学園長からの依頼——裏
—近衛近右衛門side—
先ほど、乱暴にも投げ渡された受話器。それを手に、わしは満足げに頷いた。
エヴァは一切の遠慮などなく、出口のドアに向かい、歩を進めていた。その歩みに迷いはなく、彼女の心境が伺い知れた。
茶々丸くんが、礼儀正しくこちらに一礼した後、遅れて後を追いかけた。
退出しようとする小柄な後ろ姿は、意気揚々として見えた。先ほどの悲愴めいた激情の色は、どこに行ったのかのう。
わしは笑みを持って、その光景に目を細めた。
学園長室内は静謐であり、その静けさに、自然と穏やかな心地となって行く。
申し訳ないが、受話器を通した二人の会話は聞こえていた。あれほどの大声だったのじゃから、致し方ないと許して欲しい。
ある程度の経緯は、理解出来た。二人の間にある絆。それは予想を遥かに超えるほどの絆。
氷咲くんの善意という魅力。自らよりも知人を優先する、鋼より固き意思。
エヴァの善意からくる感情。彼を守ろうとする尊き意思。
わしは知った。
十分過ぎるほどに感じた。
心は震え、胸中は未だに、感動覚めやらずにあった。
事の初め。
エヴァが来訪、もとい来襲してきた時には、唖然とする他なかった。
じゃが、氷咲くんを中心に据えた舞台劇は、満員御礼、大団円の結末へと収束していった。
わしへのとんだ濡れ衣も無事に晴れた事じゃし、氷咲くんに対するわしと高畑くんの結論を彼女に伝える事が出来た。
代償は後頭部がヒリヒリと痛痒くある事だけなのじゃから、安いものじゃ。
エヴァという存在を認識していたというのにも関わらず放置していた、こちらの不手際のせいじゃ。憤ってしまうほど、わしは青くない。
いや、一つだけ反論をしたい。
あのエヴァが、見知ったばかりの少年に、良き方向性の強き感情を抱く。そんな事、誰が想像出来ると言うのじゃろうか。
魔法界で、未だに恐れ囁かれる真祖の吸血鬼、エヴァンジェリン・A・K・マクダウェル。
畏怖の対象である彼女が、同類の魔族とは言えじゃ。
普段ならば生まれたばかりのひよっこ風情がと、卑下するべき、一人の少年に向けて並々ならぬ感情を表したのじゃぞ。
わし、いや、魔法関係者全員が、あんぐりと口を開けても不思議ではないじゃろう。
小林氷咲という存在感、影響力は、あの英雄と謳われる赤き翼の面々とも遜色はないと言っても過言ではない。
なぜならば、染まる事が嫌いなエヴァを、良き色で染めさせてしまったのじゃから。
決まりきった椅子に、ゆっくりと腰を落とした。
前方の虚空に視線をやると、エヴァの幾重もの言葉が、脳裏に再生されていった。
独りでに苦笑が漏れ出た。
その生き難い不器用さが、好ましく思えたからじゃ。
彼女が言いたかったのは、ただ一つだけ。
『心配だから帰って来い』
簡単な言葉じゃ。
じゃが彼女には、それだけの言を発するのが、さながら、一般人が魔法を唱える事のように難しいのじゃ。
際限のない悲しみに満ちた人生。それを必死に生き抜いてきた経緯を慮ればのう。
考えれば考えるほど、ある事実が浮かんだ。
エヴァがあれほどまでに激昂した様は、過去の記憶には皆無という事実。
それはつまり、エヴァは氷咲くんの事を。
そういう事、なのかも知れんのう。
笑みが浮かび上がった。
彼女がさながら、悲しみに縛られてから、十五の年月が流れて行った。
登校地獄ではない。ある種の悲恋の呪縛。
それはサウザンドマスターによりかけられた。
闇ばかりを垣間見て来た彼女に、光の道を歩けるようにと。だが想い人は、いつまで経ってもやって来る事はなかった。
いやはや、正に痛快で赴きのある語りじゃのう。
彼女を光の道に導き、呪縛を解いた者。
それは光で生きる魔法使いではなかった。
闇の中に生まれ、闇の中を生き抜き、悪だと罵られてなお、光に生きようと疾走する魔族の少年じゃったのじゃから。
ふと、記憶の底の底にて埋もれていた、青き春の思い出が蘇った。
「……青春じゃ。
……青春じゃのう」
年齢が上の彼女に対する言葉としては、不適切かも知れないが。
「フォッフォッフォッ。
それにしても、別れの挨拶もなしに姿を消すとはのう。
さすがのエヴァと言ったところか」
満足げに髭をさする。
昂揚感に浸っていると、ある事を思い出した。
「おっと。これはいかん」
右手に掴んでいた受話器が、視界に映り込んだのじゃ。
まずいのう。
これは更年期障害かも知れないのう。
申し訳なく思いながらも、慌てて声を送った。
「フォッフォッフォッ。
氷咲くん。突然、エヴァがすまなかったのう」
黙って耳を澄ましていると、好ましい声音が聞こえてきた。
「いえ、構いませんよ。
はっきり言って驚きましたが。ですが、一つだけ」
突然のエヴァの応対にも、氷咲くんは変わらず穏やかであった。
深く頷いて、思う。
魔族とは思えぬ穏やかさ、優しさ。それらがエヴァを光へと誘わせたのじゃろう。
「何かのう」
数秒の後、受話器から声が聞こえてきた。
「学園長、ありがとうございました。
僕にとって、エヴァンジェリンさんとの会話は、必要不可欠なものと言えました。
僕は最近、ただならぬ悩みを抱えていました。
ですが今は、嘘や幻のように、その悩みは消えてしまいましたから」
その声音は色に比喩するならば、透き通るような透明。それは心の奥深くまで染み渡っていく感覚を捉えた。
氷咲くんのただならぬ悩み。
それは京都の事じゃろう。優し過ぎるが故に抱く、ただならぬ苦悩。
重苦しき、わだかまりがあったのじゃろう。
じゃが深き苦悩は、幻のように消え失せた。
エヴァの不器用なまでの、悲愴めいた激情によって。
なんという感動的な語りじゃ。
「フォッフォッフォッ。
そうか……。やはりきみは……」
酷く優しいのう、とは続かなかった。
ふと、その危うさに、ある事を思い返したのじゃ。
氷咲くんの優しさは、時として、自らの首を絞める事になるじゃろう、と。
途端に、心配になった。
じゃがしかし、曲げてはならぬのじゃ。
意を決して、言った。
「きみの意思は鋼より固いのう。
わしの胸の奥に染み渡るように、しっかりと届いたぞい」
言葉は返って来なかった。
氷咲くんは今頃、その言葉の意味を慮っている事じゃろう。
「うむ……わしも、覚悟を決めんといかんのう」
大きく深呼吸をした。
彼の希望に沿った形の後押しであり、わしが出来うる最大限の支援。
「氷咲くん。わし、近衛近右衛門からの、依頼を受けてはくれんかのう」
「依頼、ですか?」
呆けを隠せない声が、響いてきた。
自然と笑みが漏れてしまう。
彼の沸き上がる疑問も、致し方ないじゃろう。
わしは、彼に京都行きは固く否と約束させたからじゃ。
そんなわしからの依頼なのじゃ。
当然ながら、氷咲くんは面食らった表情を隠せずにいるじゃろうと思えた。
いや相手は、歳若いというのに聡明過ぎる氷咲くんなのじゃ。
早々に依頼の内容には、当たりをつけてはいる可能性がある。じゃが、信じられずに、息を呑んでいるのかも知れない。
「そうじゃ」
一瞬間を取って、高らかに告げた。
「きみには、そのまま京都に赴いてほしいのじゃ。
修学旅行の間、ネギくんを見守ってやってはくれんかのう。
なに、授業の事や滞在費用に関しては、任せなさい。問題の無いように配慮しよう。
頼まれてくれんかのう?」
沈黙。
長い沈黙が流れた。
氷咲くんからの返答は、なかった。受話器からは息遣いさえも聞こえず、電車の走行音だけが響いてきていた。
わしは笑うと髭をさすった。
氷咲くんは内情は今頃、どのような心模様となっているじゃろうか。
さながら陽光差す、快晴となってくれておれば良いがのう。
幾許かの後、受話器から声が送り届けられた。
その声音は決意と聡明さに満ち溢れていた。
「学園長は身体を休めていて下さい。
その依頼、僕が、完遂して見せましょう」
満足げに頷いて、京都の地に思いを馳せた。
麻帆良の青い空。それは確かに京都と繋がっておる。
氷咲くんは、一人じゃない。心のおける仲間は、それこそ幾人もこの麻帆良におるのじゃから。
笑みを漏らすと、依頼の事細かな内容の説明を開始した。
—桜咲刹那side—
新幹線は、一路、京都に向かっていた。
私達にあてがわれた車両内は、まさに騒乱の渦中の様相を呈していた。
私はドアの前に背を預けた姿勢のままで、唖然と固まっていた。
突如車両内に、式紙と思しき蛙が大量発生したのだ。
所狭しと蛙達が跳びはね、生徒達が恐々と逃げ惑う様は、阿鼻叫喚。まだまだ止みそうにない悲鳴が、こだましていた。
即座に竹刀袋に包まれた夕凪に手をかけた。
だが、考えを改めた。
お嬢様をお守りするために行動しようと思ったが、害はないようだったからだ。
関西呪術協会からの妨害工作だとは考えられたが、一向に攻撃してくる気配がないのだ。
それならば術者の特定をと、辺りに目を凝らした。
だが映るのは、クラスメイト達の騒乱のみ。こちら側特有の、戦う者が纏う気配を感じとる事は出来なかった。
相当の手練れなのかも知れないと、再度、気を引き締めた。
それに、突如その凶刃を露にする可能性も十分に有り得る。
私は気取られぬよう注意しながら、一両の先の部屋に移動した。車両と車両の間の部屋だ。それなりに広く、ここならば即座に動く事が出来るだろう。
ドアに取り付けられた窓から、騒乱に目を凝らした。
観察しやすく、臨機応変に対応出来るという配慮からでもあった。
ネギ先生があたふたと、生徒数人に手伝って貰いながら、蛙を袋に詰め込んでいた。
申し訳ないとは思うが、少々、滑稽に思えた。
そして、考える。
子供騙しと言ってもおかしくはないこの妨害工作には、どのような意味合いがあるというのだろうか。
その時脳裏に、密書という言葉が浮かび上がった。
学園長から説明されていたのだ。
長への書状をネギ先生に託した、と。
それならば、指し示される結論は一つだ。
これは囮、か。
書状の在り処は聞き及んでいないが、ネギ先生の懐などに隠されている可能性は高いだろう。
この妨害工作の真の意味は、書状の在り処を調べる事。
まずは妨害工作により、ネギ先生の心に不安感を募らせる。するとこの旅で最重要な事柄である書状。それを奪われていないかを確かめようとするだろう。
それこそが肝要なのだ。書状の在り処も勿論だが、色や形、大きさなどを調べ上げる寸法で間違いないだろう。
そう考えられる、考えられるがだ。余りに侮られ過ぎではないだろうか。
まだ子供のネギ先生と言えども、一応、一介の魔法使いのはずなのだ。
それくらいの見当はついていると考えるのが妥当だ。いや、ついていてくれないとこちらが困るのだ。
だが観察していると、ある考えが浮かび上がった。
未だにネギ先生は蛙を袋に詰め込んでいるのだが、その慌てる姿は、まるで子供のようだった。
とてもこちら側に属する、戦う者の姿には見えなかった。
これは、まさか、見当がついていないのでは。
その時だった。
開いた口が塞がらないとはこの事だろうか。
神楽坂明日菜さんとネギ先生が何やら話していた時の事だ。
なんとネギ先生は無用心にも、颯爽と懐から書状らしき封筒を取り出して見せたのだ。
妨害工作の術者が、虎視眈々と目を光らせている可能性が高いと言うのに。
これは参った。
あんなに高々と掲げ上げては、奪ってくれと誇示しているようなものではないか。
注意しよう。
苛立ちを隠せずに向かおうとすると、私の考察は、現実のものとなってしまった。
ネギ先生の背後から、鳥を形どった式紙が飛来してきた。無防備な手から書状を掠め取り、口にくわえたままこちらに向かい飛んできたのだ。
少々、余りの不甲斐なさに憤ってはいたが、距離を開けた。竹刀袋に包まれた夕凪に右手をかけて、その時を待つ。
こちら側に飛来してきたのが幸いだった。
ドアを通り抜ける瞬間に、叩き伏せる。
視界には鳥の背後に、ネギ先生の唖然とした表情が見えた。
全く持って、違い過ぎる。
ネギ先生と、同様の性別である小林さんと比較してしまったのだ。
まだ子供だとは言えだ。学園長の依頼を受けた以上、戦場に甘えは許されない。
小林さんの依存してしまいそうになるほどの壮大な器量。
ネギ先生と小林さんの二人に、面識があるのは知っている。それならば、良く勉強させて貰った方が良いだろう。
彼の立ち振る舞いこそ、戦う者の象徴であり、強く優しき男性の象徴だ。ネギ先生も誇らしく思っているに違いない。
独りでに、笑みが浮かび上がった。
自然と身体中が、心地の好い熱を帯びていく。
原宿での決意の一夜が、明確に思い返された。
沸き上がる勇気を頂いた、幻想的なまでの一夜が。
「醜くなどない。
その純粋なまでの美しき心、いや翼は、誇っても良いんだ。
方向性を間違えているだけ。
例え誰かに口汚く罵られたとしても、関係はない。
俺は、そう思っているんだ」
原宿の名もなき雑踏。
人々が思い思いの表情で行き交う、路の上。
空は薄紫がかっていた。小さな月が弧を描き、下半身がビルの屋上に突き刺さっているかのように見えた。
歩道もガードレールも、佇む二人も、背丈の長い街灯が淡く照らしていた。
俯く私の隣を、ガードレール越しに何台もの車が、交差するように通り過ぎて行く。ヘッドライトの赤い光りが、滲んで見えては去って行った。
喉の奥底が、痛かった。まるで首を絞められているかのような痛み。
歯を食いしばり、感動の波を抑えつけられるように堪えた。
顔は上げられなかった。
頬を伝うその涙が、どうしようもなく恥ずかしく思えたから。
小林さんに対して、無礼だとは思った。
だが、無理だったのだ。不可能だったのだ。
彼の言葉の一つ一つが、さながら、粒子となり私の全ての細胞を震え上がらせていたから。
小林さんの足元しか見えなかった。でもそれだけで良かった。
存在を感じられる。ただ待っていてくれる。
それだけで、私には十分過ぎていた。
私は今、幸せなのだと、幸福の絶頂なのだと、実感していたからだ。
小林さんは黙して、微動だにせず、何も言を発する気配はなかった。
だが私には、十分過ぎるほどにその想いが理解出来ていた。
これこそが壮大なる器量から導き出される優しさなのだ。言葉、だけではないのだ。
自らの事など度外視して待ち続け、ただ微笑んで、相手の起動を待つ。それは相手が後悔をしないように、自らで答えを出させようとしているのだ。
小林さんはその口から、こう言葉を紡いでくれた。
例え世の中全てが私の敵と化したとしても、自らだけは私の味方なのだ、と。
その言葉に私がどれほど救われた心地となったか。勇気づけられたか。他人にはわかりようもないだろう。
そしてその言葉の裏にある、深い問題定義。包み込まれるような優しさの底にある、まるでサボテンの刺のような厳しさはこう言っているのだろう。
「きみはどこに向かうのか。
割り切るためにあがくのか。
諦め、しっぽを巻いて逃げるのか」
どれくらいの時が経っただろうか。
私は静かに顔を上げた。
未だに心の震えはあった。決断した訳でもなかった。
だが、底知れぬ衝動に突き動かされたのだ。
衝動的なまでに、小林さんの顔を見たくなったのだ。
見上げるとそこには、穢れなき微笑みが在った。
まるで水晶のように透き通る瞳は慈愛に溢れていて、街灯からの光りを反射していた。
この厳しき世界の中で、一人しか存在しえない私。桜咲刹那だけに向けられていた。
まるで、幻想的なものを見たかのように惚けた。
時が止まったかのような錯覚を受けた。人々の足音が、聞こえなくなった。
それでも感謝の意だけは示そうとしたが、喉が震えて声を出せなかった。
独りでに右の掌の中に、両翼が形作られた首飾りを、強く握り締めていた。
掌に鋭利な金属が突き刺さっていく。その小さな痛みに、愛おしさが溢れた。
小林さんが微笑んだまま、ゆっくりと頷いた。
数秒、私の目を見つめて、静かに口を開いた。
「行こうか」
それだけ言って、歩き出す。
私の傍を小林さんが、通り過ぎて行く。
逡巡の後、弾かれるように後を追った。
小林さんの背中を追いかけて、並んで歩く。
その言葉の、指し示す意味はわかっていた。
小林さんはたった四文字の言葉で、私の背中を押したのだ。それは信頼からくる言葉。
小林さんは信じているのだ。
私の選択は、諦め、しっぽを巻いて逃げるのではない。割り切るためにあがく事を選択するはずだ、と。
だからこそ、「行こうか」と言った。
いや、「共に前に進もう」と言ったのだ。
駅に向かう私達の間に、会話はなかった。
だが、悪い心地ではなかった。穏やかな暖かさを直ぐ傍から感じられていたから。
それは強い絆から作用されているように思う。
私から小林さんへの、熾烈なまでの依存にも似た感情。
信頼感。この人だけは私を見てくれて、絶対に裏切る事はないと思えていたから。
二人の空間はまるで、外界と切り離されてしまったかのように感じられた。
私の頭の中は、色々な思考が現れては消えていく。
小林さんは信じてくれているが、私は割り切れるのだろうか。割り切るためにあがけるのだろうか。
彼に失望されるのが怖くて、弾かれるように後を追ってきただけだった。
彼ならば失望などはしないと素直に思えたが、この事に関して、私は臆病な小娘だ。失望などされて嫌われてしまったらと妄想するだけで、怖くて仕方がなかったからだ。
脳裏に浮かぶ言葉。
過去。禁忌の翼。お嬢様。小林さん。
ぐるぐると渦巻くようにうごめく、心模様。
駅前に着き、電車に乗る。その間も無言だった。
私は、一つだけ、勇気を振り絞った。
それは小林さんから頂いた、勇気だった。
昼は座席に、向かいあうように座る事を選択した。
だが夜は、隣あわせに座る事を選択したのだ。
それはとても恥ずかしく、少しだけ怖かった。
小林さんは、優しかった。
嫌がるそぶりは微塵もなく、それが自然なのだと言わないばかりに、気づかないふりをしてくれたからだ。
歳一つだけしか変わらないはずなのに、その振る舞いは大人だった。
理解してはいた。いたのだが、少しだけ落ち込んだ。
同時に思えて、気づかされたからだった。
小林さんの中で私という存在は、見守らなくてはならない子供であり、共に歩ける存在ではないのだ、と。
だが、昼と夜の違い。それは途方もなく大きかった。勇気を振り絞って良かったと思えた。
数センチ先、左側に在る横顔。その距離は、暖かくて、嬉しかった。
二人の絆が、より一層、深まったような気がした。
客は少ないようだった。私達の車両には数人いたが、眠りこけていた。走行音だけが響き、まるで、貸し切りのようだった。
車内は、照明により明るいが、窓の外は薄暗く不明瞭な景色が見えるだけだった。
ふと思えた。
この明暗な差は、まるで私達のようだ、と。
細部に違いはあれど、同種の過去、苦悩を持った二人。
小林さんは割り切りあがき、結果、光の下に行き着いた。
私は何をして来たのだろうか。
悩み苦しむだけで、あがきもせず、結果、闇の中で停滞していた。
この差は、何なのだろうか。
本質、と嘘ぶく事は簡単だろう。だが違うと思えた。本質などではない。
それは、言い訳なのだ。
違いは一つ。ただ、一つだけ。苦悩の末に、挫折の末に、あがき前を向こうとしたかどうか。
死んだ方がましと容易く思えるほどの努力をしてきたかどうか、なのだ。
隣の小林さんには出来て、私には出来なかった事。
それを、まざまざと、十分過ぎるほどに、今、思い知らされた。
小林さんの顔を、覗き見た。今、この時も尚、顔も視線も、前を向いていた。
私は目を見開き、その様を見惚れるように見ていた。
強い。なんて強く在り続ける人なんだ。
ふと、ある考えが浮かび上がった。
この人と共に在りたい。並んで歩きたい。
私も強くなりたい。
次第に身体中が熱を帯びていく。顔の酷い暑さを感じながら、そして、思う。
私は、小林さんが好きだ。
小林さんのためならば、死をも厭わない。
これは正に依存だと思えた。
思う。率直に思うのだ。
小林氷咲という男性が、私に微笑みかけ続けてくれるならば、もう何も怖くはない。
彼が傍にいれば、もう何も。
修学旅行中に決着をつける。
禁忌の翼とも。過去とも。お嬢様とも。
彼がそう在り続けたように、私も彼を信じ、信頼する。
その全てが悪い方向に向かおうとも、小林さんだけは、私に向けて微笑んでくれる、と。
強く頷いた。
そして、気づいた。
心が軽いのだ。いつ如何なる時も在ったしこりが、解放されたかのような感覚。
ふと、掌の中の鋭利な感触を覚えた。
未だに、首飾りを握ったままだったのだ。
小林さんの手前、少々、恥ずかしくはあったが、首にかけてみた。
気づかれぬように、両翼の部分は制服の内側に入れる。
銀の冷たさを胸元に捉えた。途端に誇らしく思えた。
これは私達、二人だけの思い出であり、切っても切っても、誰もが切れはしない絆なのだ。
独りでに、笑みが浮かんでいくのを感じた。
目を閉じると、忌むべき過去が再生された。
今でも直視したくはないし、どのようにしても笑う事などは不可能だと言えた。
だが、一つだけ感じた。
そこまで苦しく、なかった。崩れ落ちそうになる苦しさが、なかったのだ。
ふいに笑みが込み上げた。
なんという人なんだろうか。
小林氷咲という、魔族の男性は。
まだ出会って間もないというのにも関わらず、私の心の中に、その存在を定着させるなんて。
尊敬を隠せなかった。
感謝を隠せなかった。
そして、これから好意も隠せないだろう。
そんな幸せな心地に浸っていると、肩口に何かが覆い被さってきた。
その重みに、不思議と目を開いた。
そして、唖然と口を開いた。
「こ、小林さん」
その何かは、小林さんの頭だったのだ。
内心困惑して、呼吸が止まったかと錯覚するほどに固まった。
程なくして再起動すると、その行動の理由がわかった。
小林さんの定期的な呼吸音が、鼓膜を震わせたのだ。
私は何も言わなかった。
ただ燃え上がるような体温の上昇を感じて、自然な笑みが漏れた。
私などのために気を使い、心労から眠ってしまったのだろうからだ。
そして示されるもう一つの理由が、途方もなく嬉しかった。
それは私を信頼してくれているという事。
なぜなら、小林さんは戦う者だ。戦う者は決して他人の前では眠らないから。
誇らしく思えた。
少々、他の客の目が気にはなったが、肩口に乗る頭に向けて小さく呟いた。
定期的に揺れる頭は、眠っている事を示していた。
だからこそ、言った。いや、聞かれていたとしても構わなかった。
「ありがとうございます。今は眠って下さい。
……好きです」
私は満足げに頷いた。
もう早くも数日が経ったと言うのにも関わらず、身体中が昂揚感で満たされていくのを感じていたからだ。
胸元の部分。制服の中に隠されている首飾りを、右手で服の上からなぞった。
両翼が形取られた銀細工の冷たさ、鋭利な感覚が、私に勇気をみなぎらせていく。
なぜならば、これは私達、二人だけの絆だと言えるから。
惚けを隠す事が出来そうになかった。独りでに笑みが浮かび上がった。
だが夢見心地な時間は、断続的に揺れている感覚で、徐々に意識が覚醒していった。
そうだった。私は今、新幹線に乗車していたのだ。
今の今まで、目を閉じていた事さえ、記憶からは抹消されていたようだった。
目を開き、苦笑すると、視界にある影を捉えた。
唖然とした。
ある影、書状をくわえた式紙の鳥が、傍を通り過ぎて彼方へと消えて行ったのだ。
な、なんと言う事だ。
心の中で毒づいた。
即座に転身し追走した。思考は自らの愚かしき行動に辟易としていた。
先程までネギ先生に注意するなどと宣ってなどいたが、これでは愚の骨頂ではないか。
絶対的にないと高らかに言える。言えるが、こんな無様な姿を小林さんに見られては、生きる気力は尽きてしまうだろう。
遠目に飛ぶ式紙に、軽い怒りを覚えながらも、竹刀袋に包まれたままの夕凪を手に、足早にその背中を追った。
車両内の客が、ハテナ顔で私を見つめているが、そんな些細な事など気にしてはいられない。
術者より早く、書状を奪い返さなければならないからだ。
だが次の瞬間だった。私の思惑は杞憂と化した。
式紙が車両と車両の間の部屋に、開いたドアから滑り込むように侵入した時だ。
私の視界の真ん中、式紙越しに、この場に存在するはずがない人影を捉えたのだ。
ドアに取りつけられた窓からは、背中だけしか見えなかった。だが、私には十分過ぎるほどにわかった。
スタイルの良い細めの身体。麻帆良学園男子高等部の制服を着こなし、猫毛を思わせる黒の髪の毛が静かに揺れていた。
そして何よりも、いつ如何なる時も物おじする事のない、その大胆なまでの颯爽とした雰囲気。
それは私が尊敬して止まない、ある人物像と、明確に繋がったから。
自然に式紙を追う事を止めていた。その大きな背中に導かれるように、トボトボと歩を進めた。
余りの驚愕もそうだが、一言、もう追う必要性がなくなったからだ。
どのような理由で、京都行きの新幹線に乗車しているのかはわからない。
だが、あの小林さんがだ。他愛もない式紙如きに遅れを取るなどと、誰が思うと言うのか。
彼の背中が見えて、そこに式紙が向かっていく。その瞬間に式紙、ひいては術者の命運は尽きたのだから。
式紙が最後の抵抗とばかりに速度を上げた。その傍らを通り抜けようとしているのだろう。
だが、小林さんには微動だにせずに、微塵の殺気もない。
まるで、修学旅行中の生徒、一般人のように。
だが、それは違うのだ。
これこそが麻帆良の重鎮達から褒め讃えられる、彼の天才的なまでの擬態であり、類い稀なる戦略。
どこかから式紙を操っている術者はもはや、その人影、小林氷咲という戦う者の術中にはまっているのだから。
それはさながら、じわりじわりとアリ達を奈落に誘う、アリジゴクを彷彿とさせた。
そして次の瞬間、式紙、いや愚かなアリは、彼の戦略の前に平伏した。
小林さんの背後から、右肩の真上を式紙が飛び抜けようとした時だった。
私はその業に、見惚れる事となった。
突如、小林さんの右肩から紫紺の火柱が噴き上がったのだ。
瞬く間に、式紙はその身体事燃やし尽くされ、ただの塵となり消えた。
感嘆の息を漏らした。
込める魔力の配分が神業と言っても過言ではなかった。綺麗に式紙だけ燃やし尽くし、肝心の書状においては汚れ一つない無傷の状態だったのだ。
書状が、ポトリと直線的に床に落ちた。
だが、小林さんに取っては些細な事、さながら消化試合のようなものだったのだろう。
当然の事と言わないばかりに、抑揚のない表情を表していた。書状など気にもせずに、未だに噴き上がる火柱にその顔を照らされていた。
何という隙の無さだろうかと、心の中で呟いた。
式紙の弱点である火を用いた点は見事の一言だった。
その上、攻撃の瞬間まで、いや、最中に置いても背中を見せたまま事を行ってしまったのだ。
このような洗練された擬態や戦略を、所見に置いて、どのように見破れと言うのだろうか。
今頃術者は、やっと黙されたのだと理解し、歯痒い思いで唇を噛み締めている事だろう。
溜飲が下がっていった。
小林さんの戦略の範疇だったとは言えだ。
一分、一秒という些細な時間でも、小林さんが一般人だと侮られていたのが、腹立たしかったからだ。
そして同時に、誇らしい心地となっていく。
やはり私の目に狂いはなかった。小林氷咲という男性こそ、戦う者の象徴的存在なのだ。
だが、次の瞬間、私の心の中に、モヤモヤとした感覚が広がっていく事になった。
まるでそのモヤモヤは、雨天時の灰色の雨雲のように、どんよりとしけっていた。
なぜならば、小林さんがやれやれと頭を左右に振り、淀みのない動きで書状を拾い上げたからだ。
頭を振る姿に、ある考察がよぎった。
私にその様は、何かを嘆いているように見えたのだ。
一つ、思い当たった。
まさか。
まさか、見られていたのでは、ないか。
世界中で一番見られたくない相手に。
先程の無様な顛末を。
モヤモヤとした感覚が、ざわめいた。
やはり、そうなのか。私の存在を認知していたのか。
小林さんがそうだと物語るように振り向き、こちらに向けて視線を移した。
怖かった。
失望されるのが、途方もなく怖かったのだ。
居ても立ってもいられずに、私はドアを開き叫んだ。
「こ、小林さん!
ど、どうしてここに!?」
自らの卑怯さに、魂胆の見え見えさに、酷く嫌気が差した。
私はあの夜誓ったのにも関わらず、また逃げたのだ。
小林さんの口から失望の言葉が発せられる事を恐れて。
無理矢理、話題の方向転換をしてしまった。
小林さんは無言だった。
いつもの彼ではなかった。
射抜くような視線が、右手に掴んだ夕凪に落ちた。
そして、普段は透き通っている瞳に、澱みがあるのを見てしまった。
それは、悲しみに揺れていた。
全てを理解した。
胸の奥底から、何かがはい出てくるような気持ちの悪さが広がった。
失望、されて、しまった。
小林さんは、見ていた。そして、私の口から、逃げの言葉が吐かれた事を嘆いているのだ。
さながら、心に大きな風穴が空いてしまったかのような感覚に陥った。
さながら、自らの身体が塵となり風に舞い消え行くような感覚に捕われた。
強い痛みが、胸の内に襲いかかった。
例えば今私は、一人切りだとしたならば、むせび泣いていてもおかしくはない。
だが、次の瞬間、唖然とする事になった。
許して、くれるとでもいうのだろうか。
小林さんの口許に、暖かな微笑みが表れたのだ。
その意味が、理解が出来なかった。
見て、いなかったのだろうか。いや、違う。
小林さんは、その深い懐で許してくれたのだ。
わかってはいたが、なんという器量の広さだろうか。
次第に、心の雨雲が晴れていくのを感じた。
多大なる感謝を感じた。
もう次はないと、自らに強く言いつけた。
小林さんは私に嘘はつかない。ならば私も、小林さんに嘘をついてはならない。
死して尚、小林さんに嘘はつかないとここに誓う。
小林さんが暖かい微笑みのまま、口を開いた。
「はっきりとは、話せないんだけどね。
だけど、桜咲さんならば、少しくらいは良いかな」
即座に返した。
私の卑怯な言葉に付き合って頂いた上、待たせてはならないからだ。
それに私ならば話せるとの言葉に、好奇心と嬉しさが込み上げたのだ。
「お、お願いします」
小林さんが柔らかな口調で、言葉を繋いだ。
「しいて言うなら、ある人物を見守るためにだね」
その言葉に、押し寄せる期待感を隠せなかった。
内心、うろたえていたが、聞き返した。
「あ、ある人物をですか」
昂揚から身体中が、酷く暑くなっていく。
小林さんが一瞬虚空を見つめてから、こちらにその透き通る瞳を見せた。
「元々は想いを伝えるためだけに来たんだ。
だけど、道中、色々な事が重なりあった。
単刀直入に言うと、俺も京都に行く事になったよ」
その言葉に私の身動きは止まらざるを得なかった。
その言葉で、確信出来たからだ。
小林さんはこう言った。
元々は想いを伝えるためだけに来た、と。
その、想い、とは、やはり、私にだろう。
小林さんは愛の告白をしに、ここに来たのだ。
薄々はわかっていた。
これは両想いと言われるものなのだろう、と。
小林さんの並々ならぬ愛情は、私に向けられているのだ、と。
今ならば、顔から火が出たとしても愕然としないだろう。
正に、天にも昇る心地だった。
ふと、思えた。
これが幸福なのだろう、と。
だが、一つだけひっかかる部分があった。
共に京都に赴いてくれる。これについては、こんなに心強い事はない。
さながら、冥界の魔王辺りが出て来ない限り、私達に敗北の二文字はないだろう。
それではなく、京都に赴く原因となった、色々な事が重なりあったという発言が気にかかったのだ。
だが、すぐに気づいた。
その事実に、酷く落ち込む自分がいた。
私が不甲斐なくあるからだ。
小林さんは優しい。私を一人で京都に行かせては危険だと、そう思ったのだろう。
だからこそ京都行きを決断したのだ。
自らの不甲斐なさに、憤りを隠せなかった。
救いを求めるように小林さんを見遣ると、そこには微笑みが在った。
癒されるような笑みに、次第に身体が暑くなっていく。
「大丈夫?
熱でもあるんじゃ」
落ち込みと嬉しさ、相反する感覚を抱えながら言った。
「だ、大丈夫です!」
静寂が広がった。
それを嫌って、無理に話しを変えた。
「あ、あの、その書状を」
小林さんが笑みを向けて、書状をこちらに向けた。
「はい。
今度はなくさないようにね」
「は、はい」
その言葉で、全ては白日の元となった。
私は自らの愚かさに辟易としながらも、両手で書状を受け取った。