「千五百か・・・・・・」
軍議の間、床机を挟んで対面に跪く男へと視線をむける亜衣が、それは重いため息をこぼした。一座、武将たちも、何も言わない。
男は斗佐側の将校であり、斗佐王叶の側近を務めている重臣でもある。大洲攻防の協議の中継ぎは、すべてこの男が執り行っている。
跪く男が、顔を上げる。
「おそれながら、それ以上を動かすことは出来ないと、王は仰せにあられます」
「どうしてもか?」
「王の仰せになります。某が君の言を覆すことはありませぬ」
「一千二千などと贅沢を言うつもりはない。せめてあと五百は出してくれないか」
「五百でありますか」
「それでいい」
「・・・・・・王に、御注進してみましょう」
逡巡したのち、深々と男が頭を下げた。大洲城攻防の重大性を認識している証の逡巡であった。亜衣は真剣な表情で「たのむ」と王への説得に念入りの期待を込めた。
——やはり斗佐の人口では、兵力にも限界がある。
わかりきっていたことだ。いたことだが、やりきれない。斗佐の人口は少ない。山に囲まれ、辺境の地と呼んでいい。古来から斗佐人はその風体風俗のあまりの違いさに、一種の異人種とみなされたほどで、現在でも少数民族的な色合いが強い人々である。
斗佐兵は、帖左の泗国征伐時代に自らを称して『一人二人力』と誇るほど、地力こそ一兵で狗根国兵二人に相当するなど勇猛にして果敢なれども、いかんせんあまりにも数が少なすぎるのが問題だった。
大いくさに持ち込まれれば、どうしても少数が劣勢となる。斗佐最大の弱点だ。これは同時に、同盟軍への援軍も満足に送れないことを意味していた。
「増援がわずかに千五百とは・・・・・・」
「これで我がほうの戦力は、およそ一万二千になりますな」
「いや、これだけ揃えたのじゃ、心配はいるまい。亜衣殿の見立てが正しければ、敵の実数も万に達してはおらぬはず。勝ちを手にするも十分だと思う」
諸将の意見は千差万別であった。上は楽観する者から、下はそれでも心配する者。亜衣は嘆息するしかなかった。
せめて敵戦力の正確な数字がわかれば・・・・・・
野戦ほど危険な戦いもない。少数が大軍を翻弄し、時には圧倒し、ついに潰走へと追いやり、最後には完膚なきまで叩き潰せることを、他でもない九洲の武将たちは九峪の下で経験し実践し成功させ知っている。
数の優劣に過信しすぎるのはあまりにも危険なのだ。
では大洲城へ篭城してはどうかと言えば、これも難しい。まず、兵糧の問題がある。一万云千の兵と民を養うだけの蓄えがない。戦うならば、野戦で一気にけりをつける必要があった。
それに・・・・・・亜衣としては、さっさと敵の部隊を潰してしまいたいのだ。そうすれば、伊万里だって謀反など起こす気にはなれない。いま亜衣がもっとも怖れている事態が、伊万里が敵部隊と呼応してしまうことだった。
いま、伊万里は軍議の席に出てきていない。体調不良で療養中だとしている。おかげでここしばらくの指図はすべて亜衣が取り仕切っているようなものだ。
——伊万里様のお気持ちさえ、決してくださればな。
人の歴史は繰り返しの連続かもしれない。ふと亜衣の脳裏に、当麻城の戦いの記憶がよみがえる。伊万里に救われたこの命をもって、今度は自分が伊万里の助けとなりたい。伊万里の決意する瞬間に居合わせた者として、こんども信じずにはいられない。
いくさの気配が、じりじりと蒸し暑い西伊依に立ち込めている。
上乃を『良く出来た妹』と思っている人間は少ない、しかし少なくとも、『非常な姉想い』だと優しい眼差しで見守る人間は伊万里家臣団には数多くいた。日常のなかでむしろ義姉である伊万里を振り回しては困惑させるじゃじゃ馬であるかもしれないが、きっと誰よりも伊万里のことを大事に思っているに違いなかった。
思い切りの良さも上乃にはある。すでに上乃は、伊万里の心に寄り添う決意を固めている。もしも伊万里が耶麻台共和国——ひいては九峪へ反旗を翻しても、まず上乃が自慢の薙刀を振るって勇戦敢闘するであろう。
ひとつ心残りがあるとすれば、それは遠州のことだ。遠州とは婚約者という間柄でもあり、密かにいつ婚ぐかという淡い楽しみを抱いていた。伊万里の謀反は、いずれ上乃と遠州の道も違えさせる。遠州はきっと自分ではなく九峪を選ぶだろうということは、いつかは結ばれることを夢見ている上乃でさえもわかることだった。
遠州への裏切りでもある伊万里へ叛意を唆している上乃が、それでも伊万里とともに歩むと決めた心の葛藤を、推し量ることはきわめて難しい。
嵐が近い。インドネシア諸島沖で発生した台風が、真夏のむせ返るほどの湿気で充満されている泗国の亜熱帯気候に助長され、その勢力を日々膨らませながら北上しているのだ。嵐の前の静けさという言葉があるように、西伊依の空はからりと澄み渡っている。
翌日には、一転して暴風雨に見舞われることだろう。大洲城はもちろん、大出面軍の陣営でも嵐への備えに追われて、奇しくもこの次期に両軍は軍事行動を自重させていた。
「それでも、この嵐に隠れて敵が急襲してこないと言いきれない。警戒は怠るな」
それが亜衣の下した指示であり、同様に大出面軍の陣営も守勢の陣形をとった。これでまず、両軍が攻め手に回ることはなくなった。
このため時間的なゆとりが出来たことで、亜衣はもう一度だけ、伊万里を説得しようと思い立った。あまりしつこく言い募るのも良くないが、さりとて語り掛けなければ相手の心を震わせることはおろか、こちらの気持ちを伝えることさえ出来ない。対話こそが大事だ。
そうして、嵐に湿気を引っ張られてどこか涼しくすらある昼下がりに、伊万里の寝所となっている一室へと向かったところ、戸口に手前で亜衣の耳が寄寓にも伊万里と上乃の声を聞きとめたのだった。
とっさに亜衣の足が止まり、知らず知らずのうちに息を潜めて耳を欹てて、二人の会話を聞き取ろうとする。
——なんだろう。
と、思いつつ、上乃を相手にしてする話で思い当たるものなど、ただ一つしかない。
「・・・・・・しは、伊万里の言うとおりにするだけだよ」
まず聞こえた言葉は上乃のものらしい。
「あんたがそうだって決めたことなら、みんな従う」
「でも、勝つことなんて・・・・・・」
「勝てるかどうかじゃないでしょ。やるか、やらないか、重要なのは伊万里の気持ちなんだから」
「私の勝手な事情で、みんなを死なせたくない」
「そうかもしれないけど、だからって伊万里一人が苦しむ必要だってないんだよ。私たちは・・・・・・一蓮托生なんだから。みんな伊万里のために死ねるやつらばっかりだよ。私も含めてね」
——やっぱり、な。
そうだろうとは思っていたが、実際に聞いてみると、真実味がますます増してくる。上乃の言い方にはどこか棘がある。それが煮え切らない伊万里へではなく、おそらく九峪へ対するものだという直感が働いた。
——上乃は九峪様とも仲がよかったのに。それが、こうなってしまうのか・・・・・・
何度も死線を切り抜け、艱難辛苦に耐えて築き上げられた仲間同士の絆に、無情にも亀裂が生じている様を、まざまざと見せ付けられたようだった。上乃などといえば、第二次大隈開戦では九峪の指揮下で勇戦し、ことのほか九峪の帰還を喜んでいたのだが・・・・・・
それだけ上乃にとって、唯一無二の存在が伊万里だということなのだろう。
——将を射るには、まず馬からか。
上乃が九峪を恨んでいる以上、いくら伊万里が迷っていたとしても、万が一の事態を常に想定しなくてはなるまい。上乃を懐柔しておく必要があるかもしれない。
そう、二人の会話に集中しながら脳裏の片隅で考えていると、ふいに亜衣の肩に誰かがそっと触れてきた。
「——ッ!?」
ビクッと亜衣の肩が激しく跳ね上がった。飛び出しかけた叫びを両手で必死に押さえ込み、身体ごと振り向く。いつでも方術の一発でもぶっ放せるよう両手を前に突き出した姿勢のまま、亜衣は動きをピタリと止めた。
「仁清・・・・・・」
「シッ。静かに・・・・・・」
いつの間に背後を取られたのかわからない。さすがは伊万里配下でもっとも乱波向きの仕事をこなす男である。
相手が仁清だとわかって、わずかに亜衣は緊張を和らげた。ずれた眼鏡を指先でなおす。
「驚かすな・・・・・・ッ」
「すみません。でも、あまりにも怪しかったので」
「声をかければいいだろう、声を」
「そういうわけにも、いかないでしょ」
チラリと、仁清の視線が戸口へと向けられた。
「盗み聞きですか。伊万里と上乃の?」
盗み聞きと真正面から言われた亜衣はすっかり図星をさされて「うっ」と声を詰まらせた。なにか言い訳を考えたが、まさしく盗み聞き以外の何ものでもなかったため、何一つ言い返すことが出来なかった。
そして、思い出した。仁清は伊万里の腹心の一人であり、伊万里家臣団では筆頭の上乃に続く重臣である。
当然、仁清も伊万里の抱える問題のことを知っている。場合によっては敵に回りかねない男なのだ。
この間合い・・・・・・仁清ならば一呼吸の間に、腰の刀で亜衣を斬殺することも容易い。それこそ、赤子の手を捻るのと大差ないほどに。
にわかに亜衣は緊張した。そんな亜衣の機微を鋭く察した仁清が、首を横に振った。
「安心してください、何もしません。むしろ好都合でした」
「・・・・・・なんだって?」
思いもしなかった仁清の反応に、さしもの亜衣も戸惑いを隠せない。
「何を言っている」
「伊万里と上乃の密議を聞いてくださっていたことです」
「それは・・・・・・」
「まず、二人の会話を聞きましょう」
どうやら仁清も、盗み聞きに付き合ってくれるようだ。どんな思惑があるのか、それは亜衣にわかるところではなかったが、たしかに部屋の中で交わされているだろう謀反の問答を、一言一句まで聞きとめねばならない。
室内の二人の会話は平行線をまっすぐ進んでいた。数日前まで九峪への敵意を剥きだしにしていた上乃も、時間の経過とともに少しは冷静さを取り戻したのか、すべての決断を伊万里にゆだねている。そして肝心の伊万里が、まだ迷いの淵に立たされている。
女としてのプライドが伊万里の決断を鈍らせてしまっているのだ。割り切るにはあまりにも伊万里という女性は純真すぎた。おそらく不幸なことに、まだ伊万里は九峪を諦めきれないでいるのだ。それに、きっと亜衣の言葉も、ぐるぐると思考をかき回している要因となっているのだろう。
亜衣には、何となくだが、戸惑いながらも伊万里がちゃんと前へ進もうとしている、そんな気がしてくるのだ。壁一枚を隔てた向こうにいる伊万里は、九峪と自分が、今までと違う関係として繋がっていくべき世界を、懸命に模索しているのだろうと思えて仕方がない。
因果なものだ。なまじ心を通じ合わせ、にわかに一人の男を愛してしまったがために、さらには伊万里の歩んでいる道が、かつて自身も迷いながら歩いてきた道だと知っているから、ことさら伊万里の気持ちの辛さが我がことのように感じられる。
亜衣が、仁清へと向き直る。
「私に話があるのか?」
「はい」
「聞こう」
「二人のことはいいんですか?」
「やめた。盗み聞きは。伊万里様にお話があったんだが・・・・・・それもやめた」
亜衣も、すべての決断を伊万里に委ねることにした。もう自分からはなにひとつ働きかけをしない。燻ぶる想いにどのような決着をつけるのか、結局、そんなものは伊万里一人でやり遂げなければ行けないことなのだ。亜衣が蒔いた種は芽を出した。あとは、刈り取るなり踏み潰すなり、伊万里の自由だ。
それでなお伊万里が敵となるならば——
亜衣としても覚悟を決めねばなるまい。
亜衣と仁清がすぐ近くで潜んでいることなど、伊万里と上乃は、二人が立ち去るそのときになっても、とうとう気づくことはなかった。
「・・・・・・亜衣さんは、私たちのことを知っているぞ」
「大出面からの使いのこと?」
「どっちにしろ、謀反なんか出来るわけがない。気づかれているのに・・・・・・」
「私は、伊万里に従うだけだよ。でもさ、あんたはそれでいいの? 負けたままで引き下がるの?」
何も言い返せない伊万里が、疲れた瞳を上乃へと向ける。
「九峪様はふったんだよ。あんなに尽くしてくれた伊万里をさ」
「それは星華様だって同じだ」
「女王になったから、九峪様は星華様と結婚したんだ。いまじゃ九峪様だって大王じゃない。こんなのただの政略結婚じゃん!」
「そうかもしれないけど・・・・・・」
実際、これが政略結婚だということを、直接九峪から聞かされていた伊万里に反論の余地はない。そこには、愛情よりも先に政事が強く影響している。ただ、間違いなく火魅子と九峪は、互いに愛し合っている。
そして、亜衣さんと・・・・・・たぶん清瑞とも、憎らしからぬ関係であるのだろう。
伊万里にはもう、謀反などという気持ちは雨散霧消してしまっていた。疲れてしまったのだ。元来、そういった後ろ暗い行為が出来ないだけに、精神のすり減らされること尋常ではない。
それよりもいまは、亜衣が夏夜に残していった言葉の響きに、思考が支配されかけている。
亜衣は言っていた。自分なりの愛し方があり、それを見つけられたのだと。
そうでなければ亜衣でさえも心を八つ裂きにされたように、ついには無残となっていただろう。現在の伊万里がまさにその一歩手前まで来ている。
伊万里には、それでもわからなかった。自分なりの愛し方などと一口に言われて、ではそれがどのようなものを差しているのか、おそらく亜衣でも上乃でも応えられまい。これこそ伊万里が自身のちからで見出さないかぎり、永劫にわたって胸を焦がし続けることになる。
つくづく不器用なおのれが伊万里は恨めしい。
誰かを愛するという行為は、とても難しい。だから今ようやくにいたって、亜衣や清瑞のように、結ばれる可能性がまったくない状況にあっても、ただ一途に想い尽くそうとする姿が、あまりにも清らかで凄絶にさえ映る。
——私に出来るか、そんな生き方が?
自信がなかった。
「伊万里様を思いとどまらせたい」
亜衣へ望む、ぞれが仁清の願いであった。
「伊万里様は、いまはただお心を惑わされて、正気でないだけなんです」
「そうであろうな」
「本心から叛意をもっているわけではありません。どうか、それだけはご理解ください」
言われずともわかっている。嘆願など意味を持たない。はじめから亜衣に処罰をどうこうといった考えなどないからだ。とにかくも伊万里が行動を起こす前に本意を促してしまえれば、すべてを未遂に終わらせることが出来るし、不問に処してそっこく大出面軍を蹴散らし、西伊依の戦況を覆すことも出来る。
仁清は、伊万里を思いとどまらせたいと言っているが、実際に言葉の裏を探ると、『罰無し』の確約を得たいというところなのだろう。謀反を起こした場合に対する安堵の意味ではなく、そのことをわずかでも考えたことに対する不忠行為を不問としてほしいのだ。これには、伊万里はもちろん、上乃の問題も含みを持たされていた。
たいした忠義だ。それとも友情の成せる業か。一二もなく伊万里と上乃の身の保障を考えている。仁清は長いあいだ伊万里とともにあった武将であるが、おそらく伊万里配下の将も、このようにして忠義厚いものどもばかりであろうことが、よくわかるというものだ。
将器ずば抜けたものを持たず、治世の行い並みかもしれない。ただしその下に従う臣衆から慕われる人徳を敵とまわすにはあまりにも危険である。伊万里とはそういう人物である。
「安心しろ」
亜衣が言う。
「私も伊万里様を敵にまわす気など毛頭ない。出面の誘いを無事に退けることが出来たら、何もなかったこととして扱おう。無論、上乃のことも」
「本当ですか」
「ただ・・・・・・ただ、早いところこの問題の決着をつけねばならない。敵の戦略は、伊万里様を篭絡するところにある。これさえ阻止してしまえば、このいくさ勝ったも同然となる」
「はい」
しっかりと仁清が頷いた。たしかに亜衣の言をとったことで、ずいぶんと心を安らかせたようだ。これで仁清も余裕をもって伊万里説得へと気持ちを向けられるはずだ。
亜衣に出来ることといえば、もう、この程度のことであろう。あとは流れるままに、伊万里の心のままに、彼らの絆の成すがままに、いつか導き出される決心を、受け止めるだけだ。
亜衣の頭脳は、すぐに、大出面の大軍をどう殲滅するかへと、移り変わっていた。
さらに一ヶ月が経過した。大洲城から離れた場所に陣を敷いていた大出面の軍勢が、ここにきて動きを見せ始めた。一部の部隊が移動を開始した。
軍勢は三方向に別れ、大洲城のそれぞれ、東、西、北へと布陣しようとしている。包囲する腹積もりであろうか。
同じ頃、斗佐からの援軍一千五百が来着した。結局、亜衣の要求は斗佐王叶には届かなかった。せめてもの謝意を込めたものなのか、補給物資の数量が、はじめの報告よりも若干ほど多かった。それも、微々たるものであるが。
三層大楼に足を運んだ亜衣は、布陣した東西北の敵軍を、探るような目つきで眺める毎日を送っている。
——伊万里様の反応があまりにも鈍いから、やつら、とうとう痺れを切らしたな。
おおかた圧力を加えて脅してやろうと考えたのだろう。怯んだ伊万里が、兵を挙げる趣旨を決めるものと期待したに違いない。
伊万里の不安定な心理状態が長引いていたが、逆に功を奏して敵方を揺さぶっているとは、なんとも面白いことである。
「『策士、策に溺れる』とはこのことだな」
亜衣は、笑いが抑えられなかった。九峪の口癖ではないが、いくさとは終わるそのときまでどう転ぶかわからない、だから面白いのだ。
敵には運が味方していないようだった。腐っても火魅子の血筋がこちらの総大将であり、その参謀は天の火矛の末裔である。強運の粒がこれほど揃って、天運に見放されるわけがない。
あるいは、九峪の絶倫した強運が、こんなところにまで影響しているのかもしれない——。
さすがにそれは言いすぎかもしれないが、三部隊に分かれて圧力をかけようとしてくる敵があまりにも『道化』でありすぎた。動揺と焦りが手に取るようにわかる。
「数で劣っているのに、戦力を分散させてくる。いまなら各個撃破も可能か・・・・・・」
と、考えてみても、すぐに亜衣は否定した。それでも敵だって備えを万全にしてきているはずだ。崩すにも時間がかかり、手痛い反撃に合うかもしれない。
各個撃破するならば、敵の油断を誘いたいところだ。戦力で優るいまならば、ほとんど損害を出すことなく、勝敗を決せよう。
さて、ではどうやって油断を誘おうか・・・・・・
そう思案する亜衣の隣に、ひたひたと伊万里が近づいてくる。
亜衣はすこし驚いた。考え事に夢中で、接近に気づかなかった。
「お体は、もうよろしいのですか?」
いちおう、伊万里は体調不良で寝込んでいる、ということになっている。
髪はちゃんと櫛ですくわれているし、衣服に乱れもない。身支度だけは怠らなかったようだ。
「うん・・・・・・」とやや俯き気味の返事をして、とおくの山を眺めた。
「すこし、高いところに登りたくなった」
「そうですか」
「・・・・・・あれは?」
大出面の軍勢へと視線をとめた伊万里が尋ねてくる。すなおに答えた亜衣に、「そうか」と呟いた。まるで、いま初めてその存在に気づいたかのような口ぶりに、今までの塞いでいた毎日が思い起こされる。
「もう、こんな近くまで、来ているのか・・・・・・」
「ですが、数は多くありません。——伊万里様、やつらの狙いがどこにあるか、おわかりになりますか?」
あえて問いかけてみる。
伊万里はしばし亜衣を見つめ、敵軍を見つめ、「この城だろ」という結論に達した。
それはたしかに、間違いではなかった。最終的な目的で言えばその通りだ。しかし、いくらか道筋をすっ飛ばした回答に、亜衣も苦笑せざるを得なかった。
だからこそ、伊万里様なのだと。もしもここで敵の狙いを知っていて、それでも動いていないとなれば、それこそ大した策士だ。
「あれは、伊万里様を揺さぶるための部隊です」
「えっ?」
「なかなか煮え切らない伊万里様を脅して、無理やりにでも寝返らせようとしているのです」
「私を・・・・・・」
優柔不断を突きつけられたようで、なんとも複雑な表情を伊万里が浮かべる。このような些細なことを気にするようになったことが、ちょっとだけ亜衣には新鮮だった。心持が上向き始めている、そんな印象を受ける。
きっと、絡まった糸を、一本々々解いているのだ。亜衣に打ち明けたことで、多少なりとも荷が下りた顔をしている。いい兆候だ。九峪が心の病から立ち直りつつあったころと、とてもよく似た経過を伊万里は辿っていた。
「敵は伊万里様からの色よいお返事を、今か今かと待っていることでしょう。もはやそのようなことなど、起きようはずもないと知らずに・・・・・・」
「聞きたいことがある」
亜衣の語るのを遮り、改まって伊万里が尋ねる。
「亜衣さんはどうして、九峪様を諦めたんだ」
「・・・・・・どうしてって」
奥手で口下手な伊万里にして、かつてこれほど直球の言葉を投げたことがあるだろうか。いくら亜衣でも、刹那、言葉が出てこなかった。
しかも、核心も核心、亜衣の抱く生きる希望そのものを、伊万里は議題に上げようとしているのだ。
困った。これには亜衣もとことん、困った。何をどう話せばよいか、まったく見当もつかなかった。言葉とするには、あまりにも亜衣の内面深くを掘り下げる必要があった。
ずり落ちた眼鏡をかけなおして、一呼吸おいた。
「難しいですね・・・・・・。それを話すには」
追い詰められた人間の行動力に度肝を抜かれながらも、亜衣もまた自らの気持ちを一つずつ整理して、ぽつりぽつりと語りだした。
「諦めたという言い方も間違いではありませんが、私自身は別に、諦めたつもりなどありませんよ」
伊万里は、何も言わず、ただ耳を澄ましている。
「なるほど、結婚などはすでに無理でしょう。でもですよ、別に結婚など出来なくたって、一向に構いません」
「どうして?」
「夫婦の仲になれずとも、側には居られますし。・・・・・・身体で愛されなくても、心では愛し合えますので。ええっと・・・・・・なんでしたっけ・・・・・・そう、『ぷらとにっく』というやつです」
「ぷ、ぷらも・・・・・・? なに、それ」
聞いたこともない言葉だった。おそらく九峪の世界の言葉なのだろうということだけはわかるのだが。
「心で愛し合うことを言うそうです」
「・・・・・・愛されてるの、亜衣さんは?」
「・・・・・・そう、思っていますよ」
やや頬を赤らめて亜衣が言う。
「ず、ずるい・・・・・・ッ」
よほど悔しいらしい。伊万里が今にも泣き出しそうな顔で亜衣に抗議してきた。
「亜衣さん、ずるい、ずるいよぉ・・・・・・!」
「ず、ずるくありません! 私だってこの心境にいたるまで、それなりに苦しかったんですよ!」
「でも、だって・・・・・・うぅ、やっぱりずるいッ」
まるで綺麗な宝石を目の前で奪われた子供のように、理屈の頭も尾もない。ひたすら伊万里は「ずるい」と言い募るしかなかった。
これほどやりきれないこともない。いまの伊万里には、ほしいものすべてを亜衣が浚っていったように見えてしまうのだ。
こうなると、ただの子供と変わらない。
「どうして私じゃなくて、亜衣さんなんだ!」
「そ、それを言ったら私だって、なんで星華様なんだって話しです!」
「それは政略結婚だったからだろ!」
「したいならすればいいでしょう、政略結婚!」
「できるわけ、ないだろうッ!!」
搾り出した叫びが、真正面から亜衣の鼓膜に襲い掛かった。キーン・・・・・・一瞬、火花が散った。
ぜぇ、はぁ、と伊万里の肩が上下する。こんな叫んだのは久しぶりで、喉が焼け付くように痛い。
どっと疲労が足に来て、伊万里の腰が落ちた。亜衣も亜衣で三半規管を麻痺させてしまい、どすんと尻餅をつく。
伊万里はしばらく呼吸を乱したまま、次第に目じりに涙を浮かべていく。別な意味で涙目の亜衣はお尻の鈍い痛みに悶えた。最近、こんな役どころばかりだ。
目じりの涙が、雫を零して頬に筋を残す。
「ずるい・・・・・・」
「うぅ・・・・・・ま、まだ言いますか」
「だって、私は・・・・・・心でも、愛しあえないんだ」
「それは・・・・・・星華様と同じ条件を求められたからでしょう。それでは、私だって拒絶されていたはずです」
「だからってッ」
「自分の我ばかりを押し付けるから、そうなるんです」
さすがに亜衣も苛立ちを募らせ、突き放すような言葉を吐いた。
「私がいまこのようにして九峪様とあるのは、第一に『九峪様のため』でありたいからです。あなたは、ただわがままを言っているだけに過ぎません。違いますか」
「そんな、理屈」
「言ったはずでしょう、私には私なりの愛し方があると。いいですか、私は極端なことであれば、愛されなくともかまわないという気持ちで居ました。それでも愛し続けようと決心しました。その私を、九峪様はそのお心のうちに受け止めてくださいました。ただ、それだけなのです」
「それじゃあ、押し付けてるだけだって、私と同じじゃないか」
「あなたは、見返りを求めている。愛されるという見返りを」
さぁっと伊万里の顔面から血の気が引いた。言われて、図星を差されて。
その通りだった。浅ましい部分を見透かされたような気がした。
しかし、亜衣とて人のことばかり言えない。以前の自分も見返りを求めていたことに変わりなく、その点では同類なのだ。
亜衣は、言わねばならなかった。もうこの期に及んで何も言いたくなかったのに、どうやらこれが最後の『説得』として残された瞬間だったようだ。
——まったく、説教される側だった私が、今度は説教する側に回るなんて。
因果なもので、かつて藤那や紅玉から受けたお節介を、同じようにして伊万里へ語っているこの不思議、これほどおかしなこともない。
「人それぞれ、愛し方があります。私の愛し方、星華様の愛し方、九峪様の愛し方。みな、自分自身で悩みながら、見出してきた自分なりの愛し方です。では伊万里様・・・・・・伊万里様の愛し方とは何ですか? 愛するものへ、弓を引くことですか?」
「そ、そんなわけない!」
「自分なりの愛し方すら見つけようとしない人に、ずるいなどと言われたくありません」
つんと冷たく言い放つと、亜衣は一人で立ち上がった。座り込む亜衣の横を抜け、はしごへと歩み寄る。
——これで駄目になったら、もう、そのときだな。
「結ばれずとも、いいのです、私には・・・・・・。それでも愛してゆこうと、そう誓ったのですから」
「私は・・・・・・」
「よくお考えください。自分なりの愛し方を。それで、それでもし、弓矢を向けるというなら——私がお相手いたしましょう。九峪様のお手を煩わせることもありません。私が、引導を渡してくれます」
亜衣は、はしごを降りていった。伊万里一人を残して。頭上からか細い、伊万里の弱弱しい泣き声が聞こえてきた。
——お許しください、伊万里様。せめてそのときは、私自らの手で——
「あっ・・・・・・」
はしごを降りていくと、上乃と目が合った。上乃も大楼に用があったのか。
さっきの会話を聞かれていたのか、若干警戒する亜衣に、上乃も気まずそうな表情をそらした。その態度から、聞かれたことを悟った。
上乃は、伊万里の下へ向かうだろう。そこで何を言うのかまでは想像できないにしても、事態はますます複雑な方向へと進んで行きそうだ。
さっさとこの場を離れなくては。早足で亜衣は上乃の横を通り過ぎようとする。
「亜衣さんも好きだったんだ、九峪様のこと」
しかし、足を止めざるを得なかった。
亜衣が振りかえる。鋭い視線が真っ向から飛んできた。
「伊万里は死なせない。絶対に死なせない」
「・・・・・・私も、それを願っている」
——心の底から。
再び互いに背を向ける。亜衣は軍議の間へ向かい、はしごを上っていく音がした。
いよいよ、やるべきことをやり尽くし、言うべきことを言い尽くした。ここから先、どうするかは、伊万里次第だ。
——備えよう、敵に。
亜衣は、それだけを考えるようにした。