「何をしにきた、亜衣」
出会い頭に挨拶の一言もなく、いきなり藤那が尋ねた。喜びの感情などというものの感じられる声質ではない。心底どうして亜衣がここにいるのかわからず、困惑や不満などが混ざり合ったような一言だ。
藤那はもちろん、遠州ですら亜衣が来訪してくるという情報は得ていない。つまり本当に突然、宰相の亜衣が陣を尋ねてきたのだ。
訝しむのも当然で、また亜衣に対して事あるごとに対抗心を燃やす藤那には、なんとも不機嫌になる話である。
亜衣は、共を僅かばかりしかつれていない。その共というのでさえ、巫女が五人ほどだ。みな飛空挺で早朝に耶牟原城を発してきたという。
静かに腰を下ろしている亜衣の正面に藤間も腰を下ろす。遠州や他の武将らもそれに倣う。
「宰相のお前が・・・・・・。まさか九峪様に宰相のお役目を解任でもされたか?」
揶揄するように藤那がいうと、眼鏡の奥の瞳を、亜衣はかすかに微笑ませる。
「まさか。そのようなことは決してありません。この亜衣はいまでも、耶麻台共和国の執政ですよ」
「ならば尚更おかしいだろう。私には九峪様のお考えはわかっている。政治の全権を任されているお前がここに来る理由などあるものか」
九洲が戦争状態に突入して間もなくのことだが、九峪は亜衣に戦時における後方支援の総括を要請している。要請という形だが、九峪の権力で言えばほとんど命令・任命に近いだけの強制力がある。泗国方面の全権は伊雅は担い、北九洲方面では藤那を総司令官にするよう達しが出されている。
蔚海を公開処刑したことで民衆の不満は随分と減衰したが、事実として国力の疲弊は否めず、とくに兵糧の徴収は民を傷つける結果となっている。
だからこそ九峪は、戦時中に民意を失わないために善政を敷かねばならず、それは亜衣にしか出来ないと考えている。それも亜衣の全能力を、ただそれ一時にのみ傾けることでしか成しえない難大事だという認識も持っている。
亜衣が耶牟原城を離れるということは、それだけ大きな役目を阻害することに等しく、またそのことを九峪が認めるはずもないと藤那は計算していたのだ。
しかし、藤那の問いにたいして亜衣は、言葉の代わりに藤那らを物見櫓の上へと導いた。
城から伸びる道のわずか先に、荷駄を引く集団が長い列を造っていた。
「あれはなんだ?」
「輜重・・・・・・?」
武将らが口々に疑問を口にする。なるほど見ると荷駄隊のようではある。
が、それにしては様子がおかしい。物資を運搬しているにしては、あまりにも木材類が多すぎるように見受けられる。
「なるほどな」
この面子で得心行ったのは、藤那や遠州など、ごく僅かなものたちであった。
眩しそうに瞳を細めた遠州が、ぽつりと呟く。
「遠弩(えんど。小型の投石器)ですか・・・・・・」
「そうだ。砲台六艇に弾丸二百発、うち炸裂岩が八十発ある。耶牟原城と亞郡城の格納庫に備えてある分はすべて運んできた」
淡々、亜衣は応える。事務的な言い方が癪にでも触れたのか、藤那は、ふんっと鼻を鳴らした。
「生憎、私たちは野戦をするつもりだ。こいつの出番はないぞ」
攻城兵器である遠弩の活躍する場面は、大体にして城攻めのときか、もしくは城の防衛戦のときに限られている。藤那のいうとおり、野戦での使用例は極めて少ない代物である。
もちろん、そんなことは亜衣にも承知の上のことだ。ただし、遠弩が必ずしも野戦で使われないわけではない、ということは先にあげたとおりであり、あくまでも使用回数が稀であるというだけの話でしかない。
揶揄する藤那へ、亜衣にしては珍しい勝気な笑みを向けた。そのまさかを行おうとする者の表情である。
それが、また、藤那には面白くないものだった。
「本気で野戦に投入するつもりか? 入り乱れてしまえば役には立たんのだぞ、わかっているのか」
「はい」
と、亜衣はそうとだけ答え、視線を荷駄の列へと注いだ。藤那らと問答をしている間にも、荷駄隊は一町ほどの距離にまで近づいていた。
「しかし役立たせます。一瞬でも敵の足を止めれれば、それで十分な働きとなるはずです。地形を見るに・・・・・・」
その言葉に、藤那も遠州も、亜衣にはすでに何かしらの作戦があるのだと感づいたのだった。
座間の道を封鎖している衣緒にとって、この数日はなかなか苦しい期間だ。何しろいつ、どのような形で異変が起きるかもしれないし、敵が行動を起こした場合、衣緒の反応次第では勝敗に大きく響いてくる。
また兵士の指揮も緩み始めている頃であった。陣屋に酒屋を呼ぶなどして、兵士らにいっときの憩いを与えるなどの処置は施してきたが、いつまでも続けられるものではない。酒屋にだって金を払わないといけない。そのほとんどを衣緒が立て替えているも同然だからだ。
衣緒の懐は軽くなる一方だ。
不謹慎かもしれないが、いっそ敵の先発でも現れてくれればいい、とさえ思うようになっている。とにかく衣緒は兵士の士気を下げさせないための刺激を欲していた。
そんな折、後方の本陣に、実姉の亜衣が尋ねてきたという報告が届けられた。
「お姉様が?」
藤那らがそう感じたのと同じように、衣緒も不思議に首をかしげる。
身重な姉がわざわざ出向いてくるなど、何か重大なことに違いない。宰相自らが出向かなくてはならない事態が起きたのだろうか・・・・・・。
最前線にいることの緊張も手伝って、衣緒は妄想を膨らませる。
「何かしら・・・・・・ッ! まさか、あんまりにも私たちが梃子摺っていることに九峪様が怒って、私たちには任せておけないって、それでお姉様を寄越したッ!?」
衣緒の脳裏に、青筋浮かべた九峪と、呆れ顔の亜衣の顔がぼわっと浮かび上がった。戦況の是非を九峪が怒ったりする記憶はないが、もしそうだとしたら——衣緒の顔面は蒼白になる。
「いや、九峪様はまだいいわ。いやいやよくないけど、それより何より問題はお姉様」
亜衣の怒り顏ならば容易に想像できる。
長年を戦場で過ごしてきた衣緒には、いくさで役立たずと思われることが何よりも怖ろしい。これは衣緒に限った心理ではないだろうが、最前線を任されるという危険だが名誉ある役目を、他人に奪われるのだけは嫌だ。
いますぐ本陣に戻って真相を確かめたい気持ちが強く大きくなっていく。実際に亜衣の様子を見ないと安心できない。なまじその場にいないから、妄想もいたずらな方向へ成長していく。
しかしまさか、この場を離れた隙に事が起こっては一大事だし、それこそ責任問題を問われてしまう。ジレンマが衣緒を苦しめる。
そんな衣緒を見かねたのか、家臣の一人が、本陣へ様子伺いに遣われると進言してきた。
「私はさほど重要な部署を受け持っているわけではありませんし」
宗像系の巫女出身である武将の心遣いに、衣緒が感激したことは言うまでもない。
「ああ・・・・・・私は部下に恵まれているわ」
「ここにずっといるのも、正直うんざりしてましたし・・・・・・」
「・・・・・・その一言さえなければ最高の気分でいられたのに」
何はともあれ、はやく真相が知りたい衣緒であった。
耶牟原宮の最奥には特別に造られた大きな櫓が聳えるかのごとく立っている。櫓の最上階は火魅子だけが立ち入ることの出来る聖域であり、二階は火魅子と九峪の居住となっている。
忙しく立ち回ることの多くなった九峪とはまさしく対照的に、妻であるところの火魅子の生活には変わりがなかった。付け足すならば、『驚くくらい』変わりない。
朝一番の祈祷と、宵の星詠み。これらさえをこなしてしまえば、あとは何をどうしていようが自由である。とはいえ女王であるから、おいそれと外出のかなう身ではないし、暇がちな毎日が続いている。
九峪や亜衣、衣緒などがおればまだ話し相手になってくれるのだが、ほとんどの人間が戦地に赴いたり、政治にかかりきりだ。夫との死別に悲しんでいた羽江も、よく星華との会話を楽しみにしていた。そうでもしないと気がまぎれなかった。ただし、この頃は自身のなかで一先ずの区切りを打ったのか、技術研究を再開するなど科学者として復帰を果たした。それ以来、羽江の足も奥の殿からは遠のいている。
火魅子はますます暇になった。
「亜衣まで戦場に行っちゃった・・・・・・。なんだか私だけ、置いてけぼりにされてる気がしてくるわ・・・・・・」
チチチッ——と、小鳥がかしましく鳴いて羽ばたき行く晴天の空へ向けて、火魅子がため息かと思わせる一言を投げかけた。
部屋の窓から眺めた青い空の映える様が、いまはどうしても空しいだけだ。昔はもう辛くて辛くて仕方のなかったはずの、戦場に響いた駆け足の音さえが懐かしく感じられる。
はぁっとこぼれるため息の気鬱さに、周りの巫女も心配そうにしている。
——火魅子様、お元気がなくて心配だわ。
などと思っている巫女は一人もいない。ほとんどの者は、
——火魅子様、まさか自分も戦場に赴くなんていいませんよね?
と、警戒しているほどだ。とにかく行動的な女王に振り回されている彼女たちである。いくら自分たちも復興戦争を戦った戦巫女であるといっても、戦士ではないので好き好んで危険な場所には行きたくないし、また心から火魅子の安全も願っている。
火魅子の身にもしものことがあったら、それこそ九峪に申し訳ないし、最悪の場合は亜衣の逆鱗に触れて打ち首・・・・・・ということにもなりかねない。
遠巻きに向けられる視線にも気づかない火魅子は、ぶつぶつと愚痴をこぼす。
「女王という地位が、こんなにも地味なものだったなんて」
べつに女王に限らず、その組織でもっとも上位に位置するものは、するべき仕事が限定されるものである。火魅子の場合でみると、そもそも火魅子は政治をとるための立場ではないのだから、暇がちになっても仕方がない。
——などといって、予言で最悪の未来を透視してしまうと、一番大変なのは火魅子になるのだが。今までも国家を揺るがす大事件を予知してきたものの、その度に九峪や亜衣らが奮起して解決してきたことが、火魅子の中から僅かながらに危機感を奪う結果になっていた。
蔚海の乱を乗り越えて若干だが気が緩んでいるとも言える。
「たまには思いっきり、飛空挺を飛ばしたいわね・・・・・・」
そういった瞬間、火魅子の瞳が大きくなる。
巫女たちは全身が総毛立つ感覚に襲われた。イケナイ予感しかしなくなった。
「そうだわ、飛く——」
「星華さまッ! そろそろお昼の祈祷の時間でございますッ!!」
「——う挺に乗ってどこか行こうかしらッ!!」
「ちょっ、無視しないでくださいよぉ!!」
「貴女たちが反対するのなんかお見通しなのよ」
ふんぞり返って火魅子は言う。
「でしたらご自重してください。火魅子様の御身にもしものことがあったら、私たちが・・・・・・特に亜衣様からそれはもうキツくお叱りを受けるんですからッ」
「私たち、まだ死にたくありません!」
「貴女たちねぇ、いくらなんでも酷いんじゃない? 亜衣でも・・・・・・」
「だって亜衣様ですよ!?」
さすがに亜衣を擁護する火魅子も、理不尽だが説得力のありすぎる反論に閉口してしまう。憤怒にかられた亜衣は時折、何をしでかすかわからなくなる。とくに身内に対しては、仲間意識が強く大事にする反面、アメとムチの精神で厳しく当たることも少なくない。その犠牲者の筆頭は言わずもがな蘇羽哉である。
だがそんな亜衣でも自分にとっては乳姉妹の姉であるし、また教育係も勤めてくれた後見人だ。一応は擁護するべきだ。
「仕方ないわね・・・・・・。亜衣が何かしてくるんだったら、私が言っておいてあげるから」
「ほ、本当ですね?」
「ええ・・・・・・。だから飛空」
「言わせませんよ」
「貴女たち。亜衣を怖れる前に、目の前にいる私を畏れなさい」
「火魅子様が駄々をこねずに女王様らしくしていてくださるのならば、私たちも平身低頭畏れ奉ります」
ばっさり切られ、面目も何もない火魅子は頬を膨らませる。これですでに三十路の人妻であり、国家元首である。年不相応の幼い仕草が彼女の魅力であるが、その面でも巫女たちは手がかかる子供の子守をするかのように心配してしまう。
これがかつては、響灘の戦いで巫女衆を率い波間を潜水し、狗根国先遣隊の船団を火の海に叩き落した名将なのだ。さらには蔚海の乱では南軍の総大将も勤めたから、歴史の姿というものも侮れない。
だが、巫女たちからは取り合う気配は微塵も感じられず、恨めしげな視線で睨むばかりの火魅子である。
大空への飛翔を叶わぬと知りつつも望まずにはいられない、そんな気分に浸っているときにふと視線を下へと向ける。よく手入れされた庭園。九峪が造った近世的な庭だ。
「ぴくにっく、だったかしら。お弁当を持って九峪様とゆるやかなひと時を過ごせたなら、どんなに楽しい夢心地の時間を——」
またもや取りとめもないことを言う火魅子。すると、茂みの奥に、小さく動く小動物を見つける。
「あら、猫だわ」
火魅子は珍しい動物の登場に目を輝かせた。この時代の猫は山の生き物だ。人里に住処を構えることなどほとんどない。そのため、街中でも見かけただけで、驚く人が多かった。異国などでは猫を不吉の象徴とする地域もあるが、九洲では狼と並んで狩猟の精霊として信仰を集める部族もおり、人気のある動物である。
——いい物を見たわ。
憂鬱な気分も、少しだけ柔らかい気分に撫でられる。口元に微笑が浮かぶ。
その瞬間のことだった。
キンッ
金属同士の打ち鳴らしと似た快音が脳裏に火花を散らせる。実際にそのような音がするわけではなく、あくまでも幻聴の類であるが、音の発生源から瞬時に痛みが脳内を駆け巡る。
巫女のもつ異能の力——予知。
不意に訪れる予知の前兆が、こうした音の形で現れることが多々ある。いつも、というわけではないが、ほぼ毎回が音ありきから予知は始まる。
——火魅子の視界が激しく傾いだ。すぐに、何かがおかしいと感じた。軽く緩やかに広がる頭痛が、このときは強烈で、急速に広まっていった。それはまるで、真横から鉄槌を振り抜かれた感覚といえば、もっとも適しているかもしれない。脳を真横に激しく揺さぶられ、平衡感覚が喪失した。
巫女たちが異変に気づいた瞬間には、火魅子の上体は前のめりに崩れようとしていた。激痛に耐える火魅子の横顔、眉間に寄せられる皺が尋常の様子ではないことを物語っている。
悲鳴に近い声を上げて、巫女たちが駆け寄り火魅子の身体を支える。身体の強張りが衣服を通じて感じられた。
「うぐぅ——ッ」
食いしばった口から零れ落ちる苦しそうな喘ぎ。呼吸すら止まっている。気道が完全に萎縮し塞がり、肺胞は痺れ、心筋さえもが正常な活動に支障をきたしている。
「し、しっかりしてくださいまし!」
巫女の呼びかけにも、無論答えられる状態ではない。額を脂汗がしたたる。まなじりには涙が浮かび上がる。よほどの苦しさなのだ。
脳内にはある映像が浮かび上がっていた。だがそれが一体何であるのか、頭痛のあまりの痛さに火魅子は認識することはおろか、何かが見えるという認識すらもおぼろのようで、ただただ必死に痛みに耐えるしかできない。
だが、心の大きくは、この映像を見届けろと叫んでいるようで、痛みに耐えるばかりの頭で必死になって映像にすがり付こうともがく。
強い思いが無意識の行動に反映される。うつろな瞳を前方の一転に向け、右手をやっと突き出す。震える腕は、何かを掴もうとしている。おそらく、その先には見なくてはならない映像がある。
そんなことを知らない巫女たちは、火魅子が助けを求めているのだと勘違いし、咄嗟に右手を力強く握り締めた。一人が動くと、他の巫女も次々に握り締め、「火魅子様」「星華様」と悲痛な叫びで呼ぶ。そのうち、一人は耶牟原城にいる忌瀬を呼びに奥の殿を血相変えて飛び出していった。
右手が暖かさに包まれていくほど、映像はただの光に変わっていく。痛みも徐々に小さくなっていく。
苦痛から開放され行く一方、火魅子は声にならない声で、
「まって・・・・・・」
と、呟いた。あまりにも声が小さすぎる上に震えていたから、巫女たちは火魅子が言葉を発したことにすら気づけず、ただ闇雲に騒ぐばかりだ。
脳内で瞬いている映像は、ただの光となり、そして光は闇に融けていった。痛みの消失とともに、火魅子の意識も押し寄せる脱力感に飲み込まれ、肉体と切り離された。
巫女たちが、一際高い金切り声の悲鳴を上げた。
その日の九峪は耶牟原宮に上らず、離れの私邸で近臣らとともに茶を飲みながら話し合いをしていた。奥の殿でおきた騒ぎには、まだ気づいていない。
話し合いの内容は、亜衣がしばし抜けたことへの対応である。
以前から亜衣から前線への出陣を嘆願されていた。はじめこそ九峪も渋っていたが、思わしくない戦況に、ついに折れる形となって亜衣を引き止めることを諦めた。そもそも、九峪にはそれほどの政治的拘束力を働かせる文句がないのも、亜衣出陣の理由となっていた。
宰相の仕事は蘇羽哉が一時的に後継すると亜衣本人から言われている。九峪はまだ不安な気持ちでいるが、亜衣の出陣を認めた以上、とやかく言うつもりはない。ただ宰相になっても蔚海の権力に抗えなかった蘇羽哉に、はたして短期間といえども国家の仕置きを任せて大丈夫なのかという疑心も抱いている。
蘇羽哉の実力を知らな九峪に、近臣らは亜衣と同じように太鼓判を押す。
「たしかに、蘇羽哉殿の政治能力は亜衣宰相ほどではございませんが、亜衣殿のほかにこの重職を任せられるものに、蘇羽哉殿をおいて他にはござらんでしょう。心配は無用と存じます」
彼らも優秀な士大夫階級である。その近臣らにこうとまで言わせるのだから、蘇羽哉にはまさしく相応の能力があるのだろう。
九峪には信じる以外の道がない。近臣らも全面的に支援すると明言しているのだから、安心するよう自らに言い聞かせる。
「民には現状で出来るうるかぎりの手厚い施しを行っております。宮内でも節制を心がけておりますから」
「今冬は乗り越えられるはずです。あと半年も経ちますれば田畑が耕せます。田植えに出れば民衆も希望を見出し、また必死になって働くでしょう。ある意味ではそれまでの間・・・・・・すなわち半年間は、辛抱の時期かと」
「わかってるよ」
神妙に言葉を選んでいる近臣の男に向けて、九峪は苦笑いして見せた。
今に始まったことではない。九峪は——九峪とともに復興軍時代から苦楽をともにしてきた連中はみな、辛抱に辛抱を重ねて今を生きているようなものだ。
金も物もなく、時間もなく、それでも駆け足で生きてきた九峪には、苦しい半年間なんぞというものは、嫌というほど経験してきた。無意味に三年を浪費した阿蘇山での軟禁生活に比べれば、随分と過ごしやすいほうだ。
この時期の出来事を振り返ると、那津城の陥落、泗国方面は一進一退の戦況となっている。
戦争は長引くほどに兵糧米が入り用になる。戦争の年月数は、そのままそっくり民衆への負担数字に変換される。民の厭戦気分が彼ら自身で処理できるうちはいい。しかし矛先が政権へ向けられては、戦争どころの騒ぎではない。
彼らの気持ちを鎮撫するにはやはり米がもっとも効果的といえる。税収の三分の一を占める米の年貢率を引き下げることで、民心を効果的に得ることが出来る。問題は、その下げ率、時期、期間、そしてこれらの対象外となる非農民らの減税措置を如何様にするか、である。
たとえば方法のひとつに、緊急徴収という手段がある。戦争に突入した場合には、優先して物資などを無償で提供することで、基本的な租税を減らされる、あるいは免除されるなどの場合が存在する。
今回を例にすると、とにかく百姓の不満をうまく逸らす必要がある。この問題はすっかりに亜衣に任せっきりにしていたこともあり、あまり詳しいことを九峪は知らないでいた。
それにそもそも、得意な分野というわけでもない。そもそも九峪は政策の発想は生み出せるが、政策を実現させる行政能力に富んでいるわけではない。どちらにしろ、誰かに任せるしかないのが現状だ。
「蘇羽哉か・・・・・・。亜衣にお前たちまでが口を揃えて言うんだし、安心していいのかな」
最後の最後に不安を吐露する。
「我々もいます。それに亜衣殿もずっと戦場にいるわけではないのでしょう」
「当たり前だ。それじゃ俺が困るからな。政治は是非にも亜衣に執ってもらわないと駄目だ」
言葉のそこかしこに亜衣への信頼が滲んでいる。事実、まだまだ若いこの国には、亜衣という教育者が必要だ。
近臣らは、九峪の亜衣へ向ける強い信頼を、頼もしげに感じている。
「では、我々は亜衣宰相が戻ってくるまで、全力を挙げて蘇羽哉殿を補佐いたします」
仰々しく頭をたれる近臣らに、九峪は軽やかにうなづく。
「いいって、そんなに頭を下げなくても。ここには俺たちしかいないんだしさ。蘇羽哉のことは任せる。お前たちで見事ささえてやってくれ。この国と民草のためにもな」
「委細、承知仕りました」
今いちど平伏する。文官としては数少ない元九峪派の彼らには、九峪の言葉は絶対的な拘束力を有する。
話し合いは終わり、近臣らは立ち上がろうとする。腰を上げようかというとき、戸口から声がかかった。
「九峪様、少しよろしいでしょうか」
九峪の身の回りを世話している女中である。声に動揺の色が滲んでいる。しかし九峪はそのことには気にもかけず、普段どおりの様子で招き入れる。
静かに戸をあけた女中が、小走りに九峪の傍に駆け寄ってくる。表情が硬い。ここで九峪もようやく、何かがおかしいと思い始めた。
女中は、九峪と密着できるほどに近づきひざを付くと、耳元に顔を寄せる。客人である近臣の男たちから口元を隠すよう手の甲をかざし、内密に話す。
何事だろう——。不審に思う近臣らであったが、あまり深く聞くわけにも行かず、退室の例をとり部屋を出て行く。
彼らがいなくなったのは幸いなことであった。
「——星華がッ!?」
言ってすぐに九峪は息を呑んだ。火魅子の名を口に出した瞬間、身体中を寒気が纏わりついた。全身から血の気の引いてく感触を内側から如実に感じ取った。
火魅子が奥の殿で倒れてから、九峪の耳に今こうして報告が届くまでに、およそ半刻ほどが経っている。
「た、倒れたってどういうことなんだ!?」
我を失って狼狽する九峪に女中は怯みながら、「わ、わかりません」と消え入りそうな声で返答した。彼女はただその話を九峪に伝えてほしいと役人から言伝されただけで、あとは他言無用にときつく言いつけられているくらいだ。むしろ女中も真相を知りたい人間である。
がしっと両肩を掴まれた女中が痛みに顔をしかめる。九峪だって軟弱といわれていた少年時代とは違い、いまでは剣も振るうし筋力がついてきた。無遠慮に握られれば痛くもある。
「痛ッ!」
堪えきれずに女中が悲鳴を上げると、ようやく九峪が正気を取り戻した。慌てて両腕を離す。後ろに倒れこむように後ずさった女中の瞳が、怯えたように九峪を見つめてくる。恐怖の感情が、身体を抱きしめるように回された両腕から容易に読み取れた。
途端に九峪は罪悪感にかられた。見苦しく問いただした自分を心底から恥じた。
「わ、悪い・・・・・・すまなかった。ごめん」
「い、いえ、大丈夫です」
とても大丈夫そうではないが、亡き姉譲りの気丈さが、精一杯にそう応えさせる。それに驚きはしたが、嫌悪を抱いてはいない、怖くはあったが——揺れる瞳には妻を心配する夫の気持ちが痛いほどにあふれているのが、よくわかったから。
力なく両腕をたらした九峪の全身から、生気や覇気といったものが糞尿のごとく垂れ流れていく。衝撃のあまりあわゆる感情が混ざりあい、攪拌さればらばらになっていく。考えがまとまらずに混乱した。
——星華が?
ただそれしか考えられない。
「——く、九峪様? あの」
茫然自失とした九峪に躊躇いつつ声をかける。めまぐるしく変わる九峪の様子に、恐怖よりも心配のほうが優ってきた。少しずつ、身体を近づけていく。
まさか、気でも触れられて——。最悪の考えが女中の脳裏を掠めた。
だがここで崩れ去るほど、九峪は脆い人間ではなかった。清瑞が行方不明となった時だって立ち直り、己の所業へ対する罪悪すらも克服した男だ。
顔を上げ女中の瞳をみつめる。まだ動揺の色は抜けきっていない、だが、流れ続けていた感情の堰止めは出来たようだ。
「——ここにいたってどうにもなんねぇ。星華のところに行ってくるッ!」
そう叫ぶと、九峪はまた女中の肩を掴んだ。反射的に女中の方が狭められる。
でも、今度の九峪の瞳は、正気を失ってはいない。
「このこと、誰にも話すんじゃないぞ。いいな」
「は、はい・・・・・・」
「よしッ」
女中に念押しをした九峪が立ち上がる。いまは一刻も早く、火魅子のそばへ駆け寄りたい。
昔、川辺城の戦いで清瑞を失ったときと同様の衝撃と悲しみが、今回は火魅子へと向けられている。火魅子のあどけない笑顔が永遠に失われてしまう——そんな想像が浮かんでは、雄たけびを上げて掻き消した。
火魅子の死は九峪だけでなく、衣緒や羽江、そして——亜衣をも深く悲しませることになる。それは同時に、九峪を二重三重にも苦しませることでもある。火魅子を失う悲しみと、悲しむ亜衣を見つめる苦しみ・・・・・・。
想像するのも厭だ。全身の血液が沸騰と冷却を繰り返す。四肢が重く鈍重に動いている。そんな錯覚がした。
戸を開けるのさえもどかしくて、力任せに開け放つ。足元を寒気が滑ってゆく。前髪が気圧の変化で舞いあがった。
——ドクンッ
一歩を踏み出したまま、九峪の身体がピタリと動きを止める。目がこれでもかと見開く。呼吸が止まった。
心臓の跳ね上がる音が耳の置くから鳴った。久しく聞いていない——発作の音だ。心不全の症状と同じ、不規則な心臓の拍動が、筋肉を機敏に刺激した。
九峪の肩が、大きく跳ね上がった。血流が激しくなり、頭に血液がたまっていく圧迫感がしたかと思うと、一瞬で足の指先まで血が下がっていく。
本当にそんなことがおきているのかはわからない。ただ、そうと表現するしかない。
いままで遭遇した発作とは、一線を画している。
「——ぁっ」
それが声であるかなど、もはや誰にもわかるまい。
それでも、九峪は前に進もうとした。そうしないと火魅子のところにはいけない。すでに執念だけが九峪を突き動かす原動力となっていた。
「九峪様ッ!」
女中の声が聞こえた。聞こえただけだ。脳はそれを音声であるとさえ認識しておらず、全思考は停止しかけている。
右ひざが崩折れた。斜めに身体が傾く。断崖の崩落か、はたまた氷山の崩落か。後ろから女中が抱きとめてくれなければ、顔面を床に強打していたかもしれない倒れ方をする。
力の限り九峪の身体を引っ張り上げる。しかし所詮は細腕から搾り出した力だ。脱力した大の男を支えきれるはずもなく、一緒になって倒れこむ。せめて守らねばと、自らの小さい身体を九峪と床の間に滑り込ませる。背中を叩きつけられ、六十数キロの重量に押しつぶされる。
「く、ぅぅ・・・・・・げほ、えふッ」
肺を抑えつけられたせいで空気をすべて吐き出してしまい、はげしく咳き込む。ふっと以前に似たような出来事があったのを思い出した。あのときの焦りまでもがよみがえってくる。
耳元では乱れきった呼吸が苦しそうに繰り返され、弛緩していたはずの身体までもが小刻みに痙攣を起こしている。
——これは普通じゃない。今までの発作じゃない!?
九峪が倒れたことは過去にも数回だけあった。最近ではめっきりそんなこともなく、快癒したものとばかり思っていたのだけど・・・・・・。
だけど、痙攣などという症状は初めてだ。
意識はなさそうだ。失神とはいえ、苦しみから解放されていることが、せめてもの救いだろうか。
力いっぱいに九峪の身体から這いずり出て、着崩れた衣服を直すことも忘れて、女中はただひたすら九峪の名を呼んだ。
峠を越えた身体は、徐々に痙攣のふり幅も小さくなり、やがてピクリとも動かなくなった。顔色を失った女中は、大慌てで人を呼んだ。
「だ、だ、誰か、誰かいないのォ!! 九峪さまが・・・・・・九峪様が!!」
「おい、何を騒いで——」
使用人がひとり、騒ぎを聞いてやってきた。そして驚愕に言葉をなくした。
「く、九峪様!?」
「九峪様が、お倒れに・・・・・・」
女中と九峪を交互に見比べて、おおよその事情が掴めたのだろう、使用人は裸足で外に飛び出し忌瀬を呼びに行ってしまった。
倒れていた九峪を布団に寝かし、女中は、布団横にぺたりと座り込む。落ち着いたことで、腰が抜けた。そして火魅子が倒れたこと、九峪の発作、今までと違う重い症状と立て続けに起こった出来事に、思考は完全に混沌となり破裂しそうで。
感情をこらえきれず、童女のようにただただ泣きじゃくった。それでも九峪は目覚めなかった。
同日中に火魅子と九峪が倒れたことに対して、蘇羽哉は速やかに緘口令を敷き、情報の遮断を行った。皮肉にも九峪は、身をもって蘇羽哉に実力を示させたのだった。