ある少女の英断——裏
—近衛近右衛門Side—
四月二十二日、早朝。
登校を急ぐ生徒達の喧騒が、学園長室に小さく響いていた。
お決まりの椅子に腰掛けて、湯気が立つ湯呑みを手に取った。啜り、その苦味を楽しむ。
窓の外の空は、広大で青かった。木々に、新緑の息吹が芽吹き出していた。
壁に掛けられた円形の時計を見遣って、小さく頷いた。
程なくして、あの子達は京都へと旅立つ。
心の中で呟くと、罪悪めいた感情が頭を出した。静かに首を左右に振って、諌めた。
これは、あの子達の長き未来のために、必要な事と割り切らなければならない。
深く頭を悩ませた末に、断腸の思いで決断した事である。
今さら考え直すなど、それこそがやってはならない愚かなる偽善と言えよう。
湯呑みから湯気が昇り、茶の渋い香りが鼻をくすぐった。
口許に一気に流し込む。喉を、熱いものが伝った。
意を決して、テーブル上に置かれた受話器を取った。
記憶の中のある番号を引っ張り出して、順番に押し込んだ。
小気味の良い、呼び出し音が連続して鳴った。
程なくして電話口から、ある人物の声が耳に届いた。
「はい。小林です。おはようございます」
「フォッフォッフォッ。
氷咲くん、おはよう」
そうそれは、愛すべき生徒。小林氷咲くんに他ならない。
優しげな澄んだ声音が、耳をくすぐった。自然に、穏やかな心地となっていく。
ふと思うだけで、笑みがこぼれるほどに好感が持てる少年。
「どうしたのですか?
学園長もお忙しい身の上でしょう」
「いやのう、氷咲くんの調子はどうかと思ってのう」
わしの口から出た言葉は、嘘偽りない本心である。じゃが、隠された内情を測ろうとする探りの一手でもあった。
どうして探りを入れなければならないのか。
それは一つの、重大なる懸念があったからじゃ。
懸念とはと問うならば、氷咲くんの本質を浮き彫りにすれば事足りるじゃろう。
彼を一言で表すならば、善意の塊のような少年じゃ。
困っている者がおれば、手を貸さずにはいられぬ善人。
自らの熾烈な苦悩を押し隠してまで、他人を労る事を優先してしまう、無垢な微笑みを絶やさぬ少年。
ありふれた人間よりも、人間らしく、大多数の人間よりも気高く優しき、魔族の血脈。
たった数週間程度の付き合いだと言うのにも関わらず、わしは孫のように大切に感じていた。
いや、わしだけではない。
彼の善意に触れた人間は、等しく同じ感情を抱かずにはおられないのじゃ。
それは、虜とされたと言っても過言ではないじゃろう。
それほどに、小林氷咲という魔族の少年には価値があった。
さながら、広大な砂漠で遭難した者が、等しく水を求めるように。
氷咲くんは一度、善意という名の暴挙を犯した事がある。
弱者を救うため、その傍らに立ち、命を懸けた。
自らよりも圧倒的なまでの強者を相手に、その隠し持っていた牙を、闇夜にて輝かせたのじゃ。
ならば、一つ問いたい。
見知った友が、危機に相対するのを感知した時、彼はどのような行動を起こすじゃろうか。
以前、釘を刺してはいた。
じゃが、彼の類い稀なる情報能力を侮ってはならない。
それを鑑みた時、わしの心には、一つの重苦しい懸念が生まれた。
氷咲くんがその並々ならぬ善意故に、ネギくん達を救うため、単身、京都に乗り込むのではないかと。
じゃが、高らかに言える事があった。
わしは、それを許す事はないじゃろう、と。
なぜならば、人々と手を取り合い働く平凡なる夢。それこそが、氷咲くんにとっての、値打ちのある幸せなのだと信じているからじゃった。
氷咲くんは、過去に言った。
過去は過去。他ではなくわしに、未来を評価してほしい、と。
不遇なる生い立ち。熾烈なまでに悩み苦しんだ末に、過去を割り切った彼。
そんな彼に、わしがしてあげられる事は何じゃろうか。
それは裏世界とは無縁の、平穏なる幸せをその手に掴む支援をする事ではないか。
だからこそ、今、わしは受話器を取っておるのじゃ。
ただの邪推だったかと笑えたらどんなに良いじゃろうか。
そう、希望を抱きながら。
考え込んでおると、なにやら真剣な声音が聞こえてきた。
「突然で申し訳ないんですが、僕は学園長を尊敬しています。
そんな尊敬する学園長に、所謂一つの道を、ご教授して頂きたいんです」
率直に、照れもなく尊敬していると言われては、昂揚する気持ちを隠す事はできなかった。
じゃが、わしは息を呑んだ。心は裏腹に、複雑な色を映していたからじゃ。
『所謂一つの道』
この言葉の響きに、不穏な気配を感じ取っていた。
内心覚めやらぬ、ざわめきを抱いていた。
「ほう……なにかのう」
「ネギくんが、京都に向かう事はご存知ですよね?」
息を呑まずには、おれなかった。
まるで心を、掴まれたかのような錯覚に陥ったからじゃ。
氷咲くんは、やはり知っておったのじゃ。
考え込むわしをよそに、矢継ぎ早に声を上げた。
「ネギくんは京都に向かいます。
ですから僕は、何かしてあげられる事はないかと考えました。
僕には授業があるため、共に京都に行ってあげる事はできないからです」
その声色は真摯であり、真面目であった。
その率直な言葉に、わしの身体は深き感動に襲われた。
どうしてそこまで、ネギくんを強く思っておるのかは、想像もつかない。
じゃが、氷咲くんに限ってそれは、多大なる善意からくるものである。
氷咲くんは、儚きほどに、いつ如何なる時も優しさを忘れぬ姿勢が物語っておった。
彼は、こうも言った。
自らは授業があるため、共に京都にはいけない、と。
それは、わしが何よりも欲していた言葉じゃった。
じゃが、その言い回しには、やはり不穏な気配が首をもたげていた。
「……ふむ。
そうか、きみはそこまでネギくんの事を……」
「はい。
だから勇気づけるために、贈り物をしようと考えたんです。
京都。危険な京都での、心の支えとなれるように。
ですが、それは叶いませんでした」
感嘆の息を漏らした。
氷咲くんの純粋で、それでいて真摯な心意気。
世の大人達が忘れてしまった心意気に、心が揺らいだ。
それに、危険な京都という言葉で、氷咲くんの内情全ては、白日の下となった。
やはり、そうであったか。
氷咲くんの情報能力の高さは、まさに千里眼と揶揄したとして、誰も否とは言わないじゃろう。
東と西のいざこざを、その眼差しは見抜いていたのじゃ。
疑問が口をついて出た。
「なぜ、じゃ?」
「頷けるものが見つからなかったんです。
これだと自信を持って、頷けるものが」
氷咲くんは、真面目過ぎる。
その溢れでる善意に見返りを求めぬ姿勢は、時に自らの首を絞める事になるやも知れない。
じゃがしかし、それこそが彼の魅力。人を引き付けて止まぬ、所謂、カリスマと言えよう。
「……そうか」
「今にもネギくんが、京都に向かおうとしていると思うだけで、僕の心は騒いで止まない。
学園長、教えて下さい。
僕は何を為せば、どう行動すれば、胸を張って正解と言えるのでしょうか」
静寂が降りた。
唯一の音。授業の始まりを告げる、チャイムの音だけが響き渡っていく。
氷咲くんは黙して、その口を開こうとはしない。
並々ならぬある決意を、わしに示していた。
氷咲くんは、遠回しにこう言ったのじゃ。
京都に行きたい。
夢は大切だが、譲れないものがある。
学園長、教えてほしい。
自らが京都に向かう事は、間違いなのか。正解とは言えないのか、と。
心にさながら、鷲掴みにでもされたかのような衝撃が走った。
うごめくようなざわめきが、より一層、色濃くなっていく。
その言葉に、わしは間違っているのではないかとの疑問が浮かび上がった。
小林氷咲という愛すべき生徒の魅力を、自らのエゴで縛りつけ、失わせようとしているのではないかと。
彼の言葉を、刻むように反芻した。
真剣な声音。並々ならぬ決意に、目頭が熱くなった。
深く、頷いた。
わかった。
わかったぞい。
わしの過保護な方針は、間違いであったのじゃ。
縛りつけ、その魅力を失わせるなど、あってはならない事だと思えた。
氷咲くんが、氷咲くんたる所以。氷咲くんらしさを失わせてはならない。失わせないようにした上で、彼を力強く支援しなければならないのじゃ。
それは自らの力量では、力不足かもしれない。
じゃが、やりきってみせようではないか。
例えそれは、水面の上を歩くより難しい事であったとしても。
心に刻むように、ゆっくりと頷いた。
心に残っていたしこりが、嘘のように霧散していくのを捉えた。
晴々とした心地。
紛れもない正解なのだと教えられているようであった。
自然に笑えた。
「ふむ、正解、か。
すまないんじゃが、わしのような老いぼれには正解はわからんわい」
「いえ!学園長は老いぼれてなどいませんよ!」
氷咲くんらしくない、大きな叫び声。その労ろうとしてくれる意思に、暖かくなっていく。
優しさが、心に染み渡っていく感覚がした。
盛大に笑った。
「フォッフォッフォッ。
良いんじゃ。良いんじゃよ。
その想いだけで、有り難さが老骨に染み入るようじゃわい。
じゃがな、氷咲くん」
「は、はい」
ふと脳裏に、氷咲くんの優しき微笑みが浮かんだ。
「正解はわからずとも、長年の経験故かな、きみが為すべき行動だけはわかる。
きみは、きみの夢を叶えなさい。人々と手を取り合う、平凡な夢をじゃ。
京都には、絶対に行ってはならぬぞ。
じゃが、それを固く約束してくれるならば」
全て、本音じゃった。
だからこそ、長年の経験故の、狡猾さが言葉に現れていた。
隠しようのない未来へ希望、本音。
氷咲くんに、京都に行ってほしくはないという意思。
「ならば?」
わだかまりを振り切るように、口を開いた。
それもまた本音であり、嘘偽りなき本心。
「大宮駅に、急ぐと良い。
午前の授業は心配いらないぞい。課外活動扱いにしておくからのう。
きみのその純粋なる想いを、伝えて来なさい。
それこそが、きみの為すべき行動であり、ネギくんの最大の支えとなるじゃろうて」
沈黙が流れた。
生徒達の喧騒も、今はもう聞こえなかった。
氷咲くんが、声を上げた。
「はい!学園長、ありがとうございます!
行ってきます!」
これで氷咲くんは、わだかまりなく、京都に向かうじゃろう。
多大なる善意故に、魅力故に。見知った友の窮地を救うために。
それで良い。良いのじゃ。
それこそが、彼の本質、なのじゃから。
何者もその穢れなき本質を、穢してはならない。
例えそれが、この世を揺るがすような絶対の強者だとしても。
ならばわしの出来うる事、いや、最低限守らなければならない事は一つじゃ。
氷咲くんの帰る場所を、安らげる場所を守る事。
満面の笑みで、ねぎらいの挨拶をしてあげる事。
「フォッフォッフォッ。
行って来なさい。
きみの帰る場所は、ここ、麻帆良にあるからのう」
微笑んで、そう告げた。
—エヴァンジェリンside—
校舎内の渡り廊下を、歩いていた。
茶々丸は無言で付き従い、床を鳴らす靴の音だけが響く。
生徒の喧騒はない。授業中であるからに他ならない。
窓の奥に、木々の新緑が色づき始めているのを視認した。
上空には、一面に濃い青色が展開し、数羽の鳩が羽ばたいてその姿を消した。
私の心境は意気揚々としていた。それは口許に笑みとして形作られていた。
なぜならば、ある人物を殲滅せんと、学園長室へと向かっていたからだ。
その人物を例えるならば、一つであろう。
麻帆良に潜む大妖怪。近衛近右衛門という名の、見事と讃えられるほど狡猾な老害だった。
早朝、久方ぶりに、気が立っていた事は認めようではないか。
青過ぎる空も、緩やかな風も、全てが煩わしかった。
本来ならば、ヒサキとの事を考えて、嬉々と悶々の間に唸っているのだが。
ではなぜ、今日は気が立っているのか。
それは一言、修学旅行当日だからに他ならない。
これも全て、忌ま忌ましき登校地獄の呪いのせいだ。
今年もまた、見飽きた麻帆良。この地を後にする事ができなかった。
そこで私は、陰欝とした気持ちを浄化するように、ある事を考えた。
それは愚かにして優しく、馬鹿のように気高き男。小林氷咲の事だった。
大分時間が経ったというのにも関わらず、未だに答えは出ていなかった。
だがそれは、そこまで真剣に考えるべき事柄であるからだろうと、素直に言えた。
ヒサキには悪く思うが、まだまだ時間が足りなかった。
そこである事を思い出した。
ヒサキは高等部一年生だという事実だった。
修学旅行はまだ先だ。それはつまり、ヒサキはこの麻帆良の地に残っているという事になる。
ここにいれば危険は皆無であるし、近くにいると思うだけで、穏やかな心地となれた。
私の感情をこうまで左右できる者は、世界中血眼になって探したとしても、もはや小林氷咲という男以外にはいないだろう。
苦笑いが浮かび上がった。
そこでふと、ある事柄が思い返された。
ヒサキとの一件により、忘れてしまっていたのだ。
独りでに、愉悦の笑みが口許に浮かび上がっていく。
そうそれは、ある狸を血祭りにあげるという事柄。絶対に許してはならない事実。
先日は泣く泣くだが、ヒサキの手前だ。致し方なく、見逃してはやっていた。
だが、ヒサキをたぶらかそうとした行為。それは万死に値する行為なのだ。
程なくして、狸の醜くき後頭部は、その造形を変えられる事態に陥る。
狸も、喜ばしく思ってくれるだろう。
人間らしく、より普遍的な頭蓋骨の造形へと整形されるのだから。
なあに、死にはせん。
狸こと近衛近右衛門の生命力は、異常と言っても過言ではない。
さながら、部屋のそこら中に沸く、黒びかりした背を持ったカサカサと動く虫のように。
死ぬ事はない、だろうよ。
愉悦の笑みを浮かべていると、学園長室の前に着いた。
乱暴に扉を開け放って、声を上げた。
「じじい、年貢の納め時が来たようだな」
じじいは代わり映えなく、お決まりの椅子に座っていた。これも代わりなく、片手に湯呑みを持っていた。
その目は唖然と、こちらを捉えていた。
ゆっくりと口が開いていく。
「な、なんの用じゃ?」
全く持って、代わり映えのしないじじいと言えた。
先日と同様の言葉を、阿呆の子のように呟くとは。
やはり狸、小動物か。学習能力がないようだな。
不敵に笑うと、射殺すように睨みつけた。
「フッ。先日の万死に値する狼藉を……忘れたとは言わさんぞ」
じじいの額に、脂汗が浮かんだ。行儀悪く、口を空けていた。
「な、なんなんじゃ全く……。
……も、もしや?」
じじいの瞳に色が戻った。
自らの犯した由々しき罪状を、やっと思い返したようだ。
小さく頷きを返してやった。
さあ、覚悟してもらおうか。
「貴様の老いた頭でも、理解できたようだな?」
「ち、違うんじゃ!
わしは氷咲くんを」
じじいはこの期に及んで、情けなくも言い訳を宣った。
素直に謝ってでもいれば、結果は違っていたかも知れないというのにだ。
さながら神がいたとして、微笑む事を拒否したのだと言えた。
一切の情状酌量の余地なしと、高らかに言えた。
眼光を鋭く光らせて、告げた。
「黙れ。
貴様に弁明の余地はない。
他でもない。この私が、地獄へと送ってやろう」
指先に装備していた不可視の鉄糸を、有無を言わさず、じじいの後頭部に巻き付けた。
無情にも、日差しを反射して煌めいていた。
「ま、待つんじゃエヴァ!」
「フッ」
中等部校舎に、じじいの断末魔の叫びが響き渡った。
私は乱暴に番号を押し込み、受話器を耳に当てていた。
だが焦る心とは裏腹に、電話口からは、繋がらないと示す音が断続的に響いていた。
幾度となく、番号を押し込んではみた。だが結果は無情にも、同様の音が返ってきていた。
じじいを、射殺さんとばかりに睨みつけた。
「じじい、繋がらんぞ!」
「お、おかしいのう……」
「貴様……!偽りの番号を教えたんじゃないだろうな!?」
「い、いや偽りではないぞ。
ほ、本当じゃよ。だから睨まんでくれ。
生きた心地がせんわい……」
じじいが、慌てふためいていた。
顔中から、脂汗が浮かび上がっていた。
後頭部から、少々、血が流れているのが視認できた。
だが、それは自業自得であるし、そんな事に構っている時間はなかった。
もう一度と、電話器が壊れても構わないとばかりに、番号を押し込んだ。
すると、やっと繋がった。
電話口から、小気味のよい音が耳に届いた。
だが裏腹に、私の顔は引き攣る事となった。
なぜならば、あの一件以来、ヒサキとは会う所か、会話さえしていなかったからだ。
私にだって、人並みの羞恥心くらいはあるのだ。
今はそんな感情に、構っている暇はないのだが。
なぜ怒り狂っているのかと問われれば、先ほどの顛末まで、記憶を遡らなければならない。
後頭部に鉄糸を、幾重にも巻き付けて笑っていた時だ。
じじいが狼狽しながらも、言ったのだ。
「は、話しを聞いてくれ」
「……なんだ?言ってみろ」
私は優しき女性と言えよう。
後頭部との今生の別れを前に、一時の猶予を与えようと思えたのは当然だろう。
そしてそれは、後に正解だったのだと発覚した。
じじいの言葉に、驚愕の事実が示されていたからだ。
なんとじじいも、ヒサキを保護しようと画策していたというではないか。
初めは嘘だと嘲笑ったが、じじいの顔や声色の真剣さは異常だった。
いつもふざけた事ばかり宣うじじいが、過去、見た事もないほどに真剣だったのだ。
だが、致し方ないだろう。信じられるまでには、長い時間がかかった。
紆余曲折を経て、ある言葉が決定打となったのだ。
じじいは、言った。
「氷咲くんの過去は知っておる。
じゃが、魔族だろうが何だろうが構わない。
重要な事柄は一つ。
彼は、わしの愛すべき生徒に変わりないという事実じゃ。
高畑くんもそう思っておる。
わし達は、彼の夢、人々と手を取り合う平凡な夢を叶えてやりたいんじゃ。
エヴァと同じ気持ちじゃ。
のうエヴァ、皆で彼を支えて行こうではないか。
あの優しき少年の未来を、見守ろうではないか」
その声音は、強い意思を孕んでいるように感じられた。
目に淀みはなく、到底、嘘だとは思えなかった。
私は、静かに鉄糸を解いた。
不覚にも、じじいなどに、心が揺らがされていたからだった。
じじいが肩で息をしているのを横目に、思う。
これが小林氷咲という男の、魅力なのだろう、と。
たった数週間という短い期間だと言うのにも関わらず、ヒサキに出会った者は、従来の在り方を変えていく。
私に始まり、桜咲刹那、ネギのぼうやに、目前のじじい。
見返りを求めない、愚かなほどの優しき善意。
それに伴う、馬鹿がつくほどの真面目な言動。
それに触れた人間は、心に強く訴えかけられる。
自問自答を繰り返し、良い方向性へとその色を変えていかせてしまうのだ。
考え込む私をよそに、じじいが長い顎髭をさすった。
「氷咲くんは今、京都に向かおうとしておる」
その言葉に、反射的に言葉が漏れ出た。
「なに!どういう事だ!?」
ヒサキが京都に向かおうとしているだと。
なぜだ。
私の心模様はそれだけで、偽りかも知れないというのに、激しい怒りに支配された。
意味が、わからなかった。
ヒサキは、何より平穏を愛しているのだ。
ならばなぜ。
自問自答を繰り返す私に、じじいが語るように答えた。
「わしも、初めはその暴挙を諌めようと尽力した。
じゃが、氷咲くんは言ったのじゃ。
見知った友を救いたい。その想いは間違いなのか、と。
その言葉は真摯であり、真剣じゃった。
わしは、考えを改めざるを得なかったのじゃ。
氷咲くんの善意という魅力。それは例え神であったとしても、穢す事はまかりならん、と」
じじいの言わんとしている事。じじいが考えを改めた理由については、頷けた。
しかし、しかしだ。
心中は、悲しきまでの怒りに荒れていた。
私に取って、そんな事柄は関係ない。
私はただ、小林氷咲という男の身に、危険が迫る事が許せなかったのだ。
そして、一つの事実が浮かび上がった。
ただならぬ悲しみに襲われた。
なぜじじいには相談して、私には相談してくれなかったのだ。
それはおおよそ、私を心配させないようにという配慮からだと思われた。
わかっては、いた。
だがそれは、さながら悲しみが身体中を蝕んでいるような感覚がした。
「もしもし、小林ですが、学」
「おいヒサキ!お前、なにをしてるんだ!」
私の口から、悲しみを孕んだ怒声が漏れ出た。
こういう時には、なんと言ったら良いかわからなかったから。
激情に任せて、まくし立てた。
長きに渡る沈黙が降りて、心が焦燥に揺れた。
「おい!聞いてるのか!?」
「ああ、聞こえてるけれども」
「なら、今すぐ帰って来い!今すぐだ!」
「いや、帰れない状態になっていてね」
ヒサキは頑なだった。声音には、一切の揺らぎがなかった。
その事実が私の心を、焦燥感として執拗に脈打った。
叫び上げた。
私はただ、ヒサキが危険な目に遭ってほしくなかっただけなのだ。
「これは命令だ!
貴様の思惑など、鑑みてはやらんぞ!良いからさっさと帰ってこい!」
傍らにじじいがいるのも、忘れていた。
再度の、長き沈黙。それはヒサキの躊躇いのように思えた。
私の、心配する気持ちが伝わったのかも知れない。
「おい聞いてるのか!?」
躊躇いを後押しするように、まくし立てた。
だがそれは、無情にも逆効果となった。
「エヴァンジェリンさん、落ち着いて、聞いてくれ」
真剣なまでの声音が、次第に私の勢いを削いでいく。
強い意思が、胸に突き刺さったかのような感覚がしたからだ。
気丈を振る舞って呟いた。
「なんだ?」
一瞬の後、ヒサキは語りかけるように言った。
その声音は優しく、それでいて雄々しかった。
「俺は強くなるために、いや、俺は俺でいるために、為さなければならない事がある。
だからこそ、例えエヴァンジェリンさんの命令であろうとも、帰れないんだ。
大丈夫だよ。
直ぐに終わって帰れる。
帰ったら沢山話しを聞くから、待っててくれると嬉しい」
その言葉が鼓膜と心を震わした。
黙り込まずには、いられなかった。
ヒサキは言ったのだ。
俺が俺でいるために、成さなければならない事がある。
だからこそ、エヴァンジェリンさんの命令であろうとも聞けないんだ、と。
為さなければならない事。それは京都にて、ネギのぼうや達を支援するという事だろう。
出来るならば、愚かな馬鹿者の戯言と一笑に伏したかった。
帰って来いと、まくし立てたかった。
だが、それはできなかった。
なぜならば、私は誰よりも、ヒサキの事を理解しているという自信があったからだ。
あの平穏を愛する男が、危険を知ってなお、行動を起こそうとしている。
それは、どれほどの決意から起こした行動だろうか。
並々ならぬ決意では、ないだろう。
そんな男に、何を言えというのだ。
傍らにいた、じじいが笑った。
「フォッフォッフォッ。
エヴァ、男とはのう、猪のようなものなのじゃ。
こうと決めたら、猪突猛進。もはや諌める事は叶わない。
ここで共に、見守ろうではないか。
氷咲くんの魅力である善意を、失わせぬように。
それが残されるわし達の、為すべき事ではないか」
当然だが、内心、未だに止まない悲しみ、苛立ちはあった。
私の事よりも、優先している事柄に対してだ。
だが、私は小さく頷いた。
もうヒサキを、諌める事は叶わないと悟ったのだ。
私でも諌められないと言う事実は、ある事実を示していたからだ。
もはやヒサキの意思を曲げられる者は、この世界には皆無だという事実。
断腸の思いで、言った。
電話の向こう側にいるヒサキが、笑えるように。
「……わかった。
貴様は愚か者、だな。
だが、一つだけ約束しろ」
「なにを?」
一瞬の後、本音がこぼれた。
だがそれは、叶わぬ事。
「危険な事には、絶対に首を突っ込むんじゃないぞ」
電話口から、静かな声音が響いてきた。
「約束する」
それは偽りの言葉。
だが私を心配させないように配慮する言葉。
途方もなく優しき言葉。
途端に愛らしいという感情が騒いだ。
それを押し隠して、短い沈黙の後、私は言った。
「……そうか。
ならばもう、何も言わん。
生きて帰ってこい」
もう何も言う事はない。
電話を耳から離した時に、やっと気づけた。
自らが他人を、ここまで心配した事があっただろうかと、思えたのだ。
私が、ヒサキへと、恋愛感情を持っているか、否か。
今までの顛末が、昨日のように思い返された。
不思議と、笑みがこぼれた。
その笑みの意味は、いや、率直に言おうではないか。
ああ、好きだ。
好きだよ。好きで何が悪い。
小林氷咲という男の気高さ、途方もない優しさ。
短いが、その生き様をまざまざと見せつけられてきた。
こんなに美しき心を持つ男に、惚れない女などいない。
ヒサキは危なっかしい。
その優しさは、将来として、自らの首を絞める事になってしまうだろう。
だからこそ、誰かが、いや、私が、傍にいて見守ってやらなければならないのだ。
おおよそ、これが母性本能をくすぐられるという事なのだろうと思えた。
他ではなく、誰よりも私を必要としてくれたのだ。
こんなにも可愛くて仕方がない、あの愚かな馬鹿者のために。
私がいつ如何なる時も傍らに立ち、見守ってやろう。
そう、刻み込むように頷いた。
告白の一件から、悶々としていた感情は、嘘のように霧散していた。
そう結論づけただけで、大袈裟ではない。
今ならば、全ての事が許せる気がした。
この世の全てが、心地好く感じていた。
静かに口を開いた。
絶対に帰って来いヒサキ。
それを義務づける言葉を、電話口に送った。
「いや、一つだけ言っておく。
……お前との答えは、いましがた、出たとな」
それだけ言って、受話器をじじいに投げた。
学園長室を後にして、渡り廊下に出た。
茶々丸が後をついてくる。
今頃ヒサキは、どう思っているだろうか。
いや、自信家のあいつの事だ。歓喜している事だろう。
ふと羞恥心からか、頬が熱くなった。
開け放たれていた窓の奥に、広大な青空が見えた。
春風が吹き込んで、前髪を揺らした。
太陽の日差しが注ぎ込む。
暖かく、それでいて幸せな心地に、目を細めた。