正に、驚天動地と言えよう——表その参
−小林氷咲side−
天井にはめ込まれた長方形の電灯が、部屋内を照らす。俺達の大小とした影をつくりあげていた。
最早、日本は春一色だというのに、部屋内の空気は張り詰めていて、どこか湿っぽく感じた。
清廉さを滲まずにはいられない、純白のカーテンが、大きな窓を覆い隠していた。
視認する事は叶わないが、夜空には自然の星達が瞬き、地上にはさながら、人口物の星達が煌めいている事と思う。
そして、その星達に願えるならば、願いたい。俺の嘘偽らざる心境と共に。
その幻想的なまでの星々の安らぎで、ある悩める少年の小さな背中を、そっと押してはくれないか、と。
健気に父親を想い遠い異国までやってきた、まだ幼くも、懸命に努力を続ける少年の背中を。
小綺麗に、清潔に保たれた部屋内。俺とネギくんの二人は、風情を感じさせる木のテーブルを挟み、思い思いの表情で座っていた。
さめざめとした空気。その中央に、安らぎを感じさせるお茶の香りが漂っている。
ネギくんは、湯気が立ちのぼる湯呑みを両手に持つと、ゆっくりと口許に傾けた。
俺は内心、安堵から微笑んだ。
心なしではあるが、少しは落ちついてくれたようだ。
事の始め、ネギくんはまるで、親の形見をなくしてしまったというほどに慌てふためいていた。
俺の理解力の欠如からではある。
だが、どうにも、脳内はクエスチョンマークが小躍りしていて、潤滑な会話は期待出来そうになかった。
だからこそ俺は、どうにか落ちつかせようと、勝手ではあるがお茶を振る舞ったのだ。
当初、ネギくんに存在を認識されてしまった時には、酷く困惑し混乱した。
致し方ないだろう。
脳裏に、さながら、断頭台への階段を、一歩一歩踏みしめていく自らが映し出されてしまうのは。
桜咲さんに認識されたのも、神楽坂さんに認識されてしまったのも、良くはないが、百歩譲って良しとしようではないか。
しかし、しかしである。
尊き依頼の、最も重要な一点。他でもない。ネギくんに認識されてはいけないという誓約を、自らの落ち度により履行出来なかったのだから。
俺は、深く落ち込んだ。
そして、自らを深く戒めた。
定かではない。定かではないが、例えば真実だと仮定して、傍若無人を地でいく死神さんの仕業だとしてもだ。
それに、茶々丸さん到来の至福や、桜咲さんと神楽坂さんとの和やかな癒しにより、盛大に気が緩んでいたとしてもだ。
自らがあの時誓ったように、慎重という名の石橋を叩いて渡ってさえいれば防げた。
いや、さながら、科学的見地から石橋が崩壊する確率を計算しようとするまでの慎重さで、事を推移していれば容易に避けられたはずなのだから。
どうして、ネギくんが俺の存在をと、苦悩した事も想像に難くないだろう。
余りの放心だった。現実逃避と、目の前が白んでいった事も、許してほしい。
だが、やりきれないと、倒れ伏しそうになる俺を救ってくれたのは、またもや、学園長の有り難き荘厳なまでのある言葉だった。
「ネギくんの身に余る騒動が起きたと認識した時だけ、支援してほしいのじゃ」
たった数週間と、皆は言うかも知れない。
井の中の蛙と、知った気でいる愚か者だと罵倒されるかも知れない。
だが、しかしである。
俺には、多大なる自負があったのだ。
ネギくんという、心優しき少年の人間性を、正確に捉えているという自負が。
まだ幼いながらも、良き教師となれるように、精一杯の努力していた。
般若状態のエヴァンジェリンさんを、諫めようとする勇気には脱帽した。落下していく彼女に、必死と手を伸ばした事も覚えている。
その上、一悶着から揺らぎ、折れそうだった俺の心を、その持ち前の暖かさで矯正してくれた事もあった。
そんな心優しき少年が今、俺の身体を、激しく揺さぶってまで助けを求めているのだ。
それに答えずして、本物の男となれようか。いや、なれはしない。
そして、ふと思う。
学園長が言っていた機会とは、今、この時なのではないか、と。
より良い教師となって貰えるならばと、傍で支えたい一心を強く留め、草場の陰から見守ろうと決意していた。
だが、強く思う。
今こそが、その決意を打ち破るべき時なのである、と。
ふと、脳裏に、ある推察が過ぎった。
そうか。そうだったのか。
聡明であられる学園長は、この時を、予期していたのだろう。
だからこそ、俺を、この地にお送りになったのだ。
桜咲さんがさながら、譫言にでも言うだろうと容易に想像出来る言葉。類い希なる慧眼とは、学園長のその凛々しき双眸の事を言うのだろう。
正に、賢者。
正に、この世の生き字引といっても差し支えないだろう。
俺は、より一層なる尊敬を感じながらも、力強く頷いた。
確かに、力不足かも知れない。
確かに、少々の不安はある。
だが、俺は、俺の誠心誠意の心構えで持って、一人の少年の不安に揺らぐ心を、救って見せようではないか。
それが、俺の為すべき事なのだから。
新たな決意と共に、行動に移し、今に至っているという訳である。
真剣な面持ちで持って、ネギくんが口を開くのを待った。
幾分、落ち着く事が出来たのだろう。ネギくんは、静かに事の真意を語り始めた。
俺は、最大限の微笑みを心がけて、その語りに相槌を打った。
語りが終わると、俺は深く頷いた。
ネギくんの、慌てふためくまでの多大なる苦悩。その内容は、至極簡単、こういう事であった。
ネギくんはなんと、今日の昼間、生徒である少女に、愛の告白をされてしまったという事だった。
致し方、ないだろう。
ネギくんが、酷く狼狽してしまうのも。
考えても、見てほしい。
未だに、初恋というものを経験しているのかどうかさえ定かではない幼い少年。それならば、告白自体に置いても、初めてだった可能性は極めて高い。
そんな少年が、年上の少女から、愛の告白をされてしまったのだ。
恋愛に関して、右も左もわからないのだ。
俺も、酷く困惑した。一人で結論を出せとは、酷と言えよう。
それはそれは、脳内が混迷に陥り、心が行き場を求め、ユラユラとさまよってしまうのも無理はない。
俺は、意を決すると、優しい言葉使いを心がけながら尋ねた。
ネギくんは終始、真剣な表情で、答えてくれた。
ネギくんの返答を、要約すると、こういう事だった。
自らには、まだ恋愛というものが、良く理解出来ない。
つまり、告白をしてくれた少女の事は、好意的に想っている。だが、その想いが恋愛なのかはわからない。
だからこそ、答えを出せないという事だった。
その上、俺が推測するにだが、教師と生徒という倫理が足枷となり、返答に窮しているようにも思えた。
ネギくんが、どこか不安に濡れた瞳で、俺の言葉を待っていた。
俺に出来うるのかは、素直にわからない。
なぜならば、俺に至っても、恋愛を深く捉え始めたのはつい最近なのだから。
俺などが、この分野に置いて、諭す事が出来るのだろうかという不安は確かにあった。
だが、俺は、静かに口を開いた。
学園長に教えて頂いていたからだ。
想いを、俺の誠心誠意の想いを伝える事が、何よりも大切な事なのだ、と。
「ネギくん、恥ずかしながら俺は、恋愛については疎い方なんだ。
だけど、俺の精一杯で持って、きみに言葉を送ろうと思う」
ネギくんが意外だと言った顔をした後、真剣な面持ちで頷いた。
「そ、そうだったんですか。
はい。よろしくお願いします」
俺は頷くと、先を続けた。
「俺も少し前に、きみと同様の感情で思い悩んでいた時があった」
「ええ、そうなんですか?」
小さく、頷く。
「ああ、そうだよ。
この前の、河川敷を覚えているかな。
ネギくんが俺を、勇気づけてくれた時があっただろう?」
ネギくんが照れたのか、頬をかくと、直ぐに真剣な瞳で頷いた。
俺は一拍置くと、口を開いた。
「あの時の俺は、酷く思い悩んでいた。
ある心優しい少女から、告白をされて。
その少女はまるで、聖母のような少女でね。こんなに愚かな俺を、暖かい眼差しで、守ろうとしてくれたんだ。
そして、俺は、彼女の事を大切な存在だと感じていた」
「……そうだったんですか。
ですが、それなら、何も問題はないような」
ふと、エヴァンジェリンさんの、儚さを感じさせる微笑みが浮かび上がった。
感謝しても、しきれない女性。自らの勘違いに真摯に向き合い乗り越えて見せた、芯の通った心優しき女性。
抱いてはいけない罪悪感が、心に出現していく。
胸が、キリリと痛む。
深呼吸してから、口を開いた。
「確かに、嬉しかった。嬉しかったんだよ。
だけど、その大切っていうのは、家族に向けるような親愛といった感情から来ていたんだ」
ネギくんが、考え込むように言った。
「親愛、ですか」
「そうだね。
それに、俺には、別に好きな人がいたんだ。
だからこそ、その想いに応える事はできなかったんだ。
嘘で固められた肯定なんて、彼女のためにはならないと思えたからね。
断った後、俺は罪悪感から申し訳なくて、塞ぎ込んだ。
酷く、苦悩した。もう、立ち直れないんじゃないかと思うほどにね。
だけど、俺は、立ち直る事が出来た。
ネギくんもそうだし、麻帆良の皆の支えによってね。
そして、気づかされたんだ」
「何を、ですか?」
ネギくんがこちらを、食い入るように見つめている。
静寂が広がる空間の中で、俺の脳裏には、麻帆良の心の置ける皆の笑顔が浮かび上がった。
言いようの知れない勇気が、さながら、暖炉に火をくべるように徐々に燃え上がっていく。
独りでに、口許に笑みが浮かぶのを感じた。
「落ち込んでいても、何も変わらないってね。
前を向く事、それこそが、何より大切な事なんだ。それこそが、告白をしてくれた彼女に応えられる、最低限の償いなんだと気づかされたんだよ。
なぜならば、落ち込む俺の姿なんて、彼女は望んでなんていないと思えたから。
長くなってしまったけど、この話しを打ち明けた上で、ネギくん、まだ未熟な俺がきみに言える事は一つだけだ」
時を刻む音色が、響く。
それ以外の音はない。静寂を切り開くように、俺は
言った。
「悩んだっていいんだ。頼る事も構わないんだ。
だけど、その答えは自分で見つけるんだ。自分で納得できる答えは、自分だけで見つけなければならない。
俺が、尊敬するある人が、こう言っていた。
純真なる想いを伝える事こそが、きみの為すべき事だって。
何も必要じゃないんだ。
考えて、考え抜いた末にたどり着いた、きみだけの答えを彼女に伝えよう。
例え、どんな結論になろうとも、それが、その彼女が、何よりも欲する答えだと思うから」
まるで、時が止まったのではないかと錯覚するほどの無音の世界。
ネギくんが面食らったような顔になった後、口を開いた。
その声は大きく、今までの揺らぎは、影も形もなかった。
「は、はい!
ありがとうございました!
考えて、考え抜いて結論を出してみます……。
……僕だけの、答えを」
俺は応援する気持ちを乗せて、強く頷いた。
多大な高揚感に、身体が震えた。
正解、なのかはわからない。
しかし、しかしだ。
俺の誠心誠意の言葉で、思い悩む少年の背中をそっと押す事が出来たのである。
静かに、立ち上がった。
もう何も言う事はない。それに最早、俺は、邪魔以外の何者でもない。
笑顔で、ネギくんに声をかける。
ネギくんが今一度、お礼を言った。
俺は構わないよと言うと、出口のドアに向かって歩を進めた。
全く持って、今日は良く眠れそうだ。
そんな事に笑みを漏らしながら、ドアノブを握った時だった。
ここは、さすがの俺の不運といった所なのだろう。
正に、予想外。想定外な事態が、否応もなく、我が身に襲いかかってきたのである。
「こ、小林の旦那ぁー!
訳を説明させてくだせぇー!!」
「ご、ごめんなさーい!」
突如として、勢い良く、ドアが開かれたのである。
俺は、為す術もなく、その衝撃を受けた。鈍い痛みと共に、吹き飛ばされてしまう。
そして、視界には、うんうんと悩んでいるネギくんを捉えた。
一瞬の内に、もみ合うように転がった。
ネギくんの身体をなんとか庇えるように、その勢いを殺そうともがく。
その時だった。
目まぐるしくも推移していた視界が、あるものを映し出して制止した。
それは、紛う事なきネギくんの顔。それが目前、いや、自らの顔に接していたのだ。
そして、俺は、捉えてしまった。まるで、この世の終焉を告げるような、信じられないまでの柔らかい感触を。
呆、けた。
脳内にはさながら、幼少期の楽しかった思い出が、走馬灯のように駆け巡っていく。
こ、れは。
これは、キス、してしまった、とでも、いうのだろうか。
麗しき茶々丸さん、いや、女性でもない。同性である、少年と初キスを。
何が、何やらわからない。
脳裏は白み、混迷と化していた。
足が勝手に動いた。意味もなく、静かに立ち上がると、振り返った。
そこには、ある少女がいた。どうしてか、涙目である。
先日、俺の写真を取っていた娘さんであるように思えた。その肩口には、頭の良いイタチのカモくんがいた。
カモくんも、どうしてか、涙目だった。
涙目な様に、自然と、含み笑いが浮かんだ。
「ひ、ヒィー!
こ、殺されるー! お助けぇー!」
「ち、ちょ! カモっち!
自分だけ……!」
どうしてか、カモくんが肩口から軽やかに飛び降りると、そのまま駆けていく。
彼女も不思議な事にだが、怯えた表情を隠さぬままで、一目散に駆けていった。
そして、俺の視界は捉えた。捉えてしまったのだ。
正に、驚天動地と言えよう。
廊下に立つ、茶々丸さんの、悲しみに揺れた瞳を。
まさか、見られていたとでも、いうのか。
文字通り、目の前が真っ暗になっていく。
夢だ。夢だと、誰か言ってくれないだろうか。心の中で呟くと、脳裏に、死神の満足げな愉悦の笑みが浮かび上がった。
そこで、俺の意識はたゆたうように、幕を下ろした。
小鳥の囀り、穏やかな春風。ふかふかの寝具。
全く持って、素晴らしき朝の日差し。
美しき自然の声が、意識を覚醒へと向かわせていく。
ゆっくりと、瞼を開いた。
今日も良い日になりそうだと、心の中で呟く。
そして、俺は唖然とした。
一瞬、意味がわからなかった。
なぜならば、大きな顔のアップが、眼前に映し出されていたのだから。
それは、紛う事なき、茶々丸さんの美しき顔だった。
だが、一瞬の後、俺の視界には、二日目と相成った高すぎる天井が映し出さていた。
これは、一体、どういう。
唖然としながらも、身体を起こす。
茶々丸さんはメイド姿で、リビングの清掃を行っていた。
不思議と、唸った。
それでは、先程の事態は一体。
確かに、茶々丸さんの顔のようであったとは思う。
しかし、そうであると仮定するならば、一瞬の内に消えてしまったという謎を解かねばならない。
いや、どのような角度から考えて見ても、到底、人間には不可能だろう。
ならば、先程のは夢、か。
含み笑いを漏らすと、立ち上がり茶々丸さんに声をかけた。
「おはよう。
掃除なら俺も手伝うよ」
茶々丸さんの身動きが止まる。だが、こちらを向いてくれない。
不思議に思っていると、茶々丸さんがゆっくりとこちらを向いた。
静かに、口を開く。
どうしてかは、わからない。わからないが、確かに、その声音には、羞恥といった感情が孕んでいた。
「……おはよう、ございます」