正に、驚天動地と言えよう——表
−小林氷咲side−
涼しめの風が、頬を撫でた。
混濁していた意識が、徐々に覚醒へと向かっていく。
現実と見紛ってしまいそうなほどの、素敵な夢を見せられたからだろう。
例えるならば、猛勉強の末、待ちに待ったテストで結果を叩き出した時のような充足感。正しく爽快、といった心地よさを身体中に感じていた。
作り手の方を訪問して、目的を問いただしたくなるようなまでの大きなベッド。俺はその上で、羽のように軽い布団、半ば戯れるように寝返りを打った。
視界は未だにぼやけてはいたが、日差しを受けたカーテンが静かにそよいでいるのを捉えた。
眩しさに目を細めて、徐に上半身を起こす。
共に一夜を過ごす仲となった、骨董品めいた置き時計が鳴いていた。秒針が時を刻む音色。それは広々とした、部屋内に反響していた。
ふと、含み笑いが漏れた。
小さく独り言を呟いてしまう。
「それにしても、俺の精神力の脆さには困ったものだな。
たった一日目にして、あんな夢をつくりあげてしまうとは」
腕を組み小さく頷くと、目を閉じて思考に没頭した。
そうなのだ。
これこそが京都の為せる業、と言えよう。
まるで不動明王の如く、いつ如何なる時も、凛々しく優しく生徒達を見守って下さる学園長。この古き都は、何事にも動じることのないその表情をいとも簡単に崩させてしまうのだ。
理解しては、いた。
いたのだが、今一度、気を引き締めなければならないと強く己を叱咤した。
なぜならば、たった一日という些細な時間の中でさえだ。この京都という地は、多種多様の事態を巻き起こしていたのだから。
到着して間もなくの事だ。見知らぬ銀行で遭遇した、詐欺らしき犯罪。
昨夜の帰り際もそうである。
夜空を意気揚々と飛行中に聞いた、幻聴。少年らしき声色であったとは思うが、そこは上空なのである。
まさか耳元、いや、脳に語りかけられるかのように声が聞こえるなど、有り得る訳がない。
ここは現実。SFでもホラーでもないのだから。
そして、最後を飾るのは、今朝の素敵な夢だ。
だが、その原因はわかりきっていた。俺の至らぬ精神がつくりあげた幻なのだろう。
心に、強く刻みつけなければならない。
隙を見せれば最期。災厄は、その機会を逃すことはない、と。
この京都という古都に、長居は無用である。
例えるならば、災厄をもたらす蟻の大群のようなものだ。奴らは闇の中で、虎視眈々と隙を狙っているのだ。俺という餌を、貪り尽くすために。
だが、しかしだ。
そんな思いとは裏腹に、堪えきれない感情が口許には浮かび上がっていた。
それは俺だって、うかれている事は自覚している。それが、命取りになるやも知れない事も自覚していた。
他の人から見れば、気色の悪い人だと蔑まれるかも知れない。
しかし、しかしだ。
「氷咲お兄様」
一つ、世界中の人間達に問いただしたい。
こんな甘美な言葉を囁かれて、笑みをこぼさずにいられる者がいるのか、と。
茶々丸さんの、素敵な口許から発音された言の葉。俺の耳は、脳は、一生涯として忘れる事はないと、誓おう。
だが、しかしだ。
一つ正しておかなければならない問題もある。
それは、どれだけ人生を間違えたとしてもだ。
俺にそう言ったアブノーマルな趣味は断じてない、という事である。
それは声を大にして言いたい。言いたかったのだが、その呼称が指し示すある感情に嬉々としてしまっていたのだ。
それは言葉に表すのならば、親愛とでもいった感情だろうか。
現実ではない。夢である事は、百も承知の上だ。
だが俺にはその、まるで魔法のような言葉の湧き上がる高揚に、抗う手段などは持ち得ていなかったのであった。
再度、ほくそ笑んだ。
視線が独りでに、夢で茶々丸さんが立っていたキッチンへと移っていく。
そして俺は、驚愕する事となった。正に唖然、だった。
ある異変を、視界に捉えたのだ。ある異様な事態に、文字通り、目を疑ったのだ。
目は見開かれ、瞬間、思考が停止した。
これは、一体、どういう。
見る事は叶わないだろう。しかし、俺の顔は呆けで、それはそれは間抜けな顔となっているだろう。
独りでに口から、呟きが漏れていた。
「これは一体……」
なんとそこには、夢の世界と同様に、茶々丸さんの後ろ姿が存在していたのである。
その服装は、麗しいメイド服で同様。その行動も、鍋をおたまらしきものでかき混ぜていて同様だった。
放心したまま、呟く。
うん。
意味がわからない。
さながら、砂嵐のようなノイズが荒れ狂い、思考がままならない。
腕を組み、頭を垂れた。小さく唸りながら、半ば必死に考え込んでみる。
一つだけ、思い当たる事があった。
そういえば時計の他にも、何らかの音が聞こえていたような、と。何らかの香ばしい匂いを感じとっていたような、と。
だが、素敵な夢の延長。昨夜、幻聴も起きたのだから、錯覚だろうと切って捨てていたのだ。
しかし、訳がわからない。だが、こういう時は、発想を逆転して考えてみる事が大切である。
すると、一つの仮説が浮かび上がった。
本当に不思議な事ではあるが、これは夢なのだ、と。
初体験ではある。あるが、夢の続きを見せられていると仮定するならば説明はついた。
そこでやっと、小さく笑う事が出来た。
晴れやかな心地。紛れもない正解なのだと示されているように感じた。
整理がつき、目を開く。すると傍には、茶々丸さんの立ち姿が在った。
そんな必要はないというのに、一礼をしてくれる。
「氷咲お兄様、おはようございます。
どうかなされましたか?」
微笑みを持って、返答した。
いつ夢が覚めるのかはわからないが、こんな素敵な夢ならば、覚めなくても良いだろう。
「おはよう。
これまた、おかしな話しではあるんだけどね。
今、不思議な体験をしている最中なんだ」
これは、おかしい。
これは、徹底的におかしいぞ。
確かに、嬉しくはある。
嬉しくはあるのだが、一体、いつになったらこの夢は覚めるというのであろうか。
高級感が漂う大理石のテーブル。その上には和洋中と、仰々しいまでの料理の数々が並べられていた。
色とりどりの色彩に、鼻腔をくすぐる刺激的な匂い。早朝だというのにも関わらず、食欲が湧き出てくるようだ。
その様はまるで、光り輝く、幾多もの宝石を彷彿とさせた。
正しく、圧巻である。壮絶さを、遺憾なく発揮していた。
俺は椅子に腰を落とし、黙々と料理を口に運んでいた。
味は方は、正に絶品。やはりそこは、さすがの茶々丸さんである。
舌に乗せた時には、脳髄に雷が落ちたかと勘違いしてしまったほどであった。
だがしかし、許されるならば、一言だけ良いだろうか。
如何せん、料理の量が多すぎるのではないだろうか、と。
男、たった一人で食べきれる量ではないのは、傍目から見ても明らかである。
さながら、力士の方々の大群が束になってかかっても、皆、病院送りにされる事は明白であった。
それに、それにである。
夢の世界だというのにも関わらず、胃袋の限界値が、普段と変わらないというのは何らかの罰なのだろうか。
これは、まずい。まずいぞ。
いや、そのまずいではない。料理は美味しい。美味しいのだ。
だが如何せん、まずい。いや、違う。美味しい。
途方もないほど大量の料理を、胃袋に詰め込んできたからだろうか。
思考が定まらず、ぼんやりとしてきていた。
心の中の小さなヒサキは、満腹と書かれた白旗にもたれかかり、息も絶え絶えに口から魂が抜け出ている有り様だ。
だが、しかしである。
俺の出来うる選択肢に、箸を置くという行為はノミネートさえされていなかった。
なぜならば、テーブルを挟み対角線上に座る茶々丸さん。彼女の視線が、逐一、こちらへと向けられているのだから。
俺の動きが止まったのを不審に思ったのか、不思議そうな瞳が突き刺さった。
愛らしくも小首を傾げて、何かに気づいたのか、その品の良い口許が開いた。
「やはり、つくり過ぎてしまったでしょうか?」
反射的に声を上げた。
俺には、理解ったのだ。
普段の抑揚のない声音とは似ていたが、確かに、不安という感情が顔を出していたのを。
「い、いや大丈夫。
あ、余りにも絶品過ぎてね。思考が停止していたんだ」
その時、冷や汗が静かに背中を伝った。
口を閉じかけた拍子に、いけないものが、新天地に飛び出そうと片足を踏み出していたからである。
さながら、胃という牢獄から生還を果たそうとする和洋中の囚人集。それを、看守に扮した俺が、警棒を片手に必死の形相で追い返そうとしていた。
説得力は皆無だったのだろう。茶々丸さんが再度、小首を傾げた。
透き通っていた瞳は、不安に濁っていた。
「それならば良いのですが、余り無理」
「は、ハハハ。
だ、大丈夫。いやー炒飯を掻き込もうと思っていたんだ」
言葉を制するように、最期の力を振り絞るように手元の炒飯を掻き込んでいく。
最早、無味無臭。舌が、麻痺しているようだ。
現状の俺に置いて、掻き込むという行為。
それはさながら、これは猛毒ですとご親切にも印字されている毒々しい色をした液体を、ピッチャーで一気飲みしているようであった。
だが俺には、為さねばならぬ理由があるのだ。
俺は、茶々丸さんに、こう言ってしまったのだから。
「全部食べるだろうから、太っちゃうかも知れないな」
いかん。いかんぞ。
夢の世界とはいえだ。大袈裟ではない。妥協するという事は、即刻、死に繋がるといっても間違いではないのだ。
なぜならば、ほら吹き男と、侮蔑の視線に晒されてしまうかも知れないのだから。
しかし、茶々丸さんは猫を愛でる心優しき女性である。
そんな事態にはならないと、高らかに言える。言えるのだが、万が一の場合に置いて、俺は絶望の底へと叩き落とされてしまうだろう。
黙々と、咀嚼を繰り返す。
ただただ、夢の終わりを切望した。
一体、どれほどの、時計の短針が周回したのだろうか。
異様なほどに覚めぬ夢。有り得ないが、最早、現実にさえ思えてきていた。
顔中から大量の脂汗が滲んでは、顎の先を伝い、大腿部を濡らす。
胃の中は、さながら、GWも真っ青な食物達の大渋滞と化しているだろう。
舌は、その存在さえ認識できない。
腹部の膨らみが、尋常ではない。出産前の妊婦さんのようであった。
今や、自分でも、何をしているのか、おぼろとなってきていた。
危機的状況である。正しく、極限状態、と言って差し支えないだろう。
静寂が支配する室内に、置き時計が鳴らす音が響く。その滑稽さが、哲学的にさえ思えて、なぜか笑みが漏れた。
白みがかる世界の中で、視界が独りでに動いた。
茶々丸さんの、神々しくも、白く縁取られた端麗な顔立ち。その不安げな瞳が、情けない自らを映し出していた。
心の中で、呟く。
そんな表情までもが、お美しいとは。全く持って、反則だ。
世界が、明滅を繰り返すように輝く。記憶は黒く上書きされて、意識はそこで途絶えた。
窓越しの景色は、薄暗かった。人気はなく、不明瞭だった。
まるで、星空のようにボツボツと点在する家屋の灯り。それは、夜が更けてきている事を示していた。
ホテル内の廊下に、宿泊客の楽しげな喧騒が響いている。
そんな明るい空間の中で、一人、フラフラと足取りがおぼつかない男がいた。
そう、これ以上ないほどに顔をしかめた男。その人物とは、紛う事なき俺であった。
さながら、悪魔が胃袋の中で暴れ回ってでもいるかのような痛烈な胸焼け。
そんな弱肉強食を地で行くモンスターとの死闘は、今も尚、熾烈を極めていたのだった。
だが、一つだけ言うべき事があった。
未だに、俺の心は折れてはいないという事だ。
次々と、絶え間なく、波紋が広がっていくような不調の渦潮。確かに、耐えようがないほどに、厳しき事態だという事は認めようではないか。
だが、しかしだ。
俺の胸には、それを上書きするかのように、新たな強き決意が芽吹いていた。
なぜ、新たな決意が生まれようとしているのか。
その回答を述べる必要に迫られるならば、ある言葉と共に、つい先程の顛末にまで遡る必要があった。
俺は、先程、目覚めたのだ。
小鳥囀る朝でも、日差し暖かな昼でもない。なんと、儚さ孕む夕焼けまでもを越えた先、星空瞬く夜に目覚めてしまったのである。
それは、つまり、こういう事だ。
現状に置いて、何よりも守らなければならない依頼を遂行出来なかったのであった。
当然であるが、自らの弁護など出来ようもない。
それは、重々承知しているのだが、少々の言い訳じみた弁解を許して貰えないだろうか。
災厄が、止めどなく姿を現す京都。確かに、勘違いのせいである事は、火を見るよりも明らかである。
だが、小林氷咲こと俺は、二日目の早朝にして、無情にもご先祖様の凛々しきお姿を拝見しかけたのである。
そして、息絶え絶えではあったが、現世に舞い戻ってこれた頃には時既に遅し、京都は闇に支配されていたのだ。
俺の肌色はまるで、泥人形の如く、土気色であっただろう。
脳内は混迷と化し、現実と虚構の区別さえも酷く曖昧となっていた。
それならばなぜ、決意が生まれる事となったのか。
その問いに答えるならば、これからの騒動で理解して貰える事と思う。
窓外には、幻想的なまでの夜景が広がっていた。
俺は、いつの間にかベッドに横たわっていた。その上、傍らには、濡れタオルを片手に茶々丸さんが心配そうな面持ちでこちらを覗き込んでいた。
更には胸が、いや胃袋が、焼けて破裂したのではないかと錯覚するほどに熱かった。
苦悶に喘ぎながらも、正に意味不明。脳が再起動を果たすには、多少の時間が必要だった。
そして、俺は、愕然と目を見開いた。
やっと、事の重大さに気づいたのだ。
俺と言えども、言えどもである。そこまで愚かではなかったのである。
ここまで終わらない、夢がある訳がない、と。
従って、それはつまり。
視線が独りで移ろう。
さながら、メイド服は彼女のために生まれたのだと太鼓判を押せるほどに麗しい女性へと。
唖然を、不思議に思ったのだろう。
茶々丸さんが、こちらを見やって、いや、凝視していた。
図らずも、疑問は氷解していった。
疑問という名の点の密集体が、面白いように意味を持ち始めたのだ。
その密集体が線で繋がり、さながら、学園長という文字を紡ぎ上げた頃には、全ての謎に終止符が打たれた。
これは、夢でも、幻でもなかった。紛れもなき、現実だったのだ、と。
それならば、地獄の釜に茹でられているかのような熱、胃袋の許容量にも説明がついた。
自らの愚かさ加減に、苦笑が漏れた。
逆に、自らを褒め称えたいほどである。
絶品ではあったし、天国で羽を伸ばしているかのような幸福の絶頂でもあった。
だが、よくもあれほどの量を、食べ尽くしたものだ、と。
推察に、頷く。
その時だった。
次の瞬間には、失礼だと思うが、茶々丸さんをまじまじと直視してしまっていた。
当然、と言えよう。
新たな疑問符が、浮かび上がってしまうのは。
どうして、ここに。
なぜ、だろうか。
なぜここに、茶々丸さんが存在しているのだろうか。
唖然と呆けてはいたが、行動した。
先程の惨劇の舞台であるテーブル前の椅子に、茶々丸さんを伴い腰を下ろした。
今は、小綺麗に片付けられてはいたが、ある種、哀歌が似合うその場所。恐怖のトラウマがリフレインしながらも、怒涛の勢いで尋ねた。
対角線上に座る茶々丸さんは、当然の事のように、淡々と事情を説明してくれた。
それは、簡潔に説明するならば、こういう事だった。
昨夜、茶々丸さんは、急遽、学園長からある依頼を承った。
その依頼とは単純明快である。俺こと小林氷咲に託した依頼を、補佐せよというものだったのだ。
だからこそ、この世の冥界、京都にまで赴いたのだそうだ。
さすがに、唖然を隠す事は出来なかった。
俺に至ってもとやかくは言えない、言えないがだ。
一介の中等部の女子に出来うる範囲を、酷く逸脱してはいないか。
吸血鬼であり、人知を超越した能力を持つエヴァンジェリンさんだとするならば、何とか頷く事は出来ただろう。
しかし、茶々丸さんは、か弱き女性なのだから。
長らく、唖然としていたが、ある事柄に気づき納得する自らがいた。
茶々丸さんを派遣したのは、誰なのかという一点であった。
それは紛れもなく、あの学園長なのだから。
俺が全幅の信頼を置く、聡明でいて厳かな学園長が、決断した。
それならば、俺などという小物の考えつきもしない、何らかの深き意味合いが存在するのだろう。
確かに、あのエヴァンジェリンさんの友達なのである。吸血鬼とはいかないまでも、何らかの能力を持ち得ている可能性はあった。
それに何よりも、内心、心細かったのは隠しようもない事実だったのだ。
茶々丸さんが傍にいてくれるというだけで、正に、鬼に金棒といった心境になっていた。
だが、しかしである。
なんと、いう事だ。
鬼に金棒な反面、俺の心には暗闇が蔓延り、落ち込みを隠せなかった。
なぜならば、ある疑問符が浮かび上がったからだった。
学園長は何を思い、この決断をしたのだろうか、と。
すぐさま、思い当たった。
俺が、俺自らが、不甲斐なくあったからだろう。
つまり、学園長はこう考えられた。
この世の冥界、京都。この壮絶なまでの依頼は、氷咲くん一人だけでは、些か、荷が重過ぎるのではないか、と。
だからこそ、茶々丸さんという、救世主とも言える助っ人を派遣したのだろうからだ。
それは学園長の、果てしなき優しさから作用されたものだという事はわかりきっていた。
負担を軽減出来るようにという配慮だという事もわかりきっていた。
その優しさには、感謝してもしきれない。
だが暗に、学園長から見た自らの力量を示されたようでもあったのだ。
だが、すぐさま、首を振った。
俺は、男なのである。落ち込んでいる暇などないのだ。
その上、茶々丸さんは女性だ。
行動を共にする以上、足手まといにはなりたくない。何よりも女性を守る事は、男として、最低限為さねばならぬ事柄だと素直に思えた。
それは俺の力量に置いて、さながら、フルマラソン完走のように酷く難しき事かも知れない。
だが、俺は、やり遂げて見せなければならないのである。
より良い男と成長するためにも。
ある少女の、そして、皆の想いに応えるためにも。
身体中が燃え上がったかと誤解するほどの、新たな決意が芽吹いた瞬間だった。
それから、紆余曲折あった。
俺は今からでも遅くはないと、自らを叱咤し、ネギくん探索に勤しんでいたのだった。
依然として、影も形もないが、ふとある騒動を思い出した。
小さく、苦笑が漏れでた。
それは、茶々丸さんの宿泊する部屋が、同室、という驚天動地な事実であった。
俺はと言えば、それはそれは、目が点となっていた事だろう。
なんと、いうか、である。
年頃の二人の若者が、遠く離れた地で一夜を過ごす。
どれだけ考えて見ても、さすがに、それはまずいのではないか。
確かに俺は、草食系男子を自認している。断じて、肉食系男子を自認している訳ではないのだが、困り果てた。
すぐさま、俺は提案した。
違う部屋に泊まるから、と。
茶々丸さんにはこのスイートルームを利用して貰い、俺はどこか空いている部屋でもと思ったからだ。
だが、どうしてだろうか。
突如として、失礼だとは思うが、茶々丸さんらしくない強い押しに負けて頷いてしまった。
脳内は混迷と化していたが、幸運にも、部屋数は無数にあった。
茶々丸さんには寝室のベッドを使って貰おう。俺はソファーで構わない。
そう言った意志で、何とか納得した。
それに茶々丸さんから、暗に信頼していると言われているようであったのも理由の一つだった。
それからというものは、不思議な雰囲気が漂う空間になっていた。
多大な、高揚と緊張が、入り乱れるように身動きを止めていたからに他ならない。
考えても、見てほしい。
茶々丸さんは、片思いしている相手。そんな女性と、見知らぬ土地の一夜を過ごそうとしているのである。
さながら、RPGならば、ここは何々の村ですと誇示する立て札くらいの空気さである俺には、荷が重過ぎていたのだ。
その上、嬉しくはある。嬉しくはあるのだが、談笑に時折顔を出す違和感。
氷咲お兄様とは、一体。
うん。
意味がわからない。
頭の中は、さながら、麻薬中毒者も真っ青になるだろう世界が乱立していた。
一応、恐る恐る尋ねてはみた。尋ねてはみたのだが、問答無用と即座に頷く事となった。
その質問を、発した後の事だ。
普段の抑揚のない表情であったが、俺には十分過ぎるほどにわかった。
茶々丸さんの表情に、唐突にも、深い悲しみの色が表れたのだ。
まるで、叱られている最中の子犬のような瞳に、俺の心はキリキリと締め上げられた。
一体、世界中のどこの誰が、いや、生物が、否などという死罪に相当する言葉を吐けようか。
未だに、一体という文字は明滅していた。だが、高ぶる罪悪感と高揚感に背中を押されて頷く事となった。
大きく、深呼吸をした。
大分、階を下りて来たのだが、目的の少年は視認出来なかった。
だが、少しばかりのウォーキングが効いたのだろうか。
まるで、大型旅客機のエンジン音のように咆哮を上げていた胃袋も、些か、オイル切れの様相を呈してきたようだった。
長い廊下を、意気揚々と歩く。楽しげな喧騒がなりを潜め始めた頃、大浴場の暖簾が視認出来た。
ふと、思う。
そういえば、まだ大浴場を利用していなかったな。
だが、入浴していない訳ではない。
部屋内の、不必要なほどに豪華絢爛なお風呂には、居心地悪く感じながらも入浴させて貰っていたのだ。
だが、しかし、大浴場というものは心踊るものである。
幼少の頃からだが、温泉旅館や昔馴染みの大浴場などの風情に、異様なほどのシンパシーを感じていた。
いや、一般庶民の鏡のような俺には、やはりこういったお風呂がお似合いというものなのだろう。
自嘲めいた笑みが、口許に浮かび上がった。
思考に没頭していると、何やら、遠くの方から泣き声らしき音が響いてきた。
不思議と見やる。
すると、年の頃は五、六歳ほどだろうか。
小柄な男の子が、床にへたり込み泣いていた。無邪気に走り回って、転んだのだろうか。
自らの幼少時にも、似たような事があった。
その時は、周りに誰もいなく、孤独を感じていた事を覚えている。
辺りを見回したが、男の子の周りにも、誰もいなかった。
これはいけない、と微力ながら助けに動こうとした。
だが、その行動は、俺が持ちうる空気が読めるスキルで制止された。
ある人影を、視認したからだった。
廊下の奥、曲がり角に隠れるように立つ男性を捉えていたのだ。
おおよそ、男の子のお父さんなのではないかと思えた。
男性の瞳は力強く、まるで、我が子を崖から突き落とすライオンを彷彿とさせた。
これは、間違いない。
小さく、頷いた。
教育方針。強く、逞しく育って欲しいという親心なのだろう。
途方もなき、厳しさ。だがそれは、愛しているからこその苦渋の決断。
なんという、素晴らしき事か。
ふと思う。
自らの幼少時も、こういった意志から導き出されていたのかも知れない、と。
感動に身を震わせていると、未だに泣きじゃくる男の子と目が合った。
内心、言いようの知れない罪悪感が、心に渦巻いた。
だが、しかしだ。
俺は心を鬼にして、傍観を決め込んだ。
これは、試練。一皮剥けるための試練なのだ。
お父さんにはさすがに劣るが、俺も力強き視線を向けた。その目に、多大な応援を込めて。
暫くの時が経った。
泣きじゃくっていた男の子が、ヨロヨロとではあったが、自らの力だけで立ち上がった。
目は充血して腫れていた。小さな膝小僧も、ぼんやりと赤くなってもいた。
だが、男の子は、自らの力だけで立ち上がったのだ。
服の袖で目を擦る。流れる涙を止めようと、歯を食いしばった。
正に、感動。異様なほどの感動が、身体中を覆い込んでいた。
俺は何も声をかけなかった。それは、あのお父さんの役目なのだから。
だが、満面の笑みで持って、頷きを返した。
男の子は意図がわからなかったのか唖然としたが、逡巡の後、花が咲くように笑った。
同様に、満面の笑みで待つお父さんの下へと、駆け足で走って行った。
浮き上がるような高揚感に、笑みがこぼれた。
間違いない。
男の子は将来、ハリウッド俳優も顔負けの男前に育つだろう。
お父さんは俺の意図に気づいていたのか、男の子と手を繋いだまま、こちらに会釈した。
俺も気持ち良く、会釈を返した。
去って行く仲睦まじき親子を見やりながら、ふと思えた。
予想さえ出来ないが、将来、俺も親となる時期がくるのだろう。
その時は精一杯の愛情と、先ほど知った厳しさで持って子育てをしよう。
ならば、今は努力だ。皆と切磋琢磨し、子に尊敬される親になるために。
静かに、振り返る。
さあ、心機一転、である。
だが、まだまだ、俺は未熟なのだと再認識させられた。
間近にある人物達と、聞き慣れた声を捉えたからだった。
それはさながら、優しき薫風を感じさせた。
「こ、小林さん、お疲れ様です。
昨夜はどうもありがとうございました」
「こ、小林先輩もお風呂ですか?
あと昨日はありがとうございました」
唖然と目を見開いた。
脳内のミニヒサキが、膝から崩れ落ちて行く。
学園長!学園長!
違うんです!学園長!
そこには、ある少女達がいたのだ。
好ましき凛と通る声音に、快活さを孕んだ声音。何とも可愛らしく、浴衣を羽織り小さな洗面器を携帯していた。