正に、驚天動地と言えよう——表その弐
−小林氷咲side−
「こ、小林さん、お疲れ様です。
昨夜はどうもありがとうございました」
「こ、小林先輩もお風呂ですか?
あと昨日はありがとうございました」
唖然と目を見開いた。
脳内のミニヒサキが、膝から崩れ落ちて行く。
学園長!学園長!
違うんです!学園長!
そこには、ある少女達がいたのだ。
好ましき凛と通る声音に、快活さを孕んだ声音。何とも可愛らしく、浴衣を羽織り小さな洗面器を携帯していた。
だが、しかしである。
桜咲さんとはもう周知の仲であるし、神楽坂さんについては、なぜ俺の存在に驚かないのか、という疑問はある。
あるのだが、最重要であるネギくんに見つかった訳ではないのだ。
学園長も、さながら、広大な銀河を彷彿とさせる懐の深さで許容してくれるだろうと思えた。
安堵の息を漏らすと、知らず知らずの内に、口許に笑みが浮かび上がっていく。
俺が彼女達に向けている信頼度もそうだが、まるで、愛すべき妹のように感じていたからだった。
全く持って、彼女達は心外に思うかも知れないが。
自嘲めいた笑みを漏らすと、彼女達が持つ洗面器が目に映った。
そうか。仲睦まじくも、連れ立って大浴場に入浴しに来たのだろう。
桜咲さんの、今にも崩れ落ちそうな心。さながら、消える寸前の蝋燭に灯る炎の揺らめきを、俺は心配でならなかった。
神楽坂さんは心優しき少女である事は明白だ。もし良ければ、友達となって貰えないかと思っていた。
だが、俺が何をせずとも、彼女達は友達同士であったのだ。
これが嬉しくなくて、何が嬉しいというのか。
そう言えば、昨夜もそうだ。あの壮絶な演劇の練習では、俺の目に、桜咲さんは主役に映った。
目前の桜咲さんの手元には、未だに、竹刀袋が携えられていた。中に隠されているだろう、白銀の刃。彼女にはまだ、それを置く決意は持てない。
だが、しかしである。
青春を、演劇にて謳歌する。
この行動は、彼女の凍てついてしまった心を、正しい道へと導いてくれるように思えた。
支え合い、励まし合い、友情を確認し合う。
なんという、素晴らしき事だというのか。
小刻みに、頷く。だが、次の瞬間。俺の身動きは否応もなく停止させられた。
なぜならば、身体中を縛り上げるように、彼女達の言葉が思い返されたからだった。
「昨夜はどうもありがとうございました」
「あと昨日はありがとうございました」
だが、考えても見てほしい。
俺は昨夜、桜咲さんとは会っていないのだ。
神楽坂さんに至っては、昨夜所ではない。もう遡る事、数日前の話しのはずである。
それならばどうして、彼女達はこのような言葉を発したというのだろうか。
呆けを隠せぬ表情ではあったが、突如として、脳裏にある推察が過ぎった。
それはつまり、説明するならば、こういう事であった。
それは、覗き見。
昨夜の演劇の練習を、覗き見した行為の事を言っているのではないか、と。
そういう事ならば、致し方ないと言えよう。
俺の表情がまるで、朝に目覚めたら、性別が変わっていましたという状況ほどの唖然であったのは。
まさか、まさかである。
彼女達に気づかれていようとは、正に、想定外だった。
だが、頭を捻ってみれば、確かに見えてくるものはあった。
それは、ネギくんが吸血鬼であり、人知を超えた能力を持ち得ているという一点だった。
思い返してみると、エヴァンジェリンさんにも、離れていても相手の言動がわかるという能力があったはずである。
どうして、そんな大事な事実を忘れてしまっていたのだろうか。
確かに俺は、プロレスごっこ停電事件に置いて、異質な能力を体験させられていたというのに。
途端に、波打つように、罪悪感がざわざわとさざめき始めた。
なぜならば、覗き見という行為を、言葉に直訳してみれば事足りるだろう。
秘密の練習を覗き見する、空気の読めない邪魔者である。
どのような角度から、いや、さながら、宇宙から衛星写真で、俺を捉えたとしてもその結果を変える事は不可能だと言えた。
これは、いかん。いかんぞ。
反射的に、謝罪しようとした。だが、俺の口が開かれる事はなかった。
またもや、思い返したのだ。
理由は皆目見当はつかない。皆目見当はつかないが、彼女達は、俺に向けて謝辞を述べていたのだから。
頭を悩ませたが、程なくして、その意図に気づく事が出来た。
それはつまり、覗き見した行為に対する謝辞、だという事は明白である、と。
刹那的に、唖然としてはしまったが、頷ける自らがいた。
そうか。
おおよそ、彼女達は、こう考えて謝辞を述べたのではないだろうか。
それは、こういう事である。
彼女達は俺に、昨夜の練習を、見守って貰っていたなど考えているのではないか、と。
そういった誤解ならば、結果的に言えば、そう誤解とは言えないのかも知れない。
依頼には含まれていないが、個人の感情として、彼女達の安否も心配でならなかったのだから。
だが、言い訳をしてはならない。
正に、言語道断だと言えよう。
懐の思いはそうであった。そうであったとしてもだ。それは結果的に、そうあったというだけなのである。
この危険な京都にて、依頼を遂行しようと、右も左もわからぬままやって来た理由。
それは、ただ一つ。
一人の男として、一人の人間として、皆に恥じない器量を獲得するため。さながら、蝶々のように、サナギから羽化し羽ばたくために赴いたのだから。
尊敬を遥かに通り越して、崇拝してしまいそうなほどの学園長。器量に置いて、我々人間達の高みにおられるあのお方は、俺という小物にまで筋を通し、深く謝罪をしてくれた。
俺もあの高みに昇り、承った恩恵に応えるためには、筋だけは通さねばならないのである。
妥協せず、謝罪の意を示す事が、明確な成長へと繋がっていくように思えた。
二人が揃って、こちらを見つめていた。
何やら、落ち着かないのだろうか。両手の指を組んだり、絡めたりと忙しそうだった。
それにどことなくではあるが、顔色に朱が差しているように見えたが、錯覚だろう。
俺は真剣な目で、慎重に言葉を繋いだ。
「いや、お礼なんて必要じゃないよ。
悪いのは、俺。覗き見なんていう、姑息な真似をしてしまったのは俺の方なんだから。
身分不相応な行為だった。
すまなかったね」
辺りを覆い込むように、静寂が広がっていく。
視線を反らさずに、精一杯の謝罪の意を込めた。
すると、次の瞬間だった。
彼女達が慌てふためき、半ばうろたえたように次々と声を上げていったのだ。
「い、いえ!
元はと言えば、私の力量不足が問題なのですから!
小林さんが謝る必要はどこにも……」
「そ、そうですよ!
小林先輩が謝ることないです!
見ててくれたから、みんな頑張れたんだし……私も嬉しかったですし……」
なんという、素晴らしき娘さん達なのだろうか。
どのような教育方針で子育てをしたのですかと、親御さんに拝謁賜りたいほどだ。
なんと彼女達は、口々に、口々にだ。
姑息な真似をしてしまった愚か者を、庇ってくれた上、暖かき心優しさ満ち溢れる言葉をかけてくれるとは。
それは、まるで、春の木漏れ日の暖かさを彷彿とさせた。
あまつさえ、二人が浮かない顔で、こちらを見つめていた。
ふと、思う。
俺には確かに、心に決めた人がいる。
いるのだが、素直に思えた。
将来、彼女達のようなお嫁さんを貰う男性は、全く持って、幸せ者である、と。
それからは、いや、しかしと、終わらぬ押し問答を繰り広げた。
双方共に予断を許さず、それは朝まで続くのではないかと思われた。
だが、皆一様に、余りの頑固さだと笑みが浮かび上がった頃、何とか合意に至った。
宿泊客達も、もう夢の世界に船を漕ぎ出しているのだろう。
静まり返った廊下に、談笑の声だけが響く。
確かに、依頼を遂行しなければならないのは、重々承知していた。
だが、学園長の器量が、銀河クラスなのは周知の事実である。多少の癒しくらいは、笑って許して頂けるように思えた。
この京都に置いて、茶々丸さんが癒しであるのは明白だ。だが、俺に取って、彼女達との談笑も、大切な癒しの場となっていたのだ。
それにしてもと、不思議に思う。
それは、俺の存在について、どうして、神楽坂さんは不思議に思っていないのかという一点だった。
おおよそ、桜咲さんにでも聞いたのだろうと思えたが、尋ねはしなかった。
楽しきこの空間に、水を差すように思えたからだった。
彼女達が笑ってくれるのがとても嬉しくて、俺ばかりが色々と話してしまった。
学園の自室にて、育てているサボテンに花が咲くのを心待ちにしている事や、学園長と高畑先生、両雄の壮絶なる男気の事などである。
二人は一様に、楽しそうに聞いてくれた。
だが、話題が、昨日の詐欺紛いの犯罪に移っていった時だった。
俺は、余りの事態に呆けていた。
神楽坂さんも同様の思いなのだろう。身動きが止まり、呆けを隠せずにいた。
天使にも見紛ってしまいそうなほど、可愛らしき少女。なんと、あの、桜咲さんの表情が、突如として一変したからだ。
小柄な身体とは、不釣り合いな、正に鬼気迫るようなまでの殺気が放たれる。
そして、俯くと、口許に愉しげな笑みを浮かべ、ブツブツと呟き出す。
その声音はまるで、闇に閉ざされた冥界から響く、怨嗟の呪詛を彷彿とさせた。
「……私の小林さんに、詐欺を仕掛けるとは、己の格を理解していないようですね。
小林さんの手を煩わせる必要もない。
どんな方法を使ってでも犯人を突き止め、ここは、私が生きているのを後悔させるほどの引導を……」
楽しかったはずの空間は突如として、さながら、魑魅魍魎が惑う地獄絵図へと一変していた。
俺の背筋は正直だと言えよう。放心しながらも、冷えたなにかが、次々に通り抜けていく。
それに、それにである。
今、桜咲さんは、私の小林さん、と言ったように聞こえたのが。
空耳だろうか。いや、確かに、そう聞こえた。
それに、生きているのを後悔させるほどの引導、という言葉の響き。
言いようの知れない恐怖に、文字通り、戦慄した。独りでに、身体中が震え上がっていく。
すると、そんな俺を救うかのように、再起動を果たした神楽坂さんが慌てて助け船を出してくれた。
桜咲さんの身体を、勢い良く揺さぶる。俺は俺で、良くもまあ、そんな行いが出来るものだと脱帽していた。
「ち、ちょっと刹那さん!
なんかおかしくなってるわよ!」
「……ここは一刀両断か、いや、それでは生ぬるい。じわじわと地獄の苦し……。
えっ、は、はい。どうかしましたか?」
静寂が広がった。
桜咲さんの戦慄を禁じ得なかった表情が、徐々に変わっていく。程なくして、普段の可愛らしさ溢れる表情を見せてくれた。
「だ、大丈夫。なにもなかったのよ。きっと」
「は、はあ、それならば良いのですが」
神楽坂さんが乾いた笑みで言うと、桜咲さんはどこか、呆けた表情で呟いた。
俺はというと、余りの予想外な事態に、半ば現実逃避をしていた。
一体、先程の事態は何だったのだろうか。
ふと、思う。
誰かが夢だと説明してくれるならば、俺は無条件で納得するだろう。いや、誰でも構わない。夢だと、そう説明してくれないだろうか。
致し方ないだろう。不穏当な雰囲気に、皆一様と、口を閉ざしていた。
だが、俺は、意を決して口を開いた。
笑みは乾いたままだろうが、空気を変えるために、話題の転換という一手を指した。
「それにしても、昨夜は素晴らしいものを見させて貰った。
身体中から感動が湧き上がってくるようなまででね。知らず知らずの内に、拍手をしてしまったほどだ」
脚本の構成力。演者の演技力。そして、高レベルの素材が絡み合い、極上の舞台を作り上げていた。
今、思い返しても、脱帽してしまう。
小刻みに頷いていると、神楽坂さんが照れ笑いを浮かべた。
だが、桜咲さんはというと、どこか誇らしげに口を開いた。
「いえ、昨夜は、小林さんの類い希なる戦略と布石に、助けて頂いたまでの事です」
刹那的に、思考が停止した。
類い希なる戦略と布石とは、一体。
うん。
意味がわからない。
そんな俺をよそに、尚も桜咲さんは話しを続けていく。
「昨夜は力及ばず、気づく事は出来ませんでした。ですが、先ほどやっと気づいたんです。
あの小林さんが、新幹線に乗車中、何の意図もなしに敵へと姿を現す訳がない、と。
未来を見通していたかのようなその類い希なる慧眼には、恐れ入りました」
何が何やらわからない。
脳内は、否応なく混迷と化していた。さながら、俺の頭上には、爛々と、クエスチョンマークが小躍りしている事だろう。
どこか、誉めて下さいとばかりに瞳を輝かす桜咲さん。まるで、子犬のようなまでの愛らしさを感じながらも、思う。
まず第一に、第一にだ。
あの小林さんとは、今ここにいる、この小林さんで間違いないのだろうかと問いたい。
この小林氷咲さんではなく、どこかの小林なんたらさんの事を言っているようにしか思えなかったからだ。
第二に、類い希なるとは、桜咲さんの口癖か、なにかなのだろうか。
確かに、以前も、そう言っていたはずだ。
否応もなく、俺は唖然としていた。口許に笑みが固まり、張り付いている事と思う。
桜咲さんは瞳を閉じて、何かを思い返しているのだろう。高潮した顔色で、小刻みに頷いていた。
神楽坂さんならば、理由を理解しているかも知れない。
俺は、半ば懇願するかのように、神楽坂さんを見やった。
すると、これはどういう事だというのだろうか。
なんと、神楽坂さんまでもが、尊敬でもするかのような熱い視線をこちらに向けていたのだ。
脳内は、さながら、幾重もの意味不明の数式が、乱立し交差し、羅列される騒ぎとなっていた。
さながら、俺がロボットだと仮定するならば、オーバーヒート寸前と、身体中からモクモクと煙を吹き上げていた。
だが脳裏を、ある考察が過ぎった時だった。
その世界は、いとも簡単に、快晴へと変わっていった。
そうか。そうだったのだ。
ある事実を、忘れていたのだ。
それは現状として、桜咲さんは病んでいるという事実であった。
そして、その由々しき病が妄想という形を取り、彼女の心を蝕んでいたのだった。
否定するのは逆効果だと考えて、微力ながらも、その心を支えようと決心していたではないか。
京都。次から次へと迫り来る異様な事態に、俺の脳は、ついていけていなかったようだ。
やっと、晴れやかな心地で笑う事が出来た。
だが、そうなると、また新たな疑問符が浮かび上がった。
それならば、神楽坂さんの熱き視線はどういった意図から来たものなのだろうか。
だが、すぐに頷けた。
なぜならば神楽坂さんが、どこか、恥ずかしそうにこちらを見ていたからである。
その上、俺と視線が合うと、直ぐに反らしてしまうからであった。
そうか。
わかってはいたが、やはり神楽坂さんは心優しき少女であった。
彼女も、俺と同様の心境だったのだ。
桜咲刹那という愛すべき少女を、支えようとしているのだ。
熱き視線に籠もる意志を、俺は敏感に感じ取る事が出来た。
それは、こう言っているのだろう。
「彼女のためを思うならば、否定してあげないで下さい」
本当に、空気が読めて良かった。
桜咲さんは、未だに何かを思い描いているのだろう。高潮したままで、小刻みに頷いていた。
俺は気づかれぬように、自然な素振りで神楽坂さんへと小さく頷いた。
すると彼女は、また目を反らした。だが、嬉しそうに、照れ笑いを浮かべた。
友を想い、精一杯の優しさで支えようとする。
それはさながら、桃園の誓いにも勝るとも劣らない友情だと素直に思えた。
そして、はにかんだ笑みの破壊力。神楽坂さんの整った容姿にそれは、正に反則だった。
俺には心に決めた人がいる。いるのだが、危うく意識を持っていかれそうになってしまった。
それからも、談笑は続いていった。
いやはや、桜咲さんの剣技には、魅了されてしまった事。神楽坂さんのハリセンの、隠された能力に驚かされた事。
だが、楽しき時間ほど、終わりは早くやってくるというものである。
後ろ髪ひかれる感は確かにあったが、彼女達の貴重な時間を浪費させてはならない。
三人共に、笑顔で別れた。
彼女達は大浴場に入っていき、俺は最上階に位置するスイートルームへと足を向けた。
依頼はどうした、と思うかも知れない。
しかし、夜も更けてきているのだ。この地で、茶々丸さんを独りきりにしては危険だと思えたし、依頼については、明日から仕切り直そうと考えたからだった。
廊下に人気はなく、どこか、哀愁を漂わせていた。
先程の反動だろうと思っていると、俺の歩みは、ある違和感を捉えて制止した。
いない。いないのである。
さながら、身体の一部なのではないかと錯覚するほどの死神の姿が忽然と消えていたのである。
辺りに、不穏な気配が漂い始めた。吸い込む酸素にさえ、嫌な予感が匂いとして孕んでいた。
すると、正に、その時だった。
脳裏に、死神の愉悦の笑みが浮かび上がる。
背後から、聞き覚えのある声が、響いてきたのだ。
「あっ!ヒサキさん!
相談に乗って下さいー!」
まず始めに考えた事は、これである。
というか、なぜ、俺の存在を。
一体全体、意味がわからない。
だが、心の中のミニヒサキは、膝から崩れ落ちてはいなかった。
もはや、 麻帆良のメッカと言っても差し支えないだろう。
ある神聖なる一室へと向けて、真摯に土下座をしていたからだった。
学園長。学園長。
誠に申し訳ありません。
放心したままの俺を、ネギくんが激しく揺さぶる。
その瞳は、俺の脳内と同様に、混迷に濡れていた。