草食系男子ですけどなにか?
22部分:悪が跋扈する街、京都——表
悪が跋扈する街、京都——表
—小林氷咲side—
塵一つない清潔感溢れる室内は、異様なほどに広々としていた。エアコンにより、室温は常に一定に保たれており、快適な空間であった。
大きな窓の側に、キングサイズと呼称しただろうか。
さながら、力士の方々が二人寝そべっても余裕があるだろうベッドが置かれていた。
そこに腰掛けて、俺はふうと溜め息をついた。
高所得者だけに許された、ハイレベルな高級感。
俺には一生として縁もゆかりもないであろう雰囲気に、少々、気圧されていたからに他ならない。
どこに視線を移して見ようが、この部屋には皆無と言えた。
幼き日頃から目にし、触れて来た所謂、庶民達の生活用品が、である。
異常。正に異常であった。
どこにでもある見慣れた円形の電灯は、特大でありながら、尚且つ細工のきめ細かいシャンデリアに。
格安で購入したお気に入りの木のテーブルは、大理石で出来たテーブルに変化していた。
あまつさえ、あまつさえだ。
驚愕した事に、この部屋には二階があるのだ。
夜景が展望出来るように吹き抜けた先に、風呂までもがあったのである。
おおよそ、ジャグジーと呼ばれるものなのだろう事は理解出来た。
しかし、微塵も入ろうとは思えなかった。
もう一度、言おう。
将来、サラリーマンになったとして、俺とは縁もゆかりもないだろう一室。
貧乏学生の俺には恐れ多く、どこか怖さを感じたからであった。
有り難い事は有り難いし、まさかここまでの恩恵を頂ける事は感無量だった。
だがしかし、学園長の壮大なる計らいには、参ったと言わざるを得なかった。
まさか、まさかだ。
ホテルの最高級な部屋である、スイートルームをあてがわれてしまうとは。
俺の宿泊所など、そこら辺に無数にあるカプセルホテルで良かったと言うのに。
即座に連絡し、断り続けた俺であったが、学園長がどうしてもとの押しに負けて、その好意を受け取る事にした。
学園長にご迷惑をかけないようにと考え行動していたのだが、好意を無下にする事は逆に失礼に当たると考えたのだ。
ネギくん達、修学旅行生も同様のホテルに泊まっているのだが、内心、心が痛かった。
俺だけスイートルームに泊まるなど、申し訳ない気持ちで一杯だったからだ。
気分を変えようと視線を移すと、骨董品めいた置き時計が置かれていた。
短針が、夜が深けてきている事を示していた。
小さく頷いて、明かりを消した。
さながら、油断すると取って食われると言ってもおかしくはない京都に疲れていたのだ。
薄暗くなった部屋内を、月の明かりが仄かに照らしていた。
立ち上がり、窓辺に立った。そこには、夜景が広がっていた。
夜の京都。それはさながら、星空と錯覚するほどに幻想的であり、冥界などとは微塵も思えなかった。
無抵抗。惚けを隠せずに、その様を凝視していた。
混濁した脳裏は、昼頃に起こった顛末を蘇らせた。
流れる空気は、微かに紙幣の匂いが混じっていた。
見知らぬ駅前で見つけた、大手の銀行。中には、数人の客達が自らの順番を待っていた。
銀行員や人達の言葉が、小さく耳に届く。
それは、方言と呼ばれるものなのだろう。聞き慣れない響きに、自らが日本の冥界、京都にいるのだという事を思い知らされていた。
その京都で、知り合いなども皆無の状況。ネギくんや神楽坂さんや桜咲さん、信じられる者はいるにはいるのだが、現状はたった独りきりなのだ。
内心、騒ぎ立てられる恐怖心は、染み入るように四肢を重くしていた。
そんな思考を振り払うように、頭を振った。
多大なる恩恵に応え、より良い自らに成長するためにも、俺は、絶対にやり遂げねばならないのである。
心に刻み込むように呟くと、ある方向に視線をやった。
壁際には、洒落っけのない円形の時計がかけられていた。
針が、午後二時半を過ぎた事を示していた。
京都に着いてから早くも、三十分ほどの時間が流れていたとは。
さすが京都。この地は時間さえも超越しているとでも言うのか。
そんな馬鹿げた事を考えて、含み笑いをした。さすがの京都と言えど、到着して直ぐに、何らかの悪い出来事に遭遇する訳がないだろうからだ。
幾分、楽になった心を、強き決意で燃やしていると、順番が回ってきた。
後が支えているので、足早にキャッシュディスペンサーの前に立った。人差し指で、液晶に表示された案内通りに押していく。
何をしているかは、言わなくてもわかるだろう。
そう、俺は銀行へと、お金をおろしに赴いていたのである。
ネギくんを見守るという依頼。本当ならばさながら、コバンザメのように張り付いていなければならないのだが、先立つものはお金と言えよう。
学園長から、ホテルの部屋取りなど、任せてくれと言って頂けていた。
しかし、日用品に変装用の服、尾行用のタクシー代など、必要なものは山のようにあるのが現実であった。
一時の間、ネギくんを見守れない事は申し訳なく思う。だが、ネギくんを本当の意味で思うならばこそ、用意周到に準備をしなければならないのだ。
俺が京都にいる事を知られてしまえばそれまでなのだから。
幾らほど下ろそうか。
確かお年玉貯金が、まだ十万円ほど残っていたはずだ。
そこまで使わないとは思うが、一応、全て下ろそう。先行きが不透明であるため、持てるだけ持っていた方が良いだろう。
一応、貯金残高を確認する事が先決だろう。案内に添って、液晶にタッチする。
程なくして、液晶に残高が表示された。
眉根を細めるのと同時に、独りでに口が開いていった。
「ん?
一、十、百、千、万……」
人差し指で単位を数えた。なぜならば液晶には、こう表示されていたのである。
2100000円、と。
首を傾げた。
うん。
意味がわからない。
これは、どういう事態だと言うのだろうか。
二百十万円、とは。
機械の故障、だろうか。そう、だろう。間違いない。
はははと、苦笑を漏らした。
さすが京都である。キャッシュディスペンサーが壊れているとは想定外だった。
しかし、それから違う機械で幾度も試してはみたが、結果は同様だった。
余りの驚愕故に、脳裏が白んでいく。
「こ、これは一体……」
中年のおばさんがこちらを不審そうに見つめていたが、気になどしてはいられなかった。
現実味のなさに、呆けを隠せそうになかったからだ。
少しの間、立ち尽くしていたが、何とか認める事が出来た。
全く持って意味不明の事態と言えたが、これは現実であり事実なのである。
この前、ゲーム機購入費用を下ろした時には確かにそうなっていた。
それならば、差し引いた額である二百万もの大金はどこから現れたというのだろうか。
利子、ではないだろう。こんな利子があるのならば、日本という国は潰れてしまうだろう。
ならば、なぜ。
「な、なんなんだ。この事態は……」
単刀直入に言ってしまうと、怖かった。染み入るような怖さからか、独り言を呟いてしまう。
考えても、みてほしい。
ある一介の貧乏学生がだ。我慢に我慢を重ね浪費をおさえてだ。貯め込んできた貯金を下ろしに来てみたら、なんと、二百万円もの大金が、どこかから入金されていたのだ。
それはそれは、目が点となるであろう。
有り得ない、のだから。
ふと、鼻が疼いた。明確に、犯罪の類いの匂いがしたからだ。
思考が定まり、符号した。一つの言葉で謎は氷解した。
京都。ここは京都、なのだ。
学園長が忌み嫌う冥界。
まずい。
これはまずいぞ。
絶対に油断をしてはならないのだ。
これは京都に流行る、新手の詐欺か、なにかかも知れないからだ。
心の中で呟いた。
これは、罠だ、と。
二百万円もの大金を、これ幸いと有頂天のままで、使ってしまったとしたら最期。
自らをさながら、海に住む魚だとでも過程すれば、わかりやすいだろう。
眼前をチョロチョロと誘惑的に踊る餌。それに食いついたら最期なのだ。
そのまま強面のヤクザ屋さんなどに釣り上げられて、身体の一欠けらも残さず食べ尽くされてしまうのである。
いかん。
絶対にいかんぞ。
俺には夢があるのだ。
彼らほど怖いものはないし、関わってはならない。
絶対に使わない。使わないのだ、と心に刻みつけた。
そう考えると、先程、こちらを不審そうに見つめていたおばさんまでが、逆に不審に見えた。
まさか、あのおばさんが。
いや、見るからに良い人そうだったが。
いやしかし、ここは京都。隙を見せてはならない。
警察に行くべきなのだろうかと思ったが、考えを改めた。
今は、学園長からの依頼が最優先だからである。
この問題は、麻帆良に帰ってから考える事が得策だろう。
あちらには、学園長や高畑先生など心強い味方もいるのだ。相談に乗って貰えるはずである。
内心、恐怖心は騒ぎ立てていたが、その事を考えるだけで、癒されていくように感じた。
なんという、壮大なお方達なのだろうか。
さながら、本当は人間などではなく神だったんだよ、と言われたとしても、俺は無条件に信じる事が出来るだろう。
十万円だけを下ろして、足早に銀行を後にした。
夜景を眺めながら、思った。
さすが、悪が跋扈する京都。学園長が忌み嫌う理由が、初日にして伺い知れてしまうとは。
正に、恐るべき土地だと言えよう。足を踏み入れた次の瞬間、意味不明、理解不能な詐欺紛いの犯罪に遭ってしまったのだから。
一つだけ、高らかに言えた。
俺はもう、この依頼をやり遂げたら、二度とこの地を踏む事はないだろう。
しかし、そんな事ばかりを考えていても仕方がない。
これからの事を、考えねばならないからだ。
今日については、運良くというかなんというか、日用品や変装用の衣服を整えただけの、何事もない一日であった。
変装用に用意した衣服は、目立たぬように黒色で統一した。ワイシャツとジーパンを着用し、野球帽を深めに被る、ただそれだけである。
それだけか、と思うかも知れない。しかし、費用は限られているのだ。
何より格安で済む事が嬉しくあるし、逆にこういった格好の方が、より街に溶け込めるのではないかと考えたからであった。
銀行を後にした俺は、準備を整えてホテルへと戻った。
清水寺に向かう途中で、3—Aの生徒達が乗車するバスを見かけたからである。
内心、慌てふためいていたが、即座にタクシーで追尾した。
着いた先はホテルであり、遠めから監視して見ると、何やら生徒達が疲労で倒れてしまったようだった。
そして、俺は感動していた。
なぜならば、ネギくんが良き教師と言えたからだ。
普段の慌てる様は微塵も見えず、落ち着き払った姿勢で、先導者としての責務をはたしていた。
この京都という地が、そうさせたのかはわからない。
しかし、一人の少年の成長が、確かに垣間見えた。
正に、感無量であった。
長い間、監視していると、好意的に思える人間関係が展開されていた。
神楽坂さんと桜咲さんが、弟を見るような目で、ネギくんをサポートしていたのだ。
ホテルのロビーで、顔を揃えて何やら話し込んでいる様子は微笑ましかった。
支え合い、励ましあって、切磋琢磨していく。
なんという、素晴らしき事なのだろうか。
微力ではあるのだが、俺も遠くから最大限の応援をしよう。それがここにいる理由であり、為さねばならぬ事だ。
しかし、修学旅行はまだまだ始まったばかりである。
気を引き締めて、事に当たらねばならない。
それがネギくんの将来のためであるし、学園長の期待に応える事になるのだから。
決意を新たに、頷いた。
それならば、明日の事を考えて早寝するべきだろう。
しかし、その時だった。
想定外のものを、この目に捉らえてしまったのだ。
それは人影だった。三人。玄関口から、門外へと駆けぬけようとしていた。
初めは、宿泊客がジョギングでもしようとしているのだろう、と思えた。
だが、それは違った。
街灯に照らされて、その服装があらわになったのだ。
それは見知った三人だった。
スーツ姿のネギくんに、制服を着た神楽坂さんと桜咲さん。
三人は、一目散にどこかへと駆けていく。
その速度は早く、何らかの事態が巻き起こったのだと伺い知れた。
しかし、これは、どういう。
目を見開かざるを得なかったが、逡巡の後、行動した。
全く持って、意味不明の事態と言えたが、俺には依頼があった。何よりもここは危険な京都だ。何かがあってからでは遅いのだ。
俺の足では、どんなに走ろうが追いつけないだろう。
胸元から万年筆を取り出し、念じた。
紫紺の煙りが立ち上る最中、勢い良く窓を開け放つと、夜空へと飛び出した。
湿気を孕んだ空気が漂っていた。霧がかった夜空の下、耳をつんざくような金属音が響いていた。
下方にて起こっている騒動。俺はその展開に、釘付けとなっていた。
寺か、なにかだろうか。
門へと続く階段の中腹で、桜咲さんと桃色の衣服を着た少女が対峙していた。
二人は切り結び、距離を取る。再度、自らの凶器を用いて、舞うように切り結んだ。
一方が刀を両の手に掴み切りかかれば、一方は二刀流と、両の手にそれぞれ持った刀で受け流していた。
不穏なる気配を切り裂くように鳴る、金属と金属がぶつかり合う音。緊迫感を演出し、見る者を夢中にさせる何かがあった。
階段を下りた所でも、戦いの幕は開いていた。
ネギくんと神楽坂さんが、成人程の背丈を持った熊と猿の着ぐるみを相手していた。
ネギくんは吸血鬼らしく、大きな杖をかざし魔法を用いて戦う。神楽坂さんは不思議な事にだが、大きなハリセンを振り回していた。
そして、事の発端。この騒動を巻き起こした犯人は、階段を上った所に佇んでいた。
胸元が開いた、巫女らしき女性。眼鏡が似合う、京都美人。彼女は、浴衣姿の少女を、離さぬとばかりに抱え込んでいた。
導き出される結論は一つだ。
これは間違いない。誘拐事件。浴衣姿の少女は、人質に取られているのだろう。
そう考えれば、辻褄があう。
ネギくん達は、悪の誘拐犯から、浴衣姿の少女を助け出そうとしているのだ。
夜風が、小さく前髪をなびかせた。俺は腕を組んだままの姿勢で、呟いた。
「……素晴らしい脚本だな。
もう少しでクライマックスだろうか……」
事の初めは、誘拐事件だと考えられた。
さすが京都であると、恐怖心に煽られていた。
しかしながら、俺は年長者なのである。微力ではあるが、助力しようと思っていた。
だが、すんでの所で、ある考えに行き着いた。
空気が読めて、本当に良かった。あのまま出て行ったら、大恥をかく所であった。
焦りながらも違和感を捉えた自らを、手放しで賞賛したいほどである。
なぜならば、この点について考えて見てほしい。
浴衣姿のか弱き少女を誘拐する犯人。さすが京都と言いたい所だが、当初はとんでもない姿だったのである。
黒づくめでもなく、顔も隠していない。
その姿とは、猿の着ぐるみ、であったのだ。
どのような角度から考えてみても、こんなにおかしい事はないだろう。
まず初めに、こう言いたい。
うん。
意味がわからない。
絶対にないと高らかに言えるが、自らを誘拐しようとする犯人だと仮定して見ようではないか。
逮捕されれば人生が終わってしまうこの状況。
その決行時に、さあ、着ぐるみを着て行こうかなどと、するだろうか。
答えは、間違いなく否だ。
大変、目立つ事は請け合いであるし、着ぐるみとは、見つけてくれと誇示しているようなものなのだから。
そう考えると、ある考察が浮かび上がった。
これは脚本がある演劇。修学旅行中の何処かで披露するレクリエーションか何か、なのではないだろうか、と。
生徒達という客がいない事が不思議であるが、これが練習だとするならば頷けた。
そうか。
だからこそ、他の生徒達に見られぬように、この時間帯に行っているのだろう。
その考察に、深く安堵している自らがいた。
なぜならば、本物の誘拐犯であった場合に置いて、俺の命は刈り取られていたかも知れないのだから。
物語りが、クライマックスに突入し始めていた。
神楽坂さんの勢い良く振り下ろされたハリセンが、熊と猿の頭部を捉らえた。
すると不思議な事だが、着ぐるみ達の姿が忽然と消え去った。地面に二枚の紙切れが、ポトリと落ちた。
一瞬、目を見開いてしまったが頷けた。
あちらには吸血鬼のネギくんがいるのである。
所謂、魔法。そういった能力によるものなのだろう。
半ば滑稽に思えていたハリセンが、本当は強力な武器だったという設定か。
「素晴らしい演出だ」
小刻みに頷いていると、桜咲さんと桃色の少女が、一定の距離を取った。
さながら、空気さえも動けぬような緊張感の中、桜咲さんの身動きが止まった。
そして、一瞬の後、勝敗は決した。
視認する事は、不可能だった。気づいた時には終わっていたのだ。風を切り裂くような音が、聞こえただけだった。
桃色の少女の身体が宙を舞い、舞い上がる埃と共に地面に落ちた。
桜咲さんは、動かぬ桃色の少女を一瞥してから、巫女さんに突撃をかけた。
そして、いつまでも見ていたいほどの演劇は、残念ながら終わりを告げる。
突如、まばゆい閃光が発生した。光が止むのと同時に、巫女さんが地面に倒れているのを視界に捉えた。
その身体は動かず、気を失っているのだろう。
ふと、あるものを目にして、握る手に力がこもった。
衝撃からか、上空へと舞い上がってしまったのだろう。
浴衣姿の少女が、速度を上げて落下して来たのだ。サラサラとなびく髪の毛が、月光に照らされて煌めく。
危ない。
心の中で呟いた。
あの高さから地面に落下しては、怪我は免れないだろう。
しかし、それは杞憂だった。
桜咲さんが落下地点にて、待ち受けていたのだ。
さながら、壊れ物を扱うかのように優しく受け止める。
俺は釘付けになりながらも、苦笑していた。
そうだった。
これは物語りだったのだ。
拍手。知らず知らずの内に、両の手が動いていた。
「素晴らしい。
正に、手に汗握る展開だ。脚本家は天才だな」
なんという、感動的な演劇だろうか。
抱き留められた浴衣姿の少女が、桜咲さんへと語りかけていた。すぐ側、後方から、ネギくんと神楽坂さんが優しげな眼差しで見守っている。
深く頷いてから、自然と笑みがこぼれた。
学園長、あなたの教え子達は、清く成長していますよ。
俺は拍手する手を止め、その場を後にした。
邪魔者は、消えるべきだろうと思えたのだ。
これは秘密にしているだろう、練習なのだから。
その際、どこかから声が聞こえてきた。
いや、脳裏に直接響いてきたような声だった。
「きみが噂の人物、か。
そうか。これもまた、巡り巡る運命なのかも知れないね」
翌朝、何やら香ばしさや酸っぱさなど、入り混じる匂いで目が開かれた。
異様なほど大きなベッドから、上半身だけを起こした。
未だに混濁している脳裏で、眠たい目を擦る。
辺りを見遣ると、余程、疲れてでもいたのだろうか、カーテンを開けままで眠っていたようである。
明けきっていない空は、薄暗い青色を称えていた。雲が、ポツポツと点在していた。
ふと、何やら音が聞こえてきた。
まるで、包丁で具材を切っているような音が耳に届いたのだ。
その上、香ばしさに酸っぱさ、あまつさえチーズのような匂いまでが鼻をくすぐった。
これは、一体。
寝ぼけたままの頭は動こうとせず、ぼーっと黙ったままキッチンの方向を見遣った。
そして、次の瞬間だった。
俺の視界には、有り得ない人影が映る事となった。
大理石のテーブル上に並ぶ、仰々しいまでの料理の数々の向こう。その奥にある、キッチンに佇んでいた。
後ろ姿だけであるが、彼女だけは、見間違えようがないのである。
品が漂う、メイド姿。長い髪の毛はサラサラと揺れて、彼女の美しさを際立てていた。
その姿は、正しく茶々丸さんだった。
多大なる嬉しさが込み上げると同時に、苦笑がこぼれた。
「ははは、俺は余りに京都が怖すぎたんだな。
こんな夢を見ているなんて、恥ずかしい限りだ」
夢の世界の麗しき姫君。茶々丸さんが、俺の声に気づいたのだろう。静かに振り返った。
礼儀正しく一礼した後、音も立てずに歩み寄って来た。
そして、どうしてか、黙り混んだ。
その瞳は澄み渡っているのだが、抑揚のない表情が気にかかった。
辛抱強く待っていると、茶々丸さんが口を開いた。
「氷咲お兄様、のご迷惑になるかと思いましたが、朝食を用意しました。
お兄様の好みがわからなかったので、和洋中と幅広くつくってみました」
自然と、自虐めいた苦笑が口許に浮かべられた。
なぜならば、夢の世界の茶々丸さんは、俺をお兄様と呼称したからだ。
以前、本で読んだ事があった。夢の中の出来事は、本人の願望が如実に表れる、と。
つまりこの夢は、俺自身の願望と言えるのだ。
茶々丸さんにお兄様などと呼称してほしいという、自身の浅ましい願望を示しているのだ。
間違いない。
こういう事態を、末期と呼ぶのだろう。
自らが思うより遥かに、京都という重圧は身体を蝕んでいたようだった。
だがしかし、夢の世界とはいえだ。礼儀を欠いてはならない。最大限の微笑みを持って言った。
「茶々丸さんの手料理だったならば、何でも絶品に決まっているじゃないか。
本当にありがとう。
全部、頂かせて貰うだろうから、太っちゃうかも知れないな」
本心がこぼれた。
笑顔で返答を待っていると、茶々丸さんの動きが止まった。
不思議に思いながらも、辛抱強く待つ。程なくして、茶々丸さんが口を開いた。
普段の抑揚のない表情ではあったが、俺には感じ取る事が出来た。
茶々丸さんは恥ずかしがっているのではないか、と。
「ありがとう、ございます」
談笑の後、名残惜しくはあったが、俺はまた眠りについた。
これで残りの日数も、頑張れる事だろう。
苦笑する。
見る事は叶わないが、それはそれは満面の笑みが寝顔に張り付いているであろう。
意識が、次第に混濁していく。茶々丸さんが小さな声音で、何かを呟いた。
しかし残念ながら、その声を聞き取る事は出来なかった。