正に、驚天動地と言えよう——裏
−絡繰茶々丸side−
広々とした部屋内に小鳥の囀りが響き、空から緩やかな日が差し込んでいます。
薄手のカーテンが、涼しめの春風にヒラヒラと揺れて、陰陽を踊らせていました。
大理石を加工処理された、上品さを誇示しているテーブル。その上には不肖ではありますが、和洋中と、手料理の数々が並べられていました。
椅子に座るお兄様が、穏やかな微笑みをこちらに向けました。滑らかな動作で、食事を取っていました。
私は、対角線上に位置する椅子に座っています。緩やかな時の流れを実感しながら、その様を見つめていました。
お兄様は、本当にお優しい方です。
傍に立っていた私に、笑みを持って椅子へと座るように誘導してくれたのです。
失礼に当たるかも知れないと、悩みました。ですが、その柔和な微笑みを向けられてしまうと、拒否などできなかったのです。
私を人間と同様に気遣ってくれる事は、本当に、嬉しく思いました。
お兄様が目覚めて直ぐ、私はある感情を抱きました。
大変、嬉しくはあったのですが、同時に酷く怖いという感情も表れていました。
レシピを正確に再現したとの自信はあったのですが、お兄様のお口に合わなかったらとの、危惧をしていたからです。
ですが、それは数分という、短な時間で杞憂となりました。
なぜならば、お兄様は一口食べると、即座に誉めてくれたからです。
その時の映像は、印象的に記憶されています。これから、消えていく事はないでしょう。
お兄様の細く長い指先が、箸を器用に操ります。玉子焼きを一欠片、口許に運んでいきました。
そして、驚愕したかのように目を見開く様子が、不安に揺れていた私の目に映り込みました。
まるで、時が止まったかのように制止するお兄様は、呟くようにこう言ったのです。
「……茶々丸さん。
美味しい。美味しすぎるよ。
俺は今、逆の意味で、人生の幕を閉じそうになった。いや、閉じても構わないとさえ思えたよ」
私の身体は不思議と、次第に熱を持ち始めました。
おおよそ、羞恥といった感情からでしょうか。
お兄様の顔を見られないという、状況に陥ってしまったのです。
お兄様のユーモア溢れる素敵な言葉。それは、私に膨大なまでのエラーを発生させました。
辺りに、アンティークの時計の音が、淡々と響き続けています。
時刻はもう、昼を回ったでしょうか。
気づいた頃には、お兄様が嬉しそうに食事をし始めてから、長い時が過ぎ去っていました。
私は和食が好みだと記憶しながらも、深く安堵していました。
なぜならば、お兄様が操る箸は、止まる事などなかったのですから。
大変、気に入って頂けたのでしょう。
未だに微笑みを絶やさぬままに、次は炒飯だと言わないばかりに、力強き視線が向けられていました。
その様は雄々しく、あの停電時の夜を彷彿とさせていました。
なぜならば、まるで、倒すべき好敵手と定めたかのような鋭利な視線が、料理に突き刺さっていたからです。
上品さが滲み出されていた当初とは打って変わり、現状は、猛禽類のようなまでの猛々しさが、身体中から発露されていました。
ああ、なんて勇ましいのでしょうか。
私は自然と、釘付けになっていました。
上品でいて、まるで、暖かい南風のように穏やかなお兄様も、素敵な事には変わりありません。
ありませんが、ある時の事でした。マスターが深酒しきり、口々に言っていた言葉が頭を過ぎりました。
「おい、茶々丸わかるか?
小林氷咲という男の気高き根幹、稀有な美しさは、私が救ってやった素顔にある。
だがな、生い立ち故に、擬態により隠さなければならなかった苦悩故にだ。無情だが、経験を通してでしか生まれぬものもあるんだ。
それは所謂、高貴な魔族の匂い、だ。
それが……一瞬だ。たった一度のまばたきで見逃してしまうほどの一瞬にだけ、放たれる時がある。
その絶対零度のように凍てついていて、あまつさえ、燃えたぎる熔岩を思わせる劣情の塊、容貌が、私の目には、堪らなく美しく映るんだ」
その時の私は、率直に言って、良く理解出来ませんでした。
ですが、今の私には良く理解が出来る。理解が出来るのです。
マスターが言っていた言葉の意味が、手に取るように伝わってくるのです。
ガイノイドであるはずの私に、どうして、そういった共感と呼ばれる、人間の持ち得る感情が理解出来るのかはわかりません。
ですが、一つだけわかる事があります。
それは、その、奇跡と呼んでも差し支えない感情は、お兄様が授けてくれた魔法なのでしょう、と。
やはり、お兄様は凄い方です。
マスターにも、私にも、いとも簡単に強き感情を抱かせてしまう。
絶大なまでの、至福といった感情を。
多数のエラーの処理を行使しながら、お兄様を見つめました。
お兄様は目前の料理を、さながら、親の仇と言わないばかりの気迫に満ち満ちた視線を送っていました。
ですが、その時になりやっと、私も違和感を捉えました。
惚けていたためでしょうか。お兄様の様子が、おかしい事に気づいたのです。
先程まで、箸を巧みに操っていた手が止まっていました。
不思議と注意深く探ると、顔中が汗に濡れ、筋肉が引きつっているようなのです。
ふいにお兄様が、こちらを見つめてきました。
その澄み渡っていたはずの瞳が、今は、水面に墨汁を垂らしたかのように濁っていました。
ふと、ある考察が過ぎりました。
料理を、つくりすぎてしまったのではないか、と。
色々と、舞い上がってしまっていたようです。常識的に考えて見れば、テーブル上の料理の量は、ある意味、常軌を逸しているように思えました。
ですが、不思議に思いました。
なぜならば、お兄様は料理を認識した上で、残さず食べるよと言ってくれていたのですから。
お兄様は、聡明な方なのは周知の事実です。
実現不可能な事を、出来るとは言わないと、断言出来ました。
それならば、どうして。
お兄様は見るからに、体調が悪く見えましたから。
不思議に、思いました。
色々な感情を抱きながらも、小首を傾げると尋ねました。
「やはり、つくり過ぎてしまったでしょうか?」
「い、いや大丈夫。
あ、余りにも絶品過ぎてね。思考が停止していたんだ」
お兄様が、私の言葉を遮るように言いました。
その言葉は大変嬉しく思うのですが、私には、そうは見えませんでした。
お兄様の笑みは乾ききり、声色は息も絶え絶えと揺れていたのですから。
それでは、どうして。
私は困惑しました。
失礼かもと危惧しましたが、再度、小首を傾げると尋ねました。
「それならば良いのですが、余り無理」
「は、ハハハ。
だ、大丈夫。いやー炒飯を掻き込もうと思っていたんだ」
お兄様がその声を合図に、炒飯を猛々しい様でかき込んでいきました。身体は小刻みに震えて、無理をしているのは明らかでした。
まるで、身体中に纏わりつくように、心配という感情が発生しました。
ですが、私は黙り、見つめるという選択肢しか、選ぶ事は出来ませんでした。
お兄様が何を想い、何を伝えようとしているのか、今の私では、理解出来なかったから。
古時計の時を刻む音色が、酷く鋭利に、私を追い詰めていっているように感じられました。
淀んだ空気が周囲に落ちて、それを、さめざめしく思える日差しが落ちていました。
お兄様の顔色が、より土気色に変化していきます。ふいに、力なく歪んだ瞳で見つめました。困惑で身動きの取れない私へと。
そして、次の瞬間でした。
お兄様が、まるで、最期の際を彷彿とさせるような笑みを浮かべました。一瞬の後、その上半身を、料理が並ぶ間へと突っ伏してしまったのです。
不穏な音が鳴る中、私の身体は独りでに動いていました。
「お兄様!」
走り寄ると、お兄様の上半身を起こしました。
身体はまるで、糸の切れた人形のように力なく、表情には生気がないままに、苦悶の色が表れていました。
ゆっくりと、ベッドに横たわらせました。濡れタオルを用意し、額にあてがいました。
どうして、倒れ伏してしまったのか。その問いは、明らかです。
自身の限界を越えてまで、私の手料理を食べたからでしょう。
お兄様は、どうして、そこまで、私の手料理を。
いたたまれない気持ちと共に、疑問が浮かび上がりました。
うんうんと唸るようにうめくお兄様。頬に日差しが降り注ぐ様を、見つめていると、気づきました。
お兄様がどうして、倒れ伏すまで、食べ続けてくれていたのか。
それは、「優しさ」からきていたのでしょう。
お兄様はただ、私との、取り留めのない口約束を守ろうとした。
そして、至らぬばかりの私を、優しく労ってくれていたのです。
新たな決意が、生まれました。
いえ、性格には、より一層として強き決意が。
マスターが言っていた事が、記憶として蘇りました。
「ヒサキは、危なっかしい。いつの日か、あいつは、自分で自分の首を絞めるだろう」
使命感。と呟きました。
お兄様の身体に布団をかけながら、言いました。
「あなたの優しさは、稀有で、尊いものです。
ですが、私は、それを止めます。
お兄様の意志に、反してでも……」
—神楽坂明日菜side—
「今日は何事もなく助かりましたが、相手を下に見て侮ってはなりません。
呪術協会の一部の犯行だという事は、はっきりとしていますが、まだ、その全容を露わにしてはいませんし。
やはり常に、小林さんがそう在られるように、多角的な方向から注意しておくべきでしょう」
刹那さんが、真剣な表情のままでキッパリと言った。
大浴場が近いからか、長い廊下に、温く湿っぽい空気が漂っていた。
私達が踏み鳴らすスリッパの音だけが、辺りに響いている。
刹那さんに汗を流しに行こうと誘ったんだけど、私の言葉が原因で、張り詰めた空気が漂う結果となってしまっていた。
修学旅行の二日目。初日と比べても、今日が、余りにも平和過ぎたためだ。
内心、そう願っていたし、もう大丈夫なんじゃないと言ってしまっていたんだ。
結果的には、そう甘くない世界だと、私は気を引き締め直す事になっていた。
先を歩く刹那さんに歩調を合わすと、刹那さんに言った。
「そうよね。
なんてったって、このかのためなんだから!」
刹那さんが、笑みを漏らすと言った。
「はい。ありがとうございます。
共に頑張りましょう」
刹那さんが、同性だと言うのにも関わらず、少しだけ格好良い顔で頷いた。
新たな決意を抱きながらも、前を向く刹那さんを見やると、ふと思えた。
今まで同じクラスなのに、刹那さんとは余り話した事はなかった。修学旅行中の短な時間だったけど、一つだけわかった事があった。
この人は、本当に良い人だ、と。
どうしてかと問われるならば、私は簡単に返答出来る。
その真っ直ぐ過ぎるほどの瞳は、このかの身を深く案じていると信じられたから。
二人の仲が、ギクシャクしている事は知っている。私には理由とか、難しい事は良くわからないし、身分不相応かも知れない。
だけど、切に思う。
このかと刹那さん、この二人が仲良くなってくれたなら、本当に嬉しい、と。
そして、それを手伝えたらどんなに良いかと切に願う自分がいた。
私に、何が出来るかなんて問われても、答えは返せない。だけど、この修学旅行中に機会があればなと思った。
そんな事を考えながらも、疑問に思っていた事を、刹那さんに尋ねた。
「というか、刹那さんって、小林先輩の事知ってたのね?」
すると、それからだった。
私は、驚きを隠す事が出来なかった。
あのクールな刹那さんが、小林先輩の事になると、まるで、泥酔しきっている人かのような濡れた瞳で熱く語り始めたからだ。
その語りに、私は惚ける事となった。
曰く、類い希なる戦略の天才。
曰く、心技体、全てが揃った英傑。
曰く、世が違えば、その求心力、魅力は世界を束ねていたはず。
まるで、世の中全ての事象は、小林先輩が関与しているからこそとでもいうほどに、半ば陶酔してでもいるようだった。
今、刹那さんに、明日雨が降りそうね、と尋ねたとしよう。
多分、答えはこう返ってくるだろう。
ええ、それも小林さんのお陰です、と。
刹那さんが、高潮した顔を隠さずに言う。
「……全く持って、小林さんの器量には、恐れいりますね。
アスナさん、知っていましたか? ネギ先生の極端な成長にも、小林さんが関与しているんですよ。
その上、言葉などは必要じゃないんです。あのお方は、ただそのとてつもなく広い背中を見せただけ。
たったそれだけの事で、ネギ先生の心の在りようを、より良い方向へと変えて見せたんです。
私達と、たった一つしか歳が違わない、というのに。
……それに私も、いえ、これはいいでしょう。
信じられますか?
アスナさん、聞いているんですか?」
私はというと、半ば惚けたように脳がストップしてしまっていた。だから、返事なんて返せる状況ではなかった。
刹那さんが、小林先輩の事を誉めてくれる事に、多大な高揚感を得ていたのもそうだ。
だけど、何よりも、小林先輩の凄さが身に染みて理解出来たからだった。
たった一つしか歳が違わないというのに、なんて凄い人なんだろうか。
小林氷咲という、優しく強い男性は。
素人目から見てもわかる。あんなに強い刹那さんに、こうまで言わせるなんて。
私には、強さを推し量る事なんて出来ない。だけど、とてつもなく強いという事だけは、身に染みるように伝わった。
それに、それにだ。
私は、変なものでも拾い食いしたんだと思っていた。
でも、違った。
落ち着き払う変なネギの一変とした様子は、そういう事だったんだ。
思えば、符号していった。
ネギは異様なほどに、落ち着いて見えた。その感覚に、誰かを見たような気がしていた。
そうか。そうだったんだ。
あれは、小林先輩の真似をしようとしていたんだ。だからこそ、重なるように、小林先輩の影が見えていたんだ。
さながらそれは、尊敬する兄の背中を追いかける弟のように思えた。
その上、その上だ。
言葉を一切として必要とせずに、その広い背中だけでネギを成長させていたなんて、有り得ないくらいに反則だと思う。
うん。
格好、良すぎるでしょ。
身体中が、熱を帯びていくのを感じた。
染み渡っていくような高揚感に耽っていると、突然、刹那さんが大声を上げた。
目は見開かれ、何やら驚愕でもしたかの様子だった。
「あ、そうか。そういう事だったのか。
アスナさん! そう言う事だったんです!」
面食らいながらも、言った。
「ど、どうしたの刹那さん?
こ、小林先輩が格好良すぎる人だとは、わかって」
「それは周知の事実ですが、違います!」
刹那さんが、遮るように言った。
私は困惑しながらも、顔が熱くなっていくのを感じた。
なぜならば、うっかり、秘め事を言ってしまいそうになっていたからだ。
そんな私をよそに、刹那さんが立ち止まると腕を組んだ。うんうんと頷くように、口を開いた。
「修学旅行中、私はずっと、ある違和感を感じていたんです」
「あ、ある違和感?」
「はい。あの擬態の天才であり、戦略の異才である小林さんがです。
どうして、新幹線に乗車中に相手へ易々と、本性を露わにしたのか、と。
それは、私の失態を庇うためだったと、理由づけていたのですが……。
それは違ったようです。いえ、厳密にはそれも、でしょうが……。
……いずれにしても小林さんの、類い希なる慧眼には恐れいります」
刹那さんが誇らしげに、それでいて高潮を隠せない顔色で、うんうんと頷いている。
私はというと、置いてけぼりにされたようで、少しだけ寂しくなった。
「えっ、どういう事?
ネギから同じ新幹線に乗ってたとは、聞いてるけど」
「ええ、そうです。
そして、それが同時に布石、だったんです。
私の不手際により、小林さんは姿を見せなければならなかったのではなく、相手へと、わざと姿を見せたんです」
何が何やら、わからない。
脳内が混迷としていると、また、刹那さんが大声を上げた。
「その理由。それは……。
あっ、あのお姿は!?」
独りでに、視線を辿っていく。
すると、私の身体は否応もなく、制止する事になった。
普段と服装は違う。だけど、自信があった。見間違えようが、なかった。
清潔感漂う、細身の体躯。颯爽として、堂々とした立ち姿。廊下の奥でひっそりと佇む後ろ姿は、正しく小林先輩に違いなかった。
黒を基調とした、ワイシャツにジーンズ。それは小林先輩の雰囲気に、良く映えていた。
身体中が高揚と、暖まっていくのを感じた。
なぜならば、初めて私服姿を見れた事もそうだけど、この京都に置いて、小林先輩を視認したのは初めてだったからだ。
ネギもそうだし、刹那さんもそうだし、私だけ蚊帳の外で、小林先輩を見ていないなんて、少しだけ寂しく感じていたからだ。
なんなんだろう。
この湧き上がってくるような、勇気みたいな感覚は,
それは、とても暖かくて優しくて、不安なんて打ち消してしまうほどに強かった。
定まらない頭で、考える。だけど、答えが見つかる事はなかった。
切り替えて、小林先輩を見やった。
何を、しているんだろうか。
その時、気づいた。
小林先輩のその奥に、子供の姿を捉えたんだ。
転んだりでも、したのだろうか。床にうずくまり、泣いていた。
小林先輩は黙して、子供を見つめていた。
小さな、違和感を覚えた。
独りでに、疑問が口をついて出た。
「なんで、助けないんだろう」
素直に、そう思えた。
小林先輩のイメージならば、直ぐにでも、助け起こす気がしたからだ。
悩んでいると、刹那さんが答えてくれた。
「あの在りようこそが、小林さんの優しさなんです」
湧き上がる疑問からか、直ぐに返した。
「小林先輩の、優しさ?」
その問いに、刹那さんが、熱く語っていった。
結論から言って、私はまた、新たな尊敬の念を抱く事になった。
刹那さんは、こう言ったんだ。
小林先輩の優しさは、時に厳しくもある。
だけどそれは、相手を思うからこその、途方もないほどの優しさ。
助けるのは、簡単。だけど、今助ければ、将来としてその人は同じ困難に当たった時、また人に頼ろうとするだろう。
現実は、優しくない。その時に助けてくれる人がいなくても良いように、自発的な成長を促しているんだ、と。
その言葉の数々が、印象的に鼓膜を震わせた。
私は、思い知らされた気分になっていた。
多大な尊敬はある。
でも、どうしてか、同時に寂しく感じた。寂しく感じていたんだ。
その感情の出所も、理由についてもわからない。
だけど、私はまだ自分が、ただの子供なんだって思い知らされたんだ。
小林先輩と比べたら、ただの子供なんだって、痛烈に痛感させられていたんだ。
嫌な気持ちが、心をグルグルと渦巻いた。
私、よりも。
私よりも、小林氷咲という男性を知っている刹那さんの事が、羨ましく思えて。
なんなんだろう。どうして、なんだろう。
そんな感情を抱く自分自身が、酷く、浅ましく思えた。
良く、わからなかった。
初めての、感覚だった。
そんな事を、思っては、いけないのに。そんな事を思ってはいけないという事は、十分過ぎるほどに理解しているのに。
刹那さんが瞳を輝かせて、小林先輩の元へと駆けていった。
気持ちの悪い、黒い感情が、心の中を覆い込み支配していた。
刹那さんの、嬉しそうな顔を見たくなかった。
大した事はない。ないはずなのに、それだけで、まるで、心にトゲでも突き刺さったかのような痛みが走った。
刹那さんと同じように、私も駆け寄りたいという感情が溢れ騒いだ。
理由もわからないのに、それを必死に押し留めようとする自分が、痛く思えた。
まるで、見える何もかも、世界のすべてが、黒く塗り潰されていくような感覚を捉えた。
まるで、世界が一丸となって、私を責めているような気がした。
崩れ、落ちそうになった。
でも、やっぱりそうなんだ。
あの停電の夜のように、こんな崩れ落ちそうになっても、小林先輩は私を助けてくれるんだ。
羞恥から、胸元に隠された首飾り。その肌を差すような冷たさを捉えた時だった。
溢れ出るような勇気が湧いてきた。
私の中の、黒いものを、静かに浄化していく感覚を捉えた。
自分の感情は、わからない。わかりそうもない。
だけど、小林先輩が、それで良いよって、導いてくれているような気がしたんだ。
まるで、仄かな月明かりのように、優しく。
自然に、笑えていた。
心からの笑みが、漏れた。
だってこの首飾りは、刹那さんも知らない。
この鮮やかに彩られた世界の中で、二人だけの、大切な思い出なんだから。
—近衛近右衛門Side—
窓の外には、春が咲き誇っていた。緩やかな風に、好ましき生徒達の喧騒が響いている。
わしは学園長室のお決まりの椅子に座り、これまたお決まりとなった熱いお茶を啜っておった。
ふと、今、氷咲くんは何をしているじゃろうか、と笑みがこぼれた。
本当に、心優しき少年じゃ。
心配に思っておった、刹那くんも、この頃は、良き瞳になってきていた。
それもおおよそ、氷咲くんが、絡んでおるのじゃろう。
活動資金を銀行に振り込んでおいたが、何も連絡がない事を思うに、問題はないようじゃな。
その時、ふとある事を思い出して、眉根をひそめた。
ある乱入者の事じゃった。
それは二組。一組はエヴァ達、もう一組は、より夜更けに訪ねてきた。
髭を撫でながら、呟く。
「あの飄々として、面倒臭がりのあ奴が、氷咲くんのために、京都まで赴くとはのう……。
じゃがそれも、全てを知った上じゃと、正にこれも必然と言えよう。
眠っていた真実の物語りが、少年達に、その素顔を見せ始めた、という事じゃろうな……」