耶牟原城の大会議場に詰め掛けた主要高官らを前にして、九峪はひとつの書状に目を通す。竹簡の巻物を最後まで読み終えると、それを床机の上に広げた。
見つめてくる諸人を前に、九峪は笑顔になってゆっくりと唇を動かす。
「壱岐が陥ちた」
おぉっとどよめきが起こった。重苦しい雰囲気から一変、諸将高官が口々に藤那への賛辞を送る。壱岐陥落の報に九峪はひとまずほっと胸をなで下ろせた。
壱岐を抑えたことで、内陸で暴れている敵将の動きも鈍るはずに違いない。予想を超えた敵の強さに危機感を抱いていた九峪たちにとって壱岐陥落は光明であった。
だが、この段階で九峪はすでに下手を打っていたことを否めなかった。時間的余裕の無さが原因であったことは間違く致し方なかったとしても、情報不足にあわせて収拾を怠ったがための危機であった側面もある。
情報を戦局場面で重要視している九峪にとっては、不本意このうえない事態が続いているに変わりなど無いのだ。逆を言えば、情報を有機的に運用していなければ、簡単に危機に陥るとみずから証明してみせたようなものだ。
そしてそれは、那津城を包囲しつつある敵部隊の指揮官も無関係ではない。連戦連勝の敵将が誰なのか、九峪はまだ知らないでいる。
そのために九峪は、壱岐陥落の吉報を受け取って間もなく、新たな危機的状況を迎えてしまうのだった。
壱岐を陥落せしめた藤那の軍勢は、配下の将に壱岐の守備を任せて、二十日に那の津を強襲し奪還した。
この頃、敵部隊はすでに那津城を包囲しつつあった。相も変わらず快進撃を続けているらしい。配下に優秀な者が多いのか、すぐさま諸城砦を奪い返しにかかった藤那が、足を踏み込むたび部隊全体に手痛い打撃を受けている有様だ。
また敵将の判断もたいへん素早く、那の津を奪われたと知るや包囲を解いて進路を三百六十度反転させると、一目散に北九洲めざして逃走しだしたのだ。もちろんこの気を逃すまじと、那津城から部隊が打って出る。那津城の部隊が最後尾に襲い掛かるとき、なんとまたしても急反転して、一戦に及んできた。
くすのきの原始林あたりが戦場になっただろう。障害物の多さを利用した高度な機動戦に追いすがることすら叶わず、怒涛の勢いで那津城の兵は薙ぎ払われていき、また藤那が足止めを喰らっている間にも敵部隊は三度那津城へと接近し、遅くも九洲方の援軍が到着したときには、新しく築かれた那津城に翻る旗はとって変えられてしまっていた。
結局、那津城は敵の手に渡ってしまい、天目にとっては耶牟原城攻撃への楔を打ち込んだも同然のことであった。
那津城を奪った敵将の素性について。
武将の名は乃小野(のおの)という女性仕官である。もと天目親衛隊の隊員だった過去がある。古くから真那満の配下として働き、真那満が将軍職についてからも指揮下にいた。
元親衛隊隊員だけあって総合能力は高く、野戦においては兵馬の駆け引きにすぐれ、調略や搦め手戦術を用いずとも真正面から敵を打ち砕いてしまう天性の戦巧者である。また言わずもがな容姿にもすぐれている。
真那満の『秘蔵っ子』とでも言ったところだろう。忠誠心にも篤いようで、再三の誘惑にも靡く様子はかけらも見せてこない。
乃小野は清瑞の指揮下で狗根国遠征軍の敵情視察にも同行した経験があるらしい。鉄鼠との交戦後に遭難していた九峪たちと接触したこともあるらしく、もしかしたら九峪も直接会ったことがあるかもしれない。
だが九峪はもちろん、火魅子や清瑞の記憶にも残っていない人物だ。中國攻めで功をたてて出世していった。この頃まだ九洲にまで名が届いていなかった。
しかしこの一戦で、九洲の留守役たちはみな、彼女の名前を畏怖とともに胸に刻み込まれたことだろう。
真那満がどれだけの人物に育っているかと楽しみにしていた九峪であったが、さすがに面白くない状況だとなってしまった。とくに気に食わないのが、かつて自分が美禰城を落とす際に用いた計略を、乃小野にそっくりそのまま用いられたことである。
自画自賛かもしれないが、その作戦のおかげで新しく築いたばかりの那津城をむざむざもっていかれたのだから、九峪の悔しさも並ではない。
那津城の奪取に成功した乃小野はすぐさま真那満本隊との連絡線を確保するために、破駄瘰砦(はたらとりで。現古賀市付近)を建造し、さらに周辺の砦を順番に攻略していった。
さいわい直方平野には、際川の戦いの折に、重然と蔚海の両者が競い合うように築いた砦が多数残っていたので、九洲方の将兵らは砦にはいって真那満本隊へ乱撃を繰り返している。真那満はそれらの攻撃をうけて、すぐには那津城へ迎えない状況が続いている。
とはいってもだ。直方平野の砦だっていつまで持ちこたえていられるかなど、誰にもわからないことだ。しかも状況はかぎりなく長期戦へと向かっている。九峪はもちろん、攻勢に出ている真那満にとってもまだ決戦へ踏み込む覚悟は無いから必然そうなる。
そのような事情があるから、戦場は主に直方の砦を奪う守るというふうになっていく。怒涛の勢いで直方の砦郡を破る大出雲の軍団と対峙するために、藤那の旗下にはいっていた音羽が三度、直方へ戻される。
一方で九峪は早急に那津城を奪還する作戦の計画を練らなくてはならない状況にあった。那津城が敵の手に渡っている状況は、戦局的にも精神的にもかなり厳しいものがあった。真那満との決戦は先送りにしたところで大したことないが、いかんせん那津城だけは早急に取り戻さないと、地元民の反発を招きかねない。いや招く。
「あんな馬鹿みたいに強い武将がいたとは思わなかった」
那津城陥落までの顛末を考えるたびに悔しさが増す。悔しさはそのまま自らへの不甲斐なさでもあった。ただひとつ、情報収集を怠ったことで招いてしまったことだ。孫子を読んだ意味がまるでなっていない。それもまた遣る瀬無いのだ。
もし、乃小野に関する情報があのとき手元にあったならば、このようにはしなかった。『しなかった』という以上に、『させなかった』という自負があり、またそれ以上の『させてはならない』という使命感がある。
だが何をどう言おうともすべては後の祭りでしかなく、悔しさをバネにしてこの苦境を飛び越えるほかに道など無い。
ひとまず牽制の目的もある、那津城と耶牟原城を繋ぐ街道を封鎖するように砦を築き五百人からなる陣を敷かせた。周辺の山にも部隊をおいた。封鎖部隊の指揮は、こちらも藤那旗下をはなれた衣緒が執る。
那津城を奪還するにはどうすればいいのか。那津城を城攻めにする場合、味方の兵力は万を必要とする。城攻めは下策である。
九峪は、那津城そのものの早期攻略は不可能と考え、真那満との連絡線を断ち切り乃小野を孤立させる策にでた。破駄瘰砦の城兵はおよそ三百人ほどか。
破駄瘰砦を攻めるに当たり、九峪は遠州に命じて十倍の戦力の三千を包囲陣として投入、さらに衣緒の部隊を一千五百の後詰として控えさせ、六月の初頭に耶牟原城を発進。
六月八日に戦端が開かれると、戦いは五日ほど続けられた。破駄瘰砦を助けるために真那満は一千三百をおくるが、九洲勢を突破するには至らず、撤退している。遠州軍から相応の戦死者は出たものの、とにかくも十三日夕暮れ前には破駄瘰砦の城壁を越えた。残党は那津城へと逃走した模様だ。
「砦一つ落とすにも苦労するな」
破駄瘰砦の攻略を報せに聞いても、九峪は手放しで喜べなかった。北九洲の戦いは一進一退の状況が続いている。こちらが何れかの城なり砦を破ったとして、その次にはどこかしかの城なり砦が落とされる。
武力での解決が望めず、まや事態が膠着してくると、戦闘以外の手段を考えなくてはならなくなるのは、至極自然な流れである。九峪は調略を用いて事態を開くことも考慮に入れなくてはならない。
そのためにまず、敵人の性格や、元親衛隊員の傾向を学ばねばならないと考えた九峪が、このころ火後の阿蘇山を拠点に薬草の採取に出かけていた忌瀬を急遽、耶牟原城に呼び戻した。
親衛隊について尋ねるならば忌瀬ほど適任者はいない。何しろかつては、件の親衛隊総隊長の席までも用意されていた女傑なのだ。また天目の人となりもよく理解し、だからこそ天目が選んだ旧親衛隊隊員の傾向などを熟知しているはずである。
十年の時間が過ぎたといっても、真那満はもちろん乃小野とも顔見知りであるのも強みだ。それどころか現在の大出面国を支えている重臣能臣武将らとだって、ほとんど交流を持っていた。
「かつての親衛隊に選ばれた人たちは、天目が自ら見出しただけあって、みんな優れた者ばかりですよ。戦闘力はもちろん、知恵に長け機略を用い、鈍重な者はなく、知勇才色を兼備した逸材を天目はことのほか欲していましたし、そういう面で天目の鑑定眼はとくに抜きん出ていました」
「出面の人材が豊富ってことは承知しているさ」
「九峪様と天目は正反対ですよね。私も人のことは言えませんけどなんだか皆、九峪様に吸い寄せられるようにして集まりましたし。でも天目は自分から刈り取りにいく性格です」
「そうだな」
九峪は鷹揚にうなづいた。たしかにそこが不思議なくらいに似ているといわれる自分と天目にとって、数少ない正反対な部分だろう。
自分の目で見て選んだからこそ、隊員たちも必死になって期待に答えようとしている。中には虎桃や案埜津のように、単純に面白そうだという理由で戦うものもいるが、彼女たちだって天目への忠誠に間違いがあるとは思えない。
そのため忌瀬は最後に「調略はかなり厳しいと思いますよ」とあっけらかんと付け足してきた。
「とくに乃小野は難しいですよ〜。親衛隊でも聞こえに聞こえた律義者でしたから」
「頑固者ってやつか?」
「頑固っていうか、堅物っていうか。当麻城を奪い返しにきた常慶みたいな、他人の言葉を聞き入れないタイプではないんですけどねぇ。とにかく真面目なやつなんですよ。真面目すぎるから謀略とかが苦手なんですけど、注言はよく聞きますし、そもそも謀略さえも蹴散らすだけの戦上手だった・・・・・・だったんでしょうね」
しみじみ呟くと忌瀬はまぶたを下ろした。忌瀬の知る乃小野は、せいぜい十人ほどの部下を持つだけの小隊長に過ぎなかった。だから個人の格闘能力などは知っていたが、一軍を率いて戦う姿を見たことがない。
おそらく天目には乃小野の素質が隅々まで見えていたのだ。だからこそ隊員に選び、活躍させてきた。先見の明というものか。
「ま、だから真那満も那津城攻めを乃小野に任せたんじゃないでしょうかね。乃小野ならどんな誘い文句にもなびかないって」
「だとしたならやってくれたぜ。調略ができないってんなら、被害は増える一方じゃないか」
しかめっ面で九峪がうめきをあげる。
「私の考えるところ、乃小野が打って出ることもないでしょう。あいつの第一目的は那津城を維持することだと思いますよ」
つまり九峪お得意の誘き出し戦術も、乃小野が相手では通用するかどうか疑わしいと忌瀬は言う。ここしばらくの乃小野の采配を省みても、野戦に挑むは危険があり、城攻めにしても極力回避するほうが得策だと九峪に説いた。
兵糧攻めを行っても、落城までに一年近い月日をかけねばならないだけの兵糧は備蓄されている。それどころか猿田の住民のことも気がかりだ。忌瀬の言葉を信じるならば、敵将の乃小野が住民にひどいすることは考えられないが、万が一ということもあるし、体のいい人質のようなものである。
などと言っていても事態が開けるわけではない。駄目もとでもいいから九峪は、忌瀬に頼んで乃小野の説得を行わせる。一方で真那満はいずれ破駄瘰砦を奪い返しにくるだろうことが予想され、そのことに遠州を対応させた。
戦いの主導権は、いま、真那満の手にある。
泗国の情勢について。
七月、伊万里と香蘭は伊依へ、閑谷と伊雅は阿分、讃其へとそれぞれ進軍し、同地で戦う泗国人らと合流し戦線に躍り出た。
伊雅は九洲軍本陣を九峪との打ち合わせどおりに讃其の白雉城と定めると、泗国の武将たちと連携して、天目・彩花紫の両軍勢と干戈を交えた。
九洲軍の登場でそれまで劣勢にあった泗国連合勢も勢いを盛り返し、戦況は徐々に一進一退を形成しつつある。物量と精兵を駆使して戦域を広げてきた両国を相手に回しての戦いも、ようやく五分になってきたといっていい。
泗国の王たちの英断は、早い段階で九洲に援軍を要請したことにある。貸し借りの心情をこの際無視して、自国を守る上での最良の選択肢を選んだのだ。そしてその判断に間違いはない。
——それも九峪に野心がなければの話だが。九峪の野心を見抜けず、また九峪の目指すところを見抜けなかった時点で、泗国の王たちの眼は誤っていることを証明したようなものだった。
七月二十一日、大出面の武将、八差加(やさか)が軍勢三千を率いて小滝城を出撃した。標的となったのは下伊依最大の要塞、大洲城。一千二百の兵が守備している。
西へおよそ三里に位置する幡城(はたじょう)にいた伊万里は大洲城からの救援要請を受けて、仁清に兵一千三百をあたえ大洲城の援軍に向かわせた。
はじめ大洲城は篭城作戦にでて貝殻か亀甲のように堅く守っていた。城攻めにおいては、三倍の戦力で同等となし、五倍を用意してようやく優勢に立てるとされている。攻城側にとっては人数が足りていない状況であった。
篭城四日目をむかえ、仁清隊が西の小山に布陣し、八差加の包囲勢を横っ腹から睨み付ける格好となった。数を多くみせるために必要以上の灯かりと旗を揺らめかせ、太鼓や銅鑼を散々に打ち鳴らさせ、兵らには昼夜に鬨の声をあげさせるなどして、敵には重圧を加えつつ味方の城兵を鼓舞した。
仁清は、包囲側に押さえられている水の手を開放するために、三百の部隊を割いて川筋から攻めさせ、自らも攻撃準備を整える。戦いらしい戦いも川辺での小競り合いだけで、それから日没まで両軍が動くことはなかった。
深夜、仁清をうごかす事件がおきる。八差加の放った密偵が仁清隊が宿営している陣屋に紛れ込み、兵士らに捕らえられたのだ。間者を捕らえたという報告は、ちょうど仁清が仮眠をとっているときに舞い込んできた。
密偵から聞き出した情報をもとに、仁清はすぐに諸将を集めて軍議をひらいた。こうしている間にも、八差加は別働隊を率いて自軍の後方へ周っているらしい。ようは背後をつついて誘き出そう、という作戦なのだろう。
だがそれも敵に察知されては意味を成さない。すぐに仁清は下山する意思を固め、夜陰に乗じて敵前に出現するべく、粛々と山をおりた。
しかし、麓まで隊をおろしたとき、とつぜん横腹から火矢が襲い掛かり、仁清隊のあしをとめさせた。隊伍はまたたくまに乱れだし、統率は呆気なく崩れてしまった。
すぐに罠だと気づいた仁清だったが、すでに下知は届かなくなっていた。わぁっと敵の槍や薙刀が振り払われ、松明に木々がほのかに灯り映し出される中で敵味方入り乱れての乱戦となった。
山手の木々に火が燃え移り、山火事も起きた。真っ赤になった西の小山に気づいた篭城方は、いまなら敵の包囲も薄いに違いないと考え、城兵一千二百がすぐさま打って出る。しかしこれも八差加の罠であった。
仁清隊へむけて奇襲した人数はわずかに八百でしかなく、いまだ二千以上の部隊が、草むらに潜んでいるのだ。夜も暗いため篭城方はこれに気づけず、迂闊にも敵陣を踏み荒らしている『つもり』となり、二千の伏兵がたちあがり気勢をあげた瞬間の大洲城の将兵らがうけた衝撃は甚だ大きなものだった。
圧倒的な物量もさることながら、精神的動揺も手伝って大洲城方は勝負すらできずに崩壊、城へむかって一目散に駆け出すと、まってましたとばかりに八差加も追撃を下知し敵味方関係なく城門へおしかけ、そのまま城内へと雪崩れ込んだ。
水の手を守っていた別働隊も、駆けつけた瞬間に吹き飛ばされて、あえなく大洲城は陥落。大将の仁清ですら単身でなんとか逃げ出せたくらい激しい戦いだった。配下の武将にいたっては三人も討ち取られ、死者は三百人にものぼるなど、稀に見る大敗となった。
この戦いによって天目は、伊依のほぼ過半を支配域に収めたことになる。だが一方で讃其へ侵攻していた部隊は、七月二十八日に讃其平野の三木で閑谷の指揮する二千五百の部隊に散々に打ち負かされ敗退している。とくに孔菜代が率いる駒木衆が挙げた戦果は多大であったという。
讃其平野は大型の駒木馬が疾駆するに適した地形であるから、最重要拠点の白雉の防衛に関しては安心していい。閑谷が白雉にあるかぎりは北讃其の戦線も長期間にわたって防衛できるはずだ。
それにしても大洲城の陥落は、西南連合にとって大きな痛手となった感が否めない。大洲から斗佐へ侵攻すらにはここからさらに南へ、西依城、宇倭島城を攻略する必要がある。そのための進撃拠点が天目の手中に落ちたこと、さらに佐多岬半島も孤立しかけてしてしまった。佐多岬の陸路入り口に位置する八幡城が伊万里本隊の駐留地であるため、つぎに大出面方の攻略目標とされる可能性が限りなく高い。
もしも八幡城までもが陥落してしまえば・・・・・・佐多岬半島での自由行動権を失うばかりか、宇和海の制海権さえもことごとく失う結果へと繋がりかねない。さらには讃其まで進んでいる伊雅らも苦しい状況に追いやられるかもしれなかった。ただでさえ平野部の少ない地形だというのに、唯一平地が多い沿岸沿いは戦略上重要な交通路となる。伊依の海岸路が使えないならば、峻険にして険路数多な泗国山地の峰々を越えていかねばならず、越えるだけでも七日十日は簡単に過ぎ去る。泗国山地の道は、人馬が一列になってようやく通れるだけの道ばかりだ。
斗佐王の叶は、伊万里からの要請を受け七月終日付けで軍勢七千を西依城近辺の諸城砦へ詰めさせる命令を出す。また下伊依方面指令官の八差加も、五千の増援を要請している。
会戦の日は近づいている。
亜衣は気が気ではなかった。
北九洲に天目軍が上陸してからというもの、聞こえる話はどれをとっても安心からは程遠いものばかりだ。耶牟原宮で政の差配をとる亜衣も、例外なく気を揉む日々が続いている。
那津城が陥落した、と蘇羽哉から聞かされたときなどは、肩に重荷が乗っかる気がした。と同時に、心のどこかで「やはり」と納得する自分もいた。
——九峪様は、決して『万能』のお方ではない。
長らく九峪の片腕として、政治に軍事と多岐にわたり手腕を振るってきた亜衣だからこそ、九峪という一箇の英傑の能力的本質を見抜いている。たしかに九峪は智に長けてこそいるし、また臨機応変の対処ができる柔軟さも持ち合わせているが、その思慮するところは大味なものばかりで、どうしても繊細さ、綿密さに欠けたところがある。九峪の能力的本質とは、戦術よりもより戦略的な比重に傾くものである。
九峪自身も己のそのような欠点を自覚しているから、自ら兵を指揮するようなことは殆どしてこなかった。とくに建国後はその傾向が顕著となり、九峪の戦術面での後釜は実質的に亜衣が担うような状況が生まれていた。
ただし、欠点はつねに補われてきた。それが亜衣である。九峪の至らぬ部分は、亜衣のもっとも得意としてきた分野であり、それだけの能力が亜衣にはあり、そうでなければ宰相の座に居座ることなど出来ようはずもない。
しかし亜衣を政治に専念させたことが、九峪の懐で『綿密、繊細な智』が損なわれてしまい、ひいては那津城陥落の原因ともなっている。そうであると亜衣は信じて疑わない。
決して見下すわけではないが、いま戦線に出ている将士のなかに、智に長けた人物がいるとは思えない。
九峪がもっとも頼りにしている遠州は知勇兼備の武将として知られるものの、参謀的な能力者とはかならずしもいい難いし、おそらく最高の戦闘力を誇るだろう藤那も智に聡いが、その本質も九峪のように大振り大味なものだ。それは懐刀として智謀の献策を行う素質とは違う。
ようは繋ぎの問題なのだと亜衣は考える。作戦とはそういうものなのだ。このような結果にしたい、だから頑張れというだけでは、作戦というものは成り立たない。実現させるための骨組みがどうしたって必要になるし、その骨組みこそ軍師とよばれる士大夫階級が中心となって武将らに伝達することで、初めて作戦は作戦たりえるものとなる。
いまの耶麻台共和国に、それだけの器量に恵まれたものは、亜衣を含めても数えるほどしかいない。その内の一人に薬師の忌瀬が数えられるものの、彼女は本来軍部に属するものではない。そもそも彼女は、いまだ『賓客』という立場にあり、厳密に言えば共和国政府の人間ですらない。そのためか九峪もことに忌瀬から策を望むことはなく、せいぜいが相談役や、天目方への使者役程度に用いることが多い。
九峪の意外と思われるほどの潔癖の現われが、忌瀬の登用を阻んでいるといえる。兎華乃らを戦争に持ちいらないなど、計略を得意としながら妙な部分で正々堂々としているのが、九峪の魅力であり欠点でもあろう。その点で言えば、使えるものは何でも使おうとする亜衣のほうがまだしも堅実的な考え方をしている。
亜衣や忌瀬とならんで智の人とされている閑谷や紅玉なども、今はみな泗国へと渡っている有様だ。それだけ九峪が泗国計略へ入れ込んでいることがわかる。
とはいえ彼らを呼び戻すわけにもいかないし、今となっては現地の武将らに任せるしかないことだ。問題は、これ以上事態を深刻化させないことだ。つまりは現状維持がもっとも望ましい。
政務の合間を縫うようにして亜衣は度々、九峪のもとを尋ねた。亜衣は以前から調略している長戸の豪族らを用いて九洲侵攻軍の後方をかく乱する策略を九峪から聞かされていた。亜衣はその役目をぜひ自分に任せてほしいと九峪に直談判するつもりであった。
実は亜衣には、ひとつだけ気に入らないことがある。九峪の片腕という自負からどうしても許せない問題がある。
というのも、最近になって九峪の帷幄に、昌香という出自不詳の女参謀が新たに参画してきたことだ。昌香は蔚海の乱の終わりごろ、『第二次大隈海戦』の最中に九峪の配下として突如、世間に現れてきた人間だ。顔面を布で覆い隠しており、素顔は知らない。所々から傷跡がのぞいている為、おそらくは顔面に残った傷跡を他人に見られたくないための処置なのだろうと噂されている。そのため布の下は不細工面であろうと下世話な噂も絶えないような女性だ。
また昌香を怪しんでいる者も多くいる。出自不詳、正体不明というのがそのもっともたる理由にあげられ、まず自らの屋敷から出てくること事態すくなく、宮内で見かけることなどまず稀である。官位も戸述衛(とのえ)と決して高くはない。
だというのに、どういうわけか、気がついたら九峪帷幄の参謀という席にこの女が居座っているではないか。亜衣にとって九峪の参謀という役目はひときわ特別な意味を持っており、そこにどこの馬の骨とも知れない女が居座っていることが、この上なく腹立たしかった。
九峪と男女の仲として結ばれる道を諦めざるを得なかった亜衣には、もはや九峪の腹心——いや、もはや片腕として——という立場だけが支えのようなものだ。それだけが恋慕の情を慰めてくれる唯一の居場所でもある。それを奪わせるわけには行かないのだ。
ために亜衣は、宰相という立場だけでは終われない。九峪の欠点を補うことができるのは、たとえ紅玉や閑谷などでもできるといっても、やはりそれは自分でありたい。そのためにも長戸まで九峪が伸ばしに伸ばした調略を、亜衣自らの手でみごと結実させたかった。
その趣旨を亜衣は九峪に奏上した。亜衣の献策を九峪が斥けることなどほとんどなかったから、亜衣には受け入れられるという自信があった。
だが——おそらく初めて、亜衣の意見は九峪によって却下されてしまうのだった。
「気持ちはうれしいけど・・・・・・」
と、九峪は前置きすると、ほとほと困った顔で亜衣を見やる。
「いま、亜衣が内政から離れるのはまずいと思うんだよ。民衆もいまや抗戦に向かって動き始めたけれど、現実問題としてまだ内情は厳しいまんまだからさ」
「その点は問題ありません。私が長戸の問題に手をつけている間は、蘇羽哉が」
「だけどさぁ」
九峪は再度、難色を示す。
「やっぱり、亜衣にやってもらったほうが安心できるんだよなぁ」
突き詰めるとそういうことだ。内政を鎮撫させるには亜衣ほどの器量が必要だと判断したからこそ、亜衣を戦争に直接かかわらせずに、ひたすら政を執らせていたのだ。戦争中の内政の乱れは非常に恐ろしいものである。天目の元でも、政の半分は案埜津が見ているような状況でり、狗根国でも似たような状況が生まれつつある。
決して亜衣だけが特別、蚊帳の外に追いやられているわけではないのだ。ただ九峪が、天目や彩花紫ほど政治を得意としていないから、全面的に亜衣が差配しなくてはならないだけのことだ。
また九峪自信が、亜衣の能力を信じきっているのも、亜衣を政治から切り離させてくれない要因となっている。九峪の言い分からしてみれば、背後を亜衣が守ってくれているから、安心して前だけを向いていられる。逆に背後を亜衣が守ってくれていないと、不安になってしまうのだ。
邪険にされているわけではない、信頼されているからこそ却下されてしまう。こうなると亜衣も無理して押し通すわけにもいかない。
だが——あの昌香ごときに九峪様を支えられるとは、どうしても思えない。
それが心配でならない亜衣なのである。いまは却下された亜衣であるが、不安と憤りの気持ちは、膨らむばかりであった。