亜衣の到着をもって大洲城では連日軍議が開かれた。主将の伊万里が絶不調の極みにあるもとで不安を抱いていた諸将にとって、智将としても名を馳せた亜衣の参戦はいたく心強いものだった。
「なんと・・・・・・敵兵力の実数は、一万にも満たないですと!?」
伊万里は以下の武将が、思いもしなかった亜衣の考えに声を上げた。
「可能性としては。あくまでも可能性の話だ。兵力の集め方が遅いし、どうにもおざなりに思えてならない」
と、亜衣は言う。拠点攻略へ向けた軍勢だとしても、兵力集中があまりにも中途半端な印象が強いのだ。
「しかし、すでにそうとうな規模の野営を行っているのですぞ。事前の調べでも、敵勢およそ一万八千。そこかしこで立ち上る湯気の数、はなはだ尋常にあらず」
「それに、幟の数もおびただしく、太鼓や銅鑼の鳴りようなども、万軍のそれに相応しい」
「煮炊きの煙などはどうにでもなる。幟だって兵を集めるよりもずっと簡単に集められるし、銅鑼や太鼓だって一千人にでも叩かせれば万軍の音色となる」
「で、では、やはり・・・・・・」
一気に叩きのめせる——そう逸る武将たちに、亜衣は冷静になって釘を刺す。
「勘違いするな。期待を込めて一万以下だ。今のまま打って出たところで、手痛い反撃を受けることは十分にあり得るぞ」
「むっむむ・・・・・・」
「まだ、時期尚早だということだけは、忘れるな」
諸将へむけてそう注意する亜衣は、首を伊万里へと向ける。
「伊万里様、まずは準備を進めつつの現状維持を進言しますが」
やや節目がちに、伊万里は頷いた。覇気がない。
亜衣は唇を噛んだ。だれも亜衣の心情を察していない。
各自がそれぞれの部署へ戻り、亜衣も伊万里も、それぞれ軍議の間を辞していく。亜衣の気持ち、伊万里の気持ちと同じように、軍全体もまた重い鉛をぶら下げられ、何もかもが鈍かった。
——夜虫の転がす鈴音色 さてもさても思わんや 踊りゃほたるの慰めじゃ ほりゃ慰めじゃ
厠で小用をたして自室へ戻る通路を歩いているとき、聞き覚えのある声に乗せられた聞きなれぬ唄が、とっぷりと日が沈んだなかで亜衣の耳に届いてきた。
どこから聞こえてきたのか、それはよくわからないが、さして遠くもなく、さして近くもない。ただ上から聞こえてきたような気がして、眼鏡を押し上げつつ亜衣は天井を見上げた。一階層上の楼路から、聞こえているのかもしれない。
——畠に蒔いた種が出る 穂をば実らせ実をば採る こりゃ神さんからの贈り物じゃ
「これは・・・・・・」
聞き覚えのある節と拍子。
一階層上へと上がる階段を目指し、一段々々上って行くと、声の聞こえてきた場所へと足を向ける。夜風にまかれた唄が静かに踊っている。
やはりと亜衣が思ったように、欄干に手をついた姿勢の伊万里が、何もないはずの宙を見つめて口ずさんでいた。寝巻き姿でいるところを見ると、もうあとは就寝するばかりなのだろう。
——丁度いい。
いま、闇の回廊にいるのは亜衣と伊万里の二人だけである。他に人と思しき姿は見受けられない。あるいは誰ぞの——それはホタルか敵の乱波か——忍ぶ気配があるかもしれないが、そこまで亜衣は知らない。ただ、この瞬間はまたとない絶好の機会だということだけを感じ取れる。
「伊万里様」
数歩近づいて、優しく声をかけた。ごく、自然に、親しみを込めて。
唄の節が止まった。伊万里に驚いた様子はない。亜衣の存在には気づいていたのだろう。
「こんな夜更けに、眠れませんか?」
「うん・・・・・・そうかもしれない」
「いまの唄は?」
「聞いてたのか・・・・・・。故郷の、県居の里の田舎唄だよ」
県居の里で昔から唄われて来た謡である。畑仕事の掛け声だという。
亜衣へは一瞥をくれただけで、伊万里の視線はずっと夜空へと向けられている。答え方にもどこか鈍さが感じられてならない。むかし九峪を襲った心の病に近い性質が、べたべたと伊万里の身体にまとわりついているかのようだった。
人間ならばだれしもが、このような状態に陥る可能性は大いにある。亜衣にだって、無論のことだ。しかしこと九峪や伊万里など性根の優しすぎる性格をしていると、とくに陥りやすいのだろう。
亜衣の目から見ても伊万里の相貌には精彩さが欠けているのがよくわかる。萎れた細長の眉には、以前のように凛とした美しさがない。眼の奥も暗い。
伊万里の視線の先を亜衣も追った。月の出ていない空には、雲間に見え隠れする星々の煌めきだけが映えている。伊万里はこれを見上げていたのか。ただ亜衣には、そうではないような気がしていた。何も見てなどいないのかもしれない。
すこしだけ亜衣は悩んだ。悩むというよりは、迷っている。九峪のときと同じように接するべきなのか、そうなのか。もしも九峪の心を持ち直すのと同じにするならば、それは決定的な要因——当時としては枇杷島のような圧倒的な存在感——をもって伊万里の心を奮わせなくてはならない。そんなものが果たしてあるのか、それは一体なにものであるのか、それが亜衣にはとんとわからなかった。
無言のなかで亜衣があれこれと考えを巡らす傍らで、伊万里はさして気にも止めず夜空を見上げている。亜衣は、横顔を見やる。
——いや、伊万里様に小細工はいらない。
そう、思えた。たとえばこれが敵方を調略するためであるならば、あの手この手を使うべきであろう。しかし、ここは友として、誠実に真意を問いただすべきだと思い直した。
信じたいのだ。そのためにこそ小細工を労したくはない。また労するべきでもない。
「——お伺いしたい議がございます」
胎を決めると張りのある声が出た。そのことが亜衣を勇気付けた。これならば、口ごもったりしないだろう——たとえどのような答えが返ってこようとも。
「これは、伊万里様の進退にもかかわる、とても大事なことです」
「私の今後に関わること・・・・・・?」
「はい」
神妙にして亜衣が首肯する。柄にもなく亜衣は緊張しているのを自らに自覚していた。伊万里の話す内容、出方次第によっては、二人はまたもや敵対することに——それももはや修復不可能なまでに決定的な敵となってしまうことを、あらためて強く意識せねばならなかった。
「・・・・・・何を言いたいのか、察しはついてる」
顔を俯けた伊万里が、ぼそぼそと応える。もしかしたら、亜衣が大洲城へ来た理由が援軍としてだけではないと、うすうす感づいていたのかもしれない。
「この大洲城にも、乱波が入り込んでるみたいだしね」
「お気づきでしたか・・・・・・」
軽い意外性だった。まさか伊万里に忍び込ませているホタルらの存在を知られているとは、さしもの亜衣でも予想していなかった。ただし、不思議なことでもない。伊万里は山人出身であり、乱波になるものの多くが山人系の人間が多いのも事実であった。
実際、伊万里配下の仁清なども、ほとんど伊万里直属の乱波のようなものである。
「仁清のやつがさ、きっと見つけてるんだろう。あいつの態度を見てればわかるんだ。・・・・・・最近のあいつは、城で私といっしょにいる間はずっと気を張り詰めている。私の周囲に乱波が潜んでいないか、気にしているんだよ」
「それは、主君を持つものならば少なからず、そのようなものです」
「違うッ」
それまで抑揚のない伊万里の一言に、いきなり断固とした響きが戻った。どこか硬質な性質に、亜衣はすこしだけ目を見張った。
「私の中に、邪があるからさ」
「・・・・・・自覚は、あるのですね」
「亜衣さんも、そのことで話があるんだろう? でなきゃ宰相のあなたがこんなところまで来るはずがない。私が信用できないから」
「・・・・・・否定はいたしません。たしかに私が渡海いたしましたのも、伊万里様のご存念を伺うべく、こうしてまかりこしました次第にございます。ですが、これだけは言わせていただきたい。なにも伊万里様を信じていないのでありません、信じたいからこそ参ったのです。私にとって・・・・・・もっとも気心の知れた友と呼べるお方は、伊万里様をおいて他におりませぬゆえ」
「私にかけられている疑いは、謀反なんだろう」
「残念ながら」
亜衣は否定しなかった。ここで誤魔化してもどうにもならない。開き直っている伊万里には事実を真実として語らねばならない。
「このこと、九峪様は知っているの?」
「承知に」
「九峪様はなんだって。なにか言っていた」
「お答えは一つのみ。・・・・・・『信じない』と」
「そうか・・・・・・」
一瞬だけだが、伊万里の瞳が優しげに緩んだ。存外に九峪に見捨てられなかったことが嬉しかったのだろう。
「私も、気持ちは同じにございます。失礼ながら、独自に身辺を検めさせていただきました。大出面の働きかけ、しかと確認しました。ですが、それに伊万里様が呼応することはないと、私も信じております」
「そんなに私は義理堅くみえてるってこと?」
おかしかったのか、伊万里はくすりと笑った。邪険な笑みに、ざわりと亜衣の心が逆なでられる。
伊万里には相応しくない、してほしくない笑い方だ。
「律儀さを九峪様はご信頼されているのです。無論、この私も、他の大勢のお方々も」
「・・・・・・そんなに言うほどだったら、こうして悩むこともなかった。買いかぶりだよ、それは」
「これが仮に藤那様であったなら、私も二、三の疑いを強めていました。私はここにおりますのが伊万里様であったから、その本意のあるところをお聞きしたいのです」
そう言い、亜衣は一呼吸を置いた。
「私は、伊万里様と戦いたくなどありません。蔚海にご親族を捕らえられその下に従われたときでさえ、必ずや我がほうに組していただけるものと思っていました。事実そうなりました。ですがもし此度、伊万里様に謀反の気配ありとなり、それが実しやかとなるならば、私は・・・・・・」
「宰相だからね・・・・・・。そう、なると思う」
「伊尾木ヶ原の戦前に互いの武運健闘を誓い、そしてまた当麻城でこの命お救いいただいたこと、忘れたことなどありません。あのころから、私は伊万里様と友になったと思っていました。そして、その思いのまま、ここへ参りました」
「友と思ってくれているなら、私についてくるっていう道もあるはずじゃないか」
「友であるがゆえに、その行く道を阻まねばならぬこともありましょう。伊万里様・・・・・・私は耶麻台共和国の宰相であります。伊万里様もまた、豊後一県の大公であり、王族大三公の御一角であらせられます。お互い、立場がございます」
「だからよく考えろ、と?」
「背いても、滅びるばかり。そのような道を歩ませるわけにはまいりません。この理、重々ご承知のはず」
そこまでものの道理のわからない女ではないでしょう——。亜衣は言う。伊万里とて豊後の統治者であるのだ。いまでは立派に民を慰め、兵を率いる大将である。わからねばならない時勢の駆け引きを誤るようでは、どちらにしろ長生きは出来ない。
伊万里は唇を噛んだ。
「わかっているんだよ、それくらいのことは。九洲の覇権を一度は手にした蔚海でさえ、最後は陶川の露と消えるのを見届けたんだ。ましてや私が背いたところで、それは辺境での乱心以外なにものにもならない」
伊万里の言葉はまさしくその通りであった。この泗国の西で背いたところで、本拠地はあくまでも豊後であり、この地には伊万里にとっての勢力的・政治的基盤は何もない。反乱を起こしたところで、それは一時のものにしかならない。よほど上手くことを運ばないかぎりは。
忘れてはならないのは、この地があくまでもまだ、泗国連合の土地であるということなのだ。伊万里は同盟軍として戦っているだけであって、どうこうする権限を持ち合わせていない。
それをわかっていながら、余計に亜衣にはわからなくなる。
「・・・・・・ならば、何を御迷いになっているのです。迷う理由など何もないはず。それとも、それほどまでに垂涎の条件でも出されましたか」
「それは・・・・・・」
伊万里が口ごもる。あの一夜の記憶を、亜衣に語ってもいいものか、わからなかった。
しかし、信じたいという亜衣の真摯な気持ちだけは伝わってきていたし、いつまでも自分の胸のうちにだけ秘めていても、胎膨るる想いだ。上乃や仁清などと共有していても、上乃は不満ばかりだし、仁清は黙して語らない。
誰かに聞いてもらいたいという気持ちも、たしかにあった。
「私は九峪様が好きなんだ。もうずっと昔から」
「それは、ええ、そうでしたでしょう」
傍目に見ていても、よくわかることであった。たびたび火魅子と張り合ってもいたのだ。奥手な伊万里としては大胆に攻めていたこともあった。それらも、いまは昔だが。
「それが理由なのですか?」
「私は、九峪様と結ばれたかった。そのためにあれこれと考えたこともあった。でも、もうそれすら、叶わなくなっちゃったんだ」
「・・・・・・その方法とは?」
「私は豊後の知事だから、今回のようなことでもないかぎり、波羅稲澄城を離れて生活することは出来ない。そして九峪様も同様、耶牟原城からは出られないだろう。だから・・・・・・関係さえ、持てばって」
「ややを身篭るおつもりだったんですか」
「赤ん坊さえ出来ちゃえばさ」
「それは、そうでしょうが・・・・・・」
「でも星華様に先を越されちゃったな・・・・・・」
悔しさを滲ませつつ、伊万里が言う。欄干を握る手に力が篭もっているのも亜衣にはよくわかった。よほど口惜しいのだろう。
その気持ち、よくわかる。そして同時に、辻褄があってきた。
「ああ・・・・・・そういうことですか」
「女王の夫だ。もう手出しは出来ない。九峪様にも・・・・・・その気はない」
「九峪様に、想いを打ち明けられて?」
亜衣の問いに、寂しげな苦笑を浮かべる。
「気持ちは嬉しい。でも、婚ぐわけにはいかない」
それが九峪からの返答だった。
——だからか。
亜衣の中で、どうして九峪があそこまで狼狽したのか、ようやく合点がいった。九峪には思い当たるところがあったということだったのだ。
おそらく九峪は責任を強く感じていたのだろう。そうでなければ、とても自ら乗り込もうとは言わなかったはずだ。その直前に亜衣が援軍として渡海する趣旨の要請を受けていなければ、きっと一も二もなく九峪はここ大洲城へ押しかけたに違いない。
想像していなかった理由に、眩暈すら亜衣は感じていた。顔を手の平で覆い隠し、夜空の天を仰ぎ見たかった。そんな衝動に駆られた。
まいったとしか言いようがなかった。ことは、亜衣の思う形とは明確に違うが、限りなく複雑な模様を呈している。何と言ってもその根幹にあるのは、男と女なのである。
古今はもちろん、自分自身でさえそうだったが、この手の問題は始末に悪い。亜衣も自分自身の蒔いた種を拾い集め、茂らせてしまった草を刈り取り、火消しに追われた過去を持っている。
ましてや伊万里など、一途に過ぎる女性であることを亜衣はよく知っている。その一途さたるや、決して火魅子や清瑞、そして自分に劣るものではない。頭が痛くなった。九峪を取り巻く女性の心配事は、もう清瑞だけで十分だ。
何より亜衣の困ったことは、すでに伊万里が意を決して行動に移し、そして見事に玉砕してしまった、いわば後の祭り状態であることだ。そして、伊万里はいまだに未練を残して燻ぶり、九峪も九峪で罪悪感にかられているという部分だ。
すべてが終わっているのに、これ以上どうしたらいいのか——もともと恋愛には疎い亜衣にわかるはずもない。
「し、仔細は、まあ大体わかりました。しかしそのような経緯と、謀反の誘いに乗るということは、別問題ですよ」
「わん、わかってる・・・・・・だから、私も苦しい」
悲しげに伊万里がため息を零す。
「亜衣さん・・・・・・私は我がままを言ってるかな」
「そりゃあ・・・・・・」
口ごもって、亜衣の言葉が次を出さない、何を言えばいいかわからなかった。不用意な言葉は傷つけないか、取り返しのつかない言葉ではないか。
しかし、すぐに亜衣は気持ちを改めた。いや、どうなっても、真摯な気持ちには真実の言葉を向けねばならない。伊万里は赤心を剥き出しにしている、ならば自分も赤心を剥き出しにして、語り合わねばなるまい。
「——恐れ多くも、言わせていただけるなら」
「うん」
「餓鬼の我まま以外、何ものでもありません。少なくとも私から見れば」
突き放すような亜衣の言葉に、伊万里は一言も返さず、ただじっと亜衣の顔を見つめた。
「私はずっと以前から伊万里様のお気持ちには気づいておりました。その思いの丈も、決して生半可なものでないことも。ですが・・・・・・今の伊万里様は、ただ癇癪を起こしているだけに他なりません。九峪様へのあてつけにしか、私には見えないんです。自分を受け入れてくれなかったから、だから裏切るのだと。まさに子供の癇癪と違うところがありましょうか」
「・・・・・・耳に、いたい」
「伊万里様は、もうおわかりなのでしょう。だからこそ迷っておられるのでしょう。自分の癇癪のために、他の人々を巻き添えにしてもいいのかと。そんなことが許されるのかと」
「・・・・・・ふふっ。やっぱり胎のうちを探らせたら、すごいな」
自分自身でも見えていない、見ようとしない本心を暴かれて、苦痛の表情を伊万里が浮かべる。あえて考えなかったことの苦しみを、これでもかと抉られているかのようだった。
それだけ、亜衣の言葉は重かった。そして、核心をついていた。
伊万里自身を苦しめているのは、他でもない、伊万里のもっとも美徳とするところであろう他者への優しさである。伊万里は自分自身の想いを優先させようとする一方で、上乃や仁清のことも決して忘れはしていない。領民や、友人らのことも。
見捨てられないのだ。だから二の足を踏んでしまう。
そんな伊万里でなければ、亜衣も九峪も、ここまで信じなかっただろう。
「お辛い気持ちは、私にもわかります。結ばれぬ辛さというものは・・・・・・」
「そういえば、亜衣さんにもおかしな噂があったよな。・・・・・・もしかして」
はっとしたように伊万里が瞳を大きく広げる。もはや隠し立てするつもりのない亜衣は、素直に頷いて肯定した。伊万里はますます絶句した。それこそ、想像していなかった。
「じゃあ、亜衣さんも・・・・・・九峪様のことを・・・・・・あの噂って」
「真実です。私は——阿蘇に隠棲なされた九峪様のもとへ通い、逢瀬を繰り返しました」
そういう亜衣は自嘲の笑みを浮かべる。
「ですから、本来ならば私も、あまり伊万里様のことを強く言える立場ではないんです。その節は方々に迷惑をかけてしまいましたから」
「で、でも・・・・・・だって、星華様は! その準備だって亜衣さんがッ!」
「つまりは、そういうことです。結ばれぬ苦しみ、火魅子様と九峪様のご婚儀の支度をする虚しさ——厭と言うほど噛み締めました」
「そっ、——そんな・・・・・・」
よほど心理的な衝撃が強すぎたのか、すっかり言葉もなくなった伊万里の肩が、がくりと力なく垂れ下がった。よもや目の前の友が、自分と同じように九峪を慕っていたなど、考えすらしなかったのだから無理もあるまい。
茫然自失とまではいかないものの、似たようなものか。その姿はどこか以前までの自分と重なるような気がして、亜衣としても心地はよくなかった。
今の伊万里へ向けるべき言葉などあるだろうか。亜衣は考えて、考えないことにした。もうここまできたら、ありのままを話そう。
「でも、今はそれでいいと思っています」
「えっ・・・・・・?」
よくわからないと、伊万里の瞳が揺れている。辛うじて、焦点が定まった。
「なにが、いいって・・・・・・」
「結ばれなくてもです。結ばれなくても——九峪様と添い遂げられなくても、私はかまわない。いまはそんな気持ちです」
「ど、どうしてさ。だって、九峪様のことが、その」
口にすることを躊躇っている伊万里に、にこりと亜衣が微笑む。
「はい、好きです、愛しています。その気持ちは変わっていません。今でも私は九峪様を心からお慕い申し上げています」
冷静で理知的、ときには冷酷でさえある亜衣の、いっそ似合わない明け透けな言葉に、またもや伊万里は言葉を失った。おそらく伊万里の知っている亜衣の表情の中で、もっと自然で、それでいて柔らかい微笑がそこにはあった。
しかし、そうまで言うのだから、やはり伊万里には納得できなかった。ならばなぜ諦めるのか。諦めて、それでも慕い続けて、どうしてそれでいいなんて言えるのか! わからない!
「亜衣さん・・・・・・わたし、あんたがわからない」
「そうでしょう。以前までの私がいまの私を見ても、きっとそう思ったでしょう。・・・・・・伊万里様、私は、自分なりの答えをようやく見つけたのです」
それが今の亜衣のすべてといっても過言ではないかもしれない。長いこと悩みに悩み、出口の見えない迷宮に入り込んで、闇の中をひたすら手探りで求め続けたさきの光が、ここに存在するあいという存在の集結であった。
言わねばならない。そう思うのは、自分の気持ちをなぜ伊万里に伝えねばならないのかということではなく、同じ男を好いた者同士の責任であるからだ。
いまや亜衣の中に、伊万里の謀反の疑いを正すことなど、二の次となっていた。それらの問題の根幹が邪魔をするなら、亜衣は、それを解決したかった。伊万里に解決させねばならなかった。
ただそれだけだった。
「どうするべきなのか、どうしたらいいのか、私もわからないままただ闇雲に走り回りました。その想いはいつしか暴走をはじめ、自身でも抑えきれなくなっていき、方々に迷惑をかけてしまい、ついには彩花紫に利用され、そして蔚海の台頭する隙を生んでしまった・・・・・・。古今、このように浅ましい宰相がいたかと思うと、情けなさに打ちひしがれることもありました。それでも・・・・・・九峪様を想うことはやめられませんでした」
やめられなかった、という一言が、ぐさりと亜衣の胸に突き刺さる。これは伊万里にとっても共通するものだからだ。伊万里もまた、九峪を想う気持ちを棄てきれずに、悶えている。
そのためであろう、次第に亜衣の言葉に引き込まれるのを伊万里は自覚していながら、抗う気持ちにもなれなかった。どうしようもないほど、亜衣の言葉は染み渡っていくのだ、伊万里の中へと。
亜衣は語りながら、これまで歩んできた、想う自分自身の姿を思い出されていた。思い出したくない記憶もあった。日々があった。しかしそれらの上に今の自分がいる以上、無視することも出来なかった。記憶は勝手によみがえっていく。
「結ばれることなど出来ない、そう見切りをつけたのは、私のほうが先でした。私は宰相ですから・・・・・・諦めないといけなかったんです。そしてそのために、積極的に火魅子様と九峪様のご婚儀を取り仕切り、これをもって断ち切ろうとしました。——しかし、それでもなお」
「諦め切れなかった・・・・・・?」
「はい、お恥ずかしながら。むしろ想いは膨らむばかりでした。そしてまた愚にもつかない事をしてしまい、醜態をさらしました。そのときに思ったんです。私は何がしたいのか、何になりたいのか——九峪様と、どのような関係を築きたいのか。そうして、私は悩んだ末に、薄らぼんやりとではありますが、なんとなく、見えてきたんです」
「それが、答えだったの?」
「実は・・・・・・火魅子様が、九峪様のお子を身篭られました」
「・・・・・・えっ」
またしても、伊万里は言葉を失った。今度という今度こそ、失った。呼吸さえも、止まった。
その様子さえ、まるで自分のようだと、亜衣には感じられた。
「え・・・・・・えっ、えええぇぇッ!?」
「驚きますよね、普通は。ええ、わかります、そりゃあ驚きますよ。私も驚かせられましたから。ああそうでした、心底びっくりしました」
「くっくっ、九峪さまの、子供が・・・・・・へえああッ、星華さまがッ、九峪さまぁ」
もうここまでくると、腰から崩れてしまうのではと思えてしまう。亜衣のこと、子供のこと、意外すぎる事実の羅列に、立っているのもやっとかもしれない。謀反の苦しみなど、もうない、それどころじゃない。
「ほ、本当なの!?」
「間違いありません。ご懐妊です」
「そ、そんなぁ・・・・・・」
「しかしそのことが、私の心を決したのです」
そう、それなくして、亜衣が暗闇の迷宮から脱することなど、未来永劫できなかった。
亜衣は、ここに自分が辿りついた答えを、なんとしても伊万里に伝えたかった。それは、決して伊万里が辿る道ではないかもしれないが、しかし言わずにはいられない。
伊万里の動揺が治まるのをまつ。伊万里も平静を徐々に取り戻すと、すがりつくように亜衣の言う答えを待った。亜衣は、視線を伊万里の瞳に合わせ、逸らさない。
「私がどうするべきか。私はどうしたいのか。大事なのは、いいですか、伊万里様、大事なことは、自分自身と向き合うことでした。私は、九峪様のお力になりたい、役に立ちたい、ただそれだけでいい。そして火魅子様をお守りしたいという気持ちを大事にし、そのお二人の間に生まれた子供を、生涯かけて守ろうと。お二人が見守る九洲の民ともども守ろうと。——私にとって何よりも優先されることは、九峪様と火魅子様を大事だと思う、この気持ちを忘れないこと。すべてはそこからはじまり、そして完結する。それに——」
ここから先の言葉を、万感込めて亜衣は言う。これこそが、心理である。報われぬ愛の、貫き通す術がそこにはあった。
「私は私なりの方法で、九峪様を愛し続けます。お慕いし続けます。誰が何と言おうと、こればっかりは私にもどうにもできないけれど、想う気持ちは自由なのだと気づいたのです。火魅子様は自分なりの愛を貫かれた。ですから私も、私のやり方で愛するのです。そうすれば・・・・・・たとえ関係を築けずとも、心で結ばれることは出来ます」
「こころで・・・・・・結ばれる」
うわ言を繰るように伊万里が反芻する。聞いてしまえば、それはとても簡単なことのように思えた。しかしそういった考え方がいままで自分の中になかったことにも、少なからぬ衝撃があった。
——私は、九峪様とどうなりたい。私なりの愛し方って、いったい・・・・・・
すぐに出るような答えではない。亜衣だって長い時間をかけてようやく辿りついた心理なのだ。まだ今の伊万里には見出すことは不可能である。
しかし、芽は出たはずだと、すべてをさらけ出した亜衣は確信できた。
今日はここまでにしておこうか。あまり多くを語りすぎても意味はない、ちょうど風も出てきた。伊万里を1人にさせてやろう。
「件のお話は、また後日にいたしましょう。・・・・・・伊万里様」
「・・・・・・うん」
「では、失礼します。風邪など召しませぬよう。またいつか、故郷の歌をお聞かせください」
一礼を深々と下げ、亜衣は自室へ戻った。夜の回廊に、伊万里は一人で佇み、亜衣の姿が曲がり角へ消えた途端、膝から崩れた。しばらく、座り込んだまま、動かなかった。