「・・・・・・なぁ、あのさ」
「はい、なんでしょう」
「もっと軽いやつってないのかな?」
「・・・・・・これでもずいぶん軽めのものを選んだんです! 九峪様がわがまま言うから!」
むくれ面をして女中がぎゅっと腰帯を締め付ける。腹の底から喉へと湧き上がる逆流感に、背を仰け反らせて九峪が轢き蛙のような呻きをもらした。
息苦しさのあまり表情が歪んでも、容赦なく女中の腕が帯を結んでいく。九峪は、ただひたすら堪えるしかなかった。
九峪が苦しみに耐えて身に着けさせられているのは、耶麻台共和国でもとりわけ高位の人間が着用する衣冠である。この頃、九州各地で大陸文化の衣服を模造する職人が数を増して、衣冠束帯のような礼式儀服を国内生産できるようになってきていた。九峪の着ている衣服も、国内産の儀服である。
瑞祥を刺繍した漢風の着物は四着を重ね着し、太陽と日光を現した冠は火魅子の王冠を真似て造られたものである。全体を赤と朱で基調とし、紅の外套をまとっている。
王位にある証を、服装すべてで再現しているのである。これは、大王であることの証明である。
しかし、この衣装は、本来ならばまだ装飾を施され、大変重たくなるはずだった。それを九峪はごねるにごねて、ここまで減量してしまったのである。
それでも、どうやらまだ九峪には、重たいらしい。
「大王として始めての、他国の使者との、謁見なんですから、身だしなみは・・・・・・きちっとなさいませッ」
「ひぃ〜ッ!! ゆる、緩めて〜! 俺病み上がり〜」
「動かないでください!」
——なんで俺がこんな目に〜!?
新人大王の九峪には、まず何よりも、服装が難題であった。
身重な火魅子にかわって九峪が臨むこととなった、これは最初の他国から来た使者との謁見となる。謁見自体は何度も経験しているものの、大王としては初めてのことだった。そのため、何をおいてもまず服装だけは『王族』としてのものを『強制的』に着用される運びとなったのだ。
——いいですか。入場は、声が掛かってからです。
などということから始まり、作法所作全般を、短期間で覚えさせられた。しかし、しょせん付け焼刃、覚え切れるはずもなく、『最低限』のものだけをどうにかこうにか頭に叩き込んだに過ぎない。
「星華・・・・・・。俺、お前、尊敬する」
遠い目をする九峪の隣では、九峪のことを昔から知っている卯花・卯木姉妹が、緊張の面持ちで控えている。
彼女たちが緊張する理由はただ一つ。
——九峪様、ちゃんと作法どおりに出来るのかしら。
という、九峪が失敗しないかどうかという部分だけであった。なにしろ、礼式作法を九峪に伝授したのは、この姉妹であるからだ。師匠としてこれほど心配な弟子もいない。お世辞にも九峪を優等生と見ることは出来そうもないほど、動作の一つ一つをとって見て不安の種は尽きない。
ましてや、他者の思惑の斜め上をつねに行く男である。土壇場で何をしでかすものか、わかったものではない。
「大王の、おなぁりぃ!」
声が掛かった。
卯花と卯木が最後に念を押す。
「ここから先、私たちは何も出来ませんから。くれぐれもご自重くださいね」
「大丈夫です、九峪様ならちゃんと遣り遂げられる・・・・・・はずです、たぶん」
——中途半端な応援しやがって!
恨めしくも思いながら、垂れ幕が開かれる。幾千もの炎が揺らめく赤い間を、九峪の足がしずしずと進んでいく。これじゃ学校の卒業式よりもひどいと、内心では不満ばかりだ。
玉座がある。火魅子の玉座である。耶麻台共和国が建国されて以来、この豪華絢爛な玉座に座した者として火魅子以外には蔚海がいた。ただし、正当な主賓として迎えられたのは、おそらく九峪が初めてであろう。
座す。これほど堅苦しく行う謁見も初めてだ。すでに疲れてしまった。土台、このように選ぶって尊厳高く振舞うことなど、小市民的感覚の抜け切らない九峪には無理な話なのだ。
げんなりとした表情を浮かべても、とにかく下段で畏まる中山よりの使者を観察した。使者は二人が遣わされて来たらしい。
——こいつらが中山か。北山を滅ぼした。
「面をあげられよ」
蘇羽哉の言葉に地を低くし、使者二人が頭を上げた。風貌、衣装、どれも北山人とよく似通っている。同じ民族なのだからそれも当然だった。
「拝謁の儀賜りましたこと、深く感謝いたします。陛下」
——陛下という呼ばれ方が、どうにもくすぐったくて仕方がない。それならばいっそ『太師』という役職名で呼ばれたほうがずっといい。
むず痒さをなんとか押さえ込み、咳払いをし、両名の名を尋ねた。
「手前は中山宮にて可公使(外交官)を務めまする、魯山岳胡(ろさんがくこ)と申しまする」
この男はいわゆる文官である。齢も四十の半ば。
もう一人、巨躯の偉丈夫が口を開く。
「某は十杜臣(とうとおみ)と申しまする。朱門城の城主にして、親方を相務めさせていただいております」
そしてこの男は武官であり、他でもない、九北連合軍を敗走させて北山を滅亡へと追い込んだ、当時の最高司令官だ。音羽や遠州たちは、この男のために地獄の撤退戦へと突入しなければならなかった。
十杜臣の名を聞いた、瞬時に九峪の体が強張った。その名を音羽と遠州からよく聞かされていた。
曰く『中山にあって国士無双の英雄』であるらしい。二度の会戦と勝利を経て、勇名を知らぬもの北山にいなかった。中には、十杜臣襲来の報を受けただけで城を投げ出した武将もいたという。星光を象った飾りを兜につけていたことから、『星将』と呼ばれ恐れられた。
身の丈は伊雅とおおよそ大差なく、いかにも筋骨隆々とした戦士だ。知勇に優れた名将との評判を覆さない貫禄がある。
中山第一の男を使者として遣すとは——中山王もそうとう肝の太い男のようだ。
「魯山岳胡に、十杜臣だな」
「はっ」
「用件を聞こうか」
「はっ。さすれば」
すんなりと尋ねられて幾分拍子抜けした魯山岳胡が、一通の竹簡を奏上した。竹簡は蘇羽哉の手から九峪の下へと流されていく。
広げ、内容を検分する。九洲との通商通行を願う旨が書き出されている。文末に『中山尚王 寧』とあることから、時の王たる尚寧が直筆の親書ということで間違いなさそうだ。
文面から顔をあげ、とたん、面白そうに九峪が使者を見下ろす。
「この文の内容を聞いているよな」
九峪の問いに、魯山岳胡が進み出る。
「もちろんに御座います。我が中山は先年より北山と争いこれを滅ぼすにいたりました。されど、我らに貴君と争う意思は露ほどにもなく、それどころか貴臣にある音羽様ならびに遠州様らの武勇には感嘆しきりであります。また我らが北山を滅ぼしますのも時の仕合わせによるものであり、決して貴国を侮るものでなければ、むしろその国力兵力に畏れすら感ずるものであります」
「ずいぶんと、よいしょするじゃないか」
くっくっと九峪が堪えきれず笑みを零し始めた。蘇羽哉や卯花たちが、『はじまった・・・・・・』と、もはや諦めの境地で顔を仰いだ。
長続きしなかった。面白い展開に九峪の地金が出てきた。やはり、九峪には威厳高い振る舞いなど、どうやったって無理、不可能だった。
いきなり笑い出した九峪に、魯山岳胡も、十杜臣ですらも面食らった。『よいしょ』という聞きなれない言葉にも戸惑った。
「それで、とどのつまり、そっちの用件は『同盟したい』ってことだな」
通商通行を求めるということに、同盟締結以外の理由を見出すことが出来ない。
——天目と同盟したり、北山と同盟したり、泗国連合と同盟して、今度は中山か・・・・・・
もしも中山と同盟すると、耶麻台共和国は、斗佐・阿波・讃其・伊依の四ヶ国に加えて五ヶ国同盟を成すことになる。臣下に降った北山を対等の待遇とする誓訳を守るならば、ある意味では六ヶ国同盟にもある。
三国志の魏志東夷伝倭人条にある『部族間の同盟を繰り返して勢力を伸ばした』邪馬台国の姿にとてもよく似通ってきている。
そこまでの知識が九峪になくとも、これが非常に面白い事態であることは、時代の英雄でもある九峪には感じることが出来た。倭国における九洲の特異性とも言うべき性質が成すものが、いまこの度に中山を招いたのかもしれない。
「中山は俺たちと敵対するつもりはない、と言いたいんだな」
「はい。三度の出兵、増える敵勢、我らは驚きました。かような大国を相手に争うは下策であります。北山は運がよかったものの、すぐに天運見放され滅亡の憂き目を見ました。しかし我らが王は聡明なお方にて、ここは九洲との関係を修復し、良好とし、久しく親戚のごとく歩むべきであるとご判断なされたのであります」
「ふうん、なるほどな」
たしかに、九北連合が敗北した最大の要因は、両軍の足並みが揃わなかったことと、九洲兵の士気があまりにも低すぎたこと、この二点につきる。それは、北山が錦江港に楔を打ち込んで圧力外交を敷いたことに起因していた。北山の敗北は、国力差を読み誤った大日本帝国が、太平世戦争に敗れた状況と似ている。
中山王はそれら北山の失敗を戒めて、親和外交に主眼をおいてきたのだ。同時に敵としてあったことが、九洲の総力侮りがたしと気づかせたのかもしれない。ちなみにこの当時、中山の国力は、耶麻台共和国のわずか十分の一程度であった。たしかに勝ち目はない。
中山王はなかなかの賢君かもしれない。雄君たる資質にも恵まれている。
「中山王は、琉球の統一を願っているんだよな」
「先先代よりの悲願にあられます。王朝の分裂よりすでに五十年以上の時が経ち、ついに三国鼎立の時代が崩れ始めました。北山領を併呑したことで、琉球でも最大勢力となった我が国は、いずれ必ずや南山をも飲み込み琉球統一を成し遂げ、新たな王朝を開かせることでしょう」
あたかも叙事詩でも歌う詩人のように、魯山岳胡が雄大な夢物語を語る。ただし、夢物語が正夢になる日も近い。
魯山岳胡の語る中山王にはいかにも英雄然とした風貌がある。九峪にも、中山が統一王朝を開くだろうという予感があった。流れと勢いが中山を後押ししている。
「我らが王は、陛下をとても慕っております。と言いますのも、常々王は申されております。『亡国をよみがえらせ、西方八州の統一成し遂げられ、一国を打ち立てたること、およそ常人に在らざる業である。そしてその臣下綺羅星の如く人材に富み、民能くこれに懐き、経世済民の治をもって人心これに服し、戦に出は天略をもって退かせ、およそ仁徳の誉れ高き賢智の君に、どうして相感嘆せざるかな』——と」
「——えっと」
あまりにも長すぎてよくわからなかったが、『尊敬しています』的なことを、目の前の使者は伝えたいらしかった。
まぁ、このように褒められて、悪い気はしない。
「先立って九洲統一という偉業を成し遂げられた陛下を、敬い見習い手本とするべし。王が申されるには、『我が姿、彼の姿足れ』との思いを万感に秘め、琉球統一へと邁進したく思うには、何卒、此度の同盟を成さんとする決意にあられます」
「わ、わかった。言いたいことはわかった」
芝居気の多い文官であるらしく、これ以上しゃべらせては疲労困憊すること間違いない。興の乗った魯山岳胡を慌てて下がらせる。能弁なものほど使者として優秀な証だ。しかし、度が過ぎる。
それとも、こうして相手の調子を崩しながら、主導権を握る狙いか——。だとしたら計算高いことだ。本当のところは九峪にもわからないが。
しかし、これだけ口の滑らかな使者にして、隣には中山屈指の名将が畏まっている。この人選、中山王が只ならぬ人物であることを物語るには十分だ。
「しかしな。そう簡単には行かないぞ。なにしろ北山に限らず、九洲南部はとにかく琉球嫌いだ。あんたらが褒めちぎった音羽も、快く思ってはいないだろうし、こっちには北山の生き残りがたくさん身を寄せている」
「重々承知しておりまする」
「あんたらが琉球を統一する、それはいい。琉球は海洋国家として、大陸との交易で大いに栄えるだろう。その恩恵に俺たちもあずかれるなら、こんなに美味い話もない」
「左様に御座います。さすがは西方統一を成されたお方、ご見識の高さに感服いたしました」
九峪はいちどに利点と難点を提示して見せた。すこし、このお喋りな文官がどのような答えを返してくるのか、聞いてみたくなった。
「もしも中山と同盟する動きになったら、かならず北山が反対してくる。この国はいま大事なときを迎えていてな、内憂外患はお断りだ。内憂は北山、外患は・・・・・・わかるよな」
「はっ」
臆することなく魯山岳胡が応える。
「聞くけど、お前たちなら、どうする?」
試された魯山岳胡と十杜臣が互いに顔を見合わせる。魯山岳胡はあくまでも外交に卓越した文官であり、戦略的な物事は十杜臣が得意とするところだ。
だから、今回、十杜臣が随行してきた。一言も語らなかった十杜臣が、にわかに膝を進める。
「某に語るをお許しくだされ」
「聞こう」
「まず、北山はすでに国としての体裁を失い、貴国より領地を与えられて生きながらえている有様。その北山と我が国とを同等とみなしては、国家の外交は成り立ちませぬ」
「たしかに、その通りだ」
「ならば、北山への遠慮は無用と存じます。国令に従うのが臣下の勤め。これに服しなければ、逆臣と呼ばれても仕方ありませぬ」
いちいちもっともなことである。
北山が中山との同盟に難色を示したところで、多数派の意見で可決されればそれまでのことだった。遺恨を感じたとしても、それは北山の感情的な問題でしかない。
それを、国家の大事と受け取るわけには、いかないというのも正しいものの見方だろう。
九峪としては中山との同盟には、前向きな方向で考えてみてもいいと思っている。べつに恨みがあるわけではないし、この調子だと援軍を強要される心配もなさそうだ。なにより行く末、海洋国家として成長するだろう琉球との貿易を倭国で唯一独占できるというのが大きな魅力だ。
だが、北山衆の水軍力は、泗国経略においてなくてはならないものだ。あまり北山を刺激するようでは、いささか考え方も難しくなる。
——まずは、中山と北山との間で和解させることが、最優先事項だな。
「同盟に関しては、俺は前向きだ。しかし耶麻台共和国は、大きな話はかならず評定衆の合議制で物事を決定する。返事にはしばらく時間がかかるぞ」
魯山岳胡が笑顔を浮かべる。
「一向にかまいませぬ。色よいお返事を、お待ちしております、陛下」
中山との謁見は、ひとまずこうして幕を下ろした。
「西、黒坂に一千二百。北、権平原に一千五百。東、尾宮崎に一千二百」
「敵勢分散により警備の緩くなった本陣を偵察しておりました間者によりますと、本陣にはいまだ二千あまりが残っておるとのことです」
「本陣の背後に後備らしき一団を発見いたしました。およそ一千ほど」
諸将からの報告を聞き、敵の総戦力をまとめると——
「東西北、およそ四千。本陣二千に後詰一千で三千。すなわち——七千」
軍議の席がいっきにざわめいた。一万はくだらないと思っていた敵戦力の、亜衣の言うとおり実数が少なかったことが、今回の報告で明らかとなったからだ。
「いやはや、まさか・・・・・・」
「さすがですな。復興軍時代より軍師として活躍されてきただけのことはある」
「とはいえ、七千ともなれば、簡単に潰せる数でもない」
味方の総力がおよそ一万二千であるから、戦力差は五千ほど開くことになる。圧倒的ではあろうが、敵からしてみると、逆転できない数でもない。戦いようによっては後れを取る範囲内だ。
亜衣が気にするのは、増援の可能性だ。兵力終結の速度こそ遅いが、いずれまとまった数を差し向けてこないとも限らない。そうなってしまう前に、壊滅させてしまえればこれに越したこともない。戦陣を開くにあたり、現段階で敵情を察知できたことは僥倖だった。
皮肉にも伊万里が迷いに迷って、敵を焦らしてくれたおかげなのだから、本当に運がよかった。
「亜衣様、いま、敵の勢力は三手に分かれています。再び一箇所に集まられては面倒なことこの上ない。一気に潰してしまいましょう。一部隊へ全力を投入すれば、打ち砕くことも容易。まだ各個撃破できるうちに」
「だが、お待ちを。一箇所を攻めるならばたしかに容易い。しかし三方を同時に攻めると、こちらも兵を割かねばならぬぞ。今後のことを考えるならば、残党を残さないほうがよいのでは」
「それでは味方の損害も大きくなる」
諸将の意見は、次第に、
一部隊を全力で叩き、少ない損害で敵を退かせる
多少の損害には目を瞑り、互いの連携が取れない隙に敵部隊を一気に殲滅する
の二つの案へと分かれていった。中には九峪の逆上陸作戦を模倣して、大洲城を囮としつつ、背後の本陣を急襲する案を出すものも居たが、大筋この二つの意見が議論されている。
それぞれ利点、難点はある。
「敵を殲滅できるならば、それに勝る結果はない。しかし損害を最小に抑えてこそ、兵法の冥利といえる」
「では、宰相、いかがお考えか」
「ふむ・・・・・・上策は、損害を抑えて、なおかつ敵を殲滅することなのだが」
「策がおありで?」
「ないこともないが・・・・・・」
言いかけて、亜衣が顔を上げる。軍議の間の入り口に、伊万里と上乃がいつのまにか姿を現していたのだ。
武将たちが言葉を失う。伊万里はしばらく病に臥せっていたからだ。鎧を身に着けた戦支度の伊万里が軍議の間を訪れるのも、半月は久しかった。
亜衣が腰を上げる。
「お体はもう、大丈夫なのですか」
問いに、伊万里がこくりと頷いた。
「ああ・・・・・・大丈夫だ。心配かけて、すまない」
「いえ。安心しました。やはり総大将がいないと、締まりませんし」
優しく微笑んで、亜衣が伊万里を招く。久方ぶりに、上座に伊万里が着座した。すぐ側に上乃が腰を下ろした。唯一側近のなかで軍議に列席していた仁清が、思わず頬を緩めている。
血色も悪くはない。時間をおいて、ある程度は心の整理でもついたのだろうか。
そうであることを亜衣は願うだけだ。
「伊万里様、我々は打って出ようと思います」
亜衣が攻撃する思案を述べると、伊万里が肯定した。
「作戦は亜衣さんに任せるよ」
「・・・・・・よろしいのですね?」
覗き込むような亜衣の、探りいれる視線が、伊万里の視線に絡む。
ぎゅっと目を瞑った伊万里は、ただ一言「やってくれ」とだけ応えた。
「畏まりました」
作戦の全権を正式にゆだねられた亜衣が、諸将へと次げる。
「私にひとつ、考えがある。今後はわたしの下知に従うように」
「ははっ」
諸将が頭をたれた。精神的支柱であり豊後武将の中心である伊万里が復帰したのだ。そこへ亜衣が軍師各として下知することに、誰も異を唱えたりはしなかった。
亜衣の考えとは、こうである。先だって伊万里を勧誘していた大出面の司令官を油断させるため、まず『偽の承諾状』を伊万里に書いてもらい、それを忍び込んできた真姉胡に持たせる。伊万里自身は今回の戦いに出撃せず、一万二千のうち五千を引き連れて西依城へと下がり、謀反の準備を進めているように見せかける。
東西北の大出面軍へとそれぞれ攻撃するが、西依城で伊万里謀反の知らせを聞き、慌てて大洲城へと引き返し篭城する。そして伊万里は次に『攻城戦には兵が足りない。援軍求む』の援軍を要請する。そうして敵本陣を誘い出し、これを襲撃する。混乱を突いて大洲城へ引きこもった部隊も再出撃し、乱戦へと持ち込んで一気に勝敗を決する。
動揺した敵は大損害を被るだろう。対してもともと兵力でも勝っている自軍の損害は軽微に抑えられる。足並みも乱れ本陣は機能を失い、まとまって撤退することさえも許さない、亜衣必勝の策である。
これで、西伊依の戦況を一気に打破してやる——亜衣が息巻く。諸将も「これならば」と、亜衣の秘策に胸を躍らせた。
それに水を差すように、慌しく兵士が軍議の間へと転がり込んできた。
「も、申し上げますッ!」
兵士は顔面に汗をだらだらと流しながら、息を大きく吸い込んだ。
「石川島水軍、北山水軍、ほか泗国よりの水軍多数、ともに宇和にて大出面の艦隊と交戦! わずか一刻半にて大敗いたしました!」
水を打ったように、場が静まり返った。亜衣は己の耳を疑った。伊万里ですら、目を丸くしている。
——一刻半、つまり三時間。
使者が言うには、彼方に大出面軍の艦隊を発見した石川島水軍と北山水軍は、それぞれ港より出航し、迎撃に向かった。宇和海の制海権は九洲・泗国連合軍にあり、維持しているのは両水軍と北山・伊依の水軍であり、規模も人員四千人、隻数は一百を越える大艦隊である。
すでにこの段階で、連合軍側は五度にも及ぶ勝利を重ね、完全に宇和海を掌握していた。潮の流れにも慣れ、まさしく敵無しであった。
ところが——
伊依灘の西側から速吸の海峡、そして宇和海、これらを完全に掌握した連合軍は、九洲と泗国との行き来になんの脅威も抱くことなく、そのおかげで西伊依の戦況も決定的敗勢へ転ばずにすんでいた。
重然、教来石の両将軍に、伊依水軍を束ねる小讃円(こさんえん)将軍と、斗佐水軍の采米(うねめ)将軍らがあげる戦果はことのほか目覚しく、これには大出面の瀬戸水軍でもなかなか手を焼いていた。
彼らが居るかぎり、海の自由は訳されたも同然だった。少なくともそういった雰囲気があり、事実そうであった。
八月十二日、伊依西海の波は穏やかだ。
哨戒船が伊依瀬戸の海上に、山陽方面から広がる船団の接近するのを発見した。機動力に優れた加奈船はすぐさま三崎はじめ各湊へと急報を届け、この日も意気揚々と連合艦隊が船首押し出して出撃した。
もっとも大きな船躯を誇る重然の竜神丸、次いで教来石の海星丸、小讃円の五郎丸、采米の夕天丸、楊剣の豈宋丸、楊剣の弟楊該の豈鬼丸、梓備の黒虎丸、蒙忌の由良丸、権琉の佐天丸等々——当代随一の海の戦士たちが自慢の軍船を押し並べて海原を行く様子、まこと壮大の一言でも収まりきらない。
「敵が見えました!」
先に敵船を発見したのが伊依勢で、すぐに他の船も攻撃準備へとはいる。
「数はわかるか」
海星丸、教来石の尋ねに見張りの兵士が「遠すぎて、まだ」と返した。ただ『決して多くはありません』という返事だけが返ってくる。
「赤峻、兵どもに油断だけはするなと伝えよ」
「はっ」
「・・・・・・天目とやらも、懲りないものじゃのう」
噂に聞く天目とは、自身の新たな主君で北山の理解者でもある西の九峪、耶麻台共和国の仇敵であり倭国統一も目前まで迫っていたという狗根を後継した東の彩花紫と並び立つ、倭国三傑の一人であるという。智謀に優れ勇に胆ありの女傑で、倭国の中央をまたたく間に併呑した。
九峪がもっとも警戒している、言うなれば宿敵か。天目という人物を語るとき、九峪は言葉の端々に惜しみない賞賛を噛ませている。敵ながらに尊敬しているのだろう。
だからこそ解せない。海戦に投入してくる兵力もさることながら、何度も後手に回るだろうか、それほどの大人物が。
あったこともなければ、その戦術も教来石はまったく知らない。おそろしく強いらしいが、海上戦で感じた教来石の感想は、それほど恐ろしいと感じるものではなかったというものでしかない。
教来石だけではなく、水軍に属する武将の多くが、『大出面も天目も、怖れるに足らず』と豪語するようになっていた。
これを油断と断じる日がこようとは、夢にも思うまい。
バキィィッ
木々の砕け散る音が、突如となりの船から沸き起こった。船同士が衝突したかと慌てて教来石が船べりに立つと、そこにはかつて見たこともないような光景と状況が、冗談のように存在していた。
船体から不自然に伸びる柱がある。——いや、柱が突き刺さっている!
「な、なんだ、これは・・・・・・」
呆然とする教来石の背後の海に、盛大な落水音が響く。振り返る。水柱が上がっていた。
ドボーンッ
ドボーンッ
水柱は立て続けに、あちらこちらで沸き起こった。
「なにごとだ!?」
教来石が叫んだ。わかることは、いまが異常事態だということだけだった。空を見上げた。信じられなかった。
柱が、飛んでくるのだ。一本、二本・・・・・・十本以上も。先ほど射抜かれた船に、新たに三本が容赦なく突き刺さる。そのうちの一本が貫通して、船底を貫いた。いっきに海水が浸入し、半壊した船は圧力に耐え切れず、船体を真っ二つに折り曲げながら、ゆっくりと沈み始めていた。船員がつぎつぎと海へ飛び込んでいく。
なお、柱が降り注ぐ。
「て、敵だぁ、敵の船から飛んでくるぞおッ!!」
見張り台の兵士が叫んでいる。教来石が水しぶきの上がるなか、たしかに柱は敵艦隊から放たれているようだった。
「うわあああ!!」
柱が、見張り台に直撃した。頭上から破片が落下してくる。急いで教来石が飛びのく。
「くっ・・・・・・! 反撃じゃ、弓をッ!!」
「こ、ここからでは届きません! まだ近づかねばッ」
言われるとおり、まだまだ弓の射程距離に敵の艦隊は入っていない。それはつまり、弓の射程圏外から、両手でようやく抱えられるだけの柱——否、杭を飛ばしているということになる。
弓が届かないでは話にもならない。
はっと教来石が駆け出す。楊剣の豈宋丸、小讃円の五郎丸、蒙忌の由良丸が、杭を幾本も打ち込まれて、いままさに沈もうとしていた。
——ち、近づけぬ!
いまは辛うじて距離が開いているから、敵からも狙いづらいのであろう。その証拠に海中へと落ちる数も多い。しかし、敵に近づけば近づくほど、撃沈される可能性が高くなる。
「こ、小船で接近するしかないか」
小さい小船ならば、狙いも絞られにくいはずだ。とくに小回りの聞く加奈船ならば、それ相応の効果があるはず。
教来石は下知を下し、加奈船部隊を突撃させた。案の定、加奈船は巧みに杭を避けながら、すいすいと接近していく。
これで火矢でも打ち込めば、たちまち敵船が燃え上がる。そう考えたのも教来石だけではなかったようで、重然やほかの武将たちも、小船を敵艦隊めがけて進ませていた。
——この判断も、決して正しくはなかった。近づく小船には、弓が射掛けられた。大型船から無数に放たれた矢が、少しの人数しか乗っていない小船へと吸い込まれ、骸が海へと投げ出されていく。矢の射る量も勢いも激しすぎる。ここにいたってようやく、教来石たちは敵の船があまりにも大きすぎることに気がついた。
「なにが・・・・・・どうなっているんだ」
呻く教来石に、打つ手など何もなかった。射撃が止むと、今度は敵の小船が前進してくる。突出しすぎた小船隊が、水面に揺れる木の葉のように、散々に追い散らされていく。
一方的な虐殺であった。前衛は総崩れを起こし、必死になって小船が下がってくる。それでも敵は執拗に弓を射掛けて、『鳥刺し』と呼ばれる弓矢での殺戮を仕掛けてくる。
程なくして、各々の水軍も後退をはじめた。重然も形勢不利と見て、撤退していく。
「教来石様、我らも引きませぬと!」
「味方の加奈船がまだ残っている、それらを守りながら退くのじゃ! それまでは——ッ」
言い終わる暇さえもなかった。ついに空飛ぶ杭が、海星丸の装甲を貫いた。激しく揺れる。教来石の体が宙に浮いた。
「うっ、わ——ッ」
「教来石様ぁ!」
赤峻の叫びも聞こえた。甲板に叩きつけられ、転がり、海へと放り出された。人間、木片、さまざまに降り注ぎ、海中で渦を巻く。海の民が溺死など冗談ではない。息を止めて水上を目指す。
水面から顔を突き出すと、そこもまた教来石には満ちの世界だった。長年、ともに戦ってきた海星丸の横腹から生えた木の柱が、あまりにも異様に過ぎた。
「わ、わしの船が・・・・・・ッ」
海星丸が堕ちる日がくるなど、一度も考えなかった。それも、こうもあっさりと——
「大杭を撃ち放つ、巨大な船だと・・・・・・そんなふざけたものがこの世にあるかッ!!」
叫びは、虚しいだけだった。
この海戦を、後に『西伊依海戦』と呼ぶ。水軍全体のじつに四割が壊滅し、絶対死守の佐多岬半島が、大出面軍に占領されてしまった。
この敗戦が、九洲・泗国連合軍を、さらなる窮地に陥れることとなる。
そして——九峪と、北山の、運命が動き出した。