泗国と九洲の同盟は、世に『西南同盟』と呼ばしめた。この同盟締結によって、倭国で最大の規模と国力を有していた狗根国を追い抜き、三分の一以上をまとめあげる大連合勢力が誕生したということになる。
まさしく天下第一の勢力である。
以後、九洲と泗国を同一に扱う場合、これらの勢力を『西南』と呼ぶこととしたい。
西南同盟を結んだことで、天下のありようはにわかに形態を変えていった。山陰・山陽を抑えている天目が、この段階で形成を不利にされてしまったからだ。
摂通の攻防を敗北で終わらせてしまってから、そう間をおかずに、今度は後顧の憂いであった九洲と、ふたたび敵対関係となってしまった。このことが、天目をして強い衝撃をあたえた。
耶麻台共和国の動向が怪しいと感づいていた天目は、間諜を放ちながら情報を集め、なんとか泗国と結ぶのを阻止しようと画策してきた。
じつは天目は、まさか九峪が泗国との同盟を蒸す望などとは、考えていなかった。いや、考えてこそいたが、それはあくまでも推測の域を出ず、また可能性も低いとの見解を示していたのだ。
理由はやはり、国力の疲弊であった。むこう数年は身動きが取れないと思っていた。天下の形成を決定付けるには、九峪が動けない今しかないとタカを括っていた。
迂闊だったとしか言いようがないだろう。あるいは、合理主義的発想の思わぬ落とし穴であろうか。
九峪こそ、合理性からほど遠い男である。むしろこの男の場合、行動に合理性をともなわせてこれたのも、幕下に優れた人物が揃っていたからだ。合理性があとからついてくるようなものだった。
逆を言えば、天目の意表を突いた九峪の智謀が、今回の帰結の要因といえるかもしれない。物資がないから動けないと考えた天目の合理性に対して、九峪はそれこそ逆転の発想で、物資がないからこそ泗国へ援助し誠意を見せ、本気の態度を示し、短い間で既成事実を結ぶことに成功した。
もちろん、民衆が暴動を起こすかもしれないほど、緊迫した経済状況下での、決断及び行動である。さじ加減を謝れば、国の崩壊に繋がりかけない。リスクは高かった。
出来ないときにこそやる。やってのけた九峪の政治的勝利であった。その活躍の下で、亜衣や伊万里などの奔走があったことは言うまでもなく、彼女たちの粉骨砕身の働きがなければ、これらの結果はなかっただろうことも想像に難くない。
九洲の離反に、天目は表向き激怒の様相を見せ、九州との同盟をこちらも破棄した。しかし、すでに天目は對馬、壱岐に兵を集めてもいた。
内心はしごく冷静であった。
年が明け、元星十年一月——
新年の賀もそこそこに済ませ、ついに九峪は泗国への派兵、その他の部署決めを敢行した。
以下、その内わけである。
泗国派兵団
本隊総司令 伊雅 六千二百
第一軍豊後 伊万里 八千七百
第二軍薩摩 香蘭 三千二百
第三軍火後 閑谷 三千七百
艦隊第一軍 重然 二千三百
艦隊第二軍 教来石 一千六百
総軍しめて二万五千余りの大兵団が、随時、豊後水道及び太平洋を周って、斗佐へと向けて出発した。火後はまだ藤那が療養中につき、閑谷が総大将を務め、水軍をもつ北山衆も廉思の容態が思わしくないため、教来石が大将を勤める。
この他にも、戦域がある。なんといっても大出雲との直接戦闘が予想されて仕方がない。こちらへも兵を裂く必要がある。
この場合は、残された火向・豊前・火前・筑前・筑後の兵力で戦うことになる。こちらの動員できる現戦力は、以下のとおりとなる。
火向 志野 七千二千
豊前 遠州 四千五百
火前 切邪絽 三千三百
筑前 写楽 三千七百
筑後 尾戸 三千五百
現行でしめて二万四千。総動員すればまだ増える。これらが大出雲国と一戦交えることとなるだろう。
当初の考えからは若干の変更がみられる。豊前の遠州は、居残り組みではなく渡海組み、火向の志野も同様であった。事態が変わったためである。
渡海決行の日時は翌月の二月五日と定めた。それに先んじ、先遣部隊として重然を司令官とした水軍艦隊が、渡航を円滑に進めるために火振島周辺諸島へと先行する手筈と決められた。
渡海決行前、加奈を預かる廉思の体調が思わしくないらしいと聞いた九峪が、外加奈の城を訪れた。
加奈港では豊後へと向かう北山衆の船団が、取り急ぎ出港準備に追われて、活気に満ちている。だがその雰囲気は、どこか刺々しかった。
先鋒組に選ばれた事を快く思っていない輩が多いからだと、九峪はすぐに直感した。このような反応はむしろ想定内であるが、いざ目の当たりにすると、気持ちのよいものではない。
九洲人が北山を軽蔑するように、北山人もまた、九洲の属徒となることを良しとしていないのだ。
後々にこれらの軋轢が表面化しないよう、廉思や教来石に言い含めるしか、九峪には出来ない。九峪自身が打てる手は打ち尽くしてしまったから、あとは北山自身の試練である。
政庁の館を訪ねる。謁見の間ではなく、廉思の寝室に通すよう下人に命じた。
「教来石はいないのか?」
「はい。ただ今教来石さまは、加奈の湊へと足をお運びでございます」
「そうか。忙しいからな」
二、三ほど確認しつつ、寝室へと到着した。九峪は襟元をただし、下人に戸を開けるよう促した。一礼した下人がしずしずと戸を開ける。
廉思は床にいながらも上体を起こし、戸口を見上げていた。予め来訪の報せはしてある。驚きはなく、軽く頭を下げた。
季節は冬、部屋は暖がとられている。暖気が逃れないよう、すぐに戸を閉めさせた。大隈海の冷えた潮風に縮こまっていた身体中の細胞の一つ一つが、ほっと弛緩していくような錯覚がした。
「ここは暖かいな」
床のすぐ傍に腰を下ろした九峪は、当たり障りのない挨拶代わりの言葉をかけた。
「九洲というところは寒うございます。同じ冬でも、いまほど肌を刺さなんだ」
「さもあらんってやつだな」
「ユキ、と言いましたな。阿蘇の尾根が白うござった」
「雪を見るのは初めてか?」
尋ねると、廉思は苦笑した。
「齢四十三にして、はじめて北山の外に出、北山以外の世界を知り申した。世の広さは某の想像を遥かに超えるものばかりです」
「おどろいたか」
声を上げて九峪が笑った。ずっと年上の廉思が、まるで十年前の自分と重なって見えた。己を取り囲んでいる壁を超越して迫る世界の姿こそ、最強の驚愕である。
「生きてみるものでございます」
しみじみととした、感慨深げな一言であった。
時折、廉思は表情を深くする。脳裏にはきっと、北山での悲惨な撤退戦が、いまもありありとこびり付いているに違いなかった。
ほっと息をつき、九峪は、本題に入った。
「忌瀬には診せたのか?」
「はっ」
「忌瀬はなんだって?」
「明確なことはまだ何も。ただ安静にするようにと」
廉思はここ数日の間に、にわかに体調を崩した。大事の前の小事であるが、いまだ不安要素である北山のまとめ役たる廉思だけに、九峪は案じて忌瀬に診察を依頼していた。
忌瀬でもまだわからないものであるらしい。この時代の病は、むしろ判明されないものの方が多く、判明していても治療できないものも多く、ために落命する人間もまた、多かった。
このタイミングで廉思を失うわけには行かない。それだけはいけないと九峪は警戒している。
泗国派兵を直前に控えている今、北山を御することができるのは、廉思のみだ。残念ながら教来石にはそこまでの器が備わっておらず、また荷が重かろう。
教来石不在の間の政務をどうするのか、などなど、九峪の心配は尽きない。なるほどこれは北山の試練であろうが、問題は加奈の地のみに留まらないのだ。
だが医学知識をまったく持たない九峪には、どうしようもないことである。せめてもの気休めと思った九峪は、後日に外加奈の城内の神社を参拝し、廉思の健康を祈願している。
北山屋敷を辞して、再び足は湊へ向いた。教来石を探すためだ。
北山の予定ではあと二日の間に、順次に加奈港を出立する手筈であるため、住民総動員で荷物を船に積み込んでいた。武具の類はもちろん、矢玉、弓の弦、藁に油、糧食と品項目は枚挙にあげても隙間がないほどだ。彼らには戦闘のほかにも、物資補給という輜重船団としての側面も期待されていた。
九峪は、浜を一望できる高台に置かれた指揮所を尋ねた。
床机を前にした教来石は書面を幾重にも重ねさせ、忙しなく目を動かしている。控衆に次々と伝令を与え、戻ってきた伝令もすぐに命令を受けて飛び出している。
それだけ忙しいにもかかわらず、また九峪の来訪が急であったにもかかわらず、さしたる動揺もない様子で九峪を迎えた。
「あんまり驚かないんだな」
拍子抜けしたと九峪はこぼした。教来石はにこりともしなかった。
「わしを驚かして、どうするおつもりか。見てのとおり忙しゅうござろう」
「つまんねーな」
「つまらなくて結構。今はそれどころでない故に」
といいつつ、また伝令が慌しく入れ替わる。
積荷のことで報告と命令を与えると、教来石は書面から顔を上げ九峪のほうを向いた。
「来訪の知らせは来ておったのです。わしがここで指揮を執っているのならば、浜に来るものとも予想することは簡単でござる」
「なるほどね」
「廉思のことが、気がかりなのでありましょう」
と、そういったときの教来石の表情は、沈鬱そうであった。もっとも心を痛めているのは、九峪ではない。むしろ彼の親友であり、ともに生活している教来石のほうこそ、心配の度合は強いだろう。
「髄を傷めておらねばよいのですが・・・・・・」
「髄?」
九峪は首をかしげた。
「人の命の根幹を、髄と呼ぶのです。これを傷めてしまうと、もはやどのような良薬を持ってしても救え申さず。全身を苦痛に苛まれ、食欲は衰え、痩せ干せ、最後には息を絶やしてしまう」
「げっ」
「わしは、廉思がそうではないのかと、密かに案じてならないのです」
咄嗟に九峪は、冗談ではないと思った。重ねて言うが、いま廉思を失うわけにはいかない。
その年の二月、日は十六日のことだ。
先発していた北山衆と、大出雲の水軍が宇和の海で交戦した。休戦および同盟締結から十年越しとなる、両軍の戦闘である。
お互いが少数であったことから、交戦といってもせいぜい掠り合う程度のものでしかなかった。しかしこれによって、九洲と泗国が手を結んだということが、天下に知られることとなった。
泗国派兵の総大将である伊雅は、まず制海水域を確定させるために、火振島を拠点とした防衛線を引いた。豊後水道を完全な領域に収め、宇和海も勢力圏に収めようとすることで、斗佐との間を繋ぎつつ伊依への進撃も容易に進めやすく出来るよう制海権を握りたい考えである。提案は閑谷からのものであった。
泗国へと渡れば、軍団編成の主軸は豊後兵団になる。山岳地帯の多い泗国では必然といえた。
渡海を七日後に控えた二十一日、船団が集中している咲賀半島(佐賀関半島)の咲賀城付属湊である岡崎砦に伊万里は陣屋を構えていた。この他、国東半島の登呂砦、同地の国美砦が渡海拠点とされた。すべて豊後の城砦であるから、伊万里管轄である。
岡崎砦に入ってからの伊万里は精力的に準備を指示して、ときには大声で怒鳴ることもあった。温厚な彼女にしては珍しいことだ。
気が荒れているように見えたのは、それだけ表情も固いからだ。兵士たちは皆、それが、泗国での激戦を予感しているためだと勘違いし、それが俄な鼓舞となって、全体もほどよく緊張し士気があがった。
——伊万里の真実は、まったくの見当違いであるのだが。
伊万里の気持ちが荒れているのは、なにも使命感とか、重責とか、そんなことではない。いや、たしかにそれらもあるだろうが、直接の原因ではないのだ。
伊万里を荒れさせている原因は——もっぱら上乃と九峪が原因だったりする。
過日、上乃は正式に遠州との『婚約』を成立させた。斗佐出兵が正式に発令される直前であったから、実際に挙式を上げるのは、まだ先のこととなるだろう。上乃は斗佐へゆくが、遠州の部署は留守役である。
この婚約を特に喜んだのが、いわずもがな九峪であった。北山の問題を考えると、これほどありがたいこともない。
神の遣いから祝福されたとあって二人も大いに喜びあがった。
伊万里も、義妹の幸福を祝福していた。最初のほうは。
——出兵という大仕事を前に、来る日も来る日も、上乃の口を突いて出る言葉は「のろけ話」ばかりだ。
天性が垢抜けて明るいだけに、浮かれると際限がなかった。朝から晩まで、静かだったことがなかった。これには伊万里もほとほと辟易してしまい、廊下向こうから上乃が歩いてくるのが見えただけで、思わず姿を隠してしまうほどだった。
こちらは、九峪様との婚姻も結べるかどうかわからないのに——と、上乃相手に腐る気持ちを抑えきれない。
鬱憤は仕事を発散の場と定め、そのために語気も荒くなってしまう伊万里であった。
そんな伊万里を心配げに見つめる者がいる。
とうの上乃だ。
「・・・・・・九峪様が火魅子様と結婚しちゃったから、落ち込んでるんだ・・・・・・」
伊万里の様子がおかしいことにすぐ気づいた上乃の推理は、そのようなものだった。あながち間違いではないのだが、もう半分を自分が占めているなどとは、思慮の外だ。
期限がせまりつつある中、上乃はなんとかして頭を捻った。どうやって九峪を豊後まで呼びつけて、伊万里と話しをさせるか——
復興軍時代とは異なり、国家としての体裁が整った今、いくら九峪が開けた性格をしているといっても、上乃程度の身分ではそう簡単に呼び出すことなど出来るはずもない。上乃は伊万里家臣としては大物者(家中でもっとも位の高い重臣、筆頭)という役職であるが、その影響力は伊万里旗下のみ発揮できるものだ。
だから、九峪に足労願うには、伊万里の耳にその趣旨を上奏しなくてはならないのだが、もちろん今の伊万里がすなおに頷くわけもない。胸のうちの煙を、伊万里は仕事に打ち込むことで発散しようとしているのだから。
ではどうすればいいのか——同じく忙しいはずの仁清を掴まえて、港で賑わう飯屋で話し合った。
「てゆーか、上乃も働いてよ」
汁飯を掻き込みながら仁清が恨めしげに呟いた。
べつに、上乃もさぼっているわけではない。ただ雑事に追われている同輩の邪魔をしないことも、仕事の一つだと仁清は語る。
だが上乃には馬耳東風であった。
「そんなこと、今はどーだっていいのッ! それよりも伊万里のことでしょーが」
「どーだっていいことかな・・・・・・。伊万里にバレたら怒られるよ?」
「大丈夫よ、伊万里は忙しすぎてこんなところにこれないから」
「忙しいってわかってるんなら手伝ってあげようよ・・・・・・」
「あー、あーッ、うるさいうるさい! そんな小言を男がグチグチいわないのッ!!」
椀を机に叩きつけるように置いた。匙をビシッと仁清の鼻面へと差し向けた。
「どうせ荷物を積むだけなんだから。予定ではあと七日。つまりその間に、なんとかして九峪様に豊後まで来てもらわないと」
上乃は声を潜めて、身を乗り出した。勢いある姿勢と眼差しに仁清も思わず、頭を低くする。密談しているかのようだ。
「斗佐にわたったら、もう『あうと』だよ。いつ戻ってこれるかもわかんないし・・・・・・九峪様、九洲に残るんでしょ?」
「らしいね。下関とか、大出雲と国境を接してるところは、戦いになるかもしれないって噂だから。・・・・・・たぶん、耶牟原城から全体に指示を出すんだと思う」
「本土のことは亜衣さんにまかせちゃえばいいのにさ。何も九峪様が残んなくたって・・・・・・。当麻城の防衛戦だって、亜衣さん上手くやってたじゃん」
「いや、あの時とは比べ物になんないって」
呆れたようなため息を仁清はついた。たしかに規模が違いすぎる。
「でも」と仁清は上乃を見る。
「たしかに残る必要はないよね。九峪様も天目も彩花紫も、泗国が欲しいんだから、天目自身が九洲まで攻め込んでくるわけないよ。それだったら泗国に行くはず。彩花紫もね」
「そうだよ、そうだって! 九峪様も泗国についてくるべきなんだよ! そうしたら火魅子様と離れ離れで伊万里とはいつも一緒になれるし」
「上乃、趣旨違う」
「なに言ってんのよ。これが本題じゃない」
しれっと上乃は答えた。仁清は眉間が痛み出すような錯覚に襲われた。
「そうじゃなくて。どうやって九峪様に豊後まで来てもらうかってことだろ?」
「あ、そーだった」
「あ、じゃないよ・・・・・・。そこを忘れてどうするっていうのさ」
もはや呆れることしか出来なかった。どうにも仁清の目には上乃が、あれこれと思い悩み奔走することで、逆に空回りしているように見えていた。
元来、思案とか思索とかに欠けた人格である。策など練れようはずもないのだ。
しかし、伊万里を真摯に思う気持ちだけは、同郷で長い時間をともにしてきた仁清にも、胸を突くほどに感じ取れていた。たしかに忙しいが、出来るならば手助けしてやりたいとも思うのだ。
考えるという作業であれば、上乃などよりも仁清のほうが僅かに優れている。仁清は、自分たちだけで行うことの限界を見極めていた。
「・・・・・・遠州さんに相談してみようか」
と、仁清はいった。
「遠州に?」
聞き返す上乃を真正面から見つめ、その理由を述べる。
「遠州さんは九峪様からの信任が厚い。それに今は豊前の知事だから、発言力もある。別に豊後でなくたって、会って話すなら豊前でもいいんだし。九峪様に豊前まで来てもらって、伊万里にも豊前へ行ってもらおうよ」
仁清の考えに、わぁっと上乃が喜色を浮かべた。なるほど、それならばどうにかなりそうな気がしてきた。
それに、上乃と遠州は婚約している。これを最大限に利用しない手はないと、続けて仁清は語るのだ。二人が婚姻の話をするのは当然であり、その流れで、九峪と伊万里の間で話をしやすく出来るはずだ。
ますます上乃は浮かれあがっていった。
「いいじゃん、それ! あんた冴えてるッ!!」
「どうも」
気もなしに仁清は応える。こうは言ったものの、不安もあった。結婚している九峪が、その話題で伊万里を意識するかどうかは、未知数もいいところなのだ。伊万里が告白した後から、あからさまに九峪は豊後を避けている。
しかしそのことを、殊更この場でいうつもりはない。言えばまた上乃の気持ちが右肩下がりに落ち込むことが目に見えていた。
一筋の光明は随分と太いものだと上乃には思われたのだろう。残り七日の期限を、上乃は出港準備の全てを家臣にまかせ、自身は伊万里のために豊前へと馬を走らせた。
豊後の国崎半島から豊前の県都までは長い道のりだ。その道を上乃は、駒木馬で寝ずに駆けた。眠気よりも興奮がはるかに勝っていた。
突然の来訪にもちろん驚いたのは遠州だ。こちらも戦備に負われていた。豊前といえばこちらも、大出雲の軍勢が来襲してもおかしくない立地にある。
ひとまず上乃を休ませようと館の奥へ招き入れるが、とうの上乃は挙動が不審なほどであった。
「話しがあるの。大事な話し」
私屋でそう口火を切られた遠州は面食らった。あまりにも切々とした上乃の様子に、これは何か大変なことが起きたと予感した。
詳しく聞き、時が進むにつれ、遠州も眉根を顰めていった。
「なるほど・・・・・・そういうことですか」
事情を脳内で整理し、遠州の優しげな瞳が細く物憂げに細められた。馬鹿らしいとは断じなかった。むしろ、一大事だという危機感のほうが湧き上がるほどだった。
夜も遅いと上乃を客室に休ませ、その夜、遠州はこの降って沸いた『婚姻騒動』に巻き込まれた事に、深くため息を吐いた。しかし、この男、国中でも律義者でとおっている男だ。また知恵もある。大恩ある九峪と、婚約者の義姉の今後を左右する問題であり、また北山擁護派としての立場を考えても、これはしっかりと腰をすえて考える必要があった。
ましてや、上乃の頼みを拒む事そのものが、遠州の中ではありえないことだったのだ。生真面目であるが物事に柔らかく、戦場に出れば鬼神もかくやの働きをする強く柔和な美青年といった趣のある遠州だが、上乃が相手だと途端に甘くなる。
仁清発案の策を実現させるために、また愛する上乃のために、遠州は一肌脱ぐ決意を固めた。
この頃、九峪は猿田那津城の普請の様子見を行い、二月には落成させている。過ぎたる十八日、落成祝賀の宴を催し、天目との戦争決意へ対する抱負を語った。
この猿田那津城を本土防衛の最重要拠点の一つと位置づけ、主に大陸貿易の航路を守るために必要な機能を期待された。また玄界灘の制海権を保守するため、同地の海人衆を集合・組織し、これらを『那津水軍』と呼ばしめた。
豊前にも最重要防衛拠点を置かれ、その繋がりもあり遠州は落成祝賀に出席していた。
遠州は、豊前の拠点城砦の防備について意見が聞きたいとして、九峪へ足労を賜った。事実として遠州は防備を固めるために、九峪に一度は同地を訪ねてほしいと具申していた。
これを利用しないでどうする。九峪は快く応じ、翌日に豊前の福知城を訪ねた。この城は、際川の戦いのおりに蔚海が本陣を置いた城でもある。同城はさしたる攻防が起こることなく、蔚海が本陣を移動したために無傷で陥落、城主らは改易されてしまっている。
「九峪様、お越しいただきありがとうございます」
城の城門前で家臣とともに到着を待っていた遠州が、膝をついて九峪を出迎えた。美々しいまでに輝く白亜の甲冑ではなく、大陸から輸入した白と若草色の織物を纏っている。
その隣には——
「・・・・・・上乃?」
「はーい、おひさー」
思わぬ顔に、九峪はちらりと遠州へ目配せし事情を問うた。
遠州はくすりと微笑み、
「上乃はつい二日前からここに来ているんです」
すらすらと歌でも読むかの如く口上した。
「え? 出撃準備は?」
「あとは出航を待つばかりだということです」
口から出任せであるが、実際、彼女の家臣たちのおかげで準備は滞りなく進み、ほとんど完了している。
笑顔満面の上乃を前にして、九峪は「相変わらずだなぁ」とこぼした。
「で、あれか? 出陣前に会いたくなって〜ってか?」
「まぁ、そのようなところです」
爽やかに遠州は答える。
「上乃が来なくても、私が行きました」
「あっ、そうかい・・・・・・いやいや、それはそれでどうなんだ?」
「愛の力ってやつだよ、九峪様。愛の力で以心伝心!」
「愛の力・・・・・・何と心地よく満たされる響きなんでしょうね、上乃」
「ねー」
「こ、このバカップルどもが・・・・・・」
九峪には、二人の背後で大輪の薔薇が華咲いているかのような幻覚が見えた。
九峪たちが門前で挨拶を交わしている頃、伊万里もまた、上乃に呼ばれて豊前へと馬首を向けていた。供回り三十人の小所帯である。しかし皆が馬上の人となって、弾丸のように疾駆していた。
「まったく・・・・・・上乃のやつ、こんな忙しいっていうのに」
一日だけでいいからと上乃は言ったのだ。伊万里は渋ったが、珍しいことに上乃は頑固に食い下がり、あろうことか仁清の援護まで入れられては、筆頭と次席を前にして伊万里としても動かざるを得なかった。
伊万里としては、いまは仕事のことだけに専念したいところだ。大功挙げることだけが、九峪を振り向かせられる唯一の手段だと見定めていた。その点において泗国は山野が多いという。際川での失態もあるだけ伊万里の闘志はこれ以上ないほどに燃え盛っていた。
幸い、もう準備もあらかた片付いている。でなければ伊万里ももう暫し渋っている。観念すべきは、あまりにも熱心に仕事をしていたことだろう。
これから先になにが待ち受けているのかも知らないまま、伊万里は馬を駆けさせた。