城砦施設の重要性にもよるだろうが、どれか一つの城なり砦が何度も標的になるということは、案外そうあるものではない。
たとえば、城などというものは都市であると同時に、あくまでも軍団の宿営地であり、補給基地であり、倉庫であり、または突き詰めて言えば敗走した味方を受け入れて援軍を待つための駆け込み部屋のようなものである。そして必要性というものは、はじめに造った側にあり、攻め取った側にしてみるとそれほどの利用性が見出せない場合も多々発生している。そのため陥落後に放棄なり破壊されてしまう施設は数え切れない。
おそらくだが敵味方双方にとって有益な城砦というものを数え上げても、倭国のうちににどれほどあることだろうか。無数に築かれた軍事拠点のなかでもなお一百に満たないかもしれないし、もしかしたら一千ほどはあるかもしれない。それはわからない、
しかしそれゆえ必争点となってしまえば、戦争常識を覆したかのような激しい攻防の発生が、一度や二度では済まされなくなってしまうのだろう。後世の話だが、戦国期に信濃八幡原に築かれた海津城・出雲の月山富田城などがそれだ。
泗国伊依の大洲城もまた、必争点と呼ばれる城としてもおかしくはなかった。
「大洲城の陥落だけは絶対に阻止しないとだめだ」
と、矢幡城の伊万里は緊張を張り詰めていた。大洲陥落は絶望的なまでに戦況を決定しかねない。大洲と白雉なくして九峪の泗国計略はありえないと言ってもいい。
伊万里はなんとしても大洲の合戦で大出面軍を打ち破り、飛び跳ねて伊依へと駆け上り逆襲しなくてはならない。
すでに配下の武将らには伝達を下している。援軍を合わせても見積もり一万三千人の大軍を用意できる。
だが、伊万里はいまいち自身を持ちかねた。
「出面軍の兵力、密偵の報告によると総勢一万八千余り・・・・・・だっていう話だよ」
ため息ひとつ付き、仁清が伊万里を前にして言った。普段どおりの落ち着き払った表情の目元が、わずかだが眇められている。
伊万里は、返事もしなければ頷きもせず、ただ口内で一万八千という数字を呟いた。もういちど、口内だけで繰り返し呟く。呟いて自身のなかに途方もない大軍の姿を飲み込む。
「一万三千と一万八千か——」
数の上では負けているものの、その差はまずまずのところで抑えられたと伊万里は思っている。ただし、あくまでも現段階での単純戦力で、この数字である。伊万里ら西南連合の伊依方面軍にはこれ以上の余裕などないが・・・・・・はて、敵はどうだろうか。
努めて考えたくないのに、司令官である以上、伊万里はその事実と正面きって向かい合わなくてはならない。
「五千人の差を埋める策が必要だと思う。最低でも五千人の活躍が見込める策が」
「わかってる」
と、伊万里は答えたが、まだ妙案があるわけではなかった。
ずっと伊万里が快進撃を続けてこれたのは、ただひたすらに我武者羅に戦ったためである。そのために伊万里は、おそらく彼女の持ちえる能力以上に考え、作戦を捻り出してこれたのだろう。
伊万里の脳裏でなんども姿を見せる九峪の幻を、そうでもしないと忘れられなかった。
だが・・・・・・そんな戦い方がいつまでも続くわけがないし、続けられる性格でもないことは、伊万里自身がよくわかっている。限界はすぐそこまで迫っていた。
司令官には司令官のとるべき相応しい戦い方がある。伊万里が佐多岬半島から瞬く間に伊依国境沿いにまで進出してきていた大出雲の勢力を後退させた戦い方は、端武者のそれでしかなかった。そろそろ司令官としての立場に戻るときなのである。
敵味方双方の準備が整うまで、まだいくばくかの時間がかかりそうだ。短くみて半月、長くて一月。
時間の長さはそのまま——戦いの激しさを高めることになる。それを伊万里は感じていた。
泗国の夏は暑い。亜熱帯というよりは、むしろ熱帯そのものに近いとさえいえる。とくに元星十年は、昨年などと比べると幾分熱気が篭もるようである。
酷暑を凌ぐには、何といっても水の力を利用するのが手っ取り早い。よく冷えた湧き水などは格別に兵士らを涼ませる。そのためもあるだろうが、進軍経路には必ずといっていいほど、水辺の近くが想定されるようになった。
白雉城の伊雅もまた、軍を進める際には川辺や湖畔の近くを通過するようにしている。敵も同様の考えで行動しているため、必然、遭遇戦の発生率が高くなっている。
七月の十三日から十五日にかけては連続して交戦し、十八日に満納城の南西二里の陵地に堅固な陣を敷いた。
讃其で白雉にならぶ要地の満納城は、讃其街道の交差点に位置している。満納湖の一部を埋め立てて築かれた同城のまわりを囲む満納湖が天然の大外堀の役割を果たし、その外部にめぐらされた土塁が敵の侵攻を阻んでくれる、攻めるに難い城であり——讃其の王都である。
当然、讃其の大王もそこで座し、政を執り行っている。
伊雅ら八千の軍勢が満納に駆けつけたのは、じきに王都・満納城が戦場になるからであった。
満納城では早くから周辺の豪族らに参集を勅し、四千二百ばかりの兵力が揃わされている。伊雅らの軍勢と合わせても一万を超えていた。
閑谷とともに満納城へとはいった伊雅は、来る敵の来襲にそなえ、満納城にて指揮を執る大将の侶招(りょしょう)など讃其武将(半数は豪族)と軍議を重ねた。
讃其軍大将、侶招の年齢は四十八歳である。すでに隠居してもおかしくない高齢の伊雅と比べるとずいぶん若い総大将だ。力量のほどは伊雅の知るところにない。
「敵が進んでこれる道は二つ。琴道と飯山口のふたつだ」
侶招は地図を指し言う。琴道は今で言う満濃から多度津に繋がる道、飯山口は宇多津へと繋がる道と思えば間違いはない。ともに人馬の行き来が容易な幅広の軍道として整備された。
先にあげた二箇所はいずれも港町として現代では知られているが、この当時にはそれほど大きな街などがあるわけではない。ただし、比較的平野部であるため、陣を敷きやすく、敵将はこの地を部隊の集結地に選んだらしいのだ。
つまり、今の段階では防備はなっていないということになる。
「ならば、攻めるのか」
伊雅が口を開くと、侶招の唇がへの字に曲がる。
「攻めたい。・・・・・・本音を言えば攻めたいところだが難しかろう。琴道はともかく、飯山口には、敵の姿が見えているとの報告もある」
「押し破れるなら、一気に抜けるべきだと思いますが。道が広ければ我らの駒木馬ならば迅速に敵部隊を突破できます」
「数がわからない」
閑谷の発言に武将の一人が声を上げる。
「一百かもしれないし、一千かもしれない。飯山口は雑木の茂る場所。故にこちらも詳しい数はとんと図りかねている」
「左様、あそこは伏兵をしのばせるに持って来いの土地なのだよ。事実わしらもその方法で、何度も出面の軍勢を追い返してやった。それに関所(砦)もある。」
「その飯山口が、いまや敵の手に落ちているのだ。・・・・・・迂闊に手はだせぬ」
讃其の戦士たちが口々に言葉を並べた。どれも慎重論が数多い。それだけ彼らには、飯山口を舞台にして何度も戦った過去があるのだろう。
このようなときに、その場所を知る人間たちの言葉は重みをもつ。閑谷は、まだ言葉を重ねる武将らから情報をまとめ、脳内で飯山口の景観を思い浮かべた。
——砦、か。
さすがに砦の全貌までは想像のしようもないが、ぼんやりと峠の姿、そしてそこを進退する敵味方の様子が一枚の抽象画のように映し出された。
幻の中で、味方の部隊が敵の伏兵に襲われたところで、閑谷は考えるのをやめた。たしかに今のままでは、とても抜けられそうにないと感じた。
「やはり篭城しかないだろう」
「いや、まだ敵の総数も判明しきっていないのだ。わしはいっそ野戦に挑むが吉と考える。一万以上もの兵力があるのだぞ。滅多なことで負けるものではない」
「数に物を言わせるのか・・・・・・」
「力で攻められるときは、そうするべきだ」
いつしか武将らの間では、篭城と野戦で意見が分かれつつあるようだった。
「大将(侶招)は如何と思われまするか」
なかなか決しない審議に焦れた武将の一人が、伊雅と隣り合う侶招に顔を向けた。最終的に判断するのはこの侶招である。伊雅は今回、土地勘の問題もあるので副将に回っている。これは閑谷の提案である。
攻めたいと侶招が言った言葉を、伊雅は舌の上で転がした。考えている風の侶招を横目に見つめながら、伊雅は、打って出るという判断が下されることを期待している。
眉間に寄せられた皺を指先でさすると、侶招は、意を決して面を上げ、諸将の方を向いた。
「攻めるは最大の防御だ」
——若造が言いおったわい!
下された言葉に、伊雅が内心で喝采を上げた。
「うむ、それがよかろう。攻めれるならば攻めるに限ろう」
喜色を浮かべて伊雅がすぐさま後押しする。隣で閑谷も満足そうに頷いている。
出陣の意向で話をまとめ、連合軍は即座に行動を起こした。
琴道を攻め上るのは、総大将の侶招が四千の軍勢を率いて受け持ち、すでに敵の姿が確認されている飯山口は伊雅を大将とした六千の大軍で攻撃する手はずが整えられた。
満納を出陣したのが、伊雅隊が二十四日の早朝、翌二十五日の早朝になって侶招隊も城門をでて琴道を進んだ。
琴道を進んだ侶招隊は、途中の山間で敵先発部隊と交戦しこれを破る。数で押す勢いはすぐに山間部の村落も付きっ切り、途中で一泊した。一方の伊雅隊でも早々と飯山の関所に差し掛かり、激しい攻防戦が繰り広げられた。
雑木林からは伏兵の攻撃が幾度となく繰り返し仕掛けられ、さしもの伊雅ですら梃子摺っていたものの、機転を利かした閑谷が野火を放ったことで、敵は伏兵どころの騒ぎではなくなってしまい、二十九日の夕暮れ時に砦を陥落させた。終日は陥落したばかりの砦で過ごし、翌日に進軍する。
侶招隊が敵軍の宿営地を確認できる位置にまで進んだところで、敵も本格的な行動を見せた。伊雅隊の進軍が遅れているという情報を得た敵部隊の指揮官は、総戦力を投じて侶招隊を撃破する作戦を練り上げた。
このときに敵部隊の総戦力は八千五百ほどである。数だけでみると、侶招隊の倍は準備されており、有利に戦いを進めることが出来る。
「伊雅殿の到着を待たねばならないな」
敵の規模と布陣をたしかめた侶招の判断は妥当なものである。いやむしろ当然とさえ言える。数で劣ってこそいるものの、それだって今だけの話だ。伊雅の到着で戦力差は逆転するのだから、無理をして戦う理由がない。
それに伊雅も直に到着するはずだ。戦う戦わないどちらにしても、すでに日は傾き始めていた。実際に干戈を交えるのは翌日の明朝になると考え、山中で一夜を明かすことと決められた。
しかしこの夜、夜陰に乗じた大出面の兵たちが、突如湧き出るようにして侶招隊へ夜襲を仕掛けてきた。雑木林の暗がりで、夜襲は成功しない——という常識を捨て切れなかった際の油断が招いた失敗といえよう。
火矢を散々に打ち込まれ林はごうっごうっと唸りを上げて炎上し、逆巻いた炎の渦に幾人という兵士たちが焼かれていった。普通の山火事で、すぐにここまでの炎が吹き上がることなどありえない。大出面軍が大量の油を周囲に撒き散らしたのだ。
炎の舌先を避けるがごとくして、大出面の兵士らは無理なく侶招隊を蹂躙し、あっというまに四千の軍団を壊乱へと追い込んだ。
伊雅たちが近くまで進軍してくれていたが、そんなものは何の慰めにもならなかった。山向こうの夜空が異様なまでに赤々としているのに気が付いた伊雅は、すぐに、それが琴道の方角だと察知した。
「いかん、侶招めがすでに戦っておるぞ」
「あの空の模様、山火事ですかな」
「いや・・・・・・あれが、ただの山火事であるはずがない。かりに山火事であるとしても、燃えている範囲に比べて火の勢いがあまりにも尋常のものではない。油なり何なりの燃料がなければ、あそこまでの火力は生まれはせん」
「では・・・・・・」
「火攻めだ、火攻めされているのだ!」
戦士としての直感が鳴らす警報に従い、早急に伊雅の命令が下知されていく。
「休んでおる暇はない。すぐに隊伍を整えろ! 部隊を二手にわける。閑谷は兵四千を従え飯山口を抜けい。残りの二千はわしに従いこのまま山林を突っ切れ!」
「急げ! もたついていると、侶招の首をもっていかれるぞ!」
小休止をはさんでいた伊雅隊があわただしく整列していく。寝ぼけ眼などといっている場合ではないと、兵士の末端にまで意識が行き届いている。
「孔菜代、駒木衆から斥候をはなって進路を偵察して」
「わかった」
即座に応じた孔菜代が駒木衆の宿営へ駆けて行く。するとものの十数分としないうちに、二騎の騎馬がぱっと松明の灯かりに映し出され、馬蹄を置き去りにしていった。
兵数の都合もあり、さきに準備の整った伊雅隊が林の中へとぞろぞろ移動を開始した。木々の間から橙の玉が点滅して遠ざかるのを、閑谷は馬上に跨って見送った。
ほどなくして騎馬が駆け寄ってくる。
「駒木衆、配置整いましてございます。孔菜代殿が下知を賜りたいと」
閑谷は兜の緒を締めると、手綱を引いた。
「相わかりました。駒木衆は先鋒を務めるよう孔菜代に伝えてください」
「はっ」
騎馬が離れていく。つぎに閑谷の視線は、歩兵隊へと向けられる。
九峪の分隊制はこのような非常事態に格別の働きを機能してくれる。すでに全隊の八割が発進可能な状態に仕上がっている。
倭国馬で構成された騎兵隊一千二百も準備が完了したところで、遠くから孔菜代の発進の号令が聞こえてきた。駒木衆三百騎が怒涛の轟音を震わせる。
静寂が戻る間もないまま、愛馬を廻し乗りしつつ他の部隊にも出発の下知を下す。
「道中、敵の襲撃があるかもしれません。決して気を抜かないようにしなさい」
「進めッ」
号令され、弓隊を前衛に閑谷隊も進軍を開始した。飯山口の夜空からも鳥たちが飛び立っていった。
熱波は林中を急ぎ進む伊雅らの肌をも焦がすように広がっている。金属製の甲冑は熱を蓄えてしまい、進むほど高熱にあぶられ苦しさが増していく。
「くッ・・・・・・! なんという炎だ、とても近づけん」
視界の先で猛る炎の威力はあまりにも凄まじく、伊雅の足はどうしても前に進んでくれなくなった。
真紅の外套を脱ぎ捨てる。このような大きな布を垂れ探していると、燃え移る危険がある。伊雅に習い、外套を身に着けている武将もみな脱ぎ捨てた。
炎の巻き上げる音が激しすぎるために、人の叫びも、剣戟の音すらも聞こえてこない。耳に入る雑音はすべて火の生み出す絶対的な爆音ばかりである。樹木の爆ぜる爆発音がたまに聞こえてくる。
ながいこと戦場に生きてきた伊雅でも、ここまでの火災は見たことも聞いたこともない。獣たちが伊雅たちの存在にすら気づけないほど狂乱して走り回っている。この世の地獄を見ている気分でさえあった。
「これでは、敵も味方も、なにもわからぬではないか・・・・・・」
ここまでのことをされてしまっては・・・・・・。
もはや打つ手などないに等しかった。
火の手は次第に、伊雅たちをも飲み込もうと、その触手を徐々に伸ばしてきている。
「伊雅様、これ以上ここにいては、我らも火にまかれてしまいます。 撤退を!」
顔中に汗を噴出させた武将が、伊雅へ撤退を進言してきた。伊雅は応えなかった。
「どうか撤退のご決断を! さもなくば全滅でございます、これでは我らも戦いようがありませぬ」
——そんなことは、わかっておるわ。
口の中で伊雅が苦々しく吐き捨てる。逃げるならば早く、速やかに行わなくてはならないことも、重々に承知していることだ。
だが、伊雅はとにかく悔しかった。いるかどうかはわからないが——この近くには、敵の本隊が今もいるかもしれないのだ。伊雅はまだ彼らと切り結んですらいないのだ。
戦わずして引かねばならない。伊雅にとってこの上ない屈辱であった。敵は、戦わずして伊雅隊を負かしたも同然なのだ。
しばし炎をじっと睨みつけていた伊雅も、ついに撤退するよう言を発し、部隊は飯山口へと引き返した。幸いにも敵に察知されなかったために、追撃されることはなかった。
だが、とにかくも伊雅は、苦いものを口に残したまま兵を引かせたことが悔しくて仕方がなかった。
飯山口を抜けた閑谷隊が目にしたものは、遠方をだらだらと移動する松明の集団であった。規模はおよそ七千かそこらへんだろうか。
閑谷隊と大出面軍との距離差は、わずか十二里ほどのものである。
「遅かった・・・・・・」
すでに一仕事終えて帰陣の途についている敵部隊を遠くに見やる閑谷のまなじりが、普段の温厚な雰囲気を欠片も残さず消し飛ばしている。ただ暗がりなので、誰一人としてその変化に気づく者はいなかった。
反撃されて引いていく行進ではないことは、一目瞭然である。あれは、勝ち戦で揚々と引き上げている。さらに言えば、おそらく伊雅たちの到着を気にして早足で歩んでいる。警戒も解いていない徹底した行進である。
ここで攻めかかっても、逆に閑谷らの部隊が壊滅させられるだろう。それは容易に考え付く結末であった。
閑谷たちの戦力は四千——敵は見えるだけでも七千は健在と見るべきだ。そして味方の兵士は動揺しているのに大して敵は勝ったにもかかわらず、まだまだ油断する兆しもなさそうだ。
「後手に回ったみたいだな・・・・・・」
唇を噛む閑谷の横に孔菜代が馬を寄せてきた。暗くて表情はわからない。だが、悔しいのであろう、チッと舌打ちするのが聞こえた。
背後から歩兵の到着する足音や号令がなる。
「どうする、攻めるのか?」
「・・・・・・勝てると思う? あれに」
と、そういうと閑谷は指揮棒の先端を敵部隊に向けてかざす。松明の一つ一つが、討ち取られた首の葬列のように閑谷には思えた。
勝てるかどうかと問われ、首をまわすと、中を見上げて孔菜代は応える。
「行けと命令されれば行く。いまの俺の大将はお前だからな」
「——藤那なら、なんて言うかな」
「それを俺に聞くのか。お前のほうがよく知ってるんじゃないのか、旦那様?」
「あんまりからかわないでよ」
面白くなさそうに返す。軽口のわりにはどちらも、つまらない言葉だけを繋げている。
「やつらがいるってことは、伊雅様は遭遇しなかったようだな」
「たぶん、そういうことだろうね」
僅かの間に、伊雅隊までもを撃破したとは思えない。ということは、そういうことなのだ。
「孔菜代・・・・・・」と、閑谷は小声で名を呼んだ。孔菜代も何が言いたいのか、大体の察しがついている。
「負けたなんて知れたら、藤那に殺されるよね・・・・・・」
「ああ・・・・・・とくにお前はな」
結婚してもそこはそれ、藤那の気性は変わったようで変わらない部分もある。閑谷は深くため息をついた。負けるのが大嫌いな藤那に無様な知らせなどしたくはなかった。
「まぁ、でも——」と、閑谷は馬首を反転させる。
もうここに長居は無用だ。
「名も知らない人間にこの首をわたすよりは、藤那の手にかかる方がずっといいよ。少なくとも僕は」
「なんだい、のろけか?」
「ばか」
苦笑を残し、閑谷の馬が前足を出す。
後へと続くように孔菜代も馬首を返した。
「そうだ・・・・・・そうだな。俺もお前も、こんなところで死ぬわけにはいかんよな。まだ幼い藤谷様を父無子にするわけにもいかないし、俺だって、所帯をもつまでは生き抜いてやる」
虚勢を張って孔菜代も声を上げた。
戦いは、この一戦で決したわけではないのだ。敵はすぐに讃其の都たる満納城を攻略するために兵を向けてくるに違いない。じきに雪辱を晴らす機会が巡ってくる。
その時までに——都をまもらなくてはならない閑谷たちに、ぐずぐずしている時間などないのだ。
閑谷は撤退の指示を出した。一応警戒して、駒木衆には殿をまかせ、自らも後方から二番手の危険な陣についた。よほどの事態でないのなら、大将は後ろへと残るべきなのだ。
途中で閑谷隊は伊雅の部隊と無事に合流し、仔細を聞いた。侶招は何とか発見したものの——すでに首なしだったという。
「意気込んで出撃し、むざむざと総大将を討ち取られたのですね、我々は・・・・・・」
布に包まれた侶招の遺骸をみつめ、閑谷が天を仰いだ。伊雅も夜明けまでまだ遠い夜空を見上げる。
総大将を討ち取られ、全体の二割の兵を失い、さらに二割の兵までもが負傷するという大敗北を喫した晩夏の夜であった。
「援軍は望み薄か」
琴道の大敗北からわずか三日後の八月一日——満納城の一室にて、伊雅の渋い唸りが重苦しくこぼれた。
「侶招殿の人望は大層篤かったようでしたし・・・・・・。侶招殿が勝てぬのではと、返り忠する者も続出しています」
伊雅とはさんだ碁盤の上に、閑谷は白石をパチリと一差しする。形勢は閑谷に六割と傾き、すでに五目半の差がひらいている。が、伊雅は盤上の劣勢よりも、現実の戦に募る憤慨のほうが大きな問題であった。
「ふん、讃其人の気概のなさよ」
「利に敏いんですよ。今のうちに少しでもごまをすっておきたいんでしょうね。家と一族を残すために」
だからといって、裏切り者に温情をかけるつもりは閑谷にもない。敵になるなら打ち砕くのみだと思っているし、実際に完膚なきまで打ちのめすつもりだ。見せしめのためにも、ここは断固とした手段を用いるべきだと考えている。
思考で戦う閑谷には、続々と寝返っていく豪族たちにそれほどの嫌悪感はない。しかし伊雅にとって裏切りは到底許すことの出来ない、大悪事なのである。藤那すらも切り殺そうとした伊雅が、自らに矛先を向けようとする讃其の豪族たちを許せるはずがなかった。
「侶招は惜しくも破れ死を賜ったが、讃其に武人はやつただ一人だった。それがよくわかった」
「惜しい人物というのは、彼のような方をいうのでしょう」
「まったくだ。あの若さで・・・・・・。ゆくゆく九峪様が泗国を征服した暁には、是非ともお仕えしてもらいたかったが」
「寿命だったのです。天の思し召しがそうさせたのです」
「侶招の敗死は兵らの指揮にも大きく響いている。閑谷、この満納城から敵を追い返す策はあるか」
鋭く見据えられる視線を、閑谷の瞳は逃げることもなく、真正面から受け止めた。
「篭城か、出撃か、まずはこの二つから。篭城の利点は味方の援軍を頼むことにありますが、今回、その期待は持たぬほうがいいでしょう」
「と、いうことは・・・・・・野戦に挑むべきだと?」
「敵軍がどれほど戦力に融通を利かせられるか、それが今だ未知です。いまだけならば戦力もほぼ互角ですが、敵には増援があるかもしれない」
「かもしれない、か・・・・・・」
渋柿でも齧ったようなしかめっ面を伊雅は、幾筋にも皺を刻まれた顔いっぱいに貼り付けた。
パチリッ。
黒石が苛立たしげな音を立てる。
「増援などないかもしれない、とも考えられないか」
「もちろん、考えられます。可能性はすべからく考慮するべきでしょう。その上で、密偵が情報を持ち帰ってこれたなら・・・・・・我々は初めて五分以上の戦いが出来ます」
「——増援がないと判断したら、城門を出るんだな?」
「逆の作戦もあります」
意味深な言葉を閑谷は伊雅に向けて投げかける。伊雅が盤面から顔を上げた。怪訝な色を浮かべている。
「増援がないからこそ、城に篭もるというのも一つの手ではないでしょうか。兵力をほぼ互角として戦うならば、城壁を用いて戦った場合その戦力差は三倍にも五倍にもなります。また戦況によっては長対陣ともなり得、その間に寝返った豪族らを再び懐柔し、敵の外堀を埋めてゆくことも出来ます」
「寝返り者どもを許すというのか」
「利用するのです。寝返り者を許すのではなく、敵将を調略し味方に引き入れるとお考えください」
そういわれると、なるほどそんな考え方もあると、伊雅は素直に思った。ただし、納得できるか共感できるかといえば、やはり伊雅には無理な部分もあった。
閑谷ほど割り切って考えられない伊雅は、真っ白になった髪を後ろに撫で付けることで、裏切り者たちへの怒りを一先ず鎮めようとした。
伊雅にとって裏切り者はしょせん裏切り者でしかなく、それが敵将といえども、降ってくれば処罰するのが伊雅のやり方である。だいたい、一度でも裏切った経験のあるものは、二度三度と同じことを繰り返すかもしれない。とても再登用する気など生まれようはずもなかった。
「でしたら次の戦で先鋒に任せられるがよいでしょう。もともと敵だと割り切ってしまえば、死のうが再び寝返ろうが、我らの懐が痛む道理などありません」
「ふむぅ・・・・・・それはそうだが」
閑谷の説く整然とした論理の前では、伊雅も我を張り通すことが出来なかった。盤面同様に旗色が悪い。
——もう閑谷のことを童とは呼べんな。
戦局の大きくを白の碁石が占めてゆく過程を眺め、月日の経つのを伊雅は感じた。いまや押しも押されもせぬ火後の執政を務める閑谷の好青年振りが板についている。
まだ少年だった閑谷が立派な将軍になった姿を見られたこと、そうなるまでに生きてこれたことが、老いた伊雅には自分自身への誇りのようにさえ思えた。
「いつまでも若いつもりでおったものだが・・・・・・」
どうやら時代とともに自分という人間の生命も移ろうものらしい。
伊雅の思いをどこまで気づいたか、閑谷は昔と変わらない柔らかな笑みを浮かべた。