はじめて九洲国の首脳陣と一同に会してから、廉思ら北山衆はしばしの都見物に興じていた。九洲という異国文化に初めて触れるものも多いなか、とくに耶牟原城の異色さには、感嘆と驚愕が交互に訪れるほどの衝撃があった。
町並み、道路、建築様式に技術、服装に至るまでが琉球文化とはかけ離れており、また倭国に複数存在している文化圏からも一線を画していた。倭国は長い間、とりわけ東北地方と関東・北陸を文化の境目としてきたが、九峪が独自の文化を九洲にもたらしてからは、関門海峡を挟んで西海道もまた新たな文化形態を生み出していた。
しかしそのような事情を北山の人間が知る由もない。北山は倭国という世界をおおよそ九洲までしか知らない。唯一、十数年にわたって九洲を支配した狗根国という大国の存在とは若干の交易を行ってきたものの、それとて、今はどうなったかわからないほどだ。
城内の見物をするにあたって当然のことだが案内役がつけられる。案内役の人物は、各所を懇切丁寧に説明してくれるが、自分たちを監視していることは一目瞭然であった。
教来石は、まだ自分たちは信用されていないのだと、案内役の余所余所しい態度から痛感した。おそらく亜衣の差し金であろう。
「いたしかたない」
と廉思もなかば開き直っている。信じてもらえないことなど覚悟の上であるのだから、いまさら打ちひしがれる問題でもない。
それに、これから以降までもそうあるつもりもなかった。北山が生き残るためにはとことんまで九洲の役に立たなくてはならない。役立つには活躍の場と機会が必要とされる。
折りよく、後日に廉思と教来石にあてた九峪の召集令がおりた。
元星九年の夏も終りに近づいてきた頃の九峪は、俄然いそがしさに両手両足が足りなくなっていった。
泗国派兵・九洲防衛を目的としている軍備の総括は伊雅に一任させているが、気がかりとなるのは那津城の出来具合である。今までにない建築式であるためだろうか、普請状況が予定の期間よりも若干遅れていた。
しかしそのような状況とは関係なく、時間は刻々と過ぎ去っていった。斗佐から使者が渡って来てからは、とくにやることも多くなった。
斗佐からの使節は十三人で、まず担当である伊万里が用件を伺い、そのときはすぐに斗佐へと戻っていった。斗佐方としても様子見程度の派遣であったのだろうが、接触に対する反応があっただけ感触はよいと九峪は実感した。
つぎ、二回目からが本番となる。本格的な交渉が始まる頃は、伊万里だけでなく九峪や亜衣も、使節と対面することになるだろう。簡単に会わない、焦らすだけ焦らすことこそ交渉の真髄であるとする亜衣の考えどおり、伊万里の次は亜衣、亜衣の次に九峪、最後は火魅子を経て最終的な同盟を結ぶことになるだろう。
交渉の良し悪しは別としても、斗佐——ひいては泗国連合——は、九洲と同盟を必ず結ぶことになる。でなければ九洲に斗佐口から攻め入られ、三方を今日に晒されるだけだからだ。どこかで妥協するならば、それまで高く売りつけるのが亜衣の信条だ。
同盟締結までは秒読みに入った。藤那の出産も近い。もうすぐ準備が整う。
そういうところまで来ていたのだ。天目は優しくなかった。
徹底して情報を管理していたはずだが、やはり天目の目を完全に騙しきることは出来なかった。那津城の普請を気取られ、警戒されてしまったのだ。
那の津のすぐ背後に城郭を築いているのだ。天目ならばそれが、自分たちへ対する備えだと気づいても不思議ではない。
きっと天目の目には、九峪の見ているものもわかっているのではないか。不安が亜衣の中にあった。
そのような時に、話があるとして廉思らが九峪より呼び出しを受けたのは、居城である外加奈の城へ引き上げようかとしていた頃だった。
お呼びの場所は宮殿ではなく、九峪が独身時代に使用していた私邸である。いまは九峪専用の別邸として、九峪付の使用人らの住居ともなっている屋敷だ。
門をくぐると年若い女性がいた。
「もし、そこな」
人当たりのよい柔らかな表情で廉思はこの屋敷で働いている女中に声をかけた。
「はい、なんでしょう」
「太師殿に御呼ばれしている。こちらにご在宅かな」
廉思の言葉に、女中はあっと声を上げた。
「お伺いしております。どうぞお通しいたします」
手にしていた箒をしまい、女中に導かれた二人が屋敷に上げられた。手入れ清掃の行き届いた清潔な屋敷であった。壁にはシミ一つもない。真新しい板敷きの廊下は張りがよく軋みもたるみもしない。
「立派な御屋形だな」
忌憚ない感想が廉思の思いを如実に物語っていた。
「やはり琉球とは違うのだな」
「さもあらん。だからこそ中山もこの『異国』にまで挑むつもりを持たぬ」
「あるいは俺たちのようになりたくないって、そういう験担ぎなのかもしれんな」
「・・・・・・」
面白くもない冗談に教来石は閉口した。そうであるような気がした。しかし九洲と優位な同盟を結ぶという戦略自体に間違いはなかったと教来石はいまでも信じていた。そのおかげで、北山朝は滅亡してもこうして生き残ることが出来たのだ。
恵源の残してくれた道だ。その細い道を用い、広く長く伸ばしていかなくてはならない。
「九峪様、お客様をお連れしました」
女中が恭しく戸の前で声をかけた。廉思と教来石は衣服の襟元と帯を正した。
部屋の中から返事があり、戸が開けられた。文机の向うで単袖を着た九峪の姿が見えて、立ったまま一礼する。琉球の作法の一つで、簡略化した礼法である。ちょうどお辞儀のようなものだ。
さっと文机のまえに腰を落とし、今度は九洲の礼法にならって頭を低くした。
畏まる二人に九峪は手の平をふって頭を上げさせた。
「そう畏まらなくたっていいぞ。楽にしてくれ」
「はっ」
廉思が応え面を上げると、九峪の顔を仰ぎ見た。用事と聞いて内心では怯んでもいた。
緩い表情はやはり、英傑と呼ぶにはあまりにもお粗末だ。しかしその分、何を考えているのかわからない、ある種の不気味さがあった。廉思には不気味に思えるが、九峪を信じる九洲人らには、この『不気味さ』が『頼もしさ』に変わるのだろう。
自分たちも、この不気味さを頼もしいと感じられるようにならないと、九洲人から信用されない。そのような予感が廉思にも、教来石にもあった。
何かしらの書簡をたたんだ九峪が櫃箱にそれを入れると、二人のほうへと顔を向けた。
「悪いな、呼びつけて。ちょっと忙しくて尋ねる暇がなかったんだ」
「いえ、滅相もございませぬ。ご足労頂くわけにも行きませぬて」
「そういってもらえると助かるよ。最近は、とみに慌しいからさ」
「左様で」
苦笑する九峪が、すっと笑みを引っ込めた。それまで陽気ですらあった雰囲気が、緩やかに硬くなっていくのがわかる。
「いくさをする」
唐突に口が開かれた。言葉もまた唐突だった。
いくさをするといきなり言われても、対する廉思に動揺はなかった。薄々は感じていたからだ。きな臭い話ならば外加奈の城にも聞こえていた。
九峪は立ち上がり、壁にかけられている倭国の地図へと歩み寄った。廉思らの視線もそちらへ映った。
「倭国の情勢をどこまで知ってる?」
「詳しいことは何も。倭国といえば、我らには九洲が限度ゆえ」
「なら、まずは倭国という世界を知ってもらおうかな」
かすかに微笑えんだ九峪が、地図を指差した。
「これが倭国の姿形だ。これから南西に下っていくと、お前たちの故郷がある」
改めて見上げた地図は、この世界のものとしては限りなく精巧なものである。
廉思も教来石も、外加奈の城に地図はあるが、いつみても九洲の測量技術の高さには驚かされる。もっとも、これはすべて九峪が描いた地図を複製しているだけにすぎないが、そんなことは知るところにない。
「面白い形だろ? 沖縄のさらに南西には、台湾っていうでかい島もあるんだぞ」
「・・・・・・ナンペイ、のことですか?」
「ナンペイ? そっか、琉球じゃそう呼ぶんだな。俺たちは台湾っていうけど」
「ナンペイとは交易をしておりました。・・・・・・我らが生まれるより以前には、何度か争ったとも聞いております」
「ふうん・・・・・・大方、大陸との交易権を争って、というところかな?」
教来石の顔がぎょっと歪んだ。
「・・・・・・お分かりで」
「見くびってもらっちゃ困るぜ」
得意げに九峪が笑った。九峪も政治に携わってきているのだ。この世界に来たばかりの少年だった頃とは違い、今の九峪には政治家としての側面もある。
——やはり唯ならぬお方。
わずかな会話だけで争いの背後に埋もれた事情を看破されてしまった。鋭い洞察力と考察力である。
それだけの能力を持った男が、いくさをすると宣告してきたのだ。
「このあたりは蝦夷の支配する東北。地続きだけど、ここはまだ倭国のうちと認められていない、未開の地だ。下に東海道、中山道、北陸道があって近畿、ここらが狗根国の支配領域だ。狗根国ってわかるか?」
「わかります。御君が九洲を平定するまでは、度々交易しておりました」
「そうか・・・・・・なんか複雑だけど、いいか。それで、ここの細長いところ。ここは上が山陰、下を山陽といってな。倭国の中心で、中國とも言われている。ここには天目っていう女傑が治めている大出面国がある。その下にある、この島。南海道の泗国だ。ここには四つの国から成る泗国連合軍がある。そして、俺たちが統治している西海道の九洲、耶麻台共和国」
「どれも琉球からみれば大国ですな・・・・・・」
呆気にとられた廉思には、地図に広がる勢力図がかつてないほど巨大なものにみえていた。たとえ琉球に統一王朝が誕生しても、倭国にある大国の一つにも勝てないかもしれない。
小さな琉球島で領土争いを繰り広げたことすら、まるで小さな出来事に思えてくる。実際、琉球島ひとつとっても、九洲では行政区分の県ひとつに相当する程度だ。
まるで格が違いすぎている。
「では、我らの敵は、このうちの二つ。大出面国と泗国連合のいずれか、ということですな。狗根国は些か遠すぎると存じまするが」
思案のすえに教来石はそう判断した。狗根国へ攻め入るには、まず中國か泗国か、どちらかを破らねばならない。
的を射た考えに九峪は頷いた。
「だけど正確じゃない。相手は出面と、狗根国だ。泗国連合は味方になる」
「味方に・・・・・・? それはどうのような理由で」
教来石がいぶかしむ。
「そこも含めて説明するから。まず、九洲の情勢だ。俺たちはいま、この天目と同盟関係にある。狗根国の彩花紫とは純然な敵対関係で、泗国とはここしばらく国交すらなかった」
ふむと教来石は喉の奥で唸った。どことなく琉球の情勢に似ている。いや琉球に限らず、複数の勢力が隣り合う状態だと、みなこのようになるのかもしれない。
九洲の勢力図に見入っている間にも、九峪は次々と説明を続けた。
「半年後だ」
九峪が二人を振り向いた。
「半年後、計画を発動させるつもりだけど・・・・・・」
そこで言葉を途切れさせ、困り顔で頭をかく。
「いかがなさいました」
廉思が尋ねると、頭をふった九峪が中國を指差した。
「もしかしたら前倒しすることになるかもしれない。天目が怪しんでいる。状況如何によっちゃ、二、三ヵ月後以内になんとかして泗国連合と同盟を結んで、天目と手を切る必要がある」
「ということはひとまず、四半年後までに大方の準備を整えておく必要があるということですな」
「話が早いな。そういうことだ。だけど俺の予感では、天目と手を切るのはもっと早まる気がしてるんだ」
それはすなわち、九峪の考えに天目との間で即開戦の意図があるということだ。
天目だってもう、九洲を信用することなど出来まい。後方を脅威だと感じ始めたならすぐにでも戦いになる。ゆったりと待っているほど、天目という女性は優しくないのだ。
ならば、間違いなく天目は攻め込む。攻め込んでくる。自国の領土へ攻め込ませるよりも、相手の両国で戦ったほうがよい。それは兵法の極意でもあるし、孫子の『兵ハ努メテ敵ニ食ム』の一説からもその有用さは窺える。
九峪も、本当なら海を越えて打って出たいところであった。しかし自ら仕掛けては、民への不満を煽ることになりかねないだけに、この部分で九峪は逆に大胆な構想を打ち出した。
そのための那津城である。
「これで情勢は理解できたと思う。ここからが本題だ」
気を引き締めた九峪の声には張りがあった。いよいよかと廉思らも肩に力を入れた。
「廉思には重然の旗下に入って、泗国遠征への先鋒を務めてもらいたい」
「某に・・・・・・先鋒を」
「渡海戦になるからな。水軍の力が必要だ。海上戦力の三割から四割は泗国へ向けたいんだ。たぶん、お前たちには大いに働いてもらうことになるだろう」
——やはり、そうなるか。
話を聞いていた教来石の目が鋭く細められた。これも予想していたことだった。先鋒といえば、相手方へ対しても、敵方に対しても、庶事諸々の役目を担わされている。だけでなく、場合によっては小勢をもって早速と一戦に及ぶことにもなりかねない。
面倒であり、また危険でもある。しかしその分だからこそ先鋒は名誉ある役目であり、手柄のよりどころであり、そしてそれらを跳ね除けてでも普通ならば就きたくない部署である。
また北山のように、新参が任命される場合も多かった。忠誠心があるかどうか、それはどれだけのものか、果たして戦力として使えるのかなど、様々な事を計られるためだ。
この立場は見方によって変わる。譜代の家ならば御免被るところも多い。しかしこれは廉思たちにとって渡りに船であった。
この戦いで働き、忠誠を示せば北山の先行きも明るくなるのだ。それだけあって、こここそが正念場でもあった。
「北山衆は豊後国東の岡崎砦に拠点を置いて、そこで準備に取り掛かってくれ。詳しいことは追って指示するし、軍議の席からも言うことがある」
「諸事、承りましてござります」
一息ついて、廉思と教来石は頭を下げた。
その日の夜のことであった。
夜気の蒸し暑さが天に消え、涼やかな清涼がそよそよと流れ吹きだしていた。ほどよく暖かく、だが不快ではなく、頭を痛ませるような冷たさも肌にない、快眠の夜だ。
ふっと、九峪の目が覚めた。連日の多忙に疲れていた身体がずっしりと沈みゆくほどの眠りに落ちていながら、寝ぼけている。しかし厭な寝起きではなかった。
しばししんっと静まっている部屋に横たわる。隣へ視線を向けると、艶かしく肩を晒した火魅子が横たわり、小さく寝息を立てている。一糸纏わぬ姿には色香があった。
火魅子も年を感じさせないほどに若々しかった。まだ二十の半ばといわれても不思議ではない。瑞々しい肌もキメが細やかだ。
火魅子の額にかかった前髪をそっと流してやる。
「んぅ・・・・・・」
くすぐったかったのか、かすかな声を漏らして火魅子が眉を寄せた。
このような仕草はまだまだあどけない、童女のようだ。
うっすらと瞼が開かれた。潤んだ瞳が九峪を見上げた。
「九峪さま・・・・・・」
「わりぃ」
苦笑する九峪に、火魅子は身じろぎしながら微笑んだ。
「お目が覚めたんですか?」
「うん」
「それで、わたしに悪戯を?」
「うん——って違うッ」
思わず頷きかけてしまった。
くすくすとおかしそうな笑みが見上げてくる。
結婚して、夜を共にするようになってから、それまでからは考えられないほどに火魅子がからかってくるようになった。夫婦としての特権ともいえる交わりであり、それが楽しくて仕方がないのだろう。
九峪もまた、いかにも堅苦しい関係より、今宵のような笑い会える時がとても楽しく愛しかった。
「あれだけ交わっといて悪戯なんかできないよ。精も根もすっかり搾り取られて、まるで木乃伊さ」
あながち間違いな表現ではない。
火魅子は頬をさっと朱色に染めて、恥じらいそうにはにかんだ。女性としては自分の旺盛な性欲をからかわれるのは、随分と恥ずかしいものなのだろう。
いっぱしに『すけべぇ』と揶揄されることしばしばな九峪も、どちらかといえば精濠な性質ではあるが、やはり火魅子には及ばない。火魅子のそれはほぼ絶倫の領域にあった。
年下である九峪のほうが先に枯れるというのも情けない話であるが。
もういちど寝付こうと思ったものの、どうにも眠れる気がしなかった。日の出までまだまだ時間がある。時刻は深夜零時を周るかどうかといったところだろうと思う。
——なんだろうな。
たまにこのような日がある。最近は例の発作も起きていないし、大隈海峡での戦いで負った傷も快癒している。疲れているということをのぞけば体調にも何ら悪いところはなかったはずだ。
隣の火魅子もすっかり目が冴えてしまったようだ。かけ布で胸元を隠して上半身をおこし、九峪にぴったりと寄り添った、
視界をふさぐ前髪を耳にかける仕草が艶かしい。
「眠れないのは、きっとまだまだお身体に力が漲っている証拠なんです。ここはひとつ、お抜きあそばして」
艶っぽい言葉に九峪の身体が固まった。
「い、いや、大丈夫さ。うん、大丈夫だ、心配要らない」
「そんなご遠慮なさらずともよいではないですか。まだまだ出したりないんですわ。ささ、わたしともう一度甘美で優雅な一夜を——」
「お、女の子がいう言葉じゃないぞ、それは!」
「女は時として勇猛果敢なんです。大丈夫です。今度はわたしが動きますから」
「そ、そういう問題じゃないからッ。ほんとに枯れるから。折れるから!」
腰が引ける九峪の腕を絡め取って火魅子がずいっと顔を寄せた。そのまま九峪は押し倒され、見上げると、すでに興奮に上気した顔がそこにあった。
——まさかあの星華が、ここまで色狂いだったなんて・・・・・・。
情熱的ではあったが限度を越えている。底なしの体力だ。
ただやっぱり、そのようであっても淫らな印象を受けないのは、好色ではないからだろうか。火魅子は九峪以外に男を知らないし、好かないし、興味も持っていない。強烈なまでの一途な想いが清廉にさえ映っているのだ。
そこがまた愛らしくもあるのだが。
しかたがないと、九峪も諦めた。何だかんだいって九峪の男も反応しかけている。
覆いかぶさる火魅子の背に手を回して、抱き寄せようとする。裸の二人が重なり合う。
ギイイィィンッ
と、その瞬間、寝室の奥でけたたましい音が鳴り響いた。
唇が触れ合う直前、二人の動きは完全に止まった。揃って出入りの戸口へと視線を向ける。
「いまの・・・・・・」
火魅子の呟きに、九峪は「聞き覚えあるな」と完結に返した。
「お楽しみは後だ。悪いけどちょっとどいてくれ」
「はい」
どうも情事どころではない。慌しい足音までしている。
と、火魅子が九峪の上から退こうとしたとき、戸が勢いよく開かれた。
「ご両人、ご無——・・・・・・ッ!?」
部屋に入ってきたのはホタルの愛染であった。愛染は部屋に入るや否や何ごとかを叫んだが、全裸で重なり合う九峪たちを目の当たりにして言葉を失ってしまった。
改めて言うが、全裸の男女が折り重なっている。それを見てしまった愛染は、まだ十八の娘である。
「あ、あ、あぃ・・・・・・ッ」
金縛りにでもあったかのような愛染の様子に、九峪も火魅子も慌てて衣服を肩に引っ掛けた。落ち着かない手つきで腰帯を締めた。
「な、何があった?」
動けない愛染に向かって九峪が叫んだ。顔を真っ赤にしていた愛染がはっと我を取り戻したが、しどろもどろとしている。
そうこうしている家に、今度はまた年若い男が入ってきた。右手に短刀を握っている。
「愛染、どうした」
とそういったが、やはり愛染は口が回っていなかった。
不審に思った男であったが、九峪と火魅子の衣服が不自然に乱れているのに気づいて、大体の事情はつかめたのか、愛染に向かって呆れ顔で、
「未熟者めッ」
と叱った。
愛染は役に立たないと判断したのか、男は九峪たちの前に跪いた。
「ご無事でしょうか」
と窺った。帯を正しながら九峪が詳しい事を尋ねると、男はますます頭を下げた。
「狼藉者を物取りしておりました」
「狼藉者だって?」
「はっ」
どういうことだと九峪は首をかしげた。ということは、先ほどの甲高い音は、さしずめ刃の擦りあった音ということか。
場所はすぐそこであるはずだと考えた。近場だからこそ、愛染たちは九峪たちの安否を確認しに来たのだろう。
淡々としたやり取りにようやく気を落ち着けられた愛染も膝をついた。
「彩花紫か、天目か?」
「彩花紫の手のものかと」
答えたのは戸口の愛染だった。顔は伏せたままだ。まっすぐに九峪らの顔を見つめると、先ほどの情景が瞼の裏に浮かんでしまうのだろう。
外ではまだ足音と騒ぎ声がしていて、むしろますます音が大きくなっている。異変を察知した詰兵が駆けつけてきたのだ。
すると、わっと一際大きな声がした。
戸口に一人の女が姿を現した。やはり手にしているのは短刀であった。
女が床を蹴って九峪に襲いかかろうとした。それをすぐ傍にいた愛染が、素早い動作で足はらいし妨害する。
「九峪様ッ!」
咄嗟、火魅子が危険だと判断して、九峪に力いっぱい抱きつき寝床へ倒れこんだ。このような判断力では九峪よりも実戦慣れしているぶん的確だ。視界を隠されてしまい、音だけが聞こえてくる。
九峪の見えていないところでは、愛染に気を取られている間に、乱波の男が襲撃者の女を蹴り飛ばしているところだった。鳩尾を深くえぐられた苦しみに肺の空気を全て吐き出した直後、刀を振り下ろそうと愛染が上段に構えている。
「まて、殺すなッ!!」
しかしそれを制する声が響いた。清瑞の声であった。
何がどうなっているのかもわからず、ひたすら抱きついている火魅子の背中をたたきながら、九峪がわめいた。
「ちょっ、どいてくれ、もう大丈夫だ」
「あ、はい」
さっと火魅子から開放されて起き上がる。襲撃者の女が愛染に首の裏筋を押さえつけられ、地面に伏している。
「う、くく・・・・・・くそッ」
「喋るなッ!!」
愛染が一喝する。
ざっと見回してみると、室内もたいがい混沌としていた。九峪と火魅子を庇うようにホタルの男が立ち、襲撃者を押さえつけている愛染、戸口には清瑞とほかのホタル、視界に映りこそしないものの、兵士らもいるのが空気でわかった。
「九峪様、ご無事ですかッ!?」
血相を変えて清瑞が九峪に駆け寄った。薄暗いが夜目になれた清瑞は、かすり傷一つない様子がわかってほっと胸をなで下ろした。
この間、火魅子に見向きもしなかったのは言うまでもない。わざとそうしているのではなく、清瑞の目には九峪しか入らないだけであるのだ。
普段ならば、そのことに腹を立てる火魅子だが、九峪が無事かという疑問に思わず釣られ、それどころの意識ではなくなっていた。九峪にとっては幸いなことだ。九峪がそのことに気づいたわけでもないが。
「清瑞・・・・・・。これはどういうこと?」
襲撃者と清瑞を交互に見比べて、瞳を細くさせた火魅子が詰め寄ってきた。仮にもここは神聖な寝殿である。そこでこのような狼藉がはたらかれるなど、未曾有の大惨事である。蔚海の犯した『奥の殿焼き討ち』に勝るとも劣らない悪事である。
ここにいたって火魅子の姿も視界に収まったのか、跪いた清瑞が説明を始めた。
「あれなるは狗根国よりの間諜にございます」
「狗根国ですって!?」
火魅子は声を上げて驚いたが、やはりと思うに留まったのは九峪だ。乱波から聞いたとおりでもある。
ここの部分の事情を火魅子は知らない。驚いても不思議でないが、長いことかかっていた『調査』が、いま終わろうとしているのだと九峪は直感した。
「清瑞、でかした」
随分と無理をさせたという思いを込めて、清瑞に労いの言葉をかけた。
さて、と九峪は地面に伏している刺客を見やった。知らない顔である。年は若い。刺客の女は恨めしそうに九峪を睨んでいる。舌を噛み切らないよう口には布が詰められている。
「むかし、狗根国の鉄鼠が放った刺客に、あわや殺されそうになったことがあった」
忘れもしない。あのときは土羅久琉に襲われた時くらいに、絶望感でいっぱいになった。忌瀬がいなければこうして生きていることもなかっただろうと思う。
刺客の顔をよく見るために屈みこんだ。
「ふぅん・・・・・・」
「その女は名を孝望主(こうぼうす)といい、ホタルの乱波でした」
「ホタルの? ホタルの乱波か、お前」
驚きに目を丸くさせた。
「狗根国の乱波がホタルになぁ」
してやられたなと、九峪が額をたたいた。ものの見事に潜入を許したばかりか、まさか隠密組織に潜まれていようとは考えもしていなかった。
ホタルを組織した身としても、これは衝撃の事実だ。
孝望主を登用したのは清瑞の判断であった。身元を調査したところ、もともと孝望主は山賊の徒党であったらしい。藤那が大々的に行った山賊狩りで身寄りを失い路頭に迷っていたところ、山人気質の俊敏な身のこなしを見込こまれ乱波として取り立てられたのが、ホタル編入への経緯だ。
だが、九峪の命令で不審者の行方を調べるにつれて、身元は『偽装されたもの』であるかもしれないという疑惑が浮上した。
ここで僅かだが真実を記したい。
孝望主はたしかに狗根国の乱波であった。平八郎の枇杷島襲来にあわせて九洲へ上陸し、火後へ潜入していた琉度羅丹へ密書を届けるなどの任務に従事していた。遠征軍が撤退した時点でも後方かく乱を目的として居残り、以後も暗躍しつづけてきた。彩花紫にとっては九洲の実情を入手するための貴重な戦力なのだった。
数年をホタル内部で過ごしていただけあって、演技力などの面においても非常に優秀であることがわかる。あの清瑞さえも騙しきってきたが——九峪の登場が決め手となって最後の最後、現在のような状況に至っている。
「まさか孝望主が狗根国の刺客だったなんて・・・・・・面目次第もありません」
知らぬことといえ、いや気づけなかったからこそ、清瑞は痛切に後悔していた。すべてが自分の過ちのような気さえしていた。
しかし九峪は不敵に笑った。
「いいや、これはこれでいいさ」
まじまじと孝望主の顔をのぞき見る。今は憎々しげに見上げる顔の目鼻立ちも、どこかしら愛嬌がある。ふっくらとした丸顔も童顔のようだ。
九峪の含んだ笑みが気に入らないのか、なんども身体をゆすってはうめき声を上げている。
だが背中から愛染に押さえつけられている体は、思うように動いてくれなかった。ほどなくして抵抗をやめた孝望主が脱力した。
諦めたかな——と考えた九峪の油断を感じた清瑞が、そっと耳打ちする。
「お気をつけください。まだヤツは諦めていませんよ。ただ体力を温存しているだけです」
「そうなのか?」
「同じ乱波ですからわかります。私だって無駄に暴れるよりも、大人しくして機会を待ちます。天目と彩花紫の元から逃げ延びた経験も無駄じゃないですから」
「はは、そんなこともあったな」
懐かしい記憶に九峪が声を上げて笑った。その様子に孝望主が面食らっていると、ふと九峪の脳裏に素朴な疑問が浮かび上がった。
「なぁ、孝望主っていったよな。お前もしかして、むかし清瑞のこと見たことないか?」
可能性としてはないこともないはずだ。
だが孝望主はなにも反応しなかった。当然だ。敵からの質問は、たとえ些細なことでも答えないのが乱波である。
でも、それ以上に、九峪の態度が孝望主には驚きに値していた。
「そういえば、清瑞。何でこんなことになっているんだ」
薄々は気づいていたが、九峪が尋ねると清瑞が表情を引き締めた。
「九峪様を亡き者にしようと、宮殿に忍び込んだのです。我々は狗根国の間諜を探し出すために九洲中へ散り、その隙を突いて耶牟原城へ潜入したのでしょう」
「だけどいざ決行してみると、いない筈のホタルが護衛していた、ということだ」
「身元が妖しいと感じてからは警戒していました」
清瑞を欺き続けてはこれたが、最後には読み負けた。つまりはそういうことなのだ。
「俺と火魅子をまとめて殺すつもりだったな。残念だけど、俺たちには第一級の強運が味方してるんだ。簡単には殺されてやれんぞ」
「そうよ、もう諦めなさい!」
なおも瞳の奥を輝かせている孝望主にむかって火魅子が声を上げた。鋭くねめつけられても引かないだけの胆力ある言葉だった。
「九峪様お一人でも天下無比の強運。そこに『正妻』である私の幸運が合わされば、それは二倍をこえてさらに倍の効果となるのよッ!!」
よくわからない理論だが、とにかく『正妻』の部分をなぜか強調させた火魅子の発言に、これまたなぜか清瑞が激しく反応した。
だけど九峪は気づかないふりをした。
理論を理解できなかったのは孝望主も同じだったようだ。呆然としている。
苦笑した九峪が、愛染に起こすよう命じた。身体を起こされた孝望主と同じ高さに目線を合わせる。
「さて、お前をどうしようか」
などと呟いたが、内心で処遇はすでに決まっていた。
「こういう場合、普通なら奴隷にするのが当たり前だが、俺は奴隷っていうのがあんまり気に入らなくてさ。それ以外の扱いをしなくちゃならない」
それは九峪のある種の信条である。奴隷解放政策とも呼べるこの方針によって、九洲には奴隷が存在していない。それどころか奴隷市場から奴隷を買い上げては、それを国民階級に組み入れていった。戦争で失われた人的資源の補充と生産力の向上を目的としており、ホタルの構成員も半数以上がもと奴隷身分の者たちばかりだ。
余談だが、奴隷を用いない政策は九洲において俑の発展を促した。いわゆる土偶や埴輪である。王族などの埋葬には人身御供をするのが慣例とされてきたが、奴隷身分がいないために、変わり身の俑が副葬されるようになった。
いったい我が身がどのようなことになるのか・・・・・・。よく訓練された乱波であっても、不安に思わないはずがない。いや、完全に心を砕いて恐怖心を抱かないほど修行したものもいるだろうが、少なくともこの女に限っては、まだ心を失うほどの達人ではないように見えた。
——これこそ好都合。
「九洲のあちこちは、もうよく目にしたな?」
唐突な質問を九峪は投げかけた。
それにどう応えたものかと女が悩んでいる間に、九峪の視線が愛染へと向けられた。
「おい、そいつを解放してやれ」
「えっ!?」
「く、九峪様、なにをッ」
まさか思いもつかない命令に、押さえつけていた愛染が言葉を失った。刺客が目の前にいるというのに、九峪の言葉はまるで自殺行為のようなものである。
男の乱波がうろたえつつ、九峪の命令の真意を問いただした。とても正気の沙汰には思われなかった。いくら九峪の言うことでも、いや九峪の言うことだからこそ、理解できないと不安なことこの上ない。
しかし九峪はその問いに答えることはせず、まず愛染に拘束を解かせた。躊躇っていた愛染だったが、主命とあっては従わないわけにも行かず、警戒感を強めたままひとまず孝望主の背中から退いた。
姿勢は、すぐにでも飛びかかれるようにしている。九峪を背に庇えるよう、清瑞も緊張している。
さて、窮屈な拘束からふと自由になった孝望主が、ゆっくりと上体を起こした。つとめて無表情を装うとしているのだろうが、さすが乱波でも困惑の色を隠しきれていない。
——二人の距離は、一歩ほど。殺すならば今のうちだろう。だがすでに武器はなく、無手で殺害にいたるにも周囲をこうまで囲まれてしまうと、すでに打つ手はなかった。
「・・・・・・殺せ」
決して絶望せず生き抜くことを信条としている乱波から、諦めの一言が発せられた。もはやここにいたって抵抗するつもりもなかった。
せめて精一杯、目の前の九峪を憎悪のこめられた瞳で睨む。その程度で怯んでしまうほど、九峪も幼くはない。だが強い眼光の奥に、狗根国への——否、彩花紫への忠誠心が熱く燃え盛っている。
天目も、彩花紫も、九峪も、人を惹きつける。惹きつけられた人々は、ある種の狂信者のようになる。それがカリスマという統率力で、孝望主の瞳から九峪は、彩花紫の底知れぬカリスマ性を垣間見た。
——まだ一度も会ったことがないのに、こうしてお前が見えるなんてな。
おかしかった。
「お前を狗根国へ帰してやる」
表情をぐっと引き締め、喉を絞り、九峪が宣言した。
「捕虜という形はとらない。自力で、自分の足で東へ行け。そしてここで見聞きし感じたこと、委細残さず彩花紫の耳に入れろ」
「く、九峪様、正気ですか!?」
慌てて火魅子が九峪の背に声をかけた。冗談では済まされない。いくさにおいて最も重要とされる情報を、九峪はくれてやるといっているのだ。
かつて一軍を率い、際川陣でも総大将として出陣した火魅子にも、情報がどれだけ戦局と政局を左右するか、骨身に染みてわかっている。こちらの情報を相手側に寄越すような真似だけは、決してやってはいけないのだ。
だが「正気だよ」と、それでも九峪は頷いた。迷いのない面である。ここまで自信に満ちていると、もはや火魅子には反論できなかった。九峪がそういうのだから、何か意味があるのだろうと、そう自身を納得させた。
火魅子が押し黙り覚悟を決めたところで、場の意思も固まった。出入り口を塞いでいたホタルたちが道をあけた。
「行け」
九峪が短く命じた。敵方の大将であるが身分が遥かに上で意思決定権が九峪にある以上、孝望主は従わざるを得ない。まだ迷いつつ次第に後退して行く。
そして入り口付近まで来たとき、九峪がかすかに笑みを浮かべた。
「もどったら彩花紫に、『九峪がよろしく』と伝えておいてくれ!」
最後の最後でまたも困った表情になった孝望主は、一気に望楼から飛び降り、どこかへと走り去っていってしまった。
先ほどまでの騒音が自然と消え、静寂となり、九峪の吐息が零れた。
全てが終わった。そのような安堵と、あまりにも不可解すぎる九峪の行動や発言への疑問だけが取り残された。
「九峪様、本当に逃がしてしまっても・・・・・・」
清瑞が九峪に尋ねた。清瑞はいまでも納得し切れていなかった。理由があるならせめてそれを聞かせてほしかった。
どっと疲れが押し寄せてきた。近くの椅子に腰を下ろした九峪が、皆を見上げた。
「・・・・・・ご苦労さんだったな、みんな。衛兵はもう下がっていい。通常勤務に戻ってくれ」
手を振って兵士たちに命令を下した。兵らは敬礼して、そそくさと持ち場へと戻っていった。
「愛染と韋駄は一応、孝望主がちゃんと耶牟原城を出て行ったか見て来い。他のものは周辺の警護を」
清瑞が矢継ぎ早に部下へと指示を飛ばした。瞬時に思考を切り替えた乱波たちが風のように飛び出していった。
寝室には九峪と火魅子、そして清瑞だけが残った。清瑞には一応、九峪の身辺警護の目的があった。それに、この中で唯一の将軍階級である以上、やはり話を聞かねばならなかった。
「星華も、ひとまず座ろう」
「あ、はい」
「清瑞も」
「いえ、私は結構です。まだ警戒しなくてはなりませんから」
座っては初動に遅れが出てしまう。
頷くと、九峪がもういちど息をはいた。
「・・・・・・それで、九峪様、これはどういうことなんですか? なんだか、以前からこうなることをわかっておられたようですけれど」
この中で唯一事情を何も知らない火魅子は疑問を口にした。
事情はどうあれ、火魅子もまた命を狙われたのだ。いくら政治や軍事に直接関与する実質的権限をもたなくとも、知る権利はある。
しばらくぼんやりとしていた九峪が、火魅子へと顔を向けた。
「九洲に狗根国の乱波が潜り込んでやがったのさ。そいつが今夜、俺たちを殺そうとしたんだ」
「乱波が・・・・・・ッ、もしかして鉄鼠?」
思わず口元を覆ってしまうほど、火魅子にとっては寝耳に水の話であった。
狗根国の乱波衆といえば鉄鼠が有名である。勢力、そして総合的な組織的実力としては、間違いなくホタルを有に上回っている、東の隠密に君臨する精鋭集団だ。
鉄鼠の活動はその実力をよく知る天目も警戒するほどで、彼女が保有している乱波衆——かつての親衛隊が前身とされている——も、一度の交戦で手ひどい打撃を被ったというではないか。
いまだ鉄鼠との交戦経験をもたない火魅子でも、その圧倒的な脅威は十分に理解できるもので、九洲への侵入を許したとなればこれは一大事といえた。
もしそうであれば、先ほどの女も、鉄鼠ということになる。
「いや、別に鉄鼠かどうかは知らないけど」
「あ、違うんですね」
明らかにほっとされて、九峪は態勢を崩した。
「火魅子様。いまは、鉄鼠かどうかはさして問題ではないと思いますが」
横合いから清瑞がいった。鉄鼠云々よりも、狗根国の息のかかった刺客が潜り込んでいたという事の方が、もっと重要なことだ。
「でも、九峪様。刺客がいるとして、あれ一人だけとは思えないんですけれど」
「だよな。九洲は広い。そこから情報を集めようとしたら・・・・・・清瑞、何人くらい必要になるんだ?」
「そうですね。・・・・・・ホタルならば、最低でも十人規模の人手が必要となるかしれません。最大でも二十人以上はほしいところです」
「ホタルの現在の規模は?」
「十六人・・・・・・たったいま、十五人になりました」
つまり、孝望主が抜けて十五人、ということである。
「鉄鼠は優秀です。二十人も必要とはしないでしょう。ましてや・・・・・・」
「九洲への警戒感は、大出面へのそれとは比べ物にならない。そう言いたいんだな」
「はい」
「あくまで天目を相手とした後方かく乱、それ以上の目的はないと見える」
それが、結果として共和国最大の政変を招いたのだから、末恐ろしいかぎりである。
このような事件が発覚するたびに、九峪の胸中は焦りと警戒感でいっぱいになっていくのだ。
「しかし、九峪様。そう考えますとあの女乱波、なぜいきなり私たちの殺害を目論んだのでしょう? 当初の後方かく乱という目的からは逸脱すると思うんですけど」
何気ない火魅子の疑問に、はっと九峪が顔を上げた。
「言われてみればそうだな。唐突過ぎる。それに暗殺するにしても、一人で来るものかな」
ちらりと清瑞へ視線を向ける。おなじ乱波を生業としている清瑞に意見を求めた。
「暗殺は複数で行う場合が殆どですが、決して一人でやらない、ということはありません。むしろ一人で行動したほうが、敵に察知されにくいという利点もあります」
そういえば九峪も昔、鉄鼠に命を脅かされたとき、相手は一人だったと記憶している。
そうしたって、やはり突然の暗殺はおかしすぎるのだが。
このような場合に乱波が独断専行するとは考えられない。かならず理由があるはずなのだ。そしてこの場合、鉄鼠への指揮権を有しているのは、狗根国の上層部、彩花紫自身か雲母などの高官に限られた。
「彩花紫が俺を警戒しだした、かな」
そうとしか考え付かなかった。火魅子と清瑞が見つめる中、九峪なりの答えが出来上がりつつあった。
「天目は同盟国だから、使者を寄越して様子見をしてきた。彩花紫は敵国だから、使者の代わりに刺客を動かして、もしも本当に俺が政権に復活したなら、暗殺しろ——とでも命令した。そして火魅子との間で大々的な披露宴を催したことで乱波は確信し、計画の発動を決意した」
「ということは・・・・・・」
火魅子の顔色が青くなった。
「まだ、暗殺者が」
くるかもしれない、と火魅子が緊張した声でいった。その可能性は大いにあった。
「清瑞、周辺の警備を・・・・・・」
と、九峪が清瑞へ言葉を向けたとき、外部がにわかに騒がしくなった。
騒ぎを聞きつけた亜衣たち高官が駆けつけてくる音だった。音羽が兵を率いて、九峪たちの神殿めがけて駆けてきているのだ。
三人は互いに顔を見合わせた。
「どうやら話はここまでみたいだな」
苦笑する九峪に、清瑞も微笑む。
「私はこれにて」
これだけの騒ぎになればもう大丈夫と判断した。これから部下たちと合流すると言い残し、清瑞は梁の裏へと跳び上がった。
「詳しいことがわかったら、逐一俺か亜衣に報告しろ。必要なら伊雅にもな!」
「御意」
言葉とともに、清瑞の姿が闇に溶けていき——もう目を凝らしても、どこにも清瑞の姿かたちさえなかった。
「・・・・・・いつみてもスゴイな、忍術って」
感嘆の言葉が漏れるが、べつに誰もができる業ではない。むしろ、火魅子の血を引いている直系の清瑞だからこそ、このような業が使えるのだ。たとえ女王の資質はなくとも、その純血になら多少の力も宿っているのだ。
程なくして、音羽が駆け込んできた。そこから事情説明などを行い、九峪たちがようやく解放されたとき、すでに日の出の時刻になっていた。