「き、嫌いじゃないんなら——わっ、私と結婚してくださいッ!!」
伊万里の叫び声が聞こえた瞬間、
——キターーーーーーーッ!!
と心の中で喝采をあげる者がいた。
上乃である。木々の間にこそこそと身を隠して、九峪と伊万里の様子を握り飯片手に見守っていたのだ。
固い握り飯をぐにぐに噛み締めながら、耳だけはひっしに二人の会話を拾おうとしている。気づかれないよう最新の距離を保っているために、会話の内容も断片的なものでしかなかった。
が、ここにきて伊万里が叫んでくれたおかげで、少なくとも、
——伊万里が突貫した
ということだけは手に取るようにわかった。
「いはひ、やへはひぇへるひゃふぁい!(伊万里、やれば出来るじゃない!)」
「口のもの飲み込んでから喋ろうよ」
隣に座っている仁清が呆れて肩をすくめた。彼もまた握り飯を頬張っている。
音を立ててご飯を飲み込んだ上乃は水筒で喉を潤し、視線を伊万里たちに合わせる。
「ほらね、伊万里だってやるときゃやるのよ」
まるで一大事件のように上乃は興奮していた。さっきから頬のニヤケが収まらない。やはり人の色恋現場を見ていると愉快で愉快で仕方がなかった。
爛々と瞳を輝かせる上乃を、握り飯を平らげた仁清が苦笑しながら見上げていた。
豊後県長湯城郊外の田園を視察に出ていた九峪一行は、その日の夕暮れ時に、長湯城へと一宿一飯のために立ち寄った。もとからそのつもりであった。
神の遣いが尋ねてくるということで長湯城下の町々では九峪一行を盛大に歓待し、人垣の大通りを九峪は馬で進んだ。その隣を伊万里が同じく馬で進み、警護として上乃と仁清が兵をそれぞれ八人ずつ率いて後からついてきた。
九峪も伊万里も、それほど会話はしなかった。むしろ気難しげな表情を隠さなかった。幸い、領民は沸きあがった舞い上がって、そんな九峪や伊万里の様子に気づきもしなかった。
この時代の城郭都市にはわりと多いほうだが、宮殿の手前には多目的広場がある。市場が開かれることもあるし、何かしらのお触れが下されるのも広場が多い。あるいは相撲などの催し物や神前試合が開かれ、いくばく昔にはこれら広場が奴隷市場として活気に溢れた時代もあった。
「——あの、話だけどな」
広場の中央を進む九峪が伊万里へと視線を向ける。伊万里は俯いている。
「お互い、少し落ち着いてから、もう一度話し合おう」
「・・・・・・はい」
消え入るかと思えるほどにか細い声が返ってきた。やはり伏目のまま伊万里は応えた。
その光景を後ろから見ていた上乃はがっくりと肩を落としている。馬の手綱を握る手にさえ力が入っていない。
あのとき、全てが決すると上乃は我がことのように思っていた。また強く念じてもいた。奥手な伊万里が、この勢いにかった瞬間しか九峪を口説き落とすことはできないと。
固唾を呑んで見守るさきの九峪はひどく狼狽した風だった。いくら九峪でも伊万里のアプローチにきづかなかったわけがないはずだ。たしかに星華ほどには行動していなかったが、それでもそうと気づける程度には目をかけていた。
だから九峪は、そうと思いつつそんなはずはないと、心のどこかで『タカ』をくくっていた。それを崩せるだけの勢いを伊万里は見せていた。
——あのまま何事もなければ。
上乃の悔恨は底なし沼のように深く深く沈んでいる。
「仕方がないよ。なっちゃったものは」
「アンタ、そんなんで済ますわけ!? 伊万里の大事件なのにッ!」
「じゃあ戻る? あの丘まで」
そんなことしたって意味がないと仁清が涼やかに言った。
「過ぎた事を悔やむよりも、これからを見守ったほうがいいよ」
「言われなくてもわかってるわよ!」
眦を吊り上げた上乃が馬の腹を蹴った。進めの合図に従って馬が歩調を速めた。
上乃が気をカリカリと擦らせるのも無理はない。あの瞬間、敵の夜襲にすら簡単には動じない仁清までもが口を開けたほどだった。
——まさかもう少しってところで邪魔が入るなんて。
邪魔とは、とある武将であった。天候の雲行きが怪しくなってきたのを気にした武将が、九峪と伊万里に伺いするべく探していたのだ。九峪も伊万里も水を差されて、うやむやなまま立ち上がってしまった。
本当にあと少しだったのだ。あの勢いのまま、それこそ九峪を押し倒しそうな勢いであれば、九峪の心も傾いたかもしれないのに。
仁清にも我がことのような遣る瀬無さがあった。
元星九年八月の暮れ、二十日ごろから日差しが急激に強まりだした。折において、『那津城(なづじょう)』の普請が下知されたのもこの頃だった。
疲弊した経済力で普請を行うことに難色の声も上がったが、泗国戦略においてこの那津城はなくてはならないものであった。那津城は北九洲最大の貿易港である那の津より、内陸へわずか一里ほどある猿田(さるた)の里を基盤として建築される。
領内ということもあり、普請の総監督は当地の太守が執り行い、里の者だけでなく多くの労働者が猿田の里へ集まった。
しかし、いくら必要不可欠といってもそれは民に関係のないことだ。蔚海政権が崩壊してすぐに重労働を強いては一揆の元ともなりかねないだけに、太守ら指揮者たちも内心で怯えながら作業に従事していた。
そのような状況を見越してか、九峪は度々にわたって普請現場へと足を運ぶようになっていた。
理由は二つ。ひとつは先も語ったように一揆を未然に防ぐため。九峪が細かに視察することで土民の不満を少なくさせていた。
二つ目は、これから築城させる那津城が、いままでの城とは大きく違う機構を備えているためである。
資金をかけない城を作るのに、まず九峪が目をつけたのが城壁の有無であった。城壁を作るのには、岩を研磨する職人、レンガ職人など多くの技術者を必要とする。運ぶための人夫も相当数を養わなくてはならない。これを削減するのに考えついたのが、城壁を必要としない城であった。
幸い、九峪の育った世界での日本は城壁のない城が高度に発達した。九峪の生まれた九州には、熊本城という名城が見本として聳え立っている。歴史好き、とりわけ戦国ゲームなどにのめりこんだ九峪が、ちょうど隣県という好立地にある熊本城を訪ねないわけがなく、そのときの体験や得た知識を那津城へ惜しみなくつぎ込んだ。
猿田の里は、山人が多く営む集落である。ゆえに『猿(山人)が苗のごとく多い』という比喩としてついた里名でもある。つまり山里なのだ。
最近の九峪は猿田にいることが多かった。いやむしろ、猿田から指示を出すようにさえなっていた。癒しの場であった湯布院にすら——いろいろあって、足が遠のいている。
猿田の里の造りは築城に丁度よかった。里全体を本丸にして、下の山間などに郭を備えていく計画で築城は進められた。城壁を必要としない分、つねに攻め手よりも高い位置に陣を構えなくてはならない。そのために土塁を盛り上げる。九洲の各地から自然士を募り、着々と土塁が盛られていった。
「落成は早くとも来年の五月ごろになるでしょう」
里長の屋敷で自然士監督の土岐から説明を受ける九峪が、今回の普請に際した図面を睨みつけて唸り声を上げた。
「もう少し早くは出来ないのか。年内とか」
「それは無理というもの。どれだけ急かしても来年の七月を越えますまいな」
「外加奈の城は、四ヶ月で出来上がったって聞くぞ」
図面を片手にあげて九峪が難しい表情で言った。あれだけ立派な城郭がわずか四ヶ月という短い期間で完成したのだから、それに匹敵する早さで那津城も作れるはずだと、土岐に限らず普請に関わる棟梁たちへ問いただした。
ましてや今回、もっとも面倒な城壁を作る必要がないのだ。
しかし大工頭たちが一様に頭をかしげた。みなすでにそこそこの精力を出して作業に当たっている。これでも手一杯であるのだ。
「人足を増やしていただければ」
ことにいたっては土岐が言った。人手さえあればどのような作業も速く済む、道理ではある。しかしそれでは、こんどは懐に穴が開きすぎてしまう。
なんにしても蔚海の犯した愚かな所業が、いまはこの上なく恨めしかった。
むかし、天目が彩花紫の遠征軍迎撃と天都建設にあって、人手の配分におおいに苦心していた事を九峪は思い出していた。
まさに人を立てれば金が立たず、あちらを立てればこちらが立たず、であった。
「黄金なら捨てるほどある。しかし食料がなぁ・・・・・・、砂金は食えんこともないけれど」
「御免被りましょう」
にべもなく土岐は言った。
目下、それがもっとも悩ましかった。
草いきれにむせ返りそうなほどで、草原にさえ蒸気がのぼっている。
風が吹くたび、涼しい感触が頬や肩をなでた。
泗国斗佐への渡り(調略)を任されている伊万里は、最近になって遠乗りに興じるようになった。暇なときはふらりと姿をくらませ、遅いときには朝帰りなどまでしている。
まるで放蕩な趣味に目覚めたようであった。しかしそのすべては、胸のうちに燻っている慕情からくるものだと、気づいているものは極稀でしかなかった。
駒木馬といえば、言わずとも口をついて出てくるのが火後の駒木衆である。勇壮華美にして最強の騎馬軍団。三百騎と規模で言えばけっして大所帯ではないが、間違いなく西国一の騎兵隊である。
これらとは比べ物にもならないが、知事の抱える親衛隊でも、さらに一部の部隊は『馬廻』と呼ばれる騎馬隊で構成されている。もちろん駒木馬であり、知事も専用の愛馬を持っている。
藤那が巨大で黒毛の馬を愛馬としているように、伊万里は亜麻毛色の駒木馬を愛馬としていた。
伊万里の馬は駒木の馬としてはあまり速い方ではない。馬格も小さい。むしろ鈍馬でさえあった。山岳戦を得意とする伊万里には、むしろこのように小ぶりな馬のほうが勝手がいいのだ。そのため伊万里の保有する騎兵隊は、みな倭国馬で構成されている。
とはいえ、倭国の駄馬に比べては速い。風を切って走る。自らさえも疾風になったような錯覚が、伊万里の心を覆っているもやもやを晴らしてくれていた。
遠乗りで出かける先はいつも同じである。ひたすら東へ東へと進んでいく。山を越えると草原に出て、いまは草むらを走っているが、いずれ林に入り、海がみえる場所に出る。
海岸まで一気に走破すると一望に見渡せるのが栖防灘。真夏の栖防灘は荒々しい冬のそれとはまったく違って大人しいものだ。
崖岸にまで馬で来ると、馬の足を止めた。眼下では波が断崖に打付けられて砕け散っている。潮の香りが強い。
馬上、睥睨する海は古今において、人間の手ではどうしようもできない偉大な存在であり続けてきた。人間は海に逆らわないでこの数百年、数千年、はては文明を築く以前の一万年前を縄文の世として生きた。
九峪に思いの丈の一切合財をぶちまけてから、いまだ返事はない。程なくして九峪はかねてより計画していた那津城の建築に着手してしまったからだ。光明の見出せない日々を送っているうちに、伊万里の心は、いつしか海に向かっていた。
おかしなものだと、伊万里は思うことがある。山で育った山人の自分が、まるで海人のように海を見て、潮をかいで、波立った気持ちを落ち着けようとしているのだから。
浜辺へと降りると、馬を木に繋いで、伊万里は木陰に腰を下ろした。漁師の姿かたちもない、波と海鳥の音だけの静かな浜である。
「・・・・・・なんで私は、知事なんかやってるんだろう」
愁いを帯びた声音で呟いた。
伊万里は、九峪の困った苦笑いを思い浮かべた。戸惑いの奥に、嬉しそうな色が見えていた。少なくとも嫌われてはいないという事実だけが救いだ。
一人になって落ち込んで、様々な事を考えた。九峪に思いを告げてからは、もう心に蓋をする必要もないから、本当にいままで抑えつけてきたあれやこれやが、一気に噴出してきた。
最初こそ、やはり女としての一番を手にしたいという強い欲求があった。それはつまり、九峪の本妻という立場だ。しかしこれは儚くも火魅子に奪われてしまった。思えばここからが伊万里の葛藤の始まりでもあった。
二番目に甘んじるのか。どうなのか。実際問題、二番しかない。もたもたしていたらその席すら失い、三番、四番と格は下がっていくかもしれない。
一番に愛されたいと想う一方、九峪が離れていって、次第に『とにかく想って欲しい』という望みに変わって来た。二番でもいいということだが、それはそれで伊万里を苦しめる。
だが、何をして伊万里を陰鬱にしているかというと、それは伊万里の知事としての地位であった。領主であることが一番の問題なのだ。
九峪はいまや九洲の王であり、一応はまだ太師という肩書きも持っている。豊後の伊万里と夫婦になるのには、いささか問題が多かった。
——九峪様が、王にさえならなければ。
そうすれば、まだ望みはあったと伊万里は考えていた。難しいが、不可能ではなかった。しかしその望みは、希望は、一瞬で崩れ去った。ぬか喜びだ。
——もしも、もしも私が知事でなく、一介の将軍であったなら。
領地を持たず、そう、親衛隊の隊長でもあれば、いつでもどこでも九峪についていける。それならばともに暮らすことだって出来たはずなのだ。
いまほど自分の出自を呪ったこともない。いまさら知事をやめるわけにもいかない。だからといって自分の感情を押し殺すのも、あまりに辛すぎる。
どうすれば・・・・・・どうすることが正しいのか。
自問自答の日々が続いていた。
風が俄かに強くなった。座り込む伊万里の目の前を、浜砂が空に待った。とっさに手をかざして砂が目に入らないようにと目を細める。
真夏の突風とは珍しい。一瞬のことで、馬も嘶いた。
「まだ嵐の時期じゃないのに」
小さく舌打ちしたとき、風の勢いが徐々に落ち着いていった。少し離れた場所で、小ぶりな砂の竜巻が出来ていた。突風だと思っていたのはつむじ風だった。
迷いを払うように駆けてきた浜辺で水を差された気分だった。立ち上がり衣服についた砂を払い落とし、繋がれている手綱を解こうと腕を伸ばした。
しかし、そのとき、遠くの沖にわずかな点が見えた。
・・・・・・船?
しばし伊万里は沖を見つめた。点は少しずつ大きくなっていき、数も一つから二つに増えた。
「船だ・・・・・・」
舟形の輪郭がはっきりするにつれ、伊万里の胸中に胸騒ぎがしてきた。
さすがに距離が開きすぎていて船の旗が見えない。
急いで手綱を解き、馬の鞍に跨った。
「沖の向うから来た船だって!」
浜辺を馬で駆け出した。胸騒ぎは大きくなるばかりだった。
もう頭の中には、九峪のことなど押しやられている。いまはただ船首が向いているのと同じ方向へと馬を走らせていた。
沖の向こう——栖防灘を越えた先にあるのは斗佐に他ならない。
海沿いの道を行きながら、視線をたびたび二隻の船へと注ぐ。尻を叩かれた馬が遠く啼いても伊万里は息を弾ませて鞭を打った。
船が湊の沖合いおよそ一里もない場所で動きを止めるのを、それよりも若干はやめに到着していた伊万里は確認した。
湊は、やはりわずかに騒いではいたが、まだそれほどの関心ごとには至っていなかった。だが、一部の海人たちが船に翻る旗が斗佐のものであると気づいた途端、にわかに場がざわついた。
——二つ山
と、九洲人はそう呼んでいる。山が二つ並んでいるからであった。山間の地である斗佐らしい紋章でもあった。この二つ山の頂の上に三日月をのせると、それはさながら北山紋の二山月牙のようとなる。
「斗佐からの使者だ」
すぐに伊万里の脳裏に直感が奔った。
いままで何とかして斗佐の勢力と接触を繰り返してきたけど、とうとう向うから反応があったのだ。
いそぎ馬首を湊を預かる豪族の舘へと向けかけ、はっと足を止めさせた。
豊後の知事である以上、会見はもちろん、豊後で執り行うべきではないだろうか。そうでなくとも、今この場所で顔を合わせるのはよくない。
その程度の外交感覚は伊万里にも育っていた。
もう一度、斗佐の船を見やり、伊万里は波羅稲澄城への帰路を急いだ。
猿田で那津城の普請を指導していた九峪が、所用で耶牟原城へと戻る日に会わせて、廉思も上都することが決まっている。
二人は、蔚海の処刑において一応は顔を合わせていたが、正式に『拝謁』するのはこれが初となる。
申し入れは教来石からのものだった。
日取りは八月の二十八日にあわされ、その四日前に、廉思と教来石は兵を百人つれて外加奈の城を出発した。
まだ自分の屋敷を持っていない廉思は、八柱神を奉っている寺社にある僧侶たちの宿舎を間借りすることにしていた。兵士たちは、各々が宿屋を手配してそこで分宿している。
寺社に泊まるのは、廉思と教来石、そして教来石の護衛を勤める赤峻以下三十人ばかりである。
「女王と、神の遣いと、宰相と、大将軍と・・・・・・」
謁見を明日に控えた廉思の表情はかなり重苦しく、先ほどから何度も小言を呟いている。
「この四人を相手にするのか・・・・・・。北山にいたころからは考えられんことだ。国主と執政にお目通りかなうというのは」
打ち震えるほどの感慨であった。
北山では、王を国主として、その下に大親方という執政が置かれている。その下で文官と武官の責任者である親方衆がおり、これらが王国の幹部たちとされてきた。
廉思がこの親方衆であり、教来石の直接の上司に当たっていた恵源が執政であった。教来石は大親分の直属であったから、親方でないものの地位は同等のものだった。
しかし親方衆といっても、国主である北山王との会見を許されたのは、そのうちのほんの一握りだけ、つまり有力者のみであった。廉思も教来石も、式典以外で北山王の尊顔を拝むことはついになかった。
だから二人にとって王とは、それだけ雲の上の存在であり、その王と同等とも言える宰相、大将軍の両方とも一度に対面するということは、生涯で一度あるだけでも奇跡に等しい一大事であった。
しかも、この拝見がすわ北山人の明日をも決めかねないだけに、廉思の胃はキリキリと痛むというものだ。
「この謁見、下手はうてんぞ」
心配事を飲み下すように杯の酒を干す廉思に教来石が忠告をした。
「神の遣いは我らの味方。女王は取り入りやすい性格をしており、大将軍は武門一辺倒の豪傑なれど外交感覚に乏しく、また神の遣いに心酔しているとわしは見ている。警戒すべきは宰相じゃ。あの亜衣という女・・・・・・頭の切れでも弁舌でも、わしでは遠く及ばぬ」
「・・・・・・それほどのものなのか。俺は、直接会うのが初めてだからわからんが、お前にそこまで言わせるとは」
「宰相の機嫌を損ねぬことだ。あの者が国政を仕切っておる以上、ある意味では女王や神の遣い以上に厄介な存在となろう。取り入るならば宰相ぞ」
「お前が舌先で言い負かせんような相手に、この俺がどこまでやれる?」
廉思が苦虫をかんだ顔をした。廉思はいくさ働きで親方になった生粋の北山戦士であった。知恵者を相手にするのは苦手なのだ。
しかし、むしろ廉思のほうがこの場合において最適であると、知恵の回る教来石は考えていた。
「なまじ物事を考えぬお主だからこそ、適任というものじゃ」
「それは逆だろう?」
「まぁ、聞け」
杯を置いた教来石が居住まいを正した。
「此度の拝謁は、我ら北山が九洲に臣従する意思をより明確に示すためのもの。そこで、腹を探り合うような事をしてみよ。信頼を得ることは無理だ。ならば、何の謀略もいだかず、素直な心持で相向かうことが、相手にこちらの誠意を伝えるにもっとも効果的である」
「それは心の問題だ。別に俺に限った話でなし、お前も素直な心持とやらで向かえばいいことではないか」
廉思のいうことも正論であるが、だが教来石は自嘲気にわらい、
「わしは、あの宰相が苦手なのじゃ」
とおどけるように応えた。
「わしのように何度か顔を付き合わせたものは、脇に控えているほうがよい。それに、わしは宰相から信用されているとも言い切れないのでな。やはり、お主に任せるほかないのよ。・・・・・・三度も出兵を促せば、恨まれもしよう」
最後の一言は、余りにも小さい呟きのようであったが、廉思には聞こえていた。廉思は、この九洲という大国の中で、朋輩である教来石の立場がいかに危ういかを、わずかでも気づけた。
はじめて謁見の間を訪れたものは、誰であってもその奇抜な内装に度肝を抜かれる。やはり、廉思も例外ではなかった。
文化の違いといえばそれまでかもしれないが、しかし赤・紅・朱の薄絹が垂れ下がり、幾百本の蝋燭が燈る光景は異世界染みていた。神秘的と教来石は評するも、だが廉思には不気味な色合いに見えた。
——だが、上手いものだ。
心から廉思は感嘆していた。この異風ただよう大広間が、すべて相手を圧倒するがための舞台装置であると、瞬時に見抜いていたからだ。おそらくはこの広間と、目の前の高台にいる女王や宰相を前に、さしもの教来石も「これは敵わない」と思ったに違いなかった。
斜め後ろに控える戦友と違って心底から圧倒されなかったのは、廉思の思考が教来石ほど複雑ではなかったからだ。素直にすごいと認めた瞬間、それだけで廉思の中では完結していた。
「本日は、ご拝謁の義を賜りまして、まこと恐悦至極と存じ奉りまする」
地を低くして廉思と教来石は頭をたれた。もはやそこに、かつてのような対等関係、強要的な態度は欠片もなく、まさに臣下の礼そのままであった。
火魅子に代わって上座の亜衣が頷き応答すると、ここから、主君である火魅子から家臣である廉思に対して、下賜の儀が執り行われた。
下賜にて与えられるものは、剣・矛・勾玉・銅鏡・印璽のどれかである。他国では比較的、剣または銅鏡である場合が多い。この下賜品の有無こそ、もともと外勢力であった者たちを国臣であると認め、迎え入れたことの証であり、拝領した方もこの下賜品を忠誠の証として、代々の宝物とするのである。
今回用意されたのは、人の背丈ほどある鉄製の矛であった。ただしただの矛ではない。翡翠と紅玉から作り出した勾玉を、刃の腹の表裏に埋め込ませた、特製の矛である。実戦には向かない儀礼用のものだ。
慣わしとして一度火魅子が手にし、加護を吹き込んでから廉思に与えられた。
「これを『北山衆』の宝物とし、末永い忠誠の証としなさい」
「ははっ・・・・・・。ありがたく、お受けいたしまする」
両手で矛を受け取り、同席している部下にあずけ、ふたたび額をさげた。
——これで、我らは耶麻台国の一勢力に成り果てる、か・・・・・・。
覚悟していたことだが、いざこうして臣下としての扱いを受けると、やるせない気持ちがこみ上げてくる。
しかしすぐに邪念を追い払った。どのような扱いを受けようと、もともと故郷を捨てて逃亡してきたのだ。もはや文句を言える立場ではない。忠誠を誓えといえば、誠意を持って仕えるしか道はなかった。
そういう時代に北山は入ったのだ。
上座の亜衣が、竹簡の巻物を広げて諸々の通達を始めた。
「すでに運営はしているようだが、改めて宣言する。まず、廉思を左中尉に任官する由。これからは一将軍として、滅私奉公に勤めよ」
「はは」
とりあえず頭を下げるが、脳裏では、
——左中尉とは、どれほどの階級なんだ?
と首を捻っていた。まだ九洲の階級制度になれていない廉思には、いまいち実感がなかった。
ちなみに、左中尉は将軍階級の中ではちょうど中官位にあたる。九つある将軍位の第五位という、まさにど真ん中の階級だ。
寛大な処置といえた。これには、加奈の地を統治させるために、ある程度の地位が必要とされていたことと、教来石との間で交わされた『それなりの扱い方をする』という契約を守るため、北山人を納得させつつ、九洲人を必要以上に刺激しないため高官位につけないなど、様々な要因を含んだ末に打ち出された妥協案であった。
さいわい将軍へと任官するに、条件はよかった。彼らには五百人の家臣と五千人の民がいる。宗像海人衆討伐で挙げた武行もある。すくなくとも名文はそろっていた。
それからどうなるかは——はっきり言ってしまえば、これからの北山次第だ。真に忠誠を誓い働けば、いつかは九洲人からも許される日も来るだろう。それまでは岩に齧りついてでも屈辱に堪えなくてはならない。
ちなみにこの数日後、廉思の将軍位任官にあわせて、教来石も九洲の階級を廉思によって与えられている。教来石は部隊長階級の『大郎(たいろう)』に任ぜられた。大郎は部隊長階級では最高位と目され、同位階級者には火後県執政の閑谷、豊前県筆頭家臣の大物者である上乃、火向県の織部などがいる。いずれも県の一軍を率いる大将である。
「そちらを加奈荘に封ずる。外加奈の城を居城とし、営むように。また加奈港の運営権を委ねるものとする」
亜衣の言葉も、ここまでくると破格の宣言であった。しかしあくまでも荘園の管理者でしかない。廉思たち北山人の上には、郡を預かる太守がいる。
官位だけは相当なものを贈られたが、与えられた土地は狭かった。
——そこが折り合いどころか。
斜め後ろの教来石が小さく喉を鳴らした。ある程度は予想していたことだった。
文句はなかった。十分だとも思っている。ここからやり直すだけのことだ。
「さて、これで儀式は終りだな」
亜衣が竹簡を巻き終えるのを見届けると、それまで黙りこくっていた九峪が、底抜けに明るい声を上げた。
それだけで、この異様な空間に満ち満ちていた重苦しい威圧感が消し去られてしまった。場の空気を変えられるのも、九峪の持つ素質のようなものだ。
席を立って廉思たちのいる下座へと歩き出した。ぎょっとする廉思を尻目に、両肩に手を置いた。
「堅苦しいのはここまでだ。次は宴だ」
「う、うたげ・・・・・・?」
呆気にとられる廉思に、九峪は笑顔で頷いた。
「おうよ。これでお前たちも耶麻台共和国の一員だからな。呑まないでどうするってんだ」
そういうと、九峪はさっさと立ち上がって、亜衣たちに目配せをした。亜衣も伊雅も、もう諦めきった顔で苦笑した。
伊雅も亜衣もまだ割り切れないものがあるが、そこのところ、九峪のほうが切り替えがはやい。これも天性の素質であろう。割りきりがよいと言えば、滅亡の憂き目を見た北山に同情的である火魅子も、宴には賛成であった。もっとも、火魅子は余り呑むほうではないが・・・・・・夫がやりたいというものを、妻である自分が拒む理由はないと考えていた。
うろたえるばかりの廉思の後ろで、この明るさこそが人心を掌握する最大の武器なのだと、教来石も苦笑していた。仁徳で人をまとめる九峪らしい。
しかし、その夜に開かれた宴は、ただの宴に終わらなかった。
ある意味では、すでにこの宴会のときから、北山の忠誠は試されることとなった。