泗国計略を一時見送ることとした以上、その間の行動を新たに考えなくてはならない。晴れて火魅子との婚姻を結び亀裂の入っていた国内の情勢を修復させる手がかりをつかんだ九峪は、本腰を入れて泗国連合と大出面国への根回しを画策し始めた。
出兵となるとまず物資が必要になってくる。それは、兵糧であり武具である。あるいは薬なども必要となる。枠の外れた財政を盛り返すためにも、食糧生産と商業振興、工業の発展は急務であった。この点をみればかつての文官と同じことをせねばならないだけに、同じ轍を踏まないよう細心の注意をはらわなくてはならなかった。
国内で武器を生産させるため、硫黄島へと人員をおくり硫黄の採掘を急がせ、只深には商人らを指導し大陸との交易でとにかく鉱物資源と異国の珍品を出来る限り多く入手するよう要請した。
これらはあくまでも事前準備でしかない。もっとも気にかけるのは、天目に勘繰られないよう慎重に、斗佐との渡りをつけることであった。秘密に秘密を重ねて交渉するのだ。
だが、九峪には一つだけ、懸念があった。彩花紫が送り込んだであろう工作員が、いまだ発見できていないのだ。生死すらもわかっていない。秘密交渉を知られたくない九峪には、喉に突き刺さった尾骨のようなものだった。
限られた者たちと話し合い、計画は綿密に練り上げられていく。向こう一年はとにかく天目の顔色を窺い続けなくてはならない。
その間、九峪が特に力を入れていたのが、天目方の諸将——きわめて言うと、長戸の在地豪族らの懐柔工作、すなわち調略であった。まさか天目も九峪がここまで速く動き出すとは思ってもいないはずだった。
都合よく、火魅子との婚姻を利用することで天目に『いまは国内を安定させることに腐心している』と思わせることが出来たはずだ。これを有効に利用しない手はない。長戸の豪族らを味方に引き入れるためなら、いくらでも黄金をくれてやるつもりでさえあった。
そして、泗国である。
どのようにして泗国と同盟関係を結ぶか。すぐに兵を送ってやれない状況が発生した現状、どれだけの『利益』をもって斗佐を誑しこめるのか。
九峪は、それこそ腐心していた。
泗国の斗佐ともっとも近い土地は豊後である。したがって伊万里が、泗国計略の先鋒に任されたことも当然のことであった。伊万里は正式にでこそないものの斗佐との申次の役目を負うことになった。
とはしたものの、伊万里には調略など行った経験など皆無で、人を誑しこむ術を持ち合わせているはずもなかった。
——だが、それが伊万里にはある意味さいわいしたことでもあった。
というのも、この時期の九峪は非常に忙しく、大体にして耶牟原城にいないことも多々あった。九峪は、耶牟原城から泗国計略の指示を出しながら、天目方への調略のために火前へ、北山人と薩摩人との折り合いを調停するために南薩摩へ、そして泗国との交渉のために豊後へと、ほぼ九洲中を駆け回っている状態なのだ。
とてもつい先日に結婚したばかりの若旦那とは思えないほど、その生活からは蜜月の甘い香りがまったくしてこなかった。
九月の中ごろから、九峪は泗国対策で豊後は由布院を尋ねていた。九峪は豊後に要る間、県都である波羅稲澄城でなく、由布岳の中腹に立つ由布院に滞在するようにしていた。理由はもちろん、疲れた身体を温泉で癒したいためで、この時は伊万里も由布院へ出かけていた。
湯布院は簡単な城郭として建設された都市である。戦略的な構想はほとんどなく、あくまでも保養施設以上の意味を持たない。せいぜい獣避けの柵が張られているだけである。
九峪は、この由布院にいるときだけ、もっとも心が安らいだ。
「星華は、積極的過ぎるんだ」
そう伊万里にこぼしたことがあるほど、結婚してからの火魅子は、とにかくそれまで以上に過激な女性へと『変貌』してしまっていた。もとが活発な性格であったせいもあるだろうが、日がな一日でも九峪の傍にいたくて仕方がない様子なのだ。
大切な朝晩の祈祷の時以外、それこそ食事のとき、はては入浴時ですらしおらしげに、
「あの、お背中を・・・・・・」
などと頬を赤らめてはのたまい、いくら『すけべぇ』と揶揄される九峪であっても腰が引けてしまうほどだった。別に、女性はたおやかであるべき等と言うつもりは毛頭ないにしても、裸で胸を押し付けて『正妻』の立場を最大限に使ってくる星華を九峪はもてあましていた。
それでも嫌いになれないのは、それが星華の魅力であるからだ。星華には何も後ろ暗いものがない。ただ自然に、九峪を愛し、求め、慈しんでくれるのだ。そこには純粋な好意しかない。無碍に出来るほど、九峪は冷血漢ではない。
ただ、火魅子とおくる生活の中で、どうしても驚きを禁じえないことがあった。それが、九峪をもっとも疲れさせる要因でもあるのだが。
——とくに『しとね』の中では、積極さもより激しくなるのだ。九峪は果敢に迫ってくる火魅子を、それでも愛しく思うことも出来たが、とかく夜の営みにおいては成す術がなかった。
一回で終わればいい。男は普通、いちど放てば終わるものだ。女も絶頂を迎えてしまえば、身体が追いついてこない——はずなのだが。
——ほんとうに、珠のような子を沢山産むつもりなんだな。
有限実行だったのだ。
九峪が一回だけで開放された経験は、結婚してまもないといっても、たったの一度だけしかなかった。さすがに肉体も精神も疲れ果て、「勘弁してくれ」と泣きつき、火魅子をなんとか寝かしつけた。
九峪が火魅子に対して唯一、
「これさえなければ・・・・・・」
と思う部分だ。
それを省みると、伊万里のように反応がやや希薄な女性といると、ひどく心が安らぐのだ。
——けっして、火魅子から逃げるために由布院へ来ているのではない。
しかし九峪は、この地で世話をしてくれている伊万里が、よもや自分との結婚を企てているなどと、知る由もなかった。
『激しい狼』からやっとの思いで逃げ出してきた子豚が駆け込んだのは——『大人しい狼』の小屋だった。
哀れな子豚は、まだそのことに気づいていなかった。
酒宴を開いている暇もないほど、九峪は連日のように伊万里と顔を突き合わせ、泗国について議論をかわした。
すでに人を幾人かおくり、泗国の地図を作成する段階まで来ていた。このようなときにホタルが使えればいいのだが、いないものはどうしようもない。
慣れない任務にさすがの伊万里も疲弊している。ここまで頭脳を動かしたことがなかっただけに、交渉の窓口として学ぶことも多かった。
「一度に大人数を送れないのが残念なんだよな。でも、まだ天目は刺激したくないからな」
と九峪は言うが、内心では『あの天目のことだから、もう全て見透かされているかも』と、戦々恐々ともしていた。そうだとしたら、九峪は随分な道化である。
九峪の立てた戦略は、けっこう無謀なものだった。実現できるかどうか難しい。なによりも一年間の遅延が、はたして禍と出るか福と出るか、それは九峪にも図りかねていた。だからこそ、成功率を極限まで引き上げるために、九峪は東奔西走しているのだ。
「天目に通じつつ、天目の敵である泗国とも誼を結ぶ」
もしも天目に知られたら、どんな事態に陥ることか——。
先手を打たれて泗国への出兵を要請されてはかなわない。そうなっては泗国と同盟を結べる可能性が格段に低くなるし、結局のところふたたび『手伝い戦』をしなくてはならなくなってしまう。
だが、もちろん、それを紙一重で好転させる手段があるだけに、天目も出兵の要請をしてこないのだ。木乃伊取りが木乃伊になって、自分たちに牙を剥かないとも限らない。天目は、出兵要請を逆手に取られる事を恐れている。そして、神の遣いならばやってのけるだろうと警戒している。
付け入る隙があるとしたら、それはそこしかなかった。何としても天目を騙しとおして、一年の時間稼ぎを成功させなくてはならなかった。
「斗佐へ渡海するとして、豊後は一年でどれだけの兵を集められるんだ」
九峪の問いにいくつもの資料を伊万里は手繰り寄せる。
「豊後からは、ざっと八千ほどを送れます」
各豪族の名が記された連判状を九峪に差し出す。
存外に多い戦力に、資料を見つめる九峪の片眉がわずかに動いた。半窪合戦で豊後勢がはたしてどれほどの損害を出したかは九峪も聞き知っていた。火向軍を合わせても夥しい骸が半窪に累々とさらされた。九峪は、豊後の現存戦力はどんなにかき集めても四千が限界だろうと予想していたのだ。
種明かしは、以外にも亜衣の名前からはじまった。
「先のいくさで領主不在の土地が多数でてしまったので、功ある一族が郎党を率いて、そこを恩賞の地として拝領したのです」
と、いうことであった。伊万里の軍閥は志野によって壊滅的な被害を受けてしまい、戦いに参加した豪族も多く討ち死にを遂げた。領土の三割ほどが領主不在の状態になってしまった。
そこで亜衣は、とくに被害が甚大となった豊後と火向へ人員を送るために、功績のあるものから順に豊後と火向から土地を与え、そこを経営するようにしたのだ。
その甲斐あって、伊万里は多くの人材を補充することが出来た。
「新参者ばかりですけど、戦力としては十分だと思っています」
「そういうことならいいけど、いくさになれば兵糧が要るぞ。蓄えなんかないだろ」
九峪が問うた。なにしろ蔚海の浪費は激しく、物資の困窮も頭を痛ませている要因であった。
しかし伊万里にはさしたる同様もなく、
「それも大丈夫です」
と軽く応えた。
「私の父は里長で、昔から狗根国が税を徴収しにくると、口八丁手八丁で言いくるめては米なんかを良く隠していましたから。蔚海にも同じ事をしてやりました」
くすっと伊万里が笑った。悪戯な笑みで脱税を告白されては九峪も笑うしかなかった。
庶民らしい脱税の仕方だと思った。このようなやり方は、きっと藤那や香蘭には出来ないだろう。伊万里の意外な一面が垣間見えた。
ならばと九峪は思い切って作戦を考える。
「泗国への派遣は、豊後勢を主軸にする。これに薩摩勢、火向勢、豊前勢をつけて総力は——おおよそニ万二千か」
大軍団であった。九峪の調べによると、斗佐勢は七千、讃其に五千がいる。天目は一万ほど、彩花紫もほぼ同数でそれぞれ伊依、阿分を攻撃している。
おそらくは、亜衣の主導した三度もの琉球出兵に匹敵する、大軍事遠征になるだろう。
その主軸を任されるとあって、伊万里は唇の端を引き結んだ。
「これだけの大兵団を事前に準備するんだから、大仕事だ」
今度は琉球出兵以上にむずかしい戦いとなる。
九峪は伊万里へと視線を向ける。お互いに緊張しているのがわかった。
「あと一年の間に、すべての準備を整えないといけない。新規に採用した兵士たちは使えるのか」
戦力としてどうかと九峪は尋ねていた。そこは伊万里にも自信があった。
九洲の兵士は弱い。対して狗根国の兵士は強い。それが十年前までの状態だった。
九峪にはどうしてもこの兵士の錬度の差が気になってしかたがなかった。狗根国は兵士を専門職としている。だから兵士も訓練されて非常に精強であった。だが九洲では農兵が主流で、しかも農閑期でしか十分な軍役につけなかった。
この差は、歴史の事実を知る九峪には看過しきれない問題だったのだ。九峪は、織田の兵を知っている。豊臣の兵を知っている。四国を手中にした長宗我部元親の一両具足が、秀吉の洗練された軍団に一蹴されたのを知っている。
かつて耶麻台国はその経緯と同じくして滅んでいるのだ。また天目も、中國へ進出してからは在地の農兵を専門職の兵役にして、強力な軍団をつくり狗根国と覇を競い合ってきた。これら元農兵の訓練兵は、『徒士』という階級に組み込まれ、昇進制にした。下級武士のようなものである。
上手くいけば一城の主になれるかもしれないという功名心を巧みに擽られた彼らは、戦場において争うように首を求めるようになり、強かった。
もちろん、そこまでわかっていて何もしない九峪ではない。やや遅れて兵役を職業とする制度を固めたが、完全な普及には至らなかった。軍の中枢を担うのは錬兵であるが、外堀にはいまだ農兵がちらほらと見えている。
だがそれはそれでありがたいことでもある。雇われ兵は強い反面、またか弱く脆いところもある。自らの畑や土地を守るために死に物狂いになって戦う農兵と違い、雇われ兵は一度崩れると主を見捨てて逃げ出すことが多かった。負けてしまっても失うものがないだけに、大事なものはとにかく命なのだ。
その点で言えば、農兵は粘り強い集団とも言えた。
琉球で苦戦したのも、兵士に農兵が多く混ざっていたためだ。琉球人のような戦士としての気質すら薄いのでは、どうやっても勝てるわけがなかった。
現場で剣を振るう伊万里も狗根国兵の強さは骨身に染みている。積極的に兵士たちを育成することに力を注いでいた。
「あと八ヶ月の間に三百人は増やすつもりです」
「そこまで人がいるのか!」
三百人という数字に九峪も思わず声を大きくさせた。結構な人数である。いくら人材の補充が出来たといえ、それはあまりにも豪気な言葉に聞こえた。
人を駆り集めると、当然だが農地などで人手不足が発生する。人間は成長するのに十数年かかるが、死ぬのはほんの一瞬である。簡単に集められるものではないはずなのだ。
「あんまり急がなくてもいいんだぞ? 兵は豊後だけじゃないんだから」
どうにも伊万里は急いている様子だった。
気持ちは九峪にもわかるのだ。伊万里には先の大いくさで、北軍についていたことを失態とでも思っている節があった。
おそらくは今回の泗国遠征で名誉を挽回する腹積もりなのだろうが、それにしても伊万里は少し肩に力が入り過ぎている。このような場合にえてして失敗は積み重なるものだ。
「いいか、慌てるな。慌てて失敗したら、それこそ取り返しのつかないことになるんだ。自分だけの戦いなんて、くれぐれも勘違いしちゃいけない」
伊万里を諌めつつ、「それに」と最後につけたし、
「伊万里に死なれたら、俺がこまるだろ」
さも哀しそうな瞳をして九峪が言葉を吐いた。
そのような表情をされては、伊万里にも言葉があるはずもない。
「伊尾木ヶ原で行方不明になったとき、心配したんだからな」
「九峪様」
九峪の言葉が伊万里の心に響いた。じんっと熱い感情が伊万里に歓喜を与えた。
好きな男にこうと言われて嫌な気はしない。伊万里は、まるで自分が九峪にとって無二の存在であると告白されたような気分になった。
頬に朱がさすのを自覚した伊万里が顔を僅かに俯かせた。照れているのだ。しかし九峪は、その態度が自省して項垂れているのだと勘違いしてしまった。
いまの伊万里には、半生云々などという考えは欠片もない。
勘違いはこうして積み重なっていく。
「もうあんなのは御免だぜ」
きつく言い過ぎたかと九峪は笑顔で茶化す。一見気安いながらも思いやりのある一言に聞こえるが、内心には伊万里の身を本気で気遣う反面、『もう二度と鬼怒ヶ岳までいくようなことは嫌だ』という本音が見え隠れしている。
幸い、伊万里は気づかなかった。浮かれた伊万里はただ額面どおりの意味として受け取った。
九峪の熱い視線(伊万里にはそう見えている)を真正面からうけた伊万里は、無言で小さく頷いた。
——この人に、心配はかけさせられない。
と自らの逸る気持ちを抑えた。結果として伊万里を自制させることが出来たのだから、九峪という男もただならない。
しかし伊万里の努力はすさまじかった。汚名を被ったものの執念のもつ底力を見せ付けられたような気分だった。かつては藤那がそうして地位を回復して見せた。伊万里にも藤那同様、静かに鬼気迫るものがあった。
九峪が豊後湯布院に滞在して三日目になった。この間九峪が精力的に行ったことは、作戦の練り上げと領内視察である。農地を預かる百姓たちの疲弊状況をこの眼で見なくては気がすまないからだ。
なるほどたしかに、豊後は他の県に比べて豊かである。多少の損害はあったろうが、それでも筑前や筑後などと比べても、物資に溢れているようでさえある。
ちなみに、この段階でもっとも蔚海の暴政被害にあったのが、筑前・筑後・豊前・火向であった。火前は重然の反乱軍がおさえていたため被害は最小限に済んだ。火後の藤那はもとから反抗的な態度で蔚海の要求をはねつけており、薩摩にいたっては開戦を予見していた紅玉によって、あらかた蔵に仕舞われたあとだった。
善政を敷いた名君として民からの信頼の厚い志野は、以外にも税の取立てには素直に従った。ただしこちらは反乱軍に参加するため出奔していく豪族を見逃し、国内にのこった豪族たちへも『蔚海憎し』の感情を煽るために、あえて税の取立てに従ったものだった。もともと狗根国への憎悪を原動力として戦乱にかかわった志野には、憎しみという感情を操る術があった。このため織部が石川島を主体とする反乱軍に参加して士気が上がり、火向軍も半窪で激戦を繰り広げた。
泗国出兵の先駆けとして期待される豊後の状態が安定しているのは貴重なことだった。これから豊後には、兵力だけでなく、物資の面でも大きく頼らざるをえなくなるだろう。
伊万里には戦うことよりも、それら食料の確保に発奮してほしい。取れ高如何によっては泗国へ兵をおくる裏側で、またもう一つの作戦が行える。むしろこちらも、泗国の問題とおなじくらいに重要で重大な作戦となるだろう。
長湯城の近郊を視察する九峪の一行は、兵士を合わせても十数人ていどであった。一見すると、せいぜい地方の代官が見回りをしているだけの光景に思える。伊万里と上乃もこのとき、九峪の供として随行してきた。
山道に入り、額に汗の玉が浮かぶほどの暑さである。すでに夏であった。途中の木陰で昼食をとると九峪が言い出したので、諸々も思うところに腰を下ろして携帯していた弁当の紐を解いた。
弁当といっても握り飯だ。防腐剤代わりに塩辛い梅干を具材にしている。当時の梅干は非常に塩辛く、食べる人間は食べるが大体は残されるものだ。伊万里も上乃もあまりの塩辛さに梅干を好かないし、もちろん九峪が食べられるわけもない。
包みから握り飯を取り二つに割って梅干をつまみ出すと、それを白湯に入れてしまう。しばらく置くと塩分が抜けてくるのだ。これも好みの問題だが、味の薄まった梅干を握り飯の中にもどして食べるか、あるいは味噌汁と同じ感覚で、握り飯のともにすることもある。
九峪は薄めた梅を握り飯のなかへもどして食べるのが好きだった。変に塩辛くなった白湯はどうしても胸焼けを起こしてしまう。汁物としては薄味すぎるのもよくなかった。
山道から少しはずれたところに、長閑な田園風景を一望の下に見渡せる絶好の場所がある。ちょうど崖から突き出しており、真下は岩肌がむき出しになっている。落ちたら大怪我ではすまない、最悪は死ぬことになるやもしれないほど急だ。だが危険があるぶん、ここから見渡す世界は絶景でさえあった。
左手には長湯城が見えている。九年前、ここで九峪は智謀の限りを尽くして天目と激闘した。民家は焼かれ、城壁は崩れ、門にいたっては番を破壊され兵士十数人を押し潰して倒れた。
九峪が経験した戦いで、もっとも激しい戦いだった。それだけに記憶にも鮮明に浮かんでいる。いまは青々と映える田畑も、その当時には両軍に踏み荒らされ悲惨な状態になっていた。とても畑作など続けられそうにないほど、畦も水路も滅茶苦茶にされてしまった。
気質にもよるだろうが、豊後人はずいぶんと辛抱強い。農夫型と呼んでもいい。じっくり少しずつ根をはる、地に足をつけた力強さがある。その粘り強さが荒廃した田畑を見事によみがえらせた。
九峪がこの崖の上から長湯城と近郊を一望するとき、その胸中にはしっかりと生きる豊後人への限りない尊敬があった。どんなに苦しくても弱音を吐かずに必死に生きる彼らを、これまた親身になって必死に纏め上げる伊万里の頑張りにも惜しみない賞賛を送りたい気持ちであった。
——泗国をとるには、やはり豊後からしかない。
とこの男は折につけてそう思う。何年かかるかもわからない泗国取りだ。そして相手は彩花紫と天目であり、泗国を治めている四人の主たちである。早計に走っては敗亡の種を蒔くことになるだろう。
すでに倭国の大乱も半世紀以上が経過してしまっていた。九峪はまだ九洲しかその手にしていない。なのにどうして自分一代で天下を平らげられようか。無論その心積もりであるが、無理をして全てを台無しにしたくない。
この上は長期戦の覚悟が九峪にはあった。たとえ二十年、三十年かかってでも確実に泗国を掌中のものとし、次の世代に繋げるのも決して悪い手段ではない。そのためにも気の長い豊後人に泗国計略を任せたい。
大口で握り飯を頬張る九峪の眼前に広がる豊後の大地は、とても大きく見えた。広く見えた。ここからなら泗国を取れる気がした。
ふと、背後で小枝の折れる小気味よい音がした。首を巡らすと、握り飯の包みをもつ伊万里が立っていた。
「隣、いいですか?」
遠慮がちな伊万里に九峪が自分の隣の芝を叩いて招いた。
伊万里は、そっと九峪のすぐ隣に腰をおろした。
「まだ食ってなかったのか?」
紐の解かれていない包みを一瞥した九峪が質問した。九峪はいまもっている半欠けで終りである。
「九峪様をさがしてたから・・・・・・」
「俺を?」
「はい・・・・・・」
それきり伊万里は黙り込んでしまった。九峪は「なぜ」とは聞かず、残りの飯をゆっくりと齧った。昔の九峪ならばすぐ理由を問うただろうが、年をとるにつれて相手から切り出すのを待つようになった。九峪は、わざと時間をかけて租借した。
俯いていた伊万里も沈黙を紛らわしたいのか、包みを紐解き握り飯を手に取った。小さく口付け、やはりゆっくりと食んでいる。
とうとう切り出される間もなく九峪は完食して、水筒の水で米の粘ついた喉を潤した。それからはただ黙って眼下の田園風景を眺めた。
田植えが終わって、百姓の仕事は畑の野菜作りや家畜の飼育に移行している。豊後の気候はたいへん暖かく、土壌も肥沃であり、南から流れてくる黒潮が暖気と暖流をいっぺんに運んできてくれるから、とにかく農作物がよく採れた。
百姓の立ち働く姿がちらりと見えた。
握り飯を半分ほどまで減らした伊万里が、おもむろに九峪へと顔を向けた。
「九峪様」
声が少しだけ震えていた。
「なぜ、火魅子様とご結婚なされたんですか」
・・・・・・
「——は?」
思わず九峪の首が横を向いた。ちゃんと聞こえていたが、聞き逃したように理解しきれなかった。
眉根の幅が僅かに狭まった。無意識に苦面を浮かべる九峪だったが、問い返せなかった。伊万里が余りにも真剣で沈痛な面持ちだったから、そこから言葉が続かなかった。
伊万里もはっと我に返ったような表情をした。思い悩みに悩んで、自分でも理解が及ばなくなっていた。気まずそうに瞳を揺らし、再び顔を俯けた。
重苦しくもないが愉快でもない、なんとも奇妙な沈黙が空気を支配した。
じわじわと九峪の脳が伊万里の言葉を解いていく。すると困ったように視線を泳がせた。
——困ったなぁ。
と素直に思った。九峪にとっては中々答えづらい問いかけであった。
横目で伊万里を盗み見ると、なぜあんな事を聞いたのかと深く後悔しているようだ。
人は面白い。考えれば考えるほど、気持ちや思いや、尋ねたい問題の本質まで素直に尋ねられなくなる。いっそ勢いのままに聞けばいいのに、その前にあれこれと考え、考え続けた末に自分でもわからなくなってしまう。そしてわからなくなったところで理性が白旗を振り、そこで勢いに任せて尋ねてしまう。
それを人は意的の中心をさして『図星』と呼ぶ。あるいは『墓穴を掘る』ともいう。
伊万里は、自分で自分の図星をついて、だけでは飽き足らず自らの墓穴まで掘っていた。
握り飯を両手にして固まる伊万里にどう声をかけようかと悩んだ九峪は、さてどう答えたものかと思案した。
「・・・・・・伊万里は、気になるんだ。俺が火魅子と結婚したのが」
探るような言葉に、伊万里の身体がすこし強張る。だけど逡巡してから頷いた。
「もしかして、気にいらなかったとか?」
恐る恐る、といった風体の九峪に応えは返ってこない。
ただ、やはり頷かれただけだった。
——誤魔化すべきじゃないな。
伊万里が押し黙るのは、そうなるまで悩んでいたからなのだろう。もともと内向的な性分の伊万里は他者に悩みを打ち明けたりすることさえ躊躇う。
ならば九峪は素直に答えて、伊万里の心を軽くしてやらないといけない。
「理由はある。伊万里もわかると思うけど、俺と火魅子はそれぞれ勝手に持ち上げられて、名目だけの対立をすることになった。もちろん俺たちにそんなつもりはなかったし、実際対立なんかもしなかった。だけど大義名分の材料にはされた」
抑揚ない説明で九峪が過去の事を語った。
「組織のあり方が不透明だった。神の遣いの発言力が強すぎた。これが騒乱を招いた原因のひとつだった。だけど火魅子のあり方も明確にしなかった。これもいけなかった」
「・・・・・・それは、どういうことですか?」
伊万里が顔を上げて尋ねた。
「火魅子とは本来、国の柱だ。国って言うのは、平たく言えば人の集まりでしかない。人が集まれば色んな考えがあるし、争いだって起きる。だけどそれを決定的にさせないためには、民の心を一つにまとめる必要がある。まとめられる存在が必要になってくる」
「それが、火魅子なんですか?」
「正確には違うな」
九峪が考える火魅子とは、もっと概念的な存在である。
「『火魅子』という名の意味は、九洲人を纏め上げる『思想』の別称でもあるってことさ」
簡潔に言い切った。これこそが火魅子の存在意義である。
「人間は思想がないと無軌道に歩き出す。そこに秩序はない。人間が日々の営みを苦なく送るには、なんとしても心がけないといけない『心の掟』が必要になる。たとえばだぞ。鶏が鳴くとみんな起き上がって田に出て行くけど、もし鶏が鳴かなかったらいつまでも寝たまんまになっちまう。それじゃあ米も野菜も作れない。みんな鶏がなく頃に起きるって心のどこかで決めているから、ちゃんと畑仕事が出来るんだ」
そういわれてみれば伊万里にも漠然と理解することができた。ようは万民共通の理念や信条がなくては社会の成り立ちはありえないと九峪は語っていた。
この場合で言う鶏は火魅子のことである。鶏は決して、百姓に畑仕事をさせるために、明朝を迎えると鳴くのではない。ただ人間がかってにそうと決めただけのことでしかない。
「火魅子だって同じさ。だけどそこに違う思想が混ざっちまった。それが俺だ」
とここで淡々と語る九峪の口が苦くなった。舌先に痺れを感じたように言葉が一瞬消えた。
「やりすぎた」
と九峪が辛うじて吐き出した言葉は自責の一言だった。この一言が九峪たちを苦しめた、おそらくは最大の要因であったのだ。
しかし九峪は頭を振った。
「いや、違うな。目立ちすぎたが正しい言い方かもしれない。俺は火魅子以前の思想だったけど、それがいつまでも人の——とくに武官の印象に強く残りすぎた。思想っていうものは、普通あたらしい考えが入れば、古い思想と新しい思想の間で争いが起こるものだ。あの騒乱は、思想のぶつかり合いでもあったんだ」
いまにして気づいたことでもあったが、あの文武騒乱は起こるべくして起こったものなのかもしれない。
九峪はずっと、文官と武官の諍いと神の遣いの名声の高さが争いの原因だと思っていた。それだけが理由だとも信じきっていた。ところが火魅子と結婚する話になったときに、本質が違っていたことに気づかされた。
逆に九峪が最後の最後で婚姻を承諾したのは、思想の隔たりという根本原因に気づいたためでもあった。
「だから・・・・・・二つの思想をあわせるために、結婚したのですか」
伊万里が、複雑な顔でいった。
それでは、別に好きあっているわけではないのではないか。これでは完全な政略結婚ではないか。好きでもない女と添い遂げたのか。
言葉に出来ない思いに伊万里が顔をしかめた。力いっぱい、地面を殴りつけたい強烈な衝動が吹き上がってきた。
純朴な伊万里には納得しきれない。好きな男が政治のために火魅子と結ばれたという事実が伊万里に怒りを覚えさせた。
伊万里の様子を感じ取った九峪が、とっさ危険を感じて両手をふった。
「お、おい、いま俺のこと不埒な男って思っただろ!?」
「・・・・・・破廉恥だと思いましたッ!」
大きな声で伊万里が叫んだ。九峪はあわてて周りを見回した。こんな爆弾発言を聞かれては大惨事になってしまう。
しかしそんなことは伊万里にはお構いなしだった。もうこの荒れ狂う気持ちを落ち着かせることも、整理することも出来そうになかった。
「好きでもないのに結婚したってことじゃないですかッ」
「たしかに恋愛結婚ではないけど」
興奮する伊万里に九峪の腰が引けた。伊万里からはなかなかの凄みが放たれていた。
だからだろうか。切羽詰った九峪の口から余計な言葉がぽんぽん飛び出した。
「だ、だけど、べつに嫌いじゃないんだぞ? 星華は、ほら、美人だし、スタイルいいし、ちょっと積極的過ぎるけど素直だし可愛げもあるし——」
「お、お、女だったら何でもいいってことですか!? すけべぇってことですか!?」
「や、違——ぅあッ」
「乳がでかけりゃそれでいいんですかッ!!」
眼を見開いた伊万里が、九峪の型を強引に掴んで揺さぶった。前後左右、天地が逆転鳴動して、目が回る。なまじ腕力があるだけに九峪の首が赤ん坊のように曲がった。
どんどんと顔面から血の気が引いていくのさえ伊万里には気づけなかった。もう悔しさややるせなさやら、憤りやらで、視界も涙に滲んでいる始末だった。
ぱっと伊万里が肩を放した。
「ぶえっ」
九峪が脱力した背中を地面にたたきつけられうめき声を上げた。涙目の伊万里が肩であらく呼吸している。さきほどまで九峪の世界を渦巻状にしていた両腕は力なく垂れ下がっている。
「う、ああ・・・・・・い、いまりぃ」
よろよろと九峪が身を起こした。
——が今度は、右手首を思い切りつかまれた。一瞬、腕を捩じ上げられるのかと身体を強張らせた。でも九峪の予想に反して、力強く腕を引かれた。
そして九峪の掌が、柔らかいものに押し当てられて——
「——ってちょ、ええ!?」
なぜか伊万里が、自分の乳房に九峪の右手を押し付けていた。
「わ、私だって小さくありませんッ!!」
涙に潤んだ顔の頬が真っ赤であった。こころなしか、瞳も揺れ動いている気がした。
暖かくて柔らかい感触が九峪の掌に広がっていく。いうとおり確かに小さくはない。むしろ星華のように『大きすぎる』こともない、ほどよい大きさと柔らかさだ。
九峪も思わず伊万里の胸を揉みかけてしまっていた。はっと九峪は我に返った。
「い、い、伊万里、な、な、な、何をっをッ!?」
信じられない事態と光景の前に九峪の同様は甚だしかった。緊張の余り胸にふれている右手をどかすことも出来ず、そのような配慮を働かす思考能力も失われていた。
だがそれを誘った伊万里などは、九峪と同様かそれ以上に——錯乱していた。目が完全に泳いでいた。
それどころか伊万里は掴んだ手をなお自身の乳房に押し付けてくる。平素、彼女からは想像すら出来ない所業である。破廉恥といえばこちらのほうがずっと破廉恥ではないだろうか。
しかし、目をぐるぐると回す伊万里は真剣そのもので、真摯な気持ちである。もはや気持ちの全てが九峪にのみ向けられている。
九峪は、成す統べなく、されるがままとなっている。どうもこの男は、生来が好色の気があるくせに、女性の押しにとことん弱い性分のようである。
このときも男としては落第点の取り乱しようだったが、ただし普段の伊万里をよく知っているぶん、それも仕方のないことだった。
「お、落ち着け、おつつけッ!」
まずこの男が落ち着くべきである。
「い、伊万里の胸が小さくないことは、よくわかったから! 形がいいのもよっくわかったからッ!!」
「でしたら、私の胸と星華様の胸、どちらがいいんですかッ!?」
「それをここで言えと!?」
あまりにも無情な脅迫に九峪は愕然となった。
俗な考えかもしれないが、どちらも甲乙つけがたいというのが、九峪の持つもっとも相応しい意見であった。星華にも伊万里にも、互いに譲ることないものがある。もちろん、胸の話であるが。
男の人情を言えば、どちらの水も甘い。男の性を振りかざせば、どちらの胸も捨てがたい。
九峪も、神の遣いとか英雄とか言われる前に、所詮は人の子男の子であった。
「やっぱり大きいほうが・・・・・・ッ!!」
「お、大きいばかりが胸の全てじゃないぞッ。俺は胸で女を選ぶわけでもない! 星華とはたしかに政治が最初に立ったけど、で、でも今は素直に好きだッ!!」
——追い詰められると、人間なんでも言えるものである。
とくに考えず勢いで言ってしまったが、勢いだけの分それは九峪の本心からの言葉だった。もともと嫌いではないし、好いてくれているとわかっていた女性でもあるから、夫婦になるとこちらも相手を愛しく思うようになれたのだ。
だがこの場合、その答えで正しいのかどうかと問えば、おそらく十人中八人は、『愚かな・・・・・・』とため息をつくに違いない。
わななく伊万里が、とても哀しそうな瞳で九峪を見つめている。
「やっ・・・・・・やっぱり、じゃあ星華様のことが・・・・・・」
伊万里が大人しくなったことで、ようやく九峪も落ち着きを取り戻した。
そして自らの失言に気づいて、顎が外れそうになった。迂闊なときにはとことん迂闊であることが、九峪の弱点かもしれない。
「いや、その・・・・・・」
九峪の背中でさっきから汗が滝のように流れている。背中どころか、全身の汗腺から汗が吹き出ている。
清瑞や亜衣のことでなんども悩んだことはあった。そこに星華が絡んだときは、本当に夜も眠れないほど悩んだ。それらが一段落着いて、九峪自身の腹が据わったかと思えば、次に待っていたのは伊万里のご乱心である。
娘のように涙を流す伊万里だが、九峪は今回もやはり泣きたい気持ちで一杯だった。それどころか、わんわんと大声で泣きじゃくりたいほどに。
——もう、どうにでもなれ!
破れかぶれだった。
「伊万里のことも嫌いじゃないぞッ!」
顔中口にせんばかりに九峪が叫んだ。九峪にしてみれば、本心である。しかし『あいつが好きだ、お前も好きだ』といっているようなものだ。この時代では一夫多妻が地位者の鉄則も同然であるが——情けない姿である。
とはいえ、男と女の問題であれば、ぞのような時代であっても、男はここまで情けないものなのかもしれない。
かの豊臣秀吉ですら、浮気の果てに妻と大喧嘩して、ついには主君である織田信長が仲裁しなくてはならないほどにまで大変だったという。
妻妾をもつとはそういうことなのだ。現代人の感覚ではちょっとわかりにくいことであるが、九峪が多くの女性と関係を持って子孫を残すことは、九峪以外の人々の思惑でもあるため(事実そのために亜衣も了承した)、九峪の苦労も立場あるものとしての宿命であるといえた。
だが——この一言に伊万里が衝撃を受けていた事に、九峪はもちろん気づかなかった。そして、伊万里も破れかぶれになっていたということにも、気づいていなかった。
もはや伊万里の心を抑えつける者は、どこにも存在しなかった。
「——で、でしたら!!」
ぎゅっと目を瞑り。
拳を握り。
伊万里は覚悟を決めた。
「き、嫌いじゃないんなら——わっ、私と結婚してくださいッ!!」
それは伊万里が生きた三十年のなかで、他と比較できないほど勇気の要った言葉だった。
有体に言えば。
伊万里からのプロポーズであった。