学園長からの依頼——表
—小林氷咲side—
並々ならぬ決意を胸に、俺は窓の外の景色を眺めていた。
寂れた雰囲気を醸し出す自然が、視認できないほどの速度で移り変わって行く。
座席は柔らかく、高級感を誇示していた。
客数は、数えるほどだった。仕事に疲れ果ててでもいるのだろうか。背広を着た男性達が皆一様に、座席に背を預け、夢の世界へと指針を定めていた。
時刻は、十時を少しだけ過ぎていた。
東京駅からとんぼ返りする予定は、変わっていた。
電車ではなく、「ひかり213号」と言う名前の、新幹線に乗車していたからだ。
その上、特別待遇と言っても過言ではないだろう。所謂、グリーンと呼称される車両をあてがわれていた。
当然の事であるが、行き着く先は、京都だ。
学園長の穏やかさの象徴であるその瞳を、容易に、激情の色へと塗り替えてしまう冥界。
目的地に関しては明確な、言いようの知れない恐怖があるにはあった。
しかし、これまでに頂いた多大なる恩恵。それに微小でも応えるためには、為さねばならないのである。
深く頷いてから、音を立てないように注意して席を立った。
自らの夢。将来の先輩方となり得る、サラリーマンの方々を起こしてはならないからだ。
座席と座席の間を歩き、目当ての車両へと向かった。
俺がどうして、京都行きの新幹線に乗車しているのか。
その問いに答えるためには、先程の騒動にまで記憶を遡らなければならない。
東京行きの普通列車、『あさま506号』での騒動である。否応なく、心が震わされる事となった、ある少女との決着。
断続的に、定期的に、揺れる車内に走行音。
窓の奥には、寂れた町並みが過ぎ去って行き、背を預けている冷たい壁さえ寂しいもののように感じていた。
反面、携帯電話を持つ右手が震えていた。
それは間違えようがなく、感動から来ていた。
自らの熾烈なる苦悩。それよりも俺を優先し、労ろうとしてくれるエヴァンジェリンさん。
優しき少女の英断に、敬服めいた気持ちさえ抱いていた。
ゆっくりと息を吐き出すと、さながら燃え上がるように深き決意が浮かび上がった。
これは決定事項なのだと、内心で、呟いた。
愚かな自らに対して、無垢な好意を抱いてくれた女性。
暖かき包容力で包み込むように守ろうとしてくれた女性。
有り難き想いに報いるためにも、惚れて正解だったと思わせる男となるのだ。
模範すべき人物がいる。
それは学園長と高畑先生だ。将来必ずや、二人のような素晴らしき男性へとなって見せようではないか。
それこそが、俺が為さねばならぬ事柄。
刻むように頷いていると、電話口から、優しき笑い声が聞こえてきた。
それは尊敬して止む事のない学園長の声だった。
「フォッフォッフォッ。
氷咲くん。突然、エヴァがすまなかったのう」
突然だったため、一瞬だけ唖然としたが声を返した。
よく考えると当然だった。
学園長の電話番号からの、連絡だったのだから。
「いえ、構いませんよ。
はっきり言って驚きましたが。ですが、一つだけ」
「何かのう」
笑みを持って言った。
「学園長、ありがとうございました。
僕にとって、エヴァンジェリンさんとの会話は、必要不可欠なものと言えました。
僕は最近、ただならぬ悩みを抱えていました。
ですが今は、嘘や幻のように、その悩みは消えてしまいましたから」
本心。素直な言葉が口をついて出た。
学園長に対しての信頼の強さが、その言葉を言わせたのだろうと思えた。
ふと疑問が浮かび上がった。
どうして学園長の電話番号から、エヴァンジェリンさんが応対に出たのだろうか。
二人は仲が良いのだろうくらいしか思い浮かばなかった。
しかし、重要な事は一つであると言えた。
それは学園長の電話から、エヴァンジェリンさんが電話をしようと思わなければ、この最良と言える結末にはならなかったのだ。
きっかけをつくってくれた学園長にお礼を述べるのは、至極当然と言えた。
「フォッフォッフォッ。
そうか……。やはりきみは……」
学園長は、歯切れの悪い声を漏らしたきり、黙り込んだ。
どうしたのだろうか。
不思議だったが、黙って言葉を待った。
程なくして、学園長の声が聞こえてきた。
「きみの意思は鋼より固いのう。
わしの胸の奥に染み渡るように、しっかりと届いたぞい」
独りでに、首が傾げられた。
鋼より固い意思とは、一体。
しかし、直ぐに気づけた。
ネギくんへ、励まそうとする意思に対しての言葉なのだろう。
しかし、どういう会話の流れなのだろうか。
エヴァンジェリンさんの話しをしていたのだが。何の脈絡もないように思えた。
いや、学園長の事である。必ずや、何らかの深き意味があるのだろう。
再度の沈黙。
そして、想像だにしていなかった言葉を聞く事となった。
「うむ……わしも、覚悟を決めんといかんのう」
覚悟とは一体。
「氷咲くん。わし、近衛近右衛門からの、依頼を受けてはくれんかのう」
「依頼、ですか?」
「そうじゃ」
唖然とする俺をよそに、学園長は高らかに告げた。
「きみには、そのまま京都に赴いてほしいのじゃ。
修学旅行の間、ネギくんを見守ってやってはくれんかのう。
なに、授業の事や滞在費用に関しては、任せなさい。問題の無いように配慮しよう。
頼まれてくれんかのう?」
呆気に取られた。
うん。
意味がわからない。
学園長を待たせる事は申し訳ないとは思う。思うがだ。如何せん、思考回路が混迷と化していた。
叱咤するように頭を振った。
直ぐさま、記憶の整理を開始した。
程なくして、何とかその意味を把握する事は出来た。
要約すると、学園長はこう言っているのだろう。
修学旅行の間、京都にて、ネギくんを見守ってほしい、と。
余りの突拍子のない依頼に、またもや唖然としてしまった。
考えて見れば見るほど、異常な事態である。
ただの一介の学生に、幼いとは言え、教員を見守るために同行して欲しい。
授業の事、つまり出席日数や単位の事だろう。それから滞在費用に関しても、任せろとは言って頂けた。
しかし、修学旅行とは、一週間やそこらは京都に滞在する事になるのは明白である。
突然の事であるため、事前準備などはしていないのだ。
服装は制服のままであるし、着替えの服に日用品。新幹線の切符もそうであるし、寝泊まりするための宿泊施設の部屋取りなども未定なのだ。
あまつさえ行き先が、まずい。この世の地獄、京都である。土地勘なども皆無に等しい。
俺にとって京都に赴くという事は、さながら、未だに内紛覚めやらぬ国に赴く、戦場カメラマンの心境と同意と言えた。
見通しのきかぬ恐怖。
それはさながら、見えない壁で四方八方を塞がれてしまったような感覚であった。
壁に背を預けたまま、混乱を鎮めるため瞼を閉じた。
すると脳裏に、学園長からこれまでに受けた恩恵が、映像として流れていった。
ゆっくりと瞼を開くと、深呼吸をした。
内心、覚めやらぬ恐怖心は隠せなかった。過去の俺ならば、即座に否と答えていただろう。
しかし、俺は前までの俺ではないのだ。
それにこれは、この世の誰よりも尊敬する学園長からの依頼なのである。
受けられないなど、恩をあだで返す行為だと思えた。それに本心から、ネギくんを見守りたいという想いも強くあった。
ふと思えた。
これは試練なのではないか、と。
自らを、より強く、より素晴らしく成長させるための試練なのではないか、と。
完遂できた時、俺は変われるのだ。
エヴァンジェリンさんが惚れたのは正解であったと、胸を張って言える男に。
茶々丸さんの傍に、さながら聖なる光のような善意の傍に、いられる資格を持つ男に。
一切の迷いが、綺麗に消え去った。
心模様はさながら、濃霧が晴れて、天から一筋の陽光が差したかの如く暖かくなった。
再度、深く頷いた。鋼より固き意思を胸に言った。
「学園長は身体を休めていて下さい。
その依頼、僕が、完遂して見せましょう」
ネギくんと生徒達の車両は、後ろの方にある。
慎重に輪をかけて、目的の車両に向かい歩を進めた。
なぜならば、学園長から頼まれていたからに他ならない。
優しき言葉が脳裏に浮かび上がった。
「一つだけ、お願いがあるんじゃ。
きみも知っているじゃろうが、ネギくんは修業の身。
氷咲くんが近くにおると知ってしまうと、知らず知らずの内に頼ろうとする思考へと流れてしまうかも知れない。
それでは、修業とはならぬのじゃ。
だから氷咲くんには、遠くから見守るという姿勢を第一に考えてほしい。
ネギくんの身に余る騒動が起きたと認識した時だけ、支援してほしいのじゃ」
首を傾げざるを得なかった。
修業とは一体。
きみも知っているじゃろうがとは一体。
初めは頭を悩ませたが、直ぐに気付く事が出来た。
修学旅行自体を、素晴らしき先生となるための修業に、有効活用しようとしているのだろう。
そう言った思惑ならば、快く頷けた。
所謂、一つの独り立ち。それを促すには、俺という存在は邪魔だと言えよう。
だがしかし、やはり学園長はお優しい方である。
ネギくんを心配に思い、俺というバックアップを派遣するのだから。
学園長がわざわざ俺を選んでくれたという事は、光栄であるし、信頼されていると暗に示されている事に他ならない。
これはまさしく、責任重大だと言えた。 慎重に慎重をかけて、慎重という石橋を叩いて渡らねば、せっかくの修業が台なしになりかねないのである。
普段の俺ならば、力不足ではないかと悩むのだが、いつもに増して自信満々の面持ちだった。
なぜならば、隠密行動は得意中の得意であったからだ。
元より存在感が皆無の俺であるし、幼少の頃から訓練してきたスパイごっこが、奇しくもここで役に立つとは。
満面の笑みを浮かべながら、学園長に言った。
「学園長、任せて下さい。
僕は隠密行動が得意中の得意なんです。
幼少の頃から、訓練をしていまして」
するとどうしてか、学園長が黙り込んだ。
そして、言った。
「……そうか。そうじゃったか。
……きみは過去。
……すまんのう」
またもや歯切れの悪い言葉に不思議には思ったが、構いませんよと返しておいた。
因みに新幹線の切符は、学園長の一声でグリーンが取れたようであった。
なんという偉大さ。
まさしく鶴の一声だと、尊敬せざるを得なかった。
もう少しで、目当ての車両が視認できる位置に着く。
車両と車両を繋ぐ部屋には、トイレがあった。
さすがの新幹線と言えよう。
まさか、トイレが備え付けられているとは。
感心して、小刻みに頷いた。
その時だった。
とんでもない事態が発生したのである。
唐突にも、右肩から紫色の火柱が噴き上がったのだ。
顔を貫くように上がっていたが、風も熱も感じる事がなかったのが幸いだった。
普通ならば、大火傷どころの騒ぎではなかっただろう。
しかし、余りの唐突過ぎる事態に思考が停止していた。
目が点になるとはこの事だろうと思えた。
数秒の後、紫色の火柱は、掻き消えるように鎮火した。
唖然と見つめる。するとそこには、満足げに笑みをこぼす死神が腰掛けていた。
「ケケケケケ」
「……ふう」
溜め息を漏らさずにはいられなかった。
まさに無法者。人を驚かせて愉しむなど、外道と呼ばずしてなんと呼ぶのか。
最早、怒りなど通り越して、呆れて果てた。
注意しても意味はないからである。
紫色の火柱を噴き上げたのは、間違えようがなくこいつである。それならば、注意や説得は無意味なのだ。これまで幾度となく説得しようが、成果は皆無だったのだから。
やれやれと頭を左右に振っていると、一枚の封筒のようなものが床に落ちていた。
不思議に思い、指先で掴み上げて見た。
そこには「書状」と、印字されていた。
誰かの落とし物だろうか。
先ほど見かけたサラリーマンの方々の、仕事での大事なものかも知れない。
それならば一刻も早く、車掌さんに届けてあげなければ。
そう考えて、走り出した時の事であった。
前方のドアが開いたのである。そして、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「こ、小林さん!
ど、どうしてここに!?」
内心、ミニヒサキは、頭を抱えてうずくまっていた。
稟と通る声色の正体は、桜咲さんだったのである。
学園長に隠密行動が得意中の得意などと宣ったのにも関わらず、結果はこの有様だ。
死神のせいなんです!
学園長!学園長!
そう、声高らかに叫びたいのはやまやまではなかった。
しかし、最重要である、ネギくんに見つかった訳ではないのだ。そこまで落胆する必要性はなかった。
それに桜咲さんには、悪気も責任もないのだ。彼女は悪くないし、天使のように優しい娘さんである。
悪いのは全て、アウトロー死神さんなのだ。
取り敢えずで挨拶をしようとすると、ある物を発見してしまう事になった。
それは桜咲さんの右の掌に、しっかりと握られた刀であった。
内心、落ち込んでしまうのを隠せなかった。
先日、原宿での顛末には、確かに手応えを感じていた。
だが彼女の病み苛む心は、未だに刀を捨てる決意を持てなかったのだと示していたのだ。
その上、修学旅行にまで携えて来るとは。
これは最早、末期であると言えた。
しかし、一人の少女の苦悩を解消させるなど、そんな大それた事が容易い訳がないのだ。
やはり彼女には、長き時間が必要なようだ。
それにはまず、何よりも笑顔だろう。好意を示して、敵意がない事を誇示しなければならない。
桜咲さんの問いに、最大限の優しさで持って答えた。
「はっきりとは、話せないんだけどね。
だけど、桜咲さんならば、少しくらいは良いかな」
「お、お願いします」
桜咲さんが何処か、緊張したような面持ちで言葉を待っていた。
「しいて言うなら、ある人物を見守るためにだね」
「あ、ある人物をですか」
どうしてか、桜咲さんの頬に朱が差しているように見えた。
心なしか瞳が揺れているようにも見えたが、錯覚だろう。
「元々は想いを伝えるためだけに来たんだ。
だけど、道中、色々な事が重なりあった。
単刀直入に言うと、俺も京都に行く事になったよ」
桜咲さんの身動きが止まった。
見る見る内に、顔が真っ赤になっていく。
唖然としたが、直ぐに心配になった。
まさか、熱でもあるのではあるまいな。
声をかけようとすると、桜咲さんが酷くうろたえた様子で何やら呟き出した。
小さすぎて聞き取れないが、盗み聞きは男を下げるだろう。
微笑んで、彼女の再起動を待った。
程なくして、彼女が顔を上げた。まるで林檎のように真っ赤な顔色であった。
「大丈夫?
熱でもあるんじゃ」
「だ、大丈夫です!」
桜咲さんはそう言うが、全くそうは思えなかった。
しかし、彼女がそう言っているのだ。
聞き過ぎも失礼だと思い、微笑んでいると桜咲さんが言った。
「あ、あの、その書状を」
その反応で合点がいった。
この書状は、桜咲さんのものだったのである。
そうでないと、書状と言う単語は出て来ないだろう。
微笑んで、差し出した。
「はい。
今度はなくさないようにね」
「は、はい」
桜咲さんが、何処か大事そうに受けとった。