第二章である修学旅行編は、幕間から始まります。
嗚呼、かくも楽しき学園生活——幕間その壱
—小林氷咲side—
ハッピーエンドで終わりを告げた、月下ヤンデレ停電事件。
平和に、瞬く間に、二日の日々が過ぎていた。
俺は学園からの帰路の途中に、ある室内に立ち寄っていた。
ある種、深い思い入れがある部屋である。
重厚さを感じさせられるソファーから腰を上げた。
万感の想いで頭を下げた。
綺麗に包装した贈り物を、二つ、机に置く事も忘れはしない。
中身は、缶コーヒーの詰め合わせである。
学生の身分に取っては、高い痛手となった。
「学園長、先日の計らいのほど、ありがとうございました。
こんな粗品しか用意できなかったのですが、高畑先生にも渡しておいて下さい」
対角線上にて、仰々しい椅子に深々と座る凛々しき学園長。
どうしてだろうか。その目がまさに点になっていた。
前方の窓から、西日が眩しく差し込んでいる。
それは学園長の背後から差しているため、さながら身体から後光を発する仏様のようだ。
思わず手を合わせそうになったが、さすがに失礼に当たるかもと堪えた。
下校時の賑やかな声が、壁に遮断されてくぐもって聞こえてきていた。
そう。
学園長に会うために、ここに来たのであった。
なぜかと言うと、一言、当然の事であると言えよう。
先日お世話になった、プロレスごっこ停学事件への、感謝の意を示すために赴いているのであった。
誠に残念な事が一つある。
それは、麻帆良のダンディズムの象徴とまで口々に語られる、高畑先生が私用のために姿が見えなかったのだ。
それについては再度伺わせて貰い、出来うる最大限のお礼をすると誓おう。
しかし今は、学園長へと精一杯の感謝の意を伝える事が先決である。
下げたままだった頭を戻して、学園長の様子を伺った。
感動してくれているのだろうか。真剣な表情で贈り物を撫でながら呟いた。
「……わざわざすまんのう」
受け取って貰えるようである。
肩の荷が降りたと、安堵の息を吐き出した次の瞬間であった。
目を白黒とさせられる事になったのだ。
なんと唐突にも学園長が、深々と頭を下げたのである。
机に額が触れそうなほどにだ。
「氷咲くん、申し訳ない。
きみを監視しておったことを謝罪したい」
うん。
意味がわからない。
取り合えず、言葉の整理から始めるとしよう。
学園長が俺を、監視していた?
どうして、だろうか?
その不思議さは、さながら未習得の方程式のような難解さであった。
頭を悩ましたが、なんとか理解はできた。
こういう事であろう。
発端は、先日のプロレスごっこ停学事件。
俺を吸血鬼から守ろうとする故に、学園長は強く問い質してきていた。
しかし、俺は学園長にまで火の粉が向かわないように、嘘をつき通した。
どこにボロがあったのかは定かではないが、学園長は怪しんでいたのだろう。
そして万が一の事態を考えて、監視という苦肉の策をこうじたのではないだろうか。
だがその監視という方法は、善意から向けられていたとはわかるが、結果的に言えば、疑いの目を向けた事実には変わらないのである。
それを、学園長は謝罪しているのであろう。
俺という、まさしく草食系男子な一般生徒を疑ってしまった事に罪悪感を感じているのだ。
なんという、素晴らしき学園長なんだ。
猛烈に感動していた。
明かそうとしなければ気づく事はなく、そのまま仲良くやっていけたはずだ。
それなのに、正直に監視していたことを謝罪する。
一般的な大人には中々できないことと言えるだろう。
こんな大人になりたい。
素直に思えた。
しかし、疑問点が一つ浮かび上がった。
監視をしていたならば、俺の嘘も明るみに出ているのではないだろうか。
だがそれは、学園長を想っての行動である。
笑って、許してくれるように思えた。
それよりも現状、早急に為さねばならぬ行動は一つである。
罪悪感に苦しんでいるであろう、学園長の優しき心を、少しでも早く楽にしてあげる事だ。
さほども、気にしてなどいませんよ。
笑顔で告げようとすると、それを学園長が遮るように言った。
その声音には、どこか哀しみが漂っているように思えた。
「もう一つだけ、あるんじゃ。
きみの、その、見てしまったんじゃ。
……死神のような格好とその波動を」
予想外の事実に、空気さえ止まったように思えた。
なんと、言うことだろうか。
まさか学園長に、厨二病真っ盛り的である死神スタイルを目撃されていたとは。
まずい。
これは、まずいぞ。
第一に、特大の鎌は銃刀法違反である。
第二に、空を飛ぶ。これも見られているだろう。これでは変人である。
どこか哀しそうな声音であったのは、好青年だと思っていた俺こと小林氷咲が、印象とはまるで違ったために嘆いていたからではないだろうか。
しかも、これでは内申点に響くどころの騒ぎでは留まらないだろう。
停学と言う二文字が、脳裏に明滅していた。
誤解なんです!
死神に勝手に変身させられただけなんです!
停電の時は、人助けのためだったんです!
僕も困り果てているんですよ!
即座に反論しようとしたが、無理矢理言葉を飲み込んだ。
死神に勝手に変身させられて困り果てている。
誰がこんな与太じみた話を信じてくれるのだろうか。
学園長であればもしくは。
とは思う。
思うが、下手をすれば、さながら麻薬中毒者を見るような目で接されるおそれもあるだろう。
それは酷く、悲しすぎる末路と言えよう。
学園長の瞳には、深い悲しみが揺れていた。
俺に裏切られたと感じているのであろう事は明白であった。
ならば、ならばだ。
説明すると言う行為は逆効果に思えた。
説明すれば説明するほど、俺への印象は最悪のものになるだろうし、信じて貰えなかった時の末路は悲惨であろう。
では泣く泣く、泣く泣くではあるが、苦肉の策としてこれからの自分を評価して欲しいと訴えるのはどうだろうか。
過去は過去として深い懐で割り切って貰い、再度、一から評価して貰うのだ。
マイナスからのスタートとなるのは心苦しいが、現状、他に選択肢は浮かばなかった。
それに誤解や勘違いとは、時間が解決してくれると信じよう。
好青年を振る舞うため、無理矢理顔中の筋肉を動かして笑みを浮かべた。
「過去は過去です。
学園長には、これからの僕を評価してほしい」
祈る思いで、様子を伺った。
すると、どうしてだろうか。
学園長の瞳が微かに揺れているように見えたのだ。
そして、感慨深げに何度も頷いたのち、その口が開かれた。
「氷咲くん、一つ聞いても良いかな?」
「はい」
真顔で頷いた。
「きみは、人々と手を取り合い働くと言う平凡な夢を、叶えようとしているのじゃな?」
質問の意図が何を指しているのかが、雲を掴むかのように理解出来なかった。
しかし、夢はサラリーマンになることだ。
平凡な社会の歯車的な役割であるし、人々と手を取り合う仕事ととも言えるだろう。
強い頷きで持って、答えを返した。
学園長は目を細めて髭をさすり、逡巡の後、頷いた。
口許に張られた笑みから、優しさが溢れていた。
「わしは、小林氷咲くんの過去を、なんら詮索しないとここに誓うぞい」
その声が鮮明に聞こえた。
愕然とした。
こ、このお方はどれだけ器が大きいんだろうか。
さながら、大巨人がいたとしてもその壮大なる器量には諸手を上げて降参を示すだろう。
不可抗力とは言えだ。
銃刀法違反と言う犯罪を犯してしまったのにも関わらず、過去は忘れると言ってくれたのだ。
それはつまり、俺が説明などせずとも、止むに止まれぬ事情があったのだと汲み取ってくれたのであろう。
感動が、身体に染み渡るように浸透していった。
昂揚感に耽っていると、学園長が素敵な笑みを浮かべた。
「きみの夢を支援するとも誓うぞい。
いや、この老いぼれに支援させてはくれんかのう」
慌てふためいた。
幾度となく、度重なる不運に遭遇してはきたが、麻帆良学園に入学して正解だったと言えよう。
「いや学園長!
そんな低姿勢にならないで下さい!
こちらこそ……よろしくお願いします」
深く、頭を下げた。
学園長の頼みならば、生涯トイレ掃除をさせられても厭わないと笑えよう。
それから長い間、談笑は続くことになった。
学園長の懐の深さと自らのひよっこさを、再認識させられた楽しくも勉強になった一時であった。
しかし、不思議に思うことが一つだけあった。
終始、微笑んでいた学園長が、その時だけは真顔で言ったのである。
「氷咲くん。
京都に近づいてはならんぞい。
きみは、学業に専念して、立派な大人になるんじゃ」
意図がわからず、一瞬だけ思考が止まったが笑みを返した。
「学園長、草食系男子たる僕が学業を疎かにする訳がないじゃないですか」
学園長が満足げに頷いた。
「フォッフォッフォッ。
それで良いのじゃ」
京都に、何か嫌な思い出があるのだろう。
深くは聞かなかった。
誰にだって、言いたくない事の一つや二つはある。
それに学園長の言葉は、俺にその嫌な体験をさせたくないための優しさから来ているのであろう。
素直に嬉しかった。
それにしても、学園長は心配症だなぁ。
平凡がどれだけ幸せで貴重なものなのかを語らせて貰った。
時間を忘れるほど夢中になってしまった。
窓の奥の空が、薄暗くなり始めていた。
寮母さんに門限破りとまた怒られてしまうのだけは、避けたかった。
まだ話し足りなく、後ろ髪引かれる感はあるが致し方ないと言えた。
「学園長、門限があるため、今日の所は帰らせて下さい」
「フォッフォッフォッ。
そうか。そうじゃったな。きみは平凡なる一般生徒なのじゃからな。
わしも心が和んだわい。
これから、何か問題が起こったらわしに言いなさい。
協力しよう」
心が、まるで強風を浴びたかのように揺れた。
多大なる感謝の意を笑みに表しながら立ち上がって、深々と一礼した。
別れの言葉を告げようとすると学園長が言った。
「前々からわからなかったんじゃが、草食系男子とはどんな意味なのかのう?」
なんと言う、ボキャブラリー溢れる学園長なんだ。
最後まで笑いの精神を忘れないその心意気に感嘆した。
笑顔で持論を答えた。
「草食系男子とは、簡単に言うと所謂」
「じじい、話しがある」
簡単に言うと所謂、弱々しくて可愛らしいインドアな男子の事ですよ。
とは言えなかった。
突如、何者かの声に遮られたのである。
その可愛らしい声音には、聞き覚えがあった。
声がしたドアの方向を振り返った。
そこに佇む人物を視認して固まった。
女子中等部の制服が良く映えた、エヴァンジェリンさんだったのである。
エヴァンジェリンさんは中等部の生徒だったのか。
これは失礼な勘違いをしていたと思っていると、恥ずかしき記憶が蘇った。
あの夜の事であった。
一言で言うならば、感極まり泣き顔を見せてしまった一夜。
恥ずかしくあったが、皆と親睦を深める事ができた。
エヴァンジェリンさんが別れの際に、いつでも遊びに来いとの嬉しい言葉も貰えた。
彼女には今でも多大な感謝をしているし、これからも色褪せる事はないだろう。
しかし、しかしである。
俺という存在は、彼女の告白を断った立場なのだ。
おいそれと遊びに行くなど、彼女を傷つける行為に他ならないし、馬鹿にした行為であると思えた。
正直に言えば内心は違う。
素敵な女性であるし、友達として仲良くなりたい、とは思う。
しかし、多大なる罪悪感から会いたくないといった感情の方が大きいのも事実だった。
エヴァンジェリンさんの綺麗な瞳が見開かれた。
俺と学園長へと視線を移して、突如、その瞳に鋭さが増した。
相反するように、口許には素敵な笑みが浮かんでいた。
これはまずい。
どうしてかは理解できないが、完全に憤っていると言えた。
小柄な身体に不釣り合いな、さながら暴風の如き殺気に気絶しそうになった。
「じじい。
やはり貴様、その煩わしい後頭部を切り落とされたいようだな」
情けなくも内心ホッとした。
二人の間に面識があったのかは検討はつかない。
だが、エヴァンジェリンさんは学園長に対して怒っているようなのだ。
唖然としている所を見るに、学園長自身にも思い当たる節はないのだろう。
それにしても学園長は強き男だと言えよう。
これが年の功と呼ばれるものなのだろうか。
後頭部を切り落とすと脅迫されているのにも関わらず、狼狽している素振りが見えなかった。
この件に関係ない俺が、恥ずかしくも気絶しそうになっていたのに。
しかし、思う。
さすがの学園長とは言え、ご老体である。
吸血鬼の上、非科学的な光弾や突風を放つエヴァンジェリンさんには到底敵わないであろう。
下手をすれば、後頭部との別れを告げなければならなくなるかもかも知れない。
怖い、途方もなく怖い。
しかし、ここまでお世話になった学園長に危害を加えると言われて、黙ってはいられなかった。
それにエヴァンジェリンさんは心優しき女性なのだ。
話せばわかってくれるはずである。
勇気を奮い起こして言った。
「エヴァンジェリンさん。
学園」
「ヒサキ、お前は黙ってろ」
情けなくも、最後まで言葉を発することはできなかった。
その有無を言わさぬ言葉に、独りでに口が閉まったのだ。
それに、それにである。
エヴァンジェリンさんは、今何と言ったのだろうか。
普段の、小林氷咲というフルネームではなく、ヒサキというファーストネームで呼ばれたように聞こえたのだが。
聞き間違いだろうか。
いや、確かに呼んでいた。
そして思う。
この親近感が湧く呼称の裏側には、意味があるように感じた。
それは彼女の告白の台詞通りとも言えるが、現状として、小林氷咲は自らのものだと言わないばかりではないだろうか。
どういう結論から導きだされた答えなのかは、皆目見当はつかない。
しかし、これはまたあの死と隣り合わせの、ヤンデレ状態に陥っていると考えて異論を挟む者はいないだろう。
いやいやいやいや。
これは困った事になった。
告白は断られたのだと、エヴァンジェリンさんに告げねばならないとは。
その想いには感謝してもしきれないが、俺には心に決めた人がいるのだ。
しかし、そんな事を告げたならば、歩く事さえできなくなってしまうのではないだろうか。
どうすれば。
頭を悩ませていると、学園長が言った。
「な、なんの用じゃ?」
学園長の問いを、エヴァンジェリンさんが一笑に伏した。
「どうせ、またこいつに厄介事を持ち込む気だろう」
「いや、わしは」
「黙れじじい。貴様はヒサキに関わるな。
おい、行くぞ。
なんだその阿呆の子のような顔は。
茶々丸、連れて来い」
「了解しました」
何が何やらわからない。
まさに混迷と言えよう。
エヴァンジェリンさんが不機嫌そうに部屋から出ていくのを、呆けて見ていた。
唐突にも、傍らに茶々丸さんが現れて一礼した。
「……小林氷咲様、失礼します。
マスターのご命令は絶対ですので」
俺の腕を優しく掴んだ。
茶々丸さんのか細い腕のどこに、これだけの力が隠されているのだろうか。
為すがままに、引っ張られてしまう。
放心状態ながらも、フラフラと千鳥足で歩いていく。
事の推移が急激で、全く持って思考がついていかない。
だが、一つだけ思えた。
茶々丸さんに触れて貰えるとは何たる幸運だろうか。
ドアが徐々に閉まっていく。
学園長の唖然とした顔が、印象に残った。
取りあえず心配だけはかけないように、笑みを持って頷きを返した。
—近衛近右衛門Side—
学園長室に、不穏なる空気が漂っていた。
わしの胸中は重く、罪悪めいた感情を持て余していた。
お決まりの椅子に腰掛け、目前のソファーに腰掛けた少年を見遣る。
その双眸は、こちらを射抜くように向けられていた。
それは周囲の空気さえも淀ませているように思えた。
発端は先ほどじゃ。
生徒達の喧騒を肴に、熱いお茶を啜っていると、電話のベルがなったのじゃ。
軽快に応対したわしは、驚くこととなった。
なんと、その電話の相手は氷咲くんだったのじゃ。
先日、停電時の決闘の結末には、年甲斐もなく心の芯を震わされた。
それは一つの感情を波立たせた。小林氷咲という生徒を危険視していたことに、より一層の多大なる罪悪感を得ていたのじゃ。
高畑くんと話し合い、ある事を決めていた。
遠くから不遇なる少年を見守り、さりげなく支援しようと。
呼び出しの一件にて、わし達は嫌われていると容易に推測できたからじゃ。
これが、わし達のできる最大限の償いじゃった。
じゃと言うのに当の本人から連絡があり、訪問の可否を問われては唖然としない方がおかしいじゃろう。
その意図の見当はつかない。
つかないが、否という選択肢は初めからなかった。
内心穏やかではないが、彼の途方もないほどの優しき行動には感謝しておる。
彼が何を想い、何を為すのか。
わしはその全てを、受け止めなければならない。
それが学園長としての、最低限の職務じゃから。
室内に重々しい空気が漂っていた。
わしは真剣な表情で、氷咲くんを見つめていた。
氷咲くんが静かにソファーから腰を上げた。
学生鞄から包装された品物を取り出し、机に置いた。
不思議に思っておると、愕然とする事となった。
「学園長、先日の計らいのほど、ありがとうございました。
こんな粗品しか用意できなかったのですが、高畑先生にも渡しておいて下さい」
目が点になるとは、この事じゃろうか。
氷咲くんが唐突にも、深々と頭を下げ謝辞を述べたのじゃ。
彼の言った事を、動こうとしない頭を叱咤して纏める。
わしと高畑くんが、氷咲くんのために何かをしたという意味じゃろうか。
じゃから彼は、謝辞と共に贈り物を持って訪問してきたというのであろうか。
皆目見当はつかなかった。
今まで彼にした行いを、思い返してみた。
しかし、した事といえば、まさに百害あって一利なしと言えるじゃろう。
ならばどうして。
そう思ったときに、ある行動を思い起こした。
停電時の決闘において、封印結界の作動の操作による介入をしていたのじゃ。
しかし、それは元々、ネギくんのための切り札であるし、エヴァに気取られぬよう細心の注意をはらっていた。
じゃが、氷咲くんが気づいていたとしたら話は繋がった。
なんという、素晴らしき情報能力じゃ。
彼のとった戦略を鑑みれば、その封印結界の作動を利用したようにも思えた。
なんという戦略。
まさに悪魔と天使、二つの顔を持つ戦略じゃ。
皆無傷であり、敵であったエヴァさえも救うその戦略は、なんと素晴らしき事か。
その上、しっかりとお礼までしにくるその心意気に、感嘆の息を漏らした。
それと同時にある感情が浮かび上がった。
贈り物を撫でながら呟いた。
「……わざわざすまんのう」
氷咲くんの瞳は澄み、とても魔族のようには思えなかった。
その瞳は、今のわし、いや世の大人には酷く辛い。
純粋で、それでいて優しく、幸せになる事だけを夢見ておる。
そんな彼にわしは何を為したのか、再認識させられた。
そして、浮き彫りにされた自らの穢れが煩わしかった。
じゃが、わしも男じゃ。
全てを、受け止めると決めたのじゃ。
彼の真摯な瞳に、浄化されていくように感じた。
生徒を守るために仕方なかったなどと、言い訳はすまい。
深く、真摯に頭を下げた。
どれほど振りじゃろうか、古い記憶にさえ残ってはいなかった。
「氷咲くん、申し訳ない。
きみを監視しておったことを謝罪したい」
氷咲くんの息を呑む声が聞こえてきた。
それは気づいていなかったための所作ではない。
こちらを計り兼ねている、いや信頼に値するのかどうかを判断しているのじゃろう。
静寂が広がった。
ゆっくりと頭を上げると、そこには少年の笑顔が在った。
小林氷咲と言う少年は、わしを許してくれるのか。
心が、暖炉に薪を焼べるように徐々に熱くなっていった。
重大なる博打をした。
氷咲くんの瞳が、悲しみから曇るかも知れない。
不遇なる過去を想い起こさせるかも知れない。
しかしじゃ。
わしは、愛すべき生徒の悲しみを救いたい。
隠し事はなしで、彼の欲する幸せを支援したい。
本当の意味で、彼の強力なる背景になりたいのじゃ。
意を決して言った。
「もう一つだけ、あるんじゃ。
きみの、その、見てしまったんじゃ。
……死神のような格好とその波動を」
辺りにその声だけが響いた。
氷咲くんの瞳が、様々な色を称えた。
驚愕と悲しみ、それらの色が混じり合い、わしの心を盛大に揺るがした。
じゃが、後悔などをしてはならない。
彼の深い悲しみを共に背負うためには、それが最低限の礼儀であった。
氷咲くんの顔が、怒りからか、引き攣った。
口が開きかけたが、声を発さずに閉じた。
出てくるはずだった言葉は、罵声の類じゃろうか。
彼が俯き、沈黙の後、顔を上げた。
そこには笑顔があった。
しかし、引き攣った笑顔じゃった。
それは演技じゃろう。
知られたくはなかった想いを知られてなお、わしを労ろうとするその壮大なる器量。
たった十五歳の少年にできる表情ではない。
「過去は過去です。
学園長には、これからの僕を評価してほしい」
過去は過去、か。
不遇なる過去を割り切り、幸せな未来を夢想する。
そしてそれを、わしに評価して欲しいと言った。
わしという人間は、氷咲くんの信頼に値する人間になれるのじゃろうか。
いや、必ずならなければならない。
心に刻むように頷いた。
静かに口を開いた。
「氷咲くん、一つ聞いても良いかな?」
「はい」
氷咲くんが、真摯に頷いた。
「きみは、人々と手を取り合い働くと言う平凡な夢を、叶えようとしているのじゃな?」
これは最終確認。
いや、自らを奮い立たせるための問い。
氷咲くんが、即座に頷いた。
その頷きは勢いが良く、意思の強さをまざまざと再確認させられた。
ならば、何も言う事はない。
できうる最大限の笑みを浮かべた。
「わしは、小林氷咲くんの過去を、なんら詮索しないとここに誓うぞい」
氷咲くんの瞳が見開かれた。
身体が小刻みに震えていた。
わしは畳み掛けるように笑みを返した。
良いんじゃ。
きみは、幸せになっても良いんじゃよ。
「きみの夢を支援するとも誓うぞい。
いや、この老いぼれに支援させてはくれんかのう」
氷咲くんが慌てふためいた。
こんな彼を見るのは初めてじゃった。
ふと、孫を見るような目で、彼を見ている事に気づいた。
それほどまでに、小林氷咲という魔族の少年には価値がある。
「いや学園長!
そんな低姿勢にならないで下さい!
こちらこそ……よろしくお願いします」
氷咲くんが、頭を下げた。
その様は美しくも儚かった。
まるで夜空に浮かぶ一番星のように輝いていた。
わしは深く頷いた。
彼を遠くから優しく照らす、太陽のような人物になるのだと。
それから、愛すべき生徒との談笑は続いていた。
氷咲くんの純粋さと、自らの穢れを再認識させられた楽しくもためになる時間であった。
その途中の事じゃ。
わしは、ある事柄から釘を刺した。
氷咲くんの情報能力ならば、東と西のいざこざを知っている可能性が高いからじゃ。
その上、彼の性質は酷く優しいと言えよう。
困った者がおれば手を差し出さずにはおれない。
さながら、善を体現したような少年じゃ。
実力が圧倒的なまでに離れている強者のエヴァへと、その善意故、弱者の側に立ち戦う暴挙をした。
ならばネギくんを支援するために、単身で京都に乗り込むという暴挙をせんとも限らないのじゃ。
そんな善ばかりをしていたら、いつの日か彼は、命を落とすじゃろう。
人助けをして死ぬなら本望だと言うかも知れないが、わしは絶対に許さない。
それほどまでに、情が移っておった。
それに彼には裏関係は似合わない。
現実は優しくないのじゃ。
だからこそ、平凡なる幸せを最優先にして欲しかった。
「氷咲くん。
京都に近づいてはならんぞい。
きみは、学業に専念して、立派な大人になるんじゃ」
意図がわからなかったのか、一瞬だけ首を傾げたが笑顔を返してきた。
「学園長、草食系男子たる僕が学業を疎かにする訳がないじゃないですか」
そうじゃ。
それで良い。
わしは満足げに頷くと笑った。
もう隠し事はない仲と言うのに、未だ一般生徒だと言いはるとはのう。
なんとユーモアのある冗談じゃろうか。
「フォッフォッフォッ。
それで良いのじゃ」
それから氷咲くんは、平凡がどれだけ幸せで貴重なものなのかを熱く語ってくれた。
反面、わしの想像を超えるほどの幼少期を過ごしていた事が伺い知れた。
微笑みを持って、その話に耳を傾けた。
気づくと、外が夜へと変わっていた。
氷咲くんが笑顔で言った。
「学園長、門限があるため、今日の所は帰らせて下さい」
門限を重視するとは、一般生徒らしくて好感が持てた。
これが、ブラックジョークと呼ばれるものなのかのう。
氷咲くんは将来、コメディアンになるのも良いかも知れん。
身体を揺らして笑った。
「フォッフォッフォッ。
そうか。そうじゃったな。きみは平凡なる一般生徒なのじゃからな。
わしも心が和んだわい。
これから、何か問題が起こったらわしに言いなさい。
協力しよう」
氷咲くんの瞳が微かに滲んだのを確認した時、わしもつられて滲みそうになった。
しみじみとした空気が、室内を覆った。
じゃが、涙はこの場にはそぐわないじゃろう。
微笑んで、前々から疑問に思っていた事を聞いた。
その空気を変えようと思ったのじゃ。
「前々からわからなかったんじゃが、草食系男子とはどんな意味なのかのう?」
氷咲くんが、年相応な一般生徒のように吹き出した。
爽やかな笑顔で声を上げた。
「草食系男子とは、簡単に言うと所謂」
「じじい、話しがある」
小刻みに頷いて耳を傾けていると、突如、何者かの声に邪魔をされた。
不思議に思ったが、わしをじじいなどと呼ぶ生徒は一人しかいない。
エヴァが普段のようにけだるそうに入ってきた。
余りに突然だったために、唖然としてしまった。
エヴァの目が見開かれた。
わしと氷咲くんへと、交互に視線を移してから、その瞳に鋭さが増した。
しかし、口許には素敵な笑みが浮かんでいた。
どうしてかと聞かれても、わからん。
わからんが、エヴァは憤っておった。
その小柄な身体から殺気が溢れていた。
「じじい。
やはり貴様、その煩わしい後頭部を切り落とされたいようだな」
急速な事態に、老いた頭がついていかない。
氷咲くんが諌めようとしてくれたのか言った。
「エヴァンジェリンさん。
学園」
「ヒサキ、お前は黙ってろ」
氷咲くんが黙り込んだ。
仕方なかろう。
わしでさえ面くらった、有無を言わさぬ迫力なのじゃから。
それにしてもエヴァが、氷咲くんをファーストネームで呼ぶとはのう。
良いことじゃな。
仲よき事は美しき事かな。
じゃが、後頭部を切り落とされねばならん理由と、訪問の用件を聞かなければならんのう。
少々気圧されてはいたが、なんとか口を開いた。
「な、なんの用じゃ?」
エヴァはさも当然だろうと言わないばかりに、一笑に伏した。
「どうせ、またこいつに厄介事を持ち込む気だろう」
な、なにを言っておるのじゃ。
そ、そんな訳なかろうが。
困惑しながらも、反射的に口が開いた。
「いや、わしは」
「黙れじじい。貴様はヒサキに関わるな。
おい、行くぞ。
なんだその阿呆の子のような顔は。
茶々丸、連れて来い」
「了解しました」
一切の反論は許されなかった。
何か口を挟む時間も与えられなかった。
さ、さすがのエヴァと言うべきかのう。
見事なまでの早業で、氷咲くんを引き連れて消えてしまったのじゃ。
心配には思ったが、部屋から出る時に氷咲くんは苦笑を見せていた。
それはつまり、エヴァに付き合ってくるのだと示していたのじゃろう。
やはり優しき少年、か。
それにしても、エヴァのはやとちりには困ったものじゃのう。
心外にも、わしが何やら、氷咲くんをたぶらかそうとしたと濡れ衣を着せられるとは。
そんなにわしって、信用がないのかのう……。
まあ、誤解を解くのはいつでもできるじゃろう。
内心は打って変わり、穏やかそのものであった。
願わくば一つだけ。
ちっぽけでも良い。
氷咲くんに平穏なる幸せが掴めますように。
そう言えば、また草食系男子について聞きそびれてしまった。
じゃが、いずれ教えて貰えば良いじゃろう。
もう、温くなってしまったお茶を啜った。
うむ、美味く、はない。
感想を述べて苦笑した。
「草食系男子とは、一体どういう意味なんじゃろうか」