佐多岬半島の最端湊として泗国と九洲を結んでいる三崎は、人口およそ三百人規模のさして大きくもない基地集落である。主な産業は漁業であり、一方で水軍が駐屯する施設としての機能も持っている。
亜衣を乗せた重然水軍旗艦の竜神丸艦隊も、三崎と国咲半島をよく行き来している。
北山の軍船が視界を流れていく様を、何とはなしに眺めていた亜衣は、近づきつつある湊へと険しい視線を向けた。
戦況やや不利という情報のわりには、穏やかな湊の姿をしている。
「さしたる異変も感じられない、が・・・・・・」
一人呟く亜衣は、この光景を目の当たりにして、本当に伊万里が謀反を考えているのか、ますますわからなくなった。
謀反を起こすとなれば、まず、周辺基地への根回し工作をしなくてはならない。少しでも動員できる兵力を確保するためと、情報の漏洩を防ぐためにだ。謀反の意思をもった基地には、どことなく陰険な雰囲気が出てくるものなのだ。
しかし、少なくとも三崎は、平穏なものであった。とても根回しがされているようには見えない。
——根回しに奔走する伊万里様というのも、想像できないんだけどな。
愚直で律儀一辺倒な人柄をしている。根回しの根の字も知らないに違いない。
「亜衣様。あっしらはしばらく、この湊におりますんで」
「わかった。ご苦労だった、重然」
手勢の兵士たちが、続々と下船していく。亜衣も船を下りる。
背後で騒ぐ声が聞こえて、何気なく振り向くと、重然と愛宕がじゃれあっているのが見えた。実際には、愛宕が一方的にじゃれて重然の邪魔をしているのだが。
「・・・・・・仲のよろしいことで」
人目を気にせずに戯れられる二人が、なんとなく羨ましかった。
「亜衣様が・・・・・・?」
「はっ。先刻、三崎の津にご到着なされました」
「件の援軍か」
部下からの報告を受けて、このとき丁度、佐多岬半島と大洲城の境にある砦に入っていた仁清が、亜衣率いる援軍の受け入れを担当することになった。
援軍の話は、すでに伊万里軍および斗佐軍の双方へ周知されており、大いに歓迎されるところであった。とくに、本土乱入の危機感の強かった斗佐方にとって、九死に一生を得る存在であったことだろう。
援軍の規模は兵三千だという。
——ついに来たな。
仁清には迷いがあった。伊万里の様子がおかしいことを、きっと亜衣は知らないはずだ。ましてや、伊万里が謀反の可能性をほのめかしているなどとは、それこそ知る由もないはず。
——いや、あるいは、すでに知っているのかもしれない。知って、わざわざ渡海したのかもしれない。
そう考えると、さしもの仁清でも、肝が冷え切ってしまいそうだ。
仁清が伊万里の様子をおかしいと感じて、そこから大出面国の者と通じているらしいと突き止めるまで、さしたる時間はかからなかった。というのも、伊万里と密通するために大洲城へ忍び込んでいた工作員を、こともあろうに城中で発見したのが仁清だったからだ。
しかも、仁清をしんそこ驚かせたのは、なんと伊万里をそそのかしている工作員が、かつてともに戦った乱波の真姉胡であったことだ。真姉胡の年齢は、おおよそ仁清と同じくらいで、少年のようだった真姉胡も、時の中でずいぶんと女性らしくなっていた。しかし、相変わらず髪型だけは、男のように短く刈っていたが。
忌瀬は九洲に残って耶麻台共和国とともに進む道を選んだが、真姉胡はひとり、九峪の元を離れて天目とともに中國へと渡っていた。天目のことはもちろん慕っているが、それと同じくらいに九峪のことも慕っていた真姉胡は、どちらにつくべきか散々に迷う、板ばさみの状況下で苦しみ悶えた。
それでも最後には、天目を主として進む道を見出した。そして天目が九峪と和睦し改めて同盟を結び、中國攻めを開始してからは、天目の元で乱波として大いに活躍した。
いまや真姉胡も、狗根国の鉄鼠や九洲のホタルのような、大出面国が誇る乱波衆『日天』の栄えある棟梁——ではなく、二十数人いる乱波の一人として、連日あちこち飛び回っている。
天目曰く、『お前は乱波として一流の腕を持っているのに、指揮官としては三流もいいところだからな』ということらしい。
その一流乱波である真姉胡も、まさか仁清に見つかるとは思っていなかったのだろう。逃げようにも仁清は乱波に近しい身体能力を有しているし、何よりも弓矢で射られるのが怖い。逆に仁清は、この状況下をどうまとめたものか、まよっていて決定的な動きがとれないでいた。
しばらく黙って見詰め合った二人は、ひとまず話し合うことにした。「何故ここにいる」「ちょっと野暮用で・・・・・・」そんな流れで始まり、ついに仁清は伊万里のここしばらくの異変が何であったのか、知るところとなったのだ。
昔の仲間を殺すことも躊躇われたからか、仁清は、ここで真姉胡を見逃してしまった。混乱していたというのもあった。これ幸いと真姉胡は逃走し、この日から仁清の苦悩は始まった。
伊万里が——・・・・・・? とうてい信じられなかったが、真姉胡がボロをだしたのだ。内部かく乱を狙った流言だとしても、伊万里の態度がそれを裏付けている。奥底に溜め込まれた伊万里の心の闇を仁清は知ってしまった。
悩みに悩んで上乃に相談すると、これがよくなかった。さすがに上乃も謀反という言葉に頭を抱えていたが、わりと早い段階で、
「そもそも九峪様がぜんぶ悪いんだしッ! これ以上、伊万里が苦しむことなんかないんだよ! 謀反でも何でもおこせばいいんだッ!!」
そうとう頭に血を上らせていたらしく、伊万里家臣団でもっとも地位の高い重臣筆頭からして、『裏切りも止む無し』という立場をとってしまった。
だが、上乃を謀反支持派とすると、仁清は反対派である。伊万里を拒絶した九峪にたいして好い感情はたしかにないが、だからといって伊万里に滅びの道を進ませたくもなかった。
謀反など起こしたところで、勝てる採算はなにもない。大出面国が後ろ盾になるとしても、かならず最前線で戦わされるのだ。ましてや裏切り者だ、耶麻台共和国にとって伊万里が最優先殲滅対象になることは明らかだ。
伊万里に謀反を勧めようとする上乃を圧し留めるだけで、たいへんな気苦労だと言っていい。振られたから謀反を起こしてむざむざ滅びるなど、笑い話にもならない。古今、愛情のもつれが引き起こす悲劇は多々ある。そこに伊万里も一例として加えたくはなかった。
そのような折に、本国から援軍派遣の打診があった。宰相の亜衣が出陣するという。これは大事だ。
仁清の悩みの深さを察する者はまったくおらず、伊万里も上乃もそろって正常な判断を下せるとは思えない。仕方なく、まずは自分が留まっている砦に迎えることに決め、大洲城の伊万里には追って報告することとした。亜衣入砦にいたる経緯はこのようなものだ。
砦は小さい。亜衣が仁清の守備する砦に到着しても、兵士たちは野営するしかない。亜衣以下数名の高官だけが、砦内部の部屋を使える。
大洲城へ行くまでの宿である。酒宴というほどまでは大きくもないけれど、とりあえず酒肴だけは饗された。なにしろ決戦間近という状況、贅沢などをしている余裕はわずかにもないのだ。
「西伊依は激戦区だと聞いていたんだが、思ったほど土地は荒れていないんだな」
亜衣の何気ない疑問に、仁清は即座に答える。
「この辺りは、そうですね。戦域はもっぱら、大洲城より東側になっています。大出面軍は依讃街道を主な軍道として利用しているようです」
「西伊依の地図は見させてもらった。そうなると、やはり伊万里様のいる大洲城が、最大の要地になるわけだな」
「だから、防衛の手はずを整えているところなんです。大洲城の陥落は、そのまま西伊依の戦線が崩壊することになると・・・・・・」
「斗佐本国へ侵攻する橋頭堡を天目などにやるわけにはいかん、ということだな」
「はい」
「斗佐からはどれだけの兵力が出されるんだ」
「ざっと三千だという話ですけど・・・・・・」
「三千か・・・・・・。いくら人口の少ない斗佐でも、まだ出せるはずだ。あと、一千、二千は」
「出し惜しみ・・・・・・?」
「そうは思えないが」と、亜衣は酒盃にうつる自分の顔を見下ろす。
「大方、本国を空にするのが怖いのだろう。大洲城を落とされてしまえば、大出面軍が大挙して押し寄せるぞ。一千二千の戦力でどうにかなるものではないのに」
斗佐国の最大動員兵数は、この当時でおよそ一万五千ほどになる。もちろんこの数字は、相当に無理な徴集をしてはじき出されるものだ。実働、七千といったところだ。
西伊依の戦線では斗佐兵も多く戦っているし、それ相応の被害も被ってこそいるが、亜衣のいうとおりまだ五千規模の兵員は投入できるだけの余力は残されている。
伊万里指揮の九洲軍がおよそ六千、北山軍が三千、そして亜衣の援軍三千を合わせても、その数一万二千となる。
大出面軍は、現在斥候が目視で確認しただけでも、こちらとほぼ同数の一万三千をすでに終結させているらしい。
「これでどんな戦いになるか」
と、考え込む素振りを見せる亜衣の脳裏には、敵方一万三千という数字が、やはり気がかりなものという認識があった。大出面国の動員能力がどの程度までか定かでないが、いくら斗佐への攻め口である西伊依でもこうまで戦力を傾けるものだろうか。
実数はあんがい少ないかもしれないと亜衣が考えるのは、敵が伊万里に対する圧迫を強める目的で、あえて規模を大きく膨らませる『見せ掛け』を行っている、という可能性があるからだ。
つまり、敵はあくまでも伊万里を懐柔した上で、その戦力を含めて斗佐へと攻める算段なのではないかと。その場合だと伊万里の動向次第によって、西伊依方面の戦況は劇的に変化する。
——やはり、鍵を握るのは伊万里様だ。しかし・・・・・・
伊万里が裏切りに前向きであるとしたら、これは由々しき事態である。その是非を問うために亜衣が来たわけなのだが、さて、するとどうやって伊万里の本意を探るべきか。
今回は、蔚海に従ったときとは事情が違いすぎる。大事なのは、本当に伊万里にその気があるのかどうか、一点だけである。
少なくとも、現状から推察するに、どうも伊万里は心を決めかねているらしい、ということだけが朧気に感じ取れた。唯一の希望だ。
一泊して、亜衣は明朝には大洲城へと向け進軍を再開した。さほどの距離があるわけでもなく、翌日の昼頃にはもう城壁が見えるところまで接近できた。
亜衣から見ても、大洲城はりっぱな城郭であった。山野に囲まれているために城壁の高さも街の広さもこじんまりとしているも、自然を利用した反天然の要害といった堅牢さを物語る造りが随所に見られる。
西伊依最大の城砦とはよく言ったものである。防備の面だけを言えば、伊万里が建造指示をくだした県都、波羅稲澄城よりずっと機能的であった。
大正門から入城をはたした亜衣以下一百騎を出迎えたのは、伊万里の直臣たちであった。上乃の姿もある。裏表のない性格の上乃だ、非常に不味い顔をしている。
亜衣の眼は見逃さなかった。
——やはり、何かあるのか。
疑惑はますます膨らむばかりで、否定したい気持ちを下へ奥へと激しく追いやる。なぜ上乃は、あんな気まずそうな表情を浮かべるのか——。
どうやら事態は、亜衣が思っている以上に、不穏な雲行きに包まれているらしい。
援軍来着に軍全体の指揮が上がっていくにも関わらず、伊万里も亜衣も、上乃も仁清も、誰も彼もが心に暗い闇を抱え込んでいる。
軍議の開催は一先ずとして、ここでも酒宴が開かれることになった。いくら伊万里でも、宰相であり友人でもある亜衣が参上したとなれば、出席しないわけにはいかない。司令官である伊万里が塞ぎがちで酒宴も長いこと開かれていなかったせいか、この夜ばかりは諸将も浮かれ酔いに気分を盛り上げている。
伊万里は簡素な麻服という非常に軽い格好をしている。亜衣は、赤色がまぶしい呉服を着ている。前線司令官と行政責任者という立場の違いがよく現れた格好だ。
「まさか、亜衣さんが援軍で来てくれるとは、思ってもいなかった・・・・・・」
ちびちびと杯をあける伊万里が、亜衣のほうを見ずに呟き程度の小声で言う。
「亜衣さんもいまや宰相だものな」
「宰相といっても、必要とあれば兵を率いて戦います。かつて蜀漢の丞相諸葛亮は、私と同じ地位立場にありながら、出師の表をもって五丈原へと三度出陣したといいます」
「そういう話は、私にはよくわからないよ」
あまり読書や勉強というものが好きじゃない伊万里に、大昔の出来事をまとめた故事や古典などの話をしても嬉しがらない。
そんなことは亜衣もよく知っている。
「たとえ話として挙げただけですので、さして気にお留めいただかなくても結構ですよ。まぁ、たしかに、私までもが泗国へ赴くことになるとは思っていませんでしたが」
これは本音であった。すっかり内政への決意を固めたところへ、まさかまさかの出陣令だったのである。望外の喜びではあったが、いささか面食らった感は否めない。
「亜衣さんは、泗国へは?」
「今回が初めてです。長戸へは何度か足を運んだこともありますが、何分、復興軍が挙兵する以前です」
「そうか。・・・・・・私は、この年になるまで、九洲だけがすべてだったよ。琉球へ送られた上乃がどんな気持ちで戦い、逃げ帰ってきたのか、考えただけでも苦しくなる」
言うと、伊万里は歯噛みした。琉球出兵からどうもこちら、上乃の性格がますます好戦的になったような気がする。それだけ、命の危険が大きい戦いだったのだろう。
再会した上乃は、全身が傷だらけだった。いまだに傷痕は残されている。おそらく消えはしないだろう。
他国異国での戦いについて話す伊万里の声調子が重い。
「もう、ここで戦うのは厭になりましたか?」
「・・・・・・正直なところ、そうかもしれない。すこし疲れたのかも」
瞳を俯かせたまま伊万里は、酒瓶を取って二度三度と矢継ぎ早に杯を満たしては干していく。まるで自棄酒のような飲み方をするので、それだけでも亜衣は気分のいいものではなかった。
——相当、精神的に追い詰められているのかもしれない。
律儀な伊万里をここまで追い詰めるということは、それだけ迷わせているということだ。一体どのような条件を出されているのか。
伊万里がこうまで苦しんでいる。状況だけ見れば、これはもう間違いなく、大出面の間者が伊万里と接触していると見て間違いはなさそうだ。ただ、やはり自分で証拠を見つけ出さないかぎり、信じたくない気持ちも亜衣には強く響いていた。
伊万里が、愚痴をこぼし始めた。これも珍しいことだった。悩みを抱え込む性質だからだ。重大な事柄は口にせずとも、やれ小競り合いが多いだの、やれ輜重が滞るなど、細かいことまではもう抱えきれなくなっているようだ。
暗い影を落とす伊万里を横目に、亜衣も、酒を干す。
——これは、猶予はないな。単刀直入に問いただしたほうが、かえっていいかもしれない。
言い合いでの駆け引きは亜衣の得意とするところだ。この際、洗いざらい聞き出してしまおう。
宴もたけなわといった具合に酔いつぶれる者が出始めた頃になって、ほどよく酔いの回った亜衣が、一足先に宴を辞した。
伊万里と並んで主賓の亜衣がいなくなったことで、自然的にそれぞれ自身の部屋へと戻ったり、潰れたものを介抱しながら、一人また一人と姿を消していく。
そうして、いつしか宴の惨状荒々しい広間には、伊万里と上乃の二人だけが残された。
上乃は酒瓶をかたてに立ち上がると、のらりくらりと緩慢な足並みで伊万里の側へ近寄り、やはり鈍い動作で腰を下ろした。
一杯、干す。
「・・・・・・本当に来たね」
「うん、そうだな・・・・・・」
「いざその日が来ると、緊張しちゃうよ」
「相手が相手だしな」
抑揚なく伊万里が応える。
酔っているのかどうなのか、上乃にもよくわからないほど、まるで能面のように伊万里には表情がない。この顔を上乃は見たことがあった。琉球で戦っていた北山人や九洲人たちと同じ顔だ。疲れたあまりに感情が抜け落ちたかのような、気味の悪い表情だ。
上乃自身も、当時はきっとこんな顔をしていたのだ。そうして、誰も彼もが、音羽や遠州も、おかしくなっていったのだ。ただ生きたいという思いだけを一つにして。
上乃は酒瓶をおいて、疲れた伊万里の顔を見やる。
「どうするの? もう、時間はないよ」
「ん・・・・・・」
「・・・・・・裏切る?」
放たれた一言に、伊万里の挙動がそのいっさいを止めた。
「亜衣さんがいる以上、あまり悩んではいられないんだからね。きっと亜衣さんのことだから、すぐに感づくかもしれないよ」
と、そういう上乃であるが、仁清のように『すでに感づかれているかも』という可能性までには気づけなかった。
伊万里は、悩んでいるのか、よくわからない。
「寝返るんなら、亜衣さんは捕らえなきゃならない。九峪様に伝えられても困るし」
「・・・・・・まだ、考えさせてくれ」
「大出面が攻めてきてからじゃ、遅いんだからね!」
「わかっている!」
詰め寄る上乃に向けられた言葉は、とても語気の荒いものだった。ビクッと、上乃は身体を強張らせた。しまったと我を取り戻した伊万里が、すまないと一言だけ謝る。
上乃は俯いて、酒瓶の注ぎ口からそのまま酒を飲み込んでいく。いわゆるラッパ飲みというものだ。どんどん角度をつけていき、完全に中身がなくなったところで、酒瓶を放り投げた。放物線を描いた酒瓶は、壁にぶつかって無残に砕け散った。
二人は、しばらく無言のまま、そこにいた。
「・・・・・・お前は、いいのか」
やがて、伊万里がぽつりと言葉をこぼす。
「言いのかって・・・・・・仕方ないよ、私は。九峪様にはムカついたし」
「そうじゃない」
「じゃあ、なにさ」
「遠州さんのことだよ」
「——ッ。そっ、・・・・・・それは」
咄嗟に、上乃は何も応えられなかった。
上乃と遠州は、婚約している。恋愛から発展した婚約だ。
「私が寝返ったら、お前・・・・・・遠州さんと戦うことになるんだぞ。わかってるのか」
「それは、そうだけど」
口ごもる上乃に、詰問してくる伊万里を跳ね除けるだけの言葉がひねり出されるはずもなかった。
——遠州と敵同士になる。
それは、いままで上乃が考えなかった・・・・・・あえて考えないよう目を背けていた事実だ。もともと思慮などない上乃には、今回の寝返り話にしたってほとんど感情と勢いに任せている節がある。都合の悪い部分はよく考えず、むしろ考えないようにしていた。
伊万里は、そういうわけにはいかない。
言葉ない上乃に、伊万里はため息をついて、
「考えさせてくれよ」
と、それだけを言うので精一杯だった。もう、上乃は反論しなかった。
ほどなくして、上乃がその場を離れていく。残った手元の酒を飲み干して、伊万里も自室へと引き上げる。片付けのために下人が数名やってくるまで、誰もいないはずの場所から、さらに一人の気配がかき消された。
「——以上が、伊万里様と上乃殿の会話の全貌になります」
と、そう亜衣を前にして言うのは、西伊依方面で暗躍するホタルの一人、愛染である。清瑞が九峪たちに開陳した文書を書いたのも、他でもないこの愛染である。
ここは、亜衣に与えられた寝室である。そこで亜衣はホタルの愛染より、広間で交わされていた伊万里と上乃の『密談』を、口頭で愛染に話させていたところだ。
愛染からの報告を聞いていた亜衣は、始終目をつぶっていた。酒に火照った頬が赤い。しかし、頭脳ははっきりと愛染の言葉を認識し、整理している。
話し終えて黙り込む愛染は、身動き一つとらない。四半時も、亜衣は無言のままだった。こちらも、身動き一つとらなかった。しかし、「そうか・・・・・・」と呟き、ようやく顔を上げた。
「ご苦労だった。ついでに、その内容を書簡にまとめてくれ。まとめたら、私のところへ持ってくるようにな」
「はっ。かしこまりました」
恭しく一礼して、愛染はしずかに亜衣の部屋を辞していった。さすがというべきか、戸を閉めた途端に、足音一つ残さず、まさに消滅するようにその存在を消し去った。
「・・・・・・これで確定してしまったか」
悔しさを隠すことなく、亜衣は文机に拳を激しく叩き付けた。
疑惑が真実へとなった瞬間、言い知れぬ怒りが亜衣の心をかき乱す。
「伊万里様・・・・・・ッ。なにを馬鹿なことを考えているのですかッ」
どうしたって馬鹿なこととしか思えなかった。伊万里が辿ろうとしている——否、辿るかもしれない道は、明らかに滅びねの下り坂である。亜衣には正気の沙汰とは思いづらかった。
信じたくない気持ちと、信じなくてはならない気持ちが入り混じって、もう亜衣は頭を抱え込むしかなかった。
ただ救いとなるのは、やはり亜衣の読みどおり、まだ伊万里は決心しかねているらしいとのことだけだ。厳密には、まだ伊万里は裏切るつもりにはなっていないということだ。
「伊万里様を裏切らせるわけにはいかない・・・・・・」
亜衣にとっても伊万里は友人である。他者よりももっとも親しいから、親友と呼んでもいいかもしれない。とにかくそんな人物を敵に回したくはない。蔚海のときでさえ、そうだった。
あのときはまだよかったのだ。伊万里は嫌々したがっていただけで、人質を救出してからはすぐに戻ってきてくれた。だが今回、もしも伊万里が寝返りを敢行してしまうと、もうすべてはお終いである。
蔚海のときは許されたが、二度はさすがに許せない。許してはならない。それでは藤那を赦免したとき以上に、処罰を軽んじることになる。藤那だって、あれ以降、反乱する素振りを見せすらしない。
討ち滅ぼすか、降伏してきても処刑するしかなくなる。助けるという選択肢は、もはやどこにもありはしない。
それくらい、いくら伊万里でもわかっているはずだ。
「いったい、本当に、どうしてしまったと言うのですか・・・・・・」
拳の痛みがじわじわと広がっていく。しかし、心も痛かった。
裏切るような人ではない。それも二度も!
伊万里の優しさを亜衣はよく知っているし、愚かなまでに真っ直ぐな人物であるとも知っている。物欲にかられることもなく、それゆえに味方を陥れてまで誘惑にのることなど、断じてないはずなのだ。
そうでなければ、亜衣とてここまで悩みはしなかった。
自身の右手の平を見つめる。この右手には、はじめて二人が心を通わせた瞬間の思い出がある。あの、伊尾木ヶ原での戦いおける思い出が——
「なんとか・・・・・・なんとしても、説得しなくては・・・・・・」
時間はない。しかし、やるしかない。
亜衣は、痛む右手を握った。友情に応える決意が、そこにはあった。