「貴様は愚か者である」
鼻持ちならない一言を脳髄にこびり付けたまま、九峪は意識を取り戻した。頭蓋骨のなかに収められているのが、脳ではなく鉄塊なのではないかと錯覚してしまいそうなほど、ひどい頭重感が思考力を鈍らせている。
寝ぼけているだけではない。絶対的に血が足りていないのだ。脳が著しく機能不全に陥っている。
天井が見える。壁はないが、かわりに白い幔幕が四方を囲っている。
九峪を覆っているのは、羽毛のかけ布団だ。軽くて暖かい。九峪の発想から生み出され、いまや九洲を代表する特産品の一つだ。
ぼうっと板の天井を見上げていると、脳裏に、先ほどまで見ていた夢の記憶が再生される。
夢の中で、九峪はまたもや天の火矛と出会い、散々に罵倒されてきたところだった。やれ『愚か者』だの『見下げ果てた』だの『忠告を何も聞いていなかったのか』だの。それはもううんざりするほどだ。
なぜ今になって天の火矛などという存在と出会うにいたったのかも、漠然と理解できた。死期が近づくと、より天の火矛のような存在に近づいてしまうらしい。北山に殺されるかどうかの分岐点で、九峪はいちど天の火矛との接触を体験している。
きっと九峪が北山を見捨てておれば、あと数十年はあの憎たらしい面を拝まずにすんだのかもしれない。だが望みもしない二度目の接触をまさに体験したばかりだということは——いよいよ九峪の死期が近づいていることの、何よりの証であろう。
困ったことに、天の火矛が絡んでいただろう夢は、覚醒した後でも鮮明に記憶されている。目をそむける事が出来ない。
夢ではっきりと天の火矛は言っていた。『貴様は近いうちに死ぬ』と。その後に『つまらない死に方をしおって』とやはり罵られた。
天の火矛は九峪の能力を買っていた。これから九洲の反映のためには、九峪がかなり役に立つと考えていたらしい。ゆえに助け舟を出すなどしていた。
これだけを見ると、随分と優しげな感じもするがさにあらず。天の火矛——あるいは天の火矛の遣いが九峪の夢に干渉するたびに、九峪の身体は多大な悪影響に苦しめられていた。ときには昏睡までした。素質のないものが神から干渉を受けると、それだけで生命力が削られ、寿命を縮めてしまう——ということを雨の火矛本人が語っていた。
どちらにしろ、天の火矛にとって九峪はあくまでも、九洲にために役立つ道具程度の認識しかないようだった。人間の生命に尊さを見出さないところが、九峪の嫌悪をさそって仕方がないのだ。まだ天目のほうがずっと良心的にさえ思えてしまう。
北山のために自分は死に掛けているらしい。だがいつかは、天の火矛のために死んでいたかもしれない。ならばせめて、人間を大事に思わない高慢な神様よりも、北山の子供たちの未来を守るために死んではどうか——
それも悪くないような気がして、低いおかしみがこみ上げてきた。結局は九峪も、意地のために死ぬようなものだ。それでも悔やむ気持ちはあまりなかった。これはただの自己満足なのか、それもわからないけれど、自分らしい最期だとも思えるのだ。
天の火矛が死ぬというのだ、きっと自分は死ぬ。天の火矛のことは心底から気に入らないが、嘘を言う性格ではないということくらい、簡単にわかるほど機械的な神様だ。自分は死ぬ。
「・・・・・・もっと・・・・・・怖いものだと・・・・・・思ってた、のに」
あまり今日を感じない。そのことがむしろ不思議だった。近づく死に怯えるだろうと、そう漠然と考えてた。それが死に様だろうと。だがいざその時と事実が目の前に突きつけられても、案外心は穏やかなままだった。
ただふっと火魅子や清瑞や、伊万里や——亜衣の顔が、悲しみに暮れている光景が、瞬いて消えた。
それは、九峪にも悲しい思いをさせた、俯仰の間の幻だった。
反乱を起こした北山衆の首謀者は全員が死んだ。末端の兵士でさえ、そのほとんどが戦死した。わずかに逃げ回っていた五十人が捕らえられ、他には水軍の方でも、ついに一百人ほどが投降した。
生き残った戦士たちは、自らの意思で降伏という道を選んだ。九峪の誘拐から外加奈の城落城まで、かかった日数およそ七日あまり。一地方で起こった反乱は、北山衆が全面的に鎮圧される形でついに幕を下ろした。
十月一日のことだ。秋季の乾いた匂いが近づいてきていた。
戦後の処理は耶牟原城で、議論の紛糾を呼んだ。反乱を起こしたというだけでも万死に値するのに、あまつさえ九峪を拉致し恐れ多くも人質にして交渉の材料として用い、だけでなく大きな傷を——瀕死の重傷を負わされてしまったのだ。
これを赦すわけにはいかないのである。彼らは何としても北山に報復し、子供も老人も何もかも関係なく皆殺しにしなければ気がすまないところにまで、怒り心頭の様相を呈していた。しかし、そこに九峪の命令が立ちはだかったことで、勅令と感情の鬩ぎあいとなり、話し合いはまったく進まなくなった。
すでに武官が大多数をしめている耶牟原城の高官たちにとって、九峪の命令は絶対なのである。九峪が北山の民を赦すという以上は、手出しは出来ない。
反乱の首謀者たちはみな死んだ。反乱に加担した者たちも、ほとんどが死に絶えた。生き残った一百五十余人は、法に照らし合わし反逆罪に準ずる処罰を言い渡され、奴隷の身分に落とされた。九洲の法では、奴隷は労働を強いられるが、一定期間を過ぎれば庶民階級として開放されることになっている。労働というのも人権を過度に無視した過酷な強制労働などではなく、ある種の職業訓練的な意味合いがある。
反乱鎮圧から数日が立った。北山の民は、いまだ外加奈の城にあった。戦死した者たちの遺骸を片付けるなどの労働に従事しているのである。そうでなくとも、外加奈の城を追われても、彼らに頼る当てなどどこにもない。
北山の民は不安でいっぱいだった。自分たちはこれからどうなってしまうのか・・・・・・。子供たちを守っていた老人は、格別の恩赦を賜ったと聞いたとき、約束を守ってくれた九峪に深い感謝を示した。
だが何も、全員が九峪に感謝をしたわけでもない。今回の反乱で夫や恋人、家族を奪われたものも少なくはない。しかし非はこちらにあり、九峪は心中を迫る北山衆から自分たちを決死に守ってくれたこと、助けられたことも事実で、複雑な心境だけが残った。
手放しに喜べはしない。しかし、もう憎むこともできない。ある意味でもっとも苦しいのは、行き場のない感情を抱えて生きなくてはならない彼らかもしれない。
協議はなお続く。北山の民を特別罰しないとしても、それでお終いというわけにいかないのが、政の世界である。
まず、外加奈の城である。これは正式に接収されることが決まった。加奈荘の領地も没収となった。つまり北山は居城領主として改易される運びとなった。
かわりに別の土地を与えられた。火向灘の海辺である。そこには集落も何もない。海岸と浜辺だけがある。無から自力で開墾し、根を生やせという意味だ。冷酷な仕打ちのようにも思える、しかし余所者としてはむしろこうして、自力で居場所を開くことこそが、無理のない自然な有り様である。外加奈の城などわざわざ居場所を最初から造るから、どこか捩れてしまうのだ。
最盛期には五千余人いた北山の民も、反乱が鎮圧されたいま、わずか一千余人ほど——五分の一程度にまで人口数を減らした。第二次大隈海戦、西伊依海戦の敗北、さらに反乱の失敗で、それだけの多大な人命が失われたことを意味している。
与えられた土地の範囲は、外加奈の城の五分の一以下になる。彼らはこの地へ入植し、辛うじて北山の命脈を守ることができる。しかしそこには、もはや琉球の雄として国を持ち、九洲でも第二等の水軍を保持していた面影が、どこからも見られない。
しがない集落を開き、細々と生きていくしかなくなっていた。この土地は以来、『北山屯』と呼ばれる漁村となる。水軍だった頃の名残か、以降も彼らは海人集団としての生業で生計を立て、船大工たちは加奈港の造船所で働く。
ひとまず北山はこのような形で、再度の落としどころに収まった。彼らはこれから、本当の意味で生まれ変わらねばならない。道のりは険しくも、不撓不屈の精神で生き延びるという、疲れきっても若々しい決意が、あらゆるものを失った北山をしっかりと立たせていた。
だが——彼らには、最期の試練が待っていた。
北山衆棟梁、教来石。この男の責任だけは、どうしても見逃せなかった。
教来石の責任とは、そのものずばり、棟梁としての責任を指している。
棟梁というからには北山を正しく指導することが大事だ。だから今回のように、反乱を起こしてしまった場合などは、加担したしないの分別関係なく、重い責任が教来石の両肩に圧し掛かるのだ。本来、部下たちが企てた反乱の密謀を未然に防げなくて、棟梁としての資格はない。
言ってみれば、今回の事件は教来石の監督不行も、原因の一つとして考えられるのだ。それともう一つ。九峪が重傷を負った問題も、教来石の立場を危うくしていた。教来石は何があっても、九峪の身の安全を確保しなくてはならなかったのではないか、それが出来ていなかった、主君を危険にさらしあまつさえ瀕死の重傷を負わせた——九洲の臣下である以上、これも甚だよろしくない。
このため、北山のお咎めなしという九峪の厳命とは別問題として、教来石の棟梁としての責任追及は、評定衆として避けられないものとなっていった。
かなり風邪を拗らせてしまって復帰できない亜衣に代わり、今回も政務を代行している蘇羽哉には、下しがたい問題だった。しかし意見の半数以上は、何らかの処罰も止む無しという方向へ傾きつつあった。
ことは領主の能力を問うている。大勢は九峪の命令に反するものではないという認識が広まりつつある。事実、組織の統率者としては、責任を取らねばならない。
処罰するとして、ではどのような刑がもっとも妥当か。それを話し合う評定衆のもとに、一通の上申書が上がってきた。
差出人は、件の教来石であった。驚愕の内容が書かれていた。
北山衆棟梁の教来石は、みずから極刑を望んできた。生命を、差し出すといっている。
生みの苦しみと言おうか——
王国復古の望みはとうの昔に断たれ、教来石の願いは唯一つ、民族生存の一点に絞られた。しかし民族が民族たる所以がはたしてどこにあるのか、それを鑑みたときに、やはり北山の祭る神々の存在は必要不可欠なものだった。
九峪は北山の神々を認め、九洲の信仰に取り入れる政策を行っている。神宗融合の考えは古代ローマの繁栄を導いた考え方であるが、まったく同じ事を九峪は構想したことになる。この思想は走りとなって、後の神仏融合を可能とする下地となっていった。
もともと九洲は多神教の宗教観をもっていたし、大陸からの移住者らの祭る神々も取り入れたことで、宗教的な融和そのものに障害は生まれなかった。
ただし、ここで教来石は政策的な失敗をしてしまう。北山の再建を急いでいた教来石は、民心を安定させることよりも、生活環境の安定と充実を優先させてしまったのだ。今は亡き廉思は、神社の建設を考えていた。教来石が泗国へ出陣してからは神社の建設も開始されたが、しかしほどなく病に倒れてしまったため、神社の建設は停滞してしまった。
神社がなければ、神々の移り住みも叶わない。北山人は信仰の対象を失ったまま、民族意識の危機感を募らせていった。そして周囲からは後ろ指を指され、白い目で見られる日々が続いた。
神の守護が得られない状況——神社を一向に建てようとしないままの教来石は、神々を蔑ろにしている。そう北山衆の目には映ったに違いない。追い討ちをかけるように、仇敵中山との和睦を教来石が受け入れたことで、ここに北山内部は決定的な反教来石運動が起こり、ひいては九洲政権からの脱却へと繋がっていった。
ことのあらましである。
今回の事件をきっかけに、改めて教来石は己の器のほどを思い知らされた。しょせん、自分はこの程度でしかなかった。
そのくせして頭はよく回るほうだ。それに責任感も強い。棟梁としての責務を果たしきれなかった自分の問題を、かならず追求されるはずだと確信さえしていた。事実、評定衆は、北山衆棟梁の処罰を検討していた。
命は惜しくない。死も恐れはしない。それが北山の民にとって必要な措置であるなら、ただ粛々と運命を受け入れるだけである。
だから、考えた。もしかしたら九洲の支配者たちの一部は、この機に北山を滅ぼしてしまおうと考えてはいまいか。手出しが出来ないのは、九峪の厳命が大きな壁となっているからであり、口実さえあれば彼らはいつでも、北山を害してくる可能性は高かった。
——中途半端なことは出来ない。仮に処罰の内容を評定衆に決めさせると、そこからずるずると、陰湿に追い立ててくるかもしれない。
どうせならば、処罰の内容はこちらがわから提示するべきだ。それも、これ以上にない極刑を、教来石一人が被るべきだ。こうまでされて、その上で難癖をつけるようなら、耶麻台共和国は徳を失い、底の低さも露にするだろう。
九洲政権は北山をとにかく罰したい。罰する口実を求めている。ならば呉れてやる。ただしそれ以上の手出しはさせないという強い決意のもと、教来石は胎を据えた。
北山と耶麻台共和国の面目を考えるだに、教来石が自ら極刑を望んで処されるという形がもっとも望ましかった。
行動ははやかった。北山には戦士や武将がほとんと残っていない。わずかに教来石の部下で生き残った三十二人だけが、北山を纏め上げる評定機関を作っている。彼らに決意を伝えるところから、教来石の生涯で最期の仕事がはじまった。
簡素に組み上げられた小屋が、北山屯の評定場である。外加奈の城のそれに比べると、雲泥の差がある。
教来石の決意を、三十二人は全員が反対した。九峪は北山の民を助けるようにと言い、それそのものが北山の安泰を約束する名文になっていることは、彼らも理解しているからだ。教来石が死なねばならない理由がわからなかった。
理を説くのは難しかった。家臣たちは頑なになって教来石の言葉を聞き入れようとはしなかった。だが弁舌に明るい教来石が万言を駆使して己の赤心をさらけ出せば、次第に異論を唱えるものは少なくなっていった。
北山のため——そう言われてしまえば、反論するだけ教来石を苦しめることになる。涙を呑むしかなかった。
罰死を受けるに先立って教来石は、北山が今後どのように生きていくべきかを、十三条にわけて成文化し北山の根幹的な掟と定めた。それは運営に関する指示の指標ではなく、北山人が努めて守るべき耶麻台共和国の民としての心構えについてであった。
文末の条項には、この掟を心に秘め、いつか忘れてしまったとき、北山は真に滅ぶであろう——と、戒めの文章が重く綴られている。
自分亡き後の三代目棟梁は赤峻と決めた。教来石の一の家来である彼女を頂くことに、一切の異議は唱えられなかった。
極刑の請願書を耶牟原城へ送った。それから、ようやく廉思の進めていた——いまは白紙となった、神社の建設が開始された。人民を纏め上げる術を、遅まきながらに理解した。ほんとうに、遅すぎたが——。
耶牟原城からの返事が届くまで、教来石はわずかな人足とともに、小さな祠を造った。人間一人がはいれる細長い祠に、北山の神を象った木像を収めた。
この小さな祠を覆うように、いつか大きな社殿を築きたい。社殿の前にも広間を整えて、そこで盛大な儀式を執り行うのだ。北山が受け継いできた伝統ある舞や楽、唄を朗々と奏でて、そうして後世にも繋げていくのだ。
信仰は、辛く寒い時代を生きていく北山の、心の拠り所となるはずだ。そうなればと切に願う。
そうして、小さな祠が出来上がった三日後——耶牟原城から返信がきた。
教来石は主だった家臣たちと、民を、出来上がったばかりの祠の前に集めた。
「わしは明朝、耶牟原城へ上都する」
という言葉から始まり、北山の民へ、別れの言葉を向けた。教来石が処刑されること——それは誰もが知っていた。手向けの言葉が寄せられた。みんなが別れを惜しんだ。涙を流した。
熱いものが胸を打った。それだけで教来石には十分だった。祠の前で手を添えた。
「北天の神々よ、ご照覧あれ。わしは志半ばに逝くも、かならずや北山の命脈を守り抜き、死して主国に忠たらん。どうか北山の民にご加護のあらんことを」
教来石は己の愛刀を、守護の剣として奉納した。以来、北山の神は戦いの神という性質を帯びて、北山人に祭られることとなった。
翌朝、多くの人々に見送られながら、三人の供とともに教来石は耶牟原城へ向けて出発した。
秋空の茜がすっかり色づいている。
馬の背に揺られる教来石は飽きることなく見上げ続けた。
後悔という感情には際限がない。人間はどういうわけか、正の感情よりも負の感情を成分として多く肉体に含み、生まれながらにして悔いることを定められた、負い目を持つ動物であるようだ。
たぶん、世界上の生物にあって、人間ほど後悔する生き物はいない。かりに一頭の鹿が、足を滑らせて崖から逆さまに落ちて、助からないほどの怪我を負ったとしても、そのときに不用意な道を歩いていたことを後悔するかどうか。
するかもしれないし、しないかもしれない。所詮わかりはしない。しかし思うに、後悔はしているだろう。だからこそ動物は危険を学習し、回避する術を編み出し、進歩を繰り返して、いつかは生物としての進化を遂げていく。
後悔はその結果へといたった理由や原因から生まれる。理由や原因を見つめなおすことで、失敗点に気づくことが出来る。ならばなぜ、どうして、気づいたから後悔をする?
答えはとても簡単だ。その失敗さえなければ、成功していたという事実を、目の前に突きつけられてしまうからに他ならない。
もしもその失敗というのが、あまりにも深刻で、取り返しのつかないほど重大なものだとしたら・・・・・・たとえば、限りなく大切なもの、自分の命などよりもはるかに大切なものを、失うようなものだとしたら・・・・・・
考えるだけで、亜衣の身体は骨の髄まで、凍て付いてしまいそうになる。それはかつてないほどの現実味を帯びた恐怖だ。
亜衣の風邪が快方へ向かう頃には反乱も鎮圧されていた。外加奈の城は開放され、血相を変えた忌瀬が政庁の一室に陣取り、死にかけの九峪に懸命の治療を施しているときだった。
耶牟原城にある国営の病院で亜衣は目を覚ました。忌瀬も在籍している病院の、高い身分の者が使用できる一間である。羽江が看病をしてくれていたらしい。
重い身体を引きずるように蘇羽哉を尋ね、事態の推移などを確認するころには、耶牟原城の評定衆は北山衆への仕置きに喧々囂々となっていた。これから少しして、教来石からの請願を承認する形で、極刑が可決される。
それはいい。教来石がどうなろうと、それ自体にさしたる興味も関心もない。北山の価値はさほど高くないからだ。
それよりも亜衣の心を滅多打ちにしたのは、捕らわれていた九峪の無残な有様であった。応急の処置を施された九峪が、民衆の目から隠されるようにして耶牟原城へ戻ってきた。絶句した。
大隈海峡での戦いで負った傷よりも、ずっとずっと深手であることなど、一目瞭然であった。青白い九峪の相貌には、死相さえ浮かび上がっていた。
瞬間、亜衣も血の気が引いた。眩暈がした。信じられなかった。
亜衣だけではなく、当然のことながら火魅子の狼狽も甚だ尋常の域を超えていた。とにかく泣き叫んでは死んだように眠る九峪に縋りつき、ついには気を失うほどだった。日ごろから九峪に心酔している火魅子であったから、そうなってしまうのも無理はなかった。
一番悔しいのが清瑞だ。九峪の側にいながら、守りきれなかった。あと少し、あと半歩前へ、あと数瞬速く反応できていたら——自らを盾に刺し貫かれてでも、決して九峪を傷つけさせやしなかった。それは音羽にとっても同じ気持ちだった。
戦いから数日が経過した今、亜衣の風邪はほとんど治った。しかし心に負ってしまった傷の深さは、彼女が生きてきた中でもっとも残酷な抉り方をしている。
亜衣も、後悔している。後悔する原因がわかっていた。
思うのだ。
なぜもっと上手く飛べなかったのか。嵐の中であったとはいえ、時間をかけすぎた。落雷のために飛空挺を破損させ、速度も上げられなくなった。落雷を回避することができなかったのか。
なぜ亜郡城に到着したとき、気を失ってしまったのか。亜郡城で半日ちかくも眠ってしまった。ほんの僅かでも意識を保ち、すぐに外加奈の城へ向かう趣旨を伝えていたら、半日速く到着することができたはずではないか。
半日——たった半日だ! あと半日早ければ九峪を助けられたのだ。亜衣の遅れた半日が、しかし明暗を分けてしまった。
明はついぞ遠ざかり、暗が亜衣の足元まで転がってきた。蹴り飛ばしてしまいたい。
まだ九峪が死ぬと決まったわけではない、そう何度も自分に言い聞かせる。忌瀬も、普段は飄々とした彼女が、懸命に九峪の延命措置を行っている。まだ諦めてなどいないのだ。
だから自分も諦めたりはしない。九峪を信じたい。
だが、それでも——最悪が頭をよぎる。
——私は、よわい。
昔と同じだ。九峪を想うあまり、自制できなかったあの頃と。これが、耶麻台共和国の政治一切を監督する立場にある、宰相たるものの真実の姿なのだ。
女々しく、浅はかだと。誰もが哂うだろう。
しかし亜衣はそれが、自分の中にたしかに存在している人格で、否定したくはなかった。その感情さえもが弱さであると自覚していながら——そんな自分と一度は決別を決意していながら——いまもまた、気持ちが九峪のほうを向いてしまっている。
——会いたい
とだけ、それだけを想った。けど会わせる顔がなかった。誓いがある。九峪に、もう決して我を忘れないと、そう誓いを立てた。
それを九峪の前で破れるわけがなかった。
——そうして思い悩む亜衣を、塗炭の苦しみにある九峪が呼んだ。
躊躇いがわずかにでも亜衣の中にあった。しかし、自分から会いに行くのではない、呼ばれていくのだと、繰り返し言い聞かせた。そうでもしなければきっと逃げ出していた。
九峪が療養している私邸はひっそりと静まっている。いつからか家事働きでさえ、極力物音を立てないようになり、耶牟原宮殿の敷地内でもとくに静謐な場所となった。それだけ九峪の発作は日を追うごとに常態化していったということだ。
女中が亜衣を奥へ通す。九峪は、そこにいる。明り取りに照らされた九峪は、存在感の希薄な若者となっていた。
ひやり——背筋に冷たい汗が流れ落ちた。
戸口に突っ立ったままの亜衣に気づいた九峪が顔を歪めた。笑っているらしい。
「悪い、急に呼んで」
深刻な症状に反して、声にさほどの弱々しさや翳りは感じられなかった。そのことに少しだけ安堵を覚えた。
「ご気分はいかがですか?」
「まぁ、見てのとおりかな。布団から出られねぇや」
そう言い九峪が苦笑する。
「これが本当の死に体ってやつだ」
「そんな縁起でもないことを仰らないでください」
目元をしかめる亜衣を見上げる九峪が、小さな声で「すまない」と謝った。そして、また、苦笑いを浮かべた。
「だめだな、どうも。弱気になってるみたいだ」
「・・・・・・病人とはそういうものです。お恥ずかしい話しですが、私も外加奈の城の本陣では火魅子様にずっと手を握らせていただいてました」
「ははっ・・・・・・あいつらしい。それだけ亜衣のことが心配だったんだろう」
九峪は笑って「俺にもな・・・・・・」と言葉を繋げる。
「ひどく心配してくれている。こっちが悪く思うくらいだよ。・・・・・・いや、実際、悪いとは思うんだ。火魅子だけのことじゃない。今回のことは完全に俺の落ち度だ。みんなには本当に迷惑をかけちまった。大事な時期なのに」
「九峪様、それは」
「聞いてくれ。正直に言うと、俺は時勢を見誤った。いや、北山というものを読みきれなかった。大陸からの移民を成功させたことで、こう、慢心していたんじゃないかって、いまさら考えるようになった」
「違います、それは、違います! 北山が没落するのは、運命がそう取り決めたからです。むしろ九峪様が手を差し伸べねば、この世界から北山というものは消えてなくなっていました」
「そうかもしれない。けど、だとしたら、俺は思い知らされたことになる」
「何にですか」
「俺もしょせんは人間だったってことにだ。どんなに足掻いても、もがいても、運命やら神様ってやつの思惑や差配には敵わないってことだ」
「九峪様がこのように傷つくことも、運命の成すところと・・・・・・?」
「ああ、そう思えるな」
——そう、きっとそうだ。天の火矛は俺を助けようとした。そうしなければ死ぬとわかっていたから。運命の下に天の火矛はいて、その下に俺という人間がいる。
なんと言う事はない。九峪は死ぬべくして死ぬ。感情では到底うけいれられないが、理性は天の意思を理解した。
そんな考えにたどり着いたときは、まだ、抗うつもりでいた。天の火矛が差し出した救いの手を蹴ったなら、今度は運命が伸ばしてきた死の招き手をも振り払ってやろうと——
だが日々の経つのに併せて、肉体は憔悴していく。傷はなかなか塞がらず、出歩くことすらもままならない。死に体と証するとおり、確実に死期が近づいてきている。
死ぬことへの恐怖も、削がれていく。感情がやせ細っていくように・・・・・・
意識せずにはいられないのだ。九峪は己の死を見つめて、幾夜も明かした。
そして見つけ出した答えを、誰かに託さねばならない。自分がもっとも信頼できる者に、者たちに。
その一人が、亜衣だった。
「この時代に俺のやるべき仕事が、もうなくなったんだろう」
はっきりと九峪が言う。亜衣は言葉を失った。
「天の火矛にも言われた。お前は時期に死ぬってな」
「ッ——!?」
宗像の守護神が、死の宣告を己が地上へ遣わした九峪に下した。それだけでも亜衣には底抜けに衝撃的な話だ。
息も止める亜衣の手が震えている。身じろぎして、九峪はそっと亜衣の小さい手を取った。細長い指をさする。——温かい。
「俺にもわかる。一所懸命に俺を助けようとしてくれている忌瀬には悪いし、俺自身が悔しくもあるけど、助かりそうにない」
「やっ、やめてくださいッ! そんなことを言うのは・・・・・・」
気色ばんだ亜衣が九峪の手を両手で握り返した。
「い、今はただ、弱気になっているだけです! すぐによくなります! 巫女たちにも療養祈願を祈祷させます、私もします! ですからそのような——ッ」
諦めの言葉など聴きたくはなかった。
いつだって、どんなときだって、苦難を乗り越えてきたではないか。誰もが諦めてしまいそうな、諦めてしまいかけた状況の中でも、つねに一人だけ完全と立ち向かう姿を、ずっと昔から亜衣は見つめ、追いかけてきた。
たとえ自分たちの心が途方もない壁の高さを前にくじけようと、その壁を見上げる九峪が大胆な笑みを浮かべて振り返ってくれれば、それだけで百万倍の勇気を持って立ち上がれた。
十二年——そうしてともに歩んできたのに。
「まだ我々には九峪様が必要なのです! 北山が壊滅し中山と結ぶことで、たしかに九洲は後顧の憂いを取り除くことが出来ました。しかし——まだ世には、天目も、彩花紫も健在です。この二人に抗い勝利するには、九峪様の智謀が必要不可欠ですッ」
「天目と、彩花紫・・・・・・。そうだな、それが俺にとっても心残りだ」
九峪が遠い目をする。東海に優たる彩花紫と、中原を抑えて覇業を唱える天目。いまや倭国の天下は大きく三分され、動乱期も折り返し地点を回った。
自分が死ねば、倭国の二傑はこの先九洲をどうするだろうか。思うに九峪は、まず天目が本格的な九洲侵攻を企てる可能性があると考えている。乃小野の時みたく中途半端な陽動とは違う、準備万端整えて攻め込んでくるかもしれない。でなければ、予想外に連合を持ちかけてくるか。自分に匹敵する男がいなくなった九洲の動揺をたくみに刺激して、揺さぶって、泗国との同盟に皹を入れようとするかもしれない。
なんにしても——そのときまで、九峪は生きていないだろう。
「あいつらのことは気がかりだ。だけど、万が一のことを、想定しておいた方がいい」
「万が一なんて——」
「起きなけりゃその方がいい。とにかく聞いてくれ。いま九洲は完全に一つの国家としてまとまった。南方の琉球も当面は脅威にならないし、ゆくゆく中山が併合すると俺は読む。さっき亜衣が言ったように、後顧の憂いはなくなった。この点で俺たちは天目と彩花紫を先んじたことになる」
「それは・・・・・・対外勢力のことですか?」
倭国の政情を亜衣は思い出した。
天目は西に耶麻台共和国、南に泗国連合、東に狗根国と三方を敵に囲まれている。
彩花紫も天目や泗国ばかりにかまけていられない。北の蝦夷を警戒しているからだ。
しかし耶麻台共和国は、今度は中山と良好な関係を結ぶことにあんる。これは利益として大きい。天目の出方次第ではあるが、これで泗国へ全力を傾けられるようになった。
悩みの種が一つどころか二つも消えた耶麻台共和国には、現状で、志野と尾戸の軍勢が待機状態におかれている。
今後は泗国計略へ差し向けることも可能だ。
「泗国争奪戦・・・・・・いまはこう着状態が続いているけど、流れを掴むときがきた」
やつれた体を無理に起こし、握られていないもう片方の手で、包み込むように亜衣の手を握った。「亜衣ッ」と、強く呼んだ。頬のこけてきた顔に似合わない、とてもよく澄んだ瞳に吸い込まれそうなほど、亜衣はぐっと引き寄せられる気がした。
「お前が頼りだッ」
「九峪、さま・・・・・・」
「伊雅ももう歳だ、そう長くは生きていられない。俺が死んだとき、太師の役職を兼務してほしい」
「私が太師に!?」
神の遣いの受け皿として用意されたはずの役職である。それを自分が継承することなど、夢にさえ見ることなどなかった亜衣には、とても受け止められるものではなかった。
荷が重過ぎる。
「私は自身が宰相の役目を全うしきれているとも言いかねます! なのに太師を兼務するなんて——」
「これは亜衣にしか頼めない」
亜衣の弱音を九峪はぴしゃりとはねつけた。この男にしては珍しい、有無を言わさぬ語気の強さだった。
まだ拒否の言葉が口をついて出そうになった。だが済んでのところで思いとどまった。九峪のために生きるという誓いを思い出した。
宰相として数々の失態を演じてきた上に、こんどは九峪の願いを振り払うのか。こうまで頼られているのに——。
しかし、それでも、首を縦には触れなかった。そんな亜衣の気持ちを察したのか、「俺はな」と九峪が語り始めた。
「亜衣が失敗を重ねた最大の原因が、他でもなく俺にあったと思っている」
宰相に就任してからの亜衣が犯した最大の失敗は、なんと言っても蔚海の台頭を許したことであろう。その直接の原因となったのは北山滅亡の余波かもしれないが、遠因を掘り下げていくと、文武騒乱に行き着く。
では文武騒乱はなぜ起こってしまったのか・・・・・・。文官が少数となり政治の大半を武官が取り仕切るようになった『武官政治』の現在を迎えたことで、ようやく九峪は気づくことが出来た。
九峪にとっての最大の失敗——それはこの国に、時代とあまりにそぐわない、未成熟な共和制を敷いた事にあったのではないか。
九峪は現代の感覚から共和制を思い浮かべた。それはこの時代にしても高度な政治思想ではあった。悪い面ばかりではなく、善い面ももちろんあった。だが、九峪の考える共和制とは、必ずしも成長していかなった。むしろ歪な形となって、いつかの文武騒乱へと繋がっていった。
そもそも国としての経験に乏しい倭国の一国家に、共和制は行き過ぎた先進的政治思想でありすぎた。九峪はそれに気づけなかった。気づき始めた頃には、蔚海が専横の限りを尽くしてつかの間の栄華を極めていた。
太師という役職は、神の遣いの受け皿であると同時に、改めて九峪が主導的に物事を進めるための受け皿でもあったのだ。でなければ、政治に宰相を、軍事に大将軍を、祭事に火魅子をとそれぞれ分担を区切っていながら、自ら率先して泗国計略を発動することはしなかった。
この国に、共和制はまだ早すぎた。そして九峪の生み出した共和制も、まだ未成熟すぎた。
「俺の敷いた共和制が、この国に内乱を起こさせたといってもいい」
もっとも悔やまれてならない。執行から十年で共和制は崩壊したのだ。九峪の理想は挫けてしまった。
「この国には強力な指導者が必要だ。その中心には火魅子がいて、だけど火魅子だけでは無理なんだ。宰相と太師を兼務し——いや、太師職を一元化した新たな宰相が、国家を導いていかないと、倭国大乱を乗り切ることは出来ない」
「・・・・・・それを、私にやれと」
「そうしてこそお前は、本来の力を発揮できるはずだ。ようやくわかったんだ。この国にあった共和制の在り方を。・・・・・・強力な指導者を、みんなで助けていけばよかった。道を間違えそうなときはみんなでただし、ともに困難を乗り越えていくべきだったとッ」
——震えている。亜衣の手を握る九峪の手が、悔恨に震えていた。握り締めた。ますます振るえが亜衣に伝わる。
言葉が出てこなかった。なんども後悔している姿を見てきたけど、ここまで己を責めている姿は知らない。何かを言いたかった。違うと言いたかった。しかし、九峪の考えている在るべき共和制の容が、徐々に亜衣にもわかってきていた。だから慰めの言葉も出てはこなかった。
共に和する国に、強靭な芯が通っていなかったから、バラバラになる。どんなに強靭な芯であっても、周りから支えられていないと、すぐに倒れてしまう。
死が近づき、そのときになって気づいた。遅すぎた。遅すぎたから余計に後悔の念が大きくなる。
九峪は人生で最大の後悔をしている。
何の言葉もひねり出せない自分が情けなかった。亜衣は、言葉の代わりに、強く々々九峪の手を握り返すことしか出来なかった。九峪の目には涙はない。なのに、亜衣は涙を流していた。
人事ではないのだ。九峪の無念がひしひしと伝わってくる。涙なき慟哭を上げる九峪は、自分がついに果たせなかった理想を、誰でもない自分に託そうとしてくれているのだ。
受け止めるしかなかった。いや、受け止めたい。九峪の理想を、自分が受け継ぎたい。
亜衣は嗚咽を噛み締めた。息を飲み、声を絞り出した。言葉はとても短かった。
「承知、しまし、た・・・・・・」と——
すすり泣く亜衣に、九峪は薄い微笑を浮かべる。
「悪い・・・・・・いつも面倒ごとばかり押し付けてる」
「・・・・・・い、いえ・・・・・・私は、九峪様の・・・・・・右腕、ですから」
「——俺の右腕が、亜衣でよかった」
——心の底から、そう思った。思い、さらに想った。
面倒ごとを何度も押し付けて、亜衣は、その期待に何度も応えてくれた。そんな亜衣に、自分は報いてきただろうか。何かを残してやれたかと。
ない——何も、ない。
涙を流す亜衣に、自分は何もしてやれていない。何一つ残してはいない。亜衣が重ねてきた苦労や、いま流している涙に見合う何かを、与えてやりたい。
——いや、そんな理由は要らない。そんな理由だけにしたくない。惚れた女に、何もしてやれない自分がただ情けなくて。
ふと、宮庭で抱きしめあった涼夜のひと時を、思い出して。
身体が勝手に動いていた。理屈も何も、もうなんにも、どうでもよかった。
——こんなことしか、してやれなくて、ごめんな
先の下がった切れ長の眉、眼鏡の奥で涙に濡れた瞳、泣いて色づいた頬の朱に——たまらない愛しさに、謝って。
九峪はそっと、唇を重ねた。
二人しかいない空間に、一瞬の永遠が時を刻むように——
驚いていた亜衣が、瞳を閉じて、片腕を九峪の背に回す。ぎゅっと抱きしめる。身体を寄せて、それに九峪も応える。
そうして二人は、互いを相手に刻むようにして、何度も求め合った。接吻は息が続く限り、どちらも終わらせようとはしなかった。
いつまでも、こうしていたかった。その気持ちだけが強く支配した。男と女だけがそこにいた。だけど、それでも、肌を合わせようとはしなかった。それが互いに課した、決して破ってはならない制約であるから。
何度目かの接吻から、お互いが顔を離した。亜衣の頬はなおさら赤くなっていた。九峪のやせた頬も上気している。小鳥が啄ばむように吸いあった、ただそれだけなのに——二人がこうまで求め合うのは、初めてのことだった。
亜衣はまだ涙を流している。眼鏡を外して、頬に流れている雫を指ですくった。そしてまた、眼鏡をかけなおしてやる。そんなことでも、妙に嬉しかった。亜衣も、九峪も。
こんなにも近くにいる。触れあえる。触れ、あえた。
亜衣の柔らかい黒髪を撫でる。昔よりも少しだけ伸ばされた髪を、指に絡める。
「最低な男だ、俺は。俺を慕ってくれた女は振って、そのくせして何人にも心を寄せている。亜衣にだって嫌な思いをさせたはずだ。なのに・・・・・・こうしている今が、幸せに感じるなんて」
抱きしめる腕に力がこもる。幸せを逃がしはしないと言わんばかりに。
耳元で囁かれた九峪の自虐。やはり痩せてしまった九峪の胸に抱かれ、「それでも・・・・・・」と、亜衣は瞳を閉じたまま、呟いた。
「私の居場所は、私だけのものです。星華様には星華様の、清瑞には清瑞の居場所が、九峪様のなかにあるように。私の居場所は誰にも奪われないし、奪わせはしません。私の生き方が、私なりの愛し方が、その居場所を守り抜いてきました」
「亜衣・・・・・・」
「一番になりたいと思っていました。星華様との婚姻を進めているときは、ただ辛くて苦しくて・・・・・・。——でも、もう一番になれなくても、せめて、好きでいられたかった」
「・・・・・・好きだよ、俺は・・・・・・亜衣のことが」
「でも同じくらい、清瑞も好き。星華様も好き」
「・・・・・・ああ」
躊躇いを押し殺し九峪は応えた。嘘は言いたくなかった。誤魔化しもしたくはなかった。
「それでも、いい。この居場所だけは、星華様にも、伊万里様にも、清瑞にも、絶対に侵させないッ。九峪様の右腕は——私だけですッ!」
涙声で叫ぶ。心の全てをさらけ出して、ありのままの亜衣がいま、九峪の腕に抱かれている。
九峪は——ただただ、亜衣を抱きしめた。愛しい女性を、抱きしめた。想いが胸に広がっていく。それはとても暖かくて——だからこそ、とても悲しい。
「ごめんっ、ごめんな、何もしてやれなくて。・・・・・・こんなことしか、してやれなくてッ」
「なら、生きてください、死なないでくださいッ。それだけで、いいですから・・・・・・」
——亜衣が望むことなら、なんでもしてやりたい。亜衣の涙を止める術が、生き続けることしかないのなら、永久を生きてやりたい。けど・・・・・・
「俺はッ・・・・・・ごめん・・・・・・」
ひたすら、ただひたすら、己の儚さが悔しかった。亜衣を悲しませている自分が、許せなかった。
静かな部屋にむなしく響くすすり泣きの声に——いつしか九峪の声音も、混ざりこんでいた。