福地の城の防備状態を視察した九峪であるが、別段、不備だと思われる場所はなかった。命綱ともいえる城壁にも欠損は見られず、櫓の位置と数にも文句はない。倉庫に収められている物資も十分である。
そもそも、遠州が自ら指揮しているのだから、拙いことなど何もないのだ。遠州は極めて優秀な戦士で、有能な武将で、素晴らしい人格者である。
豊前はそも、蔚海派であった小久慈の領土だ。小久慈が西進してくる伊万里と志野の軍団に敗北し討ち取られるまで、とくに手痛く絞られた地域でもあるだけに、戦備の徴収は難しかろうとも思われた。
だからこその意味も込めて、九峪は新たな領主として遠州を推した。遠州は率先して倹約に努め、あえて今は亡き小久慈を対比の引き合いに出し、こき下ろすことで、逆流的に自身の政策へ対する不満や反発を巧みにそらした。中々の政治手腕であった。
生産層を手厚く保護して食料の確保にも尽力し、ひとまず当面の物資を蔵に押し込めることが出来たのは、九峪にとっても重畳の出来だった。しかし全体的な蓄えは、まだまだ潤沢といえない。
領民へ負担させる以上、それらの不満を回避する最大限の良策とは、統治階級層がいっそうの倹約・節約に努め、『自分たちも頑張るから皆もがんばってくれ』と民草を鼓舞する以外にはない。
遠州の家臣たちには悪いが、これからもしばらくは貧困に喘いでもらわなくてはならないだろう。豊前だけではない。九峪は宴と名のつくものでさえ、さしたる贅沢をしない。しないようにしている。
九洲の財政はそれだけ逼迫したものである。そのような状況下にあって豊前の最前線拠点に物資が揃っていることは、大きな助けであった。
「とくに気になるほどの問題はないかな。あとは士卒のやる気次第だろう」
最終的な判断として九峪は現状維持を言い渡した。遠州は下知に従った。
下見を終えた頃、伊万里も福智城へと到着した。
館へと戻る途中で上乃は門番より、つい先ほど伊万里が到着したよしの知らせを受け取った。時刻は午後も半ばまで過ぎている。この時代では、速いところではこの時刻から仕事を切り上げるところもある。
一行の足は馬である。駒木の馬ではない。倭国では馴染み深い胴低短足の馬だ。上乃は、遠州と話し込む九峪へと視線を向けた。
——まだ気づかれないように。
と、何かにつけて勘の鋭い九峪へ警戒しつつ、馬をそっと寄せる。
「遠州、ちょっといい?」
遠州の袖口をつまんで、一行からしばしの距離をとる、九峪が「イチャつくなよ」と愚痴るが、かまわない。
「どうかしましたか?」
穏やかな口調で遠州が尋ねてきたので、簡潔に伊万里が到着した事を告げる。すると、途端、遠州の優しげな微笑がひっこみ、緊張の面持ちになった。
「そうですか・・・・・・了解しました。では手筈どおり、九峪様はこちらで対応しますので、伊万里様のことは——」
「まかせて。伊万里のことなら、私が一番よく知ってるんだから」
握りこぶしで上乃は意気を示した。言葉どおり、こと伊万里のことならば、その機微にいたるまで我がことのように感じ取れる上乃である。
ここからはしばらく、上乃一人の戦いである。
九峪にことわって一人馬首を館へ向けて駆け出す。厩で手綱を馬子に預け、自身は伊万里が休息をとっている一室へと向かう。
心なし歩調が速い。一分一秒がもどかしかった。
戸を無遠慮にあけると、すかさず入室し、びっくりしている伊万里の眼前まで迫った。
「おっそーいッ!」
頬を膨らませて抗議されても、とうの伊万里は困惑するばかりだ。むしろ伊万里は伊万里なりに、まったく急な上乃の呼び出しにも応じて走ってきた身だ。遅いなどと文句を言われる筋合いはこれ程もない。
すこし不機嫌そうな表情で、伊万里は唇を尖らせた。
「なにが遅いんだよ」
「足がよッ!!」
「殴るぞッ!?」
あんまりな物言いに伊万里の語気もさすがに荒くなる。いまひとつ理性が足りていなければ、拳を握って振り下ろしたことだろう。
九峪との問題もあって伊万里の気は立っていた。まるで更年期障害のようにちょっとしたことで声を荒げるのだ。だというのに、上乃はそのことに気づいていないかのように、空気を呼んでくれないのだ。
実際は、伊万里の気持ちがわかっているからこそ、無理やりにでも事を進めようとしているのだ。なんと言っても伊万里が奥手すぎるのも悪い。一種の荒療治でなければいけないと上乃は考えていた。
だからこの程度の怒りを向けられても、覚悟を決めている上乃にはまったく通用するものではなかった。伊万里の言葉を右から左へ受け流し、至極、真面目きった表情で伊万里の手をとった。
「ちょっと来て」
といい、返事が来る前にはもう立ち上がっていた。困惑しきりの伊万里を無理やりに立たせ、二人部屋の隅へ移動する。
「な、なんだよ」
さすがにおかしいと感じたのか、眉を寄せて伊万里が尋ねてきた。わざわざこんな隅っこまでくるなど、あたかも密談するかのようだ。
首を左右にめぐらし、誰もいないこと確認した上乃が、きっと伊万里を見つめる。
「いい、手短にいうよ」
「あ、ああ・・・・・・あぁ?」
「いいからッ、まず聞いて」
「う、うん」
素直に頷く。
「ここにね、九峪様がいるの」
「・・・・・・へ?」
手短過ぎる言葉に伊万里はぽかんと口を開けてしまった。間抜け面も間抜け面である。
一瞬、伊万里の脳は、言葉の意味を理解することが出来なかった。聞こえてはいたろうが、言語としての認識が追いつかない感覚が、上乃の言葉をぼんやりとした現実味のないものにしてしまっていた。
そのような感覚が表情にも出てしまい、すぐに上乃も伊万里が理解しきれていないと判断できた。判断するに十分なほどの間抜け面なのだ。
だが、腹を立てる場面ではない。仕方がないとも思い直し、息を吸い、こんどはやや声量を上げて同じ言葉を吐き出した。
それらが幸いしてか、ようやく伊万里は瞬きし、唇を振るわせた。
「く・・・・・・九峪様が・・・・・・?」
ここに? と、指先を地面に向ける。上乃はこくりと頷いた。
——ふっと、伊万里の上体が傾いだ。
「って、ちょっとぉ! こんなことで気を失ってる場合じゃないでしょッ!」
慌てて抱き起こされたが、目が完全に泳いでいる。まるで不意打ちの夜襲を受けたかのような動揺振りであった。いや実際、それだけの衝撃が全身を射抜いたに違いない。
いくら名将の誉れ高い伊万里であっても、この奇襲にはまったく無防備で、予想すらしていなかった。できていたら立派な謀将だろう。もっともこのようなこと、天目や彩花紫でも予期しきれるとは思えないが。
「あ、あ、あ、上乃ぉ・・・・・・」
情けない声で伊万里はすがりついた。
「ど、どういうことなんだ・・・・・・? なんで九峪さまがッ!?」
「だから私の話をききなさいってば。とりあえず、ほら、正座して」
あまりにも頼りない姉の様子にため息をこぼしつつも、根気強く伊万里を落ち着かせる。
——まったく。九峪様が絡むとコレなんだから。
奥手もここまでで来てしまうと、苛立ちすら涌いてこない。
正座した伊万里は、両の拳を膝の上でかたく握り締め、全身が小刻みに震えている。初夜を迎えんとしている生娘でも、こうはならないのではないか。本気にちかい形で上乃は思わざるを得なかった。
自身も正面で正座し、こほんと咳払いをする。
「いい、伊万里。今回ここに来てもらったのは他でもない、九峪様とのことで決着をつけてもらうためなの」
「け、決着?」
「そう、決着。長く続いたこの険しいいくさ・・・・・・それらに、今日、終止符を打つのよッ!」
「ッ!!」
挙げられた拳が光を放たんばかりに輝いている——ような幻覚が伊万里を瞳を惑わした。上乃はそのまま拳の人差し指を立て、伊万里めがけて振り下ろした。
「九峪様に告るのッ! 告ッた後は寝るッ、抱いてもらうッ、駄目だったら押し倒すッ、はい終了ッ!!」
「え、いや、ちょっ」
「完ッ璧!! もうコレっきゃないよねッ!!」
「そんなわけあるかーーーッ!!」
顔を真っ赤にさせた伊万里の怒鳴り声が、部屋中の大気を如何なく振るわせた。真向かいの上乃にかかる衝撃は一際すさまじいものがあった。両耳を襲った衝撃波が三半規管を揺さぶった。
「なんだその短絡思考ッ、『食べる・寝る・えっちする』みたいに言うなッ!!」
「いぇ、えまりゅ、おちゅちゅい——」
目を回しているにも拘らず、なんとか上乃は言葉を搾り出す。だが口をついた先から上乃のか細い言葉は、猛る伊万里の前に木っ端微塵に吹き飛ばされるのであった。
「だいたい私はもう告白してるッ!」
そういえばそうだった——と、薄らいでゆく意識の中で上乃は肩を落とした。気持ちは伝えていたんだから、あとは押し倒すだけでよかっ——
「いいわけないだろおおぉぉぉッ!!」
伊万里の絶叫はしばし続いた。ほどなく、上乃の意識は飛んだ。
夜となり城主の居館では、訪問している九峪たちを囲んだささやかな酒宴が開かれた。翌日、九峪は帰路につき、耶牟原城へと向かう。同日に伊万里も拠点へ引き返し、斗佐へ渡らなくてはならない。
ある意味、酒盃をしごく穏やかに干せる夜も今宵が最後かもしれないと思うと、上乃はなんだかしんみりとした気持ちに包まれる気がした。よくよく鑑みれば、琉球での撤退戦からまだ二年も経っていなかった。束の間の安らぎといえば、あまりにも短い時間だ。
酒宴には九峪を初めとして、遠州と伊万里、その旗下幹部、そして福智城の城主及びその家臣ら、十八人が参加している。城付の楽師や踊り子、白拍子が静々とした演戯を披露している。
上乃は、右隣を向いた。伊万里がいる。俯き加減でひたすら呑んでいる。
上乃の斜め向かい、ちょうど伊万里の正面が遠州の席で、こちらは穏やかな表情で——片頬を引きつらせていた。努めて努めて表情に出さないようにしているのだろうが、無理もないと上乃は嘆息した。
最奥の上座を九峪が一人で座っている。こちらへも視線を転じれば、やはり静かに杯を傾け、その視線は優雅に舞う白拍子の剣線に注がれている。一見すると、何気なく興じているようにしか見えない。
だからこそ、上乃は困惑するばかりなのだ。
この宴もすべては九峪と伊万里の仲を進展させるために設けさせたものだ。それ以上の意味はないと断じてもいい。そのためだけの舞台であるが、肝心の役者である二人は、まだ一言も言葉を交わしていなかった。
宴が始まって、すでに一刻が過ぎていた。空気のおかしいことには、居合わせている家臣たちもそれとなく察していて、ことさら喋るものもいない。それが返って空気を重くしていた。
また、以上でもあるのだ。宴となれば、まっさきに九峪が動く。これはもはや慣例とさえなっていて、九峪は酒瓶をもっては諸将の膝元までいき、手ずから淹れてやるのだ。将軍官僚の間では、それを験がよいとあやかるものも多いほどだ。
その九峪が、立とうとしない。この場で九峪から杯を賜ったことのある者がどれほどいるかは定かでないが、とにかく九峪といえば噂の種で、事実家臣らも、九峪の杯を受けるのを楽しみにしていた。
疑念が渦を巻いているかのようだった。音楽が虚しくなっている。
ちらっと、上乃は視線を遠州へ差し向けた。遠州も上乃を見た。
——どうしよう!?
——わかりません。
場を設けた二人が、この状況に内心で右往左往している。指揮を執らせれば采配鋭く、恋愛にも経験豊富で積極的な上乃を持ってしても、九峪と伊万里が相手ではその手練手管も歯が立たない様子だ。
さして面白みもないまま、宴は次第に白けていく。上乃も遠州も、伊万里以上に、最奥上座の九峪がいったいなにを考えているのかが、まるでわからなくなっていた。
少しずつ、じわりじわりと、このように強引に進めたのは失敗だったのかという焦りとも取れる気持ちが、主催者二人を押し包んできていた。
酒の味もわからない。いま自分が酔っているのかどうなのかさえ、わからないようだ。
上乃たちの考えでは、この宴はまず、気まずくなっているであろう九峪たちの気持ちを和らげるために設置したものだった。酒と魚、楽と談笑を穏やかにない混ぜて、感情を軟化させ、然るのちに宴が引けると、上乃が伊万里を、遠州が九峪を連れ出し、話し合わせるつもりだった。
最短で成果をあげるにはこれがもっとも良い方法だと判断した。何よりも対話がなくては話にもならない。
だが、いざ行ってみればどういうことか。失敗しているとしかいいようがない状況である。
——これは計画の軌道修正が必要
と確信した遠州は、九峪へと身体を向けて一時の暇を申し出た。すぐに了承を得ると、すっくと腰を上げ、上乃の元へと近寄り耳元に顔を寄せた。
「すこし、外へ出ましょう。これは計画を考え直さなくてはなりません」
小声で囁かれた言葉に上乃も頷かざるを得なかった。
「それでは、しばし」
そう爽やかに遠州はいった。上乃も立ち上がり、連れ立とうとする。
すると、この重苦しい空気を久々に破られたからか、はたまたこれを気に破ろうと考えたのか、居合わせた臣官が顔に笑みを浮かべて、遠州たちをからかった。
「白勇の公の夫妻は、これより閨の時ですか」
男女の夜の営みをしにいくのですか、という意味の言葉である。なるほど言われてみれば確かに、そのために連れ立とうとしているようにも見える。
上乃と遠州はまだ結婚こそしていないが、すでに関係はある。
咄嗟なことに上乃は目を丸くさせてしまった。まさか、と思った。いまは自分たちの情事などよりも、大変な難大事を解決するために話し合わねばならないのである。睦んでいる暇などない。
しかし、顔を赤くさせた上乃とは対照的な態度をとったのが遠州で、とくに慌てるような素振りも見せず、うすく微笑むだけだった。
それがまた、人の想像を掻きたてる。
「これはしたり!」
臣官は大声で叫んだ。いささか悪酔いしているらしいが、発端としては十分といえた。周りからも「したり、したり」と囃したてる様な言葉が飛び交い、その中を、遠州は立ちすくんでいる上乃の手をとって外につれ出た。
このような騒ぎの中でも、九峪も伊万里も、ただ黙々と杯を干すばかりだ。
打って変わって囃したて賑わう広間の入り口へ一瞥やり、よしと遠州は頷いた。若干、自分たちの浮世が立ちもしたが、ひとまずこれで、重い場の空気が浮ついたことだろう。
臣官たちもあのような空気は好まないだろうから、やや空騒ぎでも、みな大げさに大振る舞いをするに違いないと考えた遠州の狙い通り、言葉が一もニも聞こえてくる。
ただ、上乃だけはまだ遠州の考えに気づけず、赤ら顔でからかってきた臣官に憤っているのだが。男女のことをからかわれるのに対して、上乃は経験豊富なくせしてあまり耐性がない。直情径行の性格が災いしているのだ。受け流すことが出来ない上乃には悪いかもしれないが、その初らしいのもまた愛しく思えるのだ。
ともあれ、今後のことである。しばらく宴の席に戻るつもりはない。九峪たちをいいだけ刺激するためだ。
「これで少しでも互いの異性を意識してくれればいいのですが・・・・・・」
難すぎる両者の態度を懸念におもいつつ、ただ々々自分たちの企みが成功することを祈ることしか、いまはできない。かえって意識しすぎたがために、物事が上手く運ばなくなることもある。それも怖い要因だ。
「しかしあの様子だと、そうそう長いこと宴会を続けることは出来ないでしょう。思っていたよりも早く引き上げる可能性もありますね」
「私たちがここまでやったのに・・・・・・?」
「ここまでやったのに、です。まぁ別に、見せ付ける分には問題はないんですけどね」
「こっちはハズかった!」
口角を広げる上乃のおかしさに遠州は小さく吹きだしてしまった。普段は色気を振りまいているくせに、時たまひどく初心になる。素直と意地っ張りの板ばさみのようだ。
肩をすくめて上乃を宥める思考の半分で、さてどうしたものかと遠州は一人かんがえる。どうしたもこうしたも、計画にはこれ以上の発展は想定されておらず、あとは成るように成るしかないのだ。
事を直前に控えた者の信条は、どこの世界であってもそう変わるものではないらしい。何も出来ない、するべきことがないとわかっていながら、遠州も上乃もやきもきするだけだった。
湯で温められた身体も、冬の夜気に包まれると途端に熱を奪われてしまう。今宵の風はそよ風ともいえないほど弱弱しいが、まだかすかに水分を含んでいる髪を冷たくさせ、全身から熱を奪っていく。
福智の館の渡り廊下を、伊万里はひとりで歩いている。主閣正面から見て南西に、離れの屋敷があるのだ。主閣と離れを繋いでいるのは、吹き抜けの渡り廊下一本だけで、ここを通らなくては離れへ渡ることは出来ない。
離れの屋敷は、文武官らの私邸とほぼ同規格のもので、おもに官僚たちの応接に用いられることが多い。あるいは、客人の宿泊先としても用いられている。
廊下の距離は十二間ほどあるだろう。館の外廊を歩いてきたのだから、すっかり四肢は冷え切ってしまっている。肩から絹衣を重ね羽織りしているものの、時折くしゃみしてしまうのはどうしようもない。
一月、真冬だ。外へ目を向ければ雪がうっすらと積もっているのがわかる。
「上乃のやつ・・・・・・」
恨めしそうに伊万里はこぼした。この寒空のしたで護衛もつけず、ひとりでいる理由は、就寝する直前に上乃から、「離れにいってほしい」と願いだされたからだ。
眠気もあって当然の如く伊万里は難色を示した。しかし上乃の粘りに粘った『お願い』に、生来押しの弱い伊万里は腰を折らざるを得ず、防寒して外へと出てきた。
だが道すがら口をつくのは上乃への不平不満ばかりだ。昔から自分をいいように振り回してきた上乃——いつもその行動には突拍子がなくて、ついには終わった後ですら事態を理解できないことも多かった。
仕方がない——とため息をつきつつも、しかし伊万里は、すでに薄々と感づいてもいる。今回ばかりは、伊万里の元にも気づかせるような要因が多くあるのだ。
心境は極めて複雑である。弱気と強気が鬩ぎあい、足取りもどこか重い。
——小賢しいことやって。
おかしいとは思っていたのだ。県都を出るときも、妙に仁清が積極的に伊万里の仕事をほかの重臣らにも割り振っていた。いま思えば仁清も一枚噛んでいたのだろう。
なんだか自分以上に、周囲が大騒ぎして盛り上がっているような、置いてけぼりを食ったような気持ちがする。そこまで心配してくれていることには素直に感謝しているものの、一方で蚊帳の外であることが少しだけ気に入らない。
だけど、と伊万里は自分に問いかけた。これはやはり、絶好の機会であるのだろう。この瞬間を逃せば、もう自分は泗国の戦場に立つだけだ。
今しかないのも確かなのである。
どんな理由があれ、伊万里は覚悟と決意を固めなくてはならない。折角だ。言いたいことは全部吐き出してしまいたい。上乃や遠州、仁清たちの気持ちを無碍にしたくないし・・・・・・なにより後悔したくない。
唇の端をむすぶと身体中に力が漲ってくる気がした。ドクンッと心臓がひときわ強く跳ね上がる。
ほどなくして、伊万里の足は離れの扉前で動きを止める。
いつもの彼女ならば、ここで一拍おいて深呼吸をし落ち着こうとするだろう。しかし一度かためた決意をわずかでも緩めるようなことはしたくなかった。勢いのままに手をかける。
木材の軋み擦りあうような高い音が小さくなり、そろそろと伊万里の腕が扉を押し開いていく。後ろから風がかすかに吹き、部屋の中へと伊万里の背中を押す。前髪がなびく。
のぞいた部屋の内部は暗く、篝ひとつ分の明るささえない。しかし伊万里の鍛え抜かれた感覚は、人間の息遣いを感じ取っている。
夜目は効くほうだ。すぐに目が慣れてきた。部屋の中央で座り込んできる人影が確認できた。
「・・・・・・伊万里か?」
人影が声をかけてきた。「はい」と伊万里は答えた。扉をうしろ手に閉じ、自らは対面に腰を下ろした。
距離は、丁度ひと一人分ほどの間を空けている。これが今の二人の距離だ。
まずは沈黙。伊万里は九峪から切り出してくるのをまっている。
「あー」とか「うー」とか、どう切り出そうかと悩む九峪の声が聞こえてくる。影が頭をかいている。
やがて、言い訳はするべきじゃないと腹をくくったのだろう。苦笑した。
「こういう事になるんだろうなってのは・・・・・・何となく思ってた」
「私もです」
「あんな中途半端な終りかたしたんだ。あの上乃が黙って引き下がるとは思ってなかったしな。いつかは直談判にくるかな・・・・・・と考えていたら」
こんな搦め手に打って出るとはと、思いもつかぬ展開に九峪は嘆息するしかなかった。上乃の性格を考えれば、九峪が耶牟原城にいれば耶牟原城に、那津城にいれば那津城に、文字通り馬を飛ばして殴りこんでくる豪快な行動を起こすものとばかり思っていた。
そのときには、九峪も覚悟を決めて伊万里に相対するつもりであったのだ。しかしそれまでは逃げ腰であったことも事実で、心の弱さであろう。
こうして策を巡らされてみると、同じく策略で生き抜いてきた九峪にすると、自分自身に失笑してしまう。見事のハメられたものだ。
「こんなことを考えるのは、遠州かな。上乃らしいやり方とは思えない」
「そうでしょうね。どうも仁清まで巻き込んでいたみたいですし」
「仁清か。・・・・・・さぞかし、情けない俺に腹をたてたことだろうなぁ」
「そんなことは・・・・・・」
とっさに否定が口をついたが、そうかもしれないと思った。それは逆に煮え切らなかった自分にも原因があるはずだった。
九峪が思いため息を吐いた。
「どうもな。俺は恋愛やそういう関係には、だらしない男らしい。昔っから珠洲から『すけべぇ』って言われ続けてたしな」
などと九峪は言うが、それほど酷い有様であったとは、伊万里は思っていない。たしかに好色の気はあったが、手当たり次第に漁ることもしなければ女色に溺れることもなかった。むしろ奥手なところさえあったはずだ。
だが当人にはいろいろと思うところがあるようで、暗闇でわからない表情が、ぼんやりと窺い知れるような錯覚がするのだ。
「ほんとうに情けない話しだけど、最近になって昔を懐かしむようになったんだ。まだ俺たちが復興軍だったころだ」
——懐かしい、か。
もうそのように表現されてしまう程の月日が過ぎているのだ。同じだけの時間の中で、伊万里の片想いも募り続けてきた。
「あの頃なら俺にも恋愛の自由はあった。だから、その・・・・・・」
「復興軍時代を懐かしく感じるんですね」
「ああ・・・・・・そうだな。そうだ。俺は政治的な理由から火魅子と結ばれようと決意した。だけど別にだからって火魅子を愛してないわけじゃないんだ。夫婦になったからには愛するし、愛したいと思ってる」
そう言いつつも九峪は内心で、男のかってな言い分だと自嘲する。伊万里の気持ちをわかっているだけに、憚られる思いだ。
「そこへ・・・・・・その愛を、私が受けることは出来ないんですかッ」
吐き出すように伊万里は声を上げる。ひざの上に固められた拳が震えるのを抑えられない。
九峪の口から『愛』という言葉が聞こえたとき、もうその瞬間に感情は暴れだしていた。暗がりに隠れた頬の赤みを俯ける。
「九峪様は政治のために結婚は出来ても・・・・・・恋愛の末に結ばれようとは思えない方なんですか」
九峪へ——というよりも床に向かって言葉は飛んでいく。反射した一言々々が、九峪の左右前後、縦横無尽に切り裂き抉っていく。
「こ、この十年ものあいだ、私がどれだけ想い慕ってきたか——あなたは知らない。それがどんなに苦しくもどかしい日々だったかも、知らないッ」
言葉が九峪を抉るように、また伊万里の心をも傷つけていく。それでも伊万里の口は止まることなく、想いという名の刃が飛び交う。
——はじめて九峪を意識したのは、もうずっと昔のことだ。女王だとわかってすぐに、戸惑う自分を諭してくれたとき。
思えばそのときこそ、伊万里にとってかけがえのない存在となったのだ。
——奥手だった自分が憎い。
——数多いた恋敵たちも憎い。
そしてなにより——誰よりも優しくて、残酷なほどに『人間』でありすぎ、自分の心を支配した九峪が憎い。
憎くて憎くて仕方がない。
愛情は憎しみとなり、憎しみは愛情となる。似ているからこそ——あらゆる感情に優先されるからこそ、その人にとってはその感情だけが全てとなるからこそ、愛情と憎しみは表裏となる。
とくに、伊万里のように純粋であればあるほど——
どれほどの苦しみか。九峪には推し量れない領域だ。だからかけるべき言葉も思い浮かばない。
ただ、荒れ狂う伊万里の言葉をすべて飲み込み、築くことだけしか出来ない。だが逃げることだけは出来ない。たとえ四肢の全てを吹き飛ばされそうなほどの言葉でも、しっかりと受け止めるべきなのだ。
九峪の心に、後悔が積み重なっていく。自らを侮蔑し軽蔑する。それでもまだ伊万里の苦しみには遠く及ぶまい。
——がっくりと伊万里の肩が落ちる。吐き出したい事をすべて吐き、心を暴き出し、見も心も疲れ果てている。のどがカラカラに渇いて、肌はしっとりと汗ばんでいる。
「・・・・・・知事になんて、なりたくなかった」
ぽつりと、伊万里は呟く。
「女王の素質だっていらなかったッ」
——涙が闇に吸い込まれていくのを、九峪は見てしまった。
「九峪さまッ・・・・・・わたしを見てください。わたしはずっと九峪様を見てきました。見つめ続けてきました。十年も昔から! 幾年月もお慕いして・・・・・・愛してきましたッ」
伊万里の声が震えている。いや、声だけではない。身体も心も何もかもを打ち震わせて、自分という存在の全てを振動させている。
そして、造形をなさないほどに崩れようとしているのだ。零れ落ちる一滴にどれほどの想いが秘められているのかなど、打ちひしがれるばかりの九峪には気づきようもないことだった。
それを罪だと呼ぶならば、これほど罪深い男もいない。九峪は自らの罪を自覚しながらも、懺悔に必要な言葉を見つけられないでいた。
——今はただ何を言っても、虚しく聞こえるだけかもしれない。
たとえどれほど伊万里の恋心を思い知らされ、また自分自身が彼女を大切に思っていようとも——九峪がくだす結論は一つしかない。もはやそれ以外の答えなど用意されていないのだ。
否応なくこみ上げるしゃくり声を、それでも伊万里は必死に堪えようとしている。まるで童女のように泣いている。涙は拭おうとしない。いやきっと、そう出来ないのだろう。
九峪は唇をかんだ。今すぐにでも自分の顔面を殴りつけたい衝動が具現化しそうだった。いっそもう一人の自分を生み出して、この十年の罪の清算を突きつけたいくらいだ。
「——ッ」
ふいに唇が切れた。強く噛み過ぎていた様だ。だが痛みすらも今となっては自責を助長するだけの感覚にしかならなかった。
「・・・・・・わるい」
ようやく一言、それだけが言えた。続けて「すまない」とも言った。
言うんだ。
空気を深く吸い込む。
——伊万里の気持ち走っていた。
などと言えるわけはない。
——嬉しく思う。
などとは持ってのほかだ。九峪が示すべき告白はひとつしかない。明瞭に、簡潔に。
「俺は——伊万里といっしょにはなれない」
一瞬ことばを詰まらせたが、あとは肺に溜まっている空気すべてもろとも一気に吐き出した。言った瞬間、体中が総毛立った。毛細血管の一筋にいたるまで緊張は頂点に達し、眩暈さえした。
九峪でさえこのような状態となった。
伊万里の身体がひときわ強く、高く跳ね上がった。髪が舞った。何も見えないはずの闇の空に、一本々々の毛糸が煌いている。
——綺麗だ。いまさらになって九峪の心は、伊万里の知らなかった魅力に釘付けとなった。
しかしもはやこの湧き上がった気持ちを、誰かに言うこともないだろう。ましてや、それが伊万里自身に言えるわけもない。
生まれて初めて女をふった。ふられることはあったが、ふるという行為が、決意が、こんなにも苦しいものだとは思わなかった。
「——ッふ、・・・・・ふぅェッ」
もう堪えられなくなった伊万里の嗚咽が、堰を切って濁流となりつつある。震えは大きくなっている。
それを止める術を九峪はすでに失っていた。伊万里の慟哭が闇をかき乱した。もう伊万里にはこれ以上の言葉はなく、恨み言を叫ぶ棋力も残されていない。必死に悲しみに耐えることしかできない。
——俺はクズ野郎かもしれないな。男としては最低だ。
宙を仰ぎ見た。伊万里の言葉が耳に張り付いている。——『知事になんて、なりたくなかった』と。
昔みたいに抱きしめてやれない自分が、これほどまでに情けない。もはやそんな資格はないとわかりつつ——九峪の頬にも、一滴が流れ落ちた。