ある少女の英断——表
—小林氷咲side—
青過ぎる空が、頭上高く展開していた。
雲一つない、吹き抜けるような空であった。
そんな晴れやかな景色とは不釣り合いにも、俺は歯を食いしばり、無我夢中で走っていた。
額や、身体中から、汗が吹き出していた。
乳酸からか、両足が緩慢になってきた時、やっと大宮駅を視認できた。
しかしまだ、安堵の息を漏らすには早計と言えた。
タイムリミットが刻一刻と迫っている事実は変わらないからである。
多大なる焦燥心に駆られながら、祈るように携帯電話を開く。
液晶に浮かぶデシタル時計が、まるで微笑んでいるように思えた。
九時四十五分を、表示していたからだ。
最後の力を振り絞るように、全力で足を交互に動かした。
階段を駆け上がり、プラットホームに着くと、ある人物か集団を探して歩く。
深呼吸を繰り返し、呼吸を整えてから、人込みを見つめた。
穏やかな春風が前髪を揺らして、人々の賑やかな声が耳に届いた。
並ぶように立つ自動販売機の奥の線路上に、電車らしき、いや電車があった。
あれが『あさま506号』で間違いないだろう。
天真爛漫な男の子が、不思議そうな瞳でこちらを凝視しているのに気づいた。
しかし、その鼻から垂れる水分を、優しく拭ってあげていられる時間はなかった。
電車の窓の奥に、ある小さな人影を見つけたからだった。
あたふたと歩き回っているその姿は、紛れもなく見知った少年、ネギくんであった。
電車の中に足を踏み入れながら、これまでの顛末が、ふと思い返された。
大宮駅に赴いた理由についてだが、それを説明するのは一言、簡単である。
事の発端は昨日。神楽坂さんに、チョーカーを贈ったという行為だった。
いや、贈り物をした事そのものに後悔などは微塵もないし、その結果には満足していた。
恐らくだが、孤児である彼女の笑顔を見られただけで、自分の事のように嬉しかった。
さながら、チョーカーにも口があるならば、微笑んでいた事だろうと思う。
しかし元々は、ネギくんのために購入した贈り物であるという一点が、重要なのである。
俺は、何か他の物を探せば良いだけと高をくくっていた。
だが学園終わりから一日中、贈り物探しに時間を費やしたと言うのにも関わらず、関わらずだ。
これだと頷けるものが見つからなかったのであった。
今日の早朝、俺は落ち込みを隠す事はできなかった。
肩に居座る死神でさえも真っ青になるだろう意気消沈ぶりで、学園へと向かっていた。
脳裏には、ネギくんの小さな背中が浮かんでいた。
さながら弥勒菩薩の如く神々しき学園長が、何かにとり憑かれたかのように忌み嫌う街、京都。
そこに赴く少年に、自らは何もしてはあげられないのか。
教室に着き、自らの席についた。
窓の外を、意味もなく眺めていると、学友達が心配をしてくれているのだろう。してくれた挨拶は、どこか弱々しく感じた。
人に迷惑をかけるなど、してはならない事だと、無理矢理にでも笑った。
学友達が未だに心配そうに見ていたが、自らの席へと去っていった。
窓の外の青空が、酷く肌寒く見えた。
はあと、溜め息をついた時だった。
状況を一転させる事態が巻き起こったのは。
ズボンのポケットが、唐突に震え始めたのである。
不思議に思い探ると、それは携帯電話であった。
苦笑しながら開くと、液晶には学園長と表示されていた。
他の人であるならば、応対する事はなかっただろう。
しかし、相手があの学園長ならば話は別であった。
学園長には、並々ならぬ恩義を感じていたからだ。
マナーモードのため震え続ける携帯電話を掴み、男子トイレへと足早に走った。
個室に入ると、立ったまま応対に出た。
電話とは言えだ。洋式の便座に座って応対するのは、学園長に失礼だと思えたからである。
「はい。小林です。おはようございます」
「フォッフォッフォッ。
氷咲くん、おはよう」
電話口から、優しげな笑い声が響いてきた。
騒いで止まなかった心が、次第に落ち着いていくのを感じとった。
なんて、素晴らしきお方なのだろうか。
その声はさながら、天界から微笑んで民を見下ろす、神々の一声のように聞こえた。
惚けてしまいそうになったが、これはいけない。
学園長を待たせるなど、まさしく言葉の通り、神に唾を吐く行為である。
「どうしたのですか?
学園長もお忙しい身の上でしょう」
「いやのう、氷咲くんの調子はどうかと思ってのう」
その声が、身体に染み渡っていくように感じた。
偶然だとは思われるが、このタイミングの良さはなんなのだろうか。
どこかで見ていたようではないか。
落ち込んでいた俺にとってそれは、さながら地獄に垂らされた一筋の救いの糸のように思えた。
元々、弱音を吐く事は得意ではなかった。
しかし、しかしだ。
学園長にならば、思いの丈を打ち明ける気になれた。
意を決して、言った。
「突然で申し訳ないんですが、僕は学園長を尊敬しています。
そんな尊敬する学園長に、所謂一つの道を、ご教授して頂きたいんです」
どうしてだろうか。
電話口から息を呑む声が聞こえてきた。
「ほう……なにかのう」
不思議には思ったが、話しを続けた。
「ネギくんが、京都に向かう事はご存知ですよね?」
学園長がまた息を呑んだが、その理由については、直ぐに検討がついた。
ネギくんが向かう場所、それが問題なのだ。
京都。学園長の悪しき思い出が詰まった冥界。
俺が想像するより遥かに重い出来事があったのだろうと頷けた。
その沈黙を肯定ととり、静かに言った。
本心がこぼれた。
「ネギくんは京都に向かいます。
ですから僕は、何かしてあげられる事はないかと考えました。
僕には授業があるため、共に京都に行ってあげる事はできないからです」
「……ふむ。
そうか、きみはそこまでネギくんの事を……」
学園長が静かに言った。
「はい。
だから勇気づけるために、贈り物をしようと考えたんです。
京都。危険な京都での、心の支えとなれるように。
ですが、それは叶いませんでした」
「なぜ、じゃ?」
「頷けるものが見つからなかったんです。
これだと自信を持って、頷けるものが」
「……そうか」
「今にもネギくんが、京都に向かおうとしていると思うだけで、僕の心は騒いで止まない。
学園長、教えて下さい。
僕は何を為せば、どう行動すれば、胸を張って正解と言えるのでしょうか」
静寂が降り立った。
けたたましいチャイムの音が響き渡った。
授業が始まる。
しかし今は、他に問うべき事があるのだ。
程なくして、学園長の声が聞こえてきた。
「ふむ、正解、か。
すまないんじゃが、わしのような老いぼれには正解はわからんわい」
正解はわからないとの言葉に、落ち込む暇はなかった。
強い意志を持って言えた。
「いえ!学園長は老いぼれてなどいませんよ!」
その想いとは裏腹に、学園長が盛大に笑った。
「フォッフォッフォッ。
良いんじゃ。良いんじゃよ。
その想いだけで、有り難さが老骨に染み入るようじゃわい。
じゃがな、氷咲くん」
「は、はい」
反射的に声を返した。
「正解はわからずとも、長年の経験故かな、きみが為すべき行動だけはわかる。
きみは、きみの夢を叶えなさい。人々と手を取り合う、平凡な夢をじゃ。
京都には、絶対に行ってはならぬぞ。
じゃが、それを固く約束してくれるならば」
「ならば?」
「大宮駅に、急ぐと良い。
午前の授業は心配いらないぞい。課外活動扱いにしておくからのう。
きみのその純粋なる想いを、伝えて来なさい。
それこそが、きみの為すべき行動であり、ネギくんの最大の支えとなるじゃろうて」
その声が、胸の奥に、突き刺さったように感じた。
沸き上がる暖かさは、学園長の言葉という魔法が起こした効力なのだろう。
学園長は、こう言ったのだ。
京都にさえ行かないと固く約束するのであれば、許可するから大宮駅に急げ。
贈り物などではなく、俺の言葉そのものが、ネギくんの最大の支えとなると。
そうか。
なぜ、気づかなかったのだろうか。
想いはものではないし、ものに代える事はできない。
想いとは、ただ伝えるべきものなのだ。
それを伝える事、それこそが俺の為すべき事。
頭に広がっていたモヤモヤが、嘘のように霧散していた。
学園長はここにいないと言うのに、俺は深く頭を下げた。
込み上げる感謝の意を、そのままに声に乗せた。
「はい!学園長、ありがとうございます!
行ってきます!」
「フォッフォッフォッ。
行って来なさい。
きみの帰る場所は、ここ、麻帆良にあるからのう」
学園長の穏やかな笑い声が、俺の鼓膜と、心の芯を、強く震わせていた。
連結部分の車内で、安堵の息を漏らした。
携帯電話を開くと、時刻は九時四十九分が表示されていた。
学園長が、確か十時出発と言っていたように思う。
それならば、後五分くらいは猶予があるだろう。
これならば事を為した上に世間話しをしようとも、時間にお釣りがきそうだ。
さすがにそれは言い過ぎかと苦笑した。
学園長の有り難い言葉が浮かび上がってくる
学園長は、言ったのだ。
午前の授業は課外活動扱いにしておくと。
俺の私用の我が儘だと言うのにも関わらず、その多大なる優しさに器量。
強く思えた。
今後一切、学園長がいる方角に向けて尻を見せてはならない。
いや、それもそうだが、日に三度ほど、学園長室に向けて祈りを捧げるべきかも知れないと言えるほどであった。
ドアの窓から、そっと奥を覗き見た。
車両には、女子中等部の面々がいた。
座席と座席の間で、ネギくんが点呼だろうか。楽しそうに、一人一人に向けて視線をやっていた。
それにしてもと、思えた。
このクラスは、さながら漫画やアニメの世界の如く異常であると。
生徒達一人一人が、皆一様に、異常なまでに美人が揃っているのである。
皆、個性豊かであり、少女の華やかさが車両を埋めつくしているように感じた。
目を奪われていると、席に座る神楽坂さんを発見した。
こちらからは後頭部しか確認できないが、特徴的な鈴の髪飾りが印象的だった。
プレゼントのチョーカーが、京都での、いや、これからの彼女の支えとなりますように。
ふと、ある方向を見遣って、唖然とした。
先日、学園長室に呼ばれた時に、不審者扱いされた上、写真を幾度と許可なく撮られた少女ではないか。
しかし致し方ないと言えよう。
女子校舎に男子生徒が入ってきたのだ。不審者に思われるのも、理解できた。彼女を責めるのは筋違いである。
奥のドアの前に独り、佇む少女を視認した時にも、唖然としてしまった。
サイドポニーテールとでも呼称するのだろうか。
桜咲さんの整った容姿に良く映える印象的な髪型は、彼女で間違いないだろう。
そうか。
桜咲さんも、ネギくんの生徒であり、神楽坂さんともクラスメイトだったのか。
神楽坂さんは清く正しき少女である。
もう友達かも知れないが、違うならば今度、桜咲さんと友達になって貰えるように頼んでみよう。
俺の無力さのせいだが、今にも崩れそうな心の支えになってくれたら。
ふと、思えた。
ここにエヴァンジェリンさんと茶々丸さんが加われば、このクラスの華やかさは、より一層の高みへと昇るだろう。
しかし、この頃見知った少女達が、全員同クラスなどとは、現実的ではないと苦笑した。
ひとしきり考えた後、事を為すために気を引き締めた。
この生徒達の喧騒に割って入っていくのは、小心者の俺には、いささか緊張してしまうからであった。
しかし、俺は為さねばならないのだ。
ネギくんのため。
それに、学園長の心意気に報いるためにも。
強く、頷いた。
そして、ドアを開こうとした時であった。
まさに驚愕と言えた。
とんでもない事態が起こったのである。
何か流れているな、とは思っていた。
思考に没頭して、聞いていなかったのが悔やまれた。
車内放送だったのだろう。
それはおおよそ、出発を告げる合図。
入ってきたドアが、突如として、情け容赦なく閉まったのだ。
唖然とする俺をよそに、徐々に車内が揺れ始めた。
この事態は、一体。
直ぐさま、携帯電話を開いた。時刻は九時五十分を、示していた。
出発は十時だったはずだ。
それならば、なぜ。
まさに混迷の極みと言えた。
窓の奥の家並みが、目まぐるしく映っては去っていった。
いかんいかんいかんいかん。
これはいかんぞ。
未だに動こうとしない頭を叱咤し、無理矢理、回転させた。
程なくして、思考がまとまり始めた。
どうやらこの電車は、東京に向かっているようであった。
つまり俺は、東京に向かっているのである。
乗車しているのは普通列車であるからだ。
断じて新幹線ではない。
つまり向かっている方角的に考えても、東京で新幹線に乗り換えるのだろう。
安堵の息を漏らした。
なぜなら学園長から、午前の授業を課外活動扱いにして頂いていたからだ。
事を為し、東京にてとんぼ返りすれば、午後の授業に支障はないだろう。
幸い財布には、大分前からゲーム機購入費用が入っていた。
電車賃くらいならば、余裕で出せた。
それならば東京へ向かう間、ネギくんに想いを伝えよう。
しかし、ドアを開こうとする右手は動かなかった。
やはり小心者の俺には、女子生徒達の輪に入っていく勇気がなかったのである。
ふと光明が浮かび上がった。
東京駅に着けば、輪に入らずとも、ネギくんに接触できうるチャンスはあるだろう。
それまでに神楽坂さんか、桜咲さんと接触できれば、苦もなく呼んでもらう事もできるのだ。
これは、素晴らしい作戦ではないか。
小さく笑みがこぼれた。
何時だろうかと、携帯電話を取り出した。
どうしてだろうか。携帯電話の電源が落ちていた。
不思議には思ったが、電源を入れた。
その時だった。
唐突にも、携帯電話が明滅を繰り返し震え始めたのだ。
不様にも驚き、落としそうになったがこらえた。
液晶には、学園長と表示されていた。
頷いてから、親指で受話ボタンを押し込んだ。
東京駅に着いてからとんぼ返りすれば問題無いとはいえ、学園長を心配させないように報告しておくべきであろう。
「もしもし、小林ですが、学」
「おいヒサキ!お前、なにをしてるんだ!」
けたたましい怒声が、辺りに響き渡った。
耳鳴りと共に、一時的に聴力を失ってしまう。
愕然とした。
その可愛らしい声音は、間違えようがなかった。
紛れもなく、エヴァンジェリンさんのものであった。
しかし液晶には、学園長と表示されていたはずなのだが。
確かめて見たが、やはりそうなっていた。
うん。
意味がわからない。
思案に明け暮れていると、電話口からは否応なしの怒声が、無情にも鼓膜に襲いかかった。
「おい!聞いてるのか!?」
声だけで、はっきりと理解できた。
完全に、エヴァンジェリンさんは般若状態に陥っていると言う事実がだ。
身に覚えはないし、皆目見当はつかないのだが、背筋は正直だった。さながら、凍りつくように戦慄が走った。
恐怖から閉じかかる口を、無理矢理開いた。
これ以上彼女を怒らせては、ならないと言えたからだ。
比喩ではなく、下半身とお別れを告げなければならなくなってしまう可能性が高いからだ。
「あ、ああ、聞こえてるけれども」
「なら、今すぐ帰って来い!今すぐだ!」
「い、いや、帰れない状態になっていてね」
エヴァンジェリンさんが、なぜ俺の現状を知り得ているのかについてはこの際どうでもいい。
言葉の通りだった。
走る列車の中、どうやって帰れば良いのだろうか。
それに、東京からとんぼ返りすれば良いだけである。
というか、というかだ。
告白を断った一件についてはどうなったのだろうか。
俺の思惑とは裏腹な結果となった事は、未だにヒサキとファーストネームで呼んでいる事から容易に想像できるが。
それでも彼女が元気になってくれたのであれば、嬉しい事ではあるが。
「これは命令だ!
貴様の思惑など、鑑みてはやらんぞ!良いからさっさと帰ってこい!」
貴様の思惑とは、一体なんなのだろうか。
皆目結果がつかなかった。
本当に帰れない状況であるし、良い事をしようとしているため、怒られる要素はないに等しかったからだ。
ふとある予想が立った。
まさか。
まさかとは思う。
思う、思うがだ。
また再度、恐怖のヤンデレ状態に陥ってしまっていて、俺が自らのものとならないと激怒しているのではないだろうか。
勘違いを正した一件で思い悩み、その心が壊れて、暴走しているのだとしたら。
可能性は極めて高く思えた。
なんと、言う事だ。
心がまるで、肌寒い真夜中に変化させられたかのように重くなった。
胸が、キリリと痛んだ。
しかし、その痛みを抱きながら思う。
俺は、前までの俺ではないのだ。
皆の優しき想いに報いるためにも、強くなると決めたのだ。
彼女の壊れそうな心を受け止めて見せようではないか。
幾ら時間がかかろうと構わない。
その心が強く成長し、勘違いを認識できるまで、優しく支えて見せようではないか。
それがこんな俺を支えてくれた皆に対する、最大限のお礼だ。
「おい聞いてるのか!?」
「エヴァンジェリンさん、落ち着いて、聞いてくれ」
「なんだ?」
俺の真剣な声音が届いたのだろうか。
エヴァンジェリンさんの勢いが弱まった。
静かに言葉を繋いだ。
「俺は強くなるために、いや、俺は俺でいるために、為さなければならない事がある。
だからこそ、例えエヴァンジェリンさんの命令であろうとも、帰れないんだ。
大丈夫だよ。
直ぐに終わって帰れる。
帰ったら沢山話しを聞くから、待っててくれると嬉しい」
エヴァンジェリンさんが、黙り込んだ。
電車の走行音だけが、響いていた。
程なくして、電話口から声が聞こえてきた。
「……わかった。
貴様は愚か者、だな。
だが、一つだけ約束しろ」
「なにを?」
「危険な事には、絶対に首を突っ込むんじゃないぞ」
東京からとんぼ返りするだけなのだが、危険な事とは、一体。
しかしそれは善意、俺を心配する好意からきているのだろう。
静かに頷いた。
「約束する」
短い沈黙の後、エヴァンジェリンさんが言った。
「……そうか。
ならばもう、何も言わん。
生きて帰ってこい」
生きて帰ってこいとはと不思議に思っていると、エヴァンジェリンさんが言った。
その声音は真剣であり、酷く儚く聞こえた。
「いや、一つだけ言っておく。
……お前との答えは、いましがた、出たとな」
素直に驚愕したと言えよう。
エヴァンジェリンさんは、今にも消え入りそうな声で呟いたのだ。
答えは、いま、出たと。
それは彼女の心模様を、儚きほどに物語っていた。
俺との、勘違いに塗りたくられた関係に、終止符がついた事を。
彼女を、尊敬した。
それは、耐えようもないほどに苦しかっただろう。
それは、身を切るような悲しみに苛まれた事だっただろう。
しかし彼女は決断した。
おおよそ、今もなお荒れ狂う心の暴走を、自らの手で止めて見せたのだ。
それならば俺が為すべき事は一つだと言えた。
素晴らしき人間と、必ずやなって見せるだけだ。
それがさながら、エベレスト登山の如く厳しき道のりだとしてもである。
彼女のただならぬ想いに、報いるために。
深い感動に襲われた。
揺れる車内。
移り行く景色に、優しき少女の英断。
電話口から、しみじみとした学園長の声が聞こえてきた。