何も口にせず、睡眠すらもとらず、およそ二日半も空の旅を続けた亜衣の肉体と精神は、極限状態であったことだろう。嵐を飛びぬけてきたことで体力を底打ちまで消耗され、芯の髄まで冷やされ、すっかり風邪まで引いてしまっていた。
意識は朦朧として、ともすれば気を失いかねない位に過酷ななか、かすみ揺らぎぼやけた視界に、一箇の街が見えてきた。
耶牟原城の東にある城郭都市、亜郡城である。
何もかもが限界を突破している亜衣には、とてもでないが耶牟原城まで、ましてや外加奈の城まで飛んでいくだけの体力も気力も残されてはいなかった。細胞の一つ々々から残りの底力を捻りに捻って捻出し、大破一歩手前の飛空挺がゆっくりと高度を下げていく。
大型の飛空挺はその機体の特性上、旋回しながら着陸することが多いのだが、そうするだけの判断力が失われている亜衣は、まっすぐ地表へと降りたっていった。
亜郡城には飛空挺の格納庫がある。飛空挺だけではなく、遠弩などの大型兵器を格納する区画が存在している。そのため巫女などの方術士が多数駐屯している街でもあった。
着陸の直前、ほとんど無意識のうちに亜衣は風を操って、機体を着陸させようとした。しかし中途半端な方術だったために、不完全な不時着となってしまい、その衝撃で飛空挺は完全に損壊し、亜衣もまた投げ出され地面に叩きつけられてしまった。
たまたまその場に居合わせた方術士の男が、慌てて亜衣の元へと駆け寄った。このとき、この方術士がいなければ、高熱を発した亜衣は地面に叩きつけられたまま、何時間でも野外に放置されていたかもしれない。運がよかった。
「さ、宰相様じゃないのか?」
見たことのある顔だったが、身分が低い方術士の男は、亜衣の顔もあまり拝見したことはなかった。疑問に思いつつも、このままでいいわけがないと、人を呼んで担架で亜衣を城内へと運ばせた。
呼吸を乱して苦しむ亜衣が目を覚ますのは、これより半日後。
政庁で小さな戦端が開かれる、わずか前日のことであった。
九峪が市内の中央に陣取って北山軍に抵抗するというのならば、もう火魅子たち討伐軍には遠慮するところなどない。
溜めに溜めた苛立ちと怒りが爆発した火魅子は、全部隊に攻撃命令をくだした。一万にものぼる軍団が立ち上がる。先鋒は衣緒が承った。海側からは中山の艦船が加奈港へ接近していく。
衣緒の戦力はおよそ一千ほどあり、正面からの攻撃を行った。その背後から音羽の八百が順次攻めあがっていく。
城門のほうでも戦端が開かれた。政庁の異変に注意を奪われていた北山には、意表をつかれた形となった。北山軍の防衛戦力は三千と少し。
素早く体勢を整えた北山は弓矢で応射してくる。一千八百の寄せ手に矢が降り注ぐ。衣緒と音羽の勢いは衰えず、志野の本隊も城壁に取り付こうと怒涛に進軍を開始した。
一方で北側にいた尾戸も、少し遅れて陣屋を発し攻撃に参加してきた。尾戸の軍勢は三千五百ほどもあり、これを迎え撃つ北山の戦力などたかだか一千に過ぎない。
「数では私たちがはるかに上回っているわ! 時間をかけずに圧倒するのよッ!」
志野の攻勢がことのほか凄まじい。軍議の場で、『攻めれば攻めるほど、九峪の助かる可能性が高くなる』といった忌瀬の考えを信じて、北山軍に圧迫感をあたえる戦い方をしかけているのだ。
だが北山衆もよく戦っている。城の防御機能とも相まって、討伐軍はなかなか城壁に取り付くだけでも一苦労である。
しかもである。討伐軍の武将たちのうち、半数以上が城攻めを不得意としている指揮官たちが指揮を取っているのだ。とくに志野と音羽は、野戦や防衛線などで真価を発揮する部類の武将で、攻めあぐねるのにもそういった理由があった。
一日で攻略したい火魅子たちの思惑とは裏腹に、頑強な抵抗をしてくる北山衆は、明け方ごろになるとついに衣緒隊を後退させるまでの深手を負わせた。一千そこらの守備戦力とは思えない、したたかな反撃に緒戦の先鋒は引き下がることを余儀なくされた。
大手門方が下がった状態で、両側面を突こうと躍起になっていた志野も、兵をまとめて後方へ下がる。
倍以上の軍勢が撤退していくのを、信じられない面持ちで火魅子は眺めていた。
「いくら数が多くても、城攻めにはいろいろと手間がかかりますからね」
嘆息する忌瀬には、どうやらこうなることが最初からわかりきっていたらしい。切るような火魅子の鋭い視線に、両手を挙げて降参の格好を取る。
「攻めれば攻めるほど九峪様を助けられるって言ったのはあなたでしょう」
「でも私、城を落とせるとは一言も言ってませんから」
あくまで忌瀬の言い分は、外側から自分たちが圧力を加えていけば、内部の九峪たちどころの話ではなくなる、というだけのことでしかない。それは九峪たちへの一時的な救済策であり、攻略のための策ではないのだ。
「軍議でもそうでしたけど、具体的なことは亜衣さんが来ないことには。ま、待ちましょうよ」
「あぁ〜もう! どうしてこう一大事ってときにまで、そう能天気でいられるのよ、あなたはッ!」
「そりゃあ、慌てたっていいことないですし。こういうときこそ冷静にですよ。ほらほら、慌てふためくと、兵士たちの士気にもかかわりますよ」
緊張感の欠片もなさそうな緩んだ顔があまりにも普段どおりだ。
どんなに怒鳴っても暖簾に腕押しな忌瀬を相手にしていても、無駄に精神をすり減らしてしまうだけだし、すでに気勢を殺がれていた火魅子はおとなしく床机に腰掛けた。
「九峪様の身に万が一のことでもあれば、私は魔王になってしまうかもしれないわ」
「心配しすぎですよ。なんとか敵の目をこっちに惹きつけておけば、いまはそれでいいんです。西からは私たちが、北からは尾戸さんが、東の海から中山が——北山はこれら三方向からの攻撃に兵を裂くしかなく、かならずどこかに隙が生まれるはずなんです。その隙をきっと亜衣様なら見つけてくれるはずです」
しかし当の亜衣が、まだ戦陣に到着していないのである。これも時間との戦いであった。
忌瀬はつとめて冷静であろうとした。とかく時間の少なさに焦り気味になる火魅子に代わって、せめて自分だけは沈着に物事を見定めねばならないのだ。
——だけど、やっぱり不利な戦いになるのは仕方がない。何しろ準備がことごとく御座なりで、勝つべくして勝たなくてならないはずの戦で、到底信じられないほど行き当たりばったりの戦いであるから、苦戦するのも当然だった。
大急ぎ兵を集めて出陣した討伐軍とは対照的に、あらかじめ計画として九峪の拉致を行った北山には、それなりの備えがされていた。
どれほど上手く戦ったところで、数日から一ヶ月は必要とされる——それが忌瀬の見立てであった。だが、討伐軍に求められている条件は、一日以内での勝利である。すでに日が昇り始めており、空のかなたは白んでいる。
陣を立て直している衣緒と音羽、志野の軍勢を眼下にのぞむ忌瀬に、焦れた火魅子がどうするべきかと尋ねてくる。
「とにかく先ほども言ったように、敵の注意を惹きつける、これだけです。兵の半数は休ませて、交互に波状攻撃を仕掛けましょうか」
「そうね・・・・・・。もう朝だものね」
「陣を下げている今のうちに、朝餉の用意をさせたほうがいいですよ。どうせ一日二日分の食糧なんですから、お腹いっぱい食べさせてやればどうです」
「そうしましょう」
言うや火魅子は伝令などに、各隊おのおの食事をとるように命令するよう託した。音羽隊だけには、編成しだい再度の攻撃を試みさせる。音羽隊が下がって次に衣緒隊、衣緒隊も下がったところで休息をとった志野の大軍が、攻撃に出るという波状攻撃作戦にでた。
疲労のたまっている音羽隊だが、作戦が届くと早くも二度目の突撃を行った。本人は全滅覚悟で挑んでいるが、それ以上に北山への恨み辛みが抑え切れないほど噴出しているのだ。音羽の家臣たちもそうであった。北山に目にもの見せてくれねば、とても気がすみはしない。
「この壁の向こうには九峪様がいるんだ! 神の遣いの強運がお前たちに力を授けてくれる、だから恐れるなぁッ!!」
兵どもの尻を蹴り上げる音羽自身も、負傷した身体に鞭を打ってあらん限りの大音声を戦場のいたるところへ響かせた。朱柄の大槍が天をかき混ぜるように振り回され、兵たちが気概を振り絞って何度も突撃を繰り返した。
音羽の猛攻は、それでも数の少なさと疲労とが相まって、むなしく篭城側に撃退されるしかなかった。自軍の消耗の激しさを肌身に感じながら、だが音羽は退くわけにもいかなかった。衣緒の隊を一寸でも長く休ませてやるため、枯れ々々の喉を引き裂いてでも、この場を崩してはならない。
兵と兵、小隊と小隊の間を行き来する音羽も、さすがに疲労の色が濃く増すばかりで、一瞬の気の緩みに馬上で体勢を傾かせたとき、一矢が危うく頬をかすめた。
はっと我を取り戻した音羽の頬に、紅筋が細く引かれていく。
——い、いかん、私ももう限界だッ
もともと戦場で負った怪我を癒すために耶牟原城へ戻ってきていた身であり、その傷にしても完治していない。体力の消耗は誰よりも早いのだ。
頭痛すらおきはじめた。苦渋に歪む音羽の顔が、城壁のずっと遠くを透かし見る。
そこで九峪が戦っている。
「一刻もはやく、行かねばならないんだ・・・・・・ッ」
眠い、疲れたなどと、弱音を吐いている場合ではないのだ。
はじめ八百はあった音羽の兵も、反撃にさらされてめっきり数を減らしている。もう半刻もいらずして、音羽隊は部隊としては機能不全に陥るだろう。
城門は突破できそうにない。
「衣緒、早くきてくれッ!!」
このままでは音羽隊は、反撃されるだけで全滅しかねない。
音羽の願いが天に届いたのかはわからない。ただしこの時、ようやく衣緒隊は隊伍をととのえ、兵を城壁へと進めていた。
城門付近での戦況を高台から見下ろした衣緒が、部隊に号令をかけた。
「休んだ分、きっちり働くわ! 全体突撃ッ!」
衣緒勢八百が第二波の攻撃部隊として、城門に殺到してきた。損耗のはげしい音羽隊がこれにあわせて兵を下げる。
休憩をとっただけに衣緒隊の動きには活力があった。息も絶え々々な音羽は衣緒に後を任せ、部隊を本隊のある高台へと向かわせた。
音羽隊の生き残りは、はや五百ばかしになっており、一百人余が戦死してしまっていた。
木陰に腰を下ろして戦場を眺める音羽は、手近のものに食事の用意と負傷者の救護をするよう命じた。
音羽を発見した部下の将が、音羽へと近づいてくる。
「将軍、こちらにおりましたか」
「そっちはどうだ、だいぶやられたのか」
「拙者の副官が矢で射られ、他にも多数が・・・・・・」
「そうか」
一言だけ言い返し、視線を地面へおとす。
「大宜味からこちら、踏ん張る戦いばかりだ。城攻めなのにここでも踏ん張っている」
疲れきって陰のある相貌はありありと不快感を現している。
どのような言葉をかけるべきか、武将の男には何もわからなかった。
城門付近ではいまだ、進みも退きもしない戦いが続いていた。
日が昇って、白んだ空にも青が広がっていく。日の出から二刻が過ぎたころ、一台の馬車が火魅子のおわす本陣へ駆け込んできた。
陣所に到着して間もなく、馬を繰っていた者が陣所の出入りを守っている門番たちのまえで、亜衣の到着を大声で伝えた。「宰相のご到着である。通してくだされッ!」という叫び声を、多くの兵士たちが聞いていた。
門番たちは、しかし亜衣の姿がどこにも見当たらないことを不自然に思い、馬の牽いてきた荷車を検分すると、そこには布地を幾重にも巻きつけて眠っている亜衣の姿があった。しかもその姿というのが、とても尋常でない。顔は赤く、汗をじゅうぶんに吸った前髪は額に張り付き、苦しそうな吐息はか細く乱れていた。
誰の目にも、病人としか映らなかったであろう。
「何をしている、はやく通してくれ!」
亜衣を連れてきた——というよりも運んできたと形容すべきか——馬車の乗り主がほとんど怒鳴り散らして門番にくってかかると、これは大事であると門番以下ほかの兵士たちも慌しくなった。一人が火魅子のもとへ走って行き、馬車の通る後ろを数人が小鴨みたくしてついていった。
馬車は陣所の中をゆっくりと進んでいく。
あまりにも苦しそうな亜衣を見ていられなかった兵士が、水にぬらした布で亜衣の顔を丁寧に拭く。またある者は桶一杯に水を汲み、その様たるや重病を患う母を見舞う子供たちを思わせる光景といえば、この場をもっともよく言い表しているかもしれない。
扱いに困った兵士たちは、取り合えずとして、陣所でも兵たちが集合するなどする開けた場所へと馬車を案内した。
すると、亜衣の到着をきいた火魅子が薬師の忌瀬を伴って、亜衣の眠る馬車へと歩み寄った。
「亜衣ッ」火魅子が甲高く亜衣の名前を呼んだ。
忌瀬は発熱する亜衣の様子を一瞥し、幔幕をはって朝布を敷くよう兵たちに指図すると、亜衣を包み込んでいる幾重の麻布を剥がしにかかった。
「亜衣様、聞こえますか、私の声が。聞こえていたら返事してください」
忌瀬の呼びかけに反応してか、うっすらと亜衣の眼が開かれる。
「——忌瀬」
「はい、みんなの愛する忌瀬お姉さんですよ」
「ここは」
ぼんやりと亜衣が尋ねてくる。
「討伐軍の本陣です」
「亜衣、大丈夫なの!? いったいどうしたの!?」
「火魅子様、ちょーっと落ち着きましょうね。おーい、そろそろ亜衣様運ぶけど、準備できた!?」
幔幕と麻布の準備をおえた兵士たちから肯定の返事が聞こえた。負傷兵を運ぶときに用いる担架に亜衣を乗せると、幔幕で切り離された即席の病室へ亜衣を寝かせる。
亜衣の着ている衣服も、汗ですっかり重くなっている。忌瀬は男の兵士を全員追い出すと、女性の兵士ばかりをあつめた。
「亜衣様を着替えさせるから、なにか着れるものを持ってきなさい! なかったら丈のある柔らかい布でもいいから!」
「はっ、はい!」
脱兎のごとく女性兵二人が幔幕を飛び出す。忌瀬はなれた手際で亜衣の衣服を剥いていき、生まれたままの姿をした亜衣が、まだ暖かくもない朝の寒気に身を震わせている。
湯を持ってこさせて亜衣の身体を洗い清め、女性兵らに水滴をふき取らせている間、忌瀬は触診で亜衣の容態を調べた。
「ど、どうなの? 何かわかった?」
隣で心配気にしている火魅子の問いに、ほっと忌瀬が軽いため息をついた。
「風邪ですね、これは。それもかなり拗らせてます」
「大丈夫なの?」
「さいわい薬だけは、少ないですけどあります。ここでゆっくりさせておけば大丈夫でしょう。命に別状はなし、その兆候も見られません」
「よ、よかった・・・・・・」
忌瀬が大丈夫というならば、亜衣は助かるのだろう。安心した火魅子は亜衣の手を握った。冷えやすいはずの肉体の末端にあたる手なのに、かなりの熱気を帯びている。もう汗ばんでもいた。
しかし安心したのもつかの間、火魅子は困惑してしまう。
「でも、こんな状態で・・・・・・」
絶対安静でなくてはいけないはずだ。医療技術が現代ほどに発達していない古代倭国では、風邪にすら人々は恐怖した。現代でも風邪が原因で死亡する例が稀にある。古代では致死率がさらに高く、決して油断ならない病気の一つなのである。
ずっとむかし、まだ火魅子が少女だった頃、風邪にかかって寝込んだときなど亜衣が付きっ切りで寝ずの看病をしてくれた。そのとき以上の苦しみようをしていながら、亜衣は討伐軍と合流してきたのだ。
病苦を耐えて馳せ参じてくれた亜衣の忠義心に胸は打たれんばかりでる。
いますぐにでも亜衣に、城壁を即時突破する方法を聞きたいのに、無理をさせたくないという思いが強く火魅子を悩ませた。だが、尋ねなければ戦況に進展は生まれない。
火魅子は決心した。亜衣の忠義に報いるには、躊躇うべきではない。
「亜衣、私の声が聞こえる?」
「もちろんです・・・・・・」
咳き込みつつ亜衣が応える。喋るのにすら難儀しているようだ。
「辛いでしょうけど、あなたにやってほしいことがあるの」
「・・・・・・状況を」
処方の段取りをしている忌瀬が、手元を止めず見向きしないまま現状の説明を語って聞かせた。
一通りを聞き終えた亜衣は無言だった。何を考えているのか、それは火魅子にもわからなかった。解熱薬を服用し、一息入れた亜衣はじっと空を見上げている。
困難の自分たちにそ知らぬ顔をする空の青々しさが、熱に浮かされた亜衣にもことさらな腹立たしさを覚えさせる。
「いつか、こうなる日が来るような気がしていました」
ぽつぽつと亜衣が語る。
「九峪様は北山の武力を利用することで復権をはたし、天下への志を抱かれました。——北山に報いたいというお気持ちがあったのでしょう、そういうお方ですから」
種芽島で北山の残党とすごした日々が、九峪に必要以上の共生感覚を植えつけたのだと、そう亜衣は分析していた。そこに九峪と北山の密着がある。
しかしそれは、決して蜜月の関係などではなかった。むしろ細い綱を互いに歩み寄ろうとするような、危険さをも孕んだ禁断の関係であったのだ。
いうなれば九峪の片思いにしかならず、そうとしかならなかった。互いの思惑はすれ違ったままだった。
たしかに北山は九洲にとって有用な側面ももっていた。それは宗像海人衆が壊滅したことによる水軍力の魅力であったり、造船技術、民族的な戦闘力、南方の問題たる琉球の情勢に詳しくもあった。琉球勢力からの防衛において、毒を制する役割を北山は担わされていた。
反面、やはり折り合いのつけ方、九洲人との付き合いの悪さが、とうとう尾を引き続けることとなってしまった。九洲人は大量に移民してきた大陸人や半島人との交流から、他国人あるいは異民族との共存に関してむしろ寛容な性格をしているが、とにかく北山との出会い方が最悪だった。ここはもはや北山の自業自得としか言いようがない。
九峪は宗像海人衆との戦いに先立ち、北山を取り込むための約定を守るため、一城一荘を与えた。これだけならば、まだ九洲人も過剰に反発はしなかっただろう。
北山問題に対する九峪最大の失敗は、北山を受け入れるために急遽建造させた外加奈の城を、そのまま北山衆の居城としてしまったことだった。
外加奈の城の前身は琉球および大陸との貿易都市、加奈港である。加奈港を開発したのは他でもない九峪だ。そういった意味でも、加奈港は九洲人にとって特別な場所だった。
それを北山は己がものとした。庶民には九峪の行った政治的対策の意味合いは理解できなかった。九洲の民は、九峪が加奈港を北山に与えたとは考えなかった。なぜなら九峪がそうする以前に、第一次大隈海戦で重然を破った北山は加奈港を占拠し、九洲での拠点としてしまっていたからだ。『九峪の加奈港を北山が略奪した』という図式と認識が、すでに成立していた。そしてそれは今なお変わってなどいなかった。
それだけではない。北山衆が住まうこととなった外加奈の城も、九洲人の手によって造られたものだ。あたかも北山人のために、わざわざ用意したやったという意識が九洲側にはある。そのためか九洲人は北山人に対して、高圧的な態度をとることがしばしばあった。
だが、北山人——というよりも北山衆の側からすると、外加奈の城はあくまでも自分たちの実力で勝ち取った居場所であり、加奈港も海の民として生きてきた自分たちに必要なものとして九洲政権から贈られたものでしかなかった、北山衆はあくまでも自分たちは北山国という枠組みの中で生きる、独立した民族だと思っていた。上下の関係はあっても、原則的な立場は対等だとしていた。
これで融和など図れるわけがないのだ。
亜衣は思うのだ。もしも北山に与えられた土地が、外加奈の城ではなく打ち捨てられた廃城であったなら。崩れた城壁を組みなおし、街を作り、そうして長い時間かけて九洲と同化する方法こそが、きっと北山とも九峪にとっても最良の選択だったのかもしれない。
しかし時代は倭国大乱。乱世を生きるには、あまりにも九峪は優しすぎ、そして計算高すぎた。天下争奪戦へと向かう九峪は即戦力としての北山水軍をもとめ、人の上に立つ者として律儀に約定を守ろうとした。
九峪は——九峪こそが、時勢を読み誤ったのかもしれない。
「それでも私は、九峪様を愚かだとは思いません。北山はしょせん滅びるべくして滅ぶ運命にあったのです。それをお救いしようとした九峪様の、慈悲や仁徳こそが、民を安らかにさせるのです。でなければどうして九峪様は万民から愛されましょうか」
——ただ九峪様は、優しすぎただけなのだ。
そんなことは、とっくの昔からわかっていたことだ。だからこそ九峪の周囲には優れた人材が支え上げ、その右腕として自分がいたのではないか。北山の反乱は九峪だけの責任ではない。九峪とともに自分たちもまた乗り越えるべき障害だったのだと、いまの亜衣は心得ている。
「ずっと昔、天目が言っていました。西方世界には、『寛容』の一言を持って大陸の王朝に引けをとらない、巨大な国家が存在していると。天目もまたその巨大国家に負けない大国を築こうとしていました。しかし私は確信しています。寛容は九峪様にこそ相応しい言葉であるとッ」
途切れる言葉を必死に紡ぐ亜衣が、震える腕を火魅子に伸ばした。細い火魅子の両腕を掴み、凄みの顔がぐっと近づけられた。
鼻と鼻、唇と唇が触れ合いそうなほどの距離で、亜衣はかすれた声を張った。
「城壁、ですッ」
言うや亜衣が激しく咳き込んだ。
「亜衣ッ・・・・・・」
「じ、城壁なのです、星華様・・・・・・。あの城の弱点はッ——城壁の脆さがッ」
紅玉がこの日のためにわざと脆く造らせた『欠陥だらけの城壁』——
火魅子が、活目した。
「忌瀬ェッ!!」
「音羽隊と志野さんの本隊に進撃準備! あと炸裂岩と木材物資をありったけ用意してッ!! 急いで伝えなさいッ!!」
常から火魅子に平静を説く忌瀬からは想像もできないほど、切迫した声を張り上げさせる。近くにいる女性兵らに亜衣の看病を申し付けると、忌瀬自身はどこかへと走り去ってしまった。
本陣がにわかに蠢きだした。各部署に号令が鳴り響き、行き渡り、物資が志野の本隊へと運び込まれていく。忌瀬は物資を運び組み立てる指揮を、自らが執っていた。
「城壁を、星華様・・・・・・城壁は、崩せるのです」
「わかっているわ、亜衣。——ありがとう。あなたのおかげで、九峪様は助かるわ」
「星華様・・・・・・」
「眠りなさい。あなたが目覚めたとき、きっとそこには九峪様がいるわ」
「あぁ・・・・・・九峪、さま・・・・・・」
果たすべき最低限の役目を終えた亜衣が、深い眠りへと落ちていく。ときどき苦しそうに胸を仰け反らせる亜衣の前髪を、白魚の指がやさしく書き分ける。
火魅子は濡れ布巾を絞ると、そっと亜衣の細面を拭ってあげた。
慈しみをこめて、優しく、愛しく。
三台の荷車を組み上げ、持ち込んだ炸裂岩を満載に乗せると、その周囲には火魅子に付き従うはずの五人の方術士が、一心に方力を練り上げていた。
城門付近の衣緒隊はいまだ奮戦している。しかし城門はいまなお固く閉ざされたまま、堅固な守りを貫いている。そろそろ衣緒隊の損耗も限界を超える頃であろう。
戦場を見渡した志野は、隣で騎馬乗りする珠洲へと視線を向けた。
「珠洲、準備はいいわね」
「とっくに出来てる。はやくあの馬鹿大王たすけて、こんな馬鹿いくさ終わらせよう」
「そうね」
苦笑した志野の視界を、独りでに進みだした三台の荷車が、城壁へと少しずつ向かっていくのが見えた。方術の仕業である。
いよいよね・・・・・・。戦いの火蓋が切られておよそ半日と少しが経過した。
地方にある一都市の反乱も、そろそろ決着させねばならない。志野は自分の率いる武将兵士たちを前に、これが最後の突撃になると言い張った。
「九峪様が捕らえられて、もはや五日以上もの時間が過ぎたわ。戦いが始ってもう日が昇り——これが最後よ。私たちは衣緒さんの部隊に加勢して城門を突破します!」
——行きますッ!!
志野が号令をかけ、副官たちが馬を走らせる。歩兵三千余が再びの攻撃を開始した。
崩れかけていた衣緒隊を飲み込んだ志野隊に注意を惹きつけられ、城門の守備戦力がさらに応戦してくる。弓矢が飛び交う中、志野隊が破城鎚を城門へ接近させ、城壁には梯子をかけようと試みる。
北山側はそれらの行為をことごとく妨害し、攻め手と守り手の間で激しい応射が繰り広げられる。
その間に、音羽隊がそろそろと城壁近くへと進軍していく。荷車は徐々に速度を上げる。音羽隊の兵士たちは戸板に方術氏たちを乗せて担いでいる。戸板の上で五人の方術士たちは、ただただ荷車を進める速度を上げようと集中するだけである。
いつか荷車は、戦車に匹敵する速度にまで加速し、それが城壁の一箇所にて破壊的な音を炸裂させ、眩い閃光を昼前の空に輝かせた。
轟音が響いた。天高く舞い上がった土ぼこりが風に吹かれて、みごと崩れ去った城壁の残骸が、白昼にあらわとなった。
馬上、水筒に残っていた水を飲み干した音羽は空の容器を投げ捨て、槍を脇に抱えた。手綱を引かれた馬が、いななく。
「ようし・・・・・・ッ! 九峪様はこの先だあ、いくぞおおォッ!!」
音羽隊四百が、崩れた城壁に攻め寄せた。北に尾戸、すぐ側の城門にそれぞれ兵を裂いていた北山衆は、音羽隊が城内に侵入してくるのを阻止する余裕がまったくなかった。
一目散、他には目もくれず、音羽はとにかく大路を行った。城門を攻めていた志野と衣緒は、音羽の突入した城壁の穴へと殺到していく。これを防ぐために北山衆も必死の抵抗をみせるも、その隙を突いて少数部隊が城門を破ってしまい、北山はついに城壁という最大の守りを失うに至った。
討伐軍が次々と城内へ侵入していく。北山の敗北は、決定的瞬間を迎えた。
九峪がどこにいるのか、音羽はわからない。闇雲に探すしかなかったが、外加奈の城の中心部で騒ぎがあるのを発見した。戦闘が起きているらしい。
すぐにわかった、あれは——!
「九峪さまあああッ!!」
音羽はいの一番に馬を乗り入れ、槍を振り上げた。
「音羽が助けに参りました、九峪様ぁ!!」
槍が北山兵の頭を脳天から真っ二つに斬裂いく。噴出した血飛沫に染まった音羽を見上げた北山兵が悲鳴を上げた。
音羽隊四百が、北山の背後に襲い掛かった。