京都の方言が難しくありまして、おかしな点がありましたら、ご報告下さると有り難いです。
悪が跋扈する街、京都——裏
—神楽坂明日菜Side—
ホテルのロビーには、人気がなかった。置かれていた皮張りのソファーに腰掛けて、窓の奥の景色を眺めた。
空も雲も、町並みでさえも、夕焼けに朱く染められていた。それは、夜の訪れを感じさせた。
今日は大変だった、と溜息をついた。
なぜなら、今日、予定されていた計画は全て、音羽の滝で起こった泥酔騒ぎにより中止となっていたからだ。
その騒動は、私に予測など出来る訳もなく、突然として起こった。
流れる滝の壮観さに、見惚れている時だった。クラスメイト達の半数ほどが倒れてしまうという、事件が起こったんだ。
私は何事かと、目が点になった。どうしようかと困惑していると、本当に以外な事だったけど、ネギが迅速に声を上げた。
その表情は真剣そのものだった。いつもの、慌てふためくネギではなかった。
再度、唖然としてしまった私だったけど、無事だった皆と力を合わせて、酔っ払い達をバスへ運んだ。
一段落して休んでいた私の下に、ネギがやってきた。その時も表情は真剣そのものだった。
先程の蛙騒動の時は、はっきりと子供じみていたというのに、この急激な変わりようはどうしたんだろうか。
病気、だろうか。それとも、変な物を拾い食いでもしたのかも知れない。
良くわからなかったけど、まあ、真剣なのは良い事でしょ、と考えるのを止めた。
落ち着き払う変なネギ曰く、泥酔騒ぎは関西呪術教会とやらの一部が計画した妨害工作で、蛙騒動も同一だという事だった。
難しい事は良くわからないが、要約してみるに、その一部は関東と関西が仲良くするのが気に入らないらしい。
だからこそ、ネギが持っている和平のための書状を奪おうと画策しているという。
全く、困った連中だ。平和ならそれで良いじゃない。
だけどそういう話しならば、わざわざ妨害工作を行っている理由については理解出来た。
でも、一つだけ、言わせて欲しい。
皆を酔わせた妨害工作が、書状を奪おうとする連中の目的へと、どのように繋がっていくというのだろうか。
色々と考えて見たけど、結果は意味不明さだけが残った。
仕方がなく私は、自分が考えても仕方がない事だと、気を取り直した。
結果として皆に怪我もなかったし、私達の予定を狂わせただけなのだから。
良くはないが、安心出来る結果と言えた。
ロビーには依然として、人影はなかった。騒々しく、神出鬼没なクラスメイト達の姿も、視界には映らなかった。
なぜなら、音羽の滝であんな事件があったからだ。
酔っ払い達は部屋で眠っているだろうし、無事だった皆は、思い思いの場所で暇を持て余している事だろう。
私はというと、未だに心の中に残るわだかまりが晴れずにいた。だから、じっくりと考えて見ようと、人気のない場所を探し、ここにたどり着いていた。
それは新幹線の車内で感じた、何とも言えないような感覚だった。
残念な事に、突然木乃香に話しかけられてしまったため、思考が途切れてしまった。
だけどあの時、確かに感じていた。記憶の中にしまい込まれた、大切な何か。失われた何かが、蘇りそうな感覚が。
そして、まどろみの世界で蘇っていく記憶の映像の中に、ある人物の姿が見えたような気がしていた。
腕を組み、眉根を細めた。朱に染まる中空を見据えてから、静かに瞼を閉じた。
だけど、どれだけ待っても、あの時の異様な感覚を捉える事は出来なかった。
自然に人差し指が動き、制服越しに胸元をなぞった。
羞恥心、から隠されていた秘密の首飾り。広げられた翼が形取られた銀細工は、固くて、不思議だった。
肌に微弱な冷たさが刺しているのに、わだかまりを抱えた心はポカポカと、次第に暖かみに包まれていくんだから。
反射的に、頭を左右へと勢い良く振った。両側に束ねた髪の毛が鞭のようにしなり、頬に当たった。細かな痛み、痒みを感じながら、心の中で呟いた。
わからないものはわからないんだから、しょうがないでしょ。
だから悩むなんて、私らしくない。
いつかきっと、わかる日がくるんだから。
含み笑いが漏れた。
夕闇が、今にも迫り来る空。次第に薄暗くなっていく街の景色を見つめていると、どうしてだか、ふと小林先輩の笑顔が浮かび上がった。
旧知の仲かのように、打ち解けられた男の人。高畑先生にも劣らない包容力を持ち、信頼出来る一つだけ歳が上の先輩。
あの人は今、何をしているだろうか。
さざめくような昂揚感に耽っていると、独りでに口が開いていくのを感じた。
「小林先輩が京都にいる」
「えー!アスナさん、知っていたんですかー!?」
小林先輩が京都にいるなら、修学旅行ももっと楽しくなるのに、とは言えなかった。
唐突にも、何者かの声に邪魔をされたからだ。
それは聞き慣れた声色だった。さながら、夢でも見ているかのような昂揚感に耽っているのを邪魔されて腹が立った。
間近で、驚きを顔に表していたネギを睨みつけた。
「うるさいわね!
ちょっとは空気を読みなさいよ!」
「す、すいません。
で、ですが、アスナさんが言ったものですから」
ネギが怯えからか、縮こまった。
無性に腹が立った。
こいつもカモと同様、私を鬼か何かと勘違いしているんではないだろうか。
射殺さないとばかりに、眼光鋭く睨みつけた。
「はあ?何をよ?」
「ひ、ヒサキさんが、京都にいるって言ったじゃないですか。
ど、どうやって知ったんですか?」
定まらない頭で、何度もまばたきをした。
さながら、世界中の時計が制止したのではないかと錯覚してしまうような問い。
ゆっくりと、ネギの言葉を反芻していった。
程なくして再起動すると、また、ネギを睨みつけた。怯えているのか、失礼な事に小さく呻き声を上げた。
全く、この葱坊主はなにを言っているんだろうか。
小林先輩が京都にいるなんていう、ついてはいけない嘘をつくとは。
小林先輩は高等部一年生だ。どんなに強くたって学生の身なんだ。真面目な人だし、授業をサボる事もしないだろう。
何よりも、京都に来なければならない理由が思いつかなかった。
蔑んだ微笑を口許に浮かべると、ネギに呟いた。
「エイプリルフールは、もう終わったはずなんだけど……」
「ほ、本当ですよ!本当なんです!」
謝れば許してあげようかと思っていたけど、ネギは嘘を突き通すようだった。
先程から必死に、本当ですを連呼していた。
これは罰が必要ね、と微笑を浮かべた。そして、死刑宣告をしようとしたが、私の口が開く事はなかった。
なぜなら、ネギの涙目な必死さが、ある考察を浮かばせたからだった。
ネギが、こんなつまらない嘘をつくだろうか、と。
まさか。そんなはずは。
色々な考察が頭を騒がせて、私の目は見開かれた。
とりあえずで、深呼吸を繰り返してみる。
逡巡の後、唖然とこちらを見遣るネギに、何事もなかったかのように尋ねた。
「小林、先輩が、京都にいるの?」
「は、はい!そうなんです!信じてくれたんですね!
と、というか、アスナさんも、さっきそう言っていたじゃないですか!」
次の瞬間だった。
気づいた時既に私は、叫び上げていた。
「えー!!
ななな、なんでいるのよ!?」
勢い良くネギの胸倉を両手で掴むと、強く問い正した。
「く、くるしぃ……あすなさん……」
ネギの顔に、苦悶の表情が表れていた。
余りに予想外な事実に、興奮してしまってでもいたのだろうか。胸倉を掴んだままの状態で、ネギの身体を持ち上げてしまっていたんだ。
申し訳ない気持ちで、直ぐに手を離した。
「あ、ごめん」
ネギが膝から崩れ落ちて、咳込んだ。
私は、自分の失態を恥ずかしく思いながらも言葉を待った。
程なくして、ネギが立ち上がると、深呼吸してから言った。
「ヒサキさんは僕達に力を貸すためだけに、わざわざ京都まで来てくれたんですよ。
今も、どこかで見守ってくれています。
その上、同じ新幹線にも乗っていたんですよ」
ネギが、誇らしげに笑った。
だけど私には、ネギを気にしている余裕はなかった。
なぜなら、その事実に私の身体はさながら、電気が切れてしまった電化製品のように停止していたからだ。
「凄く、優しい人です。
僕を、僕達を守りたいがために、危険を承知で、京都にまで来てくれたんですから。
だから、アスナさん。僕は修学旅行中もそうですが、これから、命をかけるほどの意気込みを持って頑張ろうと思います。
ヒサキさんが僕達のために、あの夜、命をかけてくれたように」
ネギが何か言っていたようだけれど、さっぱりと私の耳に入って来る事はなかった。
小林先輩が、京都に、来ている。小林先輩が、危険な京都にまで来てくれて、わざわざ私を見守ってくれている。
その有り得なかったはずの現実は、多大な昂揚感を募らせていたからだ。
強がってはいたけれど、内心、私にだって少しくらいの不安はあった。
だけど、大袈裟なんかじゃない。さながら、暗雲のような不安感は、霧が晴れるかのように消えていた。
でも、ネギの言葉の、ある事実に気づいた時だった。
私はネギに詰め寄ると、また大声を上げた。
多大な昂揚感に、多大な恥ずかしさ。それに心を支配されてしまった結果の行動だった。
「どどど、どこにいるのよ!
い、今も見守ってるの!?」
「はい。
まるで、一般人のように微かですが、僕でも集中すれば感じとる事が出来ます。
どこにいるかまではわかりませんが、身近にいると思」
「こ、こんな事していられないじゃない!」
ネギが面食らった様子で、唖然と口を開けていた。
私は無視を決め込み、即座に行動へと移った。
別れの挨拶でさえも忘れて、勢い良く部屋へと駆け出した。
背後の方向から、ネギの大声が聞こえてきた。
「あ、アスナさん!
どこへ行くんですか!?
少し、お話しがあるんですよ!」
「そこで待ってなさい!用意してくるから!」
小林先輩が近くで見守っているという現状が、私にこの行動を取らせていた。
ふと、不安になったんだ。
身嗜みはきちんと、整えられているだろうか、と。
そういえば、音羽の滝の騒動で髪型が乱れてしまっていたが、誰に見られる訳でもないしと放って置いたはずだ、と。
羞恥心がさながら、身体中を燃え上がらせているような感覚を捉えていた。
小林先輩はそうは思わない事は知っている。だけど万が一、身嗜みも整えない女子だと思われたらと、不安感が猛り狂っていたんだ。
とめどなく、羞恥心が騒ぎ立てた。不思議に思ったが、理解する事は出来なかった。
猛スピードで部屋へと走っていく。唖然とこちらを見つめるクラスメイト達の事など、気にしている余裕はなかった。
もう少しで、部屋に着く。
その時だった。
私の頭の中が真っ白となり、また身体が制止したのは。
なぜならば、小林先輩は今も見守っているという現状が、ある考察を浮かばせたからだ。
それなら、先程のネギとの騒動も、見られていたのではないだろうか。
小林先輩になって考えて見る。当然ながら、唖然とするだろう。今の、この、全力での走りも。
比喩なんかじゃなかった。恥ずかしさで、死にそうになった。
だけど、一縷の望みを胸に、一目散に部屋へと走った。
湯気が立ちそうなほどの顔中の熱さを感じながら、神様に尋ねた。
さっきの時、小林先輩は、私を見ていませんでしたよね。
—ネギside—
ホテルのロビー。僕はソファーに座り、アスナさんを待ちぼうけていました。
待っててとの最後の台詞を聞いてから、三十分ほどの時間が過ぎたように思えます。
薄暗くなりかけていた空は、完全な闇へと変貌し、内心、焦っていました。
今は自由時間だから良いのですが、僕は教師です。生徒達を守るという大事な仕事があるからに違いありません。
ですが、僕の話しを聞いて貰うのですから、待つのも当然だと思えました。
アスナさんの都合も考えずに話しかけたのは、僕なんですから。見回りの最中にその姿を見つけたんですが、一言、早計だと言えました。
音羽の滝でのお酒騒動は、自分ながら落ち着いて行動出来たと思っていたんです。
ですがそれは、ただ有頂天になるだけという結果となってしまいました。
ヒサキさんの人物像において、顕著な部分。それは、どんな時でも、豪胆なまでの落ち着き払った姿勢だと思いました。
その姿勢に僕は憧れていましたし、そうなりたいと真似てみたんです。ですが、やはり僕はまだまだだったようです。
深く、反省をしました。自分を見つめ返し、反省する事。それが成長に繋がっていく。
お父さんやヒサキさんのような、偉大なる魔法使いになるための修業なのではないかと思えました。
それにしても、アスナさんはどこに行ったのでしょうか。
そこら中の粉塵を巻き上げながら、まるで、獲物を追走する肉食動物のように走り去っていったんです。
用意をしてくる、と言っていた事から、何かを用意しているという事だけは明白なんですが。
ですがそれはアスナさんに取って、さながら、命の次に大切なほどの事なのでしょう。
あの鬼気迫るような迫力は、感じた事がなかったからです。多大な説得力を感じました。
僕は恐怖から、刻々と頷く事しか出来ませんでしたから。
そんな事を考えていると、遠めにアスナさんの姿が確認出来ました。
ゆっくりと、こちらに歩み寄ってきます。
僕が立ち上がると、目前まで来ていたアスナさんが言いました。その声音はまるで、暖かい南風を彷彿としました。
「ネギ。待たせて悪かったわね」
僕は深々と頭を下げました。
「いえ、アスナさんの都合を考えようとしなかった僕が悪いんです。
ごめんなさい」
頭を上げて、アスナさんを見上げました。
そして、次の瞬間でした。
僕の目は、自然と見開かれてしまったんです。
こんな事を思うのは、アスナさんに対して失礼だとは思いました。ですが、アスナさんの立ち姿が見違えて見えたんです。
両側に垂れた髪の毛は綺麗に束ねられて、ほんの微かにですが、顔の造形が変わっているように思えたんです。
不思議でしたが、僕は小さく頷きました。
お化粧をしているのではないかと思えたんです。
理由についてはわかりませんが、用意とはこの事だったのかと頷けました。
普段から素敵な人ですが、今、口許に浮かべられている穏やかな微笑みは、より一層として素敵に思えました。
僕は微笑むと、言いました。
「アスナさん、お化粧をして来たんですか?
素敵ですよ」
アスナさんが、抑揚のない表情で言いました。
「ん?私はさっきと変わりないわよ?」
首を傾げました。
僕の思い違いだったのでしょうか。
不思議に思いながらも、再度、尋ねました。
「ですが、先程と雰囲気が違うような気がするんですが」
返答を待っていると、アスナさんが微笑んだまま黙り込みました。
ゆっくりと、口が開いていきました。
「ネギ、何言ってるの?
私は朝からこうよ」
不穏な空気を感じました。
その素敵な微笑みが、まるで、能面な笑みのように思えたからです。
アスナさんが、念を押すように呟きました。
その声音は穏やかそのものなのに、僕の背筋はさながら、悲鳴を上げていました。
「変わりないわよね?
そうでしょ?」
僕は余りの恐怖から、また刻々と頷き事でしか返せませんでした。
アスナさんが、邪気のない楽しげな笑みを浮かべました。
まるで、研ぎ澄まされた刃物を彷彿とさせる、微笑でした。
恐怖から、気圧されぎみの僕でしたが、勇気を持って口を開きました。
まるで蝋人形と見紛いそうになるアスナさんに、手初めと、関西呪術協会の一部が画策する目的を説明しました。
新幹線内で僕は、桜咲さんの口から語られた、愕然と憤りが交錯する目的について説明されていました。
その理由とは、このかさんに関連する事柄でした。
裏世界に関わってほしくないという優しい親心から、秘匿されてきた真実。
それは、自身さえも知らないという真実。
このかさんは、極東一と言っても過言ではないほどの魔力量を保持している。
だからこそ、一部はその膨大なまでの力を利用しようと狙っているのではないか、と。
僕はその事実に愕然としてしまいましたが、同時に、絶対に許してはいけない事だと強く憤慨しました。
なぜならばと問われれば、答える事は至極簡単です。
麻帆良に来た頃、僕は右も左もわからないと困り果てていました。アスナさんもそうですが、このかさんも、不甲斐ない僕に包み込むような優しさで手を伸ばしてくれました。
強く、頷けました。
次は、僕が返す番なんだ、と。
その上、皆さんもそうですが、このかさんも僕が受け持つ大切な生徒の一人なんです。
僕は、教師です。
生徒に、一切の手出しはさせない。
その旨をアスナさんに伝えました。
唖然とした後、今は大丈夫なのかと問われました。
僕は、頷きを返しました。
基本的には、桜咲さんが護衛をしているので安心ですし、カモくんにも無理を言って張り付いて貰っています。
そう伝えると、アスナさんの瞳に燃え上がるような強い意思が見えました。呼応するように、強く頷いてくれました。
桜咲さんもそうですが、アスナさんについても、尊敬を隠せませんでした。
このかさんのために、僕のために、危険を承知で支援してくれる心意気。正に、脱帽といった感情に襲われていました。
それから、見回りをしていた桜咲さんと出会しました。
ヒサキさんに恥ずかしくないようにやり遂げて見せようと、皆さんで話し合いました。
並々ならぬ決意はさながら、身体中に燃え上がるような使命感を与えました。
僕は高らかに宣言し、3—A防衛隊を結成する事となりました。
闇に染まる京都の街に、猛々しいまでの足音が響き渡っていました。
前方の薄暗い路地に、猿の着ぐるみを着た女性が、足早に逃げて行きます。
その脇には遺憾ながら、気絶した状態のこのかさんが抱えられていました。
共に追走するアスナさんと桜咲さんの表情には、絶え間ない怒気が受かんでいました。
絶対に、許せない。身を焦がすような憤り。僕の顔は必死に、彩られている事でしょう。
ですが、ある感情も、心の半分を占めていました。
それは落ち込み。僕の心境の片割れは、奈落に落ちたかと錯覚してしまうほどの闇に覆い込まれていました。
なぜなら、この現状をつくってしまった要因は、他ならない僕なんですから。
桜咲さんの呪符による効果からか、ホテル内に、騒ぎという騒ぎは起こりませんでした。
なのに僕は、最悪と言える選択肢を選んでしまったんです。
星空が瞬く、夜。玄関前での出来事でした。
呪符の効果でしょうか。ホテルに入れないと、首を傾げている従業員の女性を見つけたんです。
これはいけないと、外の見回りのついでとドアを開きました。
それこそが、間違いでした。
なぜならば、その女性こそが、このかさんを奪おうと画策する関西呪術協会の一部の人だったんですから。
多大な申し訳なさが、自身に襲いかかりました。騒ぎ立てる羞恥心から、胸に鈍痛が響きました。
僕のせいでまた、みんなに迷惑をかけてしまった。
自分の実力のほどを、思慮の浅さを、痛いほどに実感させられる結果となりました。
ヒサキさんの、凛々しい横顔が脳裏に浮かび上がりました。
その大きな背中は、僕には依然として霞むほどに遠く、指先さえも届きはしない。
それはさながら、地表から人類が、太陽に触れようと手を伸ばしているかのように滑稽に思えました。
ですが僕には、歩みを止める気などはありませんでした。
僕はまだ、弱い。弱過ぎる。
そんな事は、わかりきっているんです。
お父さんやヒサキさんのようには、まだなれません。
だけど、弱いからこそ、出来る事もあるんです。
それは強さへの渇望。強い者より、弱い者の方が、それを切実に願える。
願う僕に、出来る事は一つしかありません。
それは僕の全身全霊の力を持って、このかさんを取り返そうと戦う事。それこそが、その経験が、将来、お父さんやヒサキさんのような偉大なる魔法使いになるための道筋だと思えたんです。
だからヒサキさん、どうか僕を見ていて下さい。
僕は僕なりのやり方で、いつか、ヒサキさんの隣に立ち、力となって見せますから。
それに僕には、理由があるんです。強くならなければいけない、強く居続けなければいけない、理由が。
—桜咲刹那side—
薄い霧が漂う、月下。街灯が辺りを淡く照らしていた。
私は、次から次へと迫り来る凶刃を、夕凪で受け止め、払い続けていた。
甲高い金属音と、風を切る音。それらが周囲を支配するように響き、私の心拍を徐々に猛らせていく。
対峙する相手は、奇しくも同門だった。月詠と呼ばれた、眼鏡をかけた少女だった。
認めたくはないが少女曰く、神鳴流の後輩、だと言う。
切り結びながらも、思考は継続されていた。
それにしてもと、思う。
戦いの最中と言うのにも関わらず、ふざけた格好だ、と。
可愛いらしい桃色の衣服などを身に着けている。だが、侮ってはならない。その実力は正に、本物だと言えた。
所謂、二刀流と呼ばれる戦闘技法。
両の手に握られた刃から、絶え間なく繰り出され続ける連撃。その凶悪さは、未だに幼さの残る容姿とは不釣り合いと言えた。
月詠と呼ばれる少女が、愉悦の笑みを浮かべて再度、斬りかかってきた。眉をしかめて、それを弾き返す。
恐らくこの少女は、所謂、戦闘狂と言った部類なのだろう。経験上、こういった手合いが一番始末に困るのだ。
寺へと続く階段の中腹にて、私達は刃を合わせていた。
背後の方、下った先では、神楽坂さんとネギ先生が着ぐるみ達と戦いを繰り広げる音だけが聞こえていた。
お嬢様をために、力を振るってくれている二人には、内心、感謝を隠す事は出来なかった。
だが申し訳ないが、現状に置いて、二人を気にしている余裕はなかった。
なぜなら、私の心の中にて、焦燥感が目まぐるしく騒ぎ立てていたからに他ならない。
その原因は、階段を上った先にあった。
巫女服らしきものを身につけていた。胸元をはだけさせた浅ましき服装だが、その女が人質に取る存在が問題だったのだ。
その人質とは、木乃香お嬢様。私の中で、小林さんという存在が急浮上してきた今尚、負けず劣らず大切な存在。
私が命を懸けるに値する、もう一人の存在だ。
由々しき事だが、女はしてはならない行為をしていた。
気絶しているお嬢様を盾にするようにこちらに向けて、愉しそうに笑っていたのだ。
許せない。許せる訳がない。
憤りはさながら、炎となり身体中を駆け巡っていた。
反射的に、直情的に、助けに動こうとした。だがそれは、邪魔な存在、月詠がほんわかとした声音で制した。
「もう一度、いきますよー」
「クッ」
激化する斬撃は、目まぐるしかった。煩わしさと焦りが、如実に蓄積していく。
弾き、受け流し、攻勢に移る。けたたましい金属音が、辺りに響きいていった。
そんな私の、秘められた感情に気づいたのだろう。
女が嘲笑い、こちらを見つめているのを視界に捉えた。
さながら、火山が噴火したかのような怒りが身体中を支配した。力任せに、力任せに、ただ斬り倒そうと両手が、両足が動いていった。
だが、そんな感情に任せた一撃が、この相手を前に通じるはずがないのだ。
いとも簡単に受け流された。その上、遠心力を活かした横薙ぎが迫って来る。
即座に足の裏に力を入れて、後方へと跳んだ。距離を取った後、今まで私が居た場所に斬撃が飛び、空を斬った。
猛る心拍数が鼓膜に響いた。冷汗が、額から頬にかけて流れ落ちた。
油断をしてはならない。月詠を見据えた。
私達の間に音が消えた。緊迫感が押し寄せる中、一陣の夜風が吹いた。湿り気のある風が、酷く気持ち悪く思えた。
顔をしかめた。途方もない悔しさが、加速度的に心を震わせていたからだ。
私では、この少女に、勝てないのか。
心の中で呟くと、月詠がまた、愉しげに笑った。
その立ち姿には、一切の隙が見えなかった。
お嬢様は、女に捕われたまま眠っていた。
目前にいるはずのお嬢様が、途方もなく遠く、見えた。
さながら、そこにあるのに触れられない、空気のように。
だが無理矢理、見開いていた目に力を込めた。小さく、首を左右に振った。
いや、違う。お嬢様は空気などではないのだ。
確かに触れられる。だからこそ、触れられる方法を考えるのだ。諦める気などは、毛頭ない。
すると、一つだけ気づけた。思える事があった。
月詠は倒せない相手では、ないのだ、と。
確かに、決定打を与える事は出来なかった。だが、こちらも貰ってはいないのだから。
その時、ふとある考察が脳裏を過ぎった。
小林さんならばこんな危機的状況に置いて、どういった行動を取るだろうか、と。
だが直ぐさま、否定する事となった。
なぜならば、小林さんが当事者だとしたら、こんな醜態を晒す前に実力を持って解決しているだろうから。
だがしかし、そんな中でも見えるもの、収穫はあった。
あの聡明な小林さんの事だ。後がない緊迫した状態でも、活路を見出だすはずだ、と。
隙を見せないように、月詠を見据えながら思考に没頭した。
小林さんには持ち得ていて、私に欠けているものとはなんだろうか。
直ぐさま、一つだけ思い当たった。
それはまるで、研ぎ澄まされた牙に等しき、類い稀なる戦略だろう、と。
だが、否定した。なぜなら、今はもう、戦略を磨いている時間などはないのだから。
わからない。わからなかった。混濁する脳裏に、その答えは浮かばなかった。
ならば、考えていても道はない。時が過ぎれば過ぎるほど、こちらの足場は薄氷と化していくのだから。
息を吐く。そして、捨て身で斬りかかろうとしたその瞬間だった。
明確に、感じられた。感じ取ったのだ。
忘れる事など出来はしない。身体中に染み入るような安心感を産む、ある男性の微かな魔力の波動を。
私の真上、上空に感じられた。闇夜に紛れるように微細な、愛しさを募らせていく波動を。
一目、自らの目で見たいと願った。だがそれが叶う事はない。
それだけで、良かったのだ。私の視界には、彼の姿は確認出来ない。だが、明確に敵が捉えられているのだから。
出会いから、たった数週間の少ない時間だった。
だが不穏な空気が惑う今も、私を見守ってくれているのだ。
その事実は、私の心を騒ぎ立てていた憤りや怒りを、いとも簡単に消し去った。まるでそれが、元からなかったかのように。
頭が、冷やされていった。
そして、気づいた。そう、だったのだ。
小林さんに持ち得て、私に欠けているもの。
それは、冷静さだ。どんな危機的状況でも前だけを向き、策を考えようと回転する冷静な頭脳だったのだ。
なぜ、こんな事がわからなかったのだろうか。
小さく、笑みがこぼれた。
そんな私の笑みを見ていたのだろう。敵の二人の、目が見開かれた。
危機的状況なのは、知っている。変わりない。それは、十分過ぎるほどに理解していた。
だが、だからこそ私は、笑うのだ。
戦闘の最中に置いても、どんな危機的状況に置いても、小林さんが変わらずそうで在ったように。私はただ、愉悦の笑みを真似るのだ。
月詠が、不思議そうな表情でこちらを見据えた。巫女服の女が、まるで幽霊で見たかのように、眉根をひそめた。
「なんなんやあんた?
おかしくなったんか?」
背後から、喚声が上がった。神楽坂さんとネギ先生は、打ち勝ってくれたようだ。
ならば、私も続かなくてはならない。
内心、深い安堵をしながらも、嘲るように笑う演技をした。
それは小林さん真似。小林さんならば、こうするだろうと思えたのだ。
そうなのだ。隙がないならば、こちらから隙をつくり出せば良いだけ。
簡単な事だ。惑わせて、相手を煙に巻くだけで良いのだから。
「フ……。
お前達はお嬢様を人質に取り、勝った気でいるようだが、一人ある人物を忘れてはいないか?」
その言葉は、辺りの空気を震わせた気がした。
両者共に、不思議そうな表情が現れた。
月詠が答えを求めるように、女の方を向いた。
ほどなくして、女が気づいたのだろう。突然、目が見開かれた。
私は満足げに笑うと、静かに言った。さながら、子供に言って聞かせるような声音に努めた。
「そうだ。
新幹線の車内で、お前達を騙し、欺き、手玉に取った男性の事だ。
お前達の敵は、私達だけではない」
「そ、そうやった。
あのいけ好かん男が……」
「悪名高い真祖の吸血鬼でさえも、嘲笑いながら手玉に取るほどの男、だと言ったらどうする?」
エヴァンジェリンさんには申し訳ないが、事実だ。説得力のある演技を見せられているかは心配だったが、不敵に笑った。
驚愕の事実に、女の目が見開かれていく。
私は、笑うのを止めなかった。
出会いの時だ。身を持って、私は小林さんにそうされた。だからこそ、良くわかる。
余裕だと笑う事こそが、人心を掌握する術なのだ。
それだけで相手は、いとも簡単に疑心暗鬼に陥る。相手の程度が低ければ低いほど。
女は確かに狼狽していた。頻りに辺りを見回していた。
小林さんは、こう言っていた。
守るためだけに、力を使え。守りたいと切に願うならば、役に立たない誇りなどは捨てろ、と。
逃げてでも、守り通せ、と。
夕凪を掴む片手に、自然と力がこもっていく。
私は抑揚のない声で、静かに呟いた。
「今も、後ろにいるぞ」
「な……!」
女が、唖然とした。二人して、同時に自らの背後に注意を逸らした。
その瞬間を、待っていた。
私は音を立てずに足早に、月詠の間合いに入った。
夕凪を一閃と、横薙ぎに払った。風を斬る音と共に確かに、手応えを掌に感じ取った。
月詠の小柄な身体が、衝撃を受けて、上空に舞った。粉塵を撒き散らしながら、階段へと落ちた。
微塵も動かない月詠を見据えてから、女に笑みを向けた。
「つ、月詠はんが、こない簡単にやられるなんて」
女は、隙だらけだった。
未だに、騙された事に気づいていないようだ。
月詠が倒された事に、驚愕していた。
絶好機だ。お嬢様を奪い返す機は今だ、と心の中で叫んだ。
決着をつけようとした瞬間、背後からネギ先生の叫び声が聞こえて来た。
その声音で、周囲が緊迫感に支配された。
「ヒサキさん、今です!背後からこのかさんを!」
唖然としていた女が、その言葉で我に返った。
背後の誰もいない闇へと、お嬢様を盾にするように向けた。
一瞬だけだが、私も騙されそうになってしまった。だが、これはネギ先生の嘘だったのだ。
昼はまだ子供のようだったのに、この成長速度は素直に賞賛出来た。
打ち合わせもしていないのに、ネギ先生は私の策略に気づき、それに呼応したのだ。
これが、壮大な器量から来る小林さんの影響力。何も言わなくても良い。言わずとも、その広い背中だけで人を成長させていく。
昂揚感が、身体中から沸き出すように感じられた。
演技などではない。素直な笑みが漏れた。
心の中で呟いた。
私が好きになった人は、異様なほどに格好良すぎる。
次の瞬間、女はまるで人形のように闇夜を舞った。
「秘剣、百花繚乱!」
桜が、中空を舞い散る。女が粉塵を巻き上げて地に落ちた。
私はその様を一瞥さえせずに、ある地点に走った。
空からを落ちてくるお嬢様を、しっかりと両腕で受け止めた。
お嬢様は未だに眠っていた。
良かった。
……このちゃんは、こんなにも非情な世界を知らなくて良い。
寝息を立てる整った横顔が、酷く愛おしく思えた。
「……お嬢様」
独りでに、私の口が開いていた。二人が起こさないようにだろう。静かに歩み寄って来た。
そして、二人にお礼を言おうとしたその瞬間だった。
私の耳に、ある優しげ音が響いてきたのは。
上空から落ちて来るように、聞こえた。
それは拍手。私達を、賞賛する音だった。
私達の戦いを、見守ってくれていた。そして、評価し、認めてくれたのだ。
嬉しかった。嬉し、過ぎた。
その音は私の心を、さながら、太陽の日差しを受けているかのように暖めていった。
背後から、神楽坂さんの不思議そうな声が聞こえてきた。
「これ、なんの音?」
「僕達の戦いぶりに、ヒサキさんが拍手してくれている音、ですよ」
ネギ先生が、誇らしげな声音で言った。
すると、唐突にだが、神楽坂さんが大声を上げた。
「ええー!
じゃあ、ハリセンも見られてたって事じゃない!
どうしてくれんのよ!」
「あすなさん……くるしい……」
唖然と見遣ると、神楽坂さんが慌てた様子でネギ先生の胸倉を掴んでいた。ネギ先生が苦悶の表情を表していた。
その時、拍手が鳴り止んだ。私は一人、その騒動にほくそ笑んだ。
意味はないかも知れない。だが静かに、上空の闇を見上げた。
やはり、そこには誰もいなかった。
夜霧に紛れるように、紫色の魔力の波動だけが漂っていた。
私はそこに、小さく頭を下げた。
—絡繰茶々丸side—
室内には高級さが漂い、広々としていました。
私はキッチンに立ち、湯気が立ち上る鍋に視線を落としていました。
お兄様の、ご迷惑になるかとは思えました。ですが、栄養となるものを食べてほしかったのです。
ふとお兄様の様子を伺おうと、振り返りました。
大理石のテーブル上に並べられた、沢山の料理の奥のベッドにお兄様は眠っていました。
つくり過ぎではないかと思いましたが、男性は相当な量を食べると聞いた事がありました。
ですが一つだけ、不安といった感情を捉えました。
お兄様に食べて頂けるかは、わからないからです。
私の中に、人間でいう、恐怖心といった感情が産まれていました。
そんな思考に没頭していると、視界に、大きなベッドで眠りについているお兄様が映りました。
まだ一日だけとはいえ、疲労が溜まっているのでしょう。
私が料理をしていても、起きる気配はなかったからです。
起こさないように、極力、物音を立てないように気をつけましたが。
開け放たれていた窓。そこから涼しげな風が吹き、お兄様の前髪を揺らしました。
微かな日が、差す時間となっていました。
それから長い間、見入られるように寝顔を見つめていました。
少しして、これはいけないと、鍋に視線を落としました。
どうして私がここにいるのか。その疑問を解決するには、昨日の夜の事を話さなければなりません。
室内の清掃をしていると、マスターの叫び声と、勢い良く下りてくる足音が聞こえて来たのです。
私は不思議に思いました。その方角を見ていると、マスターが部屋に飛び込んで来ました。
マスターの息は荒く、私を心配となり尋ねました。
するとマスターは、深呼吸の後にこう言いました。
「茶々丸!
頼む!京都へ行ってくれ!」
その突拍子のない願いに、私は不思議と首を傾げました。
勢い良く話していくマスターの言葉を要約すると、こう言っているようでした。
お兄様が京都にいる。
お兄様が、危険な目に遭わないように見張っていてくれないか、と。
私は申し訳なく思いましたが、断りました。
なぜならば、マスターをお守りする事こそが、私の役目だからです。
ですが、お兄様をお守りしたくない訳ではありません。
お兄様がその優しさ故に、ネギ先生達を助けようと京都に向かっていた事は知っていました。
それを知ってからというもの、心配という感情は、絶え間なく産まれ続けていました。
確かに、後ろ髪ひかれる感はありました。お兄様とお会いしたいという感情は、騒ぎました。
ですが、マスターをお守りする事こそが、私の存在意義なのは変わらない事実なのです。
その旨を、伝えました。ですが、マスターの意思は固く、変わる事はありませんでした。
「頼む、茶々丸!
ヒサキを守ってやってくれ。何なら、力づくでも良い。
危険へと身を投げ出そうとする愚か者を、私に代わって止めてくれ!」
どれほどの、時間が流れたでしょうか。
両者共に折れず、話し合いは平行線を辿りました。
ですが結果として、私は京都へと向かう事となりました。
こう、思えたのです。
マスターがここまで、無我夢中だった事があっただろうか、と。
やはりお兄様は、凄い方です。マスターにこれほどまでの感情を、抱かせてしまうのですから。
それから準備を整えて、マスターの懇願するような声を背に、私は麻帆良を後にしました。
思考に没頭していると、背後の方から、お兄様の声が聞こえてきました。
包丁の音で、起こしてしまったのかも知れません。
何を言ったのかは定かではありませんが、私は振り返ると一礼を返しました。
お兄様は寝ぼけているのでしょうか。薄目で、こちらに微笑んでいました。
どうしてでしょうか。身体中が暑くなっていく感覚を覚えました。
近づいていき、声をかけようとしました。
ですが、私の口は開きませんでした。
なぜならば、小林氷咲という優しき男性に、お兄様と呼びかけるのは初めてだったからのように思えました。
恥ずかしさと、どう思われるかという怖さが、同居でもしているかのような感覚に陥りました。
ですが、礼を欠いてはなりません。
意を決して、言いました。
「氷咲お兄様のご迷惑かと思いましたが、朝食を用意しました。
好みが不明だったため、和洋中とつくりました」
ですが、それは杞憂でした。
その上、連絡がつかず、勝手に部屋に入ってしまった事にも触れず、気になどしていないようでした。
やはりお兄様は優しい方です。柔らかな微笑みを口許に浮かべてくれていました。
恥ずかしさはまだあるのですが、怖さといった感情は次第に消えていきました。
視界に、寝癖が映りました。普段のしっかりとした髪型ではなく、その無防備な姿が、ふと可愛らしく思えました。
「茶々丸さんの料理だったら、何でも美味しいさ。
ありがとう。
全部食べるだろうから、太っちゃうかも知れないな」
その言葉は、私の身動きを止まらせました。
お兄様は、言ってくれたのです。
私の料理は美味しい。だから、全部食べる、と。
全ては、杞憂だったと思えました。
私の中に、多大な嬉しさが込み上げました。
お兄様が微笑んで、こちらを見つめています。
私は無理矢理、口を開きました。どうしてかはわかりませんが、恥ずかしくていたたまれない気持ちとなっていたからです。
「ありがとう、ございます」
お兄様が、笑いました。
マスターもそうですが、お兄様が笑ってくれるだけで、私は幸せな心地となりました。
頭を下げていると、お兄様がまた布団に包まりました。
疲れて、いるのでしょう。
私は起こしてはならないと、黙ってその様を眺めていました。
ほどなくして、小さな寝息が聞こえてきました。その寝顔には、満面の笑みが浮かべられていました。
まるで、子猫を見るような愛らしさを感じました。
その瞬間でした。ある感情が、私に産まれたのです。
それは、使命感といわれる感情だと思われました。
私が京都に来た理由は、マスターに頼まれたからです。
ですが、私自身の感情として、素直に思えたのです。
眠っているお兄様の身体に、布団をかけながら言いました。
「お兄様は、必ず私がお守りしますから」