衣も認めたうえで開かれた式典なのだ。いまさらどうこう思うことすら無意味だ。
亜衣と伊雅の後ろを、志野の軍団がついていく。志野の軍団は他と違い、芸人が多く混ざり、楽を奏でて踊りながら、場の空気を盛り上げていった。さらに香蘭と紅玉が、めずらしい大陸の装いをさせた薩摩兵を率いている。
後衛の隊列の中に、賓客として右真の姿もあった。同盟国であるからには連絡する必要があった。祝いの使者として天目が右真を遣わしたのだ。
後衛、六千人。あわせて一万人近い大行列が、耶牟原城内の四つの通りを練り歩いていく。九峪が手を振ると、それだけで人々は失心しかねないほどの熱狂振りであった。
「ものすごい人気ですね」
傍らの火魅子が、とろけそうな瞳で九峪を見上げている。
「私たちを祝福しているんですよね」
「ま、結婚だからな」
九峪も笑顔で応じた。自分で言って、なかなか不思議な響きがした。いざその立場になると、我がことのように思えない。おそらく九峪の中に、まだ現代の恋愛観が根付いているためかもしれない。
火魅子はもじもじと指を絡ませ、わずかに微笑んでいる。
「私たち、夫婦になるんですよね」
「ああ・・・・・・でも、本当にいいのか? 結婚って、一生で一番か二番目くらいに大事なものだぞ?」
「でも、九峪様はお受けくださいました」
噛み締めるように火魅子が言った。そこに幾ばくかの思惑があろうとも、ようやく結ばれることに極上の幸福感があった。
——思えば、長かったわ。
しみじみと火魅子は過去を振り返った。情熱的な自分はいつも積極的に迫っていた。たしかに火魅子になりたいが余りだったのは否めない。だけど九峪に男性としての魅力を感じていたのも間違いないし、それが決定打だったのだ。
数多くのライバルたちを差し置いて、ようやく掴み取った『本妻』の座。
これほど幸せだったこともない。
「わたし、本気で九峪様に惚れているんですよ」
熱い眼差しに九峪も小さく頷いた。それはいくら九峪だって気づいていた。
九峪も男だ。こんな美人に一途に想われて、嬉しくないはずがない。
「珠のような赤ちゃんを、たくさん産みましょうね」
「お、おう」
——これからは大変そうだ。
嬉しいような困ったような、九峪は笑みを浮かべた。
行列は城壁をそって外周を回り、ふたたび大通りに戻ってきた。宮殿にはいり、玉座に着く。
火魅子と、九峪の玉座に。
ここからが結婚の儀式である。火魅子が、黄金の冠を九峪の頭に載せた。九峪は女王の夫、つまりは王になるのだ。これは王位を得るための戴冠式でもあった。
「——幾久しく、お傍に」
火魅子の鈴のような声音が、九峪の耳に届いた。火魅子と九峪は、唇をかさねた。
元星八年六月二十七日。九峪は火魅子と姻戚を結び、耶麻台共和国の王となった。まさか太師という名目を要したにも拘らず、それに加えて王になる日がこようとは、思いもしなかった。
これで九洲は安泰だ——。誰もがそう思っていた。
しかし九峪の受難は、まだ終わらない。