宰相の官位にある亜衣は、厳密に言えば直属の戦力というものを保有していない。強いて言えば衣緒の部隊が亜衣の戦力であった。その衣緒も藤那の指揮下で働いている。
援軍として泗国へ出陣する亜衣には、三人の将軍が同行する事になった。どれも耶牟原城の守備を命じられていた将軍、いわゆる留守居というものだ。彼らの直轄戦力は総じて二千ほどになる。それが、亜衣の援軍としての手勢である。
出航は豊後の国咲半島からで、石川島水軍の往復船が援軍の足となる。亜衣自らが九峪の代行として指揮するとあって、たまたま国咲半島に駐留していた重然が、輸送役を買って出た。
「まさか、亜衣様が泗国へご出陣なさるとは・・・・・・」
出港準備も整いつつある竜神丸の甲板は慌しい。水夫の行き交う流れの妨げとならぬよう隅に身を寄せる重然は、驚きとも困惑ともつかない表情を浮かべる。
宰相自らが兵を率いて出陣するという事態は、およそ只ならぬことであった。なぜかと言えば、宰相というものは国家組織における行政の総括者であり、トップを意味している。それゆえ宰相の行動は大事にのみ限定されてしかるべきなのだ。座間の道への出陣が必要以上に騒がれねばならなかった理由がここにある。
今回も、同様である。亜衣が動く、宰相が動くということは、それだけで大事を意味していた。現状、大事にあると政権の上層部が判断したということになる。
抜き差しならない戦況だという認識が重然にない。重然程度の地位では戦場のすべてを察知することも叶わないにしても、優勢か劣勢かの見分けくらいはつけられる。今はまだ、どちらとも言えまい。
——今が圧し時だということか。それとも圧されているということなのか?
考えても、重然にはわからなかった。暖簾に腕押しである。わからないことを、いくら考えたところでわかるはずもない。
ただ何にしても、宰相が兵を率いてきた、というだけで、石川島水軍の戦士たちはみな小躍りしてこれを出迎えた。士気は、上がっている。上がり続けている。
ありがたいことではある。
「積荷、兵士、ぜんぶ積まさりやしたぁ!」
水夫の叫び声で重然は、はっと我に返る。いつか、出航の準備も整っていた。
亜衣は、船室で休息を取っている。軍議に使用される一室で、もう一刻以上も篭もっている。
「やるべきことを、やるだけさな・・・・・・」
亜衣が何かしらの目的を持って出陣することに、余計な考えは持つまい。気にする資格が重然にはない。重然は、ただ海上の道を守り、制海権を維持し続け、そのために戦うだけでいいのである。
「お頭!」
「おうっし。竜神丸、出航だ! 宰相様が乗ってるのを忘れんな、粗相の無えようにしとけよッ!」
号令のもと、船下の水夫たちが、一斉に櫂を漕ぎ出した。ゆっくりと船は動き出し、徐々に速度を上げ、白波を打ち砕き、歴戦の竜神丸が宇和の沖合いへと進んだ。
船首の先、はるか向こうには、北山水軍が守備している佐多岬半島が、不穏な空気に包まれている。
北山衆の棟梁を務めている廉氏の体調が、なかなか復調の兆しを見せない。体調の悪化というよりは、むしろ容態の悪化という表現のほうが正しいかと思われるほど、廉氏はすっかり病人然としてしまっている。
泗国経略発動直後は、それでもまだ統治業務をしっかりとこなしていた。外加奈の城の治安は安定しているし、加奈荘の耕作も順調である。他県からの人の流れがないものの、自治領内での経済を無事にまわせてはこれていた。
しかし、いまでは、床に臥しがちの日々を送っている。食欲の低下に歯止めが掛からない。胎の肉も落ちて、あばら骨が浮かび上がりつつある。目の周りも、くぼみ始めている。がん患者か栄養失調者のようである。
あまりにも悲惨であるからか九峪の意向でたびたび忌瀬を派遣させているが、効果の程もさしたるものではない。廉氏の落ち込んでいく衰弱の前には、さしもの忌瀬であっても、お手上げ状態だ。
「間違いなく、髄を傷つけていますね」
と、忌瀬は最終判断を下した。廉氏にとっては事実上の死刑宣告にひとしい診断結果だといわざるを得ない。古今、髄を傷めて生きながらえた者はいないと、なんども廉氏を診察した忌瀬は無情にも九峪に語っている。
北山衆棟梁の廉氏は、どうあっても助からないであろう。
いずれ、肉がすっかり削げ落ちて皮だけになり、眼球がぎょろりと剥かれ、肉体は餓死寸前にまで追い込まれ、そして全身の内臓が徐々にその機能を弱めていき、筋力の低下にあわせて身体の自由も失われ、最期は衰弱死してしまうらしい。
伊万里の問題で頭を悩ませていた九峪に、追い討ちをかけるかのような状況だ。九峪自身も何かしらの病を抱えている可能性が大きい。だからという理由ばかりでもないが、九峪は同じくして病床にある廉氏に、ある種の親近感を感じている。
九峪が廉氏を見舞おうを思い立ったのも、そんな親近感によるものであった。病人同士の傷の舐めあいであろうか。
幸いというべきか、真っ先に九峪を制止したであろう亜衣は、いまは重然とともに宇和海にいるであろうし、清瑞は清瑞で乱波として慌しく方々を飛び回っている。だれも、九峪を止める者はいなかった。
もちろん、九峪が北山人の『巣窟』である外加奈の城を訪問することに、毎回の如く意見を言うものは多かった。一様に「危険です」と難色を示すのだ。別に九峪が外加奈の城を訪問することはこれが初めてではないが、無理もない。まだ北山は九洲人から信頼を得るまでにはいたっていない。
だから、九峪としても、あくまでも視察という名目で、護衛を随伴させての訪問としている。滞在日程も二日ほどだ。
九峪は、訪れるたびに都市としての体裁を整えつつある外加奈の城を見るのを、密かな楽しみとしている。九峪にとって北山は、蔚海を倒し文武騒乱の根源を絶やすことに活躍してくれた、もはや立派な一門という認識がある。種芽島で自分を慕ってくれた子供たちや年寄りが毎日ちゃんと食事を取れているかどうかも、気になる事柄であった。北山衆の生活状況を向上させてやること、それが九峪なりに報いる方法だ。
九峪の一行が大路を行くと、まず、子供たちが沿道に並ぶのだ。何よりも九峪は子供たちに人気があった。北山の子供たちは、よく九峪に懐き、慕っている。老人たちの中には、九峪を救世主のように感じる者もいるほどだ。ただし、青年・中年層は複雑な心境であることだろう。彼らにはまだ強い独立心がある。九峪という存在を受け入れがたく、子供らほど心服していない。それは、九峪にも肌で感じられた。
大路に並んだ人々へ、にこやかに手を振ってやる。子供たちはどこまでも無邪気だ。
——いつか、この子達が大きくなれば、立派な九洲の民になる。
九洲生まれの真姉胡でさえ『自分は狗根国人』だという意識を強く持っていた。世代なのだと九峪は考えている。今の大人たちの世代、子供たちの世代、それら世代ごとの環境が、人間の意識を形作っていく。いまの北山は、やはり北山人の集まりでしかない。それでいいと思う。しかし子供たちは、いずれ九洲人になるだろう。
なってほしいと九峪は願っている。
複雑に視線が絡み合う大路を抜けて、九峪はすぐに外加奈の城の政庁へと入った。厩に乗馬をあずけ、護衛を三人つけて廉氏を尋ねる。
さほど待たされることなく、九峪は廉氏が寝起きしている一室へと足を向けた。通常、会見は広間で行われるものだが、九峪はいつも、廉氏の私室を訪ねることにしている。病人に無理はさせたくなかった。
予め臥床の勝手を許しているので、何度目かになる道筋を九峪は迷うことなく進んでいく。
「太師(九峪)様がおこしになられました」
下人が戸越しに九峪の来着を廉氏に告げると、奥から「お通しするよう」と声が掛かってくる。下人は静かに戸を開け、自身は横に控える。護衛を待たせる合図をし、一人だけで部屋へと入る。
廉氏は、横になっている。臥床勝手なのだ。側まで近寄った九峪は何気ない動作で腰を下ろす。
生気を失った顔を九峪に向ける廉氏の両目には、わずかな命の灯火が揺らめいている。そんな印象を抱かせる瞳をしている。病人の目だと九峪は感じた。
「具合はどうだ」
努めて気さくに、まずは挨拶代わりに九峪が尋ねる。
「ご心配には及びませぬ・・・・・・と、強がりにも言えない我が身が、情けなく」
苦笑とも嘲笑ともつかない笑みを廉氏が浮かべる。本当に情けなく感じているのであろう。
「前に尋ねたときは、まだ身を起こせていたけど・・・・・・。起き上がるのも辛いのか?」
「起き上がれなくなっては、もう、駄目なのかもしれませんなぁ」
「おいおい、そんな弱気なこと言うなよ。まだお前にはやってもらわなくちゃならないことが、山ほどあるんだ。北山をこの九洲で生き延びさせるには、廉氏という男の力がどうしても要るんだよ」
「されど、このような身体では、如何とも・・・・・・」
口を突いて出る言葉は、どれも否定的なものばかりで、すでに生きることへの気力も萎え始めているようだ。しかし、北山を心配する気持ちまでは失っていないらしく、だからこそ自身が情けなく感じているのだろう。
廉氏を苦しめている最大の要因は、北山の明日を思いつつ死に行くことへの無力感かもしれない。
——いけないな。
生きる気力、生への終着を失った瞬間に、その人の死は決定されると言ってもいい。廉氏はもはや、生きながらえることへの希望を見出せず、諦めてしまっている。いくら周りが助けようとしても、本人の生きる意思が弱まっては助けようもない。
「むしろ、よくここまで生きてこられたと、某は思うほうです。遠い昔に死んでいても、おかしくはなかった」
「種芽島のことを言っているのか?」
「疫病に冒された者は、多くが死にました。飢えて死んだ者もおります。某が生きたことは、単に奇跡であったのです」
「二度あることは三度あるって言うぜ。もう一回、奇跡を信じてもいいんじゃないのか」
「何度も起きては、奇跡の値もなくなってしまうでしょう」
「起きてもらわなきゃ困るんだ」
切実な気持ちだった。いまだ北山という存在は、九洲統治における不安要素だ。孤立しがちな北山をまとめるには、やはり見識のある北山人が上に立たねばならないのである。
それができるだけの器量をもっているのは、九峪の見るところ、いまは錬氏しかいないように思われる。錬氏を欠いた北山衆が今後どのような道を進むことになるのか、考えるだけでも気鬱してしまいそうだ。
見捨てるという選択肢がそもそも九峪にはない。すべてにおいて助けられるわけでがないとしても、切り捨てるような真似だけはしたくなかった。
わざわざ忌瀬をやって診療させているのも、そのためなのである。錬氏を快方へ向かわせねば甲斐がないというものだ。
しかし、いくらそう思うとも、九峪自身が錬氏亡き後を意識せざるを得なくなっている。助かるに越したことはないとしても、可能性として、錬氏が死亡する事実を考えなくてはならないのだ。少なくとも忌瀬の判断によって考えると、後任候補を定めておく必要が生じるであろうし、仮に生命が助かっても、政務を代行できる者は必要になる。
北山の中心として纏め上げられる人物——
九峪の胸のうちを察したのか、錬氏は唐突に、
「教来石がおりまする」
と、遠く戦場で戦う友の名を口にした。
「某の亡き後は、教来石を北山の主に任命してくだされ」
「教来石をか? しかしあいつは、いま水軍を率いているんだ。あんまり俺の立場でこういうことを言うのはよくないけど、教来石が戦わないと、北山の手柄取りがいなくなっちまうぞ」
「致し方ありませぬ。それも運命なのです。我らはいくさの巧みさで認められるよりも、内政を充実させて、周囲に認められた方がよいと思うのです。あまり手柄を挙げすぎましても、反って角が立ちかねませぬ」
嫉妬や反感を招くと錬氏は言う。大層な自信であるが、たしかに北山の戦士はみな精強であったし、こと海戦においては重然の石川島水軍を差し置いて戦功を上げることもある。宇和海の制海権を掌握できたのも、北山水軍の働きによるところも少なくなかった。
「北山は無害であると思われて、初めて周囲も安心できましょう・・・・・・。ことに薩摩、火後、火向の方々は」
「そうだけど・・・・・・」
「お願いいたしまする、九峪様ッ」
病身を持ち上げた錬氏が、必死に訴える。
「助からないこと、某は覚悟しております。しかし北山の今後を思えば、この胸も張り裂けんばかり。北山を纏め上げるには、位の上でも某の補佐にあった教来石こそが適任なのです。それに、教来石は北山王の御舎弟君であらせられた、恵源大親方の重臣でありました。教来石が北山の棟梁となること、みな納得いたします」
「あいつ、そんなに偉かったのか・・・・・・?」
九峪の持ちえる教来石の来歴からは、北山でも名を馳せた武将程度の認識しかなかったのだが、実際には一軍を率いることの出切る親方衆(将軍階級層)と同列にあった。
ならば、たしかに教来石がこれからの北山衆を束ねる地位にあっても、一見して問題はなさそうではある。しかし、そこに盲点があることを、すでに九峪は見抜いているのだ。それも人柄の違いであった。
病人を前に、このことを言うか言うまいか、九峪は迷った。はっきり言ってしまえるなら、とても教来石に勤まる責務ではない。
立場が同じならばそれで言いというものではないのだ。ただ、死を前にした錬氏には、深く考えるだけの余裕が残されていない。九峪の危惧するところを見落としている。
九峪は、あえて黙ることにした。言下に否定して、これ以上、錬氏が気落ちすることのないようにするためだった。
「お前の言うことは、帰ってよく考えてみるよ。俺としては、このままお前の体調が回復してくれるほうが望ましいんだけど」
「先ほども申しましたとおり、すでに覚悟は出来ております」
生きることよりも、残すことに使命感を抱いているらしい。
九峪の胸中は、重かった。
外加奈の城の視察を終えた九峪が耶牟原城へと戻ってくると、その翌日に、大出面の動向を探っていた只深から、九峪に話があると言付けを受けた。
旅疲れしていた九峪だったが、天目の不明確な動きに目を光らせていた只深からの話であるからと、その日のうちに九峪邸を訪ねるようにと、只深の部下に言付けした。
「只深様は、本日ならば日没後になると仰せであります」
「それでいいよ。日没だな」
日暮れ、夜中に只深が九峪の私邸を訪ねることとなった。
只深が尋ねてくるまでは、九峪もさほど忙しくはない。北山のこと、伊万里のこと、泗国経略のこと、那津城のこと、気になることは沢山あるが、目下九峪に出切る事といえば——
宮殿へと上った九峪は、奥の殿へと通じる一間で、茣蓙に腰を下ろしている。正面には、奥の殿に繋がる戸が、いまは閉められている。無言のまま、視線だけが戸へと注がれる。
火魅子の懐妊を九峪が知ってから、まだ十数日しか経っていなかった。結婚して以来、生活の場を宮殿に移していた九峪も、現在は療養のために結婚以前のように私邸で寝起きしている。
これで二度目になろうか、火魅子を見舞うのは。
女王の夫(すなわち大王)となった九峪には、男子禁制の奥の殿へと足を踏み入れる資格がある。だがこの男、生来女色を好むくせして、女性ばかりの空間に長くいられない。奥の殿ではむしろ息詰まりしてしまうのだ。
だから、火魅子を見舞う場合にも、まず来着を巫女たちに告げさせることから、九峪の見舞いは始まる。無遠慮にずけずけと上がらない態度のためか、奥の殿で働く女性たちから何気なく人気が高い。無論、九峪本人は知らないが。
待つこと四半時と掛からずに、巫女が戸をあけて、九峪の前に跪いた。
「お待たせいたしました。ご案内いたします」
にっこりと、巫女は微笑んだ。さぞや中睦まじい夫婦だと思っているのだろう。
少し気恥ずかしさを覚えるも、軽く応えて、巫女の後ろをついて行く。
奥の殿で働く女性は数多い。およそ三十人ほどになる。七割ほどが宗像系の巫女が占め、残りは他系列の巫女や、一般階級者なども下働きしている。ほとんどが巫女装束に身を包んでいるのだが、警護役などは軽甲に太刀を佩いたり薙刀を手にするものもおり、彼女らは一様に『戦巫女』と呼ばれり火魅子親衛隊の隊員である。衣緒はもちろん、火魅子ですら会見の場には鎧を着ることが多い。対暗殺者用と会見相手に威圧感を与えるためである。
そして、これが最たる特徴かもしれない。火魅子に仕えているためか、あるいは女性しかいない空間に長くい続けているためか、非常に垢抜けた女性が多いのだ。有体に言えば——お喋り好きな女性が多い。
そんな彼女たちにしてみると、気安い性格の九峪はなんとも丁度言い異性の話し相手であり、暇つぶしの相手でもあった。火魅子が休んでいる一室へと向かう途中にも、案内する巫女と九峪はごく親しげに会話を楽しんでいる。
ただ、これも九峪のカリスマ性が成す業なのか、一人、また一人と周囲の人数は増えていき、それに反比例して九峪の口数は減っていく。一人、二人までなら、まだいいのだ。五人を超えだすと、あまりにも黄色い声についていけなくなる。
お喋りする女子高生の集団のど真ん中に放り込まれた、男子高生みたいなものだ。適当に相槌をうつだけでも、一苦労である。
ましてや一国の大王ともなれば、羨望の眼差しを向けてくる者も多い。なまじ容姿も悪くないことも手伝って、九峪としては姦しいどころの話ではない。
これならば、まだ表で活躍している蘇羽哉や卯木・卯花姉妹などの方がずっとおしとやかに思えてくる。
「今日は火魅子様のお見舞いですか?」
「あっ、ああ・・・・・・」
九峪が応えると、巫女たちは「キャっ」と甲高い声を上げて喜んだ。なにをそこまで喜ばしく思っているのか、もう九峪の範疇を超越している。九峪はただ、身ごもった妻を見舞いに来ただけなのに、それが彼女たちには面白い出来事であるようだ。
——女の園って・・・・・・怖い。
英雄色を好むという。九峪は色を好んでも、馴染むことまでは出来ないらしい。
女性に囲まれての会話はしばらく続いたが、火魅子の寝室に近づく頃には、一人また一人と姿を減らしていく。九峪に『侍っている』ところを火魅子に目撃されると、ひどく癇癪を起こされるため、ほどほどのところで分かれていくのだ。
こういう器用さや機敏さは、男にない女性の能力だ。その能力に九峪は毎度のごとく助けられているのだが。とくに北山や伊万里などの問題で気持ちが暗くなっていた九峪にとっては、むしろ明るい彼女たちの様子はとても心地よいものでさえあった。まぁ、今回だけと言えばそれまでだが。
——これなら、羽江だって元気になるよな。
夫を失ってから塞いでいた羽江の心を開くことに一躍買ったであろうことは、想像に難くなかった。
九峪を迎えた火魅子は、まさしく喜色満面といった様子であった。
「九峪様、ようこそお越しくださいました」
「おっ。元気そうじゃないか」
「はいっ!」
飛び跳ねそうなくらい元気そのものの火魅子に、九峪も屈託ない笑顔を浮かべる。
「いくら妊婦とはいっても、そんなすぐにお腹が大きくなるわけではないんですよ」
「そうなんだ。・・・・・・いや、そりゃそうか」
子持ちになったことなど、もちろん今回が初めてな九峪でも、子供が生まれるまでに半年以上の期間が必要とされていることは知っている。行為を行ってからをいれると一年以上はかかる。
火魅子の腹部はまったく膨らんでいない。妊婦だと言われても、まったく信じられない。しかし間違いなく、その胎内には別個の命が宿されているのだ。
九峪は、そっと、火魅子のお腹に手を添える。
「本当に、俺の子供がここにいるんだな・・・・・・」
しみじみと呟く九峪に、火魅子は、頬を赤らめて頷いた。
「九峪様と、私の赤ちゃんですよ」
「藤那のときにも思ったけど、不思議だなぁ・・・・・・。俺も星華も、昔はこんなだったってこともさ」
「ややは神様からの贈り物だって、小さいころお婆様やお母様から聞かされた事がありました。この子は、天の火矛に祝福されていますもの」
「ああ、そうだな」
火魅子が見たという夢については九峪も聞かされている。それどころか、もはや九洲中の人々が、この出来事を知っているほどだ。政府の方針として、火向の旅芸人たちが吟遊詩人となって、各地で語っているためである。次期女王の神性を高める狙いがあった。
——夢、か。
夢に関して九峪はいささかナーバスだ。ここしばらく、夢といえば苦痛と隣り合わせの現象になっている。九峪はいつしか、夢の訪れを恐れるようになっていた。
だが、しかし、今回自分と火魅子が同時に倒れたことが、ある考えを九峪に与えることになった。偶然かどうかはしらないが、同じ日に、九峪と火魅子は倒れた。それも両者そろって尋常ならざる苦しみ方をして。
やはり、ただの夢ではないのだ。ただの夢であるはずがなかったのだ。九峪の見た夢というのもまた、神掛かりしたものであったかもしれない。
ではなぜ、そのようなものを、言ってはただの人間でしかない九峪が何度も苦痛とともに体験しなくてはならなかったのか。それだけが未だ謎に包まれている。
「——九峪様?」
「あっ・・・・・・。ああ、悪い、ちょっと考え事してた」
見上げてくる火魅子に、九峪はあいまいな苦笑を返す。
——火魅子は、俺の夢のことをしっているのだろうか。
かつて一度も尋ねたことなどない。おそらく知らないだろうと推測するのは、彼女は根っから嘘をつけない女性であると知っているからだ。
火魅子は心優しい。王者の風格というものを備えているわけではないし、王者といえばむしろ藤那のほうにこそしっくりくる言葉だが、こと慈愛の心は広く万民に向けられ、仁徳に満ち々々ている。
そんな火魅子だからこそ、きっと九峪の夢に関する事柄を知ってしまえば、たちまち狼狽してしまうだろうことは目に見えていた。
悲しませたくないと思えば、どうしても打ち明けられないし、知られたくもなかった。
目の前で幸せを噛み締め、まさに謳歌しようとしている火魅子を、わざわざ悲しませてなるものか。いまは、このままでいいのだ。
「元気な子を、産んでくれ・・・・・・」
様々な想いの乗せられた一言に、火魅子の細く白い首が、こくりと傾いた。
日が落ちてから、只深が九峪の私邸を訪ねてきた。夜中ということもあって、警護役に伊部を同行させている。
蜀台の明かりだけを頼りに、三人は顔を突き合わせる。以前と違うのは、亜衣の姿がないことであった。
只深は、天目が半島で購入したという竜骨をもった大型の外洋交易船の足取りを追っていた。半島へわたり、造船業で栄えているカンヌンの湊町で情報を収集して回ったほどだ。
また、ホタルとは別個に工作員を大出面国へ放って、山陰の湊を調べさせてもいた。
しかし、それらの苦労を嘲笑うかのような結果しか、とうとう持ち帰ることが出来なかったのだ。
と、いうのも——
「行き先を特定できなかった?」
「へぇ・・・・・・。いや、特定出来ひんかったっちゅうよりもでんな、大出面の支配下にある山陰の湊に入港した形跡はありまんねん。ただ、肝心の船があらしまへんのや。まるで最初からなかったように。その形跡言うんも、半島から追った調べの話しでっせ」
「なんだって・・・・・・? そりゃあ、どういうことだ?」
「あれだけ大きな船、湊に入ったら話しに上がらんはずがないんですわ。それやのに、どこにも大型船が入港した事実がなくて」
「隠蔽されたんじゃないのか?」
天目による情報操作の可能性を九峪が指摘すると、それでも只深はまだ納得出来ないといった表情で反論する。
「仮にそうだとしまっせ。それが今度、一気に姿を消しでもせえへんかぎり、船は湊に停泊し続けなあきまへんし、停泊しとれば否でも人の目に触れまんねんな。たとえ各湊に一隻ずつ配備したとしても、二十隻あまりもの大型船が、一瞬にして姿を消すかねっちゅう話しですわ」
誰の口にも、噂話としてすら上らないなら、それくらい荒唐無稽な状況だと考えなくてはならないのだと只深は言う。
「ありえないな」
これには九峪としても即答せざるを得なかった。只深の言うことはいちいち正しく的を射ている。
「そういう話になると、これは困ったことだぞ。半島で造られて売られたことは間違いないけど、大型船二十八隻は、一隻たりとも山陰の湊には存在していない。壱岐はすでにこっちの勢力下にあるし、その壱岐からも、坦馬に船団が入港したって情報はない。ほんとうに、どこに行っちまったんだ?」
「そうでんなぁ・・・・・・」
さすがの只深も、こればかりは皆目検討がつかない。只深は、九洲・山陰の湊事情をほぼ網羅するだけの情報通を自他共に認めているが、これほどまでに情報を集められないなどということは、いまだかつてなかったことだ。
「あっ、でも・・・・・・」
ふと只深が手を叩いた。何かを思い出したようだ。
「三隻だけ行方のわかっとる船がありますわ」
「どっ、どこだ!?」
「瀬戸内の海ですわ。逆水にしばらく浮かんでたところを、地元の海人が目撃しとったらしいです。まっ、海人いうても、そのときはちょうど乃小野が北九洲を制圧しとったころやけども」
「逆水ってぇと・・・・・・たしか壇ノ浦のことだよな。関門海峡を通って瀬戸内海に抜けたのか。なんだ、壇ノ浦の戦いでもやる気か?」
九峪の中で考えがいくつも浮かぶ。逃走する九洲方面軍を回収するつもりなのか、それとも他に狙いがあるのか。
「天目のやつ、ますます狙いがわからなくなるぜ」
あるいは、どこかに盲点があるのか。天目がというより、九峪は、自分自身がなにか大きな見落としをしているかも知れないと思った。
そして、その可能性のほうがはるかに大きい気がしている。
八月も終わろうかというころだ。薩摩半島の西南端に位置する湊町の坊津に、四隻の船が姿を現した。沖合い遠くに出現した四隻の船を発見した地元海人からの知らせで発覚したものだった。
四隻の船は徐々に坊津を目指して進んできており、潮風にゆれる船旗には見たことのない紋章が描かれていた。少なくとも、九洲に存在するどの紋章とも違っていた。
大型船であった。とはいっても、重然の竜神丸よりは小ぶりである。様式としては北山水軍の軍船に似ている。
海人の知らせを受けた駐屯兵と役人たちが坊津へと駆けつけたとき、ちょうど船は沖合いに停泊されて、小船が数隻ほど下ろされていた。
近づいてくる小船の船団を遠めに眺めながら、駐屯兵を纏めている部隊長が、手にしていた薄紙に描かれた紋章に視線を落とした。
そこにある紋章は、海上にたゆたう四隻の船を飾る旗の紋章と、まったく酷似している。部隊長は、ごくりと生唾を飲み込んだ。
「と、とんでもないことだ。・・・・・・とうとう来たんだ」
その紋章——三つ並んだ山の天上に日の丸を描いた『日天三山』は、紛れもなく琉球三大勢力——現在は二大勢力だが——が一つ、中山の誇る紋章であった。