「大人しくなったな・・・・・・」
額に浮かび上がる汗を袖口でぬぐいつつ愚痴をこぼす教来石の眼前には、穏やかな潮騒をたてる宇和の海原が広がっている。
わずかに視線を転じれば、はるか延々と水面にうかぶ死傷者の背中や腹が、佐多岬の岸壁に向かって流れていくのが見えた。
盛夏を迎えた八月のとある一日の光景である。むあっと篭もるような熱気が、傷口をあぶり負傷兵たちを否応にも苦しめる。
海戦である。はたして何度目の戦いになることだろうか。
もはや数えることも億劫だと思えてしまうほど、水軍は連日のように大出面の水軍と戦いを繰り広げてきた。いま、宇和海の制海権は西南連合勢の手中にある。
教来石や重然らの水軍は、決して良好とはいえない関係——一枚岩と呼べないながらに、辛くも大出面の水軍を撃退してきた。
先ほども、天目が差し向けてきた水軍を撤退へと追い込んだばかりだ。一面、大破された艦船の残骸やら戦死者の哀れな様が、血戦の様相を物語っている。海が赤い。
教来石は疲れた表情で、部下の一人に声をかけた。教来石たちは今、生存者の救助を行っているのだ。敵味方の区別はない。敵方の兵士を拾い、助かるようならば助けることになっている。
「わしらの船には、あと何人ほど乗せられる」
「多く見て四、五十人といったところでしょう」
「ほかは重然に任せるほか手立てはないか。五十人ならばあと半刻ほどもあれば完了するな」
「終わります・・・・・・というよりも、終わらせまする」
「急げよ」
「はっ」
各部署へ下知し周る。
艦船は沖合いに二十隻ほど出ているが、すでに浜には五十艘近い数の小船、十艘あまりの加奈船が、矢玉の積み込みを取り急ぎ行っている。すぐに出撃できるように、準備は早急に進めなくてはならない。
各員へ指導する教来石の姿を見つけた赤峻が、長い髪を揺らしつつ近づいてきた。片膝を付く赤峻に教来石は手を振り応える。
「半刻で戻れそうだ。他の船もそれくらいに出られるな」
教来石の問いに、赤峻は即座に応える。
「問題ありません」
「・・・・・・重然は、何かいってきたか?」
声を潜め教来石が尋ねると、不快な様子で赤峻が眉をよせた。
「いえ、何も」
「向こうも忙しいのだろう。いざこざが起きる前に、さっさと国咲へ向かう。よいな」
「はい」
「はやく国咲へ戻りたいからな」
廉氏の様態が気にかかるのである。それを察した赤峻も声を潜めて、
「ひとつ、よろしいでしょうか」
と、主に尋ねる。
「なんだ、行ってみろ」
「はっ。国咲へ戻りましたら、いちど城へお戻りになられてはいかがでしょう」
そう進言してくる赤峻は、心底から廉氏の体調を案じている様子である。赤峻の実家は連枝の一族の遠縁に位置する家柄なのだ。赤峻の曽祖父の代に分岐したらしい。
北山人にとって心の拠り所である廉氏が床に臥すようになってからというもの、赤峻に限らず、みながみな心を痛めている。彼の親友という立場の教来石には、身に応えるものがあった。
外加奈の城からとおく離れては、よけいに不安なのだろう。無理もないが、堪えねばなるまい。
教来石は、不安なかんばせの赤峻を安心させるよう、微笑を浮かべて見せた。
「案ずるな。少し病気がちになっているだけじゃ。直によくなるわ」
「そうなのですか?」
「わしには九峪殿との繋がりがある。廉氏の様子を診ている忌瀬師は九峪殿の主治医と聞く。その忌瀬師が診ておるのだ。大丈夫だ」
自信満々に教来石が言っても、赤峻の表情に明るさはみられない。
「・・・・・・九洲の医術とは、そこまでのものでしょうか」
「それはどういう意味だ」
「琉球の医術は古くから漢方を取り込んで発展してきたものだと、亡きお爺様から聞いたことがあります。それに比べ九洲の医術は——」
「そこまでにせよ」
ぴしゃりと、教来石は熱弁を振るおうとする赤峻の言葉をさえぎった。医術のことなんか教来石にはどうでもよいことでしかない。
「お前はそんなことを言うために、わしを呼び止めたのか」
「あッ・・・・・・も、申し訳ありません!」
「医術のことは医者にでも言わせておいて、お前はさっさと船を出せるようにせんかッ!」
「は、はッ」
慌てふためいて赤峻が持ち場へと遠ざかっていく。苛立たしい気持ちを、大きなため息と混ぜこぜにして、教来石の口から盛大に吐き出される。
あの馬鹿者めが・・・・・・。自分よりも年上の女性にむけて悪態をつく。戦に出れば百人力と謳われる赤峻の悪い癖は、ときたま油断に身を任せてしまうところだ。真面目で実直な武将であるが、油断一つで取り返しのつかない事態を招くこともある。
だが——廉氏を心配するあまり口をついて出た言葉であり、また北山人の誇りが現状を良しとしていないのだということも、主である教来石にはわかりすぎるほどにわかることでもあった。
先ほどは大丈夫だと自身あり気に言って見せたが、実のところ教来石も確証あって言ったわけではない。病のことは医者や薬師にしかわからないものだ。教来石にはただただ無事を祈るくらいのことしか出来ないのだ。
——無事であってほしいと、誰よりもわしが願うておることじゃ。
遠く離れている輩を思いつつも、いまは任務を全うするだけと気を引き締め、教来石は足を進めた。
教来石を大将として北山衆が国咲へ出立した直後、外加奈の城から、薩摩の鹿児島城、火向の川辺城、そして耶牟原城へと計十三人の人質が送られた。廉氏の子が二人、教来石の嫡男が一人、重臣の子や妻ら十人である。合わせて十三人。
人質の差出を要求されたのは、九峪より泗国計略の概要を説明されたその翌日のことであった。亜衣の発令による。
生来疑り深いところのある亜衣が、北山を全面的に信用していないことなど、教来石たちには遠の昔にわかりきっていたことだから、いつかは人質の差出を要求されることは覚悟していた。それが北山衆の出陣する直前に命令されたことは、むしろかねがね考えていた時期でもあった。
いずれそういう日も来ようと、家臣たちには予め言い含めていた。大事な作戦の最中に背後を突かれたくもあるまい。それはわかるのだが、内心おもしろくないことだ。しかし条件は呑まねばならない。呑まねばこの九洲に北山の生きる場所がなくなってしまう。人質の差出そのものに問題は起きなかった。
教来石が戦地へ赴いてから、あるいはそれより僅か以前に、出陣以外でおこった出来事といえばその程度のものである。加奈荘は平穏そのもので、都市の運営もさして困ることもなかった。
ただし、ここ暫しのことであるが、城主の廉氏は体調不良を理由に臥床の人となっていた。
病気の特定は出来ていない。ただ、廉氏の身を案じた九峪が、主治医の忌瀬を派遣して検診させるほどには重い容態のようである。
忌瀬が定期的に尋ねてくるのも、もう見慣れた風景になりつつある。
その日、どんより曇り空に、小雨が降っている。風は弱くも生ぬるく、いずれ大雨になるような気がして、床に臥している廉氏は下人に命じて雨越えの準備をさせた。
廉氏のすぐそばで忌瀬が薬箱の中身を広げている。薬のほかに何かしらの医療器具も見える。
「曇り空は嫌ですね〜・・・・・・」
うんざりした口調で忌瀬が文句を呟く。蜀台に火を灯す。燃料は鯨油を用い、そのため燃えると厭な臭いが部屋に広がる。
「ちょっと失礼しますよ」と、忌瀬は銅製の手鏡を灯かりにかざし、光を反射させて廉氏の口内を映し出した。ペンライトなどないこの時代、口内の診察をするには鏡で光を反射させる以外に方法がなかった。
方術で明かりをつくる方法もあるが、術を発しながらの診察は非常に疲れる。面倒でも集中力の保てる方法が忌瀬には好ましい。
舌を引っ張られ、「ふがっふがっ」と廉氏が声を上げるも、集中している忌瀬の鼓膜を震わせることは出来ない。
「とくに悪そうなところはなし、と」
ぱっと舌を離す。忌瀬の背後には彼女の助手がおり、診断の結果を事細かくにいたり木管に書き記していく。
「口内にデキモノの類は見当たりませんでした。少なくとも胃の腑などは健康そのものでしょう」
「では、最近の腹下しは何が悪いのでしょうか?」
「さぁ?」
廉氏の涎に汚れた手を湯水で洗いながら、さも軽い調子で忌瀬は返事をした。一瞬、廉氏が目を丸くさせた。
「さぁって・・・・・・。つまりわからないということですかな?」
「そういうことになりますね」
——それは軽く言っていいことか?
仮にも目の前の男は病人であり、また忌瀬にとっては治療している患者のはずだ。医師であるならば、あまり心配させるような言動や、ましてやその力量を疑わせるような物言いは如何なものかと廉氏は思う。
その懸念が表情に表れたのも無理からぬことだが、忌瀬は微笑んで、
「別に私は、お金のために働いてるわけじゃないですから。名誉もいりませんし。わかんないことはわかんないって言いますよ」
と応えた。
「それに、変に隠したって、あなたも気になるでしょ?」
「そりゃあ、まぁ・・・・・・」
そう言われてしまうと廉氏も強く反論できなかった。言われたら言われたで苦悩するだろうが、しかし確かに、意味ありげな雰囲気で隠し立てされても、それは反って余計な不安を抱きかねない。そんな気もする。
ならばあっさり言われたほうが、まだしも心持ち楽かもしれない。それに忌瀬の楽天な笑顔を向けられてしまうと、それだけで不安がる自分もおかしく感じられてしまうのだ。
いっそ鼻歌でも奏でそうな様子の忌瀬に一瞥をやるも、やはりごく自然体で手元を動かし、助手に声をかけている姿からは自分を気遣う素振りはまったく感じられない。
——大したことでないから何も言わないのだ。
そう自分自身で納得させた。
だがそうなると、ますます謎が深まっていく体調不良をどうしたらよいのだろうか。大したことでなくとも、苦しいことに変わりはなく、また治療する手立てもなさそうである。
「とりあえず、暴飲暴食は避けて変なものを拾い喰いしなければ、これ以上悪くはならないと思いますよ。というか、なんか悪いものでも食べたんじゃないですか? 落っことした握り飯とか」
「仮にも年上を童のように言わんでください」
一回りも年が離れている年下の女性にからかわれ、むっと廉氏の眉間に皺がよった。あまり反抗的な態度を見せるべきではないだろうが、ついついこの忌瀬という女が相手になると、取り繕うべきところで素を出してしまうことがある。
そういう、胸に溜めているものを一切合財吐き出させるための目的もあって、九峪は白羽の矢を忌瀬に立てた。忌瀬は廉氏の看病をすると同時に、彼が何を考えているのかを探る密偵の役割も担っていた。
もしも人物の目利きを得意としている教来石がこの場にいれば、その腹積もりに気づいたかもしれない。しかし幸いにも廉氏にはそのことに気づけるほどの卓越した鑑定眼は備わっていない。
念のために心臓の動悸や脈拍なども触診して調べる。やはり悪いところはなさそうだが・・・・・・若干、血脈の動きが鈍いように感じられ、しかしそのことを忌瀬は顔の面に浮かべない。そ知らぬ顔で診察する。
ただ、少しだけ気になって、ちらりと廉氏の表情を盗み見る。
——気にしてる割には、大事だとは思ってない顔ね。
案外、とうの本人が病魔の忍び寄る恐怖に気づかないものだ。だから手遅れになってしまい、命を落とす例が数多い。
自分に限って・・・・・・とでも思っているのだろう。病に伏せ死の淵に立った者はみなそう言う。病を死因と感じられない。そこに病魔のつけいる隙があるということにも、死を意識しないかぎり気づくことはない。
危険な兆候だと忌瀬は思いながら、これは九峪にしっかりと報告したほうがいいと判断した。北山衆を内部から抑止する存在として、いかほどに廉氏が重要かは説明されていた。敏い忌瀬にも、廉氏の死がすなわち何かしらの歪を生み出しかねないと気づいている。
「ま、養生することですね。胃の腑と腸の薬を侍従に渡しておきますから。・・・・・・苦いですよ」
「だから童あつかいはよしてくだされ。苦かろうが何だろうが呑みます」
むっと廉氏の眉が寄せられる。忌瀬は笑って応えた。
「それにしても、ちょっと働きすぎなんじゃないですか?」
「そうですかな」
「べつに、あなたが自らあれこれと指示するほどのことは、ないと思いますけどね。街はもとから出来上がってるんだし、細かい仕事は家臣にやらせるものだし」
「いやいや、これが以外に安心できないもので・・・・・・。何しろ我ら北山人は嫌われ者、それもとくに薩摩・火向の方々からの嫌われようには目を覆うばかり。これよく領地を営まずしてゆっくりできましょうか」
「相手を信じないと、その逆もないんじゃないですか?」
忌瀬が問いかけると、廉氏が難しい表情で頷いた。
「わしは信じたいと思っております。しかし下々の民は、まだ我らのごとき被執政者の感覚を理解できておりません。理性よりも感情が先にたってしまうのです」
と、そこまでいい、廉氏がため息をこぼす。
「この城の壁は、なんと言いましょうか、どこか心許なく感じてしまう。人を守るのは人でなくてはならないのでしょうな」
忌瀬に対する答えというよりは、むしろ、自分にそう言い聞かせているよう忌瀬には感じられた。自信に言い聞かせて決意と覚悟を固めているのかもしれない。
それは、北山人の権利を守る盾になることへの、断固たる覚悟ではないだろうか。
「そういえば聞いた話なのですが」
「はい?」
「忌瀬殿もかつては、九洲国と敵対していた狗根国の人間だったと聞いております」
「・・・・・・あー」
頬をかきかき、忌瀬の口から声がもれる。どう応えようかと困った。
厳密に言えば忌瀬はべつに狗根国の人間ではなかったし、今でも九洲の民かといわれれば、それもやはりちょっと違う。そこのところの立ち位置は正直なところ、ほとんどの人間にはわからないことであろう。天目や九峪、亜衣などが数少ない理解者といえる。
しかし廉氏にはその事情がまるっきり間違えて伝わっているようだった。
忌瀬が言葉に窮していると、ますます廉氏が言葉を重ねてくる。
「なにゆえ忌瀬殿は、九洲に降ったのです」
「べつに降ったわけではないんですけど〜・・・・・・」
忌瀬は遠くに視線を向けた。出会いはある意味、もっと最悪な形だったと思う。天目の無理難題な『頼みごと』のせいで、紆余曲折するわ大変な目にあうわ・・・・・・。
何故だか猿の格好までしたし。あのときはさすがの忌瀬も、涙を流しそうになった。
「私はそもそもどこの勢力にも属してませんよ。流浪の身ですから。ここにだって、私はあくまでも雇われているだけですし。まぁ——自分の意思でここにいることは確かですけどね」
「・・・・・・事情がおありのようですな」
「事情のない人なんかいないでしょう」
微笑で言われて、廉氏もその通りだと思った。人はみな事情を抱えて生きている。事情がなければ自分たちだって嫌われることもなかった。
事情といえば、廉氏にはもう二つ、気になることがある。
かつて反乱を起こした藤那と、蔚海に組した諸侯らのことである。彼らも現政権にとっては忌むべき存在ではないのだろうか。
廉氏の見るところ、これら造反組みに対する政府の処断はあまりにも甘すぎる気がしてならない。蔚海のときはまだいい。最終的には南軍に属したことで減刑されたのであろうが、不可解なのは藤那である。一国を打ち立てておきながら、降伏後には本領を安堵されている。
もう一度、背くかもしれないと——そうは思わなかったのであろうか。
「それが解せんのです」
と、廉氏はついつい忌瀬にこぼしてしまう。取りようによっては、政府へ対する不満ともとられかねない発言だが、相手が忌瀬であったことが幸いであっただろう。
「死罪にならずとも、領土を没収されてしかるべきではござらんか」
それが常道であると廉氏は言う。
だが、忌瀬はその主張を聞くうちに、おかしさがこみ上げてきた。
「そういう貴方たちがいまいるこの土地と城は、どうやって手に入れたものなんですか?」
廉氏は言葉を詰まらせた。いや、失ったというべきか。自分たちもまた、敵対こそしなかったが共和国政府を圧迫していたことに変わりはなく、本来なら土地を与えられ居住を許される身ではない。
忌瀬の指摘は的を射ていた。北山の土地は、他でもない、その政府から与えられた領地であり、言えば預けられているにすぎないからだ。
加奈荘は、北山人の固有の領土ではなく、あくまでも九峪たちから、統治することを許された土地でしかない。
だが——いやだからこそ、自分たち以上に憎まれておかしくない藤那が、どうやって許されたのか、それを廉氏は知りたいのだ。
反逆者の藤那はいかなる方法をもって、お咎めなしの裁定を受けたのか。
「九峪様にも思うところはあったでしょうけど」
片づけつつ忌瀬は口を開く。
「当時、九洲に渦巻いていた情勢は厳しくて、とても油断できない状況だったんですよ。蔚海の反乱なんかまだまだってくらいのね」
「この広大な九洲を取り戻したのだ・・・・・・当然でしょうな」
「あの頃はまだ、北は軒並み天目の支配下にありましたしね。そんなときに火後で反乱を起こしていた藤那様が帰順してきた。ちょうどその頃だったかな、九峪様はちょっと政治の表舞台から姿を消さないといけなくなったから、それで藤那様を許したんだと思いますよ」
「・・・・・・それは、九峪殿が阿蘇山へ追いやられたことを、言っておられるのか?」
「あー・・・・・・ま、そんなところ」
実際には事情が異なるのだが、さして話すほどのことでないし、話しても理解できないだろうと思った忌瀬は、適当に言葉を濁した。
「しかし政治の舞台から降りることと、謀反人を許すことには繋がりがあるように思えませんが」
「普通そう思いますよね。みんなもそう考えていましたよ。だけど藤那様は許された。なぜだと思います?」
「いや、それがわからんから聞いてるのですが・・・・・・」
「はぁ・・・・・・もうちょっと自分で考える能力を身に着けないと、これからさき大変ですよ」
あからさまにため息をつかれても廉氏はそれに構わなかった。とにかく今は、その秘密が知りたくて仕方がなかった。
廉氏の逼迫した真摯な表情を前に、忌瀬は軽口を引っ込めると、とうとうと語った。
「怖かったんだと思います。自分がいない間に残った官僚たちが藤那様を処断してしまうことは目に見えてましたし、もし藤那様をめぐって国内が乱れると、そこを天目たちに衝かれると考えたんでしょう。火後を失うということは、それだけ戦略的に重大なことなんですよ」
「別の者にまかせればよかったのでは?」
「統治者を挿げ替えればそれでいい、というわけにはいきませんよ。藤那様は善政を敷いてました。ご自身の大好きなお酒まで禁じて領民に尽くしました。それを民は知っているんです。そうでもなければ、火後の民が、神の遣いである九峪様に背信してまで藤那様を奉じたりはしないでしょう」
聞くうち、そうかもしれないと廉氏は思った。同じ事情を北山人は抱えている。故郷を捨てて九洲くんだりまで逃げ延びてきた理由も、中山をそも認めなかったからに他ならない。
戦国時代、山内一豊は土佐へ移封された際に、いわゆる一両具足らの起こした大規模な反乱に、長年にわたり苦しめられた。これも彼らが自分たちに不利な政策を山内家が行ったために、長宗我部家の昔を懐かしんで起こした戦いであった。また毛利元就に、主君に当たる陶晴賢との絶望的な決戦を決意させたのも、地元の国人衆がそろって押し上げたためだ。
このように、地元民と領主との結びつきが強い場合、領主は自身にとっての主すら超えようと運動することがあるらしい。
だが逆に、民のためをこそ思えば、下克上などと到底思えないこともあるはずだ。歯向かえば逆襲されるものだ。とても正気の沙汰ではないと廉氏は思えて仕方がない。ましてや独立国家を打ち立てようなどと・・・・・・
「民に慕われていながら、なぜ背いたのです? 九峪殿の政にそこまで不満があったのですか」
「それほどの人物でも抗えなかったんでしょうねぇ」
と忌瀬は疑問に答えた。狗根国からの謀略を受けていたことまでは話してやる義理などないであろうと、そこだけはぼかして話した。付け加えて言うなら、九峪の国内統治を実質指図していたのは亜衣である。懐事情は寒かったが、決して悪評ではなかった。
忌瀬もなぜ藤那が反乱したのか、もっとも詳しい根っこの部分は知らないでいる。ただ、狗根国からの調略によるとだけ聞いている。ただそれだけだ。それ以上の答えは想像の中にしかない。また考える必要もない。身も蓋もない言い方をすれば、とくに興味がなかったからだ。
「やっぱり気になりますか」
薬をすべてしまい終えて手持ち無沙汰となった忌瀬が廉氏の方を向き直った。図星を差された格好の廉氏は、忌瀬の視線から逃れるように顔をそらす。
見透かされているような気がした。いやこの忌瀬の眼力の前では心情すらも隠し切れまい。自分と彼女とでは役者が違いすぎるのだ。
廉氏は力なく苦笑するしかなかった。ただし、顔はまだ忌瀬を見ようとしない。
「北山の将来を思えば、気にもなりましょう。藤那殿が赦されたのならば、我らにも希望がある・・・・・・。そう思いつつも本心の奥底では不安が渦巻いている。九峪殿とていくら実力があろうと人間です。人間には出来ることと出来ないこと、物事の限界が常に付きまとうものです」
「そりゃあ、そうですよ。むしろ九峪様には出来ないことだらけだと思いますけどね」
けらけらと忌瀬の口からおかしそうな笑いが上がった。自分が真剣に話しているのに、時たま忌瀬の態度ははげしく崩れることがある。まだそんな忌瀬の雰囲気に慣れていない廉氏は、憮然と表情になってしまう。
「どうも忌瀬殿からは真剣みが感じられません」
「あら。もしかして怒っちゃいました?」
「わしでなくとも、怒る者は怒りますぞ。権力層からは特に」
「そのときはそのとき。国から出て行けばいいだけの話しですよ。言ったでしょう、私は雇われ者だって。嫌われたなら、ま、それまでってことでサヨナラするだけのこと」
「敵ばかりを増やす生き方ですな」
皮肉とも案じるともとれない一言を廉氏が呈しても、もとより自由人の忌瀬にはどこ吹く風であった。忌瀬はとくに何も言い返さなかったが、案外と廉氏の言うことは当たっている部分がある。九洲の官僚内にもいまだに忌瀬を狗根国人であると誤解して毛嫌いしている者も多いし、生真面目な役人などからの評判もすこぶる悪い。
しかしそれと同じかそれ以上に味方も多く、それもまた忌瀬の独特な性格や愛嬌によるものであった。とはいえ、忌瀬を擁護する人物と言えば、九峪や亜衣、紅玉などの実力も権力もあるものばかりだから、口さがない者からは『ごますり女』などとも言われている。
が、それもやはり忌瀬には興味もなければ反感を覚えるほどのものではなく、言いたい者にだけ言わせておけばいいとさえ思っていた。これは忌瀬の心情でもあり、自分を認めてくれる者にだけ誠意を示せばいいと考えてきた。天目の無茶な頼みごとを聞いたのも、正体がばれてなお九峪に味方したのも、その九峪が都を追われながらやはり九洲に留まったのも・・・・・・すべて、九峪や亜衣らが自分の器量を認めてくれていたからに他ならなかった。
そのことを特別、廉氏に語ろうとは思わなかった。忌瀬の思いは忌瀬を信じてくれる人々にだけ伝わればいいと思っていた。北山から逃れてきたこの異邦の男にわかってもらう必要もなければ、わかってほしいとも思っていない。
「さて、お喋りはここまでにしておきましょうね〜」
わずかに雰囲気に剣が出てきたのを感じた忌瀬が明る気な調子で手を叩いた。
「死にそうになったらお呼びくださいね。運がよければ駆けつけますので」
「自分が物騒なことを言っているという自覚はおありかな?」
「薬師なんて生業そのものが物騒なものですしね」
毒薬の練成も得意——なかば趣味というか本職というか——としている忌瀬らしい一言である。もしも廉氏の暗殺を忌瀬が行おうとしたら、それは、赤子に乳を飲ませるのと同じくらい簡単に毒を一服に含ませることも出来るのである。
とはいえ薬師の事情に詳しくない廉氏にはそこまでの出来事を予期するほどの想像力はないらしく、忌瀬の言葉に不可解そうな表情を浮かべるばかりだ。
礼をもって辞した忌瀬は、外加奈の城の大路を行く。亜衣と紅玉が計画しただけあって区画は整然と佇み、各所に水路も張り巡らされている。活気のよさが忌瀬には心地よかった。
大路の通りの二三町に営業している小さな茶屋にはいる。亜衣の管轄下にある茶葉の荘園から生産された茶葉は、この北山の街にも届いている。品質はそれほどいいものではない。しかし北山人を九洲に服させるためにと、九峪がわざわざ手配してやったのだ。
北山人は大陸交易を国営商業としていたから茶を知っている。茶がどれほど高級品かもわかっている。そこに九峪が目をつけた格好だ。
そしてこの二三町茶屋を含めて数件の店屋が、実は九洲から入った密偵などの集合場所だったり情報の交換場所になっている。
忌瀬が近づくと、部屋の隅で片膝を立てて座っていた男が顔を上げた。
「ご苦労様です」
と、男は頭を下げた。男はホタルの乱波である。
「二日後に帰りますから、九峪様に伝えておいてくださいね」
「承知しました」
と応えるや否や、男は茶代を支払って茶屋を出て行った。男の足ならば今日の夕暮れには耶牟原城へたどり着くことだろう。
入れ替わるように腰を下ろした忌瀬も折角だからと茶を一杯だけ喫する。物はよくないが、淹れ方がいいのだろうか、衣緒の点てた茶とは違う味わいがある。
異国の味とでも言おうか。これはこの外加奈の城にこないと味わえない。九峪風の諧謔でいえば『ご当地の味』というものらしい。諸国を旅してきた忌瀬にも理解できる感覚である。その土地々々の特産物を楽しめるのも漂白の民の生涯ならではだ。
しかし、茶の味を楽しんでばかりもいられないほど、忌瀬から見ても廉氏の体調不良からは厭なものを感じる。
推測だが、もしかしたら廉氏は、かなり深刻な病魔をその身の内に潜ませている気がしてならないのだ。まだ表面化するまでには時間がかかるだろうと経験が注げている。しかし、安心は出来ない。猶予があっても手立てがないのなら、結局のところ廉氏が亡くなり、そのために一悶着も二悶着も起こりかねない。
「さてさて・・・・・・これからどんな面倒ごとになるのかな」
怖いもの見たさに忌瀬は心の中で舌を出した。